2016年10月28日金曜日

パースの「第二性」概念について

私のask.fmで行われた、パースの「第二性」概念に関する一連のやりとりを以下にまとめておきます。やりとりのきっかけとなったのは、パースbot (@peirce_bot)による次のツイートです:


このツイートに関して投稿された最初の質問と、それに対する私の回答です:

C.S.Peirce(@peirce_bot)による次のツイートの原文と出典を教えてください: 「このもの性」を「個体性」と呼ぶのは事態の片側面しか捉えていない。 また、双体性でペアを考えるときに、ある個体に対する別の個体として、パースはどのようなものを考えていたのですか?

出典は1898年ケンブリッジ連続講義の初期草稿である「8つの講義のアブストラクト」("Abstracts of 8 Lectures")という手稿(MS 942)です。New Elements of Mathematics Vol. 4, pp. 135-36にあります。原文は"The word individuality applied to thisness involves a one-sided conception of the matter, as if unity and segregation were its characteristic. But this is not so. [...] The true characteristic of thisness is duality; and it is only when one member of the pair is considered exclusively that it appears as individuality."

これは伝統的な哲学の用語で言えば、個体化の原理の新たな定式化です。個体化の原理をめぐる問題は、中世哲学でよく話題になる問題の一つです。それは、今・ここ、目の前にあるXを、X一般から区別するの何かという問題です。有名どころでは、アクィナスは個体化の原理を質料に求め、スコトゥスは「このもの性」(haecceitas)に求めています。パースはスコトゥスの説を継承しながら、「このもの性」を自分のカテゴリー論における「第二性」(Secondness)として再解釈しています。つまりパースにおいては、第二性こそが個体化の原理であるわけです。「双体性でペアを考えるときに、ある個体に対する別の個体として、パースはどのようなものを考えていたのか」と質問にありますが、第二性あるいは双対性こそが個体を産出するわけですから、それに先立って「個体」が単独で存在しているわけではないことを念頭に置いておく必要があります。

さて、どうしてパースは「このもの性」を「第二性」として捉えたのか疑問に思われるかと思います。それは、我々が個体を認識するとき、その個体性の根拠となっているのは「意志への反発」であることが経験的に分かっているからです。例えば目の前にいる現実の猫と、想像上の猫を考えてみます。前者が個体としての猫、後者は一般的な「猫」の概念です。この両者を区別するのは、前者には意志によるコントロール不可能性があるということです。例えば一般的な猫の色は想像の中で様々に変えることができますが、目の前にいる現実の猫の色は、思考の力だけではどれだけ頑張っても変えられません。現実の猫には「意志への反発」が存在するわけです。

こうした意志への反発をパースは「第二性」と呼んでいるわけですが、その理由は、意志への反発の顕著なケースである「驚き」の経験を考えると分かりやすいです。人間が驚くのは、自分以外のものが、自分の意識の中に侵入してきたときです。自分自身に「コラ!」と言って驚かすのが不可能であることがその一つの証拠です。そして驚きの瞬間には、いわば二重性の意識があると考えられます。つまり一方には途切れた期待である「我」があり、他方にはその期待があった場所に侵入してきた「非我」があるわけです。この「我」と「非我」の衝突が第二性です。ただし、ここで重要なのは驚きの内的な「感じ」ではなく(それは単なる第一性です)、驚きのコントロール不可能性です。また、繰り返しになりますが、「我」と「非我」を産出するのは驚きの経験ですから、驚きに先立って「我」と「非我」の境界が存在しているわけではないです。これに関しては、以前の回答で書いた一歳児が熱いストーブに触れる例を読んでみて下さい:http://ask.fm/asonosakan/answers/127963435027



二つ目の質問と、私の回答です:

第二性と第三性の区別を確認したいのですが、具体的な二つのもの(例えば、「我」と「非我」)が向き合っているのが第二性ですよね。目の前の「猫」と、「我」の中にある「猫」一般とを対比する場合には、判断や命題となって、第三性になるのではないですか?純粋な第二性というのが、わかりにくい。 

目の前の猫を認識する場合、判断や命題という第三のものが形成されるのではないか、というのは全くその通りです。純粋な第二性というのは実はどこにも存在しないのです。第一性、第二性、第三性というのはカテゴリーで、カテゴリーというのは現象の普遍的な要素ですから、あらゆる現象に第一性、第二性、第三性すべてが混在しているはずです。もし、第三性から切り離された純粋な第二性なるものがあるとすれば、第三性がカテゴリーでないことになってしまいます。これはもちろん受け入れ難い結果です。

猫を認識する例で言えば、「これは猫である」のような判断の中に第二性が含まれています。具体的には、「これ」という指示詞がそうです。「~は猫である」という述語は、現実の場面にまだ適用されていない一般的な概念です。いわば「不飽和」の命題です。これを飽和化させるには、現実の場面と何らかの仕方でリンクさせる必要があります。そのリンクの役割を果たすのが主語で、指示詞はその最も純粋な形態です。こうした現実の世界とのリンクが知覚判断のコントロール不可能性の起源になります。

ところで、純粋な第一性や第二性や第三性が存在しないのであれば、そもそもどのようにしてそれらを区別できるのか、疑問に思われるかもしれません。そこで重要な役割を果たすのが、パースが「前切」(prescission)と呼んでいる概念分離の操作です。一般的に「抽象」と呼ばれている操作です。どのカテゴリーも純粋な形態では現象の中に存在しませんが、第三性から第二性を、そして第二性から第一性を前切(抽象)することができます。この抽象可能性が、第一性、第二性、第三性が相異なるカテゴリーであることを保証します。



三つ目の質問と、私の回答です:

物理化学的な現象は、第二性ではないのですか? 例えば、玉突きの球が反応するとか。また生物でも、刺激に対して直接的反応するとか。もちろん、そこに法則性などで解釈すれば第三性でしょうが、現象そのものは第二性なのでは?

良い質問ですね。私は第二性を「意志への反発」という風に説明しましたが、これだと人間がいるところにしか第二性がないかのような言い方ですよね。もちろんそんなわけではなく、人間がいようがいまいが第一性、第二性、第三性はあらゆるところに遍在しているはずです(少なくとも1870年代半ば以降のパースにとっては)。仰る通り、あらゆる物理的な相互作用――ただし一切の法則生から抽象された単一的な出来事としての相互作用――は第二性です(正確には、第二性の度合いの強い現象です)。そこで問題は、この「物理的相互作用」としての第二性の解釈を、「意志への反発」解釈とどう整合化させるかです。

パースのテクストを見てみましょう。一つ目はBaldwin's Dictionary of Philosophy and Psychologyのために彼が執筆した「個体」(individual)の定義です:「個体とは反発するものである。つまりいくつかの事物に対して反発し、そして私の意志に対して反発するかもしれない、あるいは[もし実際と違ったことが起きていれば]反発しただろう、といったあり方をしたものである」("an individual is something which reacts. That is to say, it does react against some things, and is of such a nature that it might react, or have reacted, against my will." CP 3.613, 1901)

まず後半の" ... is of such a nature that it might react, or have reacted, against my will"という一節を説明します。ここでパースが言っているのは、個体がたとえ現に今・ここ、私の意志に対して反発していないくても、「未来において反発するかもしれない」という予測や、「もしかくかくしかじかの条件が整っていれば反発しただろう」という反実仮想が成立するということです。例えば、現に私の目の前で火は燃えていませんが、もし火が燃えていて、私がその中に手を入れたとすると、私の意志に関わらずきっと火傷するだろうと信じています。つまり、火は現に私の意志に対して反発していなくても、ヴァーチャルに私の意志に対して反発しているわけです(virtualの本来のラテン語の意味で)。

しかし、パースは"it does react against some things"とも言っています。つまり個体は私の意志だけでなく、他の事物に対しても反発するということです。私の意志への反発はその特殊なケースとして考えるべきでしょう。ただこれだけだとあまり参考にならないので、次は1898年の「8つの講義のアブストラクト」("Abstracts of 8 Lectures")から引用してみます。すべての可能な事態は同時に可能(共可能)ではないことを論じた後で、パースは次のように言っています:

「では、出来事の論理が要請するのは何か?客観的に仮説的な結果として要請されるのは、恣意的に選択されたいくつかの可能性が、他の可能性を締め出すということである。これが存在、即ちいくつかの性質の偶然的な組み合わせによる、他の組み合わせに対する恣意的で盲目的な反発である。[…]存在のこのもの性は、意識に対する反発と、他の可能性が同様に意識に対して反発しないように締め出すことに存する。」("What then does the logic of events require? What is required, as an objectively hypothetic result, is that an arbitrary selection of them [possibilities] should crowd out the others. This is existence, the arbitrary, blind, reaction against all others of accidental combinations of qualities. [...] The thisness of it [existence] consists in its reacting upon the consciousness and crowding out other possibilities from so reacting." NEM 4.135)

つまり反発は可能性同士の間で起きるということです。質問の中にある玉突きの例で考えてみます。ある玉がある位置Xにある事態と、別の玉が同じ位置Xにある事態は、いずれも可能だが、同時に可能(共可能)ではないとします。位置Xに一方の玉を固定しておいて、それに向けて他方の玉を転がすと、電気的な斥力で玉同士は反発するわけですが、ここで起きているのは、共可能でない事態(つまり両方の玉が同じ位置Xにあるという事態)からの一方の可能性の締め出し(crowding out)です。これが「現実化」(actualization)の作用です。パースの引用にあるように、現実存在を特徴付けるのは意識(あるいは意志)に対する反発だけでなく、他の可能性が同様に意識に対して反発しないように締め出すという作用です。これをまとめて「第二性」と呼んでいるわけです。

ところで次のような考え方もできます。パース自身がこのように考えていたわけではなさそうですが、人間や一部の生物に限らず、あらゆるものに意志があるというショーペンハウアー的な立場を取るのです。そうすれば直ちに、あらゆる物理的相互作用を、人間の争いと類比的に意志同士のぶつかり合いとして解釈できます。この立場を真面目に擁護するのは難しいかもしれませんが、考えてみる価値はあると思います。

最後に、私は「物理的相互作用」という言い方をしてきましたが、「物理的」という修飾語は実は無意味であることを付記しておきます(分かりやすさのために一応付けておきましたが)。というのは、私たちは第二性の度合いの強い現象こそを「物理的」と呼んでいるように思われるからです。だから「物理的な相互作用は第二性の度合いの強い現象である」というのはトートロジーになります。