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2012年5月27日日曜日

【メモ】 入不二基義の想起阻却過去説と、そこから浮かび上がる「実在」の様相

まず、大森荘蔵の想起過去説に対して勝守真が見出す疑念を以下にまとめる。(勝守真、「想起とそのかなた――大森過去論の批判的読解――」)

(1) 想起過去説には、過去とは言語的な想起内容に他ならないという発想と、過去とは消え失せて跡形もないという発想、この二つの異質な発想が含まれている。 後者の発想によって、前者の発想には抵触してしまう「想起内容に収まらない過去の何か」「消え失せて跡形もないと語りうる何か」が、暗黙裡に導入されてしまっているのではないか。

(2) 想起が知覚とは異質な経験であり、想起が知覚の再現・再生ではないことを強調する想起過去説においては、想起に対比される当の知覚とは、「現在の知覚」ではなくて、(「あの」「その」によって指示される)「過去の知覚」でなければならない。しかし、「過去の知覚」は、想起過去説が説く「言語的で非知覚的な想起内容としての過去」からは逸脱してしまう。想起過去説を支えるはずの想起と知覚の対比が、むしろ想起過去説を自壊させるように働くのではないか。

(3) さらに、このような逸脱を招く想起過去説の中には、時間経験に内在的な視点だけでなく、時間経験の諸様式(知覚・現在と想起・過去)を俯瞰するような超越的な視点が含まれている。そのような視点に立って、あらゆる時点を等しく「今」「現在」でありうるものとして捉える(今の一般化)からこそ、想起内容を逸脱する「過去の知覚」も、「想起内在的な過去」として(現在だった知覚、かつての現在の知覚として)回収できるように思えるのではないか。超越的な視点にたって、「過去の知覚」を「現在の知覚」であるかのように捉え直したうえで、それと「想起」とを対比してしまう。そのことによって、「想起」に対する「過去の知覚」の逸脱的な関係が見えにくくなってしまうのではないか。(『時間と絶対と相対と』、pp.65-66)

こうした勝守氏の「想起逸脱過去説」を、入不二氏はさらに一歩進める。これが入不二氏の「想起阻却過去説」である。

たとえば、「φだった」と今想起しているとする。φという過去の出来事は、想起を逸脱する特異性・単独性を持つ。これが、想起逸脱過去説であった。そして、たとえその想起がなされなかったとしても、φという過去の出来事はあったはずである。これが、想起阻却過去説の第一段階である。そしてさらに、その阻却とともに、想起と一体化した記述(φ)もまた阻却される。過去の出来事は特定の記述を失って、「(  )だった」という不特定の過去性のみが残存する。想い出せなくとも、想い出さなくとも、忘れたことさえ忘れていても、とにかく何らかの過去が(特定されなくともシンギュラーな過去が)があったはずである、ということになる。これが、想起阻却過去説の第二段階である。「想起の自己阻却」とは、過去X――特定の内容を持たない過去としての過去――へと向けて自身を退場させていく運動なのである。
ただし、「過去としての過去――過去X――」にまで遡ることは、「独断的な過去実在」へと戻ることと同じではない。過去Xは、端的な過去実在ではない。なぜならば、過去Xは、あくまで「想起」を経由したうえでの事後的で仮想的な収束点であって、「想起」から端的に独立ではないからである。過去Xの実在性とは、独断的なものではなくて、事後的にあらかじめあったことにされるものであり、かつその事後性(=想起経由)がなかったことにされることで成り立つのである。
また、「想起阻却過去説」は、「想起逸脱過去説」とも同じではない。なぜならば、「想起を逸脱し続ける過去」から、事後的仮想的にではあっても、その当時の「想起」を引き去り、なかったことにするからである。つまり、過去存在を、もう一歩だけ想起よりさらに遠ざける。しかも、想起よりさらに遠ざけられた過去とは、特定の出来事ではなく、むしろ特定の内容を持たないにもかかわらず特有の実在性を帯びてしまう過去――過去としての過去――である。(pp.74-75)

想起するとは、現在と過去とを区別しつつ繋げることであり、そこには脱時間的な視点・仮想的な視点がすでに入り込んでいる。勝守は、大森の「時間を超越した視点」を批判しているが(そしてその指摘は正しいが)、「想起」が「かつては現在だった過去」を志向するものであるかぎり、過去と現在を重ね合わせて見ること、すなわち最低限の「俯瞰」をすること(超越的な視点をとること)は、「想起」の成立に必要不可欠なのである。(pp.79-80)

現在という起点からは接近のしようがないにもかかわらず、その接近不可能な過去(創造以前の「無」)から、なぜだか現在という起点(この世界)が誕生している。言い換えれば、現在から発している能動性のベクトル自体が(能動的な関わりも、それにともなう挫折・頓挫も)、そのベクトルの及ばない「無」の方から受動的に生み出されている。「過去を想起する」ようになぜだかさせられているし、「その想起を逸脱する過去を思う」ようになぜだかさせられている。想起阻却過去(第三層)にまで投錨しようとすると、能動/受動の相が、こうしてすべて反転する。
そのように反転した相で見るとき、想起とそこからの逸脱を繰り返すことは、まるで反復強迫であるかのように、むしろそう強いられているように見える。忘却したことさえ忘れてしまった過去、決して想起されることのなかった過去、あるいはどうしても想起しえない過去、そもそも想起されることと無縁の過去、そのような過去の方から、私たちは想起と逸脱を反復することを、むしろ強制されている。(p.84)

このような実在の様相について、入不二氏はルイス・キャロルのパラドックスとの関連でさらに詳述している。

ルイス・キャロルのパラドックスで言うならば、私たちがすでに服してしまっている論理的強制力――その明示化が立ち上がり続けしかも失敗し続けることによってのみ、それ以前にすでにその力に服してしまっていることが、遅れて判明するしかない「論理的強制力」――は、「手前」の「実在」である。私たちは、そのようなリアリズムをすでに生きているはずなのであるが、そうであることは、そのリアリズムの喪失(つまりルイス・キャロルのパラドックスの発生)を通して事後確認することしかできない。その意味において、リアリズムの認知は、すでにリアリズムの喪失である。そういう仕方で、「実在」は、私たちの認識から独立なのである。「実在」は、私たちの認識からはるか遠くの彼方にあって届かないから「私たち」から独立なのではなく、私たちの認識がつねにそこを通り過ぎてしまっているしかない「手前」であるからこそ、「実在」は「私たち」から独立なのである。(p.250)

2012年5月7日月曜日

オートポイエーシスは何を解明するのか

以下の文章は、河本英夫『オートポイエーシス―第三世代システム』に対する雑感をまとめたものであり、私の一連のツイートを再構成し、大幅に加筆修正したものである。



『オートポイエーシス』を読んで私が抱いた一番の疑問は、「オートポイエーシスは一体何を解明するのか?」というものである。河本はオートポイエーシスは経験科学だと言う(p.298)が、私には、オートポイエーシスはあらゆるシステムのある特殊な側面を扱う哲学であって、経験科学ではないように思える。哲学はしばしば世界を見る新しい見方を我々に提示してくれるが、何かを解明することはない。これが哲学と科学の間の最も大きな違いであるように私は思う(もちろん両者の間に明確な境界線が引けるとは考えていない)。河本はオートポイエーシスはたんなる視点の転換ではないと言う(p.10)が、本書を読んだ限り私はこれに説得力を感じない。

「オートポイエーシスはあらゆるシステムのある特殊な側面を扱う哲学」であると私は述べたが、このことの意味をもう少し詳しく説明する。河本はオートポイエーシスを「行為‐存在論」と呼んでいる(p.195)。「システムにとって産出的作動という行為を行うことが、そのまま現実に存在することである。」(ibid.) つまり、オートポイエーシスは、「行為することがすなわち存在することであるような」(ibid.)存在を扱う行為存在論だと言うのである。このような「存在」という言葉の使い方は、私には正直言ってピンと来ない。むしろ、「システムそのものにとっての視点」を強調するオートポイエーシスは、存在論ではなく知覚論であるように思える。

 【物理的極と心的極】

私は、あらゆるシステム(オートポイエーシス・システムに限らずアロポイエーシス・システムも)には「物理的極」と「心的極」があると考えている(A. N. Whiteheadの語彙を勝手に借用してきた。本来の用法と合致していないなどの苦情は受け付けておりません)。物理的極と心的極を、ここでは具体的な例で説明しよう。Graham Harmanが挙げている例で、火が綿を燃やすというのがある。彼が言うには、火が綿を燃やすとき、火は綿の全ての性質と作用していない。それに対して、Steven Shaviroはこう修正する。火が綿を燃やすとき、火は綿とその全体において作用するが、綿のすべての性質を「知らない」、と。この「知らない」というのは単なる比喩表現ではない。文字通り、火は綿のすべての性質を「知覚できていない」のである。オートポイエーシスの言葉を使えば、「火にとっての視点」から見れば、綿の全体は位相学的外部なのである。

要するに、システムの心的極とは、システム独自の生態学的地位、J. von Uexküllの言う環世界(Umwelt)である。あらゆるシステムは、環境の中から、そのシステムの維持にとって有用な部分だけを選択的に知覚する(例えば人間には紫外線や赤外線は見えない)。そしてオートポイエーシスが強調する「システム自体の視点」とはまさにこの心的極であるように思う。それはシステムの物理的極、つまりその存在のあり方全体を問題にするのではなく、システム独自の知覚のあり方だけを扱うのである。

この点に関して、N. Katherine Haylesによるオートポイエーシスの定式化が分かりやすい。

In the autopoietic view, no information crosses the boundary separating a system from its environment. We do not see a world "out there" that exists apart from us. Rather, we see only what our systemic organization allows us to see. The environment merely triggers changes determined by the system's own structural properties (N. Katherine Hayles, How We Became Posthuman: Virtual Bodies in Cybernetics, Literature and Informatics, pp.10-1)

システムの心的極の境界は閉じていて、システムみずからの作動によって産出される。対してシステムの物理的極の境界は開いていて、外部の観察者によって識別される。ゆえに物理的極の境界は常に不定で、継続的なパターンとしてしか同定されえない。しかしパターン識別が観察者依存的だからといって、パターン自体に固有の実在性がないという意味ではない。要素をすべて列挙するより少ない情報量で対象の振る舞いを予測できるとき(つまり情報の圧縮可能性が存在するとき)何らかのパターンは紛れなく存在する(それが具体的にどのようなパターンであるかは観察者に依存するというわけである)。(cf. Daniel Dennett, "Real Patterns")

【オートポイエーシスと独在論】

オートポイエーシスの議論の仕方は、永井均の「独在論」と非常に似ているところがある。例えば以下の引用を見て頂きたい。

ユクスキュルの議論によれば、生物はそれぞれ固有の世界にしか生きられない以上、人間もみずからの世界に閉ざされてしか生きることができない。これに対してポルトマンやシェーラは異を唱える。人間は開かれた世界に生き、動物は閉ざされた世界に生きるというのである。このことの論拠になっているのは、人間はみずからを反省的に対象化し、それと同時にみずからの世界を対象化することによって、みずからの外に出うるということである。そして技術を介して環境そのものを変えることができる。[原文改行]だが意識の反省によって自己を対象化しようと、どこまでも意識の枠内に閉ざされた自己と他なるものの対象化された区別でしかない。意識は確かに異なる世界を知りうる。だがそれとて人間の意識によって構成されたものにすぎなくなる。意識の反省を通じて、自己や世界を対象化し、別様でありうるものを認識しようとも、それもやはり意識によって構成されたものにすぎない。意識の自己反省によっては、どこまでも自己意識の圏域を出ることはできないというのは、すでに身近かな事実である。とすればいったいどのようにして人間は開かれた世界に生きていることになるのか。(p.245)

これは、この比類ない〈私〉を、他の大勢の人間と対称な地位へ連れ出そうとする「相対化」の運動に対して、〈私〉と他者の非対称性を絶えず更新し続ける「独在化」の運動にそっくりだ。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」(永井均『『〈魂〉に対する態度』p.187)以上、独在性はこの世界の端的な事実である。この議論はごもっともだと思う。しかし、独在性の方だけに執拗にこだわり続けるのは、事態の片側面しか捉えていないのではないか。私が思うには、独在化の運動と相対化の運動のどちらかに特権を付与するのではなく、両者を等価的に捉えなければならない(cf. 入不二基義『相対主義の極北』)。

オートポイエーシスに即して言えば、一人称視点からは可視光しか知覚できない人間が、どうして紫外線や赤外線の存在を知ることができたのか、考えなければならない。それぞれのシステムに固有の世界とは独立に、三人称視点からの観察によってしか捉えられない客観的な「世界自体」が存在するのではないか。ポルトマンやシェーラの主張が一見伴うように見える人間中心主義はともかく、「人間は開かれた世界に生きている」ということの意味をもう少し真剣に受け止める必要があるように思う。したがって、

[心的システムの位相学的外部は]見ることそのものの媒体のように心的システムに浸透している。したがって環境はどのような意味でも主観に対置されるような客観ではない。(p.244)

という記述には同意できない。

【オートポイエーシスは何を解明するのか】

オートポイエーシスはシステムの物理的極ではなく、心的極を扱うと述べた。より正確に言えば、システムの心的極だけを取りだし、物理的極を「位相学的外部」として捨象する。私に疑問なのは、このような方法によって一体何が明らかになるのか、ということである。世界に対する新しい見方を提示する哲学としてのオートポイエーシスの側面を否定するつもりはない。実際、「世界」と「心」のあり方について非常に面白い考え方を提供していると思う。しかし、オートポイエーシスを何らかの「研究プロジェクト」として推し進めたり、個別科学の領域に「適用」しようとしている論者には疑念を持たざるを得ない。

オートポイエーシス独自の「位相空間」を描くという手法も、あまりピンと来ない。河本は、今後残された探究課題として「システムの数学的定式化」(p.337)を挙げているが、果たしてそんなことが可能なのか、あるいは可能だとしても果たして意味があるのか。まず第一に、「思考」や「コミュニケーション」といった曖昧な構成素を同定できないという問題がある。まさか位相空間に「思考」や「コミュニケーション」に対応する状態点を取ってその挙動を微分方程式で記述するわけではあるまい。そして第二に、仮に無理やり位相空間を視覚化できたとしても、そこに何らかの法則性があるとは思えない。先に述べた通り、オートポイエーシスが抽出する位相空間は、物理世界とはもはや(曖昧な「浸透」を除いて)何ら関係を持たない。つまりこの位相空間では自然の斉一性が生きていないと考えられる。自然の斉一性がないところにシステムの「コード」を探そうとしても無駄である。