2012年5月7日月曜日

オートポイエーシスは何を解明するのか

以下の文章は、河本英夫『オートポイエーシス―第三世代システム』に対する雑感をまとめたものであり、私の一連のツイートを再構成し、大幅に加筆修正したものである。



『オートポイエーシス』を読んで私が抱いた一番の疑問は、「オートポイエーシスは一体何を解明するのか?」というものである。河本はオートポイエーシスは経験科学だと言う(p.298)が、私には、オートポイエーシスはあらゆるシステムのある特殊な側面を扱う哲学であって、経験科学ではないように思える。哲学はしばしば世界を見る新しい見方を我々に提示してくれるが、何かを解明することはない。これが哲学と科学の間の最も大きな違いであるように私は思う(もちろん両者の間に明確な境界線が引けるとは考えていない)。河本はオートポイエーシスはたんなる視点の転換ではないと言う(p.10)が、本書を読んだ限り私はこれに説得力を感じない。

「オートポイエーシスはあらゆるシステムのある特殊な側面を扱う哲学」であると私は述べたが、このことの意味をもう少し詳しく説明する。河本はオートポイエーシスを「行為‐存在論」と呼んでいる(p.195)。「システムにとって産出的作動という行為を行うことが、そのまま現実に存在することである。」(ibid.) つまり、オートポイエーシスは、「行為することがすなわち存在することであるような」(ibid.)存在を扱う行為存在論だと言うのである。このような「存在」という言葉の使い方は、私には正直言ってピンと来ない。むしろ、「システムそのものにとっての視点」を強調するオートポイエーシスは、存在論ではなく知覚論であるように思える。

 【物理的極と心的極】

私は、あらゆるシステム(オートポイエーシス・システムに限らずアロポイエーシス・システムも)には「物理的極」と「心的極」があると考えている(A. N. Whiteheadの語彙を勝手に借用してきた。本来の用法と合致していないなどの苦情は受け付けておりません)。物理的極と心的極を、ここでは具体的な例で説明しよう。Graham Harmanが挙げている例で、火が綿を燃やすというのがある。彼が言うには、火が綿を燃やすとき、火は綿の全ての性質と作用していない。それに対して、Steven Shaviroはこう修正する。火が綿を燃やすとき、火は綿とその全体において作用するが、綿のすべての性質を「知らない」、と。この「知らない」というのは単なる比喩表現ではない。文字通り、火は綿のすべての性質を「知覚できていない」のである。オートポイエーシスの言葉を使えば、「火にとっての視点」から見れば、綿の全体は位相学的外部なのである。

要するに、システムの心的極とは、システム独自の生態学的地位、J. von Uexküllの言う環世界(Umwelt)である。あらゆるシステムは、環境の中から、そのシステムの維持にとって有用な部分だけを選択的に知覚する(例えば人間には紫外線や赤外線は見えない)。そしてオートポイエーシスが強調する「システム自体の視点」とはまさにこの心的極であるように思う。それはシステムの物理的極、つまりその存在のあり方全体を問題にするのではなく、システム独自の知覚のあり方だけを扱うのである。

この点に関して、N. Katherine Haylesによるオートポイエーシスの定式化が分かりやすい。

In the autopoietic view, no information crosses the boundary separating a system from its environment. We do not see a world "out there" that exists apart from us. Rather, we see only what our systemic organization allows us to see. The environment merely triggers changes determined by the system's own structural properties (N. Katherine Hayles, How We Became Posthuman: Virtual Bodies in Cybernetics, Literature and Informatics, pp.10-1)

システムの心的極の境界は閉じていて、システムみずからの作動によって産出される。対してシステムの物理的極の境界は開いていて、外部の観察者によって識別される。ゆえに物理的極の境界は常に不定で、継続的なパターンとしてしか同定されえない。しかしパターン識別が観察者依存的だからといって、パターン自体に固有の実在性がないという意味ではない。要素をすべて列挙するより少ない情報量で対象の振る舞いを予測できるとき(つまり情報の圧縮可能性が存在するとき)何らかのパターンは紛れなく存在する(それが具体的にどのようなパターンであるかは観察者に依存するというわけである)。(cf. Daniel Dennett, "Real Patterns")

【オートポイエーシスと独在論】

オートポイエーシスの議論の仕方は、永井均の「独在論」と非常に似ているところがある。例えば以下の引用を見て頂きたい。

ユクスキュルの議論によれば、生物はそれぞれ固有の世界にしか生きられない以上、人間もみずからの世界に閉ざされてしか生きることができない。これに対してポルトマンやシェーラは異を唱える。人間は開かれた世界に生き、動物は閉ざされた世界に生きるというのである。このことの論拠になっているのは、人間はみずからを反省的に対象化し、それと同時にみずからの世界を対象化することによって、みずからの外に出うるということである。そして技術を介して環境そのものを変えることができる。[原文改行]だが意識の反省によって自己を対象化しようと、どこまでも意識の枠内に閉ざされた自己と他なるものの対象化された区別でしかない。意識は確かに異なる世界を知りうる。だがそれとて人間の意識によって構成されたものにすぎなくなる。意識の反省を通じて、自己や世界を対象化し、別様でありうるものを認識しようとも、それもやはり意識によって構成されたものにすぎない。意識の自己反省によっては、どこまでも自己意識の圏域を出ることはできないというのは、すでに身近かな事実である。とすればいったいどのようにして人間は開かれた世界に生きていることになるのか。(p.245)

これは、この比類ない〈私〉を、他の大勢の人間と対称な地位へ連れ出そうとする「相対化」の運動に対して、〈私〉と他者の非対称性を絶えず更新し続ける「独在化」の運動にそっくりだ。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」(永井均『『〈魂〉に対する態度』p.187)以上、独在性はこの世界の端的な事実である。この議論はごもっともだと思う。しかし、独在性の方だけに執拗にこだわり続けるのは、事態の片側面しか捉えていないのではないか。私が思うには、独在化の運動と相対化の運動のどちらかに特権を付与するのではなく、両者を等価的に捉えなければならない(cf. 入不二基義『相対主義の極北』)。

オートポイエーシスに即して言えば、一人称視点からは可視光しか知覚できない人間が、どうして紫外線や赤外線の存在を知ることができたのか、考えなければならない。それぞれのシステムに固有の世界とは独立に、三人称視点からの観察によってしか捉えられない客観的な「世界自体」が存在するのではないか。ポルトマンやシェーラの主張が一見伴うように見える人間中心主義はともかく、「人間は開かれた世界に生きている」ということの意味をもう少し真剣に受け止める必要があるように思う。したがって、

[心的システムの位相学的外部は]見ることそのものの媒体のように心的システムに浸透している。したがって環境はどのような意味でも主観に対置されるような客観ではない。(p.244)

という記述には同意できない。

【オートポイエーシスは何を解明するのか】

オートポイエーシスはシステムの物理的極ではなく、心的極を扱うと述べた。より正確に言えば、システムの心的極だけを取りだし、物理的極を「位相学的外部」として捨象する。私に疑問なのは、このような方法によって一体何が明らかになるのか、ということである。世界に対する新しい見方を提示する哲学としてのオートポイエーシスの側面を否定するつもりはない。実際、「世界」と「心」のあり方について非常に面白い考え方を提供していると思う。しかし、オートポイエーシスを何らかの「研究プロジェクト」として推し進めたり、個別科学の領域に「適用」しようとしている論者には疑念を持たざるを得ない。

オートポイエーシス独自の「位相空間」を描くという手法も、あまりピンと来ない。河本は、今後残された探究課題として「システムの数学的定式化」(p.337)を挙げているが、果たしてそんなことが可能なのか、あるいは可能だとしても果たして意味があるのか。まず第一に、「思考」や「コミュニケーション」といった曖昧な構成素を同定できないという問題がある。まさか位相空間に「思考」や「コミュニケーション」に対応する状態点を取ってその挙動を微分方程式で記述するわけではあるまい。そして第二に、仮に無理やり位相空間を視覚化できたとしても、そこに何らかの法則性があるとは思えない。先に述べた通り、オートポイエーシスが抽出する位相空間は、物理世界とはもはや(曖昧な「浸透」を除いて)何ら関係を持たない。つまりこの位相空間では自然の斉一性が生きていないと考えられる。自然の斉一性がないところにシステムの「コード」を探そうとしても無駄である。

2012年4月29日日曜日

市場競争の意味

The correspondence of expectations ... is brought about by a process of trial and error which must involve constant disappointment. The process of adaption operates, as do the adjustments of any self organising system, by what cybernetics has taught us to call negative feedback: responses to the differences between the expected and the actual results of actions so that these differences will be reduced. This will produce an increased correspondence of expectations ... (F.A. Hayek, Law, Legislation and Liberty)
実際、負のフィードバックによって秩序が達成されるという洞察は、サイバネティクスが初めて体系的に理論化したといえ、何もサイバネティクスが創始した考えではなく、もともとは市場についての理解にこそその起源を持つ。
long before Claude Bernard, Clerk Maxwell, Walter B. Cannon, or Norbert Wiener developed cybernetics, Adam Smith has just as clearly used the idea in The Wealth of Nations. The "invisible hand" that regulated prices to a nicety is clearly this idea. In a free market, says Adam Smith in effect, prices are regulated by negative feedback. (G. Hardin, Nature and Man's Fate)
ただし、これは時間と努力さえかければ学習過程が何らかの最終状態――主流派の「均衡」概念のような――に達しうるというわけでは決してない。オドリスコルとリッツォの次の意見に、おそらくハイエクも賛同するだろう。
A theory of evolved orders is not a theory of optimality or efficiency, precisely because it is a process not an end state theory ... It is not what competition does to fulfill our expectations that commends it; it is what we would not have expected it to do that commends it. (O' Driscoll, G. and Rizzo, M., The Economics of Time and Ignorance)
抽象的・一般的ルールを遵守しながら、行為主体は試行錯誤のプロセスを通じて進まなければならないが、このプロセスは不可避的に、常に一定数の主体の期待が 裏切られることを意味するだろう。特定の不確実性の存在によってのみ、より一般的な不確実性を最小化することができるのである。
[Market-determined rewards are] incentives which as a rule guide people to success, but will produce a viable order only because they often disappoint the expectations they have caused when relevant circumstances have unexpectedly changed. It is one of the chief tasks of competition to show which plans are false. (F.A. Hayek, Law, Legislation and Liberty)
期待が裏切られる過程で深刻な損害を受ける主体がいるということは不幸な副作用であるが、それを避けることはできない。というのも、介入は知識の発見・伝達・貯蔵を妨げ、それによって富の創造過程を妨げ、すべての人の好機を害するからである。

最後に、知識の発見手続きという意味における、市場競争と科学の方法との同型性について。
If we do not know the facts that we hope to discover by means of competition, we can never ascertain how effective it has been in discovering those facts that might be discovered. ... The peculiarity of competition - which it has in common with scientific method - is that its significance cannot be tested in particular instances where it is significant, but is shown only by the fact that the market will prevail in comparison with any alternative arrangements. The advantages of accepted scientific procedures can never be proved scientifically, but only demonstrated by the common experience that, on the whole, they are better adapted to delivering the goods than alternative approaches. (F.A. Hayek, "Competition as a Discovery Procedure")
科学の方法は自然界の普遍的な事実、つまり法則を発見するのに対して、市場競争はあくまでその特定の状況でのみ有効な暫定的な事実を発見するがゆえ、後者の有用性は前者に比べて理解されにくいと言える。

2012年4月18日水曜日

金子邦彦、『生命とは何か : 複雑系生命科学へ』

以下の文章は、金子邦彦『生命とは何か―複雑系生命科学へ』の個人用まとめ書きである。



【第5章 複製系における情報の起源】

「まず、遺伝情報とは何かということをDNAやRNAなどの特定の分子にこだわらずに定義しなければならない。情報は当然ながら、いくつかの可能性のなかからの選択を意味する。……その意味で、とりうる細胞状態の選択を与えるのが、「情報を担う」分子の役割である。さらに「遺伝」情報であることを考えると、それは次世代に伝わっていかなければならない。」 (p.147) つまり、ある化学成分が遺伝情報を担うためには

(1) 細胞内のある成分が他の成分の振る舞いに強い影響を与えるというコントロール特性
(2) 分裂後の次世代の細胞に成分が伝わり、保持されるという保存特性

が要請されるが、これらがどうやって出現するのかというのが本章の問いになる。

少数コントロール

合成速度の異なる相互触媒系からなるプロト細胞を考える。速く増殖する分子Xとゆっくり増殖する分子Yという、触媒活性をもった二種類の分子種が互いに触媒するネットワークを形成しているとする。この両分子を含むプロト細胞が分裂するごとに分子Yの数が減っていくが、0になってしまうとプロト細胞は増殖能を失う。そこで、こうしたプロト細胞が増えていき、競合して淘汰されていく状況を考えると、残った細胞は、最低でも1個は分子Yを含んでいるはずである。こういう状態は分子数の時間発展から言えば稀な状態であるが、ゆらぎによって一旦そうした初期状態が達成されると、そのまれな初期状態が選択され維持される。こうして遺伝情報の要件である「状態の選択」と「その保持」が生まれる。

さて、 分子Yが構造変化を起こしてその活性を変化させたとする。すると、Yの活性の変化はプロト細胞の増殖に大きな影響を与える。他方、Xのようにたくさんある分子が構造変化を起こした場合を考える。細胞内にあるすべてのX分子が同じように活性を変える確率はほとんど0であろう。この構造変化はゆらぎからくるランダム事象であるから、ある分子は活性を高める方向に、別のものは低める方向に、という形で、平均としては活性の変化は小さくなるであろう。こうして、互いに触媒し合う分子では、数の少ない方がそのプロト細胞の性質に対して支配的な影響を持つ。このような「少数コントロール」の構造により、数の少ない方の分子が「遺伝情報」のためのコントロール特性を持つに至る。

力学系の言葉で言えば、変化の時間スケールが長い(つまりリャプノフ指数が0に近い)変数は、その初期の変化が長く残るので、その変数が他の変数に影響を与えている限り、それは他の変数に対するコントロールパラメータの役割を果たすようになる、という風に言える。

進化可能性について

このような、少数の部分が他をコントロールするという構図は、その少数の部分の変異が大きく影響するので、「進化可能性」をもたらす。少数分子が変異したプロト細胞の増殖速度はもとのとは異なってくるが、細胞のレベルの競合により、あまり増えられないプロト細胞は淘汰されるから、増殖能が高いものが残っていく。要するに少数分子が(良い方向に)変化したものは、その活性を維持し、さらには進化していく可能性がある。このメカニズムを利用して、この少数分子を保存する機構が進化してくるだろう。いったんこの少数分子が保持されるようになれば、今度はその分子に関係して作られる分子も残りやすくなるから、多くの反応がその少数分子に関係していくことになる。つまり、その少数分子に情報がコードされるようになる。そして今度は、その情報を利用してますます少数分子の保護機構が進化し、少数分子の保護と少数分子への情報コード化の共進化が起こる。かくして、今日的な意味での「遺伝情報」が実現し、代謝と遺伝情報の分離が完成する。

「細胞などの複製単位のなかでDNAが少数であるからこそ、自然選択が働き、遺伝情報が統計法則から守 られ、その細胞は進化可能性を持つ。」 (p.172) もし多数の情報分子が存在すれば、独立の変異が大数の法則によって均され、自然選択があまりかからなくなる。有害変異が集団に溜まってしまい、自己複製能は減衰するだろう。

一般的に生命の起源を考える場合、遺伝情報が先か複雑な代謝が先かという問題がある(本書で挙げられている例で言えば、M・アイゲン(Eigen)のハイパーサイクル理論が前者の代表であり、F・ダイソン(Dyson)のいいかげんな複製系(loose reproduction system) が後者の代表である)。金子氏によれば、前者の立場には安定性に関して問題があり、後者の立場では情報が明示できないという問題点があるが、本書で展開されている少数コントロールの原理はその両者の問題点を克服する解を提唱している。



【第7章 細胞分化と発生過程の安定性】

同一多様化理論」(Isologous Diversification Theory):同じ状態を持った細胞が、細胞内部の状態のダイナミクスによって、小さなゆらぎを増幅させ、異なった状態にいたり、その一方で細胞間の相互作用により互いの状態を安定化し、いくつかの離散的なタイプを形成する。

本章の主題は細胞分化であるが、この理論は細胞の分化に限られるものではない。一般に、その内部に非線形のダイナミクス(細胞の場合は触媒反応系)を持った複数のユニットがあれば、そのダイナミックスとユニット間の相互作用によって、各ユニットが同じ状態を維持するのが不安定になる(細胞の場合は、栄養の競合などによって)。その結果、各ユニットが分化して、異なる状態を持つようになる。

力学系の研究では、同一のユニットが互いに影響を及ぼし合うだけで、そこにカオスのように小さな差を増幅する運動があると、そのユニットは異なった位相で振動するグループに分かれる場合があることが、すでに明らかにされている。この現象をクラスター化と呼ぶ。



【第10章 表現型と遺伝子型の進化】

第7章で取り上げられた同一多様化理論が、本章では細胞ではなく個体に適用され、種分化の理論として展開される。さらに、長い時間スケールの増殖と淘汰、つまり進化に対して、この分化の意義を考える。

(1) 通常の種では、遺伝子型も表現型もある(比較的狭い)範囲で分布している。この種がある状況で強く相互作用するようになったとする(この原因は環境変動でも個体数密度の増加でも栄養の不足でもいい)。そこで第7章の機構で、表現型の分化が生じる。この段階では(ほぼ)同じ遺伝子型を持った個体が異なるタイプの表現型の2グループに分離している(この段階では各グループの子孫は親と同じグループになるわけではなく、表現型はあくまで相互作用によって分かれている。一方で、この段階ですでに2グループの表現型は十分離れており、互いの存在で互いを安定化するという「共生」関係にある)。

(2) 次に、遺伝子に変異が入っていき、淘汰がかかっていくとどうなるかを考える。遺伝子は表現型の変化の仕方を与えているので、それぞれのグループに応じて遺伝子がどう変化した方が増殖しやすいかというのは変わってくるであろう。例えば、グループAはある方向に、グループBは逆の方向に変異を起こした方が子孫を残しやすくなる。すると遺伝子にはランダムな変異が起こってもグループAその方向に、グループBは逆の方向に、ますますシフトしていくだろう。つまり、突然変異と淘汰を経て、表現型の違いが遺伝子型の差異に固定されていく。

(3) この結果、遺伝子型と表現型の1対1の対応関係が回復して、遺伝子型でも表現型でも異なる2種が分離する。

雑種不稔性

有性生殖を行う生物で、分離した種の定義は、2つのグループが交配してできる「雑種」が子孫を残せなくなる、というものである(これを雑種不稔性という)。2つのグループができ始めると、それぞれのグループは互いの作るニッチに特化して成長できる。この両者はその成長を行うように遺伝子型と表現型が適合している。これに対して中間のパラメータを持った個体はどちらの表現型をとってもこの両者に適わず、成熟条件に到達できなくなってしまう。つまり、この理論では交配のえり好みを仮定しなくても自然に 雑種は子孫を残せなくなる。ゆえに、この分化の過程を種分化と呼ぶことができるのである(なお、本章の理論は無性生殖にもあてはまる。このとき「種」と呼ばれるのは、表現型の状態が離散的に区別され、子孫はそれぞれの範囲で再帰的に生まれるような集団である)。

えり好みの進化

各グループは同じグループ内で交配していれば不稔でない子孫を作れるのだから、でたらめに交配しているのは明らかに無駄である。そこで、この段階で相手の表現型を見て交配するかどうかを決めるえり好みが進化してくるのは必然のなりゆきであろう。こうして、2種の分化はますます安定する。

異所的種分化について

しばしば種分化では場所が違うから分かれたという異所的種分化説明がなされる。確かに、異なる種が異なる場所に住んでいる例は非常に多いが、しかし場所が違うというのが種分化の「原因」かどうかはよくわからない。本章の理論では、2グループの空間的分離は、種分化の原因ではなく帰結である。子孫は親と同じ位置で生まれるから同じグループの個体は近くにいるケースが多いだろう。一方で交配は近くの個体とまず起こりやすいから、2グループの空間的分離に拍車がかかる。これは、環境条件が場所に対して全く一様な場合でも起こる空間的な分化である。

断続均衡進化説

本章の理論では、いったん相互作用が強くなって表現型の分化を起こす条件が満たされれば、そのあとは非常に速く種分化は進行する。相互作用の条件である環境や個体数の変化自体は連続的であって激変しなくても、それがある値になって条件を満たすと種分化は開始し急速に進む(あるパラメータになると分岐する力学系を想起されたい)。これは、S・J・グールド(Gould)とN・エルドリッジ(Eldredge)の断続均衡進化説の見方と一致する。

動的共固定化

本書で金子氏は、あるレベルでの違いが別のレベルでの違いに変換され、互いに強化され、固定される現象を動的共固定化(dynamic consolidation)と呼んでいる。これは本章の、表現型の分化が遺伝子の違いに固定されるケースだけでなく、第9章で説明された、細胞状態の分化の空間的パターンへの変換にも当てはまる。状態の分化が空間的なパターン(化学物質の濃度勾配)を作り、そのパターンがさらに状態の分化を強めるという正の相互フィードバックが働き、分化も形態形成も安定された。それによって各細胞は位置情報を持ち、安定したパターン形成が可能になった。また、第5章の遺伝機能を担う分子と代謝機能を担う分子の分離と固定化も動的共固定化のケースである。

最後に、表現型の可塑性と相互作用が遺伝的進化を促すという本章のような主張は、しばしばラマルク的な進化を導入しているようにみられがちであるが、本章で提案されている理論は、遺伝子型から表現型への1方向の流れを仮定した正統的ダーウィニズムの範囲内にある。



【第11章2節 ゆらぎによる応答】

一般に、生物は様々な環境に適応して生き延びる。細胞に関して言えば、外部の情報がシグナル伝達系を通して遺伝子発現系へと影響を与え、その発現パターンをスイッチさせてその環境で必要なタンパク質を作るようになる、と通常考えられている。しかし、バクテリアや微生物の実験において、生物はめったに起こらない環境や、これまで遭遇したことのないような環境条件に対してもそこそこ適応できることが見出されてきた。これほど多様な環境条件のすべてに対して、シグナル伝達系を用意しているとはなかなか想定しがたい(これは人工知能におけるフレーム問題と全く同じ問題だろう)。

細胞の化学変化は分子的なゆらぎから逃れられないが、遺伝子発現もその例外ではない。そこで、このノイズによって細胞の状態はアトラクターからずらされるが、それぞれのアトラクターごとに細胞の成長速度が異なるとすれば、成長速度の低いアトラクターからはノイズで容易に飛び出し、いったん成長速度の高いアトラクターに到達すれば、そのままそこに留まると予想される。言い換えれば、ノイズによって成長速度の大きいアトラクター、つまり環境に適応した遺伝子発現状態が選択される。シグナル伝達系がなくても適応が生じると予想されるのである(実際、本節で紹介されているように、大腸菌を用いた実験によって、細胞分裂以前に、つまり淘汰を経ることなく、適応したアトラクターの選択が起きることが確認されている)。

まとめると、まず細胞は、多くの環境に対しては成長とノイズ(いずれも細胞ならば常に成り立つ)によるアトラクター選択で対応し、そのうちしばしば出会う環境に対しては進化を通してその環境に即応できるようにシグナル伝達系を発展させてきた、と考えることができる。

「進化はすでにあるものをチューンアップさせるのには長けているけれど、そもそも生存できないものをよくしていくことはできない。」 (p.374)

これは本書の議論全体に当てはまる考え方だと思う。

2012年3月28日水曜日

【メモ】 津田一郎、『カオス的脳観 : 脳の新しいモデルをめざして』

「局所的な整合性と大局的な整合性の間に不整合が生じるときにフラストレートしたパターンが出現する。現在までの物理学で研究されてきた自己組織化過程は それを解消し論理階型を上げていく論理をその内部に持ってはいない。それに対して、生物のような情報系はそのような論理を自らの内部に構築しなければならないことが頻繁に起こる。」 (p.9)

「漸近的に3次元体積がゼロになり、2次元面上の運動より圧倒的に複雑になる運動は、2次元面がカントール集合のように重なった多様体の上の運動としてのみ理解される。多様体の厚み方向は無限個の面の断面が複雑なフラクタル構造を持つように埋め込まれ、0と1の間の次元を生み出す。」 (p.34)

「力学系のカオスは……圧縮できない無限列と圧縮可能な無限列との集合体である、ということができる。特に圧縮可能で周期的な無限列は、力学的に不安定であるので観測にはかからない。観測されるのは、圧縮できない非周期的な無限列と圧縮できる非周期的な無限列の有限部分である。」 (p.43)

「一般に2^n周期解と2^n+1周期解の近傍の様子は、見る尺度を変えてみれば等価であることがわかる。それぞれの周期解の近傍の様子を再帰的に決定する写像の関数が得られる。ちょうどカオスがでるところは、この繰り込みの操作の不動点に対応する。富田[和久]によれば、この操作はゲーデルの不完全性定理の証明の手続きとメタレベルで同型である。」 (p.44)

「アルゴリズム情報理論を使えば、不完全性、非決定性、ランダムネスはみな等価な概念としてとらえることができる。」 (p.47)

「知識体系に貯蔵されたなんらかのテンプレート(記憶の中に固定された知識やルール)との一致をみいだしたとき、我々は少なくとも問題の一部に秩序を発見したという。」 (p.52)

「初期状態の精度⊿Xと[力学系の]内的時間Tの間には、⊿XTAの不確定性関係が存在する。この不確定性関係が、初期条件と力学法則の従属関係を規定しているのである。このようにして、カオス力学系においては、初期条件を力学法則と独立には決めることができないのである。」 (p.57)

軌道に関する情報とは、二つの接近した軌道を分離して認識できるかどうかということである。このとき、
力学系の定常解が不動点や極限周期解(リミットサイクル)のような安定解である場合、情報は時間の進む方向に圧縮されていくことになる。観測者の間の情報の流れは位相空間の体積が縮む方向である。カオスのような軌道不安定性をもつものの場合、時間の進む方向と逆方向に情報は圧縮される。このことはカオスは情報を生み出すということの別の表現である。 (p.153)

「膨張宇宙の中では、時間の後に位置する世界にいる住人が常により分離された世界にいることになる。このことは、宇宙定数を我々は未来になればなるほど、細かい桁まで知るようになるということを意味する。これは観測技術の向上とは関係ないレベルの話である。むしろ宇宙定数自身の時間発展に関係する。観測技術が全く同じだとして、過去の宇宙に住んでいた人は、我々よりも粗っぽい数値しか認識できなかったであろう。これと関連して、現在、無理数と考えられている数は過去の宇宙においては、有理数であった可能性がある。もっと過去には整数であったろう。現在、計算不可能であると考えられている数も過去の宇宙では計算可能であったであろう。実数の存在は宇宙の膨張によって認識可能になったのだと考えることができるように思われる。すると、計算不可能性であるカオスは、遠い過去の宇宙では存在しなかったことになるのではないか。カオスは宇宙の進化と共に我々の前に現れたのではないだろうか。」 (pp.153-4)

「自己の確立は、反応拡散系で表現されるような自己組織過程を通じてなされるのではなく、情報的な自己言及過程を通じてなされる。」 (p.163)

「“解釈”ということが[脳の]研究プロセスにおいて、、物理学にみられるような第二義的な問題ではなく、まさに必須の第一義的な作業になるのである。この解釈の作業において、先行的理解になるのが[デビッド・]マーの言う計算論のレベルの考察である。つまり、“脳は何をしているのか”である。」 (p.194)

“動的脳観”の力学系の言葉による表現:
「自由度の大きな力学系がある。あるときは、ある部分的な自由度が活性化されそれが支配的になるが、またあるときは別の部分的な自由度が活性化されそれが支配的になる。このようなことが時空間の様々なスケールで起こりうる。そして、支配的になる自由度の再編成は、系(システム)の過去の全履歴に依存する。」 (p.202)

2012年2月12日日曜日

脳の研究における解釈学について

『ダイナミックな脳』での津田一郎氏の解釈学的行為の考え方について、ツイッターで、「相手が自分と類似した生命である場合とそうでない場合の違い(程度の差なのか、本質的な差なのか)についってもっと敷衍して欲しかった」と述べたが、再度読み込んでみて、彼が言わんとしていることをある程度汲み取れた気がするので、ここにまとめておきたい。

まず、「動物の知覚は解釈過程であらざるを得ない」ということについて。新しい感覚情報の知覚は必然的に何らかの先行的理解を要請する。これはハイエクが『感覚秩序』において展開している知覚論とそっくり重なる。すなわち、我々が何らかの対象を知覚するとき、我々が知覚しているのは自己同一的な実体としての対象そのものではなく、常にその対象が位置づけられる関係の構造(類似性、差異性)である。そして、こうした新しい情報を位置づけるための既存の文脈として先行的理解が要請される。そういう意味で、知覚とは常に解釈過程である。津田氏はハイデガーを引いて、次のように言う。すなわち、「何かを理解するために解釈が必要なのではなく、逆説的だが、解釈を行うために理解が必要なのである。」(p.20) ある神経細胞あるいは神経細胞集成体の果たす機能はシステム全体の文脈に依存してしか決定されないという津田氏の指摘は、この事態の生理学的レベルでの表現であろう。

ただ、津田氏の言う解釈学的行為はディルタイが定義したような解釈学とは異なる。ディルタイは自然科学的な方法に対抗して、生きていくものが従わなければならない歴史性を扱う人文社会科学の規範を与えようしたが、津田氏の言う解釈は、意味の共有といった次元の話ではなく、単にある状況へのコミットメントである。「解釈とは、コミットメントのことだ。なにかの状況にコミットする(参画する)ことそのものだといってよい。」(p.26) それは認知主体が環境に勝手に付与してかまわないし、またコミットメントの過程でそれが別段収束しなくてもいい。このコミットメントのためにこそ先行的理解が必要なのである。

さらに、この状況へのコミットメントの中にこそ、我々は何らかの意志、つまり生命の存在を見出すのではなかろうか。「意味の共有に向かって努力することが解釈学的行為ではない。むしろ、意志の存在の確認作業が解釈学的行為なのだ。」(p.29) しかしここに一つ問題が現れる。すなわち、知覚が物としての世界を扱う場合と、認知主体と類似した生命を扱う場合との間に、何らかの本質的な違いはあるのかという問題である。これが冒頭に掲げた問題である。この問題に関して津田氏は「不完全な情報」と「不定な情報」を区別している。不完全な情報は、解釈学的行為による補完によって完全な情報になり得る。つまりこの場合、知覚世界を客観的実在の世界と見なすことによって、解釈者の外に置かれている。静的な世界像を扱う限りこれで問題にならない。他方の不定な情報は、相手が生命であって、その行為を解釈しなければならないときに問題になる。つまり、この場合相手の行為に対する解釈に一意的な解は実在の側にそもそも存在しない(このような解釈はおそらくハイエクの言うような心的構造の類似性に基づいていて、したがって一人称的な内観を不可避にする。その意味で、解釈対象が生命である場合とそうでない場合の差は本質的であると言える。ただこれは明確な境界が存在するという意味ではない)。この事実を以て、郡司ペギオ幸夫氏らはあらゆる観測行為を「暗闇の中の跳躍」として徹底的な懐疑に付す。かくしてウィトゲンシュタインやクリプキの言う言語ゲームにすべての解釈が回収されてしまう。それに対して津田氏は、認知主体の外に客観的な世界が存在するという「先行的理解の第一原理」を、認知のための一種のア・プリオリな形式として設定する。「この第一原理に行為論のある種の本質を押し込めたつもりでいる」(p.22) 津田氏のこの態度は、世界の実在を内側からプラグマティックに肯定する私のプラグマティック実在論の態度に似ている。

蛇足になるが、物体の空間移動に対する連続性の概念およびその普遍性が、「先行的理解の第二原理」として保障される。「空間における物体の身体を使った変換に対して、視覚情報の中から不変な構造を抜き出す能力を脳は備えている。……この先行的理解が物理学の基礎になっているのかもしれないというポアンカレ氏の意見に賛同する。」(p.17) それ以外にも「自己中心座標と物体中心座標の間に変換が存在する」や「世界の境界は内部から見れば正曲率を持つ」といった、いくつかの基本先行的理解が要請される。これらの先行的理解は認知のための一種のア・プリオリな形式であるが、絶対的なものでは決してなく、あくまで幼児期の体験によって形成されるものと考えられる(それを引き起こすコードが遺伝子に組み込まれているということはあるだろうが)。

最後に、解釈の二重性について。これまで、「知覚は常に解釈過程であらざるを得ない」という事態を見てきた。これに加えて、脳研究の方法自体も解釈学を援用しなければらないと津田氏は主張する。つまり、研究対象に内在する解釈学的行為と、研究自体の方法としての解釈学的アプローチという二重性が主張される。しかし津田氏の著作を読む限り、この両者の関係(両者は独立なのか繋がっているのか)はあまり明らかではない。ただ、「全体、システムとして働くものものの機構を理解していく方法は解釈学的にならざるをえない」(p.54)、「相互作用する相手との関係の中でなければそのものの性質、表現、行為は決まらない……その関係の構築の裏打ちをしていると思われるのがカオスなのだ。関係的にダイナミックということだ。その関係性の境界は決定不能だという意味でもある。しかも、オットー・レスラー氏、松野孝一郎氏、郡司幸夫氏や池上高志氏に従えば、われわれはインターフェイスにおいてのみリアリティー、いや木村敏氏の言葉を使って、アクチュアリティーを感じることができる。これは、複雑なシステムの中でなにかをしなければならないもの全てが出会う必然だ。[原文改行]脳という複雑システムを研究する脳科学者は、こういう意味でまさに内在的な立場でしか研究を進めることができない。だから、脳研究は解釈学的にならざるをえないのだよ。」(p.54-55)という記述を見れば、解釈の二重性における両者は結びついているように見える。

2011年12月18日日曜日

ハイエクの自生的秩序概念と目的独立性について

ハイエクの自生的秩序概念に関して、読書会で「設計主義的な伝統が自生的に生じることはありえないのか」という質問があった。これは私自身もハイエクに初めて触れたときに抱いた疑問で、彼の自生的秩序概念を理解する上で非常に重要な疑問だと思うので、本稿を機会に詳しく説明してみたい。結論から言うと、ハイエクは秩序の起源としての自生性をやみくもに絶対視するのではなく、むしろ自生的起源に伴うことが期待される「目的独立性」(purpose-independency)を重視するのである。自生的に進化してきた暗黙的なルールであろうと、明文化され権力によって担保されたルールであろうと、ハイエクにとって重要なのは、そのルールが目的独立的な秩序を生み出すものであるかどうか、である。では、目的独立的な秩序を生み出すルールとは、具体的にどのようなルールであろうか。
ハイエクによれば、あるルールが目的独立的な秩序を生み出すルールであるためには以下の性格を備えていなければならない。すなわち、(1) 特定の集団を優遇しないという意味で「一般的」(general)であること、(2) 目に見える具体的な帰結を追求しないという意味で「抽象的」(abstract)であること、(3)「~せよ」と積極的なオブリゲーションを課すのではなく「~するなかれ」と特定の行為を禁止する形態をとるという意味で「消極的・否定的」(negative)であること。これらは相互に含意し合うので、一つの条件を満たしていながら他の条件を満たしていないルールを想定することはおそらくできない。むしろ、これらは目的独立的な秩序を生み出す諸ルールが共通して備えているべき異なる側面を描いたものと見なすのがいいだろう。他方の「目的依存的」(purpose-dependent)な秩序(コスモスと対比された意味でのオイコス)の諸ルールは特殊的・具体的・積極的なのであるが、この「オイコス図式」を、特定の目的を持たない単なる「場」であるはずの市場秩序=カタラクシーに適用し、これをある統一的なコード(これは同時に主観的なコードでしかありえない)の元に解釈しようとするのが、設計主義の錯誤に他ならない。
さて、ここで冒頭の質問に戻ろう。ハイエクにとって重要なのは起源としての自生的性格そのものよりはむしろ秩序の目的独立性であることが分かった今、我々は「自生的に生じた設計主義的な伝統」を忌憚なく「設計主義」の陣営の方に括ることができよう。というのも、(起源としての自生性ではなく)目的独立性こそがハイエクにとって設計主義/非設計主義を区別するメルクマールに他ならないからだ。しかし、ここでもう一つ別の疑問が提起されるかもしれない。つまり、「目的独立的なルールが、純粋な熟慮に基づいて設計されることは可能かどうか」という疑問である(土井 2010)。ハイエクが重視するのが専らルールの目的独立性であるならば――つまりルールの起源としての自生性が重要でないならば――そこから導かれる秩序はもはや「自生的秩序」である必要すらないのではないか、ということである。
この疑問に対してハイエクは「庭師」の比喩で答えるであろう。
農夫や庭師が植物を栽培する(cultivate)場合、彼は決定環境の一部しか知らずそれを管理(control)できない。そしておそらく、賢明な立法者や政治家も、社会的過程の力を管理するのではなく、むしろ養成する(cultivate)ことを試みるであろう。(Hayek 1967)
人間が植物の成長を促すためにできることと言えば、水を与えたり、日光を確保するなどの「適切な条件整備」しかない。この「適切な条件整備」は、過去の庭師たちの試行錯誤の末に編み出された経験的な知識によるものである。ハイエクが否定するのは設計主義的発想に基づく「ゼロからのルールの制定」であって、ルールの整備に人為的な要素が加わること自体を否定しているわけでは決してない。この点に関して、複雑系研究者スチュアート・カウフマンの記述が示唆的である。
もし凍結した秩序状態に系が深くはまりすぎてしまうと、柔軟性が足りなくなって、成長に必要な遺伝的活動の複雑な連鎖が調和的には働かなくなる。逆に、もし気体的なカオス状態に系が深くはまりすぎてしまうと、十分に秩序化することができないであろう。カオスの縁――秩序と意外性の妥協点――の近辺にあるネットワークが、複雑な諸活動を最も調和的に働かせることができるし、また進化する能力を最も兼ね備えているのである。(Kauffman 1995)
カウフマンの言うように進化の源泉がカオスの縁にあるのだとすると、我々はそのようなカオスの縁を社会の中に作為的に作り出すことによって進化を促すことさえできるかもしれない。最後に、橋本努の言葉で締めたい。
「庭師」の理性は、庭の手入れによって、そこから生じる未来の秩序を、後見的なものとして発見するのである。自生化主義の庭師は、庭の帰結をデザインするのではなく、予期しえない進化を含めて、植生の生成過程が自生的であることに喜びを見出している。彼は、「よりよい庭」を目指して介入するが、しかし何がよりよい庭であるのかについては、つねに問題化しながら、生成の過程に関わりつづける。(橋本 2005)
【参考文献】
  • 土井崇弘 (2010) 「ハイエクの自生的秩序論と進化論に関する予備的考察」『中京法学』44(3・4), pp.291-321.
  • 橋本努 (2005) 「ポスト近代社会の進化論:社会の発展は自生化主義で見よ」『理論戦線』no.80, 2005 Summer, pp.124-145.
  • Hayek, F.A. (1967) Studies in Philosophy, Politics and Economics, Chicago: University of Chicago Press.
  • Kauffman, Stuart (1995) At Home in the Universe: The Search for Laws of Self-Organization and Complexity, New York: Oxford University Press 〔米沢富美子監訳『自己組織化と進化の論理―宇宙を貫く複雑系の法則』日本経済新聞社,1999年〕.

2011年12月5日月曜日

【書評】 ハイエクのポリティカル・エコノミー : 秩序の社会経済学 (スティーヴ・フリートウッド)

原著:Steve Fleetwood, Hayek's Poltical Economy: The Socio-economics of Order

本書は「批判的実在論」(critical realism)という新しい見地からハイエク哲学の変遷を描くという、一風変わった研究書。経済学の領域に批判的実在論を適用した研究ではトニー・ローソンの『経済学と実在』(Economics and Reality)が有名だが、試みとしては本書の方が初めてらしい(邦訳はローソン本の方が先)。

フリートウッド氏は、ハイエクの著作を三つの時期に区分し、経済学、法学、政治学、心理学など社会・人文科学の諸分野にまたがる彼の社会経済学の発展を、それを根底で支える哲学の変遷から説明する。1936年までのハイエクをハイエクⅠ(本書ではほとんど論じられない)、1936年から1960年までのハイエクをハイエクⅡ、1960年以降のハイエクをハイエクⅢと呼ぶ。ハイエクⅠは「狭い技術的な経済学」に固執する、主流派と同じ実証主義者であった。しかし、すでに1936年の時点で、ハイエクは実証主義と決裂し、主流経済理論を放棄し始める。1936年に書かれた論文「経済学と知識」("Economics and Knowledge")が、ハイエクⅡの出発点である。1936年以降のこの時期、ハイエクは知識、均衡、人間主体についての思索を深めてゆくのであるが、フリーウッド氏によると、この時点でのハイエクには、社会構造、とりわけ振るまいのルール(rules of action)に関するなんらかの適切な把握が欠けていたために、知識の発見・伝達・貯蔵を促進する上での情報伝達システムの役割と効力とを、誇張せざるをえなかった。フリートウッド氏は、ハイエクⅡの社会構造についての認識の欠落を、この時期の彼の哲学的立場の帰結と見なす。すなわち、認識論としての主観的観念論(subjective idealism)と、存在論としての(拡張された)経験的実在論(empirical realism)を総合する立場である。フリートウッド氏はこの総合された立場を「超越論的観念論」(transcendental idealism)と呼び、科学的探究におけるその現れが実証主義であるとする。拡張された存在論というのは、通常の超越論的観念論者が感覚与件に与えられる事象にのみ存在論的ステータスを付与するのに加えて、ハイエクⅡは絶え間なく変化する事象よりも深層にある領域、つまり主体による想念(conception)の領域の実在性をも認める、ということである。彼はもはや「与件」を人間による同定から独立したものとみなすことができず、主体の主観的な想念と密接に結びついているものとして取り扱う。これがハイエクⅡと実証主義とを隔てる分断点である。

しかし、ハイエクⅡの認識論としての主観的観念論が、社会科学においては解釈学的基礎づけ主義(hermeneutic-foundationalism)として姿を現すが、この立場が、社会構造を含む適切な存在論を発展させるのを妨げた、とフリートウッド氏は診断する。その結果ハイエクⅡは、均衡は秩序についての妥当な考えではないと主張しておきながら、それに代わるものを提示することができなかったのである。

フリートウッド氏は言う(ここで言われているハイエクはハイエクⅡである):
Hayek's position in social science might usefully be interpreted as an overreaction to positivism, or more accurately, to scientism. Once Hayek recognises that for social scientists, the external world is not objectively given (pace classical empiricism and positivism), he does not stop at the correct view that it is mediated by, or dependent upon, agents' subjectively formed conceptions. He overreacts, making the hermeneutic-foundationalist, and as I shall show, subjective-idealist, presumption that the social world is determined by, or exhausted by, agents' conceptions. [原文改行] Hayek, in effect, empties his social ontology of real social material, leaving a residue of nothing more than conceptions, ideas, beliefs, attitudes, and so on, that is, ideal social material. (pp.28-29)
しかし1960年頃の(第二の)哲学的転換が、この状況を打開することを可能にした。ハイエクⅢは認識論としての主観的観念論と解釈学的基礎づけ主義を捨て去り、準超越論的実在論(quasi-transcendental realism)の哲学を採用する。彼は事象と想念とを実在と認める存在論をさらに拡張し、振るまいの社会的ルールという形態の深層構造を含めるようになる。経験的事象を生じさせる基底構造に迫ることによって、ハイエクⅢは「社会活動の変換モデル」(Transformational Model of Social Activity, TMSA)とフリートウッド氏が呼ぶものに近いものを展開し、市場過程あるいはカタラクシーについて彫琢を加え、最終的には、知識、無知、ルール、情報伝達システムという諸テーマの結合を可能にする洗練された社会理論を作り上げることができた。以上が、フリートウッド氏の大まかな筋書きである。

【感想、批評】

本書は非常に示唆に富んだ、面白い研究だった。1936年頃のハイエクの転換を実証主義からの離反と捉えるのはハイエク研究においてはありふれた見解だが、1960年前後の転換をどう考えるかについてはかなり論争があるし(時期区分の成否如何はここではあまり深く考えないことにする。1940年代の科学主義論文――"Scientism and the Study of Society"全三部構成、The Counter-Revolution of Science: Studies on the Abuse of Reason 所収――における個人主義的・解釈学的アプローチと、晩年の進化論的アプローチとの間にはあまりにも差があるので、この期間に何らかの転換があったのは間違いないだろう)、方法論的個人主義と文化的進化論の整合性の問題とも密接に繋がっているので、私も非常に興味がある。

しかし、残念ながら私は、(1960年頃の)この転換をハイエクの哲学的立場の変遷の帰結と見なすフリートウッド氏のテーゼには賛同できない。むしろ、ハイエクの哲学的立場は1936年頃以降一貫していて、転換したのは方法論だけなのではないか、というのが私の解釈である。というのも、科学主義論文で展開されている主観的観念論と解釈学的アプローチ(私はあえて「基礎づけ主義」という用語は使わない)は、ハイエクⅢの準超越論的実在論と整合的なのではないか、と思われるからである。私の見るところ、フリートウッド氏の科学主義論文の読みは(誤読とまでは言わないまでも)かなり偏っている。また、社会的質料(social material)の「実在性」をめぐるフリートウッド氏の言葉の使い方および議論の仕方に、非常に問題を感じる。例えば、フリートウッド氏は以下のように述べる:
Whilst it is, true that real social material such as social structures (unlike physical material) cannot exist independently of all perceptions of them, they nevertheless exist independently of any one person's particular perception of them. If, however, social material can exist independently of a particular agent's perception or identification of it, then for that agent it has an objective existence - and cannot therefore be ruled out of the field of inquiry. This runs counter to the subjective-idealist claim that social material is constituted in the cognitive activity of the transcendental subject. (pp.78)
あるいはこのようにも言われる:
The following discussion, couched as it is in terms of cognitive psychology, should not mislead us into thinking that social rules originate in the mind. Social rules of conduct are just that - social. Whilst they are, typically, internalised by agents via the (cognitive) learning process, they are not merely in and of the mind. They have an existence independent of any particular agent's identification of them. (pp.108)
さて、社会構造が認識から独立しているとは、一体どういう意味であろうか。そもそもそんな事態は可能なのだろうか。私には到底そのようには思えない。ある主体が、自分が従っている行為ルールに関して無意識であったり、自分を規定する社会構造に関して無知であることはありうるが、その社会的質料から影響を受けているのであれば、それを即ち(間接的な形であれ)「認識」していると言えないだろうか。(逆に影響を受けていないのであれば、それは社会的質料でもなんでもない)。例えば、暗黙的な行為ルールに従うことができるということは、人間社会の中に何らかのパターン・規則性を認識してそれを模倣することに成功している証拠であるし、社会構造の影響を受けることができるということは、その構造が問題になる(より広範の)「ゲーム」をすでに遂行的に理解している必要がある。したがって、私には「遂行」と「認識」の次元を区別する必然性が見出せない。主体がその社会的質料に関して無意識であれ無知であれ、実践の領域でその影響を受けているのであれば、それを(何らかの間接的な形であれ)「認識」しているのである。そういう意味で、社会構造などの社会的質料はすべて諸個人の主観的な想念に起源を持つし、想念と独立の実在性を持つことはありえないはずだ。科学主義論文でハイエクが言わんとしているのは、こういうことではないのか。ハイエクは言う:
The individuals are merely the foci in the network of relationships and it is the various attitudes of the individuals towards each other (or their ... attitudes towards physical objects) which form the current recognisable and familiar elements of the structure. (Hayek, "Scientism and the Study of Society" pp.284)
ハイエクⅡが想定する個人像は、複雑に相互作用しながら想念から彼らにとっての社会構造を創り上げていく、ネットワークの中の個人である。この「彼らにとっての」というのが重要である。ここに解釈学的なエレメントが入り込んでくる。というのも、我々(社会研究者)にこの社会構造が「見える」のは、我々も彼ら(研究対象)と同じゲームを遂行しているからに他ならない。批判的実在論の立場においても、振るまいの社会的ルールや社会構造などの社会的質料が研究の対象となりうるためには、我々は解釈学的アプローチを利用する他ないのである。フリートウッド氏が実在の深層領域に社会的質料を見出すことができたのも、暗黙裡に解釈学的アプローチを援用していたからに過ぎない。ローソン氏のハイエク解釈に対する批判の中で、Allen Oakley氏も同様の趣旨のことを述べている:
My alternative is to envisage critical realism and hermeneutics as consistent, compatible and complimentary methodological strategies required to maintain subjectivist ontology. Hermeneutics is to be envisaged as the means of inquiry that will enable economics to achieve the 'deep' analytical insights that are the hallmark of critical realism (Allen Oakley, The Revival of Modern Austrian Economics: A Critical Assessment of Its Subjectivist Origins, pp.16)
社会科学においては、認識論としての主観的観念論(およびそれに伴う主観主義的な存在論)は放棄不可能であるように思われるし、したがってまた解釈学的アプローチも放棄不可能のように思われる。ハイエクⅢもこれらの立場を放棄したとは私は考えない。ハイエクⅢへの転換はむしろ方法論的なもののみのように思われる。つまり、個人の想念を分析の中心に据える方法論から、振るまいの社会的ルールなどの社会的質料を分析の中心に据える方法論への転換である。この方法論的転換の理由は、フリートウッド氏も指摘するとおり、ハイエクが振るまいの社会的ルール、とりわけ暗黙的なルールの存在に気付いたからだろう。
In this case, the 'compositive method', which focuses upon creating social phenomena from the conceptions held by agents, becomes problematic. If agents do not discursively know and/or adequately conceptualise the structures that facilitate their action, then society cannot be composed out of these conceptions alone. (pp.84)
フリートウッド氏のこの解釈は全くその通りだと思う。ただ、ハイエクⅢはハイエクⅡの存在論・認識論を放棄する必要はない。なぜなら、社会構造が主体の主観的な想念に起源を持つことと、その構造をあたかも客観的な実在物であるかのよう扱うこととは、何ら矛盾しないからである。実際、主体にとってはその社会構造は客観的な実在物なのだから、社会研究者も同様のものとしてその概念を利用しても問題ないはずだし、個人の想念から出発するよりはその方が好都合な場合もある。暗黙的な行為ルールが研究の材料として入ってくるというのは、まさにそういう場合なのではないか。社会的質料が主体の想念に起源を持つということ、したがって主観主義的な存在論を受け容れた上で、社会的質料を(いわば括弧付きで)客観的な「実在」と呼ぶのであれば私は何ら異存はないし、ハイエクⅢの立場もおそらく同様のものだろう。本当は丹念な文献引用によってこれを示さなければならないのだろうが、残念ながら今の私にはその時間も能力もないので、以上の雑駁な議論でお許し願いたい。

最後に、フリートウッド氏がハイエクⅢに読み込む「社会活動の変換モデル」(Transformational Model of Social Activity, TMSA)について。私にはこれはハイエクの文化的進化論の単なる言い換えにしか思えないのだが、言い換えることに一体何のメリットがあるのだろうか。むしろ進化概念を用いた方が適応とか淘汰が言えるので、言い換えない方がいいのではないか、と思った。まだロイ・バスカーの著作を読んでいないので何とも言えないけど、本書を読む限りあまり魅力を感じることはできなかった。