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2011年11月3日木曜日

ヴィトゲンシュタインにおける二つの限界と、「実在」の影

入不二基義さんを読んで、私が以前導入した、ヴィトゲンシュタインの言う「言語の限界」には二つあるんじゃないかという理解の妥当性をますます確信できるようになった。

ヴィトゲンシュタインが「この言語(私が理解するただ一つの言語)の限界が、私の世界の限界を意味する」と言うとき(『論考』、五・六二)、この「ただ一つ」には二重の意味が重なっているというのが入不二氏の読み(『ウィトゲンシュタイン : 「私」は消去できるか』、第一章)。すなわち:

まず第一に、境界線なき「全体」としての「限界」。その「全体」の内容は別様でありうるが、どんなに内容を別様に変容させても「それ」であることをやめない〈かたち〉。ここで「ただ一つ」と言われている〈かたち〉は、「語る(写像する)」ことを成り立たせている前提して、「語る」このとのうちに「示される」。これが私の言う「第一の限界」に相当するだろう。

そして第二に、「私=世界=生」の唯一性・一回性としての「限界」。第一の限界は語ることのうちに示されうるが、この第二の限界はそのようには「示されえない」のではないか、と入不二氏は言う。なぜなら、この唯一性は世界の言語や形式に属する事柄ではなく、「私=世界=生」がそもそも「あってしまう」という神秘に属するからだ。

「神秘とは、世界がどのようにあるかではなくて、世界があるということそのものである。」(『論考』、六・四四)

『相対主義の極北』において入不二氏は、「未生」という概念を駆使してこの第二の限界のさらに向こう側に、「実在=神」の影を探ろうとする。論理学を知らない九歳の子どもにとってゲーデルの不完全性定理は単に想定不可能であるばかりでなく、想定不可能であることも想定不可能であり、さらに想定不可能であることが想定不可能であることが……という風に無限後退していく。いわば、彼にとってゲーデルの不完全性定理は「世界」のうちにある事柄ではない。それは「示す」ことのできる範囲をも超え出てしまっているのだ。同様に我々にとっても、思索をめぐらすことさえ不可能な地平があるだろう。ただ「あるんじゃないか」としか言えない領域が。ここにこそ我々は、「実在=神」の影を垣間見ることができるのではなかろうか。