哲学を勉強し始めた頃は憎たらしい物理主義者だったんですが、哲学を勉強しているうちに汎心論者になってしまいました。正確にはライプニッツのモナド論をパース的に(つまり実念論的に)修正した立場です。
「心身問題」と一口に言っても、他我問題や実在の問題といった様々な形而上学的問題が複雑に絡み合っています。この相互連関を無視して「心身問題」だけを取り出し、「精神」と「物質」の関係はどうなっているのか、と問うのは素朴過ぎます。問題の所在を明らかにするには、まず「精神」「物質」という言葉が一体何を指しているのかを考察する必要があります。その最良のアプローチと私が考えるのは、これらの概念がいかにして生じるかを理念的に再構築してみる、いわば発生論的アプローチです。考察の出発点となるのは、いかなる区別にも先行する原初的な意識、つまり赤ちゃんの世界です(この再構築が「理念的」であらざるを得ないのは、我々は赤ちゃんのときの記憶にアクセスできないからです。したがって考察の対象は無意識的な推論になります)。「意識」という言葉を使いましたが、これは「物質」と対置されるようなものとは捉えないで下さい。「精神/物質」という区別が生じる以前の意識です。また「我/非我」という区別もこの段階ではまだないので、「私」がぴったり「世界」とそのまま一致しているような、いわば「他者の否定以前」の独我論的な意識です。このような意識から、いかにして「精神」「物質」といった概念が生じ得るかを考えてみましょう。
まず、意識の内容のうち、容易にコントロールできる部分とコントロール出来ない部分があることに気づきます。つまり意志に従う部分と意志に反発する部分です。パースのカテゴリーで言えばこれは第二性の発見に相当します。ここから「我」と「非我」の区別が生じます。容易にコントロールできる部分が「私の身体」であり、コントロール出来ない部分がいわゆる「外部世界」です。「外部世界」といっても、あくまで意識の内容であることに注意して下さい。もちろん、現に(今・ここ)意識の内容である必要はありませんが、原理的に意識の内容になり得る(認識可能である)ものでない限り、私は「実在」とは認めません。これは一種の観念論ですが、実念論と対立するものではありません(むしろ後者は前者を必然的に含意します)。
次に、「外部世界」として認識される意識の内容のうち、「私の身体」に相当する部分と似たパターンが存在することに気づきます。これが同じ人間の「他者」です。これらのパターンが、「私の身体」と同様の振る舞いをすることから、これらのパターンも「私」と同様の世界を見ているのだ、という仮説的推論が自然に働きます。つまり、「私の世界」と同様の世界が複数あり、人間(あるいは人間に近い動物)の形をしたパターンが、それらの世界の起点になっているのだという仮説です。ライプニッツのモナドはこの「世界の起点」に相当します。「Xが世界の起点になっていること」を、我々は通常「Xには精神がある」と表現します。したがって「精神」とは何らかの実体のようなものではなく、現象ないし経験が生じていることそのものです(ついでに言えば、心身問題の文脈でよく話題になる「クオリア」とは、以上の観点から考えれば「頭の中」にあるものでは決してなく、ある視点から見た世界そのものであることが分かります。例えばある被験者に光を見せ、「光はどこに見えますか」と問いかければ、被験者は当然自分の頭を指すのではなく、光源を指さします。このことの意味を十分に考えていない哲学者があまりにも多いと思います)。
さて、ここで一種の捻じれ構造が生じていることに気付かれたでしょうか?我々の出発点は、「私」と「世界」がぴったり一致するような、独我論的な意識でした。いわば、「世界が私の中にある」と言えるような段階の意識です。しかし徐々に客観性の階段を昇っていき、「私」は決してユニークではなく同じような世界を見る視点が無数にあることに気付くと、次の自然な仮説的推論として、「それぞれの視点が見ている一つの共通の世界がある」という推論が働きます。他の視点が生きている世界を「私」は直接生きることはできないので、これはあくまで仮説です。ライプニッツの言う「予定調和」、つまり世界の唯一性の仮説です。ある視点から眺めた街と、別の視点から眺めた街が、なお同じ街であることを我々は知っているのと同様に、ある精神が見ている世界と、別の精神が見ている世界が、同一の世界であることを我々は通常疑いません。これがいわゆる「客観的世界」ですが、こうした客観的世界の存在を前提にして初めて「私は世界の中にある」と言えるわけです。しかし、この段階に至っても「世界が私の中にある」のをやめたわけではありません。客観的世界といえどもやはり、一切の視点から独立に存在するわけではないからです。これが先に言及した、「私が世界の中にある」と同時に、「世界が私の中にある」という捻じれ構造です。
この捻じれ構造を理解可能にするために考えないといけないのは、世界の基本的な構成要素についてです。つまり世界は何でできているか?という問題です。上で見たように、世界はそれを眺める視点の中にしか存在しません。しかし問題は、これらの視点が眺めている共通の世界はどこにあるか、です。ライプニッツの答えは、「視点の集まりこそが世界である」というものでした。つまりそれぞれの視点が、他のすべての視点を見ている、ということです。ただしそれぞれの視点には、その視点の固有性から来る知覚の混雑があるために、他の視点そのものを見ることはできず、一人称視点から見た現象に「翻訳」した形でしか認識できません。現象としてエンコードされた他の視点の集まりこそが「物質」です。同じ世界を、「私」の意識の変容として見ることができるし、無数の視点の集まりとして見ることもできる、というわけです。これがライプニッツのモナドロジーの本質的洞察だと私は考えています。
かなり駆け足の説明になってしまったので、以前執筆した"The Perspectivism of Leibniz's Monadology"という論文を貼っておきます。ライプニッツのモナド論を心身問題の観点から論じています(英語ですが)。興味がありましたらどうぞ。
さて、冒頭で私は「ライプニッツのモナド論をパース的に修正した立場」だと述べましたが、これについて少し説明します。「モナド」というのはギリシア語で「単位」を意味するμονάςに由来する言葉ですが、ライプニッツがモナド論を考えた動機には、物質には何らかの統一原理がないと、単なる集合体になってしまうという発想があります。例えば羊の群れには統一原理がないので、ただの物質の集まりです。しかし人間も同様に物質に分解できますし、しかも無限に細かく分析していくことができます(ライプニッツの考えでは)。これだと人間も羊の群れと同じような集合体になってしまうと彼は考え、それを防ぐための統一原理として「真なる一性」ないし「実体形相」としてのモナドを考えたわけです。「モナドには窓がない」と彼が言うのもこのためです。つまりモナド間に因果作用や情報のやり取りがあると仮定すると、モナドの統一原理としての性格が損なわれると彼は考えていたのです。
しかしこれは私から見れば二つの点において唯名論的過ぎます。一つは、究極的実在を「個物」として考えている点です。もう一つは、観念を「魂の中にある」ものとして考えている点です。モナドの窓を開くことによって、ライプニッツの体系を実念論的に再解釈することができるとともに、上で触れた「予定調和」の仮説も不要になります。というのも、「調和」は予定されている必要はなく、観念同士の相互作用によって徐々に生じることが可能だからです。これが私の言うライプニッツの「パース的修正」です。
では「調和が徐々に生じる」とはどういうことでしょうか。パースがA・C・フレイザー編『バークリー著作書』の書評で挙げている例に、盲人と聾者の例があります。
盲人と聾者の二人の男がいると想定してみよう。盲人の方は殺害の宣告を聞き、銃声を聞き、そして被害者の悲鳴を聞く。聾者の方はその現場を見ている。二人の感覚経験は、それぞれの固有性によってこれ以上ないほど左右されている。感覚から得られる最初の情報、つまり最初の推論は、もう少し似たものになるだろう。例えば一方は大声を上げる男の観念、そして他方は脅迫的な面相の男の観念を持つかもしれない。しかし二人の最終的な結論、つまり感覚から最も隔たった考えは同一であり、それぞれの特有性からくる一面性から独立である。したがって、すべての問題には真の解、最終的な結論があり、これへ向かってすべての人間の意見は常に収斂しているのである。(EP1: 89)いわば、不整合ないし不完全な世界同士がぶつかると自己修正ないし補完のプロセスが生じるわけです。このプロセスが無限に続くと仮定すると、徐々に一つの極限へ収束していきます。この探究の理想的極限が我々が「真理」と呼んでいるものです。そして真なる思考の対象が客観的世界、つまり上のライプニッツの体系で言えば無数の視点からなる世界です。こうして、観念同士の相互作用から調和が徐々に生じる過程を説明できます。ここで言う「調和」とは論理的整合性のことです。宇宙には、論理的整合性が増大する方向へ向かおうとする原初的な傾向性が存在すると考えるべきです(これがパースの言う第三性です)。かくして、まず一つの世界があるのではなく、まず無数の不整合な世界があり、それらの世界同士がぶつかることによって、徐々に一つの世界になっていく、という構図が出来ます。
また精神ないし魂とは、ライプニッツが考えたような絶対的な統一ではなく、ある程度の整合性を有する観念の束と考えるべきです。つまり統一性の有無は程度の差であっていいわけです。しかし魂の要件として統一性を重視したライプニッツの考えにも、ある真理が含まれていると思います。というのも、もし観念に統一性がなければ、それが一つの世界を眺める視点としてそもそも成立し得ないからです。いわば、観念間の分裂に対応して世界も分裂してしまうわけです。そして逆に言えば、観念間に整合性があれば、二つの精神はその限りにおいて世界を文字通り共有していると考えるべきです。したがって「私」と「汝」の差もあくまで程度の差です。愛する者同士の魂は融け合っているというのは、単なる比喩的表現ではありません。