2011年2月17日木曜日

サイバネティクスと「創発」

1990年代、アメリカの科学者の間で「知的設計論(インテリジェント・デザイン)」という考え方が広まった。その内容はというと、「知性ある設計者によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計された」とする説で、従来のダーウィン的な進化論を否定するものだった。この説は、「原始的な動物が次第に進化して人間になった」という進化論の世界観と、「全ての人間の祖であるアダムは神によって創造され、その妻イヴはアダムの肋骨から生まれた」という聖書の記述を巡る論争から生まれたもので、創造論を信じるキリスト教徒やユダヤ教徒にとってはうってつけの理論だった。ブッシュ大統領をはじめ知的設計論を信じる一部の人たちは、公立学校の理科のカリキュラムに(進化論の代わりに)知的設計論を導入しようとする運動を展開し、社会問題になった。結局この試みは「政教分離の原則に反する」として、ペンシルベニア州裁判所によって知的設計論を教育することを禁止する判決が下され、問題は一応の解決をみた。

さて、この騒動のおかげで「知的設計論」 の世評は大きく損なわれる結果となったが、 果たしてその主張は本当にバカバカしいものだったのだろうか?果たして知的設計論は本当に科学的価値のない、単なる宗教的信条として処理してしまっていいのだろうか?私は「否」だと思う。というのも、生命や宇宙を設計したという「知性」は、必ずしも「神」である必要はないからだ。

サイバネティクス論などで有名なグレゴリー・ベイトソンは、生命と宇宙の法則性を司る大いなる「マインド」の存在を主張した。彼はその代表的著書『精神の生態学』(Steps to an Ecology of Mind)において、世界をシステムの連関・集積として捉え、それぞれのシステム内の諸要素が競争と相互依存を繰り返すことによってシステム全体の秩序が保たれていると述べている。これらのシステムはすべてフィードバックによって環境の変化に適応し、絶えず自己修正していく。(このようなシステムをサイバネティクス・システムと言う)。そしてすべてのシステムを秩序付ける大いなる法則性こそが「マインド」なのである。ベイトソンにとっては細胞も、人間の精神も、 動物の生態系も、高度な人間社会も、すべてサイバネティクス・システムであり、そこには常に「マインド」が遍在している。

例えばシロアリを想像してみて欲しい。シロアリは巨大で複雑な蟻塚を作ることで知られているが、それぞれのシロアリは驚くほど単純ないくつかの機械的な「行為ルール」に基づいて振舞っているに過ぎず、「意識」を持たない。(E.O. Wilson, The Insect Societies) しかも、「蟻塚の作り方」というもの自体は遺伝子に組み込まれておらず、それぞれのシロアリの行動は単独では意味を成さない。しかし、そのようなシロアリが何万匹と集まると、彼らの行動の集積の「意図せざる結果」として巨大で複雑な蟻塚が出現する。固体単位でみれば「知能」があるようにはとても思えないが、系全体としてみれば「知的」な生命体にみえるのである。

このような現象は「創発」(emergence)と呼ばれている。「創発」とは、要素の単純な相互作用や連関から、複雑なシステムやパターンが現れる現象のことだ。ただ、ここで注意しなければならないのは、「創発」には二種類――「弱い創発」と「強い創発」――があるということである。「弱い創発」は、「部分からは予測できない何か」が出現することを言うのに対して、「強い創発」は、「部分の総和以上の何か」が出現することを主張する。両者には明らかに違いがある。前者は、部分の単純な振る舞い以上の「何か」を想定しておらず、あくまでわれわれ人間には「予測できない」全体の性質に言及しているに過ぎないが、後者は部分の振る舞い以上の「何か」が実際に現象として生じることを想定している。言い換えれば、前者は観察する人間の主観に依存する認識論上の「創発」であり、後者は人間の主観からは独立した存在論上の「創発」である。

Mark Bedauは、「強い創発」が必然的に伴う「呪術的」な含意を、以下のように不安げに述べている。

強い創発は理論上は可能だが、不気味な「呪術的」要素を伴わざるを得ない。部分に還元できない付随的(スーパーヴィーニエント)な下方因果の力が出現し得るとすれば、それは定義上部分の性質の総和によるものではあり得ないのだから、どのようにしてあり得るというのだろうか?そのような因果力が本当にあるとすれば、それは我々の科学的知見からはおよそかけ離れたものである。したがって、そのような力の存在は、通常の唯物論的な世界観とは噛み合わない。そればかりではなく、そのような怪しい力を想定することは、創発が「無から有を得る」という非論理的な意味合いを孕んでいるのではないか、という以前からの憂慮が増すことになる。(Bedau, "Weak Emergence")

私もBedauと同様、「強い創発」には「オカルト的な薄気味悪さ」を感ぜざるを得ない。後の論文でBedeauが指摘しているように、「強い創発」の存在を想定することはおそらく科学的に誤りだろう。

さて、上の蟻塚の例に戻ろう。私が言いたいのは、「複雑な人間社会もシロアリの蟻塚と全く同じような現象なのではないか」ということである。自然界のすべての複雑現象――生命、精神、社会、生態系――も蟻塚の例と全く同じように、部分の機械的・法則的な振る舞いから、必然的帰結として「創発」している(ように見える)だけなのではないだろうか?

このことを示唆する面白い実験がある。トーマス・レイが開発した「Tierra」という人工生命システムだ。Tierraでは、自己複製する一個のプログラム(遺伝子コード)を「仮想生命」に見立て、コンピュータのメモリ空間内で「飼育」する。仮想生命に与えられたエネルギーは、割り当てられたCPU時間である。また、メモリ空間が一杯になってしまうと仮想生命は「子孫」を残すことができなくなってしまうので、メモリが80%以上になると「死神」が現れ、古い仮想生命から消去していく。さらに、自然界における「突然変異」に等しいものとして、自己増殖時に一定確率で遺伝子コード(CPUへの命令コード)のビットを反転させる。この三つの機械的な命令――「自己増殖」、「死」、「突然変異」――を与え、コンピュータを起動したまま長時間放置しただけで、本人ですら予想できなかった驚くべき仮想生命が次々と誕生したのである。別の仮想生命に寄生してCPU時間を奪う「寄生種」や、お互いに集団を形成して助け合いながら複製する「社会的パラサイト」や、「セックス」をして遺伝子同士を混ぜ合わせる仮想生命まで現れた。(詳しくは→http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/jinkou.html)。これは、いくつかの単純な「行為ルール」に基づく部分(遺伝子コード)の機械的な振る舞いから、予想できなかった全体が「創発」した例と言えるだろう。ならば、自然界の複雑現象も同様のメカニズムに基づいている可能性も十分あり得るのではなかろうか?

これがまさにベイトソンの世界観である。デカルトは「我思うゆえに我あり」と論じたが、本当に「我思う」と「我あり」の間のロジックは確かなのだろうか?我々が通常「意識」とみなしている現象は、実は我々の無知と人間中心的な推論による錯覚でない保証は、どこにあるのだろうか?はっきり言ってないと思う。このようにして、知的設計論は別の意味で復活してくるのである。この「新しい」知的設計論では、生命と宇宙を設計した「知性」 は「マインド」であり、「マインド」は我々を含むすべてのシステムに遍在していることになる。

しかし、このような議論は「強い創発」とは別の意味で薄気味悪い想像を孕んでいるように思える。つまり、我々が「没精神的」な存在であるならば、我々にとって自由意志の余地が無くなってしまうのではないだろうか、という想像である。果たして我々はシロアリと何ら変わりないのだろうか?私はそんなことはないと思う。確かに、(このような世界観を採用する限り)大きな視点で俯瞰すれば人間には自由意志がないと言えるかもしれない。しかし、我々は無知だ。シロアリが自らの作る蟻塚を予測できないのと同様に、我々は我々自身の未来を予測することはできない。我々にとって、自らの運命が既に決定されているのかどうかを論じることは意味を成さない――仮に決定されていたとしてもそれを知る術はないのだから。未来を知る術がない以上、我々は全力で大いなる自然(=マインド)にぶつかっていき、失敗してもまたぶつかっていくしかないだろう。それが自由意志を行使するということだ。