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2011年5月2日月曜日

【書評】 科学哲学入門 : 知の形而上学 (中山康雄)

はっきり言って、この本のタイトルに「入門」の文字を入れるのは新手の詐欺だと思うが、幸いにして僕自身はこの分野の基礎的な知識は一応既にあったので、本書は大いなる知的興奮を齎してくれた。(正直論理学の部分は未だ理解していない自信があるが)。初学者にはとてもお勧めできないが、科学哲学にある程度馴染みのある人なら、本書は素晴らしい知的体験を提供してくれると思う。

本書は、第一部「科学哲学小史」と第二部「科学と文化」によって構成されている。第一部では、これまでの科学哲学の歴史を、クーンのパラダイム論を軸に描き出すとともに、科学哲学の基本的な「問題群」を提示する。そして第二部では、第一部での議論を踏まえ、中山氏がそれらの問題に独自の回答を与えていく。具体的には、中山氏は唯名論的な世界概念に基づく実在論の立場を主張する。この独自の世界概念の提示が本書の最重要箇所にして醍醐味なので、その詳細を以下に検討していきい。

【形而上学的実在論の検討】

中山氏は、パトナムやサールの議論を踏まえながら、形而上学的実在論を、以下の三つのテーゼを満たす立場として定式化している。

(1a) [外部世界に対する実在論 (external realism, ER)] 世界(あるいは、実在または宇宙)は、世界についての私たちの表象とは独立に存在している。

(1b) [特権化された概念図式 (privileged conceptual scheme, PCS)] 実在を記述する唯一の概念図式が存在する。

(1c) [真理の対応説 (corresponding theory of truth, CTT)] 信念や言明という表象は、事物 (things)が現実においてどのようなものなのかを表象するためのものである。これらの表象が成功したり失敗したりするのに対して、それらの表象は真だったり偽だったりする。これらの表象が真なのは、それらが現実における事実に対応しているとき、かつ、そのときに限る。

このような形而上学的実在論を掲げている代表的な著書が、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考 (Tractatus Logico-philosophicus)』である。

さて、これに対し科学的実在論とはどんな立場なのだろうか?中山氏はまず戸田山和久の議論を参照する。戸田山は、『科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる』において、「独立性テーゼ」と「知識テーゼ」の二つのテーゼを満たす立場として科学的実在論を特徴付けている。

(2a) [独立性テーゼ] 世界は、人間の認識活動とは独立に存在する。

(2b) [知識テーゼ] 人間は、科学によって世界の秩序について知りうる。

(2a)独立性テーゼは、(1a)外部世界に対する実在論に対応する。しかし、知識テーゼについては、実はもっと微妙な問題が絡んでいると中山氏は指摘する。というのも、戸田山は「反実在論」を「独立性テーゼを認めるが知識テーゼを認めない」立場として定式化しているが、反実在論は知識テーゼを観察不可能な対象(電子や波動関数など)についてのみ拒否する。マクロな物体の振る舞いや法則については知りうるが、観察不可能な理論的対象についての語りを含む科学理論が、世界についての文字通りの真理を語っていると信じる根拠はない、というのが反実在論の主張である。つまり厳密に言えば、反実在論は(1a)外部世界に対する実在論を認めつつ、(2c)真理の対応説を認めないという立場である。

これを踏まえ、中山氏は科学的実在論を以下の四つのテーゼを満たす立場として定式化する。

(3a) [外部世界に対する実在論]  (1a)と同じ。これは、(2a)の独立性テーゼに対応する。

(3b) [特権化された概念図式] (1b)と同じ。

(3c) [真理の対応説] (1c)と同じ。

(3d) 科学は世界についての特権化された概念図式を把握するという目標を持っており、この目標に絶えず近づいていく。そして、この目標に到達したときには、科学は世界についての究極的真理を表現できる。

(これに対し、反実在論者は、世界に対応した真なる理論を見出すことが科学の目的だとは考えていないのである。)

ここで注意しておかなければならないのは、科学的実在論は物理的事実にのみ適応可能だということである。中山氏は本書において、事実を「物理的事実」、「社会的事実」、「内省的事実」の三種類に分ける議論を行っている。

(4a) [物理的事実] 物理世界の中で成立している事実。人間の認識活動とは独立に成立する。

(4b) [社会的事実] 集団Gの共有信念に依存して成立する事実。

(4c) [内省的事実] 内省の主体である合理的行為者の心的状態に依存して成立する事実。内省的事実が成立するのは、行為主体Sがその内省的事実が成立していると信じているとき、かつ、そのときに限る。

この三区分は、デイヴィドソンの言う「客観的」、「間主観的」、「主観的」の区分けと対応するように思われる。そして、独立性テーゼは社会的事実、内省的事実については明らかに成立しない。だから、科学的実在論はあくまで自然科学のみに関するテーゼなのである。

さて次に、中山氏は、科学的実在論を回避しつつ、 社会構成主義(科学知識は社会的に構成されるという立場。つまり、(2a)独立性テーゼも(2b)知識テーゼも否定する立場)を拒否する「第三の選択肢」を探るため、サールの議論を参照する。ジョン・サール (John Searle 1932-)は、実在と表象に関する以下の六つのテーゼを定式化している。

(5a) [外部世界に対する実在論] (1a)と同じ。

(5b) どのような表象も志向性を持っている。信念や知覚は内在的志向性 (intrinsic intentionality)を持ち、地図や文は派生的志向性 (derived intentionality)を持つ。

(5c) [真理の対応説] (1c)と同じ。

(5d) [概念相対性 (conceptual relativity, CR)] 語彙や概念図式などの表象システムは、人間が作り出したものであり、その点において恣意的なものである。同一の実在を表象するのに、複数の異なる表象システムを用いることが可能である。

(5e) 実在の真なる表象を得ようとする努力は、文化的影響を受ける。

(5f) 知識を持つことの本質は、正当化や証拠を根拠にして真なる表象を持つことにある。だから知識は、認識的意味において客観的である。

ここで重要なのは、サールが(1b)特権化された概念図式のテーゼを拒否し、その代わりに(5d)概念相対性のテーゼを導入している点である。ただし、この試みを成功させるためには、(5d)概念相対性のテーゼと(5c)真理の対応説が両立するような世界概念をサールは提示しなければならないが、中山氏によると、サールの著作の中ではこのような世界概念は充分明らかにされない。これを補完するために、中山氏は独自の世界概念である「唯名論的世界概念」を提示する。

【唯名論的世界概念】

中山氏は、(1a)外部世界に対する実在論のテーゼと、(5d)概念相対性のテーゼを明確化するために、以下の五つのテーゼから成る独自の唯名論的世界概念を提示する。

(6a) [外部世界に対する実在論]  (1a)と同じ。

(6b) 世界は、分割可能な構造を持っている。

(6c) 世界の諸分割の間に、部分・全体関係 (part-whole relation)が成立する。

(6d) [古典的メレオロジー (classical mereology)] どのような複数の対象にも、それらのメレオロジー的和が存在する。ただし、メレオロジー的和というのは、複数の対象を融合させてひとつの対象と見なしたときの融合体 (fusion)のこととする。

(6e) [世界内存在] 知覚主体は、世界の部分として存在する。

さらに、世界の分割可能な構造について、以下のテーゼを提示する。

(7) [概念図式の適用] 世界の分割は、概念図式の適用により可能となる。

これは、ウィトゲンシュタインの『論考』とは決定的に異なる世界観である。『論考』では、何が対象であるかは、人間の認識活動からは独立して世界の側ではじめから与えられていた。これに対し(7)に従えば、そのような世界の対象は、人間が概念図式を適用し、世界からその部分を切り取るという作業によって与えられることになる。この(7)により、(5d)概念相対性のテーゼが保障される。

例えば、「犬」や「猫」といった普通名詞を含んでいる日常言語と、「細胞」という普通名詞を含んでいる生物学の言語では、切り取っている世界の「部分」が異なるが、同じ対象を指している。この場合、日常言語は細胞の融合体としての「犬」「猫」を指しており、これを生物学の言語に「翻訳」することが可能である。このように、異なる仕方やレベルで対象を記述する複数の語りの実践が並存することが可能であり、このことが(5d)概念相対性のテーゼを可能にする。

次に、中山氏は、タルスキの真理の定義に依拠することによって、(5c)真理の対応説と(5d)概念相対性のテーゼが両立することを示そうとする。アルフレト・タルスキ (Alfred Tarski, 1901-1983)は『形式化された言語における真理概念』において、メタ言語と対象言語を区別することによって自己言及のパラドックス(嘘つきのパラドックス)を回避し、真理の概念を定義することに成功した。彼は、対象言語について語るメタ言語を導入することにより、これを用いて対象言語の真理概念を規定するのである。

例えば、数学では集合論の言語が要素に対するメタ言語として前提にされるのが常である。この方法を、私たちの日常的な言語についても適用できる。例えば量子力学も相対性理論も生物学の言語も日常言語も、すべて実在する世界について語るものであるが、世界の対象領域の中から関心のある対象だけを切り取って記述していることになる。そのため、ある言語に属する文の真理について語るためには、類名辞(sortal term, 対象を分類するために用いられる普通名詞)を含んだ概念図式の使用により、メタ言語において対象を特定しておかなければならない。つまり真理概念は世界そのものに直接適用されるのではなく、メタ言語を用いてあらかじめ分節化された世界の構造に関して適用されるのであり、その分節化はメタ言語に含まれる概念に相対的になされるのである。このようにして、唯名論的世界概念を用いれば(5c)真理対応説と(5d)概念相対性のテーゼが両立するということを示すことが出来る。

【語りの多元性と物理主義】

人間が用いる言語は多層的に重なっている。量子論の言語も、生物学の言語も、日常の言語も、宇宙論の言語も、それぞれ独自の類名辞によって世界に存在する対象を個別化している。

さて、中山氏は、デカルトのような二元論を避けるため、他の多くの分析哲学者と同じく、物理主義の立場を取る。

(8) すべての物的対象は、物理学の法則に従う。

物理学の言語は、素朴物理学言語(日常の物体について語る言語)よりも豊かな存在論を持っている。つまり、素朴物理学の対象は、素粒子などの物理学が記述する対象から構成されていると考えることが出来る。私たちは、素朴物理学言語において様々な物体の融合体の相互作用について記述する概念図式を編み出してきたが、それらの記述が有効であるならば、なぜそれが有効なのかの説明は、原理的には物理学の法則で説明可能なはずだということが帰結する。これによって相対主義的な存在論が回避できる。

それでは、 物理主義はどのようにして多元的言語論と整合するのだろうか?これを説明するために中山氏は、「付随性 (supervenience)」という概念に依拠する。「付随性」の厳密な定義は、以下のように与えられる。

「起こりうるどの二つの状況を考えても、性質Bに関して異なりながら、性質Aは同一だ、ということがない」ならば、性質Bは性質Aに付随 (supervene)している。

例えば、言語Aを脳の物理的な状態について記述する物理学の言語、言語Bを素朴心理学言語(日常の心について語る言語)、性質Aを言語Aによって表現される性質、性質Bを言語Bによって表現される性質とする。このとき、性質Bが性質Aに付随するというのは、性質Aを完全に同じくする二つの対象は、性質Bも完全に同じくする。つまり、言語Aにおけるあり方(=脳の物理的な状態)を確定すれば言語Bにおけるあり方(=心的な状態)も確定する、という関係である。

この「付随性」の概念に依拠することによって、物理主義と多元的言語論を両立させることができる、と中山氏は論じる。ただしこのとき、物理言語を数ある言語のうち存在論的に基礎になる言語とする。また、物理言語がすべての単体としての対象を描写できたとしても、融合体としての対象の多くを語るためには、私たちは他の言語を必要とし、そのために(5d)概念相対性のテーゼが許容されるのである。


【唯名論的世界概念の検討】

さて、以上の中山氏の議論を検討してみたい。そのためにまず、(1b)特権化された概念図式のテーゼと(5d)概念相対性のテーゼの関係を明確化したい。というのも、中山氏はまるでこれら二つを背反する主張であるかのように扱っているが、私にはこの二つが両立するように思えるからだ。

中山氏による科学的実在論の定式化における(3d)「 科学は世界についての特権化された概念図式を把握するという目標を持っており…」とあるように、特権化された概念図式というのは、人間の認識活動からは独立して世界の側にあらかじめ存在するものであると考えられる。一方、(5d)概念相対性のテーゼ、及びそれを保障する(7)概念図式の適用テーゼも、あくまで人間の認識活動について語っている。つまり、唯一の正しい特権的な概念図式の存在を主張する(1b)と、複数の異なる恣意的な表象システムの並存を主張する(5d)は両立する。

実は、このことを中山氏は「物理主義」採用の際に暗に前提しているように思う。というのも、(8)のテーゼ「すべての物的対象は、物理学の法則に従う。」は、唯一の正しい一貫した物理学の法則の存在を前提にしているからだ。このことは、「それら(融合体の相互作用について語る様々な概念図式)の記述が有効であるならば、なぜそれが有効なのかの説明は、原理的には物理学の法則で説明可能なはずだということが帰結する。」と主張している点からも窺える。つまり、中山氏は物理学の法則に基づく絶対的な存在論(=特権的な概念図式)を主張しているのである。

しかし、ここ一つ問題が現れる。それは、中山氏の提示する唯名論的世界では、メタ言語における対象の記述は、「完全な形」で対象言語における記述への「翻訳」が可能なのか、それとも翻訳には「不確定性」が伴うのか、という問題である。言い換えれば、還元主義を認めるか否か、ということになると思う。非物的な対象についての語り――つまり内省的事実や社会的事実に関する記述――と物理言語との関係については、中山氏は「付随性」の概念に依拠しており、はっきりと「非還元的」を明言しているが、物的対象について語る言語間の関係については、いまいちはっきりしないのである。(化学の言語は物理学の言語に「付随」しているのか、生物学の言語は化学の言語に「付随」しているのか?)

もし「還元的」であるとするならば――つまり生物学の言語を化学の言語に、化学の言語を物理学の言語に「ノイズ」なく翻訳可能なのだとすれば――「科学的実在論」を回避するという当初の目的とは裏腹に、「科学的実在論」の世界観が帰結するように思われる。というのも、物的対象に関する全ての語りを物理学の言語に難なく翻訳できてしまうことになり、それはもはや多元的な言語間の翻訳ではなく、いわば「分数から少数」への機械的な翻訳であるために、複数の異なる言語がたとえ存在したとしても、実質同一の言語と見なしうるような事態が起きてしまう。還元的な世界観では、概念図式はただ一つに収束してしまうのであり、これはもはや「科学的実在論」の世界観とあまり変わらない。実際、(2a)特権化された概念図式と(5d)概念相対性のテーゼが両立することを私が示した今、「形而上学的実在論」の条件となる(1a)、(1b)、(1c)は全て満たされている。これに(3d)を加えることができるならば、これはもはや「科学的実在論」の成立を意味している。中山氏が提示する「唯名論的世界概念」では(3d)が成立するのかどうかは充分明らかにされていないが、私の理解では、とりたてて矛盾するようには見えない。

逆に「非還元的」であるとするならば、今度は(8)「物理主義」のテーゼの成立が危うくなるように思われる。化学と物理学の関係、あるいは生物学と化学の関係を「付随性」で規定するにせよ、「創発」で規定するにせよ、これら多元的な語りを物理学の言語に翻訳できないとなれば、物理主義のテーゼ「すべての物的対象は、物理学の法則に従う。」が成り立たなくなってしまう可能性がある。もし中山氏が(1c)真理の対応説を採用していなければ、(8)「物理主義」のテーゼは完全に世界の側の事実――つまり人間の認識活動からは独立した実在――についての記述として解釈されることが可能だったが、現に中山氏は(1c)真理の対応説を採用しているので、世界の側の事実は人間が作り出す概念図式の表象と対応しているはずであり、したがって世界の側の物的対象がすべて物理学の法則に従うのであれば、人間が作り出す化学や生物学の言語も同様にすべて物理学の言語に翻訳可能でなければおかしい。そこに「付随性」や「創発」などの概念を持ち込むのは、矛盾すると考えられる。

(ただし、非物的な対象に関する語り――「心」についての語り、政治についての語り、経済についての語り、宗教についての語り、など――は物理言語に「付随」しているということなので、これらについては矛盾しないと考えられる。)

以上より、中山氏が提示する唯名論的世界概念は、科学的実在論の世界観と両立するように思われる。それはそれとして首尾一貫した世界観であり、問題ないと思う。しかしこの試みは、科学的実在論とは異なる世界観を提示するという当初の目的とは相容れないものであり、むしろ科学的的実在論の中に包摂されてしまうように思われる。

この問題――つまり「科学的実在論」を拒否しつつ、同時に「反実在論」や「社会構成主義」も退け、物理主義的な世界観を保持するにはどうすればいいかという問題――を克服するために、私は(1c)真理の対応説を放棄し、代わりにデューイらプラグマティストの「真理の実用説」に依拠した独自の世界概念を提示したいが、その明確化はまたの機会に委ねたい。

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