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2013年8月31日土曜日

ハイエクの暗黙知理解について : コメントに対する返信

この記事は、私の過去の記事「設計主義のなにが問題なのか? ハイエクの知識論」に対して、匿名の方から寄せられたコメントに対する返事です。文章量が多くなってしまったので、別箇の記事として投稿することにしました。

匿名様のコメントは以下の通り:
 (2) その知識の大部分は「暗黙知」(tacit knowledge)であり、言語化・分節化できない。

 のところですが、この暗黙知解釈は、野中郁二郎さんの解釈ですが、間違っていますよ。ハイエク自身は、ポラニーについて、また、暗黙知については言及していないでしょ。ハイエクに添って、解説してほしいです。
  野中解釈は、暗黙知と明示知で、暗黙知なるものを実体化していますが、ポラニーが言ったのは、知るということ(知識が身につく)のプロセスにおいて、暗黙 の次元がある、ということです。暗黙知は、tacit knowingですから、knowingは動名詞です。暗黙の(語れない、分からない)作動なしに、知るということはない、といったのです。
 それから、
(3) 価格情報は、これら分散的・暗黙的な知識を集約的に表現する「指標」である。価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある。

 が省略されていますが、既存の経済学との対峙という意味では、これが重要ですね。できれば、説明していただきたいです。
以下、これに対する私の返信です。



コメントありがとうございます。仰る通り、この記事の内容は杜撰です。私が二年前に書いたものですが、今だったらこんな風に書きません。

まず、ハイエクの暗黙知理解について。私は、野中郁二郎氏を存じ上げませんが、どこかで見聞した通俗的な解釈を(それこそ暗黙的に)流用してしまったものと思われます。仰る通り、ハイエクに関してはこの記事の説明は的外れです。しかし、ハイエクがポランニーや暗黙知に言及していない、というのも誤解です。例えば論文「ルール、知覚、理解可能性」の中でポランニーの暗黙知理論が引かれています(Studies in Philosophy, Politics and Economics p.44)。

ただ、ハイエクの暗黙知理解とポランニーの暗黙知理解は大きく異なります。ポランニーにとっては、(その主著のタイトル『個人的知識』が示しているように)暗黙知はあくまで「個人」のものです。なお、少々脱線しますがポランニーにとって暗黙知は実体ではなく動名詞であるという貴方の指摘に関して、一点注意を促したいと思います。確かにポランニーは専らtacit knowingという言い方をしますが、彼はThe Tacit Dimensionの冒頭で次のように断っています:"I shall always speak of 'knowing,' therefore, to cover both practical and theoretical knowledge" (p.7)。つまり実践的と理論的双方の「知識」を包括的に指す言葉としてknowingを使用する、ということです。ポランニーの主眼が、知る行為の結果である知識よりも知る行為そのものに置かれていることは間違いないですが、必ずしも前者を排除しているわけではないでしょう。こうした、暗黙知の実体化を排除する見方はおそらく松岡正剛氏の解釈から来ているのだと推測しますが、この見方はポランニーの真意に沿うものではないと思います。松岡氏はパン生地をこねる職人の技能は暗黙知ではないと言い切っていますが、ポランニーははっきりと診断医(The Tacit Dimension pp.6-7)やピアニスト(同 p.18)の技能を暗黙知の例として挙げています。

では、ハイエクの場合はどうでしょう。ハイエクにとって暗黙的なのは知覚や行為を統御する「ルール」です。ここで重要なのは、(明示的)「知識」を保持しているのは個人であるが、「ルール」を保持しているのは個人ではない、という点です。ハイエクにとって知覚ルールや行為ルールは、複雑な環境に対して適切に振る舞う必要性から、長い年月をかけて進化してきたものです。こうしたルールは、進化の遅い段階で一部が成文法といった形で明文化されることはあっても、その本質においては暗黙的なもので、人間はこうしたルールに従うことによって、彼が(明示的に)知っている以上のことを知ることができる、とハイエクは述べています。言い換えれば、一人ひとりの人間は自分の周囲の限られた領域の事柄以外に関しては無知であるにも関わらず、こうした暗黙的なルールに従うことによって、彼は知らず知らずのうちに、彼の認識可能な範囲を超えた遠い場所や遠い過去の事柄に関する知識を有効に活用することができる、というわけです。これが可能なのは、(繰り返しになりますが)こうした認識可能な範囲を超えた知識の存在形態が「ルール」に他ならないからです。ハイエクのこうしたルール概念については、「ルール、知覚、理解可能性」(Studies in Philosophy, Politics and Economics pp.43-65)、「行為ルール・システムの進化に関するノート」(同 pp.66-81)、および「抽象的なるものの先行性」(New Studies in Philosophy, Politics, Economics and the History of Ideas pp.35-49)が参考になります。

したがって、ハイエクにとって、「暗黙知を明示化できない」という前提から直接「集産主義は不可能」という結論が導かれるわけではありません(だからこそ私が件の記事に載せた説明は的外れなんです)。ハイエクの議論を正しく図式化すれば、「文明の複雑化に伴って人間が暗黙的なルールに頼る度合いが増加する」→「一人ひとりの人間の認識可能な範囲がますます狭くなる」→「こうした大きな社会においては、分散した知識を一箇所に集めることができない(集産主義が不可能)」という風になると思われます。つまり、集産主義に対するハイエクの批判の要点は、明示化できない知識をむりやり明示化しようとしている、といったことではなく、あくまで知識の分散です。『自由の条件』の第二章がこの議論を分かりやすく表していると思うので、二節だけ引いておきます(原文ですみません、手元に翻訳はないのです):
While the growth of our knowledge of nature constantly discloses new realms of ignorance, the increasing complexity of the civilization which this knowledge enables us to build presents new obstacles to the intellectual comprehension of the world around us. The more men know, the smaller the share of all that knowledge becomes that any one mind can absorb. The more civilized we become, the more relatively ignorant must each individual be of the facts on which the working of his civilization depends. The very division of knowledge increases the necessary ignorance of the individual of most of this knowledge. (The Constitution of Liberty: The Definitive Edition p.78)

We have now reached the point at which the main contention of this chapter will be readily intelligible. It is that the case for individual freedom rests chiefly on the recognition of the inevitable ignorance of all of us concerning a great many of the factors on which the achievement of our ends and welfare depends. (The Constitution of Liberty: The Definitive Edition p.80) 
また、"The Epistemological Argument Against Socialism: A Wittgensteinian Critique of Hayek and Giddens"という研究の中で、Nigel Pleasantsがまさにこの点においてハイエクを誤解している(ハイエクの暗黙知概念をルールではなく個人が保有するものと考えている)ために、かえって非常に参考になります。私自身、この論文を読んで自分の解釈の誤りに気付かされました。お勧めしておきます。

最後に、第三のテーゼ「価格情報は、これら分散的・暗黙的な知識を集約的に表現する『指標』である。価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある」について。これも大分杜撰な書き方をしてしまいました。私は経済学の知識に乏しいので、残念ながら大して有意義なことは述べられないです。これを書いたとき私の念頭にあったのは、塩沢由典氏の「ミクロ・マクロ・ループ」という概念だったと思います。つまり、経済現象のミクロなレベルにおける振る舞い(行為主体の経済活動)と、マクロなレベルにおける振る舞い(様々な慣習的・制度的構造の出現)は因果的にループしている、という考えです。価格システムも大局的なレベルにおける制度構造の一つということで、「価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある」という風に書いたんだと思います。このミクロ・マクロ・ループの考えが、新古典派経済学の方法論的個人主義(ただしオーストリア学派の方法論的個人主義とは異なる、狭い意味でのそれ)に対する批判の基礎になります。しかし、これはかなり大雑把な物言いです。私の見解に耳を傾けるより、塩沢由典『複雑さの帰結』(ミクロ・マクロ・ループが出てくるのは確か第三章だったと思います)を読まれた方が遥かに有益と思われます。

2012年4月29日日曜日

市場競争の意味

The correspondence of expectations ... is brought about by a process of trial and error which must involve constant disappointment. The process of adaption operates, as do the adjustments of any self organising system, by what cybernetics has taught us to call negative feedback: responses to the differences between the expected and the actual results of actions so that these differences will be reduced. This will produce an increased correspondence of expectations ... (F.A. Hayek, Law, Legislation and Liberty)
実際、負のフィードバックによって秩序が達成されるという洞察は、サイバネティクスが初めて体系的に理論化したといえ、何もサイバネティクスが創始した考えではなく、もともとは市場についての理解にこそその起源を持つ。
long before Claude Bernard, Clerk Maxwell, Walter B. Cannon, or Norbert Wiener developed cybernetics, Adam Smith has just as clearly used the idea in The Wealth of Nations. The "invisible hand" that regulated prices to a nicety is clearly this idea. In a free market, says Adam Smith in effect, prices are regulated by negative feedback. (G. Hardin, Nature and Man's Fate)
ただし、これは時間と努力さえかければ学習過程が何らかの最終状態――主流派の「均衡」概念のような――に達しうるというわけでは決してない。オドリスコルとリッツォの次の意見に、おそらくハイエクも賛同するだろう。
A theory of evolved orders is not a theory of optimality or efficiency, precisely because it is a process not an end state theory ... It is not what competition does to fulfill our expectations that commends it; it is what we would not have expected it to do that commends it. (O' Driscoll, G. and Rizzo, M., The Economics of Time and Ignorance)
抽象的・一般的ルールを遵守しながら、行為主体は試行錯誤のプロセスを通じて進まなければならないが、このプロセスは不可避的に、常に一定数の主体の期待が 裏切られることを意味するだろう。特定の不確実性の存在によってのみ、より一般的な不確実性を最小化することができるのである。
[Market-determined rewards are] incentives which as a rule guide people to success, but will produce a viable order only because they often disappoint the expectations they have caused when relevant circumstances have unexpectedly changed. It is one of the chief tasks of competition to show which plans are false. (F.A. Hayek, Law, Legislation and Liberty)
期待が裏切られる過程で深刻な損害を受ける主体がいるということは不幸な副作用であるが、それを避けることはできない。というのも、介入は知識の発見・伝達・貯蔵を妨げ、それによって富の創造過程を妨げ、すべての人の好機を害するからである。

最後に、知識の発見手続きという意味における、市場競争と科学の方法との同型性について。
If we do not know the facts that we hope to discover by means of competition, we can never ascertain how effective it has been in discovering those facts that might be discovered. ... The peculiarity of competition - which it has in common with scientific method - is that its significance cannot be tested in particular instances where it is significant, but is shown only by the fact that the market will prevail in comparison with any alternative arrangements. The advantages of accepted scientific procedures can never be proved scientifically, but only demonstrated by the common experience that, on the whole, they are better adapted to delivering the goods than alternative approaches. (F.A. Hayek, "Competition as a Discovery Procedure")
科学の方法は自然界の普遍的な事実、つまり法則を発見するのに対して、市場競争はあくまでその特定の状況でのみ有効な暫定的な事実を発見するがゆえ、後者の有用性は前者に比べて理解されにくいと言える。

2011年12月5日月曜日

【書評】 ハイエクのポリティカル・エコノミー : 秩序の社会経済学 (スティーヴ・フリートウッド)

原著:Steve Fleetwood, Hayek's Poltical Economy: The Socio-economics of Order

本書は「批判的実在論」(critical realism)という新しい見地からハイエク哲学の変遷を描くという、一風変わった研究書。経済学の領域に批判的実在論を適用した研究ではトニー・ローソンの『経済学と実在』(Economics and Reality)が有名だが、試みとしては本書の方が初めてらしい(邦訳はローソン本の方が先)。

フリートウッド氏は、ハイエクの著作を三つの時期に区分し、経済学、法学、政治学、心理学など社会・人文科学の諸分野にまたがる彼の社会経済学の発展を、それを根底で支える哲学の変遷から説明する。1936年までのハイエクをハイエクⅠ(本書ではほとんど論じられない)、1936年から1960年までのハイエクをハイエクⅡ、1960年以降のハイエクをハイエクⅢと呼ぶ。ハイエクⅠは「狭い技術的な経済学」に固執する、主流派と同じ実証主義者であった。しかし、すでに1936年の時点で、ハイエクは実証主義と決裂し、主流経済理論を放棄し始める。1936年に書かれた論文「経済学と知識」("Economics and Knowledge")が、ハイエクⅡの出発点である。1936年以降のこの時期、ハイエクは知識、均衡、人間主体についての思索を深めてゆくのであるが、フリーウッド氏によると、この時点でのハイエクには、社会構造、とりわけ振るまいのルール(rules of action)に関するなんらかの適切な把握が欠けていたために、知識の発見・伝達・貯蔵を促進する上での情報伝達システムの役割と効力とを、誇張せざるをえなかった。フリートウッド氏は、ハイエクⅡの社会構造についての認識の欠落を、この時期の彼の哲学的立場の帰結と見なす。すなわち、認識論としての主観的観念論(subjective idealism)と、存在論としての(拡張された)経験的実在論(empirical realism)を総合する立場である。フリートウッド氏はこの総合された立場を「超越論的観念論」(transcendental idealism)と呼び、科学的探究におけるその現れが実証主義であるとする。拡張された存在論というのは、通常の超越論的観念論者が感覚与件に与えられる事象にのみ存在論的ステータスを付与するのに加えて、ハイエクⅡは絶え間なく変化する事象よりも深層にある領域、つまり主体による想念(conception)の領域の実在性をも認める、ということである。彼はもはや「与件」を人間による同定から独立したものとみなすことができず、主体の主観的な想念と密接に結びついているものとして取り扱う。これがハイエクⅡと実証主義とを隔てる分断点である。

しかし、ハイエクⅡの認識論としての主観的観念論が、社会科学においては解釈学的基礎づけ主義(hermeneutic-foundationalism)として姿を現すが、この立場が、社会構造を含む適切な存在論を発展させるのを妨げた、とフリートウッド氏は診断する。その結果ハイエクⅡは、均衡は秩序についての妥当な考えではないと主張しておきながら、それに代わるものを提示することができなかったのである。

フリートウッド氏は言う(ここで言われているハイエクはハイエクⅡである):
Hayek's position in social science might usefully be interpreted as an overreaction to positivism, or more accurately, to scientism. Once Hayek recognises that for social scientists, the external world is not objectively given (pace classical empiricism and positivism), he does not stop at the correct view that it is mediated by, or dependent upon, agents' subjectively formed conceptions. He overreacts, making the hermeneutic-foundationalist, and as I shall show, subjective-idealist, presumption that the social world is determined by, or exhausted by, agents' conceptions. [原文改行] Hayek, in effect, empties his social ontology of real social material, leaving a residue of nothing more than conceptions, ideas, beliefs, attitudes, and so on, that is, ideal social material. (pp.28-29)
しかし1960年頃の(第二の)哲学的転換が、この状況を打開することを可能にした。ハイエクⅢは認識論としての主観的観念論と解釈学的基礎づけ主義を捨て去り、準超越論的実在論(quasi-transcendental realism)の哲学を採用する。彼は事象と想念とを実在と認める存在論をさらに拡張し、振るまいの社会的ルールという形態の深層構造を含めるようになる。経験的事象を生じさせる基底構造に迫ることによって、ハイエクⅢは「社会活動の変換モデル」(Transformational Model of Social Activity, TMSA)とフリートウッド氏が呼ぶものに近いものを展開し、市場過程あるいはカタラクシーについて彫琢を加え、最終的には、知識、無知、ルール、情報伝達システムという諸テーマの結合を可能にする洗練された社会理論を作り上げることができた。以上が、フリートウッド氏の大まかな筋書きである。

【感想、批評】

本書は非常に示唆に富んだ、面白い研究だった。1936年頃のハイエクの転換を実証主義からの離反と捉えるのはハイエク研究においてはありふれた見解だが、1960年前後の転換をどう考えるかについてはかなり論争があるし(時期区分の成否如何はここではあまり深く考えないことにする。1940年代の科学主義論文――"Scientism and the Study of Society"全三部構成、The Counter-Revolution of Science: Studies on the Abuse of Reason 所収――における個人主義的・解釈学的アプローチと、晩年の進化論的アプローチとの間にはあまりにも差があるので、この期間に何らかの転換があったのは間違いないだろう)、方法論的個人主義と文化的進化論の整合性の問題とも密接に繋がっているので、私も非常に興味がある。

しかし、残念ながら私は、(1960年頃の)この転換をハイエクの哲学的立場の変遷の帰結と見なすフリートウッド氏のテーゼには賛同できない。むしろ、ハイエクの哲学的立場は1936年頃以降一貫していて、転換したのは方法論だけなのではないか、というのが私の解釈である。というのも、科学主義論文で展開されている主観的観念論と解釈学的アプローチ(私はあえて「基礎づけ主義」という用語は使わない)は、ハイエクⅢの準超越論的実在論と整合的なのではないか、と思われるからである。私の見るところ、フリートウッド氏の科学主義論文の読みは(誤読とまでは言わないまでも)かなり偏っている。また、社会的質料(social material)の「実在性」をめぐるフリートウッド氏の言葉の使い方および議論の仕方に、非常に問題を感じる。例えば、フリートウッド氏は以下のように述べる:
Whilst it is, true that real social material such as social structures (unlike physical material) cannot exist independently of all perceptions of them, they nevertheless exist independently of any one person's particular perception of them. If, however, social material can exist independently of a particular agent's perception or identification of it, then for that agent it has an objective existence - and cannot therefore be ruled out of the field of inquiry. This runs counter to the subjective-idealist claim that social material is constituted in the cognitive activity of the transcendental subject. (pp.78)
あるいはこのようにも言われる:
The following discussion, couched as it is in terms of cognitive psychology, should not mislead us into thinking that social rules originate in the mind. Social rules of conduct are just that - social. Whilst they are, typically, internalised by agents via the (cognitive) learning process, they are not merely in and of the mind. They have an existence independent of any particular agent's identification of them. (pp.108)
さて、社会構造が認識から独立しているとは、一体どういう意味であろうか。そもそもそんな事態は可能なのだろうか。私には到底そのようには思えない。ある主体が、自分が従っている行為ルールに関して無意識であったり、自分を規定する社会構造に関して無知であることはありうるが、その社会的質料から影響を受けているのであれば、それを即ち(間接的な形であれ)「認識」していると言えないだろうか。(逆に影響を受けていないのであれば、それは社会的質料でもなんでもない)。例えば、暗黙的な行為ルールに従うことができるということは、人間社会の中に何らかのパターン・規則性を認識してそれを模倣することに成功している証拠であるし、社会構造の影響を受けることができるということは、その構造が問題になる(より広範の)「ゲーム」をすでに遂行的に理解している必要がある。したがって、私には「遂行」と「認識」の次元を区別する必然性が見出せない。主体がその社会的質料に関して無意識であれ無知であれ、実践の領域でその影響を受けているのであれば、それを(何らかの間接的な形であれ)「認識」しているのである。そういう意味で、社会構造などの社会的質料はすべて諸個人の主観的な想念に起源を持つし、想念と独立の実在性を持つことはありえないはずだ。科学主義論文でハイエクが言わんとしているのは、こういうことではないのか。ハイエクは言う:
The individuals are merely the foci in the network of relationships and it is the various attitudes of the individuals towards each other (or their ... attitudes towards physical objects) which form the current recognisable and familiar elements of the structure. (Hayek, "Scientism and the Study of Society" pp.284)
ハイエクⅡが想定する個人像は、複雑に相互作用しながら想念から彼らにとっての社会構造を創り上げていく、ネットワークの中の個人である。この「彼らにとっての」というのが重要である。ここに解釈学的なエレメントが入り込んでくる。というのも、我々(社会研究者)にこの社会構造が「見える」のは、我々も彼ら(研究対象)と同じゲームを遂行しているからに他ならない。批判的実在論の立場においても、振るまいの社会的ルールや社会構造などの社会的質料が研究の対象となりうるためには、我々は解釈学的アプローチを利用する他ないのである。フリートウッド氏が実在の深層領域に社会的質料を見出すことができたのも、暗黙裡に解釈学的アプローチを援用していたからに過ぎない。ローソン氏のハイエク解釈に対する批判の中で、Allen Oakley氏も同様の趣旨のことを述べている:
My alternative is to envisage critical realism and hermeneutics as consistent, compatible and complimentary methodological strategies required to maintain subjectivist ontology. Hermeneutics is to be envisaged as the means of inquiry that will enable economics to achieve the 'deep' analytical insights that are the hallmark of critical realism (Allen Oakley, The Revival of Modern Austrian Economics: A Critical Assessment of Its Subjectivist Origins, pp.16)
社会科学においては、認識論としての主観的観念論(およびそれに伴う主観主義的な存在論)は放棄不可能であるように思われるし、したがってまた解釈学的アプローチも放棄不可能のように思われる。ハイエクⅢもこれらの立場を放棄したとは私は考えない。ハイエクⅢへの転換はむしろ方法論的なもののみのように思われる。つまり、個人の想念を分析の中心に据える方法論から、振るまいの社会的ルールなどの社会的質料を分析の中心に据える方法論への転換である。この方法論的転換の理由は、フリートウッド氏も指摘するとおり、ハイエクが振るまいの社会的ルール、とりわけ暗黙的なルールの存在に気付いたからだろう。
In this case, the 'compositive method', which focuses upon creating social phenomena from the conceptions held by agents, becomes problematic. If agents do not discursively know and/or adequately conceptualise the structures that facilitate their action, then society cannot be composed out of these conceptions alone. (pp.84)
フリートウッド氏のこの解釈は全くその通りだと思う。ただ、ハイエクⅢはハイエクⅡの存在論・認識論を放棄する必要はない。なぜなら、社会構造が主体の主観的な想念に起源を持つことと、その構造をあたかも客観的な実在物であるかのよう扱うこととは、何ら矛盾しないからである。実際、主体にとってはその社会構造は客観的な実在物なのだから、社会研究者も同様のものとしてその概念を利用しても問題ないはずだし、個人の想念から出発するよりはその方が好都合な場合もある。暗黙的な行為ルールが研究の材料として入ってくるというのは、まさにそういう場合なのではないか。社会的質料が主体の想念に起源を持つということ、したがって主観主義的な存在論を受け容れた上で、社会的質料を(いわば括弧付きで)客観的な「実在」と呼ぶのであれば私は何ら異存はないし、ハイエクⅢの立場もおそらく同様のものだろう。本当は丹念な文献引用によってこれを示さなければならないのだろうが、残念ながら今の私にはその時間も能力もないので、以上の雑駁な議論でお許し願いたい。

最後に、フリートウッド氏がハイエクⅢに読み込む「社会活動の変換モデル」(Transformational Model of Social Activity, TMSA)について。私にはこれはハイエクの文化的進化論の単なる言い換えにしか思えないのだが、言い換えることに一体何のメリットがあるのだろうか。むしろ進化概念を用いた方が適応とか淘汰が言えるので、言い換えない方がいいのではないか、と思った。まだロイ・バスカーの著作を読んでいないので何とも言えないけど、本書を読む限りあまり魅力を感じることはできなかった。

2011年10月28日金曜日

設計主義のなにが問題なのか? : ハイエクの知識論

以下の文章は、仲正昌樹『いまこそハイエクに学べ: 〈戦略〉としての思想史』の第一章「設計主義のなにが問題なのか?」(p.25-66) を題材にした読書会のレジュメである。



仲正氏はハイエクの思想史的アプローチに焦点を当てて彼の設計主義批判を素描している。仲正氏の整理は要領を得ていて非常に分かりやすいと思うが、(本人も序章で予め断っている通り)、ハイエクの「知識」に関する議論や科学哲学的な議論が省かれているので、ハイエクの設計主義批判がある種の独断論ないし極論に聞こえてしまう箇所もあったように思う。例えば、「マルクス主義や社会民主主義が集産主義的な傾向を示しているのは、経済を中心とした社会的な「平等」を達成するため、生産様式や交換過程を規制しようとしているだけであって……」(p.34) 云々とあるが、これに対する仲正氏の(ハイエク側からの)反論は思想史的なものだけなので、かなり弱い。「社会主義」と「ファシズム」の結びつきは本当に必然的なのだろうか?経済の規制・計画化の何がいけないのか?結局、「平等」を優先するか「自由」を優先するかの価値判断の問題ではないのか?これらの疑問に応えるために、ハイエクの知識論を簡単に紹介してみたい。

【知識の分業体系としての市場】

ハイエクの思想体系を「市場の哲学」と呼ぶとすれば、その根幹を成すのは彼の「知識」に関する洞察である。その要旨を、大まかに三つにテーゼにまとめることができると思う。すなわち、

(1) 経済過程を可能にする知識は無数の個々人に分散して局所的・断片的に存在している。

(2) その知識の大部分は「暗黙知」(tacit knowledge)であり、言語化・分節化できない。

(3) 価格情報は、これら分散的・暗黙的な知識を集約的に表現する「指標」である。価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある。

さて、詳しく説明しよう。(なお、(3) に関しては紙幅の都合上割愛する)。

経済過程とは、一言で言えば「相互に異なり、場合によっては対立さえする多数の目的・計画を調和(coordinate)させる」プロセスである。当然のことながら、社会の全成員の目的が予め一致しているなんてことはあり得ない(それだったら経済現象がそもそも起こり得ない)。一方には米を需要する消費者がいて、他方には米を供給する生産者がいるからこそ、経済過程が成立する。問題は、この過程がどう行われるかである。従来の方法は、貨幣を媒介にした市場交換である。これに対して社会主義をはじめとする集産主義者は、財の「分配」を主張する。分配主義は、一見合理的に見える。中央計画当局が、すべての財に関する社会的需要を予め統計的に調査しておいて、その需要に応じて必要な分だけ生産するよう各工場に指令を出せばいい。このため、需給の過不足は生じないし、なによりプロセス全体が意識的に遂行されるので、正義に適った「平等」な分配を実現できるのだ。しかし、ハイエクは二つの点においてこの分配主義に噛み付く。

まず第一に、人々が保持している(利用可能な資源や生産にかかる時間などに関する)局所的・分散的な知識をすべて中央計画当局に集めるには、情報量があまりにも膨大過ぎる。仮に集めることができたとしても、そこから需給の最適な均衡解を導出するには、ほぼ無限大の計算速度が必要になる。市場機構による局所的・分散的な情報処理に比べて、いったん中央当局に社会全体の知識を集めて、均衡解を計算して、再び上意下達方式で指令を下すというやり方は、明らかに二度手間である。経済状況は刻一刻と変転するので、分配政策が本来の市場機構の効率性に追い付くことは到底不可能である。

そして第二の問題点はさらに深刻である。経済過程を可能にする知識のほとんどは、マイケル・ポランニーの言うところの「暗黙知」(言語化・分節化することのできない知識)として保持されているとハイエクは言う。現場の人間にしか把握できない、その場その場の暗黙的・実践的な知恵こそが、経済過程において本質的である。というのも、このような暗黙的な知識こそが、新たな知識の「発見」と密接に関わっているからだ。そしてハイエクによれば、市場競争とは新たな知識を「発見」する模索のプロセスに他ならない。どのような新商品を開発すれば売れるか、どのような製作工程を採用すれば価格を安く抑えられるか、生産者や企業家は様々な工夫を凝らし、試行錯誤のプロセスを経て品質を改良し、価格を安くし、時には画期的なイノベーションや発明を行う。これらの商品は不特定多数の匿名的消費者による選択的淘汰に晒されることによって、経済はダイナミックに生成変化する。集産主義者たちの素朴な経済観では、市場機構のこの「学習」のダイナミズムを捉えることができない。現場の人間のみが保持している主観的な暗黙知を、無理やり客観的なデータに変換してしまおうとする彼らは、経済過程にとって本質的な要素を知らず知らずのうちに削ぎ落としてしまうのである。分配主義による「合理的」な経済運営は、イノベーションも進化もない、極めて静態的な社会を帰結するであろう。

【無知の承認による自由の擁護】

以上のハイエクの知識論から、「自由」は如何にして帰結するのであろうか?ハイエクは、「無知の承認」という独特のやり方で自由を擁護している。一言で言えば、「自由が必要なのは、それを放棄できるほど我々は賢くないからだ」ということになる。ハイエク自身はこう述べる。

もし全知全能の人がいて、われわれの現在の願望の達成に影響するすべての要素ばかりでなく、われわれの将来の欲望と願望をも知ることができるとしたら、自由の必要はほとんどないだろう。逆に、個人の自由は将来についての予測を完全に不可能にする。したがって自由は、予測も予言もできない未知の可能性を開くために必要なのだ。……人々が知っていることはあまりにも少なく、とくにだれがもっともよく知っているかを知らないから、われわれは多くの人々の独立した行動と競争的な努力によって、望ましい未来が自発的に生まれることを信じるのだ。(『自由の条件』、p.29)

自由が必要なのは自由な状態が幸福だからではなく、どうやったら幸福になれるのか我々が知らないからだ。自由を要請するのは何らかの恣意的な価値判断ではなく、我々が直面する「理性の限界」という不可避的境遇である。この事実を弁えず、社会を合理的に設計・計画しようとする傲慢な理性主義こそが、ハイエクの批判する設計主義に他ならない。

2011年9月10日土曜日

社会正義の要求と企業の役割の肥大化

本記事は、F.A. Hayekの二つの論文:「「社会的」という言葉―それはなにを意味するのか」("What is 'Social'? — What Does it Mean?") と、「民主主義社会における企業―だれの利益のため?」("The Corporation in a Democratic Society: In Whose Interest Ought It To and Will It Be Run?")の内容を関連させてまとめたものである。ハイエクの引用は日本語で載せたかったが、如何せん手元に日本語の全集がないので、とりあえず英語で。

【「社会的」という言葉の無意味化】

「社会的」(social)という言葉は一体何を意味しているのだろうか。普段から何気なく、当たり前に使っている言葉なだけに、我々はその意味が孕む問題について特別意識することはまずないだろう。しかし、ハイエクはこの言葉の持つ曖昧さと、その使用のだらしなさに警鐘を鳴らす。ハイエクの診断はこうである。
[T]he final conclusion emerging from my deliberations has been that the word 'social' has become an adjective that robs of its clear meaning every phrase it qualifies and transforms it into a phrase of unlimited elasticity, the implications of which can always be distorted if they are unacceptable, and the use of which, as a general rule, serves merely to conceal the lack of real agreement between men regarding a formula upon which, in appearance, they are supposed to be agreed. (Studies in Philosophy, Politics, and Economics, p.238)
答えが無いところにあたかも答えがあるかのように綺麗な政治的カモフラージュを施す「社会的」という言葉は、我々が直面している多くの重大な問題についての明晰な思考を阻害し、我々を混乱させる。

19世紀の中頃から、20世紀の初めにかけての「社会的」という言葉の意味の変遷は、時代の思考の流れを忠実に反映している。というのも、「社会的」という言葉は、本来の(「社会」という概念が発見された18世紀の中頃からの)「自生的に生じた人間関係の秩序」という意味から、「倫理的」とか、単に「善い」といった言葉に徐々に取って代わってきたからである。言語や慣習といった、「社会的諸力」(social forces)や「社会的構造」(social structures)と言う時、我々はまだ前者の意味で使っているが、「社会的責任」(social responsibility)や「社会(的)正義」(social justice)と言う時、「社会的」という言葉は全く別の、倫理的・規範的な要求を含意している。では、従来の意味の「倫理的」と、「社会的」という言葉が意味するところの「倫理的」はどう違うのだろうか。

これを見るためにはまず、「社会問題」(social question)が初めて公共の議題になった19世紀中頃の状況に目を向けよう。この時代、政治の議論は(大雑把に言って)狭い上流階級の人々に限られていた。彼らの間で、当時政治活動に参加することができなかった、社会の「最も数多く、最も貧しい」人々を「救済」しようという責任感が芽生えていた。「文明世界」(civilized world)が、それまで存在が知られていなかった「地下世界」('underworld')を「発見」したこの頃から、「社会的」という語は「弱者の救済」という新たな意味を帯び始めた。これと並行して、従来の「倫理的」な規範の遵守と、「社会的」な思考の要求との間に境界線を引き、前者に対する後者の優位を(暗黙裡に)説く思想の学派が登場してきた。前者は消極的な要求であり(例えば「盗むなかれ」、「嘘を吐くなかれ」といった禁止の形態をとる)、また一般的・抽象的である(それぞれの行為の具体的帰結を問題としない)。これに対して後者は、社会の全成員に対する積極的なオブリゲーションを課すとともに、行為の具体的帰結を問題にし、それらに則って行為を律するよう我々に要求する。この思想の学派は、言うまでもなくサン・シモン、コント、マルクスの系譜の人々である。

勿論、社会のすべてのメンバーを考量に入れようという態度自体は、賞賛に値するものであるかもしれない。しかし、社会行為に関するこのような見方には、社会全体をある統一的なコードの元に解釈しようとする思考様式が伏在していることを見落としてはならない。

「社会(的)」という形容詞を冠する言葉は数え切れないほどある。「社会(的)意識」(social awareness)、「社会的良心」(social conscience)、「社会的責任」(social responsibility)、「社会活動」(social activities)、「社会福祉」(social welfare)、「社会政策」(social policy)、「社会立法」(social legislation)、「社会正義」(social justice)、「社会保障」(social insurance)、「社会的権利」(social rights)、「社会的規制」(social control)などなど。「社会民主主義」(social democracy)という言葉に至っては、もはや何のことかさっぱり分からない。社会的でない民主主義とは一体どんな民主主義なのであろうか。
The important thing, to me, is that in all these uses the word 'social' presupposes the existence of known and common aims behind the activities of a community, but does not define them. It is simply assumed that 'society' has certain concrete tasks that are known to all and are acknowledged by all, and that 'society' should direct the endeavours of its individual members to the accomplishment of these tasks. 'Society' thus assumes a dual personality: it is firstly a thinking, collective entity with aspirations of its own that are different from those of the individuals of whom it is composed; and secondly, by identifying it with them, it becomes the personification of the views held on these social aspirations by certain individuals who claim to be endowed with a more profound insight or to possess a stronger sense of moral values. Frequently enough a speaker will claim that his own views and aspirations are 'social', while those of his opponent are brushed aside as 'anti-social'. There is, I think, no need for me further to emphasize that, when 'social' is used in the sense of 'serving the interests of society', it certainly raises a problem, but provides no solution. It concedes precedence to certain values to which society should adhere, but it does not describe them. Were the word strictly used in this sense, there would, I think, be but little objection. In point of fact, however, not only does it compete in many ways with existing ethical values, but it has also undermined their prestige and influence. Indeed, I am coming more and more to the belief that the substitution of this rubber word, 'social', to denote values we have always described as 'moral', may well be one of the main causes of the general degeneration of moral sense in the world. (ibid, p.242-3)
「社会的」という言葉の意味の変遷(というよりは「無意味化」と言った方が正しいだろう)は、社会に関する合理主義・設計主義的な見方の発展と深く関係している。この合理主義は、具体的帰結が見えず、その意味が理解できない伝統的・暗黙的な倫理的規範を軽視し、明示化できる具体的な目的の追求を重視する。かくして、「社会的行動」('social behaviour')の要求は、その成立そのものを可能にしてきたはずの倫理的土台を自ら破壊していく。この倫理的規範の破壊は、「個人の責任」(personal responsibility)を巡る問題において特に顕著である。
Originally, the appeal to the social sense was expected to lead to a more widely spread acceptance of personal responsibility. But the confusion that arose between the further aims to which the individual man should aspire, between the taking-into-consideration of social repercussions and social—in the sense of collective—behaviour, and between the moral obligations of the individual to the community and his claims upon it, has gradually undermined that sense of personal responsibility which is the foundation of all ethics. ... Indeed, there seems to me to be very little doubt that this whole process which has thoroughly confused the issue as regards personal responsibility, absolving the individual on the one hand of all responsibility as regards his immediate environment and, on the other hand, placing upon him vague and undefined responsibilities for things that are not clearly apparent, has, by and large, led to a marked diminution of man's sense of personal responsibility. Without placing upon the individual any new and clear obligations which he has to fulfill by his own personal endeavours, it has expunged the boundaries of all responsibility and has become a standing invitation to make further demands or to do good at the expense of others. (ibid, p.245)
その時その時の「社会正義」の名の下に、自生的に進化してきた正義概念や倫理的規範がしばしば制限されたり、無視されたりするが、これは非常に危険な事態である。「社会正義」の要求は、短期的な目的には望ましい成果を挙げているように見える場合でも、長期的に見ればむしろ社会秩序の安定的進化を損なうという逆説的な状況が起こり得る。これから見るのは、これを示す一つの具体的なケースである。

【企業の役割の肥大化】

「社会正義」の要求がもたらす望ましくない帰結の典型的な一例として、企業の役割の肥大化を取り上げる。ハイエクのテーゼはこうである。
If we want effectively to limit the powers of corporations to where they are beneficial, we shall have to confine them much more than we have yet done to one specific goal, that of the profitable use of the capital entrusted to the management by the stockholders. I shall argue that it is precisely the tendency to allow and even to impel the corporations to use their resources for specific ends other than those of a long-run maximization of the return on the capital placed under their control which tends to confer upon them undesirable and socially dangerous powers and that the fashionable doctrine that their policy should be guided by 'social considerations' is likely to produce most undesirable results. (ibid, p.300)
ただ、企業の役割が資本から得られる利益の長期的な最大化に限定されるべきと言っても、企業が社会の一般的・抽象的な法的、および倫理的ルールに縛られていなくてもいい、という訳では当然ない。具体的な目的と、具体的な目的を追求する際のルールの枠組は区別されなければならない。

莫大な資本金を持つ大企業といえど、その資金の使い道が「利益の最大化」という単一の目的に限定されている限り――つまり資本金の使い道に関して経営陣の恣意的意志が働く余地がない限り――企業は「権力」を持ち得ない。しかしいったん企業の経営陣が、社会一般で認められている何らかの理想的な目的――それが社会奉仕活動であれ、貧困の撲滅であれ、研究・教育の援助であれ――に資本金を回すことを認めてしまうと、企業を制限するものは何もなくなってしまう。「それ自体において望ましい」という世論の動向だけで、莫大な資金が動くことになる。こうなってしまうと、あとは企業が強大な恣意的・政治的権力を獲得するのを防ぐ手立ては何もない。
If the large aggregations of capital which the corporations represent could, at the discretion of the management, be used for any purpose approved as morally or socially good, if the opinion of the management that a certain end was intellectually or aesthetically, scientifically or artistically desirable, were to justify expenditure by the corporation for such purposes, this would turn corporations from institutions serving the expressed needs of individual men into institutions determining which ends the efforts of individual men should serve. To allow the management to be guided in the use of funds, entrusted to them for the purpose of putting them to the materially most productive use, by what they regard as their social responsibility, would create centres of uncontrollable power never intended by those who provided the capital. (ibid, p. 305)
にも関わらす、時代の風潮はますます「社会全体の利益」を重視する方向へ流れている。税制もそうだし、世論もそうだし、企業内の伝統もそうである。しかし、この要求は全くの見当違いで、実際のところ事態を悪化させる原因以外の何者でもない。

【企業の運営は誰の利益のために?】

企業は、一体誰の利益を優先して運営されるべきであろうか。考え得るのは次の四通りであろう:経営陣、労働者、株主、そして「社会全体」。このうち、経営陣の利益を優先するべきだと主張する人はまずいないと思われるので、考察から除外する。

労働者の利益を優先するべきだという主張については、詳しくはハイエクの論文「労働組合、インフレ、および利潤」("Unions, Inflation, and Profits")を参照されたいが、簡単に要約すると①ある特定の閉じた労働者集団を保護することは、他の労働者の自由な参入を拒むことである。②閉じた労働者集団の賃上げ要求は、就職率の低下をもたらす。というのも、企業の側が出せる賃金の総量は変わらない(市場の内生的な成長の結果賃金が上がった場合は別の話である。ここで問題にしているのは市場の内生的成長を伴わない人工的な賃上げ圧力である)ので、その労働者集団に支払わなければならない賃金が上昇し、その額以下の賃金で働こうと思っている新たな労働者の参入が阻害されるならば、企業が新たに雇うことのできる労働者の人数は必然的に減少するに違いない。中長期的に見ればこれは社会全体の就職率の低下となって現れる。(日本の場合、正規雇用が減少し、非正規雇用が増大しているが、全く同じ原理である)。③就職率の回復を意図した金融政策が金融管理当局によって行われると、インフレーションが起こる。貨幣供給量の増加により貨幣の価値が下がるので、労働者の名目賃金を下げることなく実質賃金を下げることが可能となり、結果として就職率は回復する。②と③が繰り返されると、止め処ないインフレーション・スパイラルに陥る。

ここで為されているのは、安定的な賃金水準と就職率の確保に関する責任の分断である。一方の労働組合は就職率への影響を考慮せず最大の賃金を獲得することに躍起になっており、他方の金融管理当局はその賃金水準を所与の条件として完全雇用を実現するためにはどれだけのお金を供給すればいいかしか考えていない。このような人工的インフレーションは労働組合の活動とケインズ政策の必然的帰結であり、大規模な金融ショックの引き金となり得る。

さらに別の(しかし非現実的な)可能性として、もし企業の資産や運営権の一部あるいは全部を労働者集団の手に譲渡するとしたら、シンジケート型の社会主義が直面する問題と同種の問題に直面することになる。それは単に、労働者と資本家の立場を入れ換えて、新たな資本家集団を作ることになるだけであろう。とにかく、企業の運営は労働者の利益を優先してなされるべきだと言う主張は、その意図とは逆の帰結しかもたらさない。

さて、ハイエクが優先すべきだと言うのは、株主である。
The problem I want to consider is, thus, whether the rules for the standard type of corporation should, to a much greater degree than is the case at present, be governed by regulations which assure that the interest of the stockholder shall be paramount. I believe this to be the case and wish here to indulge in some bold mental experimentation with regard to the means of giving the stockholders greater powers in this respect. It seems to me that in this field the possibilities of arrangements different from those to which we are accustomed are all too little considered, and that the 'apathy' and lack of influence of the stockholder is largely the result of an institutional set-up which we have wrongly come to regard as the obvious or only possible one. (ibid, p.307)
株主の利益を優先すべきだとしても、そのような法体系が必然的に市場の中から自生するとは限らない。ゆえに、現在の法体系が最善のものであるとは限らないし、これを改良(「設計」ではない)して、より安定的な秩序が自生するための条件整備を行うこともあってもいいはずだ。というわけでハイエクは、株主の権限を強化するための具体的な政策プランを二つ提示する。

第一は、株主の出資金から得られた当期利益のうち、何割を企業に再投資するか、企業の経営陣ではなく株主に決定する権限を与えること。第二は、企業が他の企業の株主になるのを禁止すること。それぞれ説明しよう。

まず一つ目の政策は、経営陣の恣意的権力を弱める働きをする。企業に出資された資本金の使用権限を、基本的に株主に帰着させることによって、企業によるむやみな拡大再生産が制限されることになる(何割投資するべきか、企業側がお勧めの割合を提言することはできるが、最終決定は株主に委ねられる)。資源の最も効率的な活用のために企業が目指すべき利益の最大化は、企業の資産総量の最大化――これは経営陣の権力増大に繋がる――ではなく、出資された資本単位当たりの利益の最大化である。

第二の政策は、少数の経営者による他企業のコントロールを禁止するための方策である。もともと企業が他企業の株式を取得できるように法律が作られたのは、その帰結が考量されたからではなく、どうやら単に、法人には個人と同等の権利を与えるのが自然だろうと判断されたから、のようだ。

株式の過半数が取得され、A企業のコントロール下に入ったB企業を想定しよう。すると、本来は共通の利害によって結ばれたはずのB企業内部に、利害の対立が生じることになる。というのも、B企業に資本金を出資しているすべての株主の意志ではなく、A企業の利益を目指している多数派の意志によって資本金が使われることになるからだ。この時、多数派ではないB企業の残りの株主はババを引いたことになる。こうなると彼らは株式を売り払うしかないが、それこそがA企業の狙いであるかもしれない。このように、株式保有による長い企業コントロールのチェーンができることも考え得る。A企業によってコントロールされたB企業によってコントロールされたC企業によって…という風に。かくして、少数の人間による莫大なお金と権力の専有が合法的に認められることになる。これを防ぐための法改良である。この法改良は、私的所有の境界線の厳格化に相当する。(ちなみに、企業による他企業の株式取得自体を禁止するのではなく、投資は合法のままにして、株式に伴う投票権を剥奪する、という形が最良であるかもしれない)。

以上、現在我々が自明と見なしている法制度が、実は改良の可能性に開かれた特殊なものであることが分かった。企業は誰の利益を優先して運営されるべきか、に関する第四の可能性、「社会全体」については、既に述べた通りである。弱者、ないし社会の全成員を救済したいという志は崇高であるが、理想だけが先走って現象の複雑な構造を自分の都合の良いように裁断する偏狭な設計主義は、自らの意図とは逆の帰結を覚悟しなければならない。

2011年5月28日土曜日

【書評】 ハイエクと現代リベラリズム : 「アンチ合理主義リベラリズム」の諸相 (渡辺幹雄)

本書は渡辺幹雄の処女作『ハイエクと現代自由主義 : 「反合理主義的自由主義」の諸相』を改訂・増補・改題したものである。本書を読んで、渡辺幹雄という男はやはり天才以外の何者でもないという以前からの確信がさらに強まった。否、その独特の軽やかな語り口、捻くれたユーモアのセンス、そして何よりもハイエクらアンチ合理主義リベラリストたちの錯綜する議論を分かりやすく整理し、見事に調理していく手腕を見れば、むしろ「鬼才」という呼称が相応しいかもしれない。特に、新たに増補された付章一「複雑さと社会科学――ハイエクの方法論に関する試論」は貴重な知見に溢れていて、この章だけのために本書を読む価値はある。

【序論「リベラリズムとは何か」】

まず序論「リベラリズムとは何か」において渡辺氏はこう啖呵を切る。

リベラリズムは本来「反自然的」なのである。それがhuman natureの開花であろうはずがない。前期ロールズに受け継がれた啓蒙主義のリベラリズムは、その実human natureの神話に立脚した詭弁なのである。我々にリベラルであることを要求(強要)するのはそのhuman natureではなく、我々の直面する客観的境涯である。誰も好きこのんでリベラルになどなりはしない。ウォーリンが言うような悲観的境涯を生き抜くために、人は仕方なく、やむをえずリベラルになるのである。(p.13)

リベラリズムに人間の幸福を問うのはお門違いである。リベラリズムは幸福のためのガイドラインではなく、破滅を避けるための政治的知恵である。幸せになりたい人は、別のところに相談に行くべきであろう。リベラリズムにそれを求めても、期待は裏切られるだけである。(p.14)

渡辺氏のこのリベラリズム観には満腔の賛意を表したい。このリベラリズムは、前期ロールズに代表されるような、包括的な哲学や人間の普遍的道徳性に立脚したアメリカン・ハッピー・リベラリズムではない(このリベラリズムでは、リベラルな社会は「定義によって」幸福なのである)。否、ハイエク、ポパー、オークショット、M・ポランニー、バーリンに代表されるこのリベラリズムは、「敗北のリベラリズム」、「絶望のリベラリズム」なのである。

その通り、彼らは暗い。少なくとも、彼らの著作に(ときに笑えても)明るい夢や希望を見出すことはできない。いな、よく言えば老獪で、悪しく言えば嫌味な加齢臭の漂う「年寄りの説教」というのが妥当なところだろう。彼らのメッセージの最大公約数は、私にはこう響く。「鼻息の荒いお若いの、おまえの理想は高邁で、その原理原則は高潔だ。だが残念なことに、人間もこの世界も、おまえの言うようにはできていない。もしおまえの夢が現実になったら、この世は地獄になるだろう」。(p.7)

渡辺氏は彼らのリベラリズムを「アンチ合理主義リベラリズム」と呼び、本書ではハイエクを主軸に彼らの思想を一人ひとり読み解いていく。ハイエクを取り巻く重要思想家たちと対比させながら、ハイエク自身の思想に周縁から徐々に迫っていくという、本書のこの構成は間断を許さない。以下では、特に興味深かった論点をいくつか抽出してみたい。


【<P=O図式>の呪縛】

ハイエクに対するありがちな批判の一つに、彼が悪しき「経済主義」ないし「物質主義」の旗振り役だと言うものがある。例えばオークショット研究者ポール・フランコは、ハイエクがリベラルな政治社会を、それが生産性を向上させ、広く経済活動の効率を高める(経済主義・物質主義)がゆえに支持している、つまりハイエクのリベラリズム擁護は、経済的動機によってなされており、これが政治理論としてのリベラリズムを汚している、という旨の主張をしている。しかし、渡辺氏も指摘しているように、これはフランコが、ハイエクの経済思想に対して無理解であることを自ら露呈している。そこで渡辺氏は、ハイエクの経済観を説明するために、<P=O図式>という概念を導入する。

アリストテレスの学問分類によれば、経済(economy)はオイコス(家政)としてつねに政治(ポリス)に服従するべきものとされる。オイコスは人間の動物としての必要を満たす領域、換言すれば、必然性に拘束された不自由な私的空間――プライベート、すなわち人間の人間たる意味を「奪われた」(privatus)空間――であり、それに従事すべきは存在論的に未完成とされた女、子供そして奴隷であると言われた。これに対して、政治は人間(正しくは成人男子)の本質が開花する自由な公的空間であり、そこにおいてこそ人間が完全な人間として形成される(人格陶冶の)場であると考えられた。したがって女は男に、オイコスはポリスに、そして経済は政治に服するべきなのだ。今この図式を<ポリス=オイコス図式>(以下<P=O図式>とする)と呼ぶとすれば、この図式は――その冒頭の性差別的存在論を除いて――現代にいたっても数多の政治哲学者の共通図式になっている(彼らは妙に政治にプライドを持っている)。(p.131-132)

このアリストテレス以来の<P=O図式>を、civic humanism(人間は市民すなわち政治的人格であることに宿る)という形で現代にもっとも強力に復活させたのはハンナ・アーレントであろう。彼女にとって近代とは、本来私的空間であるはずのオイコス(経済)が、人間性の発現の場である公的空間ポリス(政治)を浸食し、それに取って代わる時代であった。オイコスの論理の拡大としての経済主義こそ、近代のリベラリズムを束縛し続け、政治社会のあるべき姿を歪めている元凶である、と彼女は考えたのである。そして、未だに多くの政治哲学者(渡辺氏は彼らを「アリストテレスの末裔」と呼ぶ)がこの図式を共有しており、また彼らにとって、ハイエクこそまさにこの悪しきオイコス主義の旗振り役なのである。

しかしハイエクにオイコス主義の名を着せるのは、単に彼の思想に対する無理解を露呈させるに過ぎない。というのも、ハイエクが一貫して批判し続けたのが、まさにこのオイコス主義だったからだ。ハイエクは「経済」という概念が、その語源に遡ってみればオイコス(家政)であること、もっと形式的に言えば、限られた資源を最大限効率的に活用することについての周到な計画であること――家計、経営、そして財政がみなこれに該当する――を承知している。

しかし、後期スコラ哲学者たちが公正な価格をめぐって逡巡し、ついにそれが市場の決める「自然価格」(natural price)であると悟ったとき、またアダム・スミスが「政治経済学」(political economy)なる(新奇な)ことばを使い始めたとき、経済の概念は歴史的な地殻変動を経験していたのであり、ハイエクもまたそのことに無頓着ではなかった。そこで生じていたのはまさしく経済概念のパラダイム・シフトであり、それはアリストテレス以来のオイコスを離れ、徐々に別の意味と次元に転移しつつあったのである。

そもそも上述の<P=O図式>からすれば、「政治経済学」なるタームは端的にカテゴリー・ミステイクないし定義矛盾である。なぜなら、それはまさに「ポリス的オイコス」と言ってるに等しく、哲学的にまったく不可能な概念だからである。しかしスミスがそこに見ていたのは、経済がもはや従来のアリストテレスの伝統、すなわち<P=O図式>では論じられないという、重大な歴史的転換であった。(p.133)

そしてこの歴史気転換を可能にしたのが、公的空間としての、そしてオイコスとポリスを包摂する「コスモス」としての「市場秩序」(market order)の出現であった。この秩序はいわばオイコスとポリスの母胎であり、その主体(個人、結社、企業、そして政府)の活動の「場」を提供するのである。ハイエクは言う。

市場という自生的秩序の重大な利点は、それが単に手段を介して結び付いている(means-connected)に過ぎないということ、それゆえ、目的についての合意を不必要にし、様々な目的の和解を可能にすることである。広く経済的関係と呼ばれるものは、実は、それら多くの様々な目的を追求する努力が、あらゆる手段の使用に影響を与える、という事実によって決定される関係なのである。<大いなる社会>(Great Society; アダム・スミス)の諸部分の相互依存や調和が純粋に経済的であるのは、まさしくこの「経済的」ということばの広い意味においてなのである。この広い意味で、<大いなる社会>の全体をまとめ上げる唯一の絆は純粋に経済的(もっと正確には「カタラクティック」)である、ということが示されると、大きな情緒的反発が生じた。(『法と立法と自由Ⅱ――社会正義の幻想』、p.112)

エコノミー(=オイコスの経済)と、カタラクシー(=コスモスの経済)を隔てるメルクマールは、「メンバーが目的を共有しているか否か」である。家計や結社や企業や政府などのメンバーはそれぞれ目的を共有しているが、それらが活動する「場」である市場秩序は何ら特定の「目的」を持たない。市場秩序では、行為主体の目的ベクトルは全方向に向いているのである。彼らを辛うじて繋ぎ留めているのは、彼らが「手段」を介して結び付いているという事実に過ぎない。そこにcivic humanism(アーレント)や公共性(ハーバーマス)を持ち込むのは、能天気なお花畑思考と言わざるを得ない。

アーレントをはじめ、ハーバーマスからロールズに至るまで、多くの政治哲学者たちは、市場秩序をオイコスと切り離して考えることが出来ない。彼らは未だに、市場秩序をオイコスの延長として捉えているのである。それはいまや、様々なオイコス(そしてポリス)の主体が活動する基盤であるにも関わらず、である。市場の政治的管理を主張することは、依然それが可能であると考える点で、未だ<P=O図式>の呪縛から抜け出せていないことの証左なのである。後期のスコラ哲学者が市場価格について見たもの、スミスが政治経済学ということばで意味したもの、これらのついての洞察が、ほとんどの政治哲学者には欠落している。また、ハイエクにとって経済という概念は二つの意味を持っており、第一義的にはそれがコスモスとしての市場秩序を意味すると言うことを、彼を「経済主義」「物質主義」の名の下で批判する論者たちは理解していないのである。

しかし、コスモスである市場秩序をオイコスの延長として捉えるこの錯誤の責を、すべて政治哲学に負わせるのは公平ではないだろう。というのも実は、この錯誤を助長していたのが当の経済学自身――より正確に言えば近代経済学の主流となった「一般均衡理論」――であるからだ。そこでは、すべての人が同一の客観的価格体系を目の当たりにし、同じ資源の賦存状態に直面し、さらに一定不変の技術を備え、固定的な趣向を示す。要するに「一般均衡理論」では、社会全体が一つのオイコス(家)になるのである。この理論の応用として、社会全体を「一つの工場」と捉え、それを合理的かつ意識的に設計・管理しようとする「市場社会主義」のような考え方が登場しても何ら不思議ではなかろう。


【不確実性の縮減】

ハイエクの「市場の哲学」を支える支柱は二つある。一つは「秩序論」であり、その大まかな概観は上の節にて描けたと思う。もう一つは「知識論」であり、これを「不確実性の縮減」という観点から読み解いていきたい。

社会は複雑系である。

すなわちそれは、諸要素の部分的・局所的な相互作用――この相互作用は比較的単純な法則に支配されている――によって、予期しえぬ仕方で大域的・大局的に創発(emerge)する秩序や構造のことである。相互作用が局所的であることは、一般均衡理論の場合とは違って、各要素が緩やかに結びついていること、その作用は無媒介的・無時間的に遠方に及ぶのではなく、近傍から徐々に波及していくことを示している。また、予期しえぬのは、ただ相互作用(系の発展)の法則だけを眺めていたのでは、系全体が示す統一的な振る舞いを予測できないことを表す。(p.399)

複雑系のイメージを掴むために、S・ウォルフラムの(一次元)セル・オートマトンをご覧頂きたい。セル・オートマトンは必ずと言っていいほど複雑系の入門書に登場する。

一次元のセル・オートマトンではセルが横一列に並んでいる。セルには「0」と「1」の二つの状態があり、それぞれ「白」と「黒」の色に対応している。任意の初期状態から、各セルは与えられた一定の論理規則に従って、現在の自分の状態(0か1か)と隣接する2つのセルの状態(それぞれ0か1か)の情報だけを頼りに、次世代の自分の状態を決定し、一段下のセルへ移行していく。したがって系の発展は決定論的である。さてウォルフラムは、セル・オートマトンが示す様々な振る舞いを調べていくうちに、論理規則の選び方によってそのパターンが四つのクラスに分類できることを発見した。このうちクラスⅠ~Ⅲは従来の古典力学のアトラクター(ある力学系が時間発展に従って収束していく集合)に対応している。しかし、クラスⅣのパターンは、従来の古典力学のアトラクターでは説明できない。従来の古典力学では、三つのアトラクターが知られている。ボールの落下のように、運動が停止してしまうもの(リミット・ポイント)。これが上の図におけるクラスⅠである。時計の振り子のように一定の周期運動に入るもの(リミット・サイクル)。これが上の図におけるクラスⅡである。そして、ローレンツの気象モデルのようにカオス・アトラクターに吸い込まれるもの。これが上の図におけるクラスⅢである。セル・オートマトンで言えば、ある規則群の下では、過度カオスを経たあと系は死滅してしまう。別の規則群では、過度的なカオスを経験したあと、系は完全な周期パターンを示すようになる。また別の規則群では、広域的なカオスが発生する。ところが上のモデルで興味深いのは、このいずれにも該当しない第四のパターンが出現したことである。それは運動を停止しないし、周期運動を示さないし、またカオスでもない。言ってみれば、そこでは明らかに一定の組織性を伴った過度的な状態が、延々と続いていくのである。このような構造を、我々はイリヤ・プリゴジンとともに、「散逸構造」(dissipative structure)と呼ぶことができる。散逸系は一定の定常性・構造性を維持しつつも、その時間に関して不可逆的な変化は、一刻も平衡・均衡を許さない。このようなメカニズムは雪の結晶から雲の形成、さらには細胞の自己組織化に至るまで、自然界のあらゆるパターン形成に深く関わっており、またプリゴジン自身も示唆しているように、市場秩序も散逸系である可能性が非常に高い。

セル・オートマトンで重要なのは、各セル(固体)は近傍の限られた情報にしか応答していないという事実である。これは複雑系に置かれた我々の境遇を忠実に反映している。つまり、複雑な環境においては、我々が処理できる情報には超え難い限界がある、という当たり前の事実である。言うまでもなくこの人間像は、「完全情報」(=全知全能)を前提とする主流経済学の一般均衡理論とは異なる。一般均衡理論の世界では、各行為主体はあらゆる情報を予め入手しており、その中から毎回最適な行動(利益を最大化し、損失を最小化する)を選択するが、現実の我々にそんなことはできない。

例えばチェス・ゲームを考えてみよう。チェスの勝負で取りうる手は有限であり、明らかに必勝のアルゴリズムが存在する。したがってコンピュータは、このアルゴリズムに則って計算し、毎回最適な戦略を選択する。一方、人間には(名人と言えども)、このような芸当は不可能である。あり得る選択の数はあまりにも膨大過ぎるからである。代わりに、我々人間は「暗黙的統覚」に依存する。チェスでは、我々は「定石」(=代表的なパターン)というものを学習しそれを利用する。

ここで重要なのは、まず第一に、このプロセスは明らかに最適化行為ではないということである。我々は敢えて遠回りをすることによって、処理しなければならない情報量を縮減するのである。そして第二に、いったん定石に落とし込むことで、ほぼ確実に期待したパフォーマンスが得られるという確信が存在するということである。言い換えれば、我々は規則に対して、それに従えば高い蓋然性で目標に到達できるという信頼を寄せているのである。

これはあらゆる法・規則・習慣・伝統に共通する性質である。「殺すなかれ」「盗むなかれ」(我々はバレ得る全てのルートを確実に把握することはできない)、「赤信号を渡るな」(流れていく車の物理的位置を計算しながら最適に道を渡ることはできない)、「自転車のこぎ方」(我々は、出くわす場面に応じて最適にハンドルを切りアクセルを踏むことはできない)、などなど。こうしたルール群は、暗黙知(=知恵)として先人や他人から伝達される。したがって、それは大抵の場合明文化不可能な知であり、学習することによってしか体得できない。またこれらのルールは全て、我々が処理しなければならない情報量を大幅に減殺し、我々の乏しい情報処理能力の作業範囲内に収めてくれるのである。

そして市場秩序における私有財産制も、このような暗黙的ルールの一例である。

この制度ほど毀誉褒貶に晒されてきたものはないが、その趣旨はきわめて明瞭、すなわち、無限大の情報エントロピーを、我々の処理能力の範囲内に縮減することである。すべての財産が共有の場合、その利用をめぐって我々はあらゆる情報を考慮しなければならない。しかるに、一定の財産管理を個人の専権事項とすることによって、我々は情報処理にともなう不確実性を大幅に削ぎ落とし、一定のパフォーマンスを確保することができる。一定範囲外の情報に、我々は目を向ける必要がなくなるのである。複雑で大規模な社会では、我々の処理能力は局所的な情報に限定されざるをえないから、私有財産制は複雑系の必要条件とも言えるであろう。(p.435)

私有財産制に基づく市場秩序では、我々は遠い出来事について知らなくても、ひとえに価格情報にだけ注目していればいい。これが、ハイエクが価格のことを「価格シグナル」(price signals)と呼ぶ所以である。市場秩序が優れているのは、時と場所によって変化する断片的な情報(例えば森林資源が稀少になっている、など)を、価格シグナルを通じて活用できる点にある。森林資源を購入する業者は、森林資源が少なくなった経緯や、その事実すら知らずして、ただ価格シグナルだけを見て、代替的な生産手段の模索や、生産工程の改良を図るようになる。このように市場は、価格シグナルを通じて人々に最適な行為をとるように促す。そして社会全体として、誰も意図しなくても、自生的な秩序が生成するというわけである。

しかし、未だに市場秩序に対して反旗を翻す人は後を絶たない。ハイエクも言うように、この人たちのメンタリティは、小規模の、何もかもが透明だった古きよきコミュニティ(部族社会)を志向しているのである。あらゆる不確実性から解放された古きよきコミュニティ(=低エントロピー社会)にもう一度帰りたい、不確実で理解できない諸力に晒される現代社会(=高エントロピー社会)から逃げ出したい。こうした部族社会への郷愁こそが、社会主義者からハーバーマスまでの人々に共通するメンタリティである。「労働者」であれ「民族」であれ「市民」であれ、透明なコミュニケーションの媒体がどこかに得られれば市場社会は乗り換えられる、と彼らは共通して信じているのである。しかし、それは全く非科学的な空想に過ぎない。


【「創発」の論理について】

本書における渡辺氏の見解にはほとんど賛成で、終始「ふむふむ」と頷きながら読み進めていったけれど、一部不満点もある。その一つが、渡辺氏の、決定論的な世界観に対するルサンチマンの痕が各所に散見される、という事実である。

渡辺氏自身も正しく論じているように、創発はあくまで認識論上・言語論上の現象であって、存在論上の現象ではない。

端的に言って、創発とは我々が対象を捉えるための言語にかかわるものであって、存在論的な実体にかかわるものではない。この点を押さえておかないと、ニューロンの相互作用から心が創発することをもって、脳と心を二つの異なる実体と見なす古典的な二元論が生じる。この誤謬は、リチャード・ローティが「言語の物象化」(reification of language)と呼んだ、哲学者たちの習慣的な性癖を表している。……ときとして、全体は部分と存在論的位相を異にするなどと言われたりもするが、それは結局、複数の異なるミクロな状態が同一のマクロな状態を実現しているとき、我々はもはや、個々の要素の実体的な性質に目を向けても埒があかず、むしろ、要素間の関係性にこそ気を配るべきだ、ということを意味している。……存在論的差異云々は、実は実体と関係性のオーバーな表現にすぎない。そして複雑系科学では、従来の実体中心主義から関係中心主義への重心の移行がポイントなのである。(p.399-402)

また、渡辺氏が、ハイエクとともに「複雑現象と単純現象の間にはなんら存在論的差異はなく、あるのはただ程度問題に過ぎない」と述べる時(p.386)、彼はまったく正しい。

しかし、「人工知能が意識を持ち得るか」という人工知能問題に言及するとき、渡辺氏は、ポランニーの暗黙知の概念に依拠することによって、J・サールらとともに「強い人工知能」論者――彼らは人工知能が「意識」を持ち得ること、そして最終的には人間たり得ることを主張する――を「近代合理主義」「科学主義」の名の下で批判しているが、私はこれには賛同できない。というのも、我々はD・デネットとともに、「人工知能は本当に暗黙的統覚を持ち得ないのだろうか?」という疑問を呈することができるからだ。実際にそこまで人工知能が発達するかどうかはともかく、原理的には、「複雑現象と単純現象の間にはなんら存在論的差異はなく、あるのはただ程度問題に過ぎない」というテーゼを真面目に受け止めるならば、人工知能が暗黙的統覚を持つことは十分可能なはずである。

複雑系の母胎であるカオスが全て決定論的な法則に従っていることが示唆しているように、我々の「心」を創発させるニューロンの相互作用のメカニズムも、同じく決定論的な法則に従っていることが十分考えられる。渡辺氏は各所で決定論的な世界観を「過てる合理主義」「科学主義」の仲間としてまとめて葬っているが、もう少し真面目にデネットの著作を読んでいれば、そういうことにはならなかったと思う。


【「科学者」であって「哲学者」ではない】

最後に、あとがきにおける渡辺氏の印象的な言葉で締めたい。

しみじみ感じたのは、ハイエクは「科学者」なのだなぁ、ということである。「市場の哲学」なる小洒落た言い方はしたものの、ハイエクは本来「哲学者」ではない、そんな印象をもった。私のイメージでは、哲学者たるものは大上段に第一原理(アプリオリな総合命題と思しき)を振りかざし、他の一切を論理的にブルドーズしてゆく人(あとは野となれ山となれ)である。彼らは現象の救済に興味はない。人間性についての、合理性についての、その他諸々についての第一原理は、現象についての説明力、その実行可能性とは無関係に正当性を付与される。その帰結としての哲学政治、哲学経済がいかなる現象的悲劇をもたらそうとも、それは哲学的原理の誤謬を示すどころか、糾弾すべき現象の不合理の証しにすぎない。マルクス主義とポル・ポトの惨劇は、その典型なのだろう。科学者ハイエクにとって、これは忍耐を欠く(そして往々にして自分の知性に酔う)哲学者特有の悪弊にほかならない。複雑な現象を丹念に、たゆまず、一つひとつ分析してゆく地味な作業に堪えられない人々が、おのれの知性を頼みにいわゆる「心的ショートカット」(少数の概念、カテゴリー、原理)に訴えて、現象の背後にある本質を見切ったなどと嘯くのである。現象の分析は少数の原理によって裁断できるほど容易ではない。ハイエクの叙述がしばしばまだるっこしく不明瞭であるのは、むしろ彼が現象に忠実であろうとするためである。この科学者と哲学者の対照は、人間の道徳性に関する哲学的考察をもって始まる初期のロールズと、現象の不可避的多元性から共生の原理を引く後期のロールズとの対照によく現れている。

また、ハイエクは「倫理」の教師でもない。我々の根深いところにある原始的な倫理感は、ときに我々の社会を破滅に導く。資本主義の不道徳さに対する倫理的義憤は、社会主義という名のディストピアをもたらした。それでいてなお、少なからぬ人々が、その動機の純粋さ(良心の声)をもって、その悲劇を免罪しようとしている。保守的なおじさんたちの嘆きとは逆に、人々の倫理感・道徳心はこれほどまでに強いのである。「私悪は公益」、ハイエクのヒーローの一人、バーナード・マンデヴィルの含蓄あるアフォリズムを理解できるほど、多くの人間は現象に忠実になれない。多くの場合、彼らは強すぎる倫理感に訴えて、我々の成し遂げてきたものを破壊してしまうのである。科学者たることは、ある意味、人間の本質に反するのかもしれない。(p.565-566)

2011年3月20日日曜日

トービン税と貨幣発行自由化

以下の文章は『帝国の条件:自由を育む秩序の原理』における橋本努氏の「トービン税と世界通貨の育成」構想をまとめたものである。



市場経済のグローバルに対する批判的言説として、「国際的な投機資金の流れが世界の諸地域を不安定に陥れているのではないか」という声が聞こえ始めて久しい。このような懸念は90年代の諸地域における経済危機――1992~93年の欧州通貨危機、1994~95年のメキシコ債務危機、1997年のアジア通貨危機など――から想起されるだろう。もし市場経済のグローバル化の本質が「投機駆動型の不安定な世界再編」にあるとすれば、我々は如何にしてこの過程を飼いならすことができようか。

このような問題は、経済学の古くて新しい問題である。というのも、「投機による市場の攪乱」という問題は、既にケインズがその主著『一般理論』において取り組んでいる。ケインズによると、市場経済は人々の慣行的(コンヴェンショナル)な行動によって安定性を獲得する一方で、もしその慣行に変化が現れると、それを先読みしようとする群集的な投機行動の結果として、累積的な不均衡化に陥る場合があるという。実際このような投資家集団による市場の攪乱は、90年代の諸々の通貨危機において共通する現象であったと言えるだろう。

そしてケインズ派の経済学者たちはこの問題――「国際金融市場の不安定化を如何に飼いならすか」――に早くから取り組んできた。例えばノーベル経済学者のジェームズ・トービンは、既に1970年代の時点で国際金融市場の不安定性を取り除くための為替取引税案というものを提案している。為替取引に対する課税によって投機資金の移動を抑え、国際金融システムの安定化を図ろうという構想である。「トービン税」と呼ばれるこのアイデアは、発表当初こそほとんど無視されたものの、90年代におけるいくつかの金融危機を契機に、最近注目度が高まっている。とりわけフランスの社会運動組織「アタック(ATTAC)」がトービン税の導入を掲げて国際的な社会運動を展開し、この運動は現在「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンを掲げる「世界社会フォーラム」に発展的に継承されている。

いまや「トービン税」に賛成する人々は市場を民主的に管理することが望ましいとするケインズ=マルクス的な左派イデオロギーの信奉者で、反対する人々は新古典派的な市場至上主義者である、というような思想的図式が一般的であるように思える。しかし、このような理解は単純に誤りである。実際トービン税を提案したトービン自身も、ケインズには共感を寄せるとしても、ケインズとマルクスを結びつける左派のイデオロギーには反対していた。トービン税の構想は今後の世界秩序を展望する上で思想的に開かれた問題を提起しているのである。

さて、 『帝国の条件: 自由を育む秩序の原理』において橋本努氏が提示している「トービン税とハイエクの貨幣発行自由化論を融合させる」というアイデアを、以下に紹介したい。そのためにまず、トービン税の具体的な制度案を説明したい。

トービンがトービン税のアイデアを提出した際の具体案として、スポット取引(現物取引)に対して取引額に応じた一律の課税(1%)を提案している。スポット取引に課税すれば、短期的な資金の移動を減少させるインセンティヴが働くだろう。またトービン税の徴税機関としては様々な案があるが、さしあたって各国の税務局や金融当局が徴収することになるだろう。そして各国政府は徴税したトービン税のいくらかをIMFや国連などの国際機関に配分するよう求められるだろう。どの機関がトービン税を徴収するかという問題は、トービン税の税収をどのような用途に使うかによって決まるだろうが、いずれにせよトービン税の構想は、経済のグローバル化の恩恵を受ける人々から徴税することによって、相対的に恵まれない人々のために使われることになるだろう。

しかし、トービン税には一つ決定的な懸念がある。それは、「トービン税を徴税することによって市場が逆に不安定化するのではないか」という根本的な疑念である。理論的に言えば、為替取引の多くは実物取引に伴う為替リスクをヘッジ(回避)することを目的としているが、トービン税が導入されると取引者たちはよりコストのかかるヘッジを強いられるようになり、その結果として取引が全体的に短期化すると思われる。実際、トービン税を課すと為替レートのボラティリティ(変動率)が上昇するという実証研究も存在する。つまり、トービン税の導入は、ヘッジ技術の制約から、投機による市場の不安定性がかえって増すのではないか、という指摘である。トービン税を導入するにあたっては、このような可能性を仔細に検討する必要があるだろう。

次に、トービン税の導入から、最終的には貨幣発行権の民間譲渡(ハイエクの貨幣発行自由化論)に至るまでのシナリオを描いていきたい。トービン税が導入されると、市場参加者たちはこの課税を避けようとして、通常の為替取引に代わる金融派生商品を開発するだろう。あるいはまた人々は、自国の通貨を用いずに、なるべく為替取引の必要のないように、世界的に流通しているドルやユーロを使うようになるだろう。とりわけ小国にとっては、自国の通貨を用いるよりはドルを用いた方が経済効率に優れていると見なされるだろう。反グローバリズムの立場からすれば、これらの動きは望ましくないだろう。彼らは「市場の安定化と管理」という観点から、「金融派生商品に対してもトービン税を課す必要がある」、あるいはドルやユーロのヘゲモニー化(権力集中)に対しても、これに抗いつつ、「途上国が国民通貨の発行権を主体的に確立するべきだ」と主張するだろう。

しかし、このような対応には限界がある。金融派生商品にもトービン税を課すとしても、それを回避するための新たな金融派生商品が次々と開発され、イタチごっこと化すだろう。また、ドルやユーロの「ヘゲモニー化」に人為的に抗うことは自国の経済を不利に晒すことになるため、あまり現実的な選択肢とは思えない。ハイエク的に発想するならば、我々の「設計主義的理性の限界」を「進化論的理性の成長」によって補っていく必要があるのだ。貨幣システムに即して言えば、我々は複数の世界貨幣が市場の中から自生的に生成するようなシステムを構築する方向に向かうしかない。

そしてその場合、トービン税は、市場の内部から世界貨幣を生成するための第一ステップとなる。もちろんトービン税の直接の目的は金融市場の安定化(と一定の税収の確保)であるが、その意図せざる結果として世界貨幣の創出を期待できるかもしれない。というのも、トービン税を回避するための金融手段が発達して、それが世界貨幣へと進化するかもしれないからである。

例えば各国の企業は、為替取引に課されるトービン税を回避するために多国籍企業化し、仮想の貨幣尺度を用いた企業内決済システムを発展させていくかもしれない。また生産コストの計算や賃金制度も、その新しい貨幣尺度に基づいて行われるかもしれない。世界を飛び回りながら仕事をすすめるコスモポリタン社員には、通貨バスケットにペッグ(固定)した賃金の支払いがなされるかもしれない(これは既に一部の国際機関で導入されている)。また国際金融市場においても、 金融派生商品がいっそう進化していくだろう。例えばピーター・ガーバーによれば、トービン税を回避する手段として、三日後の先渡し取引に代えて、三日後満期のアメリカ国債と日本国債を交換するという取引が生まれるかもしれないという。この場合、国債は決済手段として貨幣性を帯びることになるが、ここでもし国債の売買に対してもトービン税が課されるようにばれば、今度はこの課税を逃れるために、小麦をベースにした代替取引や、S&P500株価指数をベースにした取引が開発されるかもしれない。あるいは金(ゴールド)が再び貨幣として登場するかもしれない。課税回避手段はさらに、通貨と財務省証券とのスワップの組み合わせを生み出すかもしれない。

さて、このような金融派生商品が高度に発達した段階こそが、 ハイエクの貨幣発行自由化を導入するタイミングである。ハイエクの貨幣発行自由化とは、中央銀行による貨幣の独占的な発券を改めて、民間の銀行や企業が、それぞれ独自の流通手段を発行できるように制度を変えるという制度改革案である。フリーバンキング論を支持する人の多くは、「金」を100%準備とした民間銀行による自由な貨幣発行を求めてきたが、これに対してハイエクは、金を100%準備する必要はなく、どんな方法で発券しても構わないとしている。例えば私が貨幣を刷って、それを発券することもできる。もちろん貨幣は信用が無ければ流通しないので、貨幣発行者は貨幣の流通に必要な諸条件(流通範囲、受領可能性、持続可能性に対する信頼など)を自ら整備しなければならない。ハイエク的な自由貨幣制度の下では、貨幣は通常の商品と同様に市場メカニズムを通して受け入れらたり拒否されたりするだろう。ハイエク的な貨幣制度では、ひとえに信用のある貨幣は成長し、信用の無い貨幣は淘汰されていくことになる。

もしこのような貨幣発行自由化政策が実現できれば、例えばVISAやマスター・カードといった信販会社が、世界に流通する独自の貨幣を発行するかもしれない。あるいは米が主食の諸地域では米の価格にペッグされた通貨が信用を得て成長するかもしれないし、あるいは複数の農作物や商品のバスケットにペッグされた通貨の生成も考えられる。またローカルなレベルでは、現段階では「商品券」に過ぎない地域通貨が、法的に通貨の地位を獲得して、地域の活性化を促すことになるかもしれない。

このような段階に来て、仮に国際機関がVISA通貨やマスター・カード通貨にトービン税を課税したとしたら、今度はこれらの貨幣がますます流通圏を拡大させることになるだろう。(なぜなら、人々は課税を回避するためにドルやユーロに代えて専らVISA通貨やマスター・カード通貨を利用するようになるだろうから。なぜ公的通貨より民間通貨の方が好まれる可能性が高いかというと、民間組織によって発行される貨幣を使用する消費者にとってメリットのあるシステムが開発されると思われるため。例えば日本人がアメリカのインターネット本屋でクレジットを用いて本を購入する場合、VISA社やマスター・カード社は自社の通貨で決済した方が為替手数料や為替レートが安くなるように設定して、自社の通貨を使用するよう促すだろう。このようなプロセスを経て、基本的にドルやユーロなどの公的通貨は民間通貨に淘汰されると予測される)。このような、民間通貨の流通圏拡大現象は、トービン税の導入(と課税範囲拡大)によって得られるポジティヴ・フィードバックである。

さて、トービン税構想の最終段階として橋本努氏は「徴税権を持った世界政府の運営」を据えているが、私はそのような展望には多少懐疑的だ。仮に世界政府が実現できたとしても、そのような組織の健全な運営は果たして可能なのだろうか。その統治範囲の圧倒的な規模を考えると、徴税権(及び再分配権)はローカルな統治主体に委ねた方が遥かに効率が良さそうだ。世界政府はむしろ、現在の国連のような、安全保障や環境問題などに積極的に取り組む組織であれば十分のように思われる。

以上に描いたトービン税・貨幣発行自由化構想は、世界通貨を自生的に生成させるという企てである。その潜在的作用として、私たちの視点・関心をよりグローバルな方向へと仕向け、世界規模の開けた市場秩序を導くことに資するであろう。