2012年7月22日日曜日

【メモ】 矢嶋直規、『ヒュームの一般的観点 : 人間に固有の自然と道徳』

【序章 人間に固有の自然と道徳】

ヒュームは、道徳規範は人間が物質的環境において行動様式を内面化するのと同一の仕方で習得されると考える。これは通常「適応」と理解されている状況である。こうした過程を経ることによって、人間は自然を、人間にとって馴染みのあるもの、その意味での自然として捉えかえし、外的な力としての自然に直接支配されることを避けることができる。知覚に基づく認識の対象となる以前の自然は、それ自体では人間にとって横暴な力である。しかし自然は、一般的な知覚の対象とされることによって私たちにとって自然であると感じられ、より容易に対処できる対象となる。それが人間の身体的な自由な活動を可能にする条件となり、そこに道徳的自由の基礎も存する。ヒュームは人間を自然の一部でありながら、自然の認識を人間に固有のものへと転換する存在として論じている。こうした存在の仕方が人間に固有の自然と考えられる。(p.7)

感覚の印象を論じながら、ヒュームは人間が自然の原理に従って物体の信念を持ち、世界を秩序だったものとして認識する過程を解明する。人間の生を構成する物質的環境との相互作用に際し、苦を避け、快を求める過程を経て、人はその最も原初的な意味での快苦の原理という自然の法則に従う行動様式を習得する。このことが、人が他者と交流する社会的環境で、道徳という手段に従って苦を避け、快を求める行動をとる仕方を習得することにつながる。人間による物質的環境の認識は、同時に物質的対象に対する振る舞い方の習得である。こうした根本的な仕方で自然は、私たちの行動の規範を与える。人間に固有の自然は一つであり、人間は物質的環境を認識するときにも、社会的環境を認識するときにも、同じ自然の能力と原理に従うと考えられる。それゆえ道徳とは、私たちが自然的環境とのかかわりから習得する振る舞いの仕方をモデルとして、他者と安定した関係を維持するための規範と理解することができる。この意味で、道徳の規範は理性によって概念的に獲得されるのではなく、自然によって経験的に与えられるものと考えられる。(pp.16-17)

しばしばヒュームの理論は道徳的知覚の生成を描写するが正当化を含まないとされることがある。確かにヒュームの因果論は私たちの因果信念が合理的に正当化できないことを示すものと言える。しかし、合理的正当化が人間の行動に関する唯一の正当化ではないとすれば、そうしたヒューム批判は必ずしも的確ではない。ヒュームの道徳哲学は、適切な道徳のあり方を解明することに向けられている。端的に言うならば、ヒュームが適切と考える道徳の正当性の根拠は、それが習慣の原理として妥当し社会の安定を実現することに求められている。(pp.17-18)

正義を経験的概念とすることによって、ヒュームは正義についての非経験的権威を排除しようとした。正義は人々の一般的行動を規制し、それによって社会に秩序をもたらす因果作用である。因果律としての正義は人間の自然としての慣習に由来するがゆえに、人間に一般的に適用されうる。(pp.20-21)

因果律の信念は、対象の個別的性質を厳密に知覚することなく、対象の一般的性質に基づいて行動するという人間の行動の仕方をもたらすことになる。因果律の本質は必然性の心理的感覚に存するがゆえに、人間はその必然性の感覚に従って行為せざるをえない。こうして人々は外的もしくは物理的な強制力に突き動かされる前に自ら規範的信念に服従するに至る。これが知覚と信念に基づく規範的行動の説明である。状況は常に個別的であるが、私たちはその個別性に一般性を見出すという仕方でしか状況を認識できないし、与えられた状況認識に基づいてしか行動することができない。因果論を、規範的行動に結びつく対象の信念として理解することで初めて、ヒューム哲学における因果論の道徳的意義が正しく理解される。(pp.25-26)

普遍的な道徳規範は存在しない。しかしそれは個人の道徳的決定のための規範が存在しないということではない。現在の秩序を形成している規範が、感覚を通して知られ、直面する事態への反応のあり方を定める。道徳性の本質は、 個人の主体的決断にではなく、また国家、理性、神の指令にでもなく、個人の生存を可能にしている自然的な共同体を成立させる秩序に存する。そしてこの経験的事実が、その規範が引き続いて秩序の形成と維持の基礎として妥当することの根拠となる。 (pp.31-32)

【第二章 空間・時間論の意義】

my intention never was to penetrate into the nature of bodies, or explain the secret causes of their operations. For besides that this belongs not to my present purpose, I am afraid, that such an enterprise is beyond the reach of human understanding, and that we can never pretend to know body otherwise than by those external properties, which discover themselves to the senses. As to those who attempt any thing farther, I cannot approve of their ambition, till I see, in some one instance at least, that they have met with success. But at present I content myself with knowing perfectly the manner in which objects affect my senses, and their connections with each other, as far as experience informs me of them. This suffices for the conduct of life; and this also suffices for my philosophy, which pretends only to explain the nature and causes of our perceptions, or impressions and ideas. (A Treatise of Human Nature 1.2.5.26)

The idea of existence, then, is the very same with the idea of what we conceive to be existent. To reflect on any thing simply, and to reflect on it as existent, are nothing different from each other. That idea, when conjoined with the idea of any object, makes no addition to it. Whatever we conceive, we conceive to be existent. Any idea we please to form is the idea of a being; and the idea of a being is any idea we please to form. (ibid. 1.2.6.4)

デカルトが物質と精神が別の原理に基づくとしたことは、物質的世界の認識と道徳的世界の認識が分断されることを意味した。ヒュームはこの事態を克服すべく、人間に固有の自然をデカルトによって分断された物質と精神を繋ぐ共通媒体と位置づけたのだと考えられる。空間・時間によって成立する世界が実は私たちの知覚の秩序に他ならないならば、その領域で展開する物体の運動もまた、知覚の秩序を根拠にすることが帰結するであろう。こうして、空間・時間論に基づいて因果関係を、さらにその因果関係を安定させる外的物体を、人間にとっての自然の現象として論じることが可能になる。……こうしてヒュームはデカルトにおいて実体とされる物体の延長を、知覚の秩序へと転換し、デカルトの二元論を経験論の立場から再統合した。(p.100)

 【第三章 因果論と規範の生成】

信念と単なる虚構との根本的な違いは、信念が一般性のある行動のよりどころとなる点にある。……虚構と信念とは意味論的には区別されないが、信念は虚構とは異なり、単なる意味論的な了解を超えた一般化可能な実践的関与を可能にする。この点にヒュームの因果論と信念論との本質的なつながりがある。(pp.115-116)

信念は印象と観念の中間に位置し両者の長所を兼ね備えている。信念は感覚の直接性と観念の非現実性のバランスを取る働きとして理解されている。ヒュームによれば、私たちが現実につながりながら、しかし現実に逐一振り回されることなく「平安と平静」を保つことができるのは、信念の働きのためなのである。こうした信念の説明が、第一章で論じた個別性と一般性の結合としての「一般観念」の説明に対応することは注目に値する。このことは、信念が一般的観点から見られた個別的観念であることを意味している。(p.118)

理性と感性の関係について、 理性による判断はその主体に固有のものであるが、しかし「感じ」は個人に固有のものではなく、人間に固有の自然、言い換えれば公共的な知覚に基づくとヒュームは考える。(p.132)

As to those impressions, which arise from the senses, their ultimate cause is, in my opinion, perfectly inexplicable by human reason, and it will always be impossible to decide with certainty, whether they arise immediately from the object, or are produced by the creative power of the mind, or are derived from the author of our being. Nor is such a question any way material to our present purpose. We may draw inferences from the coherence of our perceptions, whether they be true or false; whether they represent nature justly, or be mere illusions of the senses. (Treatise 1.3.5.2)

ロックと異なり、ヒュームはそうした概念[物自体という真の原因の概念]を道徳の領域の説明に持ち込むことも拒んでいる。原因結果という現象の理解の仕方そのものが私たちの経験の産物であり、それを私たちにとっての現象と、そうした現象を可能にする現象以外のものとの関係の理解のために用いるのは不適当と見なされるからである。したがって、ヒュームにおいて「知ることができない原因としての力能」を想定するニュー・ヒューミアンは、ヒュームの知識論の基本的な枠組みを壊して、ヒュームの人間の科学に別の要素を持ち込むことになる。知ることのできない原因の想定はヒュームを疑似二元論者とするであろう。(p.141)

しかし、因果的実在論の傾聴すべき主張を、ヒュームの因果論についての端的な懐疑主義的解釈の不十分さを指摘している点に認めることができる。(p.142)

[エドワード]クレイグやニュー・ヒューミアンたちが指摘しているように、確かにヒュームはしばしば因果律の実在を想定しているかのように論じることがある。この傾向は『論攷』よりも『人間知性探究』で一層顕著である。ではなぜヒュームは、彼の懐疑主義的立場にもかかわらず、因果的力能が対象に存在するかのように述べるのだろうか。その理由は、彼の理論が因果的信念の人間的な意義の解明を目指したものだからであると考えられる。因果律はそれが実在であるから妥当するのではなく、私たちがその実在性を信じるがゆえに有効なものとなるのである。……因果信念が哲学的観点からは虚構であるにもかかわらず、私たちがそれらを実在と信じるがゆえに、私たちはそれに依拠して行動し、それによって因果は真実として機能する。(pp.142-143)

【第四章 「外的物体論」の道徳哲学的意義】

Let us chase our imagination to the heavens, or to the utmost limits of the universe; we never really advance a step beyond ourselves, nor can conceive any kind of existence, but those perceptions, which have appeared in that narrow compass. This is the universe of the imagination, nor have we any idea but what is there produced. (Treatise 1.2.6.8)

We may well ask, What causes induce us to believe in the existence of body? but it is in vain to ask, Whether there be body or not? That is a point, which we must take for granted in all our reasonings. (ibid. 1.4.2.1)

私一人にだけ現れる外的物体は存在しない。外的対象を認識するとは、個人が他者と共有可能な視点を持つことに他ならないのである。外的物体の認識は本質的に共同体的行為であり、それによってこそ一般的観点によって表されるのである。ヒュームは道徳的認識の本質をこの公共的妥当性もしくは相互の意思疎通の可能性に帰している。ここに、ヒュームの認識論と道徳論の関連があり、外的物体論にはその関連が示されていると言える。(p.180)

【第六章 一般的観点とスミスの公平な観察者】

ヒュームのシンパシーは正義の成立以前の自然の働きであるが、スミスではその正義の判定手段である。もしもシンパシーが、スミスが主張するように感情の適正性の判定手段であるならば、シンパシーの役割はあるものが正であるか不正であるかを決める理性に近いものになる。(p.228)

【第八章 正義と一般的観点】

ヒュームは、ホッブズが論じたように共同体の秩序を離れた自然状態には正義は存在しないと考える。明らかに政治社会は自然状態ではない。それゆえ、政治社会を自然状態から区別するのは人為的なものでなければならない。こうして正義は、自然な人間関係を超える人間関係の拡張としてとしての社会形成を説明する中心的概念と位置づけられる。社会形成のためには、自然な人間関係とは異なる、新しい原理が必要とされる。しかしそれは、正義が自然的原理と無関係に存在することを意味するものではない。ヒュームは人為的徳である正義を自然的原理である情念の理論に接続するものとして構想している。ホッブズの自然と社会との断絶の理論とは異なり、ヒュームの正義論はむしろその連続性を示そうとする試みである。(p.265)

ヒュームは家族集団が社会に発展することを妨げる障害が存在すると指摘する。その障害とは、自分自身や自分の家族の利益を優先しようとする利己心である。それゆえ正義はこの自然的利害に対抗する力として因果的に作用するものでなければならない。(pp.265-266)

it is only from the selfishness and confined generosity of men, along with the scanty provision nature has made for his wants, that justice derives its origin. (Treatise 3.2.2.18)

自然の資源が限りなく存在するか、あるいは人々が他者に対して神的な仁愛を向ける本性を持っていたならば正義の必要はなかったとヒュームは指摘する。(p.268)

社会の最も原初的な単位としての家族は、人々の協力の利点を増大させるためにより大きな集団へと発展することを阻むものである。社会を形成するためには、家族の形成に働く自然的な原理とは異なった原理に従わなければならない。そのため正義は、身近な存在に関心を寄せる人間の心理的な傾向に反する効果を持つものでなければならない。(p.270)

慣習の確立は合意の上で決定された規則ではないから、しばしば主張されるようにヒュームの正義が規則に従う慣習から生じると考えることは誤りである。規則に従おうとする動機は抽象的であり、自然に成立する動機とは見なされない。人間は規則に従うのではなく、自然に従うというのがヒュームの原則である。(p.271)

ヒュームの根本的な洞察は、身体的危害などの犯罪のより根源的な原因は、所有をめぐる社会秩序の不安定にあり、所有の正義の確立が自然的徳を最も効果的に機能させることにつながるという点にある。(p.291 note 11)

ヒュームは、社会の安定の最大の脅威は、ある特定の人々の特定の行動というよりも、むしろ他者の所有を侵害しようとする人々の一般的傾向であることを明確に意識している。というのも、社会の本質はその一般性にあり、人々の一般的傾向が無秩序に向かうならば社会の崩壊は不可避だからである。ヒュームは社会の存続を危うくするのは、支配者の直接の横暴ではなく、人々一般の規範の崩壊であると考えている。逆に言うならば、圧政は人々の規範を維持できなくさせることによって社会を崩壊させるのである。(p.273)

ホッブズとヒュームの違いは所有の安定を達成する仕方にある。ホッブズでは、合理的観点から人々は相互の信約により突然に自然権を放棄し、主権者への絶対的服従を選択するとされるが、ヒュームでは、歴史的過程において人々は社会に先立って放棄すべき「権利」を所有せず、知覚と情念の自然な進行が生み出した秩序を自覚的な仕方でより確実に確保することから権利が生じるとされている。(pp.274-275)

ヒュームはしばしば保守主義者として批判されるが、彼は同時代の因習の最も過激な批判者であった。ヒュームが同時代の所有体系を固定させることを主張したと理解することは誤りである。ヒュームの所有論はあくまでも、正義と社会の観念がいかにして所有に基づいて形成されるかを説明することであった。社会秩序が慣習に基づくという主張と、どのような慣習でも絶対的に固定すべきであるという主張とは、まったく内容の異なる主張である。(p.292 note 20)

I observe, that it will be for my interest to leave another in the possession of his goods, provided he will act in the same manner with regard to me. He is sensible of a like interest in the regulation of his conduct. When this common sense of interest is mutually expressed, and is known to both, it produces a suitable resolution and behaviour. And this may properly enough be called a convention or agreement betwixt us, though without the interposition of a promise; since the actions of each of us have a reference to those of the other, and are performed upon the supposition, that something is to be performed on the other part. Two men, who pull the oars of a boat, do it by an agreement or convention, though they have never given promises to each other. (Treatise 3.2.2.10)

権利は一般の人々がある事物やその人の行為を含む事柄を、ある人に占有させることの一般的承認として成立する。……権利と義務は一つの事態をめぐる二つの視点を代表する。ある個人の権利とは、それ以外のすべての他者にとっての何らかの義務を意味する。多くの見知らぬ人々が相互に道徳的関係を取り結ぶ仕方は、他者の所有を侵害しないという消極的関与のみである。(p.284)

デーヴィッド・ミラーは「ヒュームは獲得や移転のいかなる原理が採用されるかは、それらの原理が一般に承認される限りどちらかといえば重要な事柄ではないと論じてもよかった。別の言い方をすれば、所有理論を論じつくす原理の正当性を探すのは間違いである。正当化されるのは所有の体系全体であり、その細部の規則ではない。……これらの規則(五つの獲得の規則と移転の規則)は自然に所有権の割り当てを決定しなければならない誰に対しても思い浮かぶが、それらを厳密な意味で正当化することは可能でもないし、またその必要もない」と述べている。正当化とは何かという問題は、ヒュームが論じるすべての問題に共通の課題であるが、ヒュームはそれを人間の自然の事実として提示し、規範と事実を自然において統合しているというのが本書の立場である。(p.294 note 30)

【第九章 「道徳の理由」――「狡猾な悪人」をめぐって】

「狡猾な悪人」が目論む不正な自己利益の獲得と、発覚を免れた不正行為の心理的正当化の主張とは、習慣によって形成されるそうした一般的観点を恣意的に操作することが可能であるという主張に他ならない。しかし、私たちが通常の自然的資質を有し、社会的承認を獲得しようとして振る舞う者である限り、自然的事象と道徳的事象の一般的な認識を拒むことは事実として不可能である。そのことは、道徳感覚の知覚を否定することの不可能性、つまり一般的観点を取らないことの不可能性を意味する。たとえ意識的な操作によって一時的にそれを否定しようと試みても、その操作を自己の持つ世界像の隅々にまで浸透している自然な感覚と調和させることが断じてできない。実はこれが、ヒュームによる迷信や熱狂に対する哲学的批判であり、彼ら迷信者、熱狂者たちは自分が主張していることを自分でも信じることができないのである。習慣という試金石に耐えない主張は、混乱と悲惨、もしくは滑稽を引き起こすことはあっても、秩序形成の原理となることはありえない。(pp.304-305)

ヒュームはその[事実と当為の関係について述べている]個所で事実認識と道徳認識が別々のものであると主張しているのではなく、道徳の当為と、因果論に示される自然認識の必然性の感覚が同じ人間の自然に属することに、合理主義道徳論者が気づいていないことを指摘しているのである。(p.306)

【第十章 契約と政府への忠誠】 

Can we seriously say, that a poor peasant or artizan has a free choice to leave his country, when he knows no foreign language or manners, and lives from day to day, by the small wages which he acquires? We may as well assert, that a man, by remaining in a vessel, freely consents to the dominion of the master; though he was carried on board while asleep, and must leap into the ocean, and perish, the moment he leaves her. (Essays: Moral, Political, and Literary 2.12.24)

If the reason be asked of that obedience, which we are bound to pay to government, I readily answer, because society could not otherwise subsist: And this answer is clear and intelligible to all mankind. Your [the social contractian's] answer is, because we should keep our word. But besides, that no body, till trained in a philosophical system, can either comprehend or relish this answer: Besides this, I say, you find yourself embarrassed, when it is asked, why we are bound to keep our word? Nor can you give any answer, but what would, immediately, without any circuit, have accounted for our obligation to allegiance (ibid. 2.12.37)

所有の安定は社会をさらに発展させる原理としてはおろか、諸個人の生存を確保するための規則としても決して十分なものではない。誰も自分の生活を維持するのに必要な物資を完全に独力で確保することはできないから、人間にはその生存を維持するために社会を構成する他者との互恵的関係が必要である。社会は個体の持つ自然的弱点を克服する手段であり、正義の規則を遵守する必然性は、自ずと人間にとっての社会の必要性に伴って強くなる。また、諸個人の生活の多様な側面を安定して維持するためには、社会内部での互恵的関係あ特定の少数の人間に限定されることは不都合である。そのため社会の構成員は、その個別的特徴にかかわらず、できる限り多くの構成員と互恵的な関係を結ぶことが必要となり、そのためには各個人は同じ法によって秩序づけられた社会を構成する一般者として見なされ、また一般者として振る舞わなければならない。(p.321)

possession and property should always be stable, except when the proprietor consents to bestow them on some other person. This rule can have no ill consequence, in occasioning wars and dissentions; since the proprietor’s consent, who alone is concerned, is taken along in the alienation: And it may serve to many good purposes in adjusting property to persons. Different parts of the earth produce different commodities; and not only so, but different men both are by nature fitted for different employments, and attain to greater perfection in any one, when they confine themselves to it alone. All this requires a mutual exchange and commerce; for which reason the translation of property by consent is founded on a law of nature, as well as its stability without such a consent. (Treatise 3.2.4.1)

ヒュームが社会契約説を受け入れることができないのは、歴史的事実に反するからという以上に、社会契約論が約束についての哲学的解明に基づく理論ではないからである。(p.325)

When we consider any objects at a distance, all their minute distinctions vanish, and we always give the preference to whatever is in itself preferable, without considering its situation and circumstances. This gives rise to what in an improper sense we call reason, which is a principle, that is often contradictory to those propensities that display themselves upon the approach of the object. (...) My distance from the final determination makes all those minute differences vanish, nor am I affected by any thing, but the general and more discernible qualities of good and evil. (Treatise 3.2.7.5)

ここ[上記引用]にヒュームの「一般的観点」が示されている。(p.332)

【結語】

ヒュームが「一般的観点」を用いたとき、マルブランシュの「神において見る」や、デカルトの「精神の眼」、スピノザの「永遠の観点」などをまったく念頭に置いていなかったとは考えられない。デカルトが近代哲学を根本的に観念の理論として提唱して以来、「観点」は近代哲学の諸理論を特徴づける中心的な概念となった。デカルト、マルブランシュ、バークリ、スピノザ以外にも、ホッブズの「神の視界」、ライプニッツのモナドの「固有の視点」など、ヒュームと深いかかわりのある哲学体系も、観点の位置づけによってそれぞれの理論が根本的に特徴づけられると言っても過言ではない。このことは、「一般的観点」がヒュームの理論で実質的な意義を持つことのさらなる論拠なる。(p.350)