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2011年12月18日日曜日

ハイエクの自生的秩序概念と目的独立性について

ハイエクの自生的秩序概念に関して、読書会で「設計主義的な伝統が自生的に生じることはありえないのか」という質問があった。これは私自身もハイエクに初めて触れたときに抱いた疑問で、彼の自生的秩序概念を理解する上で非常に重要な疑問だと思うので、本稿を機会に詳しく説明してみたい。結論から言うと、ハイエクは秩序の起源としての自生性をやみくもに絶対視するのではなく、むしろ自生的起源に伴うことが期待される「目的独立性」(purpose-independency)を重視するのである。自生的に進化してきた暗黙的なルールであろうと、明文化され権力によって担保されたルールであろうと、ハイエクにとって重要なのは、そのルールが目的独立的な秩序を生み出すものであるかどうか、である。では、目的独立的な秩序を生み出すルールとは、具体的にどのようなルールであろうか。
ハイエクによれば、あるルールが目的独立的な秩序を生み出すルールであるためには以下の性格を備えていなければならない。すなわち、(1) 特定の集団を優遇しないという意味で「一般的」(general)であること、(2) 目に見える具体的な帰結を追求しないという意味で「抽象的」(abstract)であること、(3)「~せよ」と積極的なオブリゲーションを課すのではなく「~するなかれ」と特定の行為を禁止する形態をとるという意味で「消極的・否定的」(negative)であること。これらは相互に含意し合うので、一つの条件を満たしていながら他の条件を満たしていないルールを想定することはおそらくできない。むしろ、これらは目的独立的な秩序を生み出す諸ルールが共通して備えているべき異なる側面を描いたものと見なすのがいいだろう。他方の「目的依存的」(purpose-dependent)な秩序(コスモスと対比された意味でのオイコス)の諸ルールは特殊的・具体的・積極的なのであるが、この「オイコス図式」を、特定の目的を持たない単なる「場」であるはずの市場秩序=カタラクシーに適用し、これをある統一的なコード(これは同時に主観的なコードでしかありえない)の元に解釈しようとするのが、設計主義の錯誤に他ならない。
さて、ここで冒頭の質問に戻ろう。ハイエクにとって重要なのは起源としての自生的性格そのものよりはむしろ秩序の目的独立性であることが分かった今、我々は「自生的に生じた設計主義的な伝統」を忌憚なく「設計主義」の陣営の方に括ることができよう。というのも、(起源としての自生性ではなく)目的独立性こそがハイエクにとって設計主義/非設計主義を区別するメルクマールに他ならないからだ。しかし、ここでもう一つ別の疑問が提起されるかもしれない。つまり、「目的独立的なルールが、純粋な熟慮に基づいて設計されることは可能かどうか」という疑問である(土井 2010)。ハイエクが重視するのが専らルールの目的独立性であるならば――つまりルールの起源としての自生性が重要でないならば――そこから導かれる秩序はもはや「自生的秩序」である必要すらないのではないか、ということである。
この疑問に対してハイエクは「庭師」の比喩で答えるであろう。
農夫や庭師が植物を栽培する(cultivate)場合、彼は決定環境の一部しか知らずそれを管理(control)できない。そしておそらく、賢明な立法者や政治家も、社会的過程の力を管理するのではなく、むしろ養成する(cultivate)ことを試みるであろう。(Hayek 1967)
人間が植物の成長を促すためにできることと言えば、水を与えたり、日光を確保するなどの「適切な条件整備」しかない。この「適切な条件整備」は、過去の庭師たちの試行錯誤の末に編み出された経験的な知識によるものである。ハイエクが否定するのは設計主義的発想に基づく「ゼロからのルールの制定」であって、ルールの整備に人為的な要素が加わること自体を否定しているわけでは決してない。この点に関して、複雑系研究者スチュアート・カウフマンの記述が示唆的である。
もし凍結した秩序状態に系が深くはまりすぎてしまうと、柔軟性が足りなくなって、成長に必要な遺伝的活動の複雑な連鎖が調和的には働かなくなる。逆に、もし気体的なカオス状態に系が深くはまりすぎてしまうと、十分に秩序化することができないであろう。カオスの縁――秩序と意外性の妥協点――の近辺にあるネットワークが、複雑な諸活動を最も調和的に働かせることができるし、また進化する能力を最も兼ね備えているのである。(Kauffman 1995)
カウフマンの言うように進化の源泉がカオスの縁にあるのだとすると、我々はそのようなカオスの縁を社会の中に作為的に作り出すことによって進化を促すことさえできるかもしれない。最後に、橋本努の言葉で締めたい。
「庭師」の理性は、庭の手入れによって、そこから生じる未来の秩序を、後見的なものとして発見するのである。自生化主義の庭師は、庭の帰結をデザインするのではなく、予期しえない進化を含めて、植生の生成過程が自生的であることに喜びを見出している。彼は、「よりよい庭」を目指して介入するが、しかし何がよりよい庭であるのかについては、つねに問題化しながら、生成の過程に関わりつづける。(橋本 2005)
【参考文献】
  • 土井崇弘 (2010) 「ハイエクの自生的秩序論と進化論に関する予備的考察」『中京法学』44(3・4), pp.291-321.
  • 橋本努 (2005) 「ポスト近代社会の進化論:社会の発展は自生化主義で見よ」『理論戦線』no.80, 2005 Summer, pp.124-145.
  • Hayek, F.A. (1967) Studies in Philosophy, Politics and Economics, Chicago: University of Chicago Press.
  • Kauffman, Stuart (1995) At Home in the Universe: The Search for Laws of Self-Organization and Complexity, New York: Oxford University Press 〔米沢富美子監訳『自己組織化と進化の論理―宇宙を貫く複雑系の法則』日本経済新聞社,1999年〕.

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