2012年2月12日日曜日

脳の研究における解釈学について

『ダイナミックな脳』での津田一郎氏の解釈学的行為の考え方について、ツイッターで、「相手が自分と類似した生命である場合とそうでない場合の違い(程度の差なのか、本質的な差なのか)についってもっと敷衍して欲しかった」と述べたが、再度読み込んでみて、彼が言わんとしていることをある程度汲み取れた気がするので、ここにまとめておきたい。

まず、「動物の知覚は解釈過程であらざるを得ない」ということについて。新しい感覚情報の知覚は必然的に何らかの先行的理解を要請する。これはハイエクが『感覚秩序』において展開している知覚論とそっくり重なる。すなわち、我々が何らかの対象を知覚するとき、我々が知覚しているのは自己同一的な実体としての対象そのものではなく、常にその対象が位置づけられる関係の構造(類似性、差異性)である。そして、こうした新しい情報を位置づけるための既存の文脈として先行的理解が要請される。そういう意味で、知覚とは常に解釈過程である。津田氏はハイデガーを引いて、次のように言う。すなわち、「何かを理解するために解釈が必要なのではなく、逆説的だが、解釈を行うために理解が必要なのである。」(p.20) ある神経細胞あるいは神経細胞集成体の果たす機能はシステム全体の文脈に依存してしか決定されないという津田氏の指摘は、この事態の生理学的レベルでの表現であろう。

ただ、津田氏の言う解釈学的行為はディルタイが定義したような解釈学とは異なる。ディルタイは自然科学的な方法に対抗して、生きていくものが従わなければならない歴史性を扱う人文社会科学の規範を与えようしたが、津田氏の言う解釈は、意味の共有といった次元の話ではなく、単にある状況へのコミットメントである。「解釈とは、コミットメントのことだ。なにかの状況にコミットする(参画する)ことそのものだといってよい。」(p.26) それは認知主体が環境に勝手に付与してかまわないし、またコミットメントの過程でそれが別段収束しなくてもいい。このコミットメントのためにこそ先行的理解が必要なのである。

さらに、この状況へのコミットメントの中にこそ、我々は何らかの意志、つまり生命の存在を見出すのではなかろうか。「意味の共有に向かって努力することが解釈学的行為ではない。むしろ、意志の存在の確認作業が解釈学的行為なのだ。」(p.29) しかしここに一つ問題が現れる。すなわち、知覚が物としての世界を扱う場合と、認知主体と類似した生命を扱う場合との間に、何らかの本質的な違いはあるのかという問題である。これが冒頭に掲げた問題である。この問題に関して津田氏は「不完全な情報」と「不定な情報」を区別している。不完全な情報は、解釈学的行為による補完によって完全な情報になり得る。つまりこの場合、知覚世界を客観的実在の世界と見なすことによって、解釈者の外に置かれている。静的な世界像を扱う限りこれで問題にならない。他方の不定な情報は、相手が生命であって、その行為を解釈しなければならないときに問題になる。つまり、この場合相手の行為に対する解釈に一意的な解は実在の側にそもそも存在しない(このような解釈はおそらくハイエクの言うような心的構造の類似性に基づいていて、したがって一人称的な内観を不可避にする。その意味で、解釈対象が生命である場合とそうでない場合の差は本質的であると言える。ただこれは明確な境界が存在するという意味ではない)。この事実を以て、郡司ペギオ幸夫氏らはあらゆる観測行為を「暗闇の中の跳躍」として徹底的な懐疑に付す。かくしてウィトゲンシュタインやクリプキの言う言語ゲームにすべての解釈が回収されてしまう。それに対して津田氏は、認知主体の外に客観的な世界が存在するという「先行的理解の第一原理」を、認知のための一種のア・プリオリな形式として設定する。「この第一原理に行為論のある種の本質を押し込めたつもりでいる」(p.22) 津田氏のこの態度は、世界の実在を内側からプラグマティックに肯定する私のプラグマティック実在論の態度に似ている。

蛇足になるが、物体の空間移動に対する連続性の概念およびその普遍性が、「先行的理解の第二原理」として保障される。「空間における物体の身体を使った変換に対して、視覚情報の中から不変な構造を抜き出す能力を脳は備えている。……この先行的理解が物理学の基礎になっているのかもしれないというポアンカレ氏の意見に賛同する。」(p.17) それ以外にも「自己中心座標と物体中心座標の間に変換が存在する」や「世界の境界は内部から見れば正曲率を持つ」といった、いくつかの基本先行的理解が要請される。これらの先行的理解は認知のための一種のア・プリオリな形式であるが、絶対的なものでは決してなく、あくまで幼児期の体験によって形成されるものと考えられる(それを引き起こすコードが遺伝子に組み込まれているということはあるだろうが)。

最後に、解釈の二重性について。これまで、「知覚は常に解釈過程であらざるを得ない」という事態を見てきた。これに加えて、脳研究の方法自体も解釈学を援用しなければらないと津田氏は主張する。つまり、研究対象に内在する解釈学的行為と、研究自体の方法としての解釈学的アプローチという二重性が主張される。しかし津田氏の著作を読む限り、この両者の関係(両者は独立なのか繋がっているのか)はあまり明らかではない。ただ、「全体、システムとして働くものものの機構を理解していく方法は解釈学的にならざるをえない」(p.54)、「相互作用する相手との関係の中でなければそのものの性質、表現、行為は決まらない……その関係の構築の裏打ちをしていると思われるのがカオスなのだ。関係的にダイナミックということだ。その関係性の境界は決定不能だという意味でもある。しかも、オットー・レスラー氏、松野孝一郎氏、郡司幸夫氏や池上高志氏に従えば、われわれはインターフェイスにおいてのみリアリティー、いや木村敏氏の言葉を使って、アクチュアリティーを感じることができる。これは、複雑なシステムの中でなにかをしなければならないもの全てが出会う必然だ。[原文改行]脳という複雑システムを研究する脳科学者は、こういう意味でまさに内在的な立場でしか研究を進めることができない。だから、脳研究は解釈学的にならざるをえないのだよ。」(p.54-55)という記述を見れば、解釈の二重性における両者は結びついているように見える。