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2012年8月7日火曜日

ライプニッツのパースペクティヴィズム

ライプニッツの哲学を一言で形容するとすれば、それは「視点」(パースペクティヴ)の哲学である、と言えるように思う。世界を眺める視点である「モナド」の概念を導入することによってライプニッツは、デカルトとスピノザによって破壊されてしまった「世界の意味」を修復しようとしたのである。本稿では、「観測の形式」と「観測の内容」という概念装置を通して、ライプニッツの企てを粗描してみたい。

まず、「観測の形式」と「観測の内容」について説明する。[1] 「観測」とは、何らかの視点から世界を眺める(認識する)ことである。観測には常に「形式」と「内容」がある。観測の「形式」とは、観測主体と観測対象とが結び付けられているインターフェイスのあり方である。具体的には、観測主体自身が観測対象の一部である「内部観測」の形式と、観測主体が自身とは切り離れた対象を俯瞰する「外部観測」の形式がある。他方の「内容」とは、文字通り実際に観測主体が観測する世界の内容である。

【観測の形式】

さて、少なくとも我々が生きているこの世界においては、観測の形式と観測の内容はパラドクシカルな関係にあることを示したい。「私」が観測主体で、私が世界を観測するとき、私は当然世界の一部であるから、私が行うどんな観測も本質的には内部観測でしかありえない。これは、「私」という観測主体に関する端的な事実である。観測の内在性からは、自己言及の無限後退性が帰結する。この点について、「意味を見出す」システム(体系)という観点から考えてみたい。システムによる自己言及という論脈で、経済学者・哲学者であるF・A・ハイエクは以下のように述べている。

もし“意味を持つ”ということが、我々が他者と共有する何らかの秩序において何らかの位置を占めるということであれば、この秩序自体は意味を持ちえない。というのも、この秩序自体は自分自身において何らかの位置を占めることができないからである。[2]

ここで、「意味」を見出す働きを「観測」と同一視して差し支えないだろう。さらに、意識を総べる超意識的ルール(supra-conscious rules)について、ハイエクはこう述べる。

意識にはその時点の状態では伝達することができないルールが常に存在するが、もし意識がこれらのルールを伝達する能力を獲得したとしても、今度はより高次のルールを獲得した、ということを前提とするだろう。これらより高次のルールは前の時点でのルールを伝達可能にするが、それ自体はやはり伝達不可能でしかありえない。[3]

ここでハイエクの言う「ルール」とは、神経インパルスの振る舞いを決定する生理学レベルの法則性である。ここで重要なのは、意味を見出すあらゆるシステム(意識はその一例である)は、自分自身を対象化することができないがゆえに――対象化できたとしても、その対象化の作用自体もシステムの作用の一つに他ならないため、今度はそれを対象化することができず、無限後退に陥る――、ある決定的な仕方で自分自身の内部に「トラップ」されている、ということである。いわば、システムの外部を明示化しようとするあらゆる試みが、絶えずその内部に回収され続けてしまうのである。「物自体」は認識しえないとするカントの洞察や、「語りえない」ことをめぐるウィトゲンシュタインの思索も、すべて同一の問題、つまり観測の内在性の問題の変奏であるように思われる。

【観測の内容】

他方で、観測の形式とは独立に、観測には「内容」がある。我々の世界においては、局所的にではあれ外部観測を行うことができる。外部観測の視点は、世界と、世界を眺める観測主体自身をまとめて俯瞰する視点である。そして我々の世界においてはなぜか、外部観測の視点によって得られる世界についての知識は、ほとんど完全と言っていいほど一意的に決まっている。一意的に決まっているというのは、観測主体である「私」に類似した個体が観測され、さらに、これら類似した諸個体が、「私」が観測する世界の内容とほぼ一致した世界についての知識に基づいて振る舞っているように見える、ということである。より抽象的に言えば、「私」が観測する世界の内容には斉一性(高い蓋然性で予測が実現するような、回帰的なパターン)が存在している、ということである。私は勝手に新たな概念を創造したり、既存の概念の意味を改変したりすることはできない。私が保持している諸々の概念を放棄すれば、他者とコミュニケーションが取れなくなるばかりでなく、自然界において観測される様々な現象に対処することができなくなってしまい、端的に言えば私は死んでしまう。こうして、意味を規定する対象として何らかの形で外部世界を想定する必要がある。私が見出す意味の総体を「意味空間」と呼ぶとすれば、私の意味空間自体は無根拠でしかありえない(私は自分の意味空間内部にトラップされており、自分自身を根拠付けることはできないから)。そうであるにも関わらず、まるで透明な論理的強制力に服してしまっているかのように、私は意味を遂行的に了解している。世界は圧倒的な必然性の感覚を伴って私の前に現れている。この透明な論理的強制力に相当するのが外部世界である。[4] 世界の唯一性・斉一性・必然性は、観測の形式には還元できない、この世界に関する端的な事実である。

さて、観測の形式に特権を付与し内容を無視すれば素朴な観念論に、観測の内容に特権を付与し形式を無視すれば素朴な実在論になる。前置きが長くなったが、本稿で私が言いたいのは、ライプニッツの哲学は、この両者を非常にうまくバランスした立場だ、ということである。認識と存在は因果的に循環している。つまり、世界は認識されて初めて存在できる一方で、認識活動は世界が存在して初めて可能になる。ライプニッツは勿論こういう言い方はしていないにせよ、自由と必然、あるいは「私」と世界の究極的な意味のどちらか片方を諦めることなく、二者を両立させようとする彼の企ては、まさにこうした、認識と存在のパラドクシカルな相互含み込みの構造そのものに根差していると言えるのではないか。

【連続体合成の迷宮とデカルト

デカルトはどちらかといえば観測の形式に特権を付与する哲学者だったと言えよう。しかし、彼のコギトはもはや世界を観測する視点ではなく、世界から完全に切り離された、思惟するだけの実体である。他方の世界は、誰も観測するわけではない、広大無辺な物体宇宙に過ぎない。ライプニッツの「連続体合成」の迷宮をめぐる思索は、精神と身体、つまり「私」と外部世界の間にデカルトがもたらした分断を修復しようとする試みである。ライプニッツは、それ以上分割不可能な単一体である「モナド」の概念を導入することによってこの難問を解決する。モナドは魂であり、広がりも形もない視点である。他方で、各モナドは他のすべてのモナドを表象する。いわば、モナドは世界を眺める視点であると同時に世界を構成する要素なのである。実在するのはモナドだけであり、各モナドが表象する世界は一種の仮構に過ぎないため、世界は無限分割可能な物質世界として現れる。そして、各モナドが表象する世界の内容の未来永劫に亘る整合性を保証するのがライプニッツの予定調和のドクトリンである。この予定調和は、ライプニッツなりの、「世界の唯一性」(あるいは斉一性・必然性)の表現であるように思う。かくして、デカルトによってもたらされた「私」と世界との間の分断が修復されるのである。本稿の用語に即して言えば、「形式」優位のデカルト哲学に対して、「内容」を取り戻したのである。コギトはその特性上、永遠に自分自身の内部にトラップされている。内容なき純粋な形式は世界と関わることができない。

【自由と必然の迷宮とスピノザ】

他方のスピノザは、世界の内容に重点を置く哲学者であるように見える。そもそもスピノザには「視点」といったような概念はない。「永遠の相」のもとに万物を見るスピノザにとって、「私」は神の無限知性の一部以外の何ものでもなく、知覚のパースペクティヴは非十全な認識の帰結、つまり幻想に過ぎない。このような世界像の中で人間の自由意志はどうなってしまうのか。また、スピノザの必然主義においては、人間の自由とともに世界の「意味」そのものが消失してしまうのではないか。「自由と必然」の迷宮をめぐるライプニッツの思索は、こうした点に向けられる。この難問を解決するにあたってまず、ライプニッツは必然的真理と偶然的真理を峻別する。必然的真理の命題はその反対が矛盾を含むような命題であるが、偶然的真理、つまり事実の真理は、「他でもありうる」というあり方をしている。そして論理的に可能なあらゆる可能性を網羅した世界の集合がライプニッツの可能世界である。ライプニッツにおいては、神が、すべての可能世界の中から最善の世界を選択し、それを現実たらしめる(神による最善世界選択)。

しかし、結局神が現実をすべて決定してしまっているのだとすれば、やはり被造物たる人間には自由の余地がなくなってしまうのではないか、という疑問がなされうる。これに対してライプニッツはやはり彼独自のパースペクティヴィズムで応答する。ライプニッツのモナド、つまり世界を眺める視点は、自らの襞を一挙に開くことができない。[5] この「見通せなさ」、自分と世界の不透明さこそが、ある種の自由の余地を確保する。[6] 自由意志は、確かに神の視点から見れば幻想かもしれないが、モナドの視点から見ればあまりにもリアルな幻想なのである。こうしてライプニッツは、一方では世界の究極的理由(神がこの世界を選択した理由)を保持しつつも、他方で、我々の自由の余地も確保している。少しでもバランスを崩してしまえば直ちに不整合に陥るような、非常に微妙な間隙を狙っているのである。まさに、形式と内容の巧妙な調和である。

【自己超越と自然の斉一性】

こうしたライプニッツの哲学は説得力があるばかりでなく、非常に魅力的であるように思う。しかし、本音を言うと、私はスピノザにもシンパシーを寄せている。ライプニッツの哲学は、どことなく不安定な感じがするのだ。

我々の世界において、確かに認識と存在は因果的に循環しており、観測の形式と内容はパラドクシカルなあり方をしている。しかし、やはり形式は「幻想」だったのではないか。世界の見通せなさは、我々の認識の非十全さに由来するのではないか。とすれば、「他でもありうる」という可能世界のあり方もまた、我々の側の情報の欠落によるエフェクトに過ぎないのではないか。こう考えると、神がこの世界を選択したという究極の理由も危うくなってしまうように思われる。では、一体どうすればいいのだろうか。

大雑把な言い方かもしれないが、私は、内容が形式を包摂していく世界観を構築してみるのがいいのではないかと思う。この点を考えるにあたって、ネーゲルの「自己超越」の議論を参考にしてみたい。『どこでもないところからの眺め』の中でネーゲルは次のように述べている。

問題は、どうやって我々のような有限的な存在者が、自身の立場固有の視点から、ある種どこでもないところから世界を眺めることができるように、自身の世界把握を作り変えていくことができるのか、ということである。このどこでもないところからの視点は、そのような視点を持つ存在者がこの世界に存在していることを理解し、その視点の形成以前に見えていた世界のあり方がどうしてそのように見えていたのかを説明し、また、いかにしてそのような視点に辿り着くことができるのかを説明する。[7]

世界を完全に客観的な視点から俯瞰すること、つまり自然の無限の拡がりをその全体において把握することは、内部観測者たる我々には不可能である。しかし、我々は紛れもなく客観性の階段を少しずつ昇っていると言えるのではないか。観念論的傾向の強い最近の哲学ではほとんど強調されないが、人間という有限で偶然的な存在者が、人間固有の視点に由来する様々な見かけの印象を次第に克服し、世界はどうなっていて、どうして世界は我々に現れているように現れるのか、という説明を構築することができるのは、真に驚くべきことである。ネーゲルはこのことを「自己超越」(self-transcendence)と呼んでいる。この自己超越を織り込んだ哲学を展開することができれば、それはすなわち、内容によって形式を包摂した哲学と言えないだろうか。言い換えれば、そもそも自己超越はどうして可能なのか、と問うのである。そして、その根拠は内容の側、つまり自然の斉一性にしかないように思われるのである。

C・S・パースは言う。「人間の精神は自然の諸作用について正しい理論を推測するのに本来適している……自然は人間の精神の中に観念を豊富に産み、そしてそれらの観念が成長すると、それらの観念はそれを産んだ父なる自然と似るようになるというのは、決して単なる比喩的表現ではない」。[8] この文章に含まれる洞察を、現代の物理学、生命科学、さらには認知科学の知見を取り込みつつ、発展させることによって、ライプニッツ的なパースペクティヴィズムを包み込み、究極的にはパースペクティヴが消失するような、スピノザ的な世界像を構想することができるのではないだろうか。



[1] 「観測」という用語は、松野孝一郎や郡司ペギオ‐幸夫らの「内部観測論」を念頭に置いている。内部観測については、郡司ペギオ‐幸夫,松野孝一郎,オットー・E・レスラー『内部観測』(青土社,1997年)を参照。また、トマス・ネーゲルの議論にも多くを負っている。cf. Nagel, Thomas. The View From Nowhere. New York: Oxford University Press, 1986.

[2] Hayek, F.A. Studies in Philosophy, Politics and Economics. Chicago: University of Chicago Press, 1967, p.61.

[3] Ibid., p.62.

[4] それは、私の意味空間の外部をなす無意味な「自然」に他ならない、と私は言いたい。この点については、スピノザを扱う最後の箇所で再度触れたい。

[5] 《魂が自分自身のうちに読み取ることができるのは、そこに判明に表現されているものだけである。魂は自分の襞(replis)を一挙にすっかり開いてみることはできない。その襞は無限に及んでいるからである》『モナドロジー』第61節

[6] 《こうした事柄における神の決定は予見することができないものだから、魂はすでに実際に罪を犯してしまっている場合を除けば、自分が罪を犯すように決定されていることをいったいどこから知るというのか》『弁神論』第30節

[7] Nagel, op. cit., p.70.

[8] Peirce, C.S. The Collected Papers of Charles Sanders Peirce, Vol.5. Edited by C. Harthsorne and P. Weiss. Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1931, p.591.


【参考文献】

  • Hayek, F.A. Studies in Philosophy, Politics and Economics. Chicago: University of Chicago Press, 1967.
  • Nagel, Thomas. The View From Nowhere. New York: Oxford University Press, 1986. 〔中村昇[ほか]訳『どこでもないところからの眺め』春秋社,2009年〕.
  • Peirce, C.S. The Collected Papers of Charles Sanders Peirce, Vol.5. Edited by Charles Hartshorne and Paul Weiss. Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1931.
  • 郡司ペギオ‐幸夫,松野孝一郎,オットー・E・レスラー『内部観測』(複雑系の科学と現代思想)青土社,1997年。
  • ライプニッツ『モナドロジー・形而上学叙説』(中公クラシックス)清水富雄[ほか]訳,中央公論新社,2005年.
  • ―――『宗教哲学『弁神論』』(ライプニッツ著作集6・7巻)佐々木能章訳,工作舎,1990-1991年.

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