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2011年6月30日木曜日

【書評】 科学哲学の冒険 : サイエンスの目的と方法をさぐる (戸田山和久)

本書は科学哲学の入門書である。理系少女のリカちゃん、フランス現代思想オタクのテツオくん、そして科学哲学の教師「センセイ」の三人による会話形式で進んでいく。非常に読みやすいだけでなく、内容も濃い。

著者の戸田山氏は明確に科学的実在論の立場を表明しており、本書は一貫してこれを擁護するための論陣を張っている。より厳密には、観察不可能な物理的対象については実在論、それらの対象の振る舞いを記述する法則については反実在論を取る「対象実在論」(介入実在論)の立場を取っている。

もともと科学的実在論にシンパシーを寄せる私としては、 著者の科学観には共感できた。しかし同時に、戸田山氏は本書全体を通して、ガチガチのロジック・ゲームばかり展開していて、問題の核心から(無意識的に)逃げているような印象を受けた。これはむしろ実在論論争全体について言えることかもしれないが、「論理」の力を偏重するあまり、「論理的可能性A」と「論理的可能性B」の間にある暗黙的次元を徹底的に無視しているように思う。「科学という営みは、実際に世界について理解できる試みだ」という素朴な直感を擁護したいのであれば、「常識」から離床した高尚な哲学的議論から一度身を引く必要があるのではないか。というのも、直感的な「常識」はロジックの両極致にあるのではなく、その中間の暗黙的次元にあるからだ。

そもそも「真理」なる概念は科学哲学において必要なのであろうか。実在の「真」の姿に超越的な意味を付与するからこそ話がまだるっこしく、不毛になるのではないか。もともと科学的実在論の最大の強みは、それが素朴な直感に訴えることだと思う。これに対して反実在論は、純論理的な議論に訴えることによって、人間の感覚器官では直接アクセスできない領域についての我々の知識を自ら狭めてしまう。まさに、反自然的で捻くれた態度と言えよう。彼らはいわば、論理偏重主義と言語の物象化で頭が凝り固まってしまっているのである。そして、反実在論者たちに対する戸田山氏の議論も、残念ながらこの同じ地平上で為されている。その成否如何を判断するだけの用意は私にはないが、いずれにせよ問題の核心からは一貫して逃走しているのは分かる。反実在論相手には、彼らとは別のゲームで挑まなければならない。

科学的実在論の素朴な科学観を無益な懐疑から守る鍵は、他ならぬ懐疑論の泰斗ヒュームにあると思う。 ヒュームは、帰納には合理的な根拠はないという徹底的な懐疑論を展開し、これが「ヒュームの呪い」として本書で繰り返し登場している。しかし、戸田山氏も終盤で述べている通り、この「呪い」は他ならぬヒューム自身によって既に解消されていた。「呪い」なんて最初からなかったのである。というのも、ヒュームは、帰納の基礎にあるのは「習慣」(custom and habit)によって形成された心の癖のようなものであると結論しているからである。言い換えれば、我々人間にとって「帰納」は意識的な推論形式である以前に、生活そのものを可能にする暗黙的な心的メカニズムなのである。もし明日も太陽が昇るかどうか毎日悩んでいては、我々は日常世界を生きていけない。帰納は、繰り返し生起する事象やパターンを、いったん「自明」と見なすことによって、無駄な思考や心配を減殺してくれるのである。

反実在論者は、 帰納のこの暗黙的な作用に気付いていない。もし首尾一貫したいのであれば、反実在論者はオバマ大統領の実在も疑わなければならないだろう。というのも、我々がテレビ画面の向こう側でしか見たことのないオバマ大統領の実在を信じて疑わないのは、「テレビ」の果たす機能や、我々の周囲にいる人間の振る舞いを、帰納によって「自明」なものとして認めているに過ぎないからだ。そして、電子や波動関数といった知覚不可能な物理的対象と、オバマ大統領との間に本質的な違いはないように思われる。もしあるというのであれば、反実在論者はその根拠を示さなければならないだろう。(私に言わせれば、そのような根拠を提示すること自体、既に言語の限界を超越してしまっているが。帰納の暗黙的作用は、その具体内容が明文化不可能だからこそ「暗黙的」なのである。)

本書の終盤で戸田山氏は、「自然主義」の立場から実在論を擁護していて、私もこれに共感できた。むしろ、実在論を擁護するにはこの自然主義的な態度だけで十分であるようにも思える。科学者が電子や波動関数が「存在する」と言うのであれば、その「存在する」が哲学的な意味での「存在」なのかどうかを追及せず、黙ってそれを受け入れるだけでいい。かくして、我々は「真理」や「実在」を巡る、ありもしない哲学的難問から解放されるのである。

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