2011年5月28日土曜日

【書評】 ハイエクと現代リベラリズム : 「アンチ合理主義リベラリズム」の諸相 (渡辺幹雄)

本書は渡辺幹雄の処女作『ハイエクと現代自由主義 : 「反合理主義的自由主義」の諸相』を改訂・増補・改題したものである。本書を読んで、渡辺幹雄という男はやはり天才以外の何者でもないという以前からの確信がさらに強まった。否、その独特の軽やかな語り口、捻くれたユーモアのセンス、そして何よりもハイエクらアンチ合理主義リベラリストたちの錯綜する議論を分かりやすく整理し、見事に調理していく手腕を見れば、むしろ「鬼才」という呼称が相応しいかもしれない。特に、新たに増補された付章一「複雑さと社会科学――ハイエクの方法論に関する試論」は貴重な知見に溢れていて、この章だけのために本書を読む価値はある。

【序論「リベラリズムとは何か」】

まず序論「リベラリズムとは何か」において渡辺氏はこう啖呵を切る。

リベラリズムは本来「反自然的」なのである。それがhuman natureの開花であろうはずがない。前期ロールズに受け継がれた啓蒙主義のリベラリズムは、その実human natureの神話に立脚した詭弁なのである。我々にリベラルであることを要求(強要)するのはそのhuman natureではなく、我々の直面する客観的境涯である。誰も好きこのんでリベラルになどなりはしない。ウォーリンが言うような悲観的境涯を生き抜くために、人は仕方なく、やむをえずリベラルになるのである。(p.13)

リベラリズムに人間の幸福を問うのはお門違いである。リベラリズムは幸福のためのガイドラインではなく、破滅を避けるための政治的知恵である。幸せになりたい人は、別のところに相談に行くべきであろう。リベラリズムにそれを求めても、期待は裏切られるだけである。(p.14)

渡辺氏のこのリベラリズム観には満腔の賛意を表したい。このリベラリズムは、前期ロールズに代表されるような、包括的な哲学や人間の普遍的道徳性に立脚したアメリカン・ハッピー・リベラリズムではない(このリベラリズムでは、リベラルな社会は「定義によって」幸福なのである)。否、ハイエク、ポパー、オークショット、M・ポランニー、バーリンに代表されるこのリベラリズムは、「敗北のリベラリズム」、「絶望のリベラリズム」なのである。

その通り、彼らは暗い。少なくとも、彼らの著作に(ときに笑えても)明るい夢や希望を見出すことはできない。いな、よく言えば老獪で、悪しく言えば嫌味な加齢臭の漂う「年寄りの説教」というのが妥当なところだろう。彼らのメッセージの最大公約数は、私にはこう響く。「鼻息の荒いお若いの、おまえの理想は高邁で、その原理原則は高潔だ。だが残念なことに、人間もこの世界も、おまえの言うようにはできていない。もしおまえの夢が現実になったら、この世は地獄になるだろう」。(p.7)

渡辺氏は彼らのリベラリズムを「アンチ合理主義リベラリズム」と呼び、本書ではハイエクを主軸に彼らの思想を一人ひとり読み解いていく。ハイエクを取り巻く重要思想家たちと対比させながら、ハイエク自身の思想に周縁から徐々に迫っていくという、本書のこの構成は間断を許さない。以下では、特に興味深かった論点をいくつか抽出してみたい。


【<P=O図式>の呪縛】

ハイエクに対するありがちな批判の一つに、彼が悪しき「経済主義」ないし「物質主義」の旗振り役だと言うものがある。例えばオークショット研究者ポール・フランコは、ハイエクがリベラルな政治社会を、それが生産性を向上させ、広く経済活動の効率を高める(経済主義・物質主義)がゆえに支持している、つまりハイエクのリベラリズム擁護は、経済的動機によってなされており、これが政治理論としてのリベラリズムを汚している、という旨の主張をしている。しかし、渡辺氏も指摘しているように、これはフランコが、ハイエクの経済思想に対して無理解であることを自ら露呈している。そこで渡辺氏は、ハイエクの経済観を説明するために、<P=O図式>という概念を導入する。

アリストテレスの学問分類によれば、経済(economy)はオイコス(家政)としてつねに政治(ポリス)に服従するべきものとされる。オイコスは人間の動物としての必要を満たす領域、換言すれば、必然性に拘束された不自由な私的空間――プライベート、すなわち人間の人間たる意味を「奪われた」(privatus)空間――であり、それに従事すべきは存在論的に未完成とされた女、子供そして奴隷であると言われた。これに対して、政治は人間(正しくは成人男子)の本質が開花する自由な公的空間であり、そこにおいてこそ人間が完全な人間として形成される(人格陶冶の)場であると考えられた。したがって女は男に、オイコスはポリスに、そして経済は政治に服するべきなのだ。今この図式を<ポリス=オイコス図式>(以下<P=O図式>とする)と呼ぶとすれば、この図式は――その冒頭の性差別的存在論を除いて――現代にいたっても数多の政治哲学者の共通図式になっている(彼らは妙に政治にプライドを持っている)。(p.131-132)

このアリストテレス以来の<P=O図式>を、civic humanism(人間は市民すなわち政治的人格であることに宿る)という形で現代にもっとも強力に復活させたのはハンナ・アーレントであろう。彼女にとって近代とは、本来私的空間であるはずのオイコス(経済)が、人間性の発現の場である公的空間ポリス(政治)を浸食し、それに取って代わる時代であった。オイコスの論理の拡大としての経済主義こそ、近代のリベラリズムを束縛し続け、政治社会のあるべき姿を歪めている元凶である、と彼女は考えたのである。そして、未だに多くの政治哲学者(渡辺氏は彼らを「アリストテレスの末裔」と呼ぶ)がこの図式を共有しており、また彼らにとって、ハイエクこそまさにこの悪しきオイコス主義の旗振り役なのである。

しかしハイエクにオイコス主義の名を着せるのは、単に彼の思想に対する無理解を露呈させるに過ぎない。というのも、ハイエクが一貫して批判し続けたのが、まさにこのオイコス主義だったからだ。ハイエクは「経済」という概念が、その語源に遡ってみればオイコス(家政)であること、もっと形式的に言えば、限られた資源を最大限効率的に活用することについての周到な計画であること――家計、経営、そして財政がみなこれに該当する――を承知している。

しかし、後期スコラ哲学者たちが公正な価格をめぐって逡巡し、ついにそれが市場の決める「自然価格」(natural price)であると悟ったとき、またアダム・スミスが「政治経済学」(political economy)なる(新奇な)ことばを使い始めたとき、経済の概念は歴史的な地殻変動を経験していたのであり、ハイエクもまたそのことに無頓着ではなかった。そこで生じていたのはまさしく経済概念のパラダイム・シフトであり、それはアリストテレス以来のオイコスを離れ、徐々に別の意味と次元に転移しつつあったのである。

そもそも上述の<P=O図式>からすれば、「政治経済学」なるタームは端的にカテゴリー・ミステイクないし定義矛盾である。なぜなら、それはまさに「ポリス的オイコス」と言ってるに等しく、哲学的にまったく不可能な概念だからである。しかしスミスがそこに見ていたのは、経済がもはや従来のアリストテレスの伝統、すなわち<P=O図式>では論じられないという、重大な歴史的転換であった。(p.133)

そしてこの歴史気転換を可能にしたのが、公的空間としての、そしてオイコスとポリスを包摂する「コスモス」としての「市場秩序」(market order)の出現であった。この秩序はいわばオイコスとポリスの母胎であり、その主体(個人、結社、企業、そして政府)の活動の「場」を提供するのである。ハイエクは言う。

市場という自生的秩序の重大な利点は、それが単に手段を介して結び付いている(means-connected)に過ぎないということ、それゆえ、目的についての合意を不必要にし、様々な目的の和解を可能にすることである。広く経済的関係と呼ばれるものは、実は、それら多くの様々な目的を追求する努力が、あらゆる手段の使用に影響を与える、という事実によって決定される関係なのである。<大いなる社会>(Great Society; アダム・スミス)の諸部分の相互依存や調和が純粋に経済的であるのは、まさしくこの「経済的」ということばの広い意味においてなのである。この広い意味で、<大いなる社会>の全体をまとめ上げる唯一の絆は純粋に経済的(もっと正確には「カタラクティック」)である、ということが示されると、大きな情緒的反発が生じた。(『法と立法と自由Ⅱ――社会正義の幻想』、p.112)

エコノミー(=オイコスの経済)と、カタラクシー(=コスモスの経済)を隔てるメルクマールは、「メンバーが目的を共有しているか否か」である。家計や結社や企業や政府などのメンバーはそれぞれ目的を共有しているが、それらが活動する「場」である市場秩序は何ら特定の「目的」を持たない。市場秩序では、行為主体の目的ベクトルは全方向に向いているのである。彼らを辛うじて繋ぎ留めているのは、彼らが「手段」を介して結び付いているという事実に過ぎない。そこにcivic humanism(アーレント)や公共性(ハーバーマス)を持ち込むのは、能天気なお花畑思考と言わざるを得ない。

アーレントをはじめ、ハーバーマスからロールズに至るまで、多くの政治哲学者たちは、市場秩序をオイコスと切り離して考えることが出来ない。彼らは未だに、市場秩序をオイコスの延長として捉えているのである。それはいまや、様々なオイコス(そしてポリス)の主体が活動する基盤であるにも関わらず、である。市場の政治的管理を主張することは、依然それが可能であると考える点で、未だ<P=O図式>の呪縛から抜け出せていないことの証左なのである。後期のスコラ哲学者が市場価格について見たもの、スミスが政治経済学ということばで意味したもの、これらのついての洞察が、ほとんどの政治哲学者には欠落している。また、ハイエクにとって経済という概念は二つの意味を持っており、第一義的にはそれがコスモスとしての市場秩序を意味すると言うことを、彼を「経済主義」「物質主義」の名の下で批判する論者たちは理解していないのである。

しかし、コスモスである市場秩序をオイコスの延長として捉えるこの錯誤の責を、すべて政治哲学に負わせるのは公平ではないだろう。というのも実は、この錯誤を助長していたのが当の経済学自身――より正確に言えば近代経済学の主流となった「一般均衡理論」――であるからだ。そこでは、すべての人が同一の客観的価格体系を目の当たりにし、同じ資源の賦存状態に直面し、さらに一定不変の技術を備え、固定的な趣向を示す。要するに「一般均衡理論」では、社会全体が一つのオイコス(家)になるのである。この理論の応用として、社会全体を「一つの工場」と捉え、それを合理的かつ意識的に設計・管理しようとする「市場社会主義」のような考え方が登場しても何ら不思議ではなかろう。


【不確実性の縮減】

ハイエクの「市場の哲学」を支える支柱は二つある。一つは「秩序論」であり、その大まかな概観は上の節にて描けたと思う。もう一つは「知識論」であり、これを「不確実性の縮減」という観点から読み解いていきたい。

社会は複雑系である。

すなわちそれは、諸要素の部分的・局所的な相互作用――この相互作用は比較的単純な法則に支配されている――によって、予期しえぬ仕方で大域的・大局的に創発(emerge)する秩序や構造のことである。相互作用が局所的であることは、一般均衡理論の場合とは違って、各要素が緩やかに結びついていること、その作用は無媒介的・無時間的に遠方に及ぶのではなく、近傍から徐々に波及していくことを示している。また、予期しえぬのは、ただ相互作用(系の発展)の法則だけを眺めていたのでは、系全体が示す統一的な振る舞いを予測できないことを表す。(p.399)

複雑系のイメージを掴むために、S・ウォルフラムの(一次元)セル・オートマトンをご覧頂きたい。セル・オートマトンは必ずと言っていいほど複雑系の入門書に登場する。

一次元のセル・オートマトンではセルが横一列に並んでいる。セルには「0」と「1」の二つの状態があり、それぞれ「白」と「黒」の色に対応している。任意の初期状態から、各セルは与えられた一定の論理規則に従って、現在の自分の状態(0か1か)と隣接する2つのセルの状態(それぞれ0か1か)の情報だけを頼りに、次世代の自分の状態を決定し、一段下のセルへ移行していく。したがって系の発展は決定論的である。さてウォルフラムは、セル・オートマトンが示す様々な振る舞いを調べていくうちに、論理規則の選び方によってそのパターンが四つのクラスに分類できることを発見した。このうちクラスⅠ~Ⅲは従来の古典力学のアトラクター(ある力学系が時間発展に従って収束していく集合)に対応している。しかし、クラスⅣのパターンは、従来の古典力学のアトラクターでは説明できない。従来の古典力学では、三つのアトラクターが知られている。ボールの落下のように、運動が停止してしまうもの(リミット・ポイント)。これが上の図におけるクラスⅠである。時計の振り子のように一定の周期運動に入るもの(リミット・サイクル)。これが上の図におけるクラスⅡである。そして、ローレンツの気象モデルのようにカオス・アトラクターに吸い込まれるもの。これが上の図におけるクラスⅢである。セル・オートマトンで言えば、ある規則群の下では、過度カオスを経たあと系は死滅してしまう。別の規則群では、過度的なカオスを経験したあと、系は完全な周期パターンを示すようになる。また別の規則群では、広域的なカオスが発生する。ところが上のモデルで興味深いのは、このいずれにも該当しない第四のパターンが出現したことである。それは運動を停止しないし、周期運動を示さないし、またカオスでもない。言ってみれば、そこでは明らかに一定の組織性を伴った過度的な状態が、延々と続いていくのである。このような構造を、我々はイリヤ・プリゴジンとともに、「散逸構造」(dissipative structure)と呼ぶことができる。散逸系は一定の定常性・構造性を維持しつつも、その時間に関して不可逆的な変化は、一刻も平衡・均衡を許さない。このようなメカニズムは雪の結晶から雲の形成、さらには細胞の自己組織化に至るまで、自然界のあらゆるパターン形成に深く関わっており、またプリゴジン自身も示唆しているように、市場秩序も散逸系である可能性が非常に高い。

セル・オートマトンで重要なのは、各セル(固体)は近傍の限られた情報にしか応答していないという事実である。これは複雑系に置かれた我々の境遇を忠実に反映している。つまり、複雑な環境においては、我々が処理できる情報には超え難い限界がある、という当たり前の事実である。言うまでもなくこの人間像は、「完全情報」(=全知全能)を前提とする主流経済学の一般均衡理論とは異なる。一般均衡理論の世界では、各行為主体はあらゆる情報を予め入手しており、その中から毎回最適な行動(利益を最大化し、損失を最小化する)を選択するが、現実の我々にそんなことはできない。

例えばチェス・ゲームを考えてみよう。チェスの勝負で取りうる手は有限であり、明らかに必勝のアルゴリズムが存在する。したがってコンピュータは、このアルゴリズムに則って計算し、毎回最適な戦略を選択する。一方、人間には(名人と言えども)、このような芸当は不可能である。あり得る選択の数はあまりにも膨大過ぎるからである。代わりに、我々人間は「暗黙的統覚」に依存する。チェスでは、我々は「定石」(=代表的なパターン)というものを学習しそれを利用する。

ここで重要なのは、まず第一に、このプロセスは明らかに最適化行為ではないということである。我々は敢えて遠回りをすることによって、処理しなければならない情報量を縮減するのである。そして第二に、いったん定石に落とし込むことで、ほぼ確実に期待したパフォーマンスが得られるという確信が存在するということである。言い換えれば、我々は規則に対して、それに従えば高い蓋然性で目標に到達できるという信頼を寄せているのである。

これはあらゆる法・規則・習慣・伝統に共通する性質である。「殺すなかれ」「盗むなかれ」(我々はバレ得る全てのルートを確実に把握することはできない)、「赤信号を渡るな」(流れていく車の物理的位置を計算しながら最適に道を渡ることはできない)、「自転車のこぎ方」(我々は、出くわす場面に応じて最適にハンドルを切りアクセルを踏むことはできない)、などなど。こうしたルール群は、暗黙知(=知恵)として先人や他人から伝達される。したがって、それは大抵の場合明文化不可能な知であり、学習することによってしか体得できない。またこれらのルールは全て、我々が処理しなければならない情報量を大幅に減殺し、我々の乏しい情報処理能力の作業範囲内に収めてくれるのである。

そして市場秩序における私有財産制も、このような暗黙的ルールの一例である。

この制度ほど毀誉褒貶に晒されてきたものはないが、その趣旨はきわめて明瞭、すなわち、無限大の情報エントロピーを、我々の処理能力の範囲内に縮減することである。すべての財産が共有の場合、その利用をめぐって我々はあらゆる情報を考慮しなければならない。しかるに、一定の財産管理を個人の専権事項とすることによって、我々は情報処理にともなう不確実性を大幅に削ぎ落とし、一定のパフォーマンスを確保することができる。一定範囲外の情報に、我々は目を向ける必要がなくなるのである。複雑で大規模な社会では、我々の処理能力は局所的な情報に限定されざるをえないから、私有財産制は複雑系の必要条件とも言えるであろう。(p.435)

私有財産制に基づく市場秩序では、我々は遠い出来事について知らなくても、ひとえに価格情報にだけ注目していればいい。これが、ハイエクが価格のことを「価格シグナル」(price signals)と呼ぶ所以である。市場秩序が優れているのは、時と場所によって変化する断片的な情報(例えば森林資源が稀少になっている、など)を、価格シグナルを通じて活用できる点にある。森林資源を購入する業者は、森林資源が少なくなった経緯や、その事実すら知らずして、ただ価格シグナルだけを見て、代替的な生産手段の模索や、生産工程の改良を図るようになる。このように市場は、価格シグナルを通じて人々に最適な行為をとるように促す。そして社会全体として、誰も意図しなくても、自生的な秩序が生成するというわけである。

しかし、未だに市場秩序に対して反旗を翻す人は後を絶たない。ハイエクも言うように、この人たちのメンタリティは、小規模の、何もかもが透明だった古きよきコミュニティ(部族社会)を志向しているのである。あらゆる不確実性から解放された古きよきコミュニティ(=低エントロピー社会)にもう一度帰りたい、不確実で理解できない諸力に晒される現代社会(=高エントロピー社会)から逃げ出したい。こうした部族社会への郷愁こそが、社会主義者からハーバーマスまでの人々に共通するメンタリティである。「労働者」であれ「民族」であれ「市民」であれ、透明なコミュニケーションの媒体がどこかに得られれば市場社会は乗り換えられる、と彼らは共通して信じているのである。しかし、それは全く非科学的な空想に過ぎない。


【「創発」の論理について】

本書における渡辺氏の見解にはほとんど賛成で、終始「ふむふむ」と頷きながら読み進めていったけれど、一部不満点もある。その一つが、渡辺氏の、決定論的な世界観に対するルサンチマンの痕が各所に散見される、という事実である。

渡辺氏自身も正しく論じているように、創発はあくまで認識論上・言語論上の現象であって、存在論上の現象ではない。

端的に言って、創発とは我々が対象を捉えるための言語にかかわるものであって、存在論的な実体にかかわるものではない。この点を押さえておかないと、ニューロンの相互作用から心が創発することをもって、脳と心を二つの異なる実体と見なす古典的な二元論が生じる。この誤謬は、リチャード・ローティが「言語の物象化」(reification of language)と呼んだ、哲学者たちの習慣的な性癖を表している。……ときとして、全体は部分と存在論的位相を異にするなどと言われたりもするが、それは結局、複数の異なるミクロな状態が同一のマクロな状態を実現しているとき、我々はもはや、個々の要素の実体的な性質に目を向けても埒があかず、むしろ、要素間の関係性にこそ気を配るべきだ、ということを意味している。……存在論的差異云々は、実は実体と関係性のオーバーな表現にすぎない。そして複雑系科学では、従来の実体中心主義から関係中心主義への重心の移行がポイントなのである。(p.399-402)

また、渡辺氏が、ハイエクとともに「複雑現象と単純現象の間にはなんら存在論的差異はなく、あるのはただ程度問題に過ぎない」と述べる時(p.386)、彼はまったく正しい。

しかし、「人工知能が意識を持ち得るか」という人工知能問題に言及するとき、渡辺氏は、ポランニーの暗黙知の概念に依拠することによって、J・サールらとともに「強い人工知能」論者――彼らは人工知能が「意識」を持ち得ること、そして最終的には人間たり得ることを主張する――を「近代合理主義」「科学主義」の名の下で批判しているが、私はこれには賛同できない。というのも、我々はD・デネットとともに、「人工知能は本当に暗黙的統覚を持ち得ないのだろうか?」という疑問を呈することができるからだ。実際にそこまで人工知能が発達するかどうかはともかく、原理的には、「複雑現象と単純現象の間にはなんら存在論的差異はなく、あるのはただ程度問題に過ぎない」というテーゼを真面目に受け止めるならば、人工知能が暗黙的統覚を持つことは十分可能なはずである。

複雑系の母胎であるカオスが全て決定論的な法則に従っていることが示唆しているように、我々の「心」を創発させるニューロンの相互作用のメカニズムも、同じく決定論的な法則に従っていることが十分考えられる。渡辺氏は各所で決定論的な世界観を「過てる合理主義」「科学主義」の仲間としてまとめて葬っているが、もう少し真面目にデネットの著作を読んでいれば、そういうことにはならなかったと思う。


【「科学者」であって「哲学者」ではない】

最後に、あとがきにおける渡辺氏の印象的な言葉で締めたい。

しみじみ感じたのは、ハイエクは「科学者」なのだなぁ、ということである。「市場の哲学」なる小洒落た言い方はしたものの、ハイエクは本来「哲学者」ではない、そんな印象をもった。私のイメージでは、哲学者たるものは大上段に第一原理(アプリオリな総合命題と思しき)を振りかざし、他の一切を論理的にブルドーズしてゆく人(あとは野となれ山となれ)である。彼らは現象の救済に興味はない。人間性についての、合理性についての、その他諸々についての第一原理は、現象についての説明力、その実行可能性とは無関係に正当性を付与される。その帰結としての哲学政治、哲学経済がいかなる現象的悲劇をもたらそうとも、それは哲学的原理の誤謬を示すどころか、糾弾すべき現象の不合理の証しにすぎない。マルクス主義とポル・ポトの惨劇は、その典型なのだろう。科学者ハイエクにとって、これは忍耐を欠く(そして往々にして自分の知性に酔う)哲学者特有の悪弊にほかならない。複雑な現象を丹念に、たゆまず、一つひとつ分析してゆく地味な作業に堪えられない人々が、おのれの知性を頼みにいわゆる「心的ショートカット」(少数の概念、カテゴリー、原理)に訴えて、現象の背後にある本質を見切ったなどと嘯くのである。現象の分析は少数の原理によって裁断できるほど容易ではない。ハイエクの叙述がしばしばまだるっこしく不明瞭であるのは、むしろ彼が現象に忠実であろうとするためである。この科学者と哲学者の対照は、人間の道徳性に関する哲学的考察をもって始まる初期のロールズと、現象の不可避的多元性から共生の原理を引く後期のロールズとの対照によく現れている。

また、ハイエクは「倫理」の教師でもない。我々の根深いところにある原始的な倫理感は、ときに我々の社会を破滅に導く。資本主義の不道徳さに対する倫理的義憤は、社会主義という名のディストピアをもたらした。それでいてなお、少なからぬ人々が、その動機の純粋さ(良心の声)をもって、その悲劇を免罪しようとしている。保守的なおじさんたちの嘆きとは逆に、人々の倫理感・道徳心はこれほどまでに強いのである。「私悪は公益」、ハイエクのヒーローの一人、バーナード・マンデヴィルの含蓄あるアフォリズムを理解できるほど、多くの人間は現象に忠実になれない。多くの場合、彼らは強すぎる倫理感に訴えて、我々の成し遂げてきたものを破壊してしまうのである。科学者たることは、ある意味、人間の本質に反するのかもしれない。(p.565-566)

2011年5月23日月曜日

プラグマティック実在論の構築

以前予告していた通り、真理対応説を放棄し、代わりに真理実用説を採用する独自の実在論を構築してみたい。この実在論は、観察不可能な物理的対象の実在を真と見なす点において従来の科学的実在論と重なるが、真理対応説を放棄し、真理実用説に依拠する点において異なる。真理実用説に依拠することによって、パトナムの「奇跡論法」を補修し、「悲観的帰納法」による批判を克服できることを示したい。この実在論は、いわばプラグマティックな転回を経て変貌した科学的実在論である。これが尚「科学的実在論」の名に値するかどうかは読者諸氏の判断に委ねたい。

【実在と真理に関するテーゼ】

(1a) [外部世界の実在に対する無条件の信仰] 世界は人間の認識活動から独立して存在するか否か、という問い自体が、「世界」、「人間」、「認識」といった我々の使用する語彙を前提にしており、またこれらの語彙に依存する。事実、この問いはこれらの語彙を離れては考えられないし、また我々は「世界」、「人間」、「認識」といった語彙を放棄することもできない。したがってこの問いは無意味である。日常的な直感として、外部世界はただあるということを、我々はア・プリオリな事実として受け入れ、無条件に信じる他ない。

(1b) [真理実用説] 真理は外部世界には存在しない。言い換えれば、真理は、実在を記述しようとする人間の表象活動を離れては存在しない。これは伝統的な「真理対応説」の否定を意味する。他方で、「真理整合説」もまた受け入れらない。というのも、整合説は外部世界からの経験的入力を無視しているから。ここで言う「真理実用説」は、「問題に対する解決」を以って真理を定義する。当然、この真理は絶えず修正の可能性に開かれており、その点において「可謬的」かつ「限定的」である。「絶対的な真理」なるものは人間の不治なる形而上学的欲求が生み出した幻想に過ぎない。

【外部世界の実在に対する無条件の信仰】

(1a)は明確に後期ウィトゲンシュタイン的な言語観に基づく。そもそも、プラトン以来およそすべての西洋哲学者の間では、哲学者の仕事は解決困難に見える問題群(「自由意志」、「精神と物質」、「真理」、「善」、「美」)を論理的分析によって解きほぐすことだという考え方が支配的だった。しかし、これらの「問題」は実際のところ哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題に過ぎないとウィトゲンシュタインは喝破したのである。言語は日常的な目的に応じて発達したものであり、したがって日常的なコンテクストにおいてのみ機能するのだとウィトゲンシュタインは述べる。しかし、日常的な言語が日常的な領域を超えて用いられることにより問題が生じる。ウィトゲンシュタインは言う。

「哲学の成果は、いくつかの明瞭なナンセンスと、言語の限界に突き当たって理解がこしらえた瘤をあばくことにある。発見の価値は、こうした瘤からわかる。」(ウィトゲンシュタイン、『哲学探究』)

言語の限界が思考の限界なのである。「実在性」に関する形而上学的な議論も例外ではない。それは明らかにウィトゲンシュタインの言う「理解がこしらえた瘤」である。


【真理実用説】

(1b) 「真理実用説」は、主にジョン・デューイの真理概念に依拠している。伝統的な「真理対応説」と「真理整合説」はそれぞれ固有の難点を抱えていおり、これらの難点をデューイの真理概念は乗り越えるのである。以下に詳細に説明したい。(なお、この箇所は魚津郁夫『プラグマティズムの思想』に多くを負っている)。

まず「真理対応説」。「真理対応説」(correspondence theory of truth)は、その名の通り、「実在と対応していること」が真理であるとする。例えばアリストテレスは、真理を定義して、存在するものを存在しないといい、存在しないものを存在するというのが虚偽であるのにたいして、存在するものを存在するといい、存在しないものを存在しないというのが真理である、と述べている。このように、命題(あるいは観念、言明、など)と、事実(あるいは出来事、事態、など)とが対応(correspond)するとき、その命題を真理とするのが真理対応説である。しかし真理対応説には重大な難点がある。というのは、事実はすべて命題によって記述されなければ、事実として知られることがないからである。それゆえ一方に命題Aがあり、他方に事実aがあって、Aと a が対応しているかどうかを知るためには、一方の命題Aのほかに、他方の事実 a を記述する命題Bが必要となる。しかしその命題Bが、そもそも事実 a と対応しているかどうかを知るためには、a に関するまた別の命題Cが必要となり、ここに無限後退が生じる。つまり、真理対応説は、実在と命題を直結させる何らかの超越的(=魔法的)なメカニズムに依拠しない限り成立し得ないのである。

では「真理整合説 」はどうか。「真理整合説」(coherence theory of truth)は、ある命題が一般的に認められている他の多くの命題と整合的であるとき(すなわち矛盾しないとき)、その命題を真理とする考え方である。しかし、これにもやはり難点がある。整合性という真理の基準だけでは、互いに整合的な様々な命題が得られたとしても、そうした様々な命題は私たちの経験する事実(あるいは出来事、など)と関係を持たないことになる。しかし、少なくとも事実に関する命題は、感覚的経験を述べる命題と何らかの仕方で関わりを持たなければならない。つまり、真理整合説は経験的入力を無視しているのである。

しかしデューイは、真理対応説の言う「対応」という言葉を広く解釈して、この困難を逃れることを試みる。すなわち、対応とは、鍵がその条件に合致するように「合致する(answer)」、言い換えれば鍵が鍵穴にぴったりおさまってその機能を果たすということであり、問題に対して適切な解決をもたらすように「答える(answer)」ことであるという。要するに、対応とは問題を解決することだ、というのである。

このように、真理についての考え方においてデューイは、一方では、チャールズ・パースの影響のもとに、可謬主義に立脚した究極の真理に関するパースの定義に賛同するとともに、他方では、ウィリアム・ジェイムズの影響のもとに、真理は有用性(すなわちデューイの場合は問題解決の可能性)によって初めて真理として認められることを主張したのである。

こうしてデューイは言う。「私が主張するような理論こそ、真理対応説とよばれる資格のある唯一の理論である。」 ただ、デューイには申し訳ないが、ここでは従来の真理対応説と区別するため、デューイの真理概念を「真理実用説」(pragmatic theory of truth)と呼びたい。


【観察不可能な物理的対象に関する実在】

(2) 観察不可能な物理的対象(電子や波動関数など)は、それを扱う科学理論が成功している限り、その実在を真とする。

これは上述した「真理実用説」に基づく。当然、かつてのエーテルや熱素の概念が後に否定されたように、現在「真」であると見なされている概念や科学理論も、将来否定ないし修正される可能性に開かれている。ただし、このテーゼは「道具主義」(instrumentalism)や「反実在論」(anti-realism)の立場とは明確に異なる。「観察可能な現象の背後にある観察不可能な隠れた実在の真の姿は知り得ない」とする道具主義や反実在論とは異なり、(2)のテーゼははっきりと観察不可能な対象の実在を真と認める。というのも、成功している科学理論(電子や波動関数を扱う科学理論)を説明するには、観察不可能な対象の実在を認めるのがもっともらしいからだ。これはむしろ、科学的実在論の立場から道具主義への批判として寄せられたヒラリー・パトナムの「奇跡論法」(argument from miracles)に近い。パトナムの「奇跡論法」の概要は以下の通り。

奇跡論法とは、もし電子や光子といったものが実際に理論で記述されるような形で存在しないとすれば、「科学の成功」が一種の奇跡になってしまう、というもの。この奇跡論法は次のようなアブダクションの構図を持つ。すなわち説明されるべき事柄として「科学の成功」を取り、この「科学の成功」を説明する側の仮説として道具主義と科学的実在論を並置する。そして道具主義による「科学の成功」の説明は一種の奇跡になってしまうが、科学的実在論による「科学の成功」の説明はもっともらしい、ともっていく。これが奇跡論法である。(Wikipedia、「道具主義」より抜粋)

ただし、パトナムが「科学の成功」全体を説明されるべき事柄として配置しているのに対して、(2)のテーゼはあくまで個別の科学理論において適用される。また、奇跡論法が、観察不可能な対象の実在を無条件に絶対化するのに対して、(2)のテーゼは「それを扱う科学理論が成功している限り」という条件節を加える。「実在の真の姿」に超越的な意味を付与せず、あくまで限定的・可謬的なものと見なすことによって、科学理論が修正の可能性に開かれているという事実を我々は許容できるようになる。このようにして、奇跡論法の弱点である「悲観的帰納法」による批判を克服できるのである。

W.V.O.クワインも述べているように、観察不可能な物理的対象の存在を信じることと、ホメロスの神々の存在を信じることには、本質的な差異はない。ただし、こうした物理的対象の神話は、他の神話よりも認識論的に優れているという。

認識論的な地位のうえで、物理的対象と神々との間には、程度の差があるだけで、種類の違いがあるわけではない。どちらの存在も、文化的仮定としてのみ私たちの考え方に入ってくるのである。物理的対象という神話が、大抵の他の神話よりも認識論的に優れているのは、経験の流れ (the flux of experience)の中に、取り扱いやすい構造を作り出す装置として、より有効であることが分かっているためである。(クワイン、『経験主義の二つのドグマ』)

この箇所は、クワインのプラグマティズムをよく表しているだろう。私が主張する真理実用説に基づく実在論も、基本的にクワインの立場と軌を一にするものだと思う。


【科学の位置付け】

(3a) [概念相対性] 語彙や概念図式などの表象システムは認識論的に恣意的である。ゆえに、同一の実在を表象するために、複数の異なる表象システム(=言語)を用いることが可能である。

(3b) [還元不可能性] 実在を表象する多元的な言語は、ほとんどの場合、相互に還元不可能である。ただし「還元」とは、「意味を損なわずに翻訳できること」という意味である。

(3c) [科学の進歩] 自然科学の知識は漸進的に進歩する。科学の進歩は次のように定義することができる。すなわち、時点Aにおいて記述ないし予測可能な現象が、時点Bにおいて記述ないし予測可能な現象よりも多ければ、時点Aの方が時点Bよりも科学が進歩している、と。

(3a)概念相対性のテーゼは、以前紹介した中山先生の世界概念におけるそれと同様、語りの多元性を保障する。同一の実在を表象する、多元的かつ重層的な諸言語の実践が許容されるのである。ただし、これらの言語はほとんどの場合、相互に還元不可能である(3b)。ここで言う「還元」とは、S.プリーストに倣って「意味を損なわずに翻訳できること」と定義する。例えば、「心」の言語を「脳科学」の言語に還元することは不可能である。同様に、生物学の言語を化学の言語に還元することも不可能であるし、化学の言語を物理学の言語に還元することも不可能である。こうした還元論/全体論を巡る議論は、科学的探究の位置付けにとって非常に重要な問題であるが、如何せん深入りするだけの用意はまだ私にはないので、詳細な考察はまたの機会に委ねたい。

(3c)科学の進歩のテーゼは、基本的に科学的実在論と世界観を共有する。ただし、人類が唯一の真なる表象に到達できるとは考えていない。これは、先述した(3a)概念相対性テーゼと、(3b)還元不可能性テーゼの必然的帰結である。

以上、真理実用説に基づく独自の実在論を描いて見せた。この立場を科学的実在論の亜種として位置付けるべきか、あるいは別の既存の立場の仲間と見なすべきか、はたまた今までにない全く新しい立場と見なすべきかは、私には判断しかねるが、当面「プラグマティック実在論」という呼称を用いることにしたい。

2011年5月2日月曜日

【書評】 科学哲学入門 : 知の形而上学 (中山康雄)

はっきり言って、この本のタイトルに「入門」の文字を入れるのは新手の詐欺だと思うが、幸いにして僕自身はこの分野の基礎的な知識は一応既にあったので、本書は大いなる知的興奮を齎してくれた。(正直論理学の部分は未だ理解していない自信があるが)。初学者にはとてもお勧めできないが、科学哲学にある程度馴染みのある人なら、本書は素晴らしい知的体験を提供してくれると思う。

本書は、第一部「科学哲学小史」と第二部「科学と文化」によって構成されている。第一部では、これまでの科学哲学の歴史を、クーンのパラダイム論を軸に描き出すとともに、科学哲学の基本的な「問題群」を提示する。そして第二部では、第一部での議論を踏まえ、中山氏がそれらの問題に独自の回答を与えていく。具体的には、中山氏は唯名論的な世界概念に基づく実在論の立場を主張する。この独自の世界概念の提示が本書の最重要箇所にして醍醐味なので、その詳細を以下に検討していきい。

【形而上学的実在論の検討】

中山氏は、パトナムやサールの議論を踏まえながら、形而上学的実在論を、以下の三つのテーゼを満たす立場として定式化している。

(1a) [外部世界に対する実在論 (external realism, ER)] 世界(あるいは、実在または宇宙)は、世界についての私たちの表象とは独立に存在している。

(1b) [特権化された概念図式 (privileged conceptual scheme, PCS)] 実在を記述する唯一の概念図式が存在する。

(1c) [真理の対応説 (corresponding theory of truth, CTT)] 信念や言明という表象は、事物 (things)が現実においてどのようなものなのかを表象するためのものである。これらの表象が成功したり失敗したりするのに対して、それらの表象は真だったり偽だったりする。これらの表象が真なのは、それらが現実における事実に対応しているとき、かつ、そのときに限る。

このような形而上学的実在論を掲げている代表的な著書が、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考 (Tractatus Logico-philosophicus)』である。

さて、これに対し科学的実在論とはどんな立場なのだろうか?中山氏はまず戸田山和久の議論を参照する。戸田山は、『科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる』において、「独立性テーゼ」と「知識テーゼ」の二つのテーゼを満たす立場として科学的実在論を特徴付けている。

(2a) [独立性テーゼ] 世界は、人間の認識活動とは独立に存在する。

(2b) [知識テーゼ] 人間は、科学によって世界の秩序について知りうる。

(2a)独立性テーゼは、(1a)外部世界に対する実在論に対応する。しかし、知識テーゼについては、実はもっと微妙な問題が絡んでいると中山氏は指摘する。というのも、戸田山は「反実在論」を「独立性テーゼを認めるが知識テーゼを認めない」立場として定式化しているが、反実在論は知識テーゼを観察不可能な対象(電子や波動関数など)についてのみ拒否する。マクロな物体の振る舞いや法則については知りうるが、観察不可能な理論的対象についての語りを含む科学理論が、世界についての文字通りの真理を語っていると信じる根拠はない、というのが反実在論の主張である。つまり厳密に言えば、反実在論は(1a)外部世界に対する実在論を認めつつ、(2c)真理の対応説を認めないという立場である。

これを踏まえ、中山氏は科学的実在論を以下の四つのテーゼを満たす立場として定式化する。

(3a) [外部世界に対する実在論]  (1a)と同じ。これは、(2a)の独立性テーゼに対応する。

(3b) [特権化された概念図式] (1b)と同じ。

(3c) [真理の対応説] (1c)と同じ。

(3d) 科学は世界についての特権化された概念図式を把握するという目標を持っており、この目標に絶えず近づいていく。そして、この目標に到達したときには、科学は世界についての究極的真理を表現できる。

(これに対し、反実在論者は、世界に対応した真なる理論を見出すことが科学の目的だとは考えていないのである。)

ここで注意しておかなければならないのは、科学的実在論は物理的事実にのみ適応可能だということである。中山氏は本書において、事実を「物理的事実」、「社会的事実」、「内省的事実」の三種類に分ける議論を行っている。

(4a) [物理的事実] 物理世界の中で成立している事実。人間の認識活動とは独立に成立する。

(4b) [社会的事実] 集団Gの共有信念に依存して成立する事実。

(4c) [内省的事実] 内省の主体である合理的行為者の心的状態に依存して成立する事実。内省的事実が成立するのは、行為主体Sがその内省的事実が成立していると信じているとき、かつ、そのときに限る。

この三区分は、デイヴィドソンの言う「客観的」、「間主観的」、「主観的」の区分けと対応するように思われる。そして、独立性テーゼは社会的事実、内省的事実については明らかに成立しない。だから、科学的実在論はあくまで自然科学のみに関するテーゼなのである。

さて次に、中山氏は、科学的実在論を回避しつつ、 社会構成主義(科学知識は社会的に構成されるという立場。つまり、(2a)独立性テーゼも(2b)知識テーゼも否定する立場)を拒否する「第三の選択肢」を探るため、サールの議論を参照する。ジョン・サール (John Searle 1932-)は、実在と表象に関する以下の六つのテーゼを定式化している。

(5a) [外部世界に対する実在論] (1a)と同じ。

(5b) どのような表象も志向性を持っている。信念や知覚は内在的志向性 (intrinsic intentionality)を持ち、地図や文は派生的志向性 (derived intentionality)を持つ。

(5c) [真理の対応説] (1c)と同じ。

(5d) [概念相対性 (conceptual relativity, CR)] 語彙や概念図式などの表象システムは、人間が作り出したものであり、その点において恣意的なものである。同一の実在を表象するのに、複数の異なる表象システムを用いることが可能である。

(5e) 実在の真なる表象を得ようとする努力は、文化的影響を受ける。

(5f) 知識を持つことの本質は、正当化や証拠を根拠にして真なる表象を持つことにある。だから知識は、認識的意味において客観的である。

ここで重要なのは、サールが(1b)特権化された概念図式のテーゼを拒否し、その代わりに(5d)概念相対性のテーゼを導入している点である。ただし、この試みを成功させるためには、(5d)概念相対性のテーゼと(5c)真理の対応説が両立するような世界概念をサールは提示しなければならないが、中山氏によると、サールの著作の中ではこのような世界概念は充分明らかにされない。これを補完するために、中山氏は独自の世界概念である「唯名論的世界概念」を提示する。

【唯名論的世界概念】

中山氏は、(1a)外部世界に対する実在論のテーゼと、(5d)概念相対性のテーゼを明確化するために、以下の五つのテーゼから成る独自の唯名論的世界概念を提示する。

(6a) [外部世界に対する実在論]  (1a)と同じ。

(6b) 世界は、分割可能な構造を持っている。

(6c) 世界の諸分割の間に、部分・全体関係 (part-whole relation)が成立する。

(6d) [古典的メレオロジー (classical mereology)] どのような複数の対象にも、それらのメレオロジー的和が存在する。ただし、メレオロジー的和というのは、複数の対象を融合させてひとつの対象と見なしたときの融合体 (fusion)のこととする。

(6e) [世界内存在] 知覚主体は、世界の部分として存在する。

さらに、世界の分割可能な構造について、以下のテーゼを提示する。

(7) [概念図式の適用] 世界の分割は、概念図式の適用により可能となる。

これは、ウィトゲンシュタインの『論考』とは決定的に異なる世界観である。『論考』では、何が対象であるかは、人間の認識活動からは独立して世界の側ではじめから与えられていた。これに対し(7)に従えば、そのような世界の対象は、人間が概念図式を適用し、世界からその部分を切り取るという作業によって与えられることになる。この(7)により、(5d)概念相対性のテーゼが保障される。

例えば、「犬」や「猫」といった普通名詞を含んでいる日常言語と、「細胞」という普通名詞を含んでいる生物学の言語では、切り取っている世界の「部分」が異なるが、同じ対象を指している。この場合、日常言語は細胞の融合体としての「犬」「猫」を指しており、これを生物学の言語に「翻訳」することが可能である。このように、異なる仕方やレベルで対象を記述する複数の語りの実践が並存することが可能であり、このことが(5d)概念相対性のテーゼを可能にする。

次に、中山氏は、タルスキの真理の定義に依拠することによって、(5c)真理の対応説と(5d)概念相対性のテーゼが両立することを示そうとする。アルフレト・タルスキ (Alfred Tarski, 1901-1983)は『形式化された言語における真理概念』において、メタ言語と対象言語を区別することによって自己言及のパラドックス(嘘つきのパラドックス)を回避し、真理の概念を定義することに成功した。彼は、対象言語について語るメタ言語を導入することにより、これを用いて対象言語の真理概念を規定するのである。

例えば、数学では集合論の言語が要素に対するメタ言語として前提にされるのが常である。この方法を、私たちの日常的な言語についても適用できる。例えば量子力学も相対性理論も生物学の言語も日常言語も、すべて実在する世界について語るものであるが、世界の対象領域の中から関心のある対象だけを切り取って記述していることになる。そのため、ある言語に属する文の真理について語るためには、類名辞(sortal term, 対象を分類するために用いられる普通名詞)を含んだ概念図式の使用により、メタ言語において対象を特定しておかなければならない。つまり真理概念は世界そのものに直接適用されるのではなく、メタ言語を用いてあらかじめ分節化された世界の構造に関して適用されるのであり、その分節化はメタ言語に含まれる概念に相対的になされるのである。このようにして、唯名論的世界概念を用いれば(5c)真理対応説と(5d)概念相対性のテーゼが両立するということを示すことが出来る。

【語りの多元性と物理主義】

人間が用いる言語は多層的に重なっている。量子論の言語も、生物学の言語も、日常の言語も、宇宙論の言語も、それぞれ独自の類名辞によって世界に存在する対象を個別化している。

さて、中山氏は、デカルトのような二元論を避けるため、他の多くの分析哲学者と同じく、物理主義の立場を取る。

(8) すべての物的対象は、物理学の法則に従う。

物理学の言語は、素朴物理学言語(日常の物体について語る言語)よりも豊かな存在論を持っている。つまり、素朴物理学の対象は、素粒子などの物理学が記述する対象から構成されていると考えることが出来る。私たちは、素朴物理学言語において様々な物体の融合体の相互作用について記述する概念図式を編み出してきたが、それらの記述が有効であるならば、なぜそれが有効なのかの説明は、原理的には物理学の法則で説明可能なはずだということが帰結する。これによって相対主義的な存在論が回避できる。

それでは、 物理主義はどのようにして多元的言語論と整合するのだろうか?これを説明するために中山氏は、「付随性 (supervenience)」という概念に依拠する。「付随性」の厳密な定義は、以下のように与えられる。

「起こりうるどの二つの状況を考えても、性質Bに関して異なりながら、性質Aは同一だ、ということがない」ならば、性質Bは性質Aに付随 (supervene)している。

例えば、言語Aを脳の物理的な状態について記述する物理学の言語、言語Bを素朴心理学言語(日常の心について語る言語)、性質Aを言語Aによって表現される性質、性質Bを言語Bによって表現される性質とする。このとき、性質Bが性質Aに付随するというのは、性質Aを完全に同じくする二つの対象は、性質Bも完全に同じくする。つまり、言語Aにおけるあり方(=脳の物理的な状態)を確定すれば言語Bにおけるあり方(=心的な状態)も確定する、という関係である。

この「付随性」の概念に依拠することによって、物理主義と多元的言語論を両立させることができる、と中山氏は論じる。ただしこのとき、物理言語を数ある言語のうち存在論的に基礎になる言語とする。また、物理言語がすべての単体としての対象を描写できたとしても、融合体としての対象の多くを語るためには、私たちは他の言語を必要とし、そのために(5d)概念相対性のテーゼが許容されるのである。


【唯名論的世界概念の検討】

さて、以上の中山氏の議論を検討してみたい。そのためにまず、(1b)特権化された概念図式のテーゼと(5d)概念相対性のテーゼの関係を明確化したい。というのも、中山氏はまるでこれら二つを背反する主張であるかのように扱っているが、私にはこの二つが両立するように思えるからだ。

中山氏による科学的実在論の定式化における(3d)「 科学は世界についての特権化された概念図式を把握するという目標を持っており…」とあるように、特権化された概念図式というのは、人間の認識活動からは独立して世界の側にあらかじめ存在するものであると考えられる。一方、(5d)概念相対性のテーゼ、及びそれを保障する(7)概念図式の適用テーゼも、あくまで人間の認識活動について語っている。つまり、唯一の正しい特権的な概念図式の存在を主張する(1b)と、複数の異なる恣意的な表象システムの並存を主張する(5d)は両立する。

実は、このことを中山氏は「物理主義」採用の際に暗に前提しているように思う。というのも、(8)のテーゼ「すべての物的対象は、物理学の法則に従う。」は、唯一の正しい一貫した物理学の法則の存在を前提にしているからだ。このことは、「それら(融合体の相互作用について語る様々な概念図式)の記述が有効であるならば、なぜそれが有効なのかの説明は、原理的には物理学の法則で説明可能なはずだということが帰結する。」と主張している点からも窺える。つまり、中山氏は物理学の法則に基づく絶対的な存在論(=特権的な概念図式)を主張しているのである。

しかし、ここ一つ問題が現れる。それは、中山氏の提示する唯名論的世界では、メタ言語における対象の記述は、「完全な形」で対象言語における記述への「翻訳」が可能なのか、それとも翻訳には「不確定性」が伴うのか、という問題である。言い換えれば、還元主義を認めるか否か、ということになると思う。非物的な対象についての語り――つまり内省的事実や社会的事実に関する記述――と物理言語との関係については、中山氏は「付随性」の概念に依拠しており、はっきりと「非還元的」を明言しているが、物的対象について語る言語間の関係については、いまいちはっきりしないのである。(化学の言語は物理学の言語に「付随」しているのか、生物学の言語は化学の言語に「付随」しているのか?)

もし「還元的」であるとするならば――つまり生物学の言語を化学の言語に、化学の言語を物理学の言語に「ノイズ」なく翻訳可能なのだとすれば――「科学的実在論」を回避するという当初の目的とは裏腹に、「科学的実在論」の世界観が帰結するように思われる。というのも、物的対象に関する全ての語りを物理学の言語に難なく翻訳できてしまうことになり、それはもはや多元的な言語間の翻訳ではなく、いわば「分数から少数」への機械的な翻訳であるために、複数の異なる言語がたとえ存在したとしても、実質同一の言語と見なしうるような事態が起きてしまう。還元的な世界観では、概念図式はただ一つに収束してしまうのであり、これはもはや「科学的実在論」の世界観とあまり変わらない。実際、(2a)特権化された概念図式と(5d)概念相対性のテーゼが両立することを私が示した今、「形而上学的実在論」の条件となる(1a)、(1b)、(1c)は全て満たされている。これに(3d)を加えることができるならば、これはもはや「科学的実在論」の成立を意味している。中山氏が提示する「唯名論的世界概念」では(3d)が成立するのかどうかは充分明らかにされていないが、私の理解では、とりたてて矛盾するようには見えない。

逆に「非還元的」であるとするならば、今度は(8)「物理主義」のテーゼの成立が危うくなるように思われる。化学と物理学の関係、あるいは生物学と化学の関係を「付随性」で規定するにせよ、「創発」で規定するにせよ、これら多元的な語りを物理学の言語に翻訳できないとなれば、物理主義のテーゼ「すべての物的対象は、物理学の法則に従う。」が成り立たなくなってしまう可能性がある。もし中山氏が(1c)真理の対応説を採用していなければ、(8)「物理主義」のテーゼは完全に世界の側の事実――つまり人間の認識活動からは独立した実在――についての記述として解釈されることが可能だったが、現に中山氏は(1c)真理の対応説を採用しているので、世界の側の事実は人間が作り出す概念図式の表象と対応しているはずであり、したがって世界の側の物的対象がすべて物理学の法則に従うのであれば、人間が作り出す化学や生物学の言語も同様にすべて物理学の言語に翻訳可能でなければおかしい。そこに「付随性」や「創発」などの概念を持ち込むのは、矛盾すると考えられる。

(ただし、非物的な対象に関する語り――「心」についての語り、政治についての語り、経済についての語り、宗教についての語り、など――は物理言語に「付随」しているということなので、これらについては矛盾しないと考えられる。)

以上より、中山氏が提示する唯名論的世界概念は、科学的実在論の世界観と両立するように思われる。それはそれとして首尾一貫した世界観であり、問題ないと思う。しかしこの試みは、科学的実在論とは異なる世界観を提示するという当初の目的とは相容れないものであり、むしろ科学的的実在論の中に包摂されてしまうように思われる。

この問題――つまり「科学的実在論」を拒否しつつ、同時に「反実在論」や「社会構成主義」も退け、物理主義的な世界観を保持するにはどうすればいいかという問題――を克服するために、私は(1c)真理の対応説を放棄し、代わりにデューイらプラグマティストの「真理の実用説」に依拠した独自の世界概念を提示したいが、その明確化はまたの機会に委ねたい。