2013年10月21日月曜日

パース「我々の観念を明晰にする方法」について

以下の文章は、C. S. Peirce "How to Make Our Ideas Clear"の読書会のために私が用意したレジュメです。特記がない限り頁番号はすべてThe Essential Peirce Vol.1 (Indiana Univ. Press, 1992)のもの。



【明晰と判明】

 「信念の固定化」を扱った前回の読書会において述べたように、パースの「我々の観念を明晰にする方法」という論文は彼の「プラグマティズムの格率」が初めてその定式化を見た論文である。そして、パースのプラグマティズムの基本的な狙いは、デカルト以来の近代哲学の思考法を、彼が「科学の方法」と呼ぶ思考法によって克服することにあるのであった。そこで本論は、デカルトが『哲学原理』(Principia philosophiae)で導入した観念の明晰さの基準を批判するところから始まる。デカルトは観念の明晰さを定義して「注意する精神に現前し、明らかであること」(Principia philosophiae pt.1, 45)とした。つまり、明晰さの基準を内観的明証性に置いたのである。これは「どんな場合にそれに遭遇したとしてもそれだと分かり、他の観念と間違えたりしないこと」と言い換えることができる。もちろんデカルトは「注意する精神」という但し書きを付けたが、これだけだとある観念が明晰であることと、単に明晰に見えることとの間の区別が曖昧になってしまう。そこで彼は明晰さの第二段階として「判明さ」を導入した。すなわち「その内に明晰ならざる部分を有さないこと」という、より強い条件を付した。しかし観念の「部分」とは何であるか、デカルトの著作においてはあまり明らかではない。この難点を克服したのはライプニッツである。彼は概念一般を、その「定義」となる述語の系列に分解する手法を考案し、それらを同時にすべて把握することを認識の完全性の基準とした。つまり、明晰さの基準を抽象的定義に置いたのである。ところが、「三角形の内角の和は180度である」といったような、有限の分解手続きでトートロジーに還元可能な必然的命題はともかく、「カエサルはルビコン川を渡る」といったような偶然的命題の場合、分解手続きは無限に進行する。これは、「カエサル」という名辞には無限の述語系列が含まれており、それらを一挙に把握することは人間知性には不可能だからである。しかし、人間知性の条件を超えた明晰性の基準は、我々の既存の信念に秩序をもたらすことはあっても、新しい信念の獲得にとっては無益であり、さらなる探究の続行を不可能にする。パースはこの点を問題にし、これを解消するために明晰さの第三段階(the third level of clarity)の定式化を試みる。

【プラグマティズムの格率】

探究の目的である信念の固定化とは、我々の内にある行為への傾向性、つまり「習慣」(habit)の確立であった。ならば、我々の思考を明晰化することはとりもなおさず、その思考が規定する習慣を明らかにすることとなる。そして「習慣が何であるかは、それがいついかに我々の行為を生ぜしめるかにかかっている」(p.131)。この「いつ」とは、個々の行為を誘発する知覚経験の時点であり、「いかに」とは、行為がいかなる感覚的結果(sensible result)の内に実現されるか、である。これらの前提から、前回の冒頭でも引いた次の格率が導かれる:

認識の明晰性の第三段階に至るための規則は、必然的に次のものとなる:我々の概念の対象が、行動と関わりがあるかもしれないと考えられるどんな効果を持つと我々が考えるか、ということを考察してみよ。そうすれば、こうした効果に関する我々の概念が、その対象に関する我々の概念の全体と一致する。(p.132) 

これは、我々の対象認識一般を、その対象が我々の行為と関係を有するであろう場面において、「その行為の結果、いかなる反作用的な効果をもたらすであろうか」という信念に還元せよ、と命じる規則である。これが「プラグマティズム」の格率と呼ばれるのは、我々の認識をカントの言う「プラグマティッシュな信念」(pragmatische Glaube)、すなわち「ある行為に対する手段の現実的使用に根拠を与えるところの偶然的信念」(Kritik der reinen Vernunft A.825)に還元せよと命じるからである。これは、平たく言えば条件-帰結形式の対象認識である。あるなされるであろう行為という条件に対して、その行為が事実なされるとき(つまり条件が真であるとき)、その結果生じるであろう観察可能な反作用的現象がいかなるものであるか、考察してみよと述べているのである。モラーリッシュ(定言的)な法則をその哲学体系の支柱としたカントとは対照的に、パースは、プラグマティッシュ(仮言的)な法則をその哲学の核に据えているわけである。その思考法に敢えてカント由来の「プラグマティズム」という名前を付けたところに、パース自身が恩恵を受けたカントの哲学を「先験的方法」の一例として批判する意図を読み取ることができる。

【二つの効果概念】 

さて、パースのプラグマティズムの目的は、科学の方法、とりわけ実験科学の方法をモデルに哲学を再構築することにある。しかし、そこにはある両義性ないし混乱が含まれているように思われる。というのも、パースのプラグマティズム理解には二つの異なる「効果」の概念が含まれているように思われるからである。上で述べた説明では、「効果」とは、(A) 我々の行為に対して対象がもたらす反作用的な効果である。例えば「ダイアモンドを擦る」という行為に対して「傷付かない」といった効果である。本論でパースが取り上げているのは専らこちらの意味での効果である。もう一つ、(B) 我々がある概念を持つことによる効果も考えることができる。例えば「力」という概念を持つことによって我々は物体の速度変化や方向変化を理解することができる。つまり、対象ではなく概念自体がそうした実際的効果をもたらすということである。本論ではこの意味で「効果」という言葉は使われていないが、これに相当する発想がプラグマティズムの格率に読み込まれているように思われる。例えば、今述べた力概念の有用性について述べられている箇所がそうである:「我々の規則に従えば、まず力を考えることの直接的な利点を問わねばならない」(p.133)。また本論以外でも、これに相当する記述をいつくか見出すことができる。つまり「対象がもたらす効果」ではなく「我々の概念がもたらす効果」について語られている箇所である。例として、有名な箇所を二つだけ挙げておく。一つは1871年に発表された、A・C・フレーザー『バークリー著作集』(The Works of George Berkeley)に対するパースの書評からの一節である:

いくつかの事物が、実際的に同じ機能を果たすか?ならば同じ言葉によってそれらを指し示せ。果たさないか?ならば区別せよ。もし私がある出鱈目の公式を覚えて、その公式が、私の記憶を何らかの方法で上手く推進し、あらゆる場面においてあたかも私が一般的な観念を保持しているかのように行為することを可能にしてくれるのであれば、そうした出鱈目の公式と観念とを区別することに一体何の利点があろうか?経験に関する限り同一の物を、わざわざ一般的な観念という言葉によって区別する必要は、一体どこにあろうか? [Do things fulfill the same function practically? Then let them be signified by the same word. Do they not? Then let them be distinguished. If I have learned a formula in gibberish which in any way jogs my memory so as to enable me in each single case to act as though I had a general idea, what possible utility is there indistinguishing between such gibberish and a formula [sic] and an idea? Why use the term a general idea in such a sense as to separate things which for all experiential purposes, are the same?] (p.102)

この書評が書かれたのは、「我々の観念を明晰にする方法」でプラグマティズムの格率が初めて公に定式化される七年前であるが、プラグマティズムの着想自体はこの時期にすでに形を整えていたようである。この一節には、「概念の有用性」の見地から解釈されたプラグマティズムが明確に表れている。もう一つの箇所は、1905年の論文「プラグマティシズムの諸問題」("The Issues of Pragmaticism")からである。「我々の観念を明晰にする方法」でのプラグマティズムの格率の定式化が難解であることをパース自身が率直に認め、その代わりにもう少し分かりやすい定式化を次のように与えている:

どんな記号であれ、その記号が有する知的趣旨の総体は、その記号を受け容れることによって条件的に起こるであろう、あらゆる可能な異なる状況と意図の下での合理的行為の、あらゆる一般的様式の総体と一致する。 [The entire intellectual purport of any symbol consists in the total of all general modes of rational conduct which, conditionally upon all the possible different circumstances and desires, would ensue upon the acceptance of the symbol] (Collected Papers of Charles Sanders Peirce 5.438) 

プラグマティズムの格率の言い換えであると言っておきながら、ここでは「効果」への言及が抜け落ちている代わりに、「記号(概念)の意味」と「行為の一般的様式」とが同一視されている。ただし、我々の「行為の一般的様式」は我々が持つ概念の帰結と考えられるから、ここでもやはり「概念を持つことによる効果」が想定されていると見ていいだろう。 これはいかに理解すべきであろうか。現代の我々が「プラグマティズム」について語るとき、通常想定されているのは「概念を持つことによる効果」の方であろう。ウィリアム・ジェイムズが真理を「我々にとっての有用性」と定義したときに働いていた効果概念もこちらの方である。なればこそ、ますます「我々の観念を明晰にする方法」の中で粗描されているプラグマティズムとの乖離は重大な問題である。私はこの問題に対して、確定的な答えを用意しているわけではないが、一つの仮説はある。すなわち、二つの効果概念は実は同じことを語っているのではないか、という仮説である。例えば「虚数」の概念を例に考えてみたい。この概念は、内観的明証性を欠くにも関わらず実践の中で何の問題もなく使用されているということで、とりわけ鮮やかにプラグマティズムの格率が活きるパラダイム・ケースであるように思われる。さて、(B)の効果概念の方から考えてみよう。我々が「虚数」の概念を持つことによる効果とは、例えば三次方程式を解くことができるという事実である。ここに「虚数」概念の我々にとっての有用性が存する。では(A)の場合はどうであろうか。「虚数」の概念の対象は、もちろん虚数である。対象たる虚数が、我々の数学的実践に対してもたらす効果とは、やはり三次方程式の解を導くことである。つまり二つの効果概念の中身が一致している。これが他のすべてのケースについても同様に当て嵌まるかどうかに関しては、自信がない。例えばダイアモンドの例で言えば、擦るという行為に対して「傷付かないこと」と、「擦っても傷付かないという信念が規定する行為への傾向性」との間には隔たりがあるように思える。この違いは一体どこからくるのか、私には上手く説明できない。皆様は如何だろうか。

2013年10月5日土曜日

パース「信念の固定化」について

以下の文章は、C. S. Peirce "The Fixation of Belief"の読書会のために私が用意したレジュメです。頁番号はすべてThe Essential Peirce Vol. 1 (Indiana Univ. Press,1992)のもの。



【背景―プラグマティズムの動機】 

我々の概念の対象が、行動と関わりがあるかもしれないと考えられるどんな効果を持つと我々が考えるか、ということを考察してみよ。そうすれば、こうした効果に関する我々の概念が、その対象に関する我々の概念の全体と一致する。(p.132) 

難解な文章であるが、これが1878年の論文「我々の観念を明晰にする方法」("How to Make Our Ideas Clear")の中で初めて定式化された、C・S・パースの有名な「プラグマティズムの格率」(pragmatic maxim)である。この格率は、(論文のタイトルにあるように)我々の観念ないし概念を明晰にする方法を示している。平たく言えば、ある概念の意味は、それがもたらすと考えられる実際的な効果によって決まる、ということである。パースによれば、我々の概念にはこうした実際的な効果を超えた如何なる意味もない。したがって、実際的な効果において同等であれば、概念の意味も同等ということになる。こうした実際的な効果との関連を明示することによって我々の概念を明晰化することができるわけであるが、パースにとってこの格率は論理学の第一ステップであり、論理学を前進させようという見地から導入されたものである。この場合のパースの基本的な狙いは、彼が「科学の方法」(method of science)と呼ぶ思考法によって、デカルト以来の近代哲学の思考法を克服することにある。このことを論じているのが、「我々の観念を明晰にする方法」に先立つこと一年、1877年に発表された「信念の固定化」("The Fixation of Belief")である。したがって、この「信念の固定化」という論文は、パースのプラグマティズムの背後にある動機を示す重要な研究と言える。このことを念頭に置きながら、以下本論の論旨を追っていきたい。

【論理学の問い】 

「信念の固定化」が答えようと試みているのは、パースが「論理学の問い」(the logical question)と呼んでいる問い、すなわち「我々はいかなる方法によって探究を行うべきか」という問いである。この問いに対する答えを案出するにあたって、まずパースはこの問いを問うこと自体が前提とせざるを得ない事実をいくつか指摘する(p.113)。すなわち、(1) 我々の精神の状態には懐疑(doubt)と信念(belief)という二つの異なった状態があること、(2) 懐疑から信念への移行が可能であること、(3) 懐疑から信念へ移行するに際しての認識対象たる事物が同一に留まっていること、(4) 懐疑から信念への移行はある規則に従ってなされており、この規則はすべての人間が共通して従うところのある精神の習慣(habit of mind)であること、である。これらの事実は、我々の「推論」(reasoning)という概念に予め含まれているがゆえに、我々の探究における様々な推論の妥当性を問うにあたって、前提とされざるを得ないア・プリオリな原則である(p.113)。こうした原則のことをパースは「指導原理」(guiding principle)と呼び、その一例として帰納の原理を挙げている(p.112)。パースにとって哲学への入り口はカントであったが、「現実に観察される事実が可能であるためには、いかなる条件が成り立っていなければならないか」を考察するという、ここでのパースの方法には、カントの超越論哲学の深い影響を見て取ることができる。

【懐疑と信念】

さて、探究に随伴する基本的な精神状態として、懐疑と信念という二つの異なる状態が認められるのであった。しかし、この両者の相違はどこにあるのだろうか(p.114)。まず、(1) 両者のそれぞれの内的な「感じ」による相違が認められる。さらに一般的な相違として、(2) 信念は我々を行動へ駆り立てる指針の役割を果たすが、懐疑はそのような役割を果たさない、という実際的効果における相違が認められる。また、(3) 我々は懐疑の状態を避け、信念の状態へ至ることを求める、という相違がある。パースの議論にとって重要なのは(2)と(3)であると言える。というのも、(2)と(3)から次のことが帰結するからである。すなわち、「信念とは、行為への傾向性であるところの習慣が確立している状態であり、懐疑は、そうした状態を目指すための刺激の役割を果たす」。懐疑を誘因として起こり、信念を以て停止するこの運動を、パースは「探究」(inquiry)と呼んでいるのである。とすれば、探究の唯一の目的は信念の固定化であり、真理の把握などではないことになる(p.115)。パースによれば、探究者にとって「真理」と「真理と信ずる信念」は区別不可能であり、「探究は真理の把握を目指す」という命題には、「探究は信念の固定化を目指す」という命題以上の意味は見出されないのである(p.115)。

【探究の四つの方法】

以上の考察によって「類」としての探究の本性が明らかにされた。次は、この類に属する「種」としての様々な探究の様態が区別され、それぞれ吟味される。パースが最初に取り上げるのは、「固執の方法」(method of tenacity)である(pp.115-116)。これは、ある個人が、自分がすでに有している信念を強固にする事柄にのみ固執し、それを疑念に晒す恐れのある事柄からは徹底的に目を背けるという方法である。この方法はしかし、我々の社会的・共同体的存在様式に反する。というのも、他人が自分とは異なる信念を有していることに、誰しもいつかは気付かざるを得ず、これが自然と自分の信念に対して疑念を誘発するからである(pp.116-117)。ならば、ある共同体全体で固執の方法に相当する方法を採れば良いのではないか。これがすなわち「権威の方法」(method of authority)である(p.117)。これは、ある共同体に共通する教義を設定し、この教義に反する説を排除する権利を、共同体の権力者に委ねる方法である。こうした排除がしばしば暴力を伴うこと、またそれが信念を固定化する方法として極めて効果的であることが、歴史的に知られている。しかし、この方法もまた、その共同体とは別の教義を信奉する他の共同体(あるいは同一共同体の過去の姿)との邂逅によって挫折する。第三に、「先験的方法」(a priori method)がある(pp.118-119)。[*] これは、有限な共同体を超えて、人類の思考に共通する推論原理が存在するという前提を認め、精神そのものの本性から洞察を導こうとする方法である。これは、ある命題が「理性に適う」ことをその命題の妥当性の基準とする方法である。この方法によって、極めて重要な哲学的論証がこれまで提供されてきたものの、我々の探究を一種の「趣味」(taste)の問題に帰してしまうという問題を孕んでいる。パースが最後に取り上げる方法、すなわち「科学の方法」は、この問題を克服する。この方法は、それに従って得られた我々の信念が、「人間的なものの内に原因を有さず、外的で永続的なもの(external permanency)、つまり我々の思考が決して影響を及ぼすことのないものの内に原因を有する」ような方法である(p.120)。言い換えれば、事実以外のいかなる事情にも我々の信念を依存させないような方法である。

【実在仮説】

科学の方法は、ある根本的な仮説を要請する。その仮説とは、我々の思考が影響を及ぼすことのない、外的な対象が現に実在するという「実在仮説」である(p.120)。この仮説は科学の方法が可能であるための条件であるから、科学の方法によってその正しさを論証することはできない。ならばその正しさはいかにして保障され得るだろうか。この疑念に対してパースは四つの返答を挙げているが、このうち第二の返答に注目したい(p.120)。我々がそもそも信念の固定化を目指すのは、信念が不整合であることに満足できないからである。そして我々が不整合な信念を嫌うのは、相反する命題が同時に真であることはありえないことを、我々は知っているからである。「しかしここにすでに、命題が従うべきある一つの事物が存在するという、暗黙の承認がある」(p.120)。我々が、信念の固定化を目指す、つまり探究を行うという事実のうちに、すでに実在仮説が前提されている、というわけである。換言すれば、「我々はいかなる方法によって探究を行うべきか」という問いを発するとき、その問い自体に、答えの手掛かりとなる命題の承認が含まれているのである。


[*] 上山春平訳(『世界の名著』第48巻「パース・ジェイムズ・デューイ」収録)では「先天的方法」と訳されているが、この訳は良くない。「先天的」と言えば通常、「生まれつき」という意味であるが、ある概念がa prioriであると言うとき、その概念が「生まれつき」保持されているかどうかとは全く無関係だからである。ラテン語から直訳すればa prioriは「先に来るもの」という意味であるが、この言葉が哲学で使用されるときは、通常カントの用法に従って使用される。すなわち「経験に先立つ」という意味である。例えばカントにとって、時間や空間、あるいは因果関係といった概念は、経験によって知られるのではなく、経験そのものを可能にする認識の形式であり、そういう意味で「経験に先立つ」と言われるのである。決して「生まれつき」と言ったような意味ではない。したがって、a prioriを訳す場合は「先験的」とでも訳した方が良いだろう。