2014年2月15日土曜日

確率は客観的か?Peirceの主観確率批判を手掛かりに

確率は客観的に存在するのか、それとも人間の頭の中にだけあるのか。この問題は確率の哲学的解釈における長年の論争のテーマである。ここでは、"The Probability of Induction" (1878)においてなされた、C. S. Peirceによる主観確率の批判を手掛かりにこの問題を考えてみたい。Peirceの批判が成功しているかどうかに関しては、私には判断を下すことはできないが、もし成功しているとしても(つまりもし確率の客観的解釈が正しいとしても)決定論はなお保持できるのか、それとも、Peirceとともに偶然主義tychismを支持するしかないのか、という問題についても併せて考えてみたい。

【Peirceによる主観確率批判】

Peirceの立場は頻度主義frequentismである。頻度主義によれば、ある事象の確率とはその事象の相対度数の極限値である。これは、ある事象の確率とはその事象に対する人間の信念の度合いであるとする主観確率の立場(Peirceの用語ではconceptualist view)と対立する。Peirceによれば、確率の主観的解釈は「全く道理に合わない」。なぜだろうか。

まず、確率は客観的か主観的かという問題を考える前に、確率とは「何の」確率か、という(関連する)問題を取り上げたい。確率が帰せられるのは事象についての信念なのか、事象そのものなのか、それとも命題か。この問題に対するPeirceの答えは明快である。すなわち、彼によれば確率が帰せられるのは「もし~ならば…」という形の推論である。「もし賽子を振るならば、1の目が出る」という推論の確率は6分の1である、というようにである。この見方に従えば、条件節がなければ確率概念はそもそも意味をなさない。我々はしばしば事象そのものの確率について語るが、Peirceによれば、これは条件節が自明であるために省略されているだけである。換言すれば、すべての確率は条件付き確率である。これはAndrei Kolmogorovが『確率論の基礎概念』で行った確率の公理化と一致するものであり、極めて現代的な見方と言える。

さて、Peirceによる主観主義批判はBayesの定理の使い方を巡るものである。Bayesの定理は次のように書かれる:

P(Z | Y∧X) = P(Y | Z∧X) • P(Z | X) / P(Y | X)

あるいは右辺の分母を展開して

P(Z | Y∧X) = P(Y | Z∧X) • P(Z | X) / [P(Y | Z∧X) • P(Z | X) + P(Y | ¬Z∧X) • P(¬Z | X)]

Peirceの批判はBayesの定理そのものに対する批判ではない。この定理は、確率論の公理から演繹的に導かれるものである。Peirceの批判はあくまで、この定理の帰納推論への適用、すなわち確率の逆算法Method of Inverse Probabilitiesと呼ばれる方法に向けられている。彼によれば、確率の逆算法は帰納を演繹に帰着させようとするが、そんなことは不可能である。

まず、確率の逆算法を説明する前に、確率の通常の算法を見てみよう。黒玉50個と、白玉50個の入った壺を考える。この中から10個の玉をランダムに、かつ引いた玉を壺に戻しながら引いていくとする。このとき、例えば黒玉5個と白玉5個を引く確率を、演繹的に求めることができる。Uを壺の構成を与える命題(黒玉50個、白玉50個)、Xを引き方に関する背景情報(ランダムに、かつ戻しながら)、Sを引いたサンプルを与える命題(黒玉5個、白玉5個)とすると、求める確率はP(S | U∧X)と書ける。これはBernoulli試行であるから、

P(S | U∧X) = 10C5 • (1/2)^5 • (1/2)^5 = 63/256

と求めることができる。ここで重要なのは、壺の中身があらかじめ分かっていることである。確率の逆算法は、壺の中身が分からない場合に、壺の中身を推定するための方法である。すなわち、Bayesの定理を適用することによってP(U | S∧X)を求める方法である。これはサンプルから母集団への帰納推論S∧X ⇒ Uの確率であるから、Pierre-Simon Laplace、Augustus De Morgan、Adolphe Queteletらは、この方法によって帰納の問題を解決したと信じていた。実際、Bayesの定理によって、

P(U | S∧X) = P(S | U∧X) • P(U | X) / P(S | X)

と書ける。しかし、左辺を求めるには、右辺のP(U | X)があらかじめ分かっていないといけない。このP(U | X)を「事前確率」prior probabilityと呼ぶ。しかし、事前確率を事前に確定する方法はない——P(U | X)が分かっていればそもそも壺の中身を推定する意味がない——から、確率の逆算法の使用者は「不充足理由律」Principle of Insufficient Reason、あるいは後にJ. M. Keynesによって「無差別の原理」Principle of Indifferenceと呼ばれるようになる原理に訴える。これは、相互に排他的かつすべての可能性を尽くす事象(推論)がn個あり、それぞれの事象(推論)の確率についての情報が全くないとき、それぞれの事象(推論)に1/nの確率を割り振る、という原理である。壺の中身を述べる推論の場合、X ⇒ UとX ⇒ ¬Uの二通りの場合があるから、P(U | X) = P(¬U | X) = 1/2とするわけである。

Peirceが噛み付くのはここである。確率の逆算法の使用者が求めようとしているのは、「事実(この場合は壺の構成)、帰納推論の結果適合する確率」である。つまり彼らは、壺の中身についての可能世界を立ち上げ、それぞれの可能世界が我々の帰納推論の結果に適合している確率を求めようとしているのである。Peirceによれば、求めることができるのは——そして帰納推論の場合、求めるべきは——逆に「帰納推論の結果、事実適合する確率」である。すなわち、壺の中身を述べる命題Uを事実ないし「仮説」として一旦承認した上での、サンプルがこの仮説に適合する確率P(S | U∧X)である。このP(S | U∧X)が、上で述べた確率の通常の算法におけるP(S | U∧X)と異なるのは、ここではUは既知ではなく仮説として承認されているに過ぎないという点である。この方法が、統計学で「仮説検定」hypothesis testingと呼ばれるようになる方法である。帰納推論に確率を付与することはできないが、その代わりに、ある誤差の範囲内で帰納が成功している確率である「確からしさ」verisimilitudeを付与することができる、とPeirceは言う。他方で、「事実が、帰納推論の結果に適合する確率」を求めることが可能であるのは、我々の世界だけでなくすべての可能世界を見渡し、それぞれに確率を割り振ることができる場合だけである。Peirceは次のように言う:
自然のあの配列やこの配列の相対確率について語る権利が我々にあるのは、宇宙が黒苺のように豊富に存在し、それらのある量を袋に入れ、よく混ぜてサンプルを抽出し、ある配列を持つ宇宙と別の配列を持つ宇宙のそれぞれの割合を調べることができる場合[だけ]である。[The relative probability of this or that arrangement of Nature is something which we should have a right to talk about if universes were as plenty as blackberries, if we could put a quantity of them in a bag, shake them well up, draw out a sample, and examine them to see what proportion of them had one arrangement and what proportion another.] (Collected Papers 2.684)
しかし、宇宙はもちろん一つだけである。ゆえに「自然のあの配列やこの配列」について語るのはナンセンスである。そして仮に、宇宙が複数あったとしても、それらを含むより大きな宇宙が存在するはずであるから、事情はやはり同じである。要するに、事前確率に正しい値(客観的な値)を割り振るにはすべての可能世界を見渡す必要があるが、そんなことは不可能であるから、確率の逆算法の使用者は正しい値の代わりに主観的な確率を忍び込ませている、というわけである。

【批評】

以上、Peirceによる主観確率批判を見てきたが、彼の批判は論点先取りであるように見える。客観的な値の代わりに、「無差別の原理」に基づいて主観的な値を事前確率に割り振ることがいけないのは、Peirceがすでに頻度主義の立場に立っているからであろう。しかし、主観確率がナンセンスであることを示すために彼は次のような例も挙げている。少々長いが全文引用しよう:
確率の概念的[主観的]見方では、仮説を支持する方向にも反対する方向にも傾くべきではないような完全な無知[の状況]は、1/2という確率によって表される。では、土星人の髪の色について我々が完全に無知であったとしよう。そして、あらゆる可能な色が示されたカラー表があったとしよう。この表では、すべての色が互いに知覚不可能な度合いでグラデーションをなしており、異なる色のクラスによって占められる領域の相対的な面積は全く恣意的である。こうした領域の一つを線で囲い、土星人の髪の色がこの領域内の色である確率を、概念的見方の諸原理に従って考えてみよう。我々は何らかの信念状態にあるはずだから、答えは不定であってはならない。実際、概念主義に立つ論者たちは不定な確率を認めない。確実なことは何も言えないので、答えは0と1の間である。そして、データからいかなる数値も得ることができないので、値はデータの計算ではなく確率の目盛りそのものの性質によって決めるしかない。ゆえに答えは1/2でしかありえない。なぜなら、[我々の]判断は仮説を支持するわけにも反対するわけにもいかないからである。さて、この領域について成り立つことは他のどの領域についても成り立ち、この二つの領域を含む第三の領域についても同様である。そして、二つの小領域の確率はそれぞれ1/2であるから、この第三の領域の確率は少なくても1であるはずである。しかしこれはナンセンスである。[In the conceptualistic view of probability, complete ignorance, where the judgment ought not to swerve either toward or away from the hypothesis, is represented by the probability 1/2. But let us suppose that we are totally ignorant what colored hair the inhabitants of Saturn have. Let us, then, take a color-chart in which all possible colors are shown shading into one another by imperceptible degrees. In such a chart the relative areas occupied by different classes of colors are perfectly arbitrary. Let us inclose such an area with a closed line, and ask what is the chance on conceptualistic principles that the color of the hair of the inhabitants of Saturn falls within that area? The answer cannot be indeterminate because we must be in some state of belief; and, indeed, conceptualistic writers do not admit indeterminate probabilities. As there is no certainty in the matter, the answer lies between zero and unity. As no numerical value is afforded by the data, the number must be determined by the nature of the scale of probability itself, and not by calculation from the data. The answer can, therefore, only be one-half, since the judgment should neither favor nor oppose the hypothesis. What is true of this area is true of any other one; and it will equally be true of a third area which embraces the other two. But the probability for each of the smaller areas being one-half, that for the larger should be at least unity, which is absurd.] (Collected Papers 2.679)
確かに、この結論はナンセンスである。このような結論が得られたのは、実際は確率が等しいわけではない(どころか存在すらしていない)事象に、「無差別の原理」によって等しい確率を割り振ってしまったからである。他方で、Bayes推定を繰り返すことによって、誤った確率(主観確率)を正しい確率(客観確率)に近づけることができるのもまた事実である。しかし、これもやはり主観確率が収束するべき客観確率が存在するということだろうか?

【偶然主義】

確率は客観的か主観的か、という問題に関して私は最終的な判断を保留するが、主観確率には収束する傾向が存在するということで、私はPeirceとともに客観的解釈の方にやや傾いている。しかし、確率が客観的に存在するとはどういうことだろうか?決定論が破れるということだろうか?実際、Peirceは「純粋な偶然が存在する」という偶然主義の立場を採っているが、これを避けることはできないのだろうか?

確率の「客観性」は、それが述定する推論が成功する(十分長期的な)相対頻度から来る。すなわち、確率が客観的と言えるのは、推論が実現するかどうかが、我々がコントロールできない事実によって決まるからである。もちろん、どんな確率も収束するというわけではない。先のPeirceの引用における土星人の髪の色の確率は当然収束しないが、賽子の出目の確率は一つの極限値へ収束する。

とはいえ、賽子の出目は、よりミクロのレベルで見れば決定論的な法則に従っていることを我々は知っている(ここでは量子効果は考えない)。ゆえに、賽子の出目の確率が客観的であったとしても、自然の階層性を区別することによって、決定論と両立させることができるように思われる。この見方に従えば、結局、確率は観測者の側における情報不足に帰せられることになり、そういう意味では主観的であるが、一つの極限値へ収束するという意味で、確率はやはり客観的な側面をも持つと言える。では、主観確率と客観確率ではすべての可能性が尽くされていないということだろうか?これを考えるには、「自然の階層性」という概念の中身をもっとはっきりさせる必要がある。

参考文献
  • Burch, Robert. 2010. "If Universes Were as Plenty as Blackberries: Peirce on Induction and Verisimilitude." Transactions of the Charles S. Peirce Society 46 (3): pp.423-452.
  • Peirce, Charles Sanders. 1878. "The Probability of Induction." in Collected Papers of Charles Sanders Peirce vol. 2, ed. Charles Hartshorne and Paul Weiss. Cambridge, Mass: Harvard University Press.

2014年2月12日水曜日

Three Criticisms of Meillassoux's Argument in "Potentialité et virtualité"

I have three criticisms of Quentin Meillassoux's argument in "Potentialité et virtualité" (which I read in Japanese translation).

(1) Meillassoux does not make clear his ontology regarding mathematical objects. Since he bases his argument on set theory, and draws conclusions about the experiential universe from these arguments, he may be assuming a Platonist ontology. But in that case, he needs an account of how these Platonic mathematical entities manifest themselves in the experiential world. (However, he may have already given such an account elsewhere, which I am simply unaware of). It is possible to reject Meillassoux's entire project of drawing conclusions from mathematics by rejecting the (presumably) Platonist framework upon which he depends.

(2) Meillassoux's polemic against the argument for Uniformity (as well as the Anthropic Principle) from probabilistic reasoning, based on the contention that universes are not as plenty as blackberries, may be granted. However, the argument for Uniformity is not the only argument for the reality of necessity. We may simply reject the kind of Uniformity assumed by Meillassoux, viz. a Uniformity based on set theoretic reasoning, and instead endorse a Spinozist conception of necessity, in which everything that happens in the universe is on par with mathematical truth. In this view, the "universe of logical possibilities" that Meillassoux speaks of is construed as the product of epistemic limitations on the part of humans, rather than as objective and pre-existing.

(3) Meillassoux leaps from epistemology to ontology. This is justified, given Meillassoux's unrelenting rationalist position, which rejects the epistemology/ontology distinction altogther, on grounds that the distinction is based on experience rather than reason. However, we can again reject Meillassoux's conclusion by altogther rejecting his framework of drawing philosophical conclusions from logic and logic only.

2014年2月6日木曜日

近藤和敬「問題-認識論と問い-存在論」について

『現代思想』2014年01月号掲載の、近藤さんの「問題-認識論と問い-存在論」について、雑感をまとめてみました。

私の理解では、近藤さんの言う「問題」とは、Peirceの言う「指をさす」に相当する。例として、Kuhnのパラダイム論で考えてみたい。Kuhnによれば、科学革命前後の概念は通約不可能である。つまり、ニュートンにとっての質量概念とアインシュタインにとっての質量概念は全く別物である。しかし、本当の意味でこれらの概念が通約不可能なら、「通約不可能である」と言うこと自体、不可能であるはず。なぜなら、両者を比較するための共通の土俵が必要だから。同じsubject matterに関心を払っているからこそ、理論の側に断絶があっても、対象の側は断絶の前後を通して保存される(Bhaskarはこれを、科学の「他動詞」的次元と呼んでいる)。

しかし、Peirceにとっては、我々が直接触れることができるのは第三性、つまり媒介的な記号だけである。したがって保存されるものに対しては、「指をさす」ことしかできない、と彼は言う(これがindexicalの働き)。Peirceは紛れもなく観念論者だが、indexicalを導入することによって観念の網目を外部に向けて開く、「客観的」観念論者なわけだ。

さて、近藤さんは「問題」の潜勢力が「消尽」されると別の問題に移行する、と述べている(ちなみに、これをPeirceの「疑念」と「信念」の文脈で考えてみるのは面白そう)。しかし、問題が変わってしまったら、同じsubject matterであるための足場がなくなってしまうように思われる。それでは、断絶の前後を通して、もはや同じ事柄について語っているとは言えないのではないか。多分、近藤さんもこれを分かっていて承認しているし、郡司さんがKripkeを引いて「暗闇の中の跳躍」と言ってるのもこういうことだろう。これがDeleuze的な発想なのかもしれない。しかし、自分には、これは現実の科学活動に即していないように思える。現実には、理論間に断絶があっても、「問題」自体は保存されているように見える。あるいは、仮に問題設定の移行があったとしても、移行前の問題を極限事例として導出可能にするような、より包括的な問題が設定されるはずである。言い換えれば、問題の移行は、次の格率に従ってなされているように思われる:移行後の問題に対する解は、移行前の問題に対する解でもなければならない。近藤さんが目指しているのは「内在性」の合理主義のようだが、私は「俯瞰」のモメントをもっと強調したい。

Meillassouxに対する近藤さんの批判には、同意する。すなわちMeillassouxは認識論と存在論の区別に無頓着であるという批判である(ただし、これはMeillassouxの立場が内的整合性を欠くという意味ではない。むしろ、Meillassouxの立場は最も強力な意味で論駁不可能であるように思われる。しかし、不自然ではあると思う。そして、私はMeillassouxほど合理主義者ではないので、論駁不可能性よりは自然さを重視する)。しかし、近藤さんの言う「問題-認識論」と「問い-存在論」の関係は、正直よく理解できなかった。この区別は、視点による区別なのだろうか。

私の理解では、Meillassouxの議論に認識論と存在論の区別を持ち込むならば、偶然性は認識論の側に回収される。近藤さんの記述にも、これと符合しそうな箇所がある:

科学的認識においてこのような「問題」の次元こそが先行するものであるとすれば、そしてメイヤスーが言及するような「定数」や「定性」や「法則」が、結局のところすべて「解」の次元でしかないと認めるとすれば、科学的認識によって措定される「法則」が、メタ水準で必然的ではなく、「偶然的」であるとしても(もちろん、その「法則」の枠内では、「法則」それ自体は必然的である)、何のパラドックスもない。いかなる存在者も、「問題」から「問題」への移行を一挙に展開し、見渡すことができないのだから(もしできるものがいると考えるなら、それは「問題」の固有性を認めないということに等しい)、「問題」の展開は、常に「潜在的」であり、その「潜在性」は歴史による現実的な展開を、ただひたすら待つことによってのみ、したがってメイヤスーとデランダがともに指摘するように「偶然」によってのみ実現される。(p.69)

「一挙に展開し、見渡すことができない」のはあくまで認識者であるから、これは認識論の側の話である。ならば、存在論の側では、必然性が成り立っていてもいいはず。しかし、近藤さんは「問題」を存在論の次元でも考えているようである(彼がDe Landaを評価するのはその点である。p.63参照)。また、「問い-存在論」には「非対称性」が存続し続ける、と彼は言う(p.71)。しかし、私にはこれは認識論の話にしか聞えない。もともと、歴史的にも発生論的にも、認識論と存在論の区別が導入されたのは、偶然性や認知の誤謬を前者の側に回収するためであろう。しかし、どうせ回収するなら、最後まで回収してしまうのが自然ではなかろうか。どうして途中でやめてしまうのだろう。あるいは、私が近藤さんの「問題-認識論」と「問い-存在論」の区別をやはり理解できていないだけかもしれないが。

2014年2月2日日曜日

【メモ】 Stewart Shapiro / Thinking About Mathematics: The Philosophy of Mathematics

【論理主義】 

一つ前の記事参照。

【直観主義】

・直観主義は排中律の拒否に尽きるわけではない。直観主義の根本にあるのは「数学は心的に構成される」という哲学であって、排中律の拒否はその一つの帰結に過ぎない。その他にも例えば、被定義項を含む集合への言及を含む非可述的定義の拒否がある。直観主義の理解では、言及される集合は構成に先立って存在するわけではないから、こうした非可述的定義は循環していることになる。これは排中律の拒否とは論理的に独立。また、可能無限の立場も排中律の拒否だけからは出てこない。確かに ¬∀xPx ⇒ ¬¬∃x¬Px ⇒ ∃x¬Px という推論は排中律の拒否によってブロックされるが、これが直ちに可能無限の立場を意味するわけではない。

・まだちゃんと考えたわけではないものの、直観主義論理と古典論理のどちらが「正しい」かという問いには答えがない気がする。現象論のレベルでは古典論理が有用だけれど量子のレベルでは分配律が破れるのと同様、記述対象に応じた使い分けの問題なのかもしれない。 例えば宇宙の状態は一意的に確定できないというRovelli流のRQMには直観主義論理が適しているように見える。

・Dummetの直観主義は謎。

【プラトニズム】

"But, despite their remoteness from sense experience, we do have something like a perception of the objects of set theory, as is seen from the fact that the axioms force themselves upon us as being true. I don't see any reason why we should have any less confidence in this kind of perception, i.e., in mathematical intuition, than in sense perception, which induces us to build up physical theories and to expect that future sense perceptions will agree with them." (Kurt Gödel, "What is Cantor's Continuum Problem")

[F]or Gödel, the independence of CH from ZFC shows that "these axioms do not contain a complete description of reality." (p.210)
→ ゆえにCHの真偽を確定するためには、ZFCを超出しなければならない。不完全性定理の証明において、算術体系の命題を決定するために算術体系を超出したのと同様に。

the "notion of analyticity ... just subsides into the humbler domain where its supporting intuitions hold sway: the domain of language learning and empirical semantics." (W. V. O. Quine, "Reply to Geoffrey Hellman")

To echo Mill, we know by experience that [mathematical] intuition is reliable. (p.224)

【虚構主義】

Arithmetic and real analysis can be simulated in space-time, using certain space-time points and regions as surrogates for numbers. One can also formulate a version of the continuum hypothesis in Field's synthetic physics. (p.232)
→ しかしこれは構造が等価と言ってるだけで、CHは構造そのものだとすれば、結局Fieldは数学をやっていることになるのでは、ってツッコミながら読んでたら、後でShapiroが同じこと言ってた。

Let P be a scientific statement that makes reference to say, real numbers, and let P' be a nominalistic reconstrual of P. The hermeneutic nominalist claims that P and P' have the same meaning, and so despite appearances, P does not really make any reference to real numbers. Burgess and Rosen point out that if P and P' do have the same meaning, then one is justified in the opposite conclusion: despite appearances, P' does make reference to real numbers, since it has the same meaning as P. After all, synonymy is a symmetric relation ... (p.248)