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2014年2月6日木曜日

近藤和敬「問題-認識論と問い-存在論」について

『現代思想』2014年01月号掲載の、近藤さんの「問題-認識論と問い-存在論」について、雑感をまとめてみました。

私の理解では、近藤さんの言う「問題」とは、Peirceの言う「指をさす」に相当する。例として、Kuhnのパラダイム論で考えてみたい。Kuhnによれば、科学革命前後の概念は通約不可能である。つまり、ニュートンにとっての質量概念とアインシュタインにとっての質量概念は全く別物である。しかし、本当の意味でこれらの概念が通約不可能なら、「通約不可能である」と言うこと自体、不可能であるはず。なぜなら、両者を比較するための共通の土俵が必要だから。同じsubject matterに関心を払っているからこそ、理論の側に断絶があっても、対象の側は断絶の前後を通して保存される(Bhaskarはこれを、科学の「他動詞」的次元と呼んでいる)。

しかし、Peirceにとっては、我々が直接触れることができるのは第三性、つまり媒介的な記号だけである。したがって保存されるものに対しては、「指をさす」ことしかできない、と彼は言う(これがindexicalの働き)。Peirceは紛れもなく観念論者だが、indexicalを導入することによって観念の網目を外部に向けて開く、「客観的」観念論者なわけだ。

さて、近藤さんは「問題」の潜勢力が「消尽」されると別の問題に移行する、と述べている(ちなみに、これをPeirceの「疑念」と「信念」の文脈で考えてみるのは面白そう)。しかし、問題が変わってしまったら、同じsubject matterであるための足場がなくなってしまうように思われる。それでは、断絶の前後を通して、もはや同じ事柄について語っているとは言えないのではないか。多分、近藤さんもこれを分かっていて承認しているし、郡司さんがKripkeを引いて「暗闇の中の跳躍」と言ってるのもこういうことだろう。これがDeleuze的な発想なのかもしれない。しかし、自分には、これは現実の科学活動に即していないように思える。現実には、理論間に断絶があっても、「問題」自体は保存されているように見える。あるいは、仮に問題設定の移行があったとしても、移行前の問題を極限事例として導出可能にするような、より包括的な問題が設定されるはずである。言い換えれば、問題の移行は、次の格率に従ってなされているように思われる:移行後の問題に対する解は、移行前の問題に対する解でもなければならない。近藤さんが目指しているのは「内在性」の合理主義のようだが、私は「俯瞰」のモメントをもっと強調したい。

Meillassouxに対する近藤さんの批判には、同意する。すなわちMeillassouxは認識論と存在論の区別に無頓着であるという批判である(ただし、これはMeillassouxの立場が内的整合性を欠くという意味ではない。むしろ、Meillassouxの立場は最も強力な意味で論駁不可能であるように思われる。しかし、不自然ではあると思う。そして、私はMeillassouxほど合理主義者ではないので、論駁不可能性よりは自然さを重視する)。しかし、近藤さんの言う「問題-認識論」と「問い-存在論」の関係は、正直よく理解できなかった。この区別は、視点による区別なのだろうか。

私の理解では、Meillassouxの議論に認識論と存在論の区別を持ち込むならば、偶然性は認識論の側に回収される。近藤さんの記述にも、これと符合しそうな箇所がある:

科学的認識においてこのような「問題」の次元こそが先行するものであるとすれば、そしてメイヤスーが言及するような「定数」や「定性」や「法則」が、結局のところすべて「解」の次元でしかないと認めるとすれば、科学的認識によって措定される「法則」が、メタ水準で必然的ではなく、「偶然的」であるとしても(もちろん、その「法則」の枠内では、「法則」それ自体は必然的である)、何のパラドックスもない。いかなる存在者も、「問題」から「問題」への移行を一挙に展開し、見渡すことができないのだから(もしできるものがいると考えるなら、それは「問題」の固有性を認めないということに等しい)、「問題」の展開は、常に「潜在的」であり、その「潜在性」は歴史による現実的な展開を、ただひたすら待つことによってのみ、したがってメイヤスーとデランダがともに指摘するように「偶然」によってのみ実現される。(p.69)

「一挙に展開し、見渡すことができない」のはあくまで認識者であるから、これは認識論の側の話である。ならば、存在論の側では、必然性が成り立っていてもいいはず。しかし、近藤さんは「問題」を存在論の次元でも考えているようである(彼がDe Landaを評価するのはその点である。p.63参照)。また、「問い-存在論」には「非対称性」が存続し続ける、と彼は言う(p.71)。しかし、私にはこれは認識論の話にしか聞えない。もともと、歴史的にも発生論的にも、認識論と存在論の区別が導入されたのは、偶然性や認知の誤謬を前者の側に回収するためであろう。しかし、どうせ回収するなら、最後まで回収してしまうのが自然ではなかろうか。どうして途中でやめてしまうのだろう。あるいは、私が近藤さんの「問題-認識論」と「問い-存在論」の区別をやはり理解できていないだけかもしれないが。

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