2012年2月12日日曜日

脳の研究における解釈学について

『ダイナミックな脳』での津田一郎氏の解釈学的行為の考え方について、ツイッターで、「相手が自分と類似した生命である場合とそうでない場合の違い(程度の差なのか、本質的な差なのか)についってもっと敷衍して欲しかった」と述べたが、再度読み込んでみて、彼が言わんとしていることをある程度汲み取れた気がするので、ここにまとめておきたい。

まず、「動物の知覚は解釈過程であらざるを得ない」ということについて。新しい感覚情報の知覚は必然的に何らかの先行的理解を要請する。これはハイエクが『感覚秩序』において展開している知覚論とそっくり重なる。すなわち、我々が何らかの対象を知覚するとき、我々が知覚しているのは自己同一的な実体としての対象そのものではなく、常にその対象が位置づけられる関係の構造(類似性、差異性)である。そして、こうした新しい情報を位置づけるための既存の文脈として先行的理解が要請される。そういう意味で、知覚とは常に解釈過程である。津田氏はハイデガーを引いて、次のように言う。すなわち、「何かを理解するために解釈が必要なのではなく、逆説的だが、解釈を行うために理解が必要なのである。」(p.20) ある神経細胞あるいは神経細胞集成体の果たす機能はシステム全体の文脈に依存してしか決定されないという津田氏の指摘は、この事態の生理学的レベルでの表現であろう。

ただ、津田氏の言う解釈学的行為はディルタイが定義したような解釈学とは異なる。ディルタイは自然科学的な方法に対抗して、生きていくものが従わなければならない歴史性を扱う人文社会科学の規範を与えようしたが、津田氏の言う解釈は、意味の共有といった次元の話ではなく、単にある状況へのコミットメントである。「解釈とは、コミットメントのことだ。なにかの状況にコミットする(参画する)ことそのものだといってよい。」(p.26) それは認知主体が環境に勝手に付与してかまわないし、またコミットメントの過程でそれが別段収束しなくてもいい。このコミットメントのためにこそ先行的理解が必要なのである。

さらに、この状況へのコミットメントの中にこそ、我々は何らかの意志、つまり生命の存在を見出すのではなかろうか。「意味の共有に向かって努力することが解釈学的行為ではない。むしろ、意志の存在の確認作業が解釈学的行為なのだ。」(p.29) しかしここに一つ問題が現れる。すなわち、知覚が物としての世界を扱う場合と、認知主体と類似した生命を扱う場合との間に、何らかの本質的な違いはあるのかという問題である。これが冒頭に掲げた問題である。この問題に関して津田氏は「不完全な情報」と「不定な情報」を区別している。不完全な情報は、解釈学的行為による補完によって完全な情報になり得る。つまりこの場合、知覚世界を客観的実在の世界と見なすことによって、解釈者の外に置かれている。静的な世界像を扱う限りこれで問題にならない。他方の不定な情報は、相手が生命であって、その行為を解釈しなければならないときに問題になる。つまり、この場合相手の行為に対する解釈に一意的な解は実在の側にそもそも存在しない(このような解釈はおそらくハイエクの言うような心的構造の類似性に基づいていて、したがって一人称的な内観を不可避にする。その意味で、解釈対象が生命である場合とそうでない場合の差は本質的であると言える。ただこれは明確な境界が存在するという意味ではない)。この事実を以て、郡司ペギオ幸夫氏らはあらゆる観測行為を「暗闇の中の跳躍」として徹底的な懐疑に付す。かくしてウィトゲンシュタインやクリプキの言う言語ゲームにすべての解釈が回収されてしまう。それに対して津田氏は、認知主体の外に客観的な世界が存在するという「先行的理解の第一原理」を、認知のための一種のア・プリオリな形式として設定する。「この第一原理に行為論のある種の本質を押し込めたつもりでいる」(p.22) 津田氏のこの態度は、世界の実在を内側からプラグマティックに肯定する私のプラグマティック実在論の態度に似ている。

蛇足になるが、物体の空間移動に対する連続性の概念およびその普遍性が、「先行的理解の第二原理」として保障される。「空間における物体の身体を使った変換に対して、視覚情報の中から不変な構造を抜き出す能力を脳は備えている。……この先行的理解が物理学の基礎になっているのかもしれないというポアンカレ氏の意見に賛同する。」(p.17) それ以外にも「自己中心座標と物体中心座標の間に変換が存在する」や「世界の境界は内部から見れば正曲率を持つ」といった、いくつかの基本先行的理解が要請される。これらの先行的理解は認知のための一種のア・プリオリな形式であるが、絶対的なものでは決してなく、あくまで幼児期の体験によって形成されるものと考えられる(それを引き起こすコードが遺伝子に組み込まれているということはあるだろうが)。

最後に、解釈の二重性について。これまで、「知覚は常に解釈過程であらざるを得ない」という事態を見てきた。これに加えて、脳研究の方法自体も解釈学を援用しなければらないと津田氏は主張する。つまり、研究対象に内在する解釈学的行為と、研究自体の方法としての解釈学的アプローチという二重性が主張される。しかし津田氏の著作を読む限り、この両者の関係(両者は独立なのか繋がっているのか)はあまり明らかではない。ただ、「全体、システムとして働くものものの機構を理解していく方法は解釈学的にならざるをえない」(p.54)、「相互作用する相手との関係の中でなければそのものの性質、表現、行為は決まらない……その関係の構築の裏打ちをしていると思われるのがカオスなのだ。関係的にダイナミックということだ。その関係性の境界は決定不能だという意味でもある。しかも、オットー・レスラー氏、松野孝一郎氏、郡司幸夫氏や池上高志氏に従えば、われわれはインターフェイスにおいてのみリアリティー、いや木村敏氏の言葉を使って、アクチュアリティーを感じることができる。これは、複雑なシステムの中でなにかをしなければならないもの全てが出会う必然だ。[原文改行]脳という複雑システムを研究する脳科学者は、こういう意味でまさに内在的な立場でしか研究を進めることができない。だから、脳研究は解釈学的にならざるをえないのだよ。」(p.54-55)という記述を見れば、解釈の二重性における両者は結びついているように見える。

2011年12月18日日曜日

ハイエクの自生的秩序概念と目的独立性について

ハイエクの自生的秩序概念に関して、読書会で「設計主義的な伝統が自生的に生じることはありえないのか」という質問があった。これは私自身もハイエクに初めて触れたときに抱いた疑問で、彼の自生的秩序概念を理解する上で非常に重要な疑問だと思うので、本稿を機会に詳しく説明してみたい。結論から言うと、ハイエクは秩序の起源としての自生性をやみくもに絶対視するのではなく、むしろ自生的起源に伴うことが期待される「目的独立性」(purpose-independency)を重視するのである。自生的に進化してきた暗黙的なルールであろうと、明文化され権力によって担保されたルールであろうと、ハイエクにとって重要なのは、そのルールが目的独立的な秩序を生み出すものであるかどうか、である。では、目的独立的な秩序を生み出すルールとは、具体的にどのようなルールであろうか。
ハイエクによれば、あるルールが目的独立的な秩序を生み出すルールであるためには以下の性格を備えていなければならない。すなわち、(1) 特定の集団を優遇しないという意味で「一般的」(general)であること、(2) 目に見える具体的な帰結を追求しないという意味で「抽象的」(abstract)であること、(3)「~せよ」と積極的なオブリゲーションを課すのではなく「~するなかれ」と特定の行為を禁止する形態をとるという意味で「消極的・否定的」(negative)であること。これらは相互に含意し合うので、一つの条件を満たしていながら他の条件を満たしていないルールを想定することはおそらくできない。むしろ、これらは目的独立的な秩序を生み出す諸ルールが共通して備えているべき異なる側面を描いたものと見なすのがいいだろう。他方の「目的依存的」(purpose-dependent)な秩序(コスモスと対比された意味でのオイコス)の諸ルールは特殊的・具体的・積極的なのであるが、この「オイコス図式」を、特定の目的を持たない単なる「場」であるはずの市場秩序=カタラクシーに適用し、これをある統一的なコード(これは同時に主観的なコードでしかありえない)の元に解釈しようとするのが、設計主義の錯誤に他ならない。
さて、ここで冒頭の質問に戻ろう。ハイエクにとって重要なのは起源としての自生的性格そのものよりはむしろ秩序の目的独立性であることが分かった今、我々は「自生的に生じた設計主義的な伝統」を忌憚なく「設計主義」の陣営の方に括ることができよう。というのも、(起源としての自生性ではなく)目的独立性こそがハイエクにとって設計主義/非設計主義を区別するメルクマールに他ならないからだ。しかし、ここでもう一つ別の疑問が提起されるかもしれない。つまり、「目的独立的なルールが、純粋な熟慮に基づいて設計されることは可能かどうか」という疑問である(土井 2010)。ハイエクが重視するのが専らルールの目的独立性であるならば――つまりルールの起源としての自生性が重要でないならば――そこから導かれる秩序はもはや「自生的秩序」である必要すらないのではないか、ということである。
この疑問に対してハイエクは「庭師」の比喩で答えるであろう。
農夫や庭師が植物を栽培する(cultivate)場合、彼は決定環境の一部しか知らずそれを管理(control)できない。そしておそらく、賢明な立法者や政治家も、社会的過程の力を管理するのではなく、むしろ養成する(cultivate)ことを試みるであろう。(Hayek 1967)
人間が植物の成長を促すためにできることと言えば、水を与えたり、日光を確保するなどの「適切な条件整備」しかない。この「適切な条件整備」は、過去の庭師たちの試行錯誤の末に編み出された経験的な知識によるものである。ハイエクが否定するのは設計主義的発想に基づく「ゼロからのルールの制定」であって、ルールの整備に人為的な要素が加わること自体を否定しているわけでは決してない。この点に関して、複雑系研究者スチュアート・カウフマンの記述が示唆的である。
もし凍結した秩序状態に系が深くはまりすぎてしまうと、柔軟性が足りなくなって、成長に必要な遺伝的活動の複雑な連鎖が調和的には働かなくなる。逆に、もし気体的なカオス状態に系が深くはまりすぎてしまうと、十分に秩序化することができないであろう。カオスの縁――秩序と意外性の妥協点――の近辺にあるネットワークが、複雑な諸活動を最も調和的に働かせることができるし、また進化する能力を最も兼ね備えているのである。(Kauffman 1995)
カウフマンの言うように進化の源泉がカオスの縁にあるのだとすると、我々はそのようなカオスの縁を社会の中に作為的に作り出すことによって進化を促すことさえできるかもしれない。最後に、橋本努の言葉で締めたい。
「庭師」の理性は、庭の手入れによって、そこから生じる未来の秩序を、後見的なものとして発見するのである。自生化主義の庭師は、庭の帰結をデザインするのではなく、予期しえない進化を含めて、植生の生成過程が自生的であることに喜びを見出している。彼は、「よりよい庭」を目指して介入するが、しかし何がよりよい庭であるのかについては、つねに問題化しながら、生成の過程に関わりつづける。(橋本 2005)
【参考文献】
  • 土井崇弘 (2010) 「ハイエクの自生的秩序論と進化論に関する予備的考察」『中京法学』44(3・4), pp.291-321.
  • 橋本努 (2005) 「ポスト近代社会の進化論:社会の発展は自生化主義で見よ」『理論戦線』no.80, 2005 Summer, pp.124-145.
  • Hayek, F.A. (1967) Studies in Philosophy, Politics and Economics, Chicago: University of Chicago Press.
  • Kauffman, Stuart (1995) At Home in the Universe: The Search for Laws of Self-Organization and Complexity, New York: Oxford University Press 〔米沢富美子監訳『自己組織化と進化の論理―宇宙を貫く複雑系の法則』日本経済新聞社,1999年〕.

2011年12月5日月曜日

【書評】 ハイエクのポリティカル・エコノミー : 秩序の社会経済学 (スティーヴ・フリートウッド)

原著:Steve Fleetwood, Hayek's Poltical Economy: The Socio-economics of Order

本書は「批判的実在論」(critical realism)という新しい見地からハイエク哲学の変遷を描くという、一風変わった研究書。経済学の領域に批判的実在論を適用した研究ではトニー・ローソンの『経済学と実在』(Economics and Reality)が有名だが、試みとしては本書の方が初めてらしい(邦訳はローソン本の方が先)。

フリートウッド氏は、ハイエクの著作を三つの時期に区分し、経済学、法学、政治学、心理学など社会・人文科学の諸分野にまたがる彼の社会経済学の発展を、それを根底で支える哲学の変遷から説明する。1936年までのハイエクをハイエクⅠ(本書ではほとんど論じられない)、1936年から1960年までのハイエクをハイエクⅡ、1960年以降のハイエクをハイエクⅢと呼ぶ。ハイエクⅠは「狭い技術的な経済学」に固執する、主流派と同じ実証主義者であった。しかし、すでに1936年の時点で、ハイエクは実証主義と決裂し、主流経済理論を放棄し始める。1936年に書かれた論文「経済学と知識」("Economics and Knowledge")が、ハイエクⅡの出発点である。1936年以降のこの時期、ハイエクは知識、均衡、人間主体についての思索を深めてゆくのであるが、フリーウッド氏によると、この時点でのハイエクには、社会構造、とりわけ振るまいのルール(rules of action)に関するなんらかの適切な把握が欠けていたために、知識の発見・伝達・貯蔵を促進する上での情報伝達システムの役割と効力とを、誇張せざるをえなかった。フリートウッド氏は、ハイエクⅡの社会構造についての認識の欠落を、この時期の彼の哲学的立場の帰結と見なす。すなわち、認識論としての主観的観念論(subjective idealism)と、存在論としての(拡張された)経験的実在論(empirical realism)を総合する立場である。フリートウッド氏はこの総合された立場を「超越論的観念論」(transcendental idealism)と呼び、科学的探究におけるその現れが実証主義であるとする。拡張された存在論というのは、通常の超越論的観念論者が感覚与件に与えられる事象にのみ存在論的ステータスを付与するのに加えて、ハイエクⅡは絶え間なく変化する事象よりも深層にある領域、つまり主体による想念(conception)の領域の実在性をも認める、ということである。彼はもはや「与件」を人間による同定から独立したものとみなすことができず、主体の主観的な想念と密接に結びついているものとして取り扱う。これがハイエクⅡと実証主義とを隔てる分断点である。

しかし、ハイエクⅡの認識論としての主観的観念論が、社会科学においては解釈学的基礎づけ主義(hermeneutic-foundationalism)として姿を現すが、この立場が、社会構造を含む適切な存在論を発展させるのを妨げた、とフリートウッド氏は診断する。その結果ハイエクⅡは、均衡は秩序についての妥当な考えではないと主張しておきながら、それに代わるものを提示することができなかったのである。

フリートウッド氏は言う(ここで言われているハイエクはハイエクⅡである):
Hayek's position in social science might usefully be interpreted as an overreaction to positivism, or more accurately, to scientism. Once Hayek recognises that for social scientists, the external world is not objectively given (pace classical empiricism and positivism), he does not stop at the correct view that it is mediated by, or dependent upon, agents' subjectively formed conceptions. He overreacts, making the hermeneutic-foundationalist, and as I shall show, subjective-idealist, presumption that the social world is determined by, or exhausted by, agents' conceptions. [原文改行] Hayek, in effect, empties his social ontology of real social material, leaving a residue of nothing more than conceptions, ideas, beliefs, attitudes, and so on, that is, ideal social material. (pp.28-29)
しかし1960年頃の(第二の)哲学的転換が、この状況を打開することを可能にした。ハイエクⅢは認識論としての主観的観念論と解釈学的基礎づけ主義を捨て去り、準超越論的実在論(quasi-transcendental realism)の哲学を採用する。彼は事象と想念とを実在と認める存在論をさらに拡張し、振るまいの社会的ルールという形態の深層構造を含めるようになる。経験的事象を生じさせる基底構造に迫ることによって、ハイエクⅢは「社会活動の変換モデル」(Transformational Model of Social Activity, TMSA)とフリートウッド氏が呼ぶものに近いものを展開し、市場過程あるいはカタラクシーについて彫琢を加え、最終的には、知識、無知、ルール、情報伝達システムという諸テーマの結合を可能にする洗練された社会理論を作り上げることができた。以上が、フリートウッド氏の大まかな筋書きである。

【感想、批評】

本書は非常に示唆に富んだ、面白い研究だった。1936年頃のハイエクの転換を実証主義からの離反と捉えるのはハイエク研究においてはありふれた見解だが、1960年前後の転換をどう考えるかについてはかなり論争があるし(時期区分の成否如何はここではあまり深く考えないことにする。1940年代の科学主義論文――"Scientism and the Study of Society"全三部構成、The Counter-Revolution of Science: Studies on the Abuse of Reason 所収――における個人主義的・解釈学的アプローチと、晩年の進化論的アプローチとの間にはあまりにも差があるので、この期間に何らかの転換があったのは間違いないだろう)、方法論的個人主義と文化的進化論の整合性の問題とも密接に繋がっているので、私も非常に興味がある。

しかし、残念ながら私は、(1960年頃の)この転換をハイエクの哲学的立場の変遷の帰結と見なすフリートウッド氏のテーゼには賛同できない。むしろ、ハイエクの哲学的立場は1936年頃以降一貫していて、転換したのは方法論だけなのではないか、というのが私の解釈である。というのも、科学主義論文で展開されている主観的観念論と解釈学的アプローチ(私はあえて「基礎づけ主義」という用語は使わない)は、ハイエクⅢの準超越論的実在論と整合的なのではないか、と思われるからである。私の見るところ、フリートウッド氏の科学主義論文の読みは(誤読とまでは言わないまでも)かなり偏っている。また、社会的質料(social material)の「実在性」をめぐるフリートウッド氏の言葉の使い方および議論の仕方に、非常に問題を感じる。例えば、フリートウッド氏は以下のように述べる:
Whilst it is, true that real social material such as social structures (unlike physical material) cannot exist independently of all perceptions of them, they nevertheless exist independently of any one person's particular perception of them. If, however, social material can exist independently of a particular agent's perception or identification of it, then for that agent it has an objective existence - and cannot therefore be ruled out of the field of inquiry. This runs counter to the subjective-idealist claim that social material is constituted in the cognitive activity of the transcendental subject. (pp.78)
あるいはこのようにも言われる:
The following discussion, couched as it is in terms of cognitive psychology, should not mislead us into thinking that social rules originate in the mind. Social rules of conduct are just that - social. Whilst they are, typically, internalised by agents via the (cognitive) learning process, they are not merely in and of the mind. They have an existence independent of any particular agent's identification of them. (pp.108)
さて、社会構造が認識から独立しているとは、一体どういう意味であろうか。そもそもそんな事態は可能なのだろうか。私には到底そのようには思えない。ある主体が、自分が従っている行為ルールに関して無意識であったり、自分を規定する社会構造に関して無知であることはありうるが、その社会的質料から影響を受けているのであれば、それを即ち(間接的な形であれ)「認識」していると言えないだろうか。(逆に影響を受けていないのであれば、それは社会的質料でもなんでもない)。例えば、暗黙的な行為ルールに従うことができるということは、人間社会の中に何らかのパターン・規則性を認識してそれを模倣することに成功している証拠であるし、社会構造の影響を受けることができるということは、その構造が問題になる(より広範の)「ゲーム」をすでに遂行的に理解している必要がある。したがって、私には「遂行」と「認識」の次元を区別する必然性が見出せない。主体がその社会的質料に関して無意識であれ無知であれ、実践の領域でその影響を受けているのであれば、それを(何らかの間接的な形であれ)「認識」しているのである。そういう意味で、社会構造などの社会的質料はすべて諸個人の主観的な想念に起源を持つし、想念と独立の実在性を持つことはありえないはずだ。科学主義論文でハイエクが言わんとしているのは、こういうことではないのか。ハイエクは言う:
The individuals are merely the foci in the network of relationships and it is the various attitudes of the individuals towards each other (or their ... attitudes towards physical objects) which form the current recognisable and familiar elements of the structure. (Hayek, "Scientism and the Study of Society" pp.284)
ハイエクⅡが想定する個人像は、複雑に相互作用しながら想念から彼らにとっての社会構造を創り上げていく、ネットワークの中の個人である。この「彼らにとっての」というのが重要である。ここに解釈学的なエレメントが入り込んでくる。というのも、我々(社会研究者)にこの社会構造が「見える」のは、我々も彼ら(研究対象)と同じゲームを遂行しているからに他ならない。批判的実在論の立場においても、振るまいの社会的ルールや社会構造などの社会的質料が研究の対象となりうるためには、我々は解釈学的アプローチを利用する他ないのである。フリートウッド氏が実在の深層領域に社会的質料を見出すことができたのも、暗黙裡に解釈学的アプローチを援用していたからに過ぎない。ローソン氏のハイエク解釈に対する批判の中で、Allen Oakley氏も同様の趣旨のことを述べている:
My alternative is to envisage critical realism and hermeneutics as consistent, compatible and complimentary methodological strategies required to maintain subjectivist ontology. Hermeneutics is to be envisaged as the means of inquiry that will enable economics to achieve the 'deep' analytical insights that are the hallmark of critical realism (Allen Oakley, The Revival of Modern Austrian Economics: A Critical Assessment of Its Subjectivist Origins, pp.16)
社会科学においては、認識論としての主観的観念論(およびそれに伴う主観主義的な存在論)は放棄不可能であるように思われるし、したがってまた解釈学的アプローチも放棄不可能のように思われる。ハイエクⅢもこれらの立場を放棄したとは私は考えない。ハイエクⅢへの転換はむしろ方法論的なもののみのように思われる。つまり、個人の想念を分析の中心に据える方法論から、振るまいの社会的ルールなどの社会的質料を分析の中心に据える方法論への転換である。この方法論的転換の理由は、フリートウッド氏も指摘するとおり、ハイエクが振るまいの社会的ルール、とりわけ暗黙的なルールの存在に気付いたからだろう。
In this case, the 'compositive method', which focuses upon creating social phenomena from the conceptions held by agents, becomes problematic. If agents do not discursively know and/or adequately conceptualise the structures that facilitate their action, then society cannot be composed out of these conceptions alone. (pp.84)
フリートウッド氏のこの解釈は全くその通りだと思う。ただ、ハイエクⅢはハイエクⅡの存在論・認識論を放棄する必要はない。なぜなら、社会構造が主体の主観的な想念に起源を持つことと、その構造をあたかも客観的な実在物であるかのよう扱うこととは、何ら矛盾しないからである。実際、主体にとってはその社会構造は客観的な実在物なのだから、社会研究者も同様のものとしてその概念を利用しても問題ないはずだし、個人の想念から出発するよりはその方が好都合な場合もある。暗黙的な行為ルールが研究の材料として入ってくるというのは、まさにそういう場合なのではないか。社会的質料が主体の想念に起源を持つということ、したがって主観主義的な存在論を受け容れた上で、社会的質料を(いわば括弧付きで)客観的な「実在」と呼ぶのであれば私は何ら異存はないし、ハイエクⅢの立場もおそらく同様のものだろう。本当は丹念な文献引用によってこれを示さなければならないのだろうが、残念ながら今の私にはその時間も能力もないので、以上の雑駁な議論でお許し願いたい。

最後に、フリートウッド氏がハイエクⅢに読み込む「社会活動の変換モデル」(Transformational Model of Social Activity, TMSA)について。私にはこれはハイエクの文化的進化論の単なる言い換えにしか思えないのだが、言い換えることに一体何のメリットがあるのだろうか。むしろ進化概念を用いた方が適応とか淘汰が言えるので、言い換えない方がいいのではないか、と思った。まだロイ・バスカーの著作を読んでいないので何とも言えないけど、本書を読む限りあまり魅力を感じることはできなかった。

2011年11月3日木曜日

ヴィトゲンシュタインにおける二つの限界と、「実在」の影

入不二基義さんを読んで、私が以前導入した、ヴィトゲンシュタインの言う「言語の限界」には二つあるんじゃないかという理解の妥当性をますます確信できるようになった。

ヴィトゲンシュタインが「この言語(私が理解するただ一つの言語)の限界が、私の世界の限界を意味する」と言うとき(『論考』、五・六二)、この「ただ一つ」には二重の意味が重なっているというのが入不二氏の読み(『ウィトゲンシュタイン : 「私」は消去できるか』、第一章)。すなわち:

まず第一に、境界線なき「全体」としての「限界」。その「全体」の内容は別様でありうるが、どんなに内容を別様に変容させても「それ」であることをやめない〈かたち〉。ここで「ただ一つ」と言われている〈かたち〉は、「語る(写像する)」ことを成り立たせている前提して、「語る」このとのうちに「示される」。これが私の言う「第一の限界」に相当するだろう。

そして第二に、「私=世界=生」の唯一性・一回性としての「限界」。第一の限界は語ることのうちに示されうるが、この第二の限界はそのようには「示されえない」のではないか、と入不二氏は言う。なぜなら、この唯一性は世界の言語や形式に属する事柄ではなく、「私=世界=生」がそもそも「あってしまう」という神秘に属するからだ。

「神秘とは、世界がどのようにあるかではなくて、世界があるということそのものである。」(『論考』、六・四四)

『相対主義の極北』において入不二氏は、「未生」という概念を駆使してこの第二の限界のさらに向こう側に、「実在=神」の影を探ろうとする。論理学を知らない九歳の子どもにとってゲーデルの不完全性定理は単に想定不可能であるばかりでなく、想定不可能であることも想定不可能であり、さらに想定不可能であることが想定不可能であることが……という風に無限後退していく。いわば、彼にとってゲーデルの不完全性定理は「世界」のうちにある事柄ではない。それは「示す」ことのできる範囲をも超え出てしまっているのだ。同様に我々にとっても、思索をめぐらすことさえ不可能な地平があるだろう。ただ「あるんじゃないか」としか言えない領域が。ここにこそ我々は、「実在=神」の影を垣間見ることができるのではなかろうか。

2011年10月28日金曜日

設計主義のなにが問題なのか? : ハイエクの知識論

以下の文章は、仲正昌樹『いまこそハイエクに学べ: 〈戦略〉としての思想史』の第一章「設計主義のなにが問題なのか?」(p.25-66) を題材にした読書会のレジュメである。



仲正氏はハイエクの思想史的アプローチに焦点を当てて彼の設計主義批判を素描している。仲正氏の整理は要領を得ていて非常に分かりやすいと思うが、(本人も序章で予め断っている通り)、ハイエクの「知識」に関する議論や科学哲学的な議論が省かれているので、ハイエクの設計主義批判がある種の独断論ないし極論に聞こえてしまう箇所もあったように思う。例えば、「マルクス主義や社会民主主義が集産主義的な傾向を示しているのは、経済を中心とした社会的な「平等」を達成するため、生産様式や交換過程を規制しようとしているだけであって……」(p.34) 云々とあるが、これに対する仲正氏の(ハイエク側からの)反論は思想史的なものだけなので、かなり弱い。「社会主義」と「ファシズム」の結びつきは本当に必然的なのだろうか?経済の規制・計画化の何がいけないのか?結局、「平等」を優先するか「自由」を優先するかの価値判断の問題ではないのか?これらの疑問に応えるために、ハイエクの知識論を簡単に紹介してみたい。

【知識の分業体系としての市場】

ハイエクの思想体系を「市場の哲学」と呼ぶとすれば、その根幹を成すのは彼の「知識」に関する洞察である。その要旨を、大まかに三つにテーゼにまとめることができると思う。すなわち、

(1) 経済過程を可能にする知識は無数の個々人に分散して局所的・断片的に存在している。

(2) その知識の大部分は「暗黙知」(tacit knowledge)であり、言語化・分節化できない。

(3) 価格情報は、これら分散的・暗黙的な知識を集約的に表現する「指標」である。価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある。

さて、詳しく説明しよう。(なお、(3) に関しては紙幅の都合上割愛する)。

経済過程とは、一言で言えば「相互に異なり、場合によっては対立さえする多数の目的・計画を調和(coordinate)させる」プロセスである。当然のことながら、社会の全成員の目的が予め一致しているなんてことはあり得ない(それだったら経済現象がそもそも起こり得ない)。一方には米を需要する消費者がいて、他方には米を供給する生産者がいるからこそ、経済過程が成立する。問題は、この過程がどう行われるかである。従来の方法は、貨幣を媒介にした市場交換である。これに対して社会主義をはじめとする集産主義者は、財の「分配」を主張する。分配主義は、一見合理的に見える。中央計画当局が、すべての財に関する社会的需要を予め統計的に調査しておいて、その需要に応じて必要な分だけ生産するよう各工場に指令を出せばいい。このため、需給の過不足は生じないし、なによりプロセス全体が意識的に遂行されるので、正義に適った「平等」な分配を実現できるのだ。しかし、ハイエクは二つの点においてこの分配主義に噛み付く。

まず第一に、人々が保持している(利用可能な資源や生産にかかる時間などに関する)局所的・分散的な知識をすべて中央計画当局に集めるには、情報量があまりにも膨大過ぎる。仮に集めることができたとしても、そこから需給の最適な均衡解を導出するには、ほぼ無限大の計算速度が必要になる。市場機構による局所的・分散的な情報処理に比べて、いったん中央当局に社会全体の知識を集めて、均衡解を計算して、再び上意下達方式で指令を下すというやり方は、明らかに二度手間である。経済状況は刻一刻と変転するので、分配政策が本来の市場機構の効率性に追い付くことは到底不可能である。

そして第二の問題点はさらに深刻である。経済過程を可能にする知識のほとんどは、マイケル・ポランニーの言うところの「暗黙知」(言語化・分節化することのできない知識)として保持されているとハイエクは言う。現場の人間にしか把握できない、その場その場の暗黙的・実践的な知恵こそが、経済過程において本質的である。というのも、このような暗黙的な知識こそが、新たな知識の「発見」と密接に関わっているからだ。そしてハイエクによれば、市場競争とは新たな知識を「発見」する模索のプロセスに他ならない。どのような新商品を開発すれば売れるか、どのような製作工程を採用すれば価格を安く抑えられるか、生産者や企業家は様々な工夫を凝らし、試行錯誤のプロセスを経て品質を改良し、価格を安くし、時には画期的なイノベーションや発明を行う。これらの商品は不特定多数の匿名的消費者による選択的淘汰に晒されることによって、経済はダイナミックに生成変化する。集産主義者たちの素朴な経済観では、市場機構のこの「学習」のダイナミズムを捉えることができない。現場の人間のみが保持している主観的な暗黙知を、無理やり客観的なデータに変換してしまおうとする彼らは、経済過程にとって本質的な要素を知らず知らずのうちに削ぎ落としてしまうのである。分配主義による「合理的」な経済運営は、イノベーションも進化もない、極めて静態的な社会を帰結するであろう。

【無知の承認による自由の擁護】

以上のハイエクの知識論から、「自由」は如何にして帰結するのであろうか?ハイエクは、「無知の承認」という独特のやり方で自由を擁護している。一言で言えば、「自由が必要なのは、それを放棄できるほど我々は賢くないからだ」ということになる。ハイエク自身はこう述べる。

もし全知全能の人がいて、われわれの現在の願望の達成に影響するすべての要素ばかりでなく、われわれの将来の欲望と願望をも知ることができるとしたら、自由の必要はほとんどないだろう。逆に、個人の自由は将来についての予測を完全に不可能にする。したがって自由は、予測も予言もできない未知の可能性を開くために必要なのだ。……人々が知っていることはあまりにも少なく、とくにだれがもっともよく知っているかを知らないから、われわれは多くの人々の独立した行動と競争的な努力によって、望ましい未来が自発的に生まれることを信じるのだ。(『自由の条件』、p.29)

自由が必要なのは自由な状態が幸福だからではなく、どうやったら幸福になれるのか我々が知らないからだ。自由を要請するのは何らかの恣意的な価値判断ではなく、我々が直面する「理性の限界」という不可避的境遇である。この事実を弁えず、社会を合理的に設計・計画しようとする傲慢な理性主義こそが、ハイエクの批判する設計主義に他ならない。

2011年10月15日土曜日

タルドの社会理論と「法則」に関するメモ

タルドの社会理論は非常にいい感じだけど、微かに設計主義の残り香を感じてしまう。実際に読んでないのでなんとも言えないが、例えば『社会法則』ではこう述べられている。
「そのような美しい調和が起こるためには、その調和が実現される以前に、誰かによって認識されなければならない。社会的調和は、それが広大な領域を覆うようになる以前に、なんらかの脳細胞のなかで、ひとつの観念として存在することがなかったとしたら、そもそも起こりえないのである」(94項)
これは科学や芸術について言えば確かにその通りかもしれないが、社会的現象一般には当てはまらないように思う。例えば言語とか経済。そこには、ひとりの成員の脳には還元できない独自の構造性があるのだ。『モナド論と社会学』ではこうも述べられている。
「ライプニッツは〈予定調和〉というものを発明しなければならなかった。それと同じ理由から、物理主義者たちは、〈盲目的に漂う原子〉という考え方を補足するために、普遍法則や特殊公式に頼らざるを得ない。そして彼らは、それにあらゆる法則を還元し、あらゆる存在がそれに従うような、しかしそれ自体はいかなる存在にも由来しないような、一種の神秘的命令をでっちあげる。しかし、これまで誰からも発せられたことがないにもかかわらず、いたるところでつねに聞かされるそのような命令は、理解不能で意味不明の言葉と変わらない」(160項)
タルドは、デュルケームの社会実在論の系譜と、スペンサーの社会進化論の系譜の両方を退ける。その根拠となるのは、成員の行為を命令する法則の存在の否定である。確かに、タルドが述べるような種類の法則は存在しないと言えよう。しかし、成員の行為を「外側」から命令・規制する法則だけが法則ではない。複雑系やサイバネティク・システムに見られるような、要素の自律的運動それ自体が法則として顕れるケースもあり得るのだ。そして、社会的現象において見られる再帰的な構造性は、この後者の種類の法則性に他ならない。それは、成員たちの行為の必然的帰結であるにもかかわらず、どの成員の精神内心理を探っても出てこない独自のパターンや振る舞いを示す。タルドは「精神間心理学」(interpsychology)を「精神内心理学」(intra-psychology)に対置して見せたにも関わらず、この精神間心理が示す独自の法則性に気付いていなかったのではないか。同時代のほとんどの社会学者と同様、スミスが「見えざる手」によって意味したものを彼は理解していなかったのではないか。この法則性は、成員たちの振る舞いを一つ上の階層から指揮する命令者のようなものではなく、細胞の自己組織化から銀河集団の形成に至るまで、あらゆる自然現象を縦に貫く物理学の法則なのである。〈予定調和〉は存在する。神は存在するのである。上空に君臨する指揮者としてではなく、モナドの振る舞いそれ自体に内在する形で。

集合的実体としての社会概念を拒否し、伝統的なミクロ/マクロ図式を解体するタルドは、間違いなく異才の思想家であったと言えよう。しかしそんな異才の思想家でさえ、法則を「命令者」としてしか理解できなかったことは、同時代の抗い難い知的雰囲気を物語っているように思う。

ここに至れば、タルドの社会理論は――「社会」の集合的実在を否定する点でなるほどデュルケームのそれとは両立し得ないが――スペンサーの社会進化論の系譜とは両立し得るのではないかと思えてくる。ハイエクの社会理論がまさにその位置にあるように思う。 つまり、ハイエクの社会理論はタルドの社会唯名論とスペンサーの社会進化論をうまい具合に調合したものとして理解できるのではないか。もちろん、ある程度の摩擦はある。よく言われる、方法論的個人主義と文化的進化論の方法論的整合性の問題がそれである。また、管見の限りハイエクがタルドに言及している箇所はないし、その存在を知っていたのかどうかすら定かではないので、思想史的にハイエクとタルドの関係については何も言えない。

2011年9月10日土曜日

社会正義の要求と企業の役割の肥大化

本記事は、F.A. Hayekの二つの論文:「「社会的」という言葉―それはなにを意味するのか」("What is 'Social'? — What Does it Mean?") と、「民主主義社会における企業―だれの利益のため?」("The Corporation in a Democratic Society: In Whose Interest Ought It To and Will It Be Run?")の内容を関連させてまとめたものである。ハイエクの引用は日本語で載せたかったが、如何せん手元に日本語の全集がないので、とりあえず英語で。

【「社会的」という言葉の無意味化】

「社会的」(social)という言葉は一体何を意味しているのだろうか。普段から何気なく、当たり前に使っている言葉なだけに、我々はその意味が孕む問題について特別意識することはまずないだろう。しかし、ハイエクはこの言葉の持つ曖昧さと、その使用のだらしなさに警鐘を鳴らす。ハイエクの診断はこうである。
[T]he final conclusion emerging from my deliberations has been that the word 'social' has become an adjective that robs of its clear meaning every phrase it qualifies and transforms it into a phrase of unlimited elasticity, the implications of which can always be distorted if they are unacceptable, and the use of which, as a general rule, serves merely to conceal the lack of real agreement between men regarding a formula upon which, in appearance, they are supposed to be agreed. (Studies in Philosophy, Politics, and Economics, p.238)
答えが無いところにあたかも答えがあるかのように綺麗な政治的カモフラージュを施す「社会的」という言葉は、我々が直面している多くの重大な問題についての明晰な思考を阻害し、我々を混乱させる。

19世紀の中頃から、20世紀の初めにかけての「社会的」という言葉の意味の変遷は、時代の思考の流れを忠実に反映している。というのも、「社会的」という言葉は、本来の(「社会」という概念が発見された18世紀の中頃からの)「自生的に生じた人間関係の秩序」という意味から、「倫理的」とか、単に「善い」といった言葉に徐々に取って代わってきたからである。言語や慣習といった、「社会的諸力」(social forces)や「社会的構造」(social structures)と言う時、我々はまだ前者の意味で使っているが、「社会的責任」(social responsibility)や「社会(的)正義」(social justice)と言う時、「社会的」という言葉は全く別の、倫理的・規範的な要求を含意している。では、従来の意味の「倫理的」と、「社会的」という言葉が意味するところの「倫理的」はどう違うのだろうか。

これを見るためにはまず、「社会問題」(social question)が初めて公共の議題になった19世紀中頃の状況に目を向けよう。この時代、政治の議論は(大雑把に言って)狭い上流階級の人々に限られていた。彼らの間で、当時政治活動に参加することができなかった、社会の「最も数多く、最も貧しい」人々を「救済」しようという責任感が芽生えていた。「文明世界」(civilized world)が、それまで存在が知られていなかった「地下世界」('underworld')を「発見」したこの頃から、「社会的」という語は「弱者の救済」という新たな意味を帯び始めた。これと並行して、従来の「倫理的」な規範の遵守と、「社会的」な思考の要求との間に境界線を引き、前者に対する後者の優位を(暗黙裡に)説く思想の学派が登場してきた。前者は消極的な要求であり(例えば「盗むなかれ」、「嘘を吐くなかれ」といった禁止の形態をとる)、また一般的・抽象的である(それぞれの行為の具体的帰結を問題としない)。これに対して後者は、社会の全成員に対する積極的なオブリゲーションを課すとともに、行為の具体的帰結を問題にし、それらに則って行為を律するよう我々に要求する。この思想の学派は、言うまでもなくサン・シモン、コント、マルクスの系譜の人々である。

勿論、社会のすべてのメンバーを考量に入れようという態度自体は、賞賛に値するものであるかもしれない。しかし、社会行為に関するこのような見方には、社会全体をある統一的なコードの元に解釈しようとする思考様式が伏在していることを見落としてはならない。

「社会(的)」という形容詞を冠する言葉は数え切れないほどある。「社会(的)意識」(social awareness)、「社会的良心」(social conscience)、「社会的責任」(social responsibility)、「社会活動」(social activities)、「社会福祉」(social welfare)、「社会政策」(social policy)、「社会立法」(social legislation)、「社会正義」(social justice)、「社会保障」(social insurance)、「社会的権利」(social rights)、「社会的規制」(social control)などなど。「社会民主主義」(social democracy)という言葉に至っては、もはや何のことかさっぱり分からない。社会的でない民主主義とは一体どんな民主主義なのであろうか。
The important thing, to me, is that in all these uses the word 'social' presupposes the existence of known and common aims behind the activities of a community, but does not define them. It is simply assumed that 'society' has certain concrete tasks that are known to all and are acknowledged by all, and that 'society' should direct the endeavours of its individual members to the accomplishment of these tasks. 'Society' thus assumes a dual personality: it is firstly a thinking, collective entity with aspirations of its own that are different from those of the individuals of whom it is composed; and secondly, by identifying it with them, it becomes the personification of the views held on these social aspirations by certain individuals who claim to be endowed with a more profound insight or to possess a stronger sense of moral values. Frequently enough a speaker will claim that his own views and aspirations are 'social', while those of his opponent are brushed aside as 'anti-social'. There is, I think, no need for me further to emphasize that, when 'social' is used in the sense of 'serving the interests of society', it certainly raises a problem, but provides no solution. It concedes precedence to certain values to which society should adhere, but it does not describe them. Were the word strictly used in this sense, there would, I think, be but little objection. In point of fact, however, not only does it compete in many ways with existing ethical values, but it has also undermined their prestige and influence. Indeed, I am coming more and more to the belief that the substitution of this rubber word, 'social', to denote values we have always described as 'moral', may well be one of the main causes of the general degeneration of moral sense in the world. (ibid, p.242-3)
「社会的」という言葉の意味の変遷(というよりは「無意味化」と言った方が正しいだろう)は、社会に関する合理主義・設計主義的な見方の発展と深く関係している。この合理主義は、具体的帰結が見えず、その意味が理解できない伝統的・暗黙的な倫理的規範を軽視し、明示化できる具体的な目的の追求を重視する。かくして、「社会的行動」('social behaviour')の要求は、その成立そのものを可能にしてきたはずの倫理的土台を自ら破壊していく。この倫理的規範の破壊は、「個人の責任」(personal responsibility)を巡る問題において特に顕著である。
Originally, the appeal to the social sense was expected to lead to a more widely spread acceptance of personal responsibility. But the confusion that arose between the further aims to which the individual man should aspire, between the taking-into-consideration of social repercussions and social—in the sense of collective—behaviour, and between the moral obligations of the individual to the community and his claims upon it, has gradually undermined that sense of personal responsibility which is the foundation of all ethics. ... Indeed, there seems to me to be very little doubt that this whole process which has thoroughly confused the issue as regards personal responsibility, absolving the individual on the one hand of all responsibility as regards his immediate environment and, on the other hand, placing upon him vague and undefined responsibilities for things that are not clearly apparent, has, by and large, led to a marked diminution of man's sense of personal responsibility. Without placing upon the individual any new and clear obligations which he has to fulfill by his own personal endeavours, it has expunged the boundaries of all responsibility and has become a standing invitation to make further demands or to do good at the expense of others. (ibid, p.245)
その時その時の「社会正義」の名の下に、自生的に進化してきた正義概念や倫理的規範がしばしば制限されたり、無視されたりするが、これは非常に危険な事態である。「社会正義」の要求は、短期的な目的には望ましい成果を挙げているように見える場合でも、長期的に見ればむしろ社会秩序の安定的進化を損なうという逆説的な状況が起こり得る。これから見るのは、これを示す一つの具体的なケースである。

【企業の役割の肥大化】

「社会正義」の要求がもたらす望ましくない帰結の典型的な一例として、企業の役割の肥大化を取り上げる。ハイエクのテーゼはこうである。
If we want effectively to limit the powers of corporations to where they are beneficial, we shall have to confine them much more than we have yet done to one specific goal, that of the profitable use of the capital entrusted to the management by the stockholders. I shall argue that it is precisely the tendency to allow and even to impel the corporations to use their resources for specific ends other than those of a long-run maximization of the return on the capital placed under their control which tends to confer upon them undesirable and socially dangerous powers and that the fashionable doctrine that their policy should be guided by 'social considerations' is likely to produce most undesirable results. (ibid, p.300)
ただ、企業の役割が資本から得られる利益の長期的な最大化に限定されるべきと言っても、企業が社会の一般的・抽象的な法的、および倫理的ルールに縛られていなくてもいい、という訳では当然ない。具体的な目的と、具体的な目的を追求する際のルールの枠組は区別されなければならない。

莫大な資本金を持つ大企業といえど、その資金の使い道が「利益の最大化」という単一の目的に限定されている限り――つまり資本金の使い道に関して経営陣の恣意的意志が働く余地がない限り――企業は「権力」を持ち得ない。しかしいったん企業の経営陣が、社会一般で認められている何らかの理想的な目的――それが社会奉仕活動であれ、貧困の撲滅であれ、研究・教育の援助であれ――に資本金を回すことを認めてしまうと、企業を制限するものは何もなくなってしまう。「それ自体において望ましい」という世論の動向だけで、莫大な資金が動くことになる。こうなってしまうと、あとは企業が強大な恣意的・政治的権力を獲得するのを防ぐ手立ては何もない。
If the large aggregations of capital which the corporations represent could, at the discretion of the management, be used for any purpose approved as morally or socially good, if the opinion of the management that a certain end was intellectually or aesthetically, scientifically or artistically desirable, were to justify expenditure by the corporation for such purposes, this would turn corporations from institutions serving the expressed needs of individual men into institutions determining which ends the efforts of individual men should serve. To allow the management to be guided in the use of funds, entrusted to them for the purpose of putting them to the materially most productive use, by what they regard as their social responsibility, would create centres of uncontrollable power never intended by those who provided the capital. (ibid, p. 305)
にも関わらす、時代の風潮はますます「社会全体の利益」を重視する方向へ流れている。税制もそうだし、世論もそうだし、企業内の伝統もそうである。しかし、この要求は全くの見当違いで、実際のところ事態を悪化させる原因以外の何者でもない。

【企業の運営は誰の利益のために?】

企業は、一体誰の利益を優先して運営されるべきであろうか。考え得るのは次の四通りであろう:経営陣、労働者、株主、そして「社会全体」。このうち、経営陣の利益を優先するべきだと主張する人はまずいないと思われるので、考察から除外する。

労働者の利益を優先するべきだという主張については、詳しくはハイエクの論文「労働組合、インフレ、および利潤」("Unions, Inflation, and Profits")を参照されたいが、簡単に要約すると①ある特定の閉じた労働者集団を保護することは、他の労働者の自由な参入を拒むことである。②閉じた労働者集団の賃上げ要求は、就職率の低下をもたらす。というのも、企業の側が出せる賃金の総量は変わらない(市場の内生的な成長の結果賃金が上がった場合は別の話である。ここで問題にしているのは市場の内生的成長を伴わない人工的な賃上げ圧力である)ので、その労働者集団に支払わなければならない賃金が上昇し、その額以下の賃金で働こうと思っている新たな労働者の参入が阻害されるならば、企業が新たに雇うことのできる労働者の人数は必然的に減少するに違いない。中長期的に見ればこれは社会全体の就職率の低下となって現れる。(日本の場合、正規雇用が減少し、非正規雇用が増大しているが、全く同じ原理である)。③就職率の回復を意図した金融政策が金融管理当局によって行われると、インフレーションが起こる。貨幣供給量の増加により貨幣の価値が下がるので、労働者の名目賃金を下げることなく実質賃金を下げることが可能となり、結果として就職率は回復する。②と③が繰り返されると、止め処ないインフレーション・スパイラルに陥る。

ここで為されているのは、安定的な賃金水準と就職率の確保に関する責任の分断である。一方の労働組合は就職率への影響を考慮せず最大の賃金を獲得することに躍起になっており、他方の金融管理当局はその賃金水準を所与の条件として完全雇用を実現するためにはどれだけのお金を供給すればいいかしか考えていない。このような人工的インフレーションは労働組合の活動とケインズ政策の必然的帰結であり、大規模な金融ショックの引き金となり得る。

さらに別の(しかし非現実的な)可能性として、もし企業の資産や運営権の一部あるいは全部を労働者集団の手に譲渡するとしたら、シンジケート型の社会主義が直面する問題と同種の問題に直面することになる。それは単に、労働者と資本家の立場を入れ換えて、新たな資本家集団を作ることになるだけであろう。とにかく、企業の運営は労働者の利益を優先してなされるべきだと言う主張は、その意図とは逆の帰結しかもたらさない。

さて、ハイエクが優先すべきだと言うのは、株主である。
The problem I want to consider is, thus, whether the rules for the standard type of corporation should, to a much greater degree than is the case at present, be governed by regulations which assure that the interest of the stockholder shall be paramount. I believe this to be the case and wish here to indulge in some bold mental experimentation with regard to the means of giving the stockholders greater powers in this respect. It seems to me that in this field the possibilities of arrangements different from those to which we are accustomed are all too little considered, and that the 'apathy' and lack of influence of the stockholder is largely the result of an institutional set-up which we have wrongly come to regard as the obvious or only possible one. (ibid, p.307)
株主の利益を優先すべきだとしても、そのような法体系が必然的に市場の中から自生するとは限らない。ゆえに、現在の法体系が最善のものであるとは限らないし、これを改良(「設計」ではない)して、より安定的な秩序が自生するための条件整備を行うこともあってもいいはずだ。というわけでハイエクは、株主の権限を強化するための具体的な政策プランを二つ提示する。

第一は、株主の出資金から得られた当期利益のうち、何割を企業に再投資するか、企業の経営陣ではなく株主に決定する権限を与えること。第二は、企業が他の企業の株主になるのを禁止すること。それぞれ説明しよう。

まず一つ目の政策は、経営陣の恣意的権力を弱める働きをする。企業に出資された資本金の使用権限を、基本的に株主に帰着させることによって、企業によるむやみな拡大再生産が制限されることになる(何割投資するべきか、企業側がお勧めの割合を提言することはできるが、最終決定は株主に委ねられる)。資源の最も効率的な活用のために企業が目指すべき利益の最大化は、企業の資産総量の最大化――これは経営陣の権力増大に繋がる――ではなく、出資された資本単位当たりの利益の最大化である。

第二の政策は、少数の経営者による他企業のコントロールを禁止するための方策である。もともと企業が他企業の株式を取得できるように法律が作られたのは、その帰結が考量されたからではなく、どうやら単に、法人には個人と同等の権利を与えるのが自然だろうと判断されたから、のようだ。

株式の過半数が取得され、A企業のコントロール下に入ったB企業を想定しよう。すると、本来は共通の利害によって結ばれたはずのB企業内部に、利害の対立が生じることになる。というのも、B企業に資本金を出資しているすべての株主の意志ではなく、A企業の利益を目指している多数派の意志によって資本金が使われることになるからだ。この時、多数派ではないB企業の残りの株主はババを引いたことになる。こうなると彼らは株式を売り払うしかないが、それこそがA企業の狙いであるかもしれない。このように、株式保有による長い企業コントロールのチェーンができることも考え得る。A企業によってコントロールされたB企業によってコントロールされたC企業によって…という風に。かくして、少数の人間による莫大なお金と権力の専有が合法的に認められることになる。これを防ぐための法改良である。この法改良は、私的所有の境界線の厳格化に相当する。(ちなみに、企業による他企業の株式取得自体を禁止するのではなく、投資は合法のままにして、株式に伴う投票権を剥奪する、という形が最良であるかもしれない)。

以上、現在我々が自明と見なしている法制度が、実は改良の可能性に開かれた特殊なものであることが分かった。企業は誰の利益を優先して運営されるべきか、に関する第四の可能性、「社会全体」については、既に述べた通りである。弱者、ないし社会の全成員を救済したいという志は崇高であるが、理想だけが先走って現象の複雑な構造を自分の都合の良いように裁断する偏狭な設計主義は、自らの意図とは逆の帰結を覚悟しなければならない。