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2019年2月18日月曜日

イ・チャンドン『バーニング』考察(ネタバレあり)

イ・チャンドン監督の『バーニング』を観た.観終わった直後は?だったけど,しばらく反芻しているうちに頭の中で熟成していく作品だ.以下,思い付いたことを綴っていく(ネタバレ注意)

まず,ヘミは最初から実在していなかったんじゃないか.その理由は次の通り.

(1) ヘミは主人公ジョンスにとって不自然なほど都合の良い女性として描かれている.ジョンスにとって,彼女はたまたま再会した幼馴染であり,なぜか自分に好意を持っており,自分にアプローチしてきてすぐにセックスする.ヘミは男の理想を具現化したような存在であり,これは,彼女がジョンスの妄想であることを示唆している.

(2) ジョンスはなぜかヘミの過去について何も覚えていない.昔,ヘミのことをブスだと言ったことを覚えていないし,井戸に落ちた彼女を彼が見つけたエピソードも覚えていない.井戸のエピソードについては,ヘミの家族が,そんなことは起きていないし,そもそも井戸なんてないよ,と言うシーンもある.これもやはりヘミの非実在性を示唆しているように思える.(ヘミの家族が実在しているじゃないかと言われるかもしれないが,それは重要ではないと思う.このような作品において重要なのは,論理的整合性ではなく暗示である)

(3) 序盤で,ヘミが蜜柑の皮を剥くパントマイムをするシーンがあるが,そこで彼女は,「蜜柑が存在しないことを忘れる」のがコツだと言う.これは,ジョンスも同様にヘミが存在しないことを忘れていることの暗示に思える.

(4) ヘミが飼っている猫が存在しているのかどうか,はっきりしない.この猫の存在の曖昧性は,ヘミの存在の曖昧性と重なる.

ヘミが実在しないのであれば,ベンも実在しないんじゃないかという疑いも出てくる.実際,ベンもかなり不自然なキャラクターである.彼はお金持ちのイケメンであり,女性にモテて,ポルシェを乗り回し,仕事をせず遊んで暮らしている.このような外面的な属性を色々持っているものの,彼の内面は全くの空白である.それは彼が,生身の人間というよりは,ジョンスがなりたいけどなれない男性の象徴だからではないか.ヘミがジョンスにとっての女性の理想像であるように,ベンはジョンスにとっての男性の理想像なのだ.

このように,主人公以外の登場人物が,主人公の内面世界の比喩として機能することは,村上春樹の作品によくある.例えば『スプートニクの恋人』におけるKとすみれが同一人物なのは,分かりやすいと思う.あれは行方不明になった自分の分身を探し求め,最後に再会するという物語だ.それに対して『バーニング』では,ジョンスは自分の分身であるベンを最後に殺してしまう(それがどういう意味を持っているのかはよく分からないが)

ところで,ジョンスが最後にベンを殺しに行く直前,ヘミの部屋で,何かを決心したような面持ちでパソコンに文章を打ち込むシーンがある.小説家志望のジョンスは,小説をどのように書くべきか,それまでずっと迷っていたものの,それをようやく書き上げたわけだ.その直後に彼が取る行動は,実は小説の中の出来事なのではないかと思わせるシーンだが,そう考えると,ますます現実と主人公のフィクションの境界が曖昧になっていく.

中盤で,ヘミが「メタファーって何?」とベンに聞くシーンがある.それに対してベンは,「それはジョンスに聞いた方がいいんじゃない?」と答える.両者ともジョンスの内面世界のメタファーだとすれば,この台詞は頷ける.