本書は科学哲学の入門書である。理系少女のリカちゃん、フランス現代思想オタクのテツオくん、そして科学哲学の教師「センセイ」の三人による会話形式で進んでいく。非常に読みやすいだけでなく、内容も濃い。
著者の戸田山氏は明確に科学的実在論の立場を表明しており、本書は一貫してこれを擁護するための論陣を張っている。より厳密には、観察不可能な物理的対象については実在論、それらの対象の振る舞いを記述する法則については反実在論を取る「対象実在論」(介入実在論)の立場を取っている。
もともと科学的実在論にシンパシーを寄せる私としては、 著者の科学観には共感できた。しかし同時に、戸田山氏は本書全体を通して、ガチガチのロジック・ゲームばかり展開していて、問題の核心から(無意識的に)逃げているような印象を受けた。これはむしろ実在論論争全体について言えることかもしれないが、「論理」の力を偏重するあまり、「論理的可能性A」と「論理的可能性B」の間にある暗黙的次元を徹底的に無視しているように思う。「科学という営みは、実際に世界について理解できる試みだ」という素朴な直感を擁護したいのであれば、「常識」から離床した高尚な哲学的議論から一度身を引く必要があるのではないか。というのも、直感的な「常識」はロジックの両極致にあるのではなく、その中間の暗黙的次元にあるからだ。
そもそも「真理」なる概念は科学哲学において必要なのであろうか。実在の「真」の姿に超越的な意味を付与するからこそ話がまだるっこしく、不毛になるのではないか。もともと科学的実在論の最大の強みは、それが素朴な直感に訴えることだと思う。これに対して反実在論は、純論理的な議論に訴えることによって、人間の感覚器官では直接アクセスできない領域についての我々の知識を自ら狭めてしまう。まさに、反自然的で捻くれた態度と言えよう。彼らはいわば、論理偏重主義と言語の物象化で頭が凝り固まってしまっているのである。そして、反実在論者たちに対する戸田山氏の議論も、残念ながらこの同じ地平上で為されている。その成否如何を判断するだけの用意は私にはないが、いずれにせよ問題の核心からは一貫して逃走しているのは分かる。反実在論相手には、彼らとは別のゲームで挑まなければならない。
科学的実在論の素朴な科学観を無益な懐疑から守る鍵は、他ならぬ懐疑論の泰斗ヒュームにあると思う。 ヒュームは、帰納には合理的な根拠はないという徹底的な懐疑論を展開し、これが「ヒュームの呪い」として本書で繰り返し登場している。しかし、戸田山氏も終盤で述べている通り、この「呪い」は他ならぬヒューム自身によって既に解消されていた。「呪い」なんて最初からなかったのである。というのも、ヒュームは、帰納の基礎にあるのは「習慣」(custom and habit)によって形成された心の癖のようなものであると結論しているからである。言い換えれば、我々人間にとって「帰納」は意識的な推論形式である以前に、生活そのものを可能にする暗黙的な心的メカニズムなのである。もし明日も太陽が昇るかどうか毎日悩んでいては、我々は日常世界を生きていけない。帰納は、繰り返し生起する事象やパターンを、いったん「自明」と見なすことによって、無駄な思考や心配を減殺してくれるのである。
反実在論者は、 帰納のこの暗黙的な作用に気付いていない。もし首尾一貫したいのであれば、反実在論者はオバマ大統領の実在も疑わなければならないだろう。というのも、我々がテレビ画面の向こう側でしか見たことのないオバマ大統領の実在を信じて疑わないのは、「テレビ」の果たす機能や、我々の周囲にいる人間の振る舞いを、帰納によって「自明」なものとして認めているに過ぎないからだ。そして、電子や波動関数といった知覚不可能な物理的対象と、オバマ大統領との間に本質的な違いはないように思われる。もしあるというのであれば、反実在論者はその根拠を示さなければならないだろう。(私に言わせれば、そのような根拠を提示すること自体、既に言語の限界を超越してしまっているが。帰納の暗黙的作用は、その具体内容が明文化不可能だからこそ「暗黙的」なのである。)
本書の終盤で戸田山氏は、「自然主義」の立場から実在論を擁護していて、私もこれに共感できた。むしろ、実在論を擁護するにはこの自然主義的な態度だけで十分であるようにも思える。科学者が電子や波動関数が「存在する」と言うのであれば、その「存在する」が哲学的な意味での「存在」なのかどうかを追及せず、黙ってそれを受け入れるだけでいい。かくして、我々は「真理」や「実在」を巡る、ありもしない哲学的難問から解放されるのである。
And those who were seen dancing were thought to be insane by those who could not hear the music.
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2011年6月30日木曜日
2011年6月12日日曜日
【書評】 新しい自然学 : 非線形科学の可能性 (蔵本由紀)
本書は複雑系の入門書である。「現代における科学的な知のあり方は相当にいびつなのではないか」という疑念を持つ著者は、「非線形科学」(nonlinear science)という分野にそのいびつさを是正する契機を求める。
従来の理論物理学はほとんど例外なく「孤立系」(isolated system)の記述に徹してきた。孤立系では外部とのエネルギーのやりとりがなく、それゆえ比較的単純な微分方程式によってその振る舞いを記述することができる。しかし、現実の現象に目を向ければ、そのような完全な「孤立系」を探す方がむしろ困難である。現実の力学系のほとんどは外部に開かれており、それゆえ複雑で予測困難なパターンを生じさせる。このような複雑な力学系を我々は「非平衡開放系」(nonequilibrium open system)ないし「非線形系」(nonlinear system)と呼ぶことが出来る。
非線形系とは、一言で言えばフィードバック制御機能を内在させたシステムである。フィードバックには正と負の二種類がある。外部から得られたフィードバック情報を頼りに、システム全体は絶えず自己修正していく。正のフィードバックによって変化が促進され、負のフィードバックによって変化にブレーキがかかる。これはシステム論で言うところの「サイバネティク・システム」(cybernetic system)にそのまま相当するだろう。このフィードバック機能が、現象を記述する微分方程式の中で「非線形項」(nonlinear term)として現れるのが、「非線形系」という呼称の由来である。(非線形項については、私もまだ完璧に理解していないので、今後も勉強して参りたいと思う)。
このような系はまた同時に、「散逸系」(dissipative system) でもある。システムが散逸的であるというのは、その振る舞いが時間に関して非可逆的であることを意味する。エントロピー増大則(これは熱力学第二法則と同値である)が示すように、自然(世界)は常にエントロピー(無秩序さの尺度)が小さい方向から大きい方向へ進む。つまり、秩序から無秩序へ、構造から無構造へ、攪乱から静寂へ至る流れは非可逆的である(例えば、一回割れたコップを元に戻すことは出来ないし、混ぜたミルクとコーヒーをそれぞれ分離して抽出することもできない)。ただし、エントロピー増大則が成立するのは「孤立系」のみという条件がある。つまり、エネルギーが外部に散逸する「散逸系」では、エントロピーがむしろ減少し、混沌から秩序が生成することが可能なのである。そこでは、微小な「ゆらぎ」(fluctuation)が正のフィードバックによって増幅され、構造の「自己組織化」(self-organization)が発生するのである。
【孤立分断的記述】
しからば、このような複雑な振る舞いをするシステムを記述するには、どのような科学描写が望ましいだろうか。しばしば反還元論者からなさられる主張として、「全体は部分の単純な総和ではない」というものがある。システムに全体として現れるパターンは、システムを構成する要素をいくら詳しく調べても見出すことが出来ないという主張である。それを無視した科学は「要素還元主義」的科学として批判される。しかし、と蔵本氏は言う。
単なる「全体論」を唱えるだけでは、第二のオカルトに陥る危険性は免れ得ない。科学というものは本質的に「同一不変の構造」を見つけ出し、これを鋭利な刃物で切り出すものである。言い換えれば、科学という営みは、同一不変なもの以外の影響(これを「境界条件」(boundary condition)という)を無視(=制御)することによって、明晰判明さを手に入れる。制御される境界条件の程度によって、科学理論に階層性が現れる。例えば、最も単純な同一不変の構造以外のすべての境界条件を捨象するのが理論物理学であり、これに段階的に境界条件を付与していく(この作業は、下位レベルの法則=不変部分における「ブランク」=可変部分にデータを入力することによって行われる)ことによって、化学、生物学、という風に複雑性のレベルが上がっていく。このとき、記述・予測の精度がある程度犠牲になるのは避けられないが、いずれにせよ「孤立分断的記述」であることは科学であるための必要条件と言えよう。
【主語的統一と述語的統一】
蔵本氏によれば、科学が見つけ出す同一不変性には、二つの基本的カテゴリーがある。すなわち、「主語的統一」と「述語的統一」である。人間が物事を理解する時、その基本的なパターンは「何」が「どのように」あるかという形であろう。科学の言語に即して言えば、「原子」や「素粒子」などの個物の概念が主語であり、それらの関係性を記述する「微分方程式」や「法則」が述語に当たるだろう。蔵本氏は、近代西欧の科学的自然認識はあまりにも主語的統一を偏重していて、その側面だけ肥大化していると言う。日本は伝統的に述語的統一が優位な文化で、西欧文明は主語的統一が優位な文化を発達させてきたとしばしば言われるが、西欧世界に起源を持つ自然科学が、必然的に主語的統一を基軸としてきたのも十分頷ける。しかし、今や非線形科学の分野では、もっと豊かな述語的統一の契機が求められている、と蔵本氏は指摘する。それは、従来のように現象を「横」から切り取る(これが自然の階層秩序を作る)のではなく、「縦」に切り取ることを意味する。
自然の様々な異なる階層において、同一の普遍構造(関係性)が見られる、というのは珍しいことではない。その重要な一例は「対称性の自発的破れ」という概念である。対称性の破れは、物質科学のレベルでも、一分子のレベルでも、超微視的な量子論のレベルでも見られる普遍的な現象である。さらに、同じ物質科学のレベルでも、物質が液体から固体に変化する際の相転移である構造相転移から、磁気相転移や超伝導転移まで、すべて対象性の破れ現象である。これらは互いに縁が薄いと思われてきたものであるが、実はすべて共通の数学的構造を持っている。このような、共通の数学的構造(=関係性)に注目して同一不変性を切り出すのが、述語的統一による自然描写である。蔵本氏の言葉を借りれば、従来の主語的統一による自然描写が、顕在的な性質の近さに基づいているという点で「喚喩的」であるのに対して、述語的統一による自然描写は、物への密着性が弱く、それらに伏在する共通構造を探る点において「隠喩的」である。そして非線形科学は、「要素的同一不変性」から「関係的同一不変性」への重心の移動を要求しているのである。
以上が、本書の第Ⅰ章「科学描写の構造」までの議論の要約である。蔵本氏の文章はとにかく分かりやすい上に、「述語的統一」の重要性を説くその議論にも大いに納得させられた。また、創発を「境界条件」の制御に関わる概念と捉える考え方も、非常に面白いと思った。
続く第Ⅱ章「非線形科学から見る自然」では、具体的な自然現象をいくつか取り上げ、実際に非線形科学の知見から解説していくのであるが、ここでは割愛する。興味のある方は是非本書を手に取ってみて欲しい。
【言葉の魔術】
本書の第Ⅲ章「知の不在と現代」において、蔵本氏は科学哲学的な議論に足を踏み入れる。理論物理学の教授ということで、蔵本氏自身は科学哲学の知見に疎いと前置きしているが、はっきり言って彼の議論からは非凡なる哲学のセンスを感じる。
例えば「物理学と心」の問題について、蔵本氏は以下のように述べている。
全くその通りだよ。「クオリア」とか「実在」といった胡散臭い哲学的議論に対しては、常に眉に唾をつけまくってかかるべし。これが、ヴィトゲンシュタインが我々に与えてくれたはずの教訓であるが、残念ながら未だに多くの哲学者がその意味を理解できていないように思う。
あるいはこれを見よ。
これは私の「プラグマティック実在論」を彷彿とさせる。主客二元論が虚構とまでは言わないものの、「客観的実在」には超越的な意味を付与せず、あくまで「もっともらしい」限りにおいてその実在を信じる、という私の立場に非常に近いものを感じる。
【自律分散システム:市場秩序の分析へ】
最後に蛇足として、私が特に興味のある分野へ話を繋げてみたい。すなわち、自律分散システムとしての市場秩序の分析である。例えば、以下の文章は興味深い。
これはまさに、ハイエクが市場秩序について言い続けたことそのものである。市場は、複雑なパターンを生成させる非平衡開放系であり、また我々の設計能力を遥かに凌駕する見事さを示す自律分散システムである。これからは、市場を複雑系として分析する研究がますます重要になってくるだろう。私も手始めに、複雑系経済学の日本における権威である塩沢由典の著書『市場の秩序学』に挑んでみたいと思う。
従来の理論物理学はほとんど例外なく「孤立系」(isolated system)の記述に徹してきた。孤立系では外部とのエネルギーのやりとりがなく、それゆえ比較的単純な微分方程式によってその振る舞いを記述することができる。しかし、現実の現象に目を向ければ、そのような完全な「孤立系」を探す方がむしろ困難である。現実の力学系のほとんどは外部に開かれており、それゆえ複雑で予測困難なパターンを生じさせる。このような複雑な力学系を我々は「非平衡開放系」(nonequilibrium open system)ないし「非線形系」(nonlinear system)と呼ぶことが出来る。
非線形系とは、一言で言えばフィードバック制御機能を内在させたシステムである。フィードバックには正と負の二種類がある。外部から得られたフィードバック情報を頼りに、システム全体は絶えず自己修正していく。正のフィードバックによって変化が促進され、負のフィードバックによって変化にブレーキがかかる。これはシステム論で言うところの「サイバネティク・システム」(cybernetic system)にそのまま相当するだろう。このフィードバック機能が、現象を記述する微分方程式の中で「非線形項」(nonlinear term)として現れるのが、「非線形系」という呼称の由来である。(非線形項については、私もまだ完璧に理解していないので、今後も勉強して参りたいと思う)。
このような系はまた同時に、「散逸系」(dissipative system) でもある。システムが散逸的であるというのは、その振る舞いが時間に関して非可逆的であることを意味する。エントロピー増大則(これは熱力学第二法則と同値である)が示すように、自然(世界)は常にエントロピー(無秩序さの尺度)が小さい方向から大きい方向へ進む。つまり、秩序から無秩序へ、構造から無構造へ、攪乱から静寂へ至る流れは非可逆的である(例えば、一回割れたコップを元に戻すことは出来ないし、混ぜたミルクとコーヒーをそれぞれ分離して抽出することもできない)。ただし、エントロピー増大則が成立するのは「孤立系」のみという条件がある。つまり、エネルギーが外部に散逸する「散逸系」では、エントロピーがむしろ減少し、混沌から秩序が生成することが可能なのである。そこでは、微小な「ゆらぎ」(fluctuation)が正のフィードバックによって増幅され、構造の「自己組織化」(self-organization)が発生するのである。
【孤立分断的記述】
しからば、このような複雑な振る舞いをするシステムを記述するには、どのような科学描写が望ましいだろうか。しばしば反還元論者からなさられる主張として、「全体は部分の単純な総和ではない」というものがある。システムに全体として現れるパターンは、システムを構成する要素をいくら詳しく調べても見出すことが出来ないという主張である。それを無視した科学は「要素還元主義」的科学として批判される。しかし、と蔵本氏は言う。
しかし、私はこの種の議論に対しては次のことにたえず注意を払っておく必要があると思う。それは、科学における「孤立分断的記述」が「全体的記述」に安易に対比されてしまうということである。多少挑発的な言い方をすれば、科学描写であるかぎり創発的性質もまた孤立分断的に記述される以外にない。創発とは部分と全体との関係に関わる概念では必ずしもなくて、対象の切り出し方に関わる概念であると私は考えたいのである。つまり、対象を通常の意味での構成要素に分解して要素記述に集中することだけが分断的記述なのではない。(pp.35)
単なる「全体論」を唱えるだけでは、第二のオカルトに陥る危険性は免れ得ない。科学というものは本質的に「同一不変の構造」を見つけ出し、これを鋭利な刃物で切り出すものである。言い換えれば、科学という営みは、同一不変なもの以外の影響(これを「境界条件」(boundary condition)という)を無視(=制御)することによって、明晰判明さを手に入れる。制御される境界条件の程度によって、科学理論に階層性が現れる。例えば、最も単純な同一不変の構造以外のすべての境界条件を捨象するのが理論物理学であり、これに段階的に境界条件を付与していく(この作業は、下位レベルの法則=不変部分における「ブランク」=可変部分にデータを入力することによって行われる)ことによって、化学、生物学、という風に複雑性のレベルが上がっていく。このとき、記述・予測の精度がある程度犠牲になるのは避けられないが、いずれにせよ「孤立分断的記述」であることは科学であるための必要条件と言えよう。
【主語的統一と述語的統一】
蔵本氏によれば、科学が見つけ出す同一不変性には、二つの基本的カテゴリーがある。すなわち、「主語的統一」と「述語的統一」である。人間が物事を理解する時、その基本的なパターンは「何」が「どのように」あるかという形であろう。科学の言語に即して言えば、「原子」や「素粒子」などの個物の概念が主語であり、それらの関係性を記述する「微分方程式」や「法則」が述語に当たるだろう。蔵本氏は、近代西欧の科学的自然認識はあまりにも主語的統一を偏重していて、その側面だけ肥大化していると言う。日本は伝統的に述語的統一が優位な文化で、西欧文明は主語的統一が優位な文化を発達させてきたとしばしば言われるが、西欧世界に起源を持つ自然科学が、必然的に主語的統一を基軸としてきたのも十分頷ける。しかし、今や非線形科学の分野では、もっと豊かな述語的統一の契機が求められている、と蔵本氏は指摘する。それは、従来のように現象を「横」から切り取る(これが自然の階層秩序を作る)のではなく、「縦」に切り取ることを意味する。
自然の様々な異なる階層において、同一の普遍構造(関係性)が見られる、というのは珍しいことではない。その重要な一例は「対称性の自発的破れ」という概念である。対称性の破れは、物質科学のレベルでも、一分子のレベルでも、超微視的な量子論のレベルでも見られる普遍的な現象である。さらに、同じ物質科学のレベルでも、物質が液体から固体に変化する際の相転移である構造相転移から、磁気相転移や超伝導転移まで、すべて対象性の破れ現象である。これらは互いに縁が薄いと思われてきたものであるが、実はすべて共通の数学的構造を持っている。このような、共通の数学的構造(=関係性)に注目して同一不変性を切り出すのが、述語的統一による自然描写である。蔵本氏の言葉を借りれば、従来の主語的統一による自然描写が、顕在的な性質の近さに基づいているという点で「喚喩的」であるのに対して、述語的統一による自然描写は、物への密着性が弱く、それらに伏在する共通構造を探る点において「隠喩的」である。そして非線形科学は、「要素的同一不変性」から「関係的同一不変性」への重心の移動を要求しているのである。
以上が、本書の第Ⅰ章「科学描写の構造」までの議論の要約である。蔵本氏の文章はとにかく分かりやすい上に、「述語的統一」の重要性を説くその議論にも大いに納得させられた。また、創発を「境界条件」の制御に関わる概念と捉える考え方も、非常に面白いと思った。
続く第Ⅱ章「非線形科学から見る自然」では、具体的な自然現象をいくつか取り上げ、実際に非線形科学の知見から解説していくのであるが、ここでは割愛する。興味のある方は是非本書を手に取ってみて欲しい。
【言葉の魔術】
本書の第Ⅲ章「知の不在と現代」において、蔵本氏は科学哲学的な議論に足を踏み入れる。理論物理学の教授ということで、蔵本氏自身は科学哲学の知見に疎いと前置きしているが、はっきり言って彼の議論からは非凡なる哲学のセンスを感じる。
例えば「物理学と心」の問題について、蔵本氏は以下のように述べている。
日常の議論において、用語の定義をしつこく問う人はいやみである。しかしながら、意識とか実在とかのわけのわからない話ともなれば、「そのような問いでもってあなたは一体何を意味しようとしているのですか」と問い返すのが一番だと思う。これによって問題が180度方向転換し、あるいは問題の虚構性が明らかとなり、不毛な哲学的議論の多くが氷解する。素人考えだが、20世紀哲学における言語論的転回と大仰によばれることの主旨は、平たく言えばこのようなことではないかと想像する。要するに、「これまで無邪気に用いてきた言葉によって、何が意味されるかをまずじっくり反省しよう。よくよく考えてみれば、言葉の意味は言葉によって言い尽くすことはできないのではないか。最終的には、その言葉の無数の使用経験に支えられた暗黙の公共的理解しか残らないのではないか」ということである。ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」はこの事情を鮮やかに示すものではないかと思う。ともかく、心・意識というきわどい領域に接近しようとする科学者は、ありもしない問題にはまり込んでしまわないよう、十分な警戒心が必要だと思う。(pp.172-173)
全くその通りだよ。「クオリア」とか「実在」といった胡散臭い哲学的議論に対しては、常に眉に唾をつけまくってかかるべし。これが、ヴィトゲンシュタインが我々に与えてくれたはずの教訓であるが、残念ながら未だに多くの哲学者がその意味を理解できていないように思う。
あるいはこれを見よ。
科学の世界においても日常世界においても、「客観的存在」とよばれるものは、譬えていえばクロスワードパズルのマスに入るべき文字に似ている。縦のヒントから予想された文字の正しさが、横のヒントによって飛躍的に強化される。縦横に加えて、それらに直交するもう一つの次元を加えた三次元のクロスワードパズルを想像すれば、第三方向のヒントもまた、確認作業をおこなうまでもなく、きっとこの答えと整合するに違いない。自然現象の総体は、三次元ならぬ超高次元クロスワードパズルにおいて、さまざまな場所におけるさまざまな方向へのヒントの集団に譬えられるだろう。フロギストン(燃素)のように、科学史上で一時期はその存在を信じられながら、やがて捨てられる運命をたどったはかない存在も、上のモデルで解釈できるだろう。多数の独立なヒントと見事に整合する、マス中の文字に相当するものを、これまではあえて同一不変性をよび、客観的実在とはよばなかった。その理由の一つは、主観・客観の形而上学からできるだけ身を遠ざけておきかったからである。しかし、物心二元論の虚構性に捕捉される心配がなくなれば、これを客観的実在とよんでも差し支えない。それは単に、すでに述べたような意味で同一不変な事象のクラスを、約束事として客観的実在とよんだまでであって、それ以上の超越的意味をこの言葉にあたえているわけではない。科学としては、もちろんそれで十分である。(pp.177-178)
これは私の「プラグマティック実在論」を彷彿とさせる。主客二元論が虚構とまでは言わないものの、「客観的実在」には超越的な意味を付与せず、あくまで「もっともらしい」限りにおいてその実在を信じる、という私の立場に非常に近いものを感じる。
【自律分散システム:市場秩序の分析へ】
最後に蛇足として、私が特に興味のある分野へ話を繋げてみたい。すなわち、自律分散システムとしての市場秩序の分析である。例えば、以下の文章は興味深い。
最近、「自律分散システム」の工学、「創発システム」の工学などというものが注目されている。そこでは自然的になさられる境界条件の制御が、しばしば人為的な制御をはるかに凌駕する見事さを示すという事実にまず注目する。生命過程を彷彿とさせるような、柔軟性に富んだ高度な機能をもつ人工システムを設計するためには、境界条件の制御における人為性の度合いを減らし、むしろ自然的制御に任せる部分を多く取り入れることが有効であり、大きな可能性をもつという思想がそこにある。(pp.52)
これはまさに、ハイエクが市場秩序について言い続けたことそのものである。市場は、複雑なパターンを生成させる非平衡開放系であり、また我々の設計能力を遥かに凌駕する見事さを示す自律分散システムである。これからは、市場を複雑系として分析する研究がますます重要になってくるだろう。私も手始めに、複雑系経済学の日本における権威である塩沢由典の著書『市場の秩序学』に挑んでみたいと思う。
2011年6月8日水曜日
丸山眞男とリベラリズム
【「リベラリズム」とは何か】
「リベラリズム」という語は非常に抽象性が高い。一般的に「リベラリスト」と形容される論者の多彩さを想起すれば分かるように、「リベラリズム」が指すとされる思想の形態は実に多岐に亘る。討議の倫理を引っ提げて「コミュニケーション的理性」の重要性を説くハーバーマスのような論者から、政府による経済への介入を排した市場メカニズムを重視する「リバタリアン」まで、「リベラリズム」の射程は極めて広い。そこで、本論における「リベラリズム」の定義として、井上達夫のそれを借用したい。井上氏は『共生の作法 : 会話としての正義』において、リベラリズムのアイデンティティを、個別の論者が提示する「解答」の内容的類似性にではなく、「問い」のレベルでの共通性に見出している。すなわち、「善の諸構想の多元性を所与として承認せざるを得ない状況において、社会的結合はいかにして可能か」という問いである。言い換えれば、多様な価値観や信念が相競合する社会において、我々は如何なる共生の道を引くことが出来るか、という問いこそが、リベラリズムの「自同性の根」をなすというのである。
【丸山眞男のリベラリズムの確立】
この定義に従えば、我々は丸山眞男を立派なリベラリストと見なすことができる。というのも、彼は戦前の助手時代から一貫して、公私の領域を分離し、全体を管制する政治権力の下で、様々な「私的」な活動が自由に展開する「寛容」の体制としての、近代社会のあり方を積極的に擁護しているからだ。こうした丸山の思想が確立されていった過程を、以下に概観しておきたい。(なお、この箇所は苅部直『丸山眞男 : リベラリストの肖像』に多くを負っている)。
まず、助手時代の初めての論文、荻生徂徠を中心に徳川時代の思想史を通観した「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」において丸山は、「政治」が支える制度に枠付けられた秩序の下で、「諸々の文化価値の独立」がなされ、信条の赤裸々な解放と、様々な信条への「寛容」が確立することが「近代意識の成長」だと説き、荻生徂徠から本居宣長に至る思想の系譜にその萌芽を見出している。しかし、この段階では「個人の自由」を秩序の前提条件に位置付けるには至っていない。
続いて助教授に昇進した後に書かれた第二論文「近世日本思想史における「自然」と「作為」――制度観の対立としての」で丸山は、秩序を人間の「作為」によって基礎づける徂徠の「作為の原理」――むろん、徂徠が考える「作為」の主体は古代の「聖人」と代々の為政者に留まるが――から、西洋の社会契約説を抽出する。この論文で丸山は、「政治的なるもの」が成立する以前に、どんな公的権力も侵してはならない道徳秩序が存在するはずだと説いている。つまり、「私的」な領域における個人が、「自由」や「通義」(rightの訳語)といった共通の価値を信奉し、これを守るために他者と約束を取り結び(=作為)、「人間仲間」(societyの訳語であろう)を結成する、というのである。このようにして、お互いの「主体性」を承認し合う対等な「仲間」の道徳秩序が成立し、ここに個人の自由が確保される。
おそらく、このように論じるときの丸山の脳裏にあったのは、当時の日本の状況であろう。戦時中の強力な統制下でも、人々は抵抗の意識を持たず、むしろ上位権力へと随順し、見境なくこれと同化していく。このような「ずるずるべったり」の関係性は、人々の主体性の欠如と、その必然的帰結としての「人間仲間」秩序の不在に由来すると言えよう。こうした日本人の伝統的な精神構造への批判は、戦後の論文「超国家主義の論理と心理」においてなされ、この論文によって丸山の名が論壇や文壇に広く知られるようになる。
【転倒された義務論】
安易な図式化かもしれないが、リベラリストは、リベラルな社会を擁護するその根拠によって、「義務論者」(自由ないし権利の超越的な価値に訴える論者)と、「帰結主義者」(自由ないし権利を尊重する社会の方が結果として人々が幸福になる、と主張する論者)とに大別することが出来るだろう。例えばカント、ロック、J.S.ミル、ノージックらは義務論者に、ハイエク、フリードマン、ローティらは帰結主義者に分類されるだろう。「どんな公的権力も侵してはならない道徳秩序」の存在を説く上の丸山の議論を見れば、彼は一見義務論者に見える。しかし、丸山の自由観は、無条件に自由の価値を礼賛する義務論者のそれとは一線を画す。いな、丸山はもっとニヒリスティックで老獪である。丸山が感銘を受け、ノートに写して暗記したというハンス・ケルゼンの言葉が、丸山自身の自由観を如実に表していると思う。ケルゼンの論文「プラトンの正義論」の末尾の一節を、丸山は以下のように口頭で要約している。(丸山眞男集の編集者、小尾俊人の筆録による)
相対主義的なニヒリズムに晒されている現代人にとっては、プラトンのように絶対的な真理や正義の実在を確信するのは難しいかもしれないが、強大な権力に対抗するためには、人々は敢えて幻影としての「自由」や「権利」に訴えざるを得ない。逆説的だけれど、「絶対の正義は存在しない」としても、我々は超越的な価値を棄て去ることはできないのである。のちの座談会で丸山は以下のように語っている。
メディアのもたらす情報洪水の中に漂う、現代大衆社会の人間は、もはや何が本当の自分の思考なのか分からなくなり、足元には価値の相対性とニヒリズムが纏わり付いてゆく。このような時代の中、敢えて自由の価値を信奉し、声高にこれを唱える丸山は、まさに「転倒された義務論」者と言えよう。
【自我への問い直し】
丸山の論文は繰り返し「公共の問題を討議すること」や「自発的結社」の意義を強調する。例えば1953年の論文「ファシズムの現代的状況」は以下のように結ばれている。
このような議論を見れば、我々は直ちに「コミュニケーション的行為」の重要性を説くハーバーマスとの共鳴関係を見出すだろう。確かに、丸山とハーバーマスは共通するところは多い。権力による「人間仲間」秩序および個人の内面世界への侵入を批判する丸山と、「システム」による「生活世界」への侵入に警鐘を鳴らすハーバーマスとの理論的・思想的類似性は、おそらく偶然ではあるまい。しかし同時に、我々は両者の差異にも注目しなければならない。すなわち、言語使用に内在する「コミュニケーション的理性」に立脚し、「理想的な発話状況」を不断に目指すハーバーマスに対して、丸山は「理性的な主体」という(近代主義が想定するような)人間像にあくまで懐疑的である。特に戦後アメリカで行われたヒステリックな共産党員狩り(レッド・パージ)にショックを受けた丸山は、以後この懐疑的傾向を強めていく。
1961年に書かれた論文「現代における人間と政治」で丸山は、チャールズ・チャップリンの映画『独裁者』にある、飛行機に乗り雲海の中を進んでいく主人公が、機体が上下逆さまになっているのに気付かないシーンを取り上げて、実は現代の人間はこうした「逆さの世界」に住んでいるのが今や常態であると述べている。つまり、国家や様々な組織の内側に住む人間は、その内部だけに浸透するイデオロギーや「常識」によって、世界を見る目が初めから一定の「イメージ」の眼鏡を被せられているのである。今や丸山にとって、誰もが自分の世界の外に出て、人類全体の共通空間で語り合えるとするハーバーマス的なコミュニケーション論は、単なる理想論でしかない。ならば、我々は如何にして「外側」の住民の声に耳を傾けることができるであろうか。
ナチスドイツにおいて行われたグライヒシャルトゥング(強制的画一化政策)を取り上げながら、丸山は同論文で以下のように述べている。
我々に残された道は、あくまでも「内側」に留まっていることを自覚し、同時に「外側」との境界に立ち続けることである。こうして丸山は、「他者をあくまで他者としながらも他者をその他在において理解すること」を呼びかける。
理想化された主体像に飛翔するのではなく、あくまで「自我の偶然性」を前提にしながら、コミュニケーションを続けていくことの重要性を強調する丸山の議論は、ハーバーマスよりはむしろ、自己の偶然性・可謬性に立脚し、「寛容」の体制としてのリベラリズムを徹底的に擁護するとともに、「啓発」活動の重要性を説くリチャード・ローティの思想を彷彿とさせる。
参考文献
井上達夫. 1986. 『共生の作法 : 会話としての正義』 東京 : 創文社.
小尾俊人. 2003. 『本は生まれる。そして、それから』 東京 : 幻戯書房.
苅部直. 2006. 『丸山眞男 : リベラリストの肖像』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 2003. 「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」『丸山眞男集〈第1巻〉1936-1940』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 1996. 「近世日本思想史における「自然」と「作為」――制度観の対立としての」『丸山眞男集〈第2巻〉1941-1944』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 2003. 「超国家主義の論理と心理」『丸山眞男集〈第3巻〉1946-1948』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 2003. 「ファシズムの現代的状況」『丸山眞男集〈第5巻〉1950-1953』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 1998. 『丸山眞男座談〈5〉1964-1966』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 1996. 「現代における人間と政治」『丸山眞男集〈第9巻〉1961-1968』 東京 : 岩波書店.
Rorty, Richard. Contingency, irony, and solidarity. Cambridge ; New York : Cambridge University Press, 1989.
「リベラリズム」という語は非常に抽象性が高い。一般的に「リベラリスト」と形容される論者の多彩さを想起すれば分かるように、「リベラリズム」が指すとされる思想の形態は実に多岐に亘る。討議の倫理を引っ提げて「コミュニケーション的理性」の重要性を説くハーバーマスのような論者から、政府による経済への介入を排した市場メカニズムを重視する「リバタリアン」まで、「リベラリズム」の射程は極めて広い。そこで、本論における「リベラリズム」の定義として、井上達夫のそれを借用したい。井上氏は『共生の作法 : 会話としての正義』において、リベラリズムのアイデンティティを、個別の論者が提示する「解答」の内容的類似性にではなく、「問い」のレベルでの共通性に見出している。すなわち、「善の諸構想の多元性を所与として承認せざるを得ない状況において、社会的結合はいかにして可能か」という問いである。言い換えれば、多様な価値観や信念が相競合する社会において、我々は如何なる共生の道を引くことが出来るか、という問いこそが、リベラリズムの「自同性の根」をなすというのである。
【丸山眞男のリベラリズムの確立】
この定義に従えば、我々は丸山眞男を立派なリベラリストと見なすことができる。というのも、彼は戦前の助手時代から一貫して、公私の領域を分離し、全体を管制する政治権力の下で、様々な「私的」な活動が自由に展開する「寛容」の体制としての、近代社会のあり方を積極的に擁護しているからだ。こうした丸山の思想が確立されていった過程を、以下に概観しておきたい。(なお、この箇所は苅部直『丸山眞男 : リベラリストの肖像』に多くを負っている)。
まず、助手時代の初めての論文、荻生徂徠を中心に徳川時代の思想史を通観した「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」において丸山は、「政治」が支える制度に枠付けられた秩序の下で、「諸々の文化価値の独立」がなされ、信条の赤裸々な解放と、様々な信条への「寛容」が確立することが「近代意識の成長」だと説き、荻生徂徠から本居宣長に至る思想の系譜にその萌芽を見出している。しかし、この段階では「個人の自由」を秩序の前提条件に位置付けるには至っていない。
続いて助教授に昇進した後に書かれた第二論文「近世日本思想史における「自然」と「作為」――制度観の対立としての」で丸山は、秩序を人間の「作為」によって基礎づける徂徠の「作為の原理」――むろん、徂徠が考える「作為」の主体は古代の「聖人」と代々の為政者に留まるが――から、西洋の社会契約説を抽出する。この論文で丸山は、「政治的なるもの」が成立する以前に、どんな公的権力も侵してはならない道徳秩序が存在するはずだと説いている。つまり、「私的」な領域における個人が、「自由」や「通義」(rightの訳語)といった共通の価値を信奉し、これを守るために他者と約束を取り結び(=作為)、「人間仲間」(societyの訳語であろう)を結成する、というのである。このようにして、お互いの「主体性」を承認し合う対等な「仲間」の道徳秩序が成立し、ここに個人の自由が確保される。
おそらく、このように論じるときの丸山の脳裏にあったのは、当時の日本の状況であろう。戦時中の強力な統制下でも、人々は抵抗の意識を持たず、むしろ上位権力へと随順し、見境なくこれと同化していく。このような「ずるずるべったり」の関係性は、人々の主体性の欠如と、その必然的帰結としての「人間仲間」秩序の不在に由来すると言えよう。こうした日本人の伝統的な精神構造への批判は、戦後の論文「超国家主義の論理と心理」においてなされ、この論文によって丸山の名が論壇や文壇に広く知られるようになる。
【転倒された義務論】
安易な図式化かもしれないが、リベラリストは、リベラルな社会を擁護するその根拠によって、「義務論者」(自由ないし権利の超越的な価値に訴える論者)と、「帰結主義者」(自由ないし権利を尊重する社会の方が結果として人々が幸福になる、と主張する論者)とに大別することが出来るだろう。例えばカント、ロック、J.S.ミル、ノージックらは義務論者に、ハイエク、フリードマン、ローティらは帰結主義者に分類されるだろう。「どんな公的権力も侵してはならない道徳秩序」の存在を説く上の丸山の議論を見れば、彼は一見義務論者に見える。しかし、丸山の自由観は、無条件に自由の価値を礼賛する義務論者のそれとは一線を画す。いな、丸山はもっとニヒリスティックで老獪である。丸山が感銘を受け、ノートに写して暗記したというハンス・ケルゼンの言葉が、丸山自身の自由観を如実に表していると思う。ケルゼンの論文「プラトンの正義論」の末尾の一節を、丸山は以下のように口頭で要約している。(丸山眞男集の編集者、小尾俊人の筆録による)
絶対の正義は存在しない。しかし人は執念を持つものだ、それによって動くのだ、それがどんなにイリュージョンであっても、イリュージョンの方が現実より強い。人間というものは、たとえ血と涙の道であってもプラトンの道を歩むのだ。
相対主義的なニヒリズムに晒されている現代人にとっては、プラトンのように絶対的な真理や正義の実在を確信するのは難しいかもしれないが、強大な権力に対抗するためには、人々は敢えて幻影としての「自由」や「権利」に訴えざるを得ない。逆説的だけれど、「絶対の正義は存在しない」としても、我々は超越的な価値を棄て去ることはできないのである。のちの座談会で丸山は以下のように語っている。
もし経験的事実として目の前に映る世界がすべてになってしまって、それをこえた目に見えない権威――神であっても理性であっても「主義」であってもいい、とにかく見えざる権威によって自分がしばられているという感覚がなくなったら、結局は見える権威に――これまた政治権力であろうと、世論であろうと、評判であろうと――ひきずられるというのが、私の非合理的な確信なんです。
メディアのもたらす情報洪水の中に漂う、現代大衆社会の人間は、もはや何が本当の自分の思考なのか分からなくなり、足元には価値の相対性とニヒリズムが纏わり付いてゆく。このような時代の中、敢えて自由の価値を信奉し、声高にこれを唱える丸山は、まさに「転倒された義務論」者と言えよう。
【自我への問い直し】
丸山の論文は繰り返し「公共の問題を討議すること」や「自発的結社」の意義を強調する。例えば1953年の論文「ファシズムの現代的状況」は以下のように結ばれている。
これ[ファシズムの強制的同質化を準備する素地]に抵抗するためには、国民の政治的社会的な自発性を不断に喚起するような仕組みと方法がどうしても必要で、そのために国民ができるだけ自主的なグループを作って公共の問題を討議する機会を少しでも多く持つことが大事と思われます。ファシズムが一番に狙ったのが労働組合を先頭とする自主的結社であることは、それ自身、こうしたグループが国民の受動的なマスへの転化を食いとめる機能のいかに重要な担い手であるかを物語っているものといえましょう。
このような議論を見れば、我々は直ちに「コミュニケーション的行為」の重要性を説くハーバーマスとの共鳴関係を見出すだろう。確かに、丸山とハーバーマスは共通するところは多い。権力による「人間仲間」秩序および個人の内面世界への侵入を批判する丸山と、「システム」による「生活世界」への侵入に警鐘を鳴らすハーバーマスとの理論的・思想的類似性は、おそらく偶然ではあるまい。しかし同時に、我々は両者の差異にも注目しなければならない。すなわち、言語使用に内在する「コミュニケーション的理性」に立脚し、「理想的な発話状況」を不断に目指すハーバーマスに対して、丸山は「理性的な主体」という(近代主義が想定するような)人間像にあくまで懐疑的である。特に戦後アメリカで行われたヒステリックな共産党員狩り(レッド・パージ)にショックを受けた丸山は、以後この懐疑的傾向を強めていく。
1961年に書かれた論文「現代における人間と政治」で丸山は、チャールズ・チャップリンの映画『独裁者』にある、飛行機に乗り雲海の中を進んでいく主人公が、機体が上下逆さまになっているのに気付かないシーンを取り上げて、実は現代の人間はこうした「逆さの世界」に住んでいるのが今や常態であると述べている。つまり、国家や様々な組織の内側に住む人間は、その内部だけに浸透するイデオロギーや「常識」によって、世界を見る目が初めから一定の「イメージ」の眼鏡を被せられているのである。今や丸山にとって、誰もが自分の世界の外に出て、人類全体の共通空間で語り合えるとするハーバーマス的なコミュニケーション論は、単なる理想論でしかない。ならば、我々は如何にして「外側」の住民の声に耳を傾けることができるであろうか。
ナチスドイツにおいて行われたグライヒシャルトゥング(強制的画一化政策)を取り上げながら、丸山は同論文で以下のように述べている。
ナチの場合においてもイデオロギー的分布は、同じ内側(正統)の世界でも中心部と周辺とでは均等ではなく、異端との(精神的)境界領域の状況はかなり流動的であった。いいかえれば、最初からの明確なイデオロギー的ナチ派はそれほど多くなかった。そうした中心部から遠いところほど、異ったイメージの交錯にさらされ、それだけイメージの自己累積作用ははばまれていたわけである。……どの社会でも知識人の多数はこうした境界領域に住んでいる。知識人が一般に「リベラル」な傾向をもつといわれる所以である。しかしリベラルであるということが、たんに自分の外の世界からのさまざまの異った通信(ここでいう通信とはマス・メディアだけでなく、広く外界の出来事が自分の感覚に到達するプロセスを指す)を受容する心構えをもち、その意味で「寛容」であるというだけなら、それはこの境界領域の多数住民のむしろ自然的な心理状態にすぎない。……境界に住むことの意味は、内側の住人と「実感」を頒ち合いながら、しかも不断に「外」との交流をもち、内側のイメージによる自己累積による固定化をたえず積極的につきくずすことにある。
我々に残された道は、あくまでも「内側」に留まっていることを自覚し、同時に「外側」との境界に立ち続けることである。こうして丸山は、「他者をあくまで他者としながらも他者をその他在において理解すること」を呼びかける。
理想化された主体像に飛翔するのではなく、あくまで「自我の偶然性」を前提にしながら、コミュニケーションを続けていくことの重要性を強調する丸山の議論は、ハーバーマスよりはむしろ、自己の偶然性・可謬性に立脚し、「寛容」の体制としてのリベラリズムを徹底的に擁護するとともに、「啓発」活動の重要性を説くリチャード・ローティの思想を彷彿とさせる。
参考文献
井上達夫. 1986. 『共生の作法 : 会話としての正義』 東京 : 創文社.
小尾俊人. 2003. 『本は生まれる。そして、それから』 東京 : 幻戯書房.
苅部直. 2006. 『丸山眞男 : リベラリストの肖像』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 2003. 「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」『丸山眞男集〈第1巻〉1936-1940』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 1996. 「近世日本思想史における「自然」と「作為」――制度観の対立としての」『丸山眞男集〈第2巻〉1941-1944』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 2003. 「超国家主義の論理と心理」『丸山眞男集〈第3巻〉1946-1948』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 2003. 「ファシズムの現代的状況」『丸山眞男集〈第5巻〉1950-1953』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 1998. 『丸山眞男座談〈5〉1964-1966』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 1996. 「現代における人間と政治」『丸山眞男集〈第9巻〉1961-1968』 東京 : 岩波書店.
Rorty, Richard. Contingency, irony, and solidarity. Cambridge ; New York : Cambridge University Press, 1989.