2011年5月23日月曜日

プラグマティック実在論の構築

以前予告していた通り、真理対応説を放棄し、代わりに真理実用説を採用する独自の実在論を構築してみたい。この実在論は、観察不可能な物理的対象の実在を真と見なす点において従来の科学的実在論と重なるが、真理対応説を放棄し、真理実用説に依拠する点において異なる。真理実用説に依拠することによって、パトナムの「奇跡論法」を補修し、「悲観的帰納法」による批判を克服できることを示したい。この実在論は、いわばプラグマティックな転回を経て変貌した科学的実在論である。これが尚「科学的実在論」の名に値するかどうかは読者諸氏の判断に委ねたい。

【実在と真理に関するテーゼ】

(1a) [外部世界の実在に対する無条件の信仰] 世界は人間の認識活動から独立して存在するか否か、という問い自体が、「世界」、「人間」、「認識」といった我々の使用する語彙を前提にしており、またこれらの語彙に依存する。事実、この問いはこれらの語彙を離れては考えられないし、また我々は「世界」、「人間」、「認識」といった語彙を放棄することもできない。したがってこの問いは無意味である。日常的な直感として、外部世界はただあるということを、我々はア・プリオリな事実として受け入れ、無条件に信じる他ない。

(1b) [真理実用説] 真理は外部世界には存在しない。言い換えれば、真理は、実在を記述しようとする人間の表象活動を離れては存在しない。これは伝統的な「真理対応説」の否定を意味する。他方で、「真理整合説」もまた受け入れらない。というのも、整合説は外部世界からの経験的入力を無視しているから。ここで言う「真理実用説」は、「問題に対する解決」を以って真理を定義する。当然、この真理は絶えず修正の可能性に開かれており、その点において「可謬的」かつ「限定的」である。「絶対的な真理」なるものは人間の不治なる形而上学的欲求が生み出した幻想に過ぎない。

【外部世界の実在に対する無条件の信仰】

(1a)は明確に後期ウィトゲンシュタイン的な言語観に基づく。そもそも、プラトン以来およそすべての西洋哲学者の間では、哲学者の仕事は解決困難に見える問題群(「自由意志」、「精神と物質」、「真理」、「善」、「美」)を論理的分析によって解きほぐすことだという考え方が支配的だった。しかし、これらの「問題」は実際のところ哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題に過ぎないとウィトゲンシュタインは喝破したのである。言語は日常的な目的に応じて発達したものであり、したがって日常的なコンテクストにおいてのみ機能するのだとウィトゲンシュタインは述べる。しかし、日常的な言語が日常的な領域を超えて用いられることにより問題が生じる。ウィトゲンシュタインは言う。

「哲学の成果は、いくつかの明瞭なナンセンスと、言語の限界に突き当たって理解がこしらえた瘤をあばくことにある。発見の価値は、こうした瘤からわかる。」(ウィトゲンシュタイン、『哲学探究』)

言語の限界が思考の限界なのである。「実在性」に関する形而上学的な議論も例外ではない。それは明らかにウィトゲンシュタインの言う「理解がこしらえた瘤」である。


【真理実用説】

(1b) 「真理実用説」は、主にジョン・デューイの真理概念に依拠している。伝統的な「真理対応説」と「真理整合説」はそれぞれ固有の難点を抱えていおり、これらの難点をデューイの真理概念は乗り越えるのである。以下に詳細に説明したい。(なお、この箇所は魚津郁夫『プラグマティズムの思想』に多くを負っている)。

まず「真理対応説」。「真理対応説」(correspondence theory of truth)は、その名の通り、「実在と対応していること」が真理であるとする。例えばアリストテレスは、真理を定義して、存在するものを存在しないといい、存在しないものを存在するというのが虚偽であるのにたいして、存在するものを存在するといい、存在しないものを存在しないというのが真理である、と述べている。このように、命題(あるいは観念、言明、など)と、事実(あるいは出来事、事態、など)とが対応(correspond)するとき、その命題を真理とするのが真理対応説である。しかし真理対応説には重大な難点がある。というのは、事実はすべて命題によって記述されなければ、事実として知られることがないからである。それゆえ一方に命題Aがあり、他方に事実aがあって、Aと a が対応しているかどうかを知るためには、一方の命題Aのほかに、他方の事実 a を記述する命題Bが必要となる。しかしその命題Bが、そもそも事実 a と対応しているかどうかを知るためには、a に関するまた別の命題Cが必要となり、ここに無限後退が生じる。つまり、真理対応説は、実在と命題を直結させる何らかの超越的(=魔法的)なメカニズムに依拠しない限り成立し得ないのである。

では「真理整合説 」はどうか。「真理整合説」(coherence theory of truth)は、ある命題が一般的に認められている他の多くの命題と整合的であるとき(すなわち矛盾しないとき)、その命題を真理とする考え方である。しかし、これにもやはり難点がある。整合性という真理の基準だけでは、互いに整合的な様々な命題が得られたとしても、そうした様々な命題は私たちの経験する事実(あるいは出来事、など)と関係を持たないことになる。しかし、少なくとも事実に関する命題は、感覚的経験を述べる命題と何らかの仕方で関わりを持たなければならない。つまり、真理整合説は経験的入力を無視しているのである。

しかしデューイは、真理対応説の言う「対応」という言葉を広く解釈して、この困難を逃れることを試みる。すなわち、対応とは、鍵がその条件に合致するように「合致する(answer)」、言い換えれば鍵が鍵穴にぴったりおさまってその機能を果たすということであり、問題に対して適切な解決をもたらすように「答える(answer)」ことであるという。要するに、対応とは問題を解決することだ、というのである。

このように、真理についての考え方においてデューイは、一方では、チャールズ・パースの影響のもとに、可謬主義に立脚した究極の真理に関するパースの定義に賛同するとともに、他方では、ウィリアム・ジェイムズの影響のもとに、真理は有用性(すなわちデューイの場合は問題解決の可能性)によって初めて真理として認められることを主張したのである。

こうしてデューイは言う。「私が主張するような理論こそ、真理対応説とよばれる資格のある唯一の理論である。」 ただ、デューイには申し訳ないが、ここでは従来の真理対応説と区別するため、デューイの真理概念を「真理実用説」(pragmatic theory of truth)と呼びたい。


【観察不可能な物理的対象に関する実在】

(2) 観察不可能な物理的対象(電子や波動関数など)は、それを扱う科学理論が成功している限り、その実在を真とする。

これは上述した「真理実用説」に基づく。当然、かつてのエーテルや熱素の概念が後に否定されたように、現在「真」であると見なされている概念や科学理論も、将来否定ないし修正される可能性に開かれている。ただし、このテーゼは「道具主義」(instrumentalism)や「反実在論」(anti-realism)の立場とは明確に異なる。「観察可能な現象の背後にある観察不可能な隠れた実在の真の姿は知り得ない」とする道具主義や反実在論とは異なり、(2)のテーゼははっきりと観察不可能な対象の実在を真と認める。というのも、成功している科学理論(電子や波動関数を扱う科学理論)を説明するには、観察不可能な対象の実在を認めるのがもっともらしいからだ。これはむしろ、科学的実在論の立場から道具主義への批判として寄せられたヒラリー・パトナムの「奇跡論法」(argument from miracles)に近い。パトナムの「奇跡論法」の概要は以下の通り。

奇跡論法とは、もし電子や光子といったものが実際に理論で記述されるような形で存在しないとすれば、「科学の成功」が一種の奇跡になってしまう、というもの。この奇跡論法は次のようなアブダクションの構図を持つ。すなわち説明されるべき事柄として「科学の成功」を取り、この「科学の成功」を説明する側の仮説として道具主義と科学的実在論を並置する。そして道具主義による「科学の成功」の説明は一種の奇跡になってしまうが、科学的実在論による「科学の成功」の説明はもっともらしい、ともっていく。これが奇跡論法である。(Wikipedia、「道具主義」より抜粋)

ただし、パトナムが「科学の成功」全体を説明されるべき事柄として配置しているのに対して、(2)のテーゼはあくまで個別の科学理論において適用される。また、奇跡論法が、観察不可能な対象の実在を無条件に絶対化するのに対して、(2)のテーゼは「それを扱う科学理論が成功している限り」という条件節を加える。「実在の真の姿」に超越的な意味を付与せず、あくまで限定的・可謬的なものと見なすことによって、科学理論が修正の可能性に開かれているという事実を我々は許容できるようになる。このようにして、奇跡論法の弱点である「悲観的帰納法」による批判を克服できるのである。

W.V.O.クワインも述べているように、観察不可能な物理的対象の存在を信じることと、ホメロスの神々の存在を信じることには、本質的な差異はない。ただし、こうした物理的対象の神話は、他の神話よりも認識論的に優れているという。

認識論的な地位のうえで、物理的対象と神々との間には、程度の差があるだけで、種類の違いがあるわけではない。どちらの存在も、文化的仮定としてのみ私たちの考え方に入ってくるのである。物理的対象という神話が、大抵の他の神話よりも認識論的に優れているのは、経験の流れ (the flux of experience)の中に、取り扱いやすい構造を作り出す装置として、より有効であることが分かっているためである。(クワイン、『経験主義の二つのドグマ』)

この箇所は、クワインのプラグマティズムをよく表しているだろう。私が主張する真理実用説に基づく実在論も、基本的にクワインの立場と軌を一にするものだと思う。


【科学の位置付け】

(3a) [概念相対性] 語彙や概念図式などの表象システムは認識論的に恣意的である。ゆえに、同一の実在を表象するために、複数の異なる表象システム(=言語)を用いることが可能である。

(3b) [還元不可能性] 実在を表象する多元的な言語は、ほとんどの場合、相互に還元不可能である。ただし「還元」とは、「意味を損なわずに翻訳できること」という意味である。

(3c) [科学の進歩] 自然科学の知識は漸進的に進歩する。科学の進歩は次のように定義することができる。すなわち、時点Aにおいて記述ないし予測可能な現象が、時点Bにおいて記述ないし予測可能な現象よりも多ければ、時点Aの方が時点Bよりも科学が進歩している、と。

(3a)概念相対性のテーゼは、以前紹介した中山先生の世界概念におけるそれと同様、語りの多元性を保障する。同一の実在を表象する、多元的かつ重層的な諸言語の実践が許容されるのである。ただし、これらの言語はほとんどの場合、相互に還元不可能である(3b)。ここで言う「還元」とは、S.プリーストに倣って「意味を損なわずに翻訳できること」と定義する。例えば、「心」の言語を「脳科学」の言語に還元することは不可能である。同様に、生物学の言語を化学の言語に還元することも不可能であるし、化学の言語を物理学の言語に還元することも不可能である。こうした還元論/全体論を巡る議論は、科学的探究の位置付けにとって非常に重要な問題であるが、如何せん深入りするだけの用意はまだ私にはないので、詳細な考察はまたの機会に委ねたい。

(3c)科学の進歩のテーゼは、基本的に科学的実在論と世界観を共有する。ただし、人類が唯一の真なる表象に到達できるとは考えていない。これは、先述した(3a)概念相対性テーゼと、(3b)還元不可能性テーゼの必然的帰結である。

以上、真理実用説に基づく独自の実在論を描いて見せた。この立場を科学的実在論の亜種として位置付けるべきか、あるいは別の既存の立場の仲間と見なすべきか、はたまた今までにない全く新しい立場と見なすべきかは、私には判断しかねるが、当面「プラグマティック実在論」という呼称を用いることにしたい。

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