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2011年10月15日土曜日

タルドの社会理論と「法則」に関するメモ

タルドの社会理論は非常にいい感じだけど、微かに設計主義の残り香を感じてしまう。実際に読んでないのでなんとも言えないが、例えば『社会法則』ではこう述べられている。
「そのような美しい調和が起こるためには、その調和が実現される以前に、誰かによって認識されなければならない。社会的調和は、それが広大な領域を覆うようになる以前に、なんらかの脳細胞のなかで、ひとつの観念として存在することがなかったとしたら、そもそも起こりえないのである」(94項)
これは科学や芸術について言えば確かにその通りかもしれないが、社会的現象一般には当てはまらないように思う。例えば言語とか経済。そこには、ひとりの成員の脳には還元できない独自の構造性があるのだ。『モナド論と社会学』ではこうも述べられている。
「ライプニッツは〈予定調和〉というものを発明しなければならなかった。それと同じ理由から、物理主義者たちは、〈盲目的に漂う原子〉という考え方を補足するために、普遍法則や特殊公式に頼らざるを得ない。そして彼らは、それにあらゆる法則を還元し、あらゆる存在がそれに従うような、しかしそれ自体はいかなる存在にも由来しないような、一種の神秘的命令をでっちあげる。しかし、これまで誰からも発せられたことがないにもかかわらず、いたるところでつねに聞かされるそのような命令は、理解不能で意味不明の言葉と変わらない」(160項)
タルドは、デュルケームの社会実在論の系譜と、スペンサーの社会進化論の系譜の両方を退ける。その根拠となるのは、成員の行為を命令する法則の存在の否定である。確かに、タルドが述べるような種類の法則は存在しないと言えよう。しかし、成員の行為を「外側」から命令・規制する法則だけが法則ではない。複雑系やサイバネティク・システムに見られるような、要素の自律的運動それ自体が法則として顕れるケースもあり得るのだ。そして、社会的現象において見られる再帰的な構造性は、この後者の種類の法則性に他ならない。それは、成員たちの行為の必然的帰結であるにもかかわらず、どの成員の精神内心理を探っても出てこない独自のパターンや振る舞いを示す。タルドは「精神間心理学」(interpsychology)を「精神内心理学」(intra-psychology)に対置して見せたにも関わらず、この精神間心理が示す独自の法則性に気付いていなかったのではないか。同時代のほとんどの社会学者と同様、スミスが「見えざる手」によって意味したものを彼は理解していなかったのではないか。この法則性は、成員たちの振る舞いを一つ上の階層から指揮する命令者のようなものではなく、細胞の自己組織化から銀河集団の形成に至るまで、あらゆる自然現象を縦に貫く物理学の法則なのである。〈予定調和〉は存在する。神は存在するのである。上空に君臨する指揮者としてではなく、モナドの振る舞いそれ自体に内在する形で。

集合的実体としての社会概念を拒否し、伝統的なミクロ/マクロ図式を解体するタルドは、間違いなく異才の思想家であったと言えよう。しかしそんな異才の思想家でさえ、法則を「命令者」としてしか理解できなかったことは、同時代の抗い難い知的雰囲気を物語っているように思う。

ここに至れば、タルドの社会理論は――「社会」の集合的実在を否定する点でなるほどデュルケームのそれとは両立し得ないが――スペンサーの社会進化論の系譜とは両立し得るのではないかと思えてくる。ハイエクの社会理論がまさにその位置にあるように思う。 つまり、ハイエクの社会理論はタルドの社会唯名論とスペンサーの社会進化論をうまい具合に調合したものとして理解できるのではないか。もちろん、ある程度の摩擦はある。よく言われる、方法論的個人主義と文化的進化論の方法論的整合性の問題がそれである。また、管見の限りハイエクがタルドに言及している箇所はないし、その存在を知っていたのかどうかすら定かではないので、思想史的にハイエクとタルドの関係については何も言えない。

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