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2011年8月11日木曜日

ヒュームにおける「知覚」概念の問題

ヒュームは自然の斉一性(自然界において同じような事象やパターンが繰り返し生起すること。因果論の文脈では経験の「恒常的連接」、自由意志論の文脈では「柔らかい決定論」とも言われる)を認めるが、そもそもなぜこのような斉一性が存在するのか、ヒュームは全く説明を与えない。おそらくこれは、ヒュームはあくまで「人間学」者だったからだろう。これが「自然科学」者ライプニッツとを決定的に隔てるところであるように思う。

さて、ヒュームは「実体」の概念を、主観的連想の産物と見なす。例えば、ある船の部品を全て入れ換えた後にも、その船に同一性の観念を帰せしめるのは、専ら人間の側の恣意的な連想作用(船が果たす役割等に基づいて)である。この議論は全くその通りだと思う。いわば、対象の切り出し方に観察者の任意性を認める唯名論的な立場である。しかるに、その船を構成している原子や素粒子はどうだろうか?これらもやはり、経験の繰り返しによって結合・投影された主観的連想の産物なのだろうか?理解をあくまで経験の束に求めるヒュームのテーゼを真面目に受け止めるならば、おそらくそういうことになるだろう。私もこれに異存はない。

しかし、この唯名論的な議論を徹底するならば、我々の世界認識は「底抜け」てしまう。この世の全てが主観的連想の産物に過ぎないのだとしたら、そもそもなぜそのような「実体」(のようにしか見えない何か)が我々の眼前に存在するのか、説明できなくなってしまう。これは先に述べた斉一性の問題と全く同じ種類の問題である。自然界の事物は明らかに我々の前に存在しているし、明らかにある種の構造性ないしパターン性を有しているように見えるが、ヒュームの体系はこれを一切説明できない。

ヒュームの最も根本的な問題は、「知覚」の成立根拠を示さないまま、あらゆる実体を「知覚」に解消してしまうところだ。そうすることによってヒュームは、「知覚」という別の実体を想定してしまっているのである。しかもこの実体は、何もない空虚の中で宙吊りになっている。我々が認識する因果性も実体も自我も全て「知覚の束」だというヒュームのテーゼに私は賛同するが、「知覚」という概念を無責任に空中に放り投げることは避けたい。この問題を解決するのが、私はライプニッツのモナド論だと思っている。(スピノザもかなり近いが、如何せん神学的・形而上学色彩がライプニッツより強いので解釈に困る)。

ライプニッツにとってモナド(スピノザにとっては神)は、世界に存在する唯一の究極的実体である。それ以外の実体は全て、最終的には無数のモナドに分割することが出来る。(スピノザにおいては、神以外の実体は全て神の「様態」である)。いわば、ヒュームが全ての実体を解体するために「知覚」を前提したのに対して、ライプニッツは「モナド」を(スピノザは「神」を)前提するのである。

さて、ライプニッツの「モナド」を唯一の究極的実体と見なすことによって、我々はヒュームの唯名論的な実体観(実体の観念は人間認識の恣意的な連想の産物である)を、無限発散から救出することが出来る。船という実体は確かに、主観的連想の産物であり、実在的ステータスを持つものでは決してない。原子や素粒子も同様である。しかしこのように事物を分解していくと、いずれ「宇宙を構成する最小単位」という究極的実体に突き当たらざるを得ない。否、我々の知覚活動から独立した何らかの「実在性」を認める世界観を維持しようとする限り、想定せざるを得ないのである。このようにして「モナド」(現代の物理学の用語に即して言えば、11次元の振動する膜になるのか、プランク長さのタイル四枚によって運ばれる1ビットの情報になるのか、今のところ分からないが、ここではとりたてて重要な問題ではない)が、ヒューム体系に自然科学的な概念枠組を付与し、また同時にヒュームの「知覚」概念を空疎な宙吊り状態から救出するのである。

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