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2020年7月4日土曜日

物理を学びたい人文学徒のための読書案内

人文系の学科に籍を置く大学生・大学院生や,現在大学に所属してない方など,物理のフォーマルな教育を受ける機会がない(あるいはなかった)方で,大学レベルの物理を学びたいと思っている方は多いと思う.しかし,カリキュラムを組んでくれる先生や,どのように学習を進めればいいのかについて情報交換してくれる友人・先輩がいない環境で,ゼロから物理を学ぶのは非常に難しい.知識がない状態では,あるトピックについて学ぶ上でどのような予備知識が要求されるのか分からないし,選んだ教科書が自分の知識レベルに合っているかどうかを判別することも難しいからだ.その結果,自分の知識レベルでは太刀打ちできない本を読もうとして,結局挫折することになる(私もそのような経験を何度かした).

この読書案内は,物理をこれから学ぼうと思う人が直面するこの最初の大きなハードルを乗り越える一助になればと思って書いた.もちろん人文系の学生に限らず,物理を学びたい社会人や,理工系の学生にも参考にして頂けると思う.私自身の来歴について少し述べておくと,私は学部時代から今に至るまで哲学を専攻しているが,物理にもずっと興味があり,暗中模索しながら(そして友人や先輩の助けを借りながら)大学レベルの物理とそれに必要な数学を独学してきた.アメリカの大学院では物理を副専攻に選んで授業もいくつか受けたが,ほとんど独学で身に付けたと言っていいと思う.今は物理学の哲学に関心を持っていて,今後本格的に研究を進めようと思っている(まだこの分野での業績は何もないが).なので,私はあくまで物理に強い関心を持つ哲学徒であり,プロの物理学者ではないことをあらかじめ断っておきたい.

数学の予備知識について一言.この読書案内は,少なくとも,数II・Bまでの高校数学を履修済みの方を念頭に置いて作成している.人文系の学生で数IIIや数Cを履修していない方は多いと思う(私は高校時代理系だったので一応どちらも履修していたが).では大学物理を学ぶ前にまず数IIIと数Cを勉強するべきかと言えば,必ずしもそうではない.大学の初年次で勉強する数学は,高校数学で学んだ内容をより厳密な立場から再び論じ,そこからより発展的な内容に繋げていくという性格を持っているので,いきなり大学数学から入っても問題ないと思う.ただ大学数学が抽象的で難しいと感じたら,まず数IIIや数Cの教科書を読んでみるのもいいかもしれない.

以下に挙げる本は,私自身が物理を勉強する上で参考になった本であり,もちろん人によって合う・合わないはあると思う.


【物理に必要な数学】

物理を学ぶに当たって必ず身に付けておくべきなのが,微積分と線形代数である.どちらから勉強を始めてもよいが,すぐに物理に入りたいなら,まず微積分から始めるのがいいだろう(量子力学までは一応線形代数なしでも理解できるので).以下では,私が物理を勉強する上で役に立った微積分と線形代数の本を挙げる.


小林昭七『微分積分読本』(全2巻)裳華房.
説明の分かりやすさに定評のある微積分のテクスト.第1巻では1変数,第2巻では多変数の微積分がカバーされている.本書はあくまで「読本」で,演習問題が付いていないことに注意.第1巻の冒頭近くに登場するε-N論法やε-δ 論法が難しいと感じたら,まず論理学の教科書で量化子の取り扱いに慣れておいた方がいいだろう(お勧めは下に挙げている嘉田勝『論理と集合から始める数学の基礎』である)


小形正男『キーポイント 多変数の微分積分』岩波書店.
良書の多い「理工系数学のキーポイント」シリーズの一冊.このシリーズの他の本と同様,数学的厳密さにはそれほどこだわらず,直観的なイメージを掴むことに重点を置いた本.私にとっては上に挙げた小林『微分積分読本』の第2巻よりも参考になった.


佐野理『キーポイント 微分方程式』岩波書店.
これも「キーポイント」シリーズの一冊.小林『微分積分読本』では微分方程式が登場しないので,この本で補うといいだろう.下に挙げる山本『新・物理入門』を読む前に,本書の第1章で変数分離形の微分方程式の解き方を抑えておこう.


Tom M. Apostol, Calculus, 2nd Edition (2 Vols.) Wiley.
私の最も好きな微積分の教科書.タイトルは Calculus だが,線形代数や確率論もカバーされていて,理工系学部の最初の二年くらいでやる数学が一通り網羅されている.歴史に関する記述が豊富で,歴史的順序と同様に,微分の前に積分が扱われているのが特徴.数学的厳密さと幾何学的直観のバランスが良い.ただ1冊目に読むには少しハードルが高いかもしれない.


川久保勝夫『線形代数学(新装版)』日本評論社.
線形代数への入り口として最適な一冊.説明が懇切丁寧で,行列と行列式,抽象的ベクトル空間,固有値と固有ベクトル,内積空間,正規行列の対角化といった標準的な内容がすべてカバーされている.大学数学に慣れるために,微積分をやる前にこれを読んでおくのもいいかもしれない.数Cを履修していなくてもいきなりこの本から読み始めても問題ない.


【高校物理】

山本義隆『新・物理入門(増補改訂版)』駿台文庫.
初学者にこの本を勧めるのは鬼畜と思われるかもしれないが,やはりこれを勧めないわけにはいかない.私にとって高校物理は,天下り的に与えられた公式を意味も分からず丸暗記し,それに機械的に数値を当て嵌めるだけのつまらない科目だった.その私を,物理の面白さに目覚めさせてくれたのが本書である.私見では,物理には演繹科学と実験科学の二つの側面がある.いくつかの基本原理(仮定)から出発し,数学的な議論によって次々と法則的関係を導出し,それらの関係が(不思議なことに)実験や観察データと上手く合致する,というところに物理学の面白さがあると思う.山本『新・物理入門』は確かに簡単な本ではないが,公式がすべて基本原理から導出されているので,普通の高校物理の教科書では味わえない,物理の演繹科学としての側面を堪能できる.要求される数学力は,高校物理の参考書としては高いが,数IIIの微積分と,佐野『キーポイント 微分方程式』の第1章の内容を把握しておけば大丈夫だと思う.


【古典力学】

藤原邦男『物理学序論としての力学』東京大学出版.
山本『新・物理入門』を読み終わったら次はこれを読もう.歴史的な記述が豊富だったり,著者が自ら行った実験のデータがあったりと,一風変わった古典力学の教科書.表題にある通り,力学を通して物理学の面白さを伝えたいという著者の熱意が伝わってくる名著である.


高橋康『量子力学を学ぶための解析力学入門』講談社.
量子力学に入る前に読んでおきたい解析力学の教科書.「量子力学を学ぶため」という目的に特化されているので,決して網羅的ではないが,説明は分かりやすいし,著者の含蓄のある言葉が随所に散りばめられているのも良い.Legendre変換については説明不足なので,田崎『熱力学』の付録で補うのがいいだろう.


【相対性理論

Robert Resnick, Introduction to Special Relativity. Wiley.
大学の1・2年次では,初等力学と並行して電磁気学を学ぶのが普通だと思うが,電気と磁気の関係を理解するには特殊相対論のLorentz変換を知っておいた方がいいので,電磁気学に入る前に特殊相対論を勉強しておくのがお勧めである.特殊相対論は,概念的な難しさはあるが,要求される前提知識は古典力学と高校レベルの代数学だけなので,早いうちに履修してしまうのがいいと思う.本書は英語ではあるが非常に分かりやすい,標準的な内容のテクストである.電磁気学を学んでいないなら,最後の第4章「相対論と電磁気」だけ飛ばして,電磁気学を勉強した後にまた戻って読んでみるのがいいだろう.


James J. Callahan, The Geometry of Spacetime: An Introduction to Special and General Relativity. Springer. 〔邦訳:James J. Callahan『時空の幾何学―特殊および一般相対論の数学的基礎』(樋口三郎訳)森北出版 .〕
数学科の学生向けに書かれた特殊・一般相対論のテクスト(著者は数学者).タイトルにある通り,相対論を徹底的に幾何学的観点から扱っているのが特徴.例えば特殊相対論に入る前にMinkowski幾何学にかなりの紙数が費やされているし,一般相対論の準備として微分幾何学(の必要な部分)が丁寧に解説されている.実際,本書は微分幾何学の入門書としても使えるように書かれているようだ.こうした幾何学的アプローチの利点として,他書ではただの抽象的な数式として与えられがちな概念を,明快に視覚化できるという点がある.例えばLorentz変換が双曲回転に相当することを踏まえておくと,相対論に特徴的なFitzgerald収縮や時間遅延を,座標系の回転による効果として直観的に理解できる.また,特殊相対論から微分幾何学への橋渡しの役割を果たす本書の第4章は非常にユニークで,特殊相対論の枠組みの内部で加速運動を扱うことで,「曲がった時空」という概念の必要性を自然に導いている.本書は数学徒向けに書かれているので,物理学書にありがちな暗黙の物理的仮定や論理の飛躍を極力排した,極めてクリアな記述になっている.今まで何冊か一般相対論のテクストに目を通してみたが,その中で一番分かりやすいと思う.要求される前提知識は線形代数・微積分と多少の古典力学だけで,一般相対論に必要な微分幾何学は一通り解説されている.相対論の科学史的・実験的背景についてはやや手薄なのと,相対論の帰結としての宇宙論などはカバーされていないので,そこは他書で補いたいところ.また本書を読む前に前掲のResnick本などで特殊相対論を一度は勉強しておくことをお勧めする.『時空の幾何学』というタイトルで出ていた日本語訳は長らく絶版だったが,2021年6月に復刊されるようだ.


【電磁気学】

Edward M. Purcell, Electricity and Magnetism, 3rd Edition. Cambridge University Press. 〔第2版邦訳:Edward M. Purcell『電磁気』(飯田修一訳)丸善出版〕.
電磁気学教育の名著.学部レベルの標準的な教科書では,電気と磁気をそれぞれ独立した現象として扱って,最後のあたりになってようやく「実は電気と磁気は同じものの二つの現われなんですよ」というような解説がよくなされる(例えば英語圏で人気のGriffithsはそう).それに対して本書では,かなり早い段階で特殊相対論が導入され,磁気の性質がすべてCoulomb力,Lorentz変換,そして座標変換に対する電荷の不変性の結果として導かれているので,電気と磁気の深い結び付きが際立って見えてくる.前提知識として特殊相対論は要求されるが,必要なベクトル解析はすべて解説されているし,説明も非常に丁寧で論理的である.原著第3版では演習問題への解答や,曲面座標での微分演算子についての付録などが追加されていて助かる.原著第3版の邦訳はないが,第2版の邦訳は「バークレー物理学コース」シリーズの『電磁気』(飯田修一訳;丸善出版)として出ている.


【量子力学】

前野昌弘『よくわかる量子力学』東京図書.
量子力学の教科書ではおそらくこれが一番易しい.量子力学の教科書は大きく分けて,公理的なアプローチで書かれている本と,前期量子論から始まる歴史的なアプローチで書かれている本があるが,本書は後者である.数学的な議論スタイルが肌に合う人(私もそうだが)は,公理的なアプローチで書かれている清水『量子論の基礎』から始めた方がいいかもしれない.なお,この本に限らず,量子力学を学ぶための前提知識として,線形代数と解析力学は必須である.また本書では付録に簡単な解説があるが,Fourier変換も知っておいた方がいいだろう(Fourier変換については,「EMANの物理学」にあるFourier解析についての一連の記事が分かりやすくまとまっている:https://eman-physics.net/math/contents.html


清水明『新版 量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために』サイエンス社.
入門レベルの量子力学の教科書の中では個人的に一番好き.量子論の基礎的・概念的な部分が,公理論的な立場から懇切丁寧に解説されている.あくまで「基礎」なので,応用例はほとんど出てこない(出てくるのは井戸型ポテンシャルと調和振動子くらいで,水素原子の波動関数の計算も出てこない).Bellの不等式がカバーされているのと,ブラケット記法で書かれているのは嬉しい.


David Bohm, Quantum Theory. Dover. 〔邦訳:D. ボーム『量子論』(高林武彦・井上健・河辺六男・後藤邦夫訳)みすず書房〕.
最初に刊行されたのは1951年なのでかなり古い教科書だが,今も十分読む価値のある名著.David Bohmといえば,彼独自の量子力学の解釈であるBohm解釈(軌跡解釈)で有名だが,本書は正統派のコペンハーゲン解釈の立場から書かれている.とはいえ,「思考と量子プロセスとのアナロジー」といった,のちのBohmの哲学を思わせる独創的な着想も見られる.


J. J. Sakurai, Modern Quantum Mechanics, 2nd Edition. Cambridge University Press. 〔邦訳:J. J. サクライ『現代の量子力学』(桜井明夫訳)吉岡書店〕.
難しいことに定評がある量子力学の教科書だが,第2章までは(WKB近似の箇所を除いて)それほど難しくないと思う(角運動量を扱った第3章あたりから辛くなる).冒頭の,Stern-Gerlach実験から量子力学の特徴を浮き彫りにさせる箇所は非常に明快だし,時間発展演算子が満たすべき性質からSchrödinger方程式を導出するといった感動的な議論が詰まっているので,最初の二つの章だけでも読む価値があると思う.経路積分,Aharonov-Bohm効果,EPR論証,同種粒子の置換対称性といった哲学的含意のある話題が扱われているのも嬉しい.2020年に第3版が出た


【熱力学・統計力学】

田崎晴明『熱力学―現代的な視点から』培風館.
日本の物理学の水準を向上させることにおそらく貢献している名著.熱力学の体系を構築する中心部分はもちろん,化学への応用(第9章)も素晴らしい.強磁性体を扱った第10章は,同著者の『統計力学〈2〉』の第11章「相転移と臨界現象入門」を読んでからの方が分かりやすいと思う.付録にある凸関数やLegendre変換の解説は重宝する.


田崎晴明『統計力学』(全2巻)培風館.
「ラノベ」と評する向きもあるようだがそんなことはない.同著者の『熱力学』よりは難しいと思う.とはいえ本書もやはり名著で,読むだけで世界が広がる感覚がある.特に第2巻の量子理想気体の章は感動的ですらある.著者が「はじめに」で述べているように,熱力学が壮麗な構築物(おそらく人間が作ったのではない構築物)だとすれば,統計力学はむしろ生き生きとした雑多な「文化」のようなもので,本書はその一端を垣間見せてくれる.


【複雑系】

Steven H. Strogatz, Nonlinear Dynamics and Chaos: With Applications to Physics, Biology, Chemistry, and Engineering. CRC Press. 〔邦訳:ストロガッツ『非線形ダイナミクスとカオス』(田中久陽・中尾裕也・千葉逸人訳)丸善出版〕.
私がもともと物理を勉強しようと思ったきっかけは,複雑系に神秘を感じたからなので,どうしてもこの分野の本も紹介しておきたい(「複雑系って何ぞや?」という方には,蔵本由紀『新しい自然学―非線形科学の可能性』をお勧めしたい).本書は非線形力学とカオスへの入門書として定番のテクストである.説明は直観的で分かりやすく,この分野のトピックを一通り俯瞰できるので,一冊目に最適だと思う.ただ数学的結果の多くが証明されておらず,天下り的に与えられているのが残念(特に解の存在と一意性の定理や,Poincaré-Bendixsonの定理の証明は付録などに載せれば良かったのにと思う).数学的に厳密な議論については,Hirsch-Smale-Devaneyの『力学系入門』で補うのが良いかもしれない.著者のCornell大学での講義「非線形力学とカオス」がYouTubeに公開されているので,英語が苦でなければ併せて視聴するといいだろう:https://www.youtube.com/playlist?list=PLbN57C5Zdl6j_qJA-pARJnKsmROzPnO9V


金子邦彦『生命とは何か 第2版 複雑系生命科学へ』東京大学出版.
物理学書ではなく,物理学者によって書かれた生命科学の本.遺伝子の起源,細胞分化,形態形成,種分化,ゆらぎによる環境への応答といった現象を,力学系理論・数理モデルを通して理解するといった趣旨の内容.学部生の頃に読んで感銘を受けた.生物学の背景知識がなくても分かりやすく読める.金子先生は最近『普遍生物学』と『細胞の理論生物学』という本も新しく出されている(後者は共著)ので,そちらも読んでおきたい(私は未読).


【数理論理学】

論理学は必ずしも直接物理学に必要なわけではないが,数学を勉強する上で論理学の知識は役に立つ(例えば多重量化が分からない状態でε-δ論法を理解するのは難しいと思う)し,哲学をやろうと思う人にとっては論理学は必須である.また量子論理や,物理学への計算可能性理論の応用など,物理学と論理学の興味深い繋がりも色々ある.


嘉田勝『論理と集合から始める数学の基礎』日本評論社.
数理論理学への入門書というわけでなく,数学を学ぶすべての人が知っておくべき基礎的な素養をまとめた本である.日本語の解説が非常に練られていて明晰である.これから論理学を学ぼうと思う人にとって一冊目に最適.物理学や哲学を学ぶ者にもお勧め.


丹治信春『論理学入門』ちくま学芸文庫.
著者の『タブローの方法による論理学入門』を文庫化したもの.元のタイトルにあるように,タブロー法による命題論理,述語論理への入門書.タブロー法は視覚的なので私は好きだし,論理学への入門にも一番良いアプローチだと思う.初学者を述語論理の健全性・完全性とLöwenheim–Skolemの定理まで導いてくれる好著である.


H.-D. Ebbinghaus, J. Flum, Wolfgang Thomas, Mathematical Logic, 2nd Edition. Springer.
中級レベルの数理論理学のテクスト.記述はこの上なく明晰で,補題や定理が有機的な繋がりを持って展開されている.Part A(I~VIII)では一階論理の完全性,コンパクト性,Löwenheim–Skolemの定理といった標準的な内容がカバーされている.Part B(IX~XIII)では発展的なトピックが紹介されていて,(XIII以外)章ごとに内容が独立しているので,興味を持った章だけを読むことができる.IXでは一階論理と算術の決定不能性やGödelの不完全性定理などのlimitativeな結果が,XIIとXIIIではEhrenfeucht–Fraïssé gameやLindströmの定理といったモデル理論の発展的な話題が取り上げられている.


照井一成『コンピュータは数学者になれるのか?―数学基礎論から証明とプログラムの理論へ』青土社.
タイトルから受ける印象に反して,高度な話題が凝縮された硬派な啓蒙書.細かいところを気にせずラノベ感覚で読むのがいいだろう.学習意欲を駆り立ててくれる好著である.


最終更新:05/09/2021

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