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2014年1月10日金曜日

【書評】 James Ladyman & Don Ross / Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized

Ladyman, James, Don Ross, et al. 2007. Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized. Oxford: Oxford University Press.

科学哲学者James Ladymanと、経済学や脳科学周辺で学際的な研究を行っているDon Rossらによる、Ontic Structural Realism (OSR)のマニフェスト的著書。第1、5章にはDavid Spurett、第4章にはJohn Collierがそれぞれ執筆に加わっている。

OSRとは、平たく言えば、「個物は存在せず、存在するのは関係(構造)だけである」という考え方である。これは一見突飛に聞こえるかもしれないが、OSRを支持するのには穏当な動機がある。それは、自然科学の成果を真摯に受け止め、形而上学の議論に取り入れなければならない、というものである。Ladymanらによれば、現代物理学が明らかにする世界像を真摯に受け止めるならば、従来の、自己同一的な個物の存在を議論の前提とする形而上学は保持できない。実際、哲学者の多くが、細かい粒子同士が衝突したり、相互作用したりすることによってマクロな物体が構成されていると信じているが、Ladymanらはそうした世界観を"microbangings"の世界観、そしてそれに基づく哲学を"philosophy of A-level chemistry"と呼んで揶揄している。

本書の第1章は、英米で現在主流の分析形而上学に対する痛烈な批判から始まっている。曰く、分析形而上学は「人類の知へ貢献することは何もなく」、その実践者は「才能を浪費している」(p.vii)。というのも、分析形而上学の論者たちは、表向きは「自然主義」を標榜していようと、専ら科学的にはありえない前提の中で議論を進めており、その成否如何を経験ではなく直観に頼っているからである。そんな営みはもはや「客観的真理の虚心な追求と見なすことはできず、廃止するべきである」(p.vii)。以前から分析形而上学に対して不信の念を抱いていた私にとって、Ladymanらの批判は実に的確に思われ、痛快だった。

第1章で破壊的な作業が終わった後、第2章以降で建設の作業が始まる。第2章は実在論論争を主軸にしたスタンダードな科学哲学的議論。Bas van Fraassenの構成的経験論を取り上げる辺りは正直ちょっとダルいが、全体の論旨は中々面白い。第3章以降は、形而上学というよりはもはや物理学の哲学といった様相を呈している。個々の論点をすべて追うのは大変だが、議論の大筋は非常に明快である(ただし、執筆陣が異なるためか、第4章を除く)。また、関連文献が豊富なのも嬉しい。

以下、本書を読んだ上での気になった点をいくつかまとめておきたい。

【形而上学の位置付け】

本書は、形而上学を自然化する試みであるから、形而上学をどういう風に捉えるかが議論の前提として重要である。Ladymanらは、形而上学を既成の各科学の成果を綜合する営み、つまりそれぞれの科学からは区別された自律的な活動と見なしている。しかし、自然主義の精神に照らせば、むしろW. V. O. Quineのように哲学と科学を識別不可能なものと捉えた方がいいのではないか、と私には思われる。またLadymanらは、科学と非科学、および各科学分野の境界を画定するための基準として、研究費が下りそうか否か、というのを採用している(p.33)が、これはかなり説得力を欠く。この二点は次のように関連している。すなわち、Ladymanらは形而上学を、各科学が一旦成立してから遅れてやってくる世話役のように捉えている。しかし科学史を振り返ってみれば、fruitfulな科学はむしろ形而上学的思弁と協働しているのが分かる(この歴史解釈には異論があるかもしれないが、私の読みはそうである)。そして各科学の境界も、こうした思弁の中で徐々に出来上がっていく。

一旦科学の成果が出揃うまで待てという制約は窮屈過ぎるように思われるし、哲学と科学との間に余計な弁別を導入している。これは、自然主義の精神に適っているとは言い難いのではないか。これがLadyman & Rossに対する私の最も大きな不満点である。すなわち、既存の科学を固定化しようとするモメントが強すぎるのである。

【Real Patternsについて】

Ladyman & RossのOSRにおいて不可欠な役割を担うのが、Real Patterns (RP)の理論である。RPと言えばもともと、哲学者Daniel Dennettが同名の論文の中で、人間の志向状態——「信じる」や「欲する」といった——の存在論的身分を明らかにするために粗描した理論である。[1] ただし、Dennettの理論は人間の志向状態に留まらず、存在者一般に関する理論であって、志向状態はその一例に過ぎない。そういう意味で、RPは一つの存在論である。Dennettの論文では必ずしも明確ではないものの、RPによれば、存在する一切のものは「パターン」である。[2] パターンとはデータの規則性である。あるデータにパターンが存在するためには、そのデータが圧縮可能でなければならない。例えば、0と1が交互に32回繰り返すデータは、「0と1を32回交互に繰り返せ」と命じるプログラムに圧縮可能である。他方で、0と1の全くランダムな羅列は、圧縮不可能である。つまり、前者にはパターンがあるが後者にはパターンがないのである。さて、パターンには、実在するパターン単なるパターンとがある、というのがDennettやLadyman & Rossの共通の主張である。しかし、DennettとLadyman & Rossとでは、あるパターンが実在するパターン、つまりRPであるための必要十分条件が異なる。以下、この点を敷衍してみたい。

まずDennettの定式化を見てみよう。

[A] pattern exists in some data—is real—if there is a description of the data that is more efficient than the bit map, whether or not anyone can concoct it. [3]

なお、ここで言われている「ビットマップ」とは、圧縮率0のデータ記述である。さて、ここで重要なのは、何を以てあるデータの記述を「効率的」(efficient)と見なすか、である。パターンの実在性の要件が問題になっているのであるから、効率性をデータの「圧縮率」と解すことはできない。というのも、効率性が単に圧縮率の問題であるなら、ノイズの混入を犠牲にいくらでも圧縮率を上げることができ、パターンが存在するか否かが客観的な事実ではなく記述者の都合のみによって決まることになってしまうからである。それではRPの要件として不適格である。ではDennettの考えはどうであろうか。彼はパターンがリアルであるための必要条件として、「成功する予測をもたらす」ことを考えているようである。RP論文の中で彼は、もしあるパターンに賭けることによって儲けることができるならば、そのパターンはリアルである、と述べている。したがって、先の定式化におけるデータ記述の「効率性」を、「予測が上手くいくこと」と解釈することによって、彼のRPの二つの(一見異なるように見える)特徴付けを同一視することができる。

しかし、単に予測を促進するというだけではまだRPの条件として弱い。つまりこれではまだ十分条件とは言えない。というのも、Dennettは別の論文の中で次のような議論を展開しているからである。[4] すなわち、我々は温度計に対して志向姿勢(ある対象を、志向的な主体と見なすデータ記述の様式)を採ることが可能である(例えば「温度計は部屋が25度であることを望んでいる」、「温度計は今部屋が20度であると思っている」、などと解釈することによって)が、チェスを指す高性能コンピュータに対しては、我々は、予測力を削ぎ落とさないためには志向姿勢を採らざるを得ない。言い換えれば、我々はチェスの試合においては「志向姿勢」というデータ圧縮の様式を放棄することができないのである(さもないと相手の次の一手を読む能力を大幅に失ってしまう)。ここで言われている「圧縮の放棄不可能性」——あるいは「さらなる圧縮の不可能性」と読み換えても良い。もし予測力を削ぎ落とすことなくさらなる圧縮が可能であるならば、当該圧縮は放棄可能であるから、対偶を取って「圧縮が放棄不可能」⇒「さらなる圧縮が不可能」。逆に「さらなる圧縮が不可能」⇒「圧縮が放棄不可能」も明らかに成立する——は、単に「成功する予測をもたらす」よりも強い条件である。

問題は、「誰にとって放棄不可能」であるか、である。これはあるパターンがリアルであるための十分条件は何か、という問題である。この点についてDennettの記述は一貫していない、というのがLadyman & Rossの本書における指摘である(p.206)。というのも、DennettはRP論文の前半では「物理的に可能などんな計算機によっても放棄不可能」という条件を想定しておきながら、同じ論文の後半では「我々人間によって放棄不可能」であることを想定しているようだからである。ある箇所では、放棄不可能性を記述者のノイズ許容度にさえ相対化させてしまっている、とLadyman & Rossは指摘する(p.206)。これでは放棄不可能性の条件がないのと実質的に等しい。Ladyman & Rossに言わせれば、圧縮の放棄不可能性を、恣意的に制限された状況における、恣意的に選ばれた計算機(特定の人間集団のような)の推論力に相対化させてはならない(p.208)。彼らによれば、このような解釈は道具主義を招く。パターンがリアルであるための十分条件としてはむしろ、「物理的に可能などんな計算機によっても放棄不可能」とするべきである、と彼らは言う。Dennett自身の最初のRPの定式化における、"whether or not anyone can concoct it"というフレーズも、このように解釈しない限り首尾一貫しないだろう。というのも、この一節は「どんな人間や計算機も未だ発見していないRPが存在し得る」ということを含意しているからである。

以上の考察を踏まえて、Ladyman & Rossは独自の用語法に基づいた新たなRPの必要十分条件を次のように与えている(p.233)。

[A] pattern x → y is real iff
(i) it is projectible; and
(ii) it has a model that carries information about at least one pattern P in an encoding that has logical depth less than the bit-map encoding of P, and where P is not projectible by a physically possible device computing information about another real pattern of lower logical depth than x → y.

もし私の理解が正しければ、ここでパターンが写像「x → y」と見なされているのは、ある計算機によるパターンの予測計算によってパターンが再帰的に定義されているからである。xが観測されるパターンであり、yは、xをシミュレートする計算機が出力するxについての予測計算の結果である。y自身もまたパターンであり、これをさらに別の計算機がシミュレートして、それについての予測計算の結果zを出力する。実在性の関係は推移的なので、x→y、y→zがリアルであればx→zもまたリアルである。定義を構成する基底ケースは、xが何であるか言えず、ただ「指をさす」ことしかできない状況だそうである(p.226)。以上より、xが何であるか言えない「物自体」のケースから始まって、xを観測するy、yを観測するz、という風に次々とRPが構成されていく。x → yがprojectibleとは、平たく言えばxをシミュレートしなかった場合よりも高い確率でxを正しく予測できる、ということである。要するに、Dennettの論文にあった「成功する予測をもたらす」という条件をより精緻にしたものである。条件(ii)にあるlogical depthとは、Charles Bennettによって提案された複雑さの指標である。[5] この条件が述べているのは、「物理的に可能などんな計算機によっても、さらなる圧縮が不可能」という条件と実質的に同じことである。以上により、Ladyman & RossはRPの必要十分条件を与えている。

本書におけるLadyman & Rossの中心テーゼは、この世界に存在する一切は、上のように定式化されたRPである、というものである。パターンとはデータにおける関係の構造であるから、このパターン一元論こそがOSRに相当する。こう考えれば、上のようなややこしい定義を導入しなければならなかった必然性も見えてくる。すなわち、パターンは個物ではないので、それを観測する計算機から切り離して考えることができない。ゆえに、観測されるパターンと観測するパターンとの関係から、再帰的に「パターン」を定義するしかないのである。結局、存在する一切はパターンということで、パターン同士がお互いを計算し、お互いの振る舞いを予測しようとしている、という世界像が帰結する。Ladyman & Rossはこの世界像をRainforest Realismとも呼んでいる。これは、存在論はなるべく小さい方が良いという意味で「砂漠」を勧めていたQuineの比喩にあやかったものである。Ladyman & RossのOSRは、存在論的還元主義とアトミズムに立脚するQuineの砂漠とは対照的に、観測の粗さの様々なスケールでの多様な実在を認める熱帯雨林だというわけである。

さて、私は次の疑問を提起してみたい。すなわち、Ladyman & Rossの熱帯雨林は彼らが言うほど果たして緑豊かであろうか?上でみたように、Ladyman & Rossは圧縮の放棄不可能性を人間の計算力に相対化するDennettによるRPの定式化(以下、RP1)を「道具主義的」と見なして批判している。これは、あるパターンがリアルであるか否かが、(彼ら曰く)客観的な事実ではなく恣意的ないし偶然的な要素によって決まることになってしまうからである。しかし、結果として「物理的に可能などんな計算機によっても圧縮が放棄不可能」であることを要求するLadyman & Rossの定式化(以下、RP2)の方が道具主義的であるように私には思われる。というのは、RP2の必要十分条件は厳し過ぎるからである。彼らの基準をクリアするパターンに保証されるリアルさの度合いは確かに強いけれど、基準から漏れるものがあまりにも多いのではないか。例えば、RP1では、心に関する消去主義はアプリオリに偽である。なぜなら、志向状態についての語りは我々人間にとって放棄不可能だからである。しかし、RP2に従えば、消去主義は経験的に検証するべき主張である(p.207)。言い換えれば、将来的に志向状態についての語りよりも効率的な——projectibleでかつlogical depthが低い——圧縮が発見されれば(神経生理学的な記述であれ何であれ)、志向状態についての語りは放棄可能になる、というわけである。これが道具主義でなければ一体何であろうか。ゆえに、OSRは実在論である以上、DennettのRP1の方がその定式化に適しているように思われる。RP2に基づくLadyman & RossのOSRは、熱帯雨林実在論と言いつつも、その内実、基礎物理学が明らかにするパターン以外のパターンに正当な実在性を付与していないのではないか(彼ら自身によるその否認にも関わらず。本書pp.242-243参照)。結局、彼らの実在論は熱帯雨林というよりは精々、永久凍土なのではないか、という疑念を持たざるを得ない。

【最後に】

以上、私はLadyman & Rossの立場を散々批判的に扱ってきたけれど、裏を返せば、それだけ批判する価値があるということである。私は、彼らのある種ラディカルとも言える自然主義の精神には強く共鳴するし、OSRについても、まだまだ曖昧な点や難点もあるとは言え、非常に興味深く魅力的な考え方だと思っている。だからこそLadyman & Rossとの差別化を図ることによって自分の考えを明確化し、理解を深めることができる。この分野の今後の動向にも是非注目していきたい。[6]



[1] Dennett, Daniel. 1991. "Real Patterns." The Journal of Philosophy 88 (1): pp.27-51.

[2] Rossが、"it's real patterns all the way down"というスローガンを私信でDennettに伝えてみたところ、熱の込もった賛同を得たという。本書p.228参照。

[3] Dennett, op. cit., p.34.

[4] Dennett, Daniel. 1971. "Intentional Systems." The Journal of Philosophy 68 (4): pp.87-106.

[5] Bennett, Charles. 1990. "How to Define Complexity in Physics, and Why." in Wojciech Zurek ed., Complexity, Entropy and the Physics of Information, pp. 137-48. Boulder: Westview.

[6] 早速、今年の3月にOSR提唱者の一人、Steven Frenchの新著The Structure of the WorldがOxford University Pressから出版されるようである。

2012年9月2日日曜日

【書評】 Arthur Fine / The Shaky Game: Einstein, Realism, and the Quantum Theory

Fine, Arthur. 1996. The Shaky Game: Einstein, Realism, and the Quantum Theory (2nd ed.). Chicago : University of Chicago Press.

本書の前半では、アインシュタインとシュレーディンガーの間で交わされた書簡やアインシュタインの未発表の草稿をもとに、通説とは大きく異なる、量子力学に対するアインシュタインの考え方が描かれている。後半では、アーサー・ファイン自身のNOA(自然な存在論的態度)という考え方が提示されている。NOAの適用範囲は量子力学に限られるものではないが、最後の第九章においてファインは、量子論にとって実在論が持ちうる意味についてNOAの立場から論じており、二つの(一応)独立したテーマを上手く繋げている。以下、各章の内容を簡単に紹介し、最後に気になった点を述べたい。

【第二章 若きアインシュタインと老いたるアインシュタイン】

第一章は序論に相当する短い章なので割愛する。第二章では、アインシュタインが終生量子力学に対して批判的な立場をとり続けたのは、彼が年老いていたために、量子力学の新しくラディカルな考え方をうまく把握することができなかったからだ、という通説に反駁する。ファインは、多くの科学者や科学史家によって仄めかされてきたこの通説を転倒させ、位置や運動量といった古典的な概念に拘泥するボーアら主流派の方が実は保守的だったのだと論じる。

In the end Einstein was more radical in his thinking than were the defenders of the orthodox view of quantum theory, for Einstein was convinced that the concepts of classical physics [momentum and position] will have to be replaced and not merely segregated in the manner of Bohr's complementarity. (p.24)

件の流言は、巣立とうとする量子力学を、20世紀の最も著名な科学者による鋭い批判から守るための神話だったと考えられる。アインシュタインは、量子力学を本質的に統計的なもの、つまり物理学のすべての基礎を提供する根本理論にはなりえないものとして見ていたが、それは、量子論の代わりに、一般相対論の枠組み(時空多様体とそれに沿った解析的方法)によって、量子論を統計的な近似として生じさせるような、全く新しい概念と理論的基礎を求めていたからである。

【第三章 アインシュタインの量子論批判 : EPRの由来と意義】

第三章では有名なEPRパラドックスが取り上げられる。1935年6月19日にアインシュタインがシュレーディンガー宛てに送った手紙から、このEPR論文は、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの三人による議論の末、ポドルスキーが一人で書き上げ、アインシュタインがその最終原稿を見る前に出版され、またアインシュタインが本質的と考えていた論点がポドルスキーの形式化(formalism)に埋もれてしまった、ということが明らかにされる。アインシュタインが示したかった論点はあくまで、彼が分離原理(Trennungsprinzip)と呼ぶ近接作用の原理が量子論の記述の完全性とは両立しえないということであって、いわゆる「隠れた変数」をめぐる議論や、位置と運動量の同時測定とすら関係がない。シュレーディンガーへの手紙の中でアインシュタインが提示している思考実験をファインは以下のようにまとめている。

全運動量の保存則を通して相関を保っている二つの粒子A、Bから成る系を考える。AとBが空間的に遠く離れた状態で、Aのある方向への運動量を測定する。Aについての測定結果と保存則を通してBの運動量を推論することができる。分離原理を仮定するならば、Bの運動量はAを測定する時点で成り立っていた(でないとAの測定によってBの運動量を作り出したことになってしまう)。さて、量子論の状態関数がA測定時におけるBの運動量について与える確率は1ではない。したがって、分離原理と量子論の記述の完全性は両立しえない。

つまりアインシュタインは、二つの両立不可能な変数ではなく、一つの変数の測定から得られる推論によって、コペンハーゲン解釈の主要な構成要素をなすボーアとハイゼンベルクの「擾乱」(disturbance)のドクトリンと、状態関数の完全性が両立しえない、ということを示したのである。EPR論文ではこの論点が埋もれてしまったとはいえ、ボーアはこの論文を受けて擾乱の学説を事実上撤回している(物理的な擾乱から一種の「意味論的」擾乱へとスイッチしている)。

また、最近では分離原理が量子論そのものやいくつかの実験結果と整合しないというベルらによる研究があるが、仮に分離原理を放棄しないといけないほどベルの議論が強力であったとしても(ファインはそれを否定する)、分離原理と量子論の完全性が両方成り立たないということも考えられるので、量子論の完全性が示されたことにはならない。

【第四章 アインシュタインの統計的解釈とは何か?あるいは、アインシュタインがためにベル(鐘)の定理は鳴るのか?】

第四章では、量子力学に対するアインシュタインの統計的解釈が取り上げられる。アインシュタインの統計的解釈を「プリズム・モデル」として解釈することによってファインは、ベルの不等式がアインシュタインの解釈を論駁したという通説を「希望的観測」として批判する。ファインは局所性の概念を「分解可能性(条件付き確率独立性)」、「ベル局所性」、「アインシュタイン局所性」という三つの定式化に整理し、アインシュタイン局所性は必ずしもベル局所性を含意せず、またベル局所性は必ずしも分解可能性を含意しないことを論じる。

まず、ベル局所性と分解可能性について。

In general, factorizability [conditional stochastic independence] has been offered as a mathematical expression of Bell-locality. The prism models demonstrate that is not correct. In particular, the failure of factorizability need not imply the failure of Bell-locality - as the prism models show. The results of Bell's theorem depend on factorizability. It follows that the Bell theorem does not imply the failure of Bell-locality. (p.60)

そしてアインシュタイン局所性とベル局所性について。

It [Einstein's formulation of locality] differs from Bell's just over what it is that is not supposed to be influenced at a distance. For Bell it is the outcomes of the measurements of certain quantum observables (like spin). For Einstein it is the "real, physical states." In his various writings Einstein says even less about the nature of these postulated real states than he says about his ensemble interpretation, and for good reason. He was urging others, and struggling himself, to build a new theory that would "discover" these states, i.e. invent them. Whatever these states are, they would indeed (in Einstein's conception, at least) determine the real physical variables and, most likely, the outcomes of measurement of these. But Einstein is very clear that, in his opinion, the quantum mechanical variables (the "observables") are the wrong ones. They are not the real physical variables, and that is why it is hopeless to try to complete quantum theory from within. Since these quantum variables are not real (i.e., do not correspond to the real properties of the object), there is no special reason to worry over nonlocal influences on measurement outcomes for them" (p.61)

【第五章 シュレディンガーの猫とアインシュタインの猫 : パラドックスの誕生】 

第五章ではシュレーディンガーの有名な猫の思考実験が取り上げられる。ここでのファインの論点は、観測問題と関連付けられることの多いシュレーディンガーの猫を、EPRの延長線上の、量子論の完全性をめぐる思考実験として解釈し直すことである。つまりシュレーディンガーの猫は、分離原理や局所性の仮定なしに量子論の不完全性を議論するための装置だということである。もともとシュレーディンガーは、波動関数を実在そのものの記述と考えていた(アインシュタインはこれを「シュレーディンガー解釈」と呼んでいる)が、シュレーディンガー自身もこのような立場に伴う困難に気づいていて、最終的には(Die Naturwissenscaftenに掲載された1935年の論文で)確率分布を実在の完全な記述と考える自身の元々の解釈を、猫の思考実験によって論駁し、アインシュタインの立場と軌を一にするようになっている。このことを象徴的に示す例としてファインは、1950年にアインシュタインがシュレーディンガーに宛てた手紙の中で、彼が犯してしまったちょっとした筆の誤りを紹介している。もともとはアインシュタインが自身の思考実験の中で利用したはずの「火薬」と、シュレーディンガーの猫の思考実験に登場する「青酸ガス」とを混同して書いてしまっているのである(つまり二人の思考実験は基本的に同じことを示そうとしていたのだ、という意味)。

ただ、町田茂による邦訳では、「微笑ましい書き間違い」とでも訳すべき"one delightful slip"が、「楽しそうな1枚」と訳されていて(129頁)、せっかくのオチが全く通じないようになってしまっている。町田訳にはこの他にも誤訳が多く、また全体的にも日本語が不自然なので、読む場合はなるべく原著と突き合わせて読むことをお勧めしたい。

【第六章 アインシュタインの実在論】 

EPR、アインシュタインの統計的解釈、そしてシュレーディンガーの猫はすべて量子論の「完全性」をめぐるテーマであり、「実在」の問題と密接に関わっている。第六章では実在論が明示的に扱われる。この章はまた、ファインのNOAの議論へと接続するための役割を果たす。ファインによれば、アインシュタインの実在論にとって枢要なのは観察者独立性と因果性(決定論)であり、二次的だが重要なのは空間・時間の枠組みと、それに伴う分離原理と一元論である(この点に関連して、アインシュタインがスピノザを敬愛していたという事実は興味深い)。

アインシュタインの実在論のもう一つの特徴は、通常「実在論」の名で呼ばれているオーソドックスな考え方とは異なり、真理対応説的な考え方をとらない点にある。これは、次のような記述からも明らかだろう。

The real is not given to us, but put to us (by way of a riddle) ... This obviously means: There is a conceptual model [Konstruktion] for the comprehension of the interpersonal, whose authority lies solely in its verification [Bewdhrung]. This conceptual model refers precisely to the "real" (by definition), and every further question concerning the "nature of the real" appears empty. (P.A. Schlipp, Albert Einstein: Philosopher-Scientist p.680)
It is basic for physics that one assumes a real world existing independently from any act of perception. But this we do not know. We take it only as a programme in our scientific endeavors. This programme is, of course, prescientific and our ordinary language is already based on it. (Albert Einstein, Letter to M. Laserna, Jan. 8, 1955)

ファインはアインシュタインの強調する「検証」の考え方と、ファン・フラーセンの「経験的十全性」(empirical adequacy)との親近性を指摘しているが、私はこれはミスリーディングだと思う。またファインはアインシュタインの実在論を「動機的実在論」(motivational realism)、つまり個人の科学的探究を支える心理上のスタンスとして解釈しているが、これははっきり言ってカリカチュアだろう。少なくともアインシュタイン自身がこのような解釈を聞いて賛同するとはとても思えない。これらの点については後述する。

【第七章 自然な存在論的態度/第八章 そして反実在論でもなく】

これら二章はファインの有名なNOA論文である。第七章の冒頭では実在論の「死」が宣言されるが、ここでファインの言う「実在論」は、真理対応説に基づく実在論である。他方でファインは反実在論を受け入れるかというと、そうではない。ファインによれば、反実在論も、科学や合理性や真理について何らかの統一的な「解釈」を施そうとする点において、実在論と共犯関係にある。ファインは、これら二つの相反する立場に共通する核として、我々の日常的・常識的な感覚とそれに基づく推論を挙げ、また科学と我々の日常知との連続性を強調する。ファインはこの「核」のことをcore positionと呼び、これに余計な添加物を付加しない、core positionそれ自身のみからなる立場としてNOA(Natural Ontological Attitude、自然な存在論的態度)を称揚する。第七章では主に実在論のプログラムが失敗を免れ得ない理由を論じ、第八章では様々な反実在論的立場(道具主義、パトナムの内部実在論、ローティの認識論的行動主義、ファン・フラーセンの構成的経験論など)を取り上げ、それらの問題を論じる。

【第九章 科学的実在論は量子物理学と両立できるか?】 

第九章ではNOAの立場から量子論と実在論の問題をまとめている。本書の結論に相当する章で、特に新しい内容はない。また、第二版に追加された「あとがき」についても割愛する。



【所感】

ファインの研究は、アインシュタイン理解の面においても、NOAの面においても、とにかく素晴らしいと思う。本書の前半を占めるアインシュタインの概念的伝記(conceptual biography)には説得力があり、また非常に魅力的なアインシュタイン像を提示している。NOAも、重箱の隅を突くような不毛な議論に陥りやすい現在の分析哲学に対する貴重な毒抜きの役割を果たすだろう。以下、本書で気になったところを二点取り上げたい。これら二点は密接に結びついている。

「動機的実在論」について

まず一つ目は、ファインがアインシュタインの実在論を「動機的実在論」として解釈している点である。ファインの魅力的なアインシュタイン像の中で、唯一この点だけがカリカチュア臭いのだ。ファインはアインシュタインが、理論と外界との「対応」ではなく、理論の経験的検証を重視していることを以て、ファン・フラーセンの「経験的十全性」の考え方との類似性を指摘しているが(pp.107-108)、アインシュタインの引用を見る限り、彼が言わんとしているのはむしろ、実在論への信仰自体が経験的十全性の範疇内にある、ということなのではないか。上で引用したLasernaへの手紙にあるように、アインシュタインにとって実在論は「前科学的」で、「我々の日常言語にすでに埋め込まれている」。ファインはおそらく、実在論が「非合理的」であることを以て、アインシュタインの実在論を個人の情緒の次元に還元しようとしているのであろう。ファインの次の引用はこれを如実に語っている。

In support of realism there seem to be only those "reasons of the heart" which, as Pascal says, reason does not know. Indeed, I have long felt that belief in realism involves a profound leap of faith, not at all dissimilar from the faith that animates deep religious convictions. I would welcome engagement with realists on this understanding, just as I enjoy conversation on a similar basis with my religious friends. The dialogue will proceed more fruitfully, I think, when the realists finally stop pretending to a rational support for their faith, which they do not have. Then we can all enjoy their intricate and sometimes beautiful philosophical constructions (of, e.g., knowledge, or reference, etc.) even though to us, the nonbelievers, they may seem only wonder-full castles in the air. (p.116n)

かなり狭い意味で「合理的」という言葉を理解するならば、実在論が一種の非合理的な信仰に基づくという考えには全く異論がない。しかし、非合理的=個人的とは限らない。ファイン自身も、"I too have regret for that lost paradise [correspondence to the external world], and too often slip into the realist fantasy"と述べているように(p.134)、またファインが引いているマッハの『感覚の分析』の一節にもあるように(pp.134-135)、実在への信仰は、我々人類にとってあまりにも「自然」な感覚なのではないか。アインシュタインが次のように語るとき、彼が言わんとしていているもまさにこういうことだと思う。

If you want to find out anything from the theoretical physicists about the methods they use, I advise you to stick closely to one principle: don't listen to their words, fix your attention on their deeds. To him who is a discoverer in this field, the products of his imagination appear so necessary and natural that he regards them, and would like to have them regarded by others, not as creations of thought but as given realities. ("On the Method of Theoretical Physics", in Ideas and Opinions pp.270-276)

これが、次の気になった点に繋がる。

NOAは本当に「自然」なのか

「自然な存在論的態度」を重視するという考え方には満腔の賛意を表したい。しかし、何が「自然」で何が「自然でない」のか、決して自明とは言えない。つまり、「自然な存在論的態度」を称揚する以上、「自然」と「不自然」の間に何らかの境界線を設ける必要があるが、この境界線をどこに引くべきかという問題が依然として残る。ファインはこの問題に関して少々無頓着であるように思う。NOAについて、ファインは次のように述べている。

All that NOA insists is that one's ontological attitude towards monopoles, and everything else that might be collected in the scientific zoo (whether observable or not), be governed by the very same standards of evidence and inference that are employed by science itself. (...) NOA tries to let science speak for itself, and it trusts in our native ability to get the message without having to rely on metaphysical or epistemological hearing aids. (p.150)

よろしい。しかし、どこまでが「科学」でどこからが「科学でない」のか。

On NOA's view science, as open, has no settled lines of demarcation. What counts as in or out is a judgment call depending on the community, place, time, and interests. These judgments are bound to change with varying circumstances, and they do. (p.179n)

ごもっともである。しかし、これを真剣に受け止めるならば、第九章で量子力学に対する様々な「解釈」の試み(ボーム力学、stochastic collapse理論、多世界解釈など)を批判する箇所(p.170)は、果たして妥当と言えるのかどうか疑問である。というのは、これら様々な解釈を試みている当の研究者たちは、自分は「科学」をやっているつもりで探究しているだろうから。「科学は開かれている」とする上の引用に反して、ファインの批判は、非合理的な「実在」への信仰と、合理的な科学の営みとを截然と切り分けることによって成立しているように思われる。

私の考え方とファインの考え方の根本的な違いは、core positionの領域内に、科学的探究の理想的極限としてのパース的な真理概念が含まれると考えるか否か、という点にあるように思う。ファインはこれを(アインシュタインの実在論の文脈で)否定している。

I should point out here that just as the "realist" idea of science making successively better approximations to reality is not part of Einstein's realism, neither is the pragmatist (especially Peircean) idea of defining reality (and truth) by reference to the ideal limit in which continued inquiry would (supposedly) finally result. (p.97)

しかし私は、アインシュタインの実在の考え方はむしろパースに近いのではないかと思う(今の私にこれを論証する能力はないが)。実在とは、我々がつねにすでに服してしまっている、前言語的で透明な「何か」であるはずだ。それは、真理対応説の論者たちのように言語化してしまったら、その時点で「我々」の側に回収され、本当の「実在」でなくなってしまうが、それでもなお我々の概念の背面にへばりついているものなのではないか。

真理対応説の論者たちのように、端的に「概念と外界との対応」を宣言するつもりはない。それは哲学的にあまりにも素朴過ぎる。ただ、実在への信仰は我々人類にとって放棄不可能なほど「自然」な態度なのではないか、と問うことには意味があるだろう。

2011年12月5日月曜日

【書評】 ハイエクのポリティカル・エコノミー : 秩序の社会経済学 (スティーヴ・フリートウッド)

原著:Steve Fleetwood, Hayek's Poltical Economy: The Socio-economics of Order

本書は「批判的実在論」(critical realism)という新しい見地からハイエク哲学の変遷を描くという、一風変わった研究書。経済学の領域に批判的実在論を適用した研究ではトニー・ローソンの『経済学と実在』(Economics and Reality)が有名だが、試みとしては本書の方が初めてらしい(邦訳はローソン本の方が先)。

フリートウッド氏は、ハイエクの著作を三つの時期に区分し、経済学、法学、政治学、心理学など社会・人文科学の諸分野にまたがる彼の社会経済学の発展を、それを根底で支える哲学の変遷から説明する。1936年までのハイエクをハイエクⅠ(本書ではほとんど論じられない)、1936年から1960年までのハイエクをハイエクⅡ、1960年以降のハイエクをハイエクⅢと呼ぶ。ハイエクⅠは「狭い技術的な経済学」に固執する、主流派と同じ実証主義者であった。しかし、すでに1936年の時点で、ハイエクは実証主義と決裂し、主流経済理論を放棄し始める。1936年に書かれた論文「経済学と知識」("Economics and Knowledge")が、ハイエクⅡの出発点である。1936年以降のこの時期、ハイエクは知識、均衡、人間主体についての思索を深めてゆくのであるが、フリーウッド氏によると、この時点でのハイエクには、社会構造、とりわけ振るまいのルール(rules of action)に関するなんらかの適切な把握が欠けていたために、知識の発見・伝達・貯蔵を促進する上での情報伝達システムの役割と効力とを、誇張せざるをえなかった。フリートウッド氏は、ハイエクⅡの社会構造についての認識の欠落を、この時期の彼の哲学的立場の帰結と見なす。すなわち、認識論としての主観的観念論(subjective idealism)と、存在論としての(拡張された)経験的実在論(empirical realism)を総合する立場である。フリートウッド氏はこの総合された立場を「超越論的観念論」(transcendental idealism)と呼び、科学的探究におけるその現れが実証主義であるとする。拡張された存在論というのは、通常の超越論的観念論者が感覚与件に与えられる事象にのみ存在論的ステータスを付与するのに加えて、ハイエクⅡは絶え間なく変化する事象よりも深層にある領域、つまり主体による想念(conception)の領域の実在性をも認める、ということである。彼はもはや「与件」を人間による同定から独立したものとみなすことができず、主体の主観的な想念と密接に結びついているものとして取り扱う。これがハイエクⅡと実証主義とを隔てる分断点である。

しかし、ハイエクⅡの認識論としての主観的観念論が、社会科学においては解釈学的基礎づけ主義(hermeneutic-foundationalism)として姿を現すが、この立場が、社会構造を含む適切な存在論を発展させるのを妨げた、とフリートウッド氏は診断する。その結果ハイエクⅡは、均衡は秩序についての妥当な考えではないと主張しておきながら、それに代わるものを提示することができなかったのである。

フリートウッド氏は言う(ここで言われているハイエクはハイエクⅡである):
Hayek's position in social science might usefully be interpreted as an overreaction to positivism, or more accurately, to scientism. Once Hayek recognises that for social scientists, the external world is not objectively given (pace classical empiricism and positivism), he does not stop at the correct view that it is mediated by, or dependent upon, agents' subjectively formed conceptions. He overreacts, making the hermeneutic-foundationalist, and as I shall show, subjective-idealist, presumption that the social world is determined by, or exhausted by, agents' conceptions. [原文改行] Hayek, in effect, empties his social ontology of real social material, leaving a residue of nothing more than conceptions, ideas, beliefs, attitudes, and so on, that is, ideal social material. (pp.28-29)
しかし1960年頃の(第二の)哲学的転換が、この状況を打開することを可能にした。ハイエクⅢは認識論としての主観的観念論と解釈学的基礎づけ主義を捨て去り、準超越論的実在論(quasi-transcendental realism)の哲学を採用する。彼は事象と想念とを実在と認める存在論をさらに拡張し、振るまいの社会的ルールという形態の深層構造を含めるようになる。経験的事象を生じさせる基底構造に迫ることによって、ハイエクⅢは「社会活動の変換モデル」(Transformational Model of Social Activity, TMSA)とフリートウッド氏が呼ぶものに近いものを展開し、市場過程あるいはカタラクシーについて彫琢を加え、最終的には、知識、無知、ルール、情報伝達システムという諸テーマの結合を可能にする洗練された社会理論を作り上げることができた。以上が、フリートウッド氏の大まかな筋書きである。

【感想、批評】

本書は非常に示唆に富んだ、面白い研究だった。1936年頃のハイエクの転換を実証主義からの離反と捉えるのはハイエク研究においてはありふれた見解だが、1960年前後の転換をどう考えるかについてはかなり論争があるし(時期区分の成否如何はここではあまり深く考えないことにする。1940年代の科学主義論文――"Scientism and the Study of Society"全三部構成、The Counter-Revolution of Science: Studies on the Abuse of Reason 所収――における個人主義的・解釈学的アプローチと、晩年の進化論的アプローチとの間にはあまりにも差があるので、この期間に何らかの転換があったのは間違いないだろう)、方法論的個人主義と文化的進化論の整合性の問題とも密接に繋がっているので、私も非常に興味がある。

しかし、残念ながら私は、(1960年頃の)この転換をハイエクの哲学的立場の変遷の帰結と見なすフリートウッド氏のテーゼには賛同できない。むしろ、ハイエクの哲学的立場は1936年頃以降一貫していて、転換したのは方法論だけなのではないか、というのが私の解釈である。というのも、科学主義論文で展開されている主観的観念論と解釈学的アプローチ(私はあえて「基礎づけ主義」という用語は使わない)は、ハイエクⅢの準超越論的実在論と整合的なのではないか、と思われるからである。私の見るところ、フリートウッド氏の科学主義論文の読みは(誤読とまでは言わないまでも)かなり偏っている。また、社会的質料(social material)の「実在性」をめぐるフリートウッド氏の言葉の使い方および議論の仕方に、非常に問題を感じる。例えば、フリートウッド氏は以下のように述べる:
Whilst it is, true that real social material such as social structures (unlike physical material) cannot exist independently of all perceptions of them, they nevertheless exist independently of any one person's particular perception of them. If, however, social material can exist independently of a particular agent's perception or identification of it, then for that agent it has an objective existence - and cannot therefore be ruled out of the field of inquiry. This runs counter to the subjective-idealist claim that social material is constituted in the cognitive activity of the transcendental subject. (pp.78)
あるいはこのようにも言われる:
The following discussion, couched as it is in terms of cognitive psychology, should not mislead us into thinking that social rules originate in the mind. Social rules of conduct are just that - social. Whilst they are, typically, internalised by agents via the (cognitive) learning process, they are not merely in and of the mind. They have an existence independent of any particular agent's identification of them. (pp.108)
さて、社会構造が認識から独立しているとは、一体どういう意味であろうか。そもそもそんな事態は可能なのだろうか。私には到底そのようには思えない。ある主体が、自分が従っている行為ルールに関して無意識であったり、自分を規定する社会構造に関して無知であることはありうるが、その社会的質料から影響を受けているのであれば、それを即ち(間接的な形であれ)「認識」していると言えないだろうか。(逆に影響を受けていないのであれば、それは社会的質料でもなんでもない)。例えば、暗黙的な行為ルールに従うことができるということは、人間社会の中に何らかのパターン・規則性を認識してそれを模倣することに成功している証拠であるし、社会構造の影響を受けることができるということは、その構造が問題になる(より広範の)「ゲーム」をすでに遂行的に理解している必要がある。したがって、私には「遂行」と「認識」の次元を区別する必然性が見出せない。主体がその社会的質料に関して無意識であれ無知であれ、実践の領域でその影響を受けているのであれば、それを(何らかの間接的な形であれ)「認識」しているのである。そういう意味で、社会構造などの社会的質料はすべて諸個人の主観的な想念に起源を持つし、想念と独立の実在性を持つことはありえないはずだ。科学主義論文でハイエクが言わんとしているのは、こういうことではないのか。ハイエクは言う:
The individuals are merely the foci in the network of relationships and it is the various attitudes of the individuals towards each other (or their ... attitudes towards physical objects) which form the current recognisable and familiar elements of the structure. (Hayek, "Scientism and the Study of Society" pp.284)
ハイエクⅡが想定する個人像は、複雑に相互作用しながら想念から彼らにとっての社会構造を創り上げていく、ネットワークの中の個人である。この「彼らにとっての」というのが重要である。ここに解釈学的なエレメントが入り込んでくる。というのも、我々(社会研究者)にこの社会構造が「見える」のは、我々も彼ら(研究対象)と同じゲームを遂行しているからに他ならない。批判的実在論の立場においても、振るまいの社会的ルールや社会構造などの社会的質料が研究の対象となりうるためには、我々は解釈学的アプローチを利用する他ないのである。フリートウッド氏が実在の深層領域に社会的質料を見出すことができたのも、暗黙裡に解釈学的アプローチを援用していたからに過ぎない。ローソン氏のハイエク解釈に対する批判の中で、Allen Oakley氏も同様の趣旨のことを述べている:
My alternative is to envisage critical realism and hermeneutics as consistent, compatible and complimentary methodological strategies required to maintain subjectivist ontology. Hermeneutics is to be envisaged as the means of inquiry that will enable economics to achieve the 'deep' analytical insights that are the hallmark of critical realism (Allen Oakley, The Revival of Modern Austrian Economics: A Critical Assessment of Its Subjectivist Origins, pp.16)
社会科学においては、認識論としての主観的観念論(およびそれに伴う主観主義的な存在論)は放棄不可能であるように思われるし、したがってまた解釈学的アプローチも放棄不可能のように思われる。ハイエクⅢもこれらの立場を放棄したとは私は考えない。ハイエクⅢへの転換はむしろ方法論的なもののみのように思われる。つまり、個人の想念を分析の中心に据える方法論から、振るまいの社会的ルールなどの社会的質料を分析の中心に据える方法論への転換である。この方法論的転換の理由は、フリートウッド氏も指摘するとおり、ハイエクが振るまいの社会的ルール、とりわけ暗黙的なルールの存在に気付いたからだろう。
In this case, the 'compositive method', which focuses upon creating social phenomena from the conceptions held by agents, becomes problematic. If agents do not discursively know and/or adequately conceptualise the structures that facilitate their action, then society cannot be composed out of these conceptions alone. (pp.84)
フリートウッド氏のこの解釈は全くその通りだと思う。ただ、ハイエクⅢはハイエクⅡの存在論・認識論を放棄する必要はない。なぜなら、社会構造が主体の主観的な想念に起源を持つことと、その構造をあたかも客観的な実在物であるかのよう扱うこととは、何ら矛盾しないからである。実際、主体にとってはその社会構造は客観的な実在物なのだから、社会研究者も同様のものとしてその概念を利用しても問題ないはずだし、個人の想念から出発するよりはその方が好都合な場合もある。暗黙的な行為ルールが研究の材料として入ってくるというのは、まさにそういう場合なのではないか。社会的質料が主体の想念に起源を持つということ、したがって主観主義的な存在論を受け容れた上で、社会的質料を(いわば括弧付きで)客観的な「実在」と呼ぶのであれば私は何ら異存はないし、ハイエクⅢの立場もおそらく同様のものだろう。本当は丹念な文献引用によってこれを示さなければならないのだろうが、残念ながら今の私にはその時間も能力もないので、以上の雑駁な議論でお許し願いたい。

最後に、フリートウッド氏がハイエクⅢに読み込む「社会活動の変換モデル」(Transformational Model of Social Activity, TMSA)について。私にはこれはハイエクの文化的進化論の単なる言い換えにしか思えないのだが、言い換えることに一体何のメリットがあるのだろうか。むしろ進化概念を用いた方が適応とか淘汰が言えるので、言い換えない方がいいのではないか、と思った。まだロイ・バスカーの著作を読んでいないので何とも言えないけど、本書を読む限りあまり魅力を感じることはできなかった。

2011年6月30日木曜日

【書評】 科学哲学の冒険 : サイエンスの目的と方法をさぐる (戸田山和久)

本書は科学哲学の入門書である。理系少女のリカちゃん、フランス現代思想オタクのテツオくん、そして科学哲学の教師「センセイ」の三人による会話形式で進んでいく。非常に読みやすいだけでなく、内容も濃い。

著者の戸田山氏は明確に科学的実在論の立場を表明しており、本書は一貫してこれを擁護するための論陣を張っている。より厳密には、観察不可能な物理的対象については実在論、それらの対象の振る舞いを記述する法則については反実在論を取る「対象実在論」(介入実在論)の立場を取っている。

もともと科学的実在論にシンパシーを寄せる私としては、 著者の科学観には共感できた。しかし同時に、戸田山氏は本書全体を通して、ガチガチのロジック・ゲームばかり展開していて、問題の核心から(無意識的に)逃げているような印象を受けた。これはむしろ実在論論争全体について言えることかもしれないが、「論理」の力を偏重するあまり、「論理的可能性A」と「論理的可能性B」の間にある暗黙的次元を徹底的に無視しているように思う。「科学という営みは、実際に世界について理解できる試みだ」という素朴な直感を擁護したいのであれば、「常識」から離床した高尚な哲学的議論から一度身を引く必要があるのではないか。というのも、直感的な「常識」はロジックの両極致にあるのではなく、その中間の暗黙的次元にあるからだ。

そもそも「真理」なる概念は科学哲学において必要なのであろうか。実在の「真」の姿に超越的な意味を付与するからこそ話がまだるっこしく、不毛になるのではないか。もともと科学的実在論の最大の強みは、それが素朴な直感に訴えることだと思う。これに対して反実在論は、純論理的な議論に訴えることによって、人間の感覚器官では直接アクセスできない領域についての我々の知識を自ら狭めてしまう。まさに、反自然的で捻くれた態度と言えよう。彼らはいわば、論理偏重主義と言語の物象化で頭が凝り固まってしまっているのである。そして、反実在論者たちに対する戸田山氏の議論も、残念ながらこの同じ地平上で為されている。その成否如何を判断するだけの用意は私にはないが、いずれにせよ問題の核心からは一貫して逃走しているのは分かる。反実在論相手には、彼らとは別のゲームで挑まなければならない。

科学的実在論の素朴な科学観を無益な懐疑から守る鍵は、他ならぬ懐疑論の泰斗ヒュームにあると思う。 ヒュームは、帰納には合理的な根拠はないという徹底的な懐疑論を展開し、これが「ヒュームの呪い」として本書で繰り返し登場している。しかし、戸田山氏も終盤で述べている通り、この「呪い」は他ならぬヒューム自身によって既に解消されていた。「呪い」なんて最初からなかったのである。というのも、ヒュームは、帰納の基礎にあるのは「習慣」(custom and habit)によって形成された心の癖のようなものであると結論しているからである。言い換えれば、我々人間にとって「帰納」は意識的な推論形式である以前に、生活そのものを可能にする暗黙的な心的メカニズムなのである。もし明日も太陽が昇るかどうか毎日悩んでいては、我々は日常世界を生きていけない。帰納は、繰り返し生起する事象やパターンを、いったん「自明」と見なすことによって、無駄な思考や心配を減殺してくれるのである。

反実在論者は、 帰納のこの暗黙的な作用に気付いていない。もし首尾一貫したいのであれば、反実在論者はオバマ大統領の実在も疑わなければならないだろう。というのも、我々がテレビ画面の向こう側でしか見たことのないオバマ大統領の実在を信じて疑わないのは、「テレビ」の果たす機能や、我々の周囲にいる人間の振る舞いを、帰納によって「自明」なものとして認めているに過ぎないからだ。そして、電子や波動関数といった知覚不可能な物理的対象と、オバマ大統領との間に本質的な違いはないように思われる。もしあるというのであれば、反実在論者はその根拠を示さなければならないだろう。(私に言わせれば、そのような根拠を提示すること自体、既に言語の限界を超越してしまっているが。帰納の暗黙的作用は、その具体内容が明文化不可能だからこそ「暗黙的」なのである。)

本書の終盤で戸田山氏は、「自然主義」の立場から実在論を擁護していて、私もこれに共感できた。むしろ、実在論を擁護するにはこの自然主義的な態度だけで十分であるようにも思える。科学者が電子や波動関数が「存在する」と言うのであれば、その「存在する」が哲学的な意味での「存在」なのかどうかを追及せず、黙ってそれを受け入れるだけでいい。かくして、我々は「真理」や「実在」を巡る、ありもしない哲学的難問から解放されるのである。

2011年6月12日日曜日

【書評】 新しい自然学 : 非線形科学の可能性 (蔵本由紀)

本書は複雑系の入門書である。「現代における科学的な知のあり方は相当にいびつなのではないか」という疑念を持つ著者は、「非線形科学」(nonlinear science)という分野にそのいびつさを是正する契機を求める。

従来の理論物理学はほとんど例外なく「孤立系」(isolated system)の記述に徹してきた。孤立系では外部とのエネルギーのやりとりがなく、それゆえ比較的単純な微分方程式によってその振る舞いを記述することができる。しかし、現実の現象に目を向ければ、そのような完全な「孤立系」を探す方がむしろ困難である。現実の力学系のほとんどは外部に開かれており、それゆえ複雑で予測困難なパターンを生じさせる。このような複雑な力学系を我々は「非平衡開放系」(nonequilibrium open system)ないし「非線形系」(nonlinear system)と呼ぶことが出来る。

非線形系とは、一言で言えばフィードバック制御機能を内在させたシステムである。フィードバックには正と負の二種類がある。外部から得られたフィードバック情報を頼りに、システム全体は絶えず自己修正していく。正のフィードバックによって変化が促進され、負のフィードバックによって変化にブレーキがかかる。これはシステム論で言うところの「サイバネティク・システム」(cybernetic system)にそのまま相当するだろう。このフィードバック機能が、現象を記述する微分方程式の中で「非線形項」(nonlinear term)として現れるのが、「非線形系」という呼称の由来である。(非線形項については、私もまだ完璧に理解していないので、今後も勉強して参りたいと思う)。

このような系はまた同時に、「散逸系」(dissipative system) でもある。システムが散逸的であるというのは、その振る舞いが時間に関して非可逆的であることを意味する。エントロピー増大則(これは熱力学第二法則と同値である)が示すように、自然(世界)は常にエントロピー(無秩序さの尺度)が小さい方向から大きい方向へ進む。つまり、秩序から無秩序へ、構造から無構造へ、攪乱から静寂へ至る流れは非可逆的である(例えば、一回割れたコップを元に戻すことは出来ないし、混ぜたミルクとコーヒーをそれぞれ分離して抽出することもできない)。ただし、エントロピー増大則が成立するのは「孤立系」のみという条件がある。つまり、エネルギーが外部に散逸する「散逸系」では、エントロピーがむしろ減少し、混沌から秩序が生成することが可能なのである。そこでは、微小な「ゆらぎ」(fluctuation)が正のフィードバックによって増幅され、構造の「自己組織化」(self-organization)が発生するのである。

【孤立分断的記述】

しからば、このような複雑な振る舞いをするシステムを記述するには、どのような科学描写が望ましいだろうか。しばしば反還元論者からなさられる主張として、「全体は部分の単純な総和ではない」というものがある。システムに全体として現れるパターンは、システムを構成する要素をいくら詳しく調べても見出すことが出来ないという主張である。それを無視した科学は「要素還元主義」的科学として批判される。しかし、と蔵本氏は言う。

しかし、私はこの種の議論に対しては次のことにたえず注意を払っておく必要があると思う。それは、科学における「孤立分断的記述」が「全体的記述」に安易に対比されてしまうということである。多少挑発的な言い方をすれば、科学描写であるかぎり創発的性質もまた孤立分断的に記述される以外にない。創発とは部分と全体との関係に関わる概念では必ずしもなくて、対象の切り出し方に関わる概念であると私は考えたいのである。つまり、対象を通常の意味での構成要素に分解して要素記述に集中することだけが分断的記述なのではない。(pp.35)

単なる「全体論」を唱えるだけでは、第二のオカルトに陥る危険性は免れ得ない。科学というものは本質的に「同一不変の構造」を見つけ出し、これを鋭利な刃物で切り出すものである。言い換えれば、科学という営みは、同一不変なもの以外の影響(これを「境界条件」(boundary condition)という)を無視(=制御)することによって、明晰判明さを手に入れる。制御される境界条件の程度によって、科学理論に階層性が現れる。例えば、最も単純な同一不変の構造以外のすべての境界条件を捨象するのが理論物理学であり、これに段階的に境界条件を付与していく(この作業は、下位レベルの法則=不変部分における「ブランク」=可変部分にデータを入力することによって行われる)ことによって、化学、生物学、という風に複雑性のレベルが上がっていく。このとき、記述・予測の精度がある程度犠牲になるのは避けられないが、いずれにせよ「孤立分断的記述」であることは科学であるための必要条件と言えよう。

【主語的統一と述語的統一】

蔵本氏によれば、科学が見つけ出す同一不変性には、二つの基本的カテゴリーがある。すなわち、「主語的統一」と「述語的統一」である。人間が物事を理解する時、その基本的なパターンは「何」が「どのように」あるかという形であろう。科学の言語に即して言えば、「原子」や「素粒子」などの個物の概念が主語であり、それらの関係性を記述する「微分方程式」や「法則」が述語に当たるだろう。蔵本氏は、近代西欧の科学的自然認識はあまりにも主語的統一を偏重していて、その側面だけ肥大化していると言う。日本は伝統的に述語的統一が優位な文化で、西欧文明は主語的統一が優位な文化を発達させてきたとしばしば言われるが、西欧世界に起源を持つ自然科学が、必然的に主語的統一を基軸としてきたのも十分頷ける。しかし、今や非線形科学の分野では、もっと豊かな述語的統一の契機が求められている、と蔵本氏は指摘する。それは、従来のように現象を「横」から切り取る(これが自然の階層秩序を作る)のではなく、「縦」に切り取ることを意味する。

自然の様々な異なる階層において、同一の普遍構造(関係性)が見られる、というのは珍しいことではない。その重要な一例は「対称性の自発的破れ」という概念である。対称性の破れは、物質科学のレベルでも、一分子のレベルでも、超微視的な量子論のレベルでも見られる普遍的な現象である。さらに、同じ物質科学のレベルでも、物質が液体から固体に変化する際の相転移である構造相転移から、磁気相転移や超伝導転移まで、すべて対象性の破れ現象である。これらは互いに縁が薄いと思われてきたものであるが、実はすべて共通の数学的構造を持っている。このような、共通の数学的構造(=関係性)に注目して同一不変性を切り出すのが、述語的統一による自然描写である。蔵本氏の言葉を借りれば、従来の主語的統一による自然描写が、顕在的な性質の近さに基づいているという点で「喚喩的」であるのに対して、述語的統一による自然描写は、物への密着性が弱く、それらに伏在する共通構造を探る点において「隠喩的」である。そして非線形科学は、「要素的同一不変性」から「関係的同一不変性」への重心の移動を要求しているのである。

以上が、本書の第Ⅰ章「科学描写の構造」までの議論の要約である。蔵本氏の文章はとにかく分かりやすい上に、「述語的統一」の重要性を説くその議論にも大いに納得させられた。また、創発を「境界条件」の制御に関わる概念と捉える考え方も、非常に面白いと思った。

続く第Ⅱ章「非線形科学から見る自然」では、具体的な自然現象をいくつか取り上げ、実際に非線形科学の知見から解説していくのであるが、ここでは割愛する。興味のある方は是非本書を手に取ってみて欲しい。

【言葉の魔術】

本書の第Ⅲ章「知の不在と現代」において、蔵本氏は科学哲学的な議論に足を踏み入れる。理論物理学の教授ということで、蔵本氏自身は科学哲学の知見に疎いと前置きしているが、はっきり言って彼の議論からは非凡なる哲学のセンスを感じる。

例えば「物理学と心」の問題について、蔵本氏は以下のように述べている。

日常の議論において、用語の定義をしつこく問う人はいやみである。しかしながら、意識とか実在とかのわけのわからない話ともなれば、「そのような問いでもってあなたは一体何を意味しようとしているのですか」と問い返すのが一番だと思う。これによって問題が180度方向転換し、あるいは問題の虚構性が明らかとなり、不毛な哲学的議論の多くが氷解する。素人考えだが、20世紀哲学における言語論的転回と大仰によばれることの主旨は、平たく言えばこのようなことではないかと想像する。要するに、「これまで無邪気に用いてきた言葉によって、何が意味されるかをまずじっくり反省しよう。よくよく考えてみれば、言葉の意味は言葉によって言い尽くすことはできないのではないか。最終的には、その言葉の無数の使用経験に支えられた暗黙の公共的理解しか残らないのではないか」ということである。ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」はこの事情を鮮やかに示すものではないかと思う。ともかく、心・意識というきわどい領域に接近しようとする科学者は、ありもしない問題にはまり込んでしまわないよう、十分な警戒心が必要だと思う。(pp.172-173)

全くその通りだよ。「クオリア」とか「実在」といった胡散臭い哲学的議論に対しては、常に眉に唾をつけまくってかかるべし。これが、ヴィトゲンシュタインが我々に与えてくれたはずの教訓であるが、残念ながら未だに多くの哲学者がその意味を理解できていないように思う。

あるいはこれを見よ。

科学の世界においても日常世界においても、「客観的存在」とよばれるものは、譬えていえばクロスワードパズルのマスに入るべき文字に似ている。縦のヒントから予想された文字の正しさが、横のヒントによって飛躍的に強化される。縦横に加えて、それらに直交するもう一つの次元を加えた三次元のクロスワードパズルを想像すれば、第三方向のヒントもまた、確認作業をおこなうまでもなく、きっとこの答えと整合するに違いない。自然現象の総体は、三次元ならぬ超高次元クロスワードパズルにおいて、さまざまな場所におけるさまざまな方向へのヒントの集団に譬えられるだろう。フロギストン(燃素)のように、科学史上で一時期はその存在を信じられながら、やがて捨てられる運命をたどったはかない存在も、上のモデルで解釈できるだろう。多数の独立なヒントと見事に整合する、マス中の文字に相当するものを、これまではあえて同一不変性をよび、客観的実在とはよばなかった。その理由の一つは、主観・客観の形而上学からできるだけ身を遠ざけておきかったからである。しかし、物心二元論の虚構性に捕捉される心配がなくなれば、これを客観的実在とよんでも差し支えない。それは単に、すでに述べたような意味で同一不変な事象のクラスを、約束事として客観的実在とよんだまでであって、それ以上の超越的意味をこの言葉にあたえているわけではない。科学としては、もちろんそれで十分である。(pp.177-178)

これは私の「プラグマティック実在論」を彷彿とさせる。主客二元論が虚構とまでは言わないものの、「客観的実在」には超越的な意味を付与せず、あくまで「もっともらしい」限りにおいてその実在を信じる、という私の立場に非常に近いものを感じる。

【自律分散システム:市場秩序の分析へ】

最後に蛇足として、私が特に興味のある分野へ話を繋げてみたい。すなわち、自律分散システムとしての市場秩序の分析である。例えば、以下の文章は興味深い。

最近、「自律分散システム」の工学、「創発システム」の工学などというものが注目されている。そこでは自然的になさられる境界条件の制御が、しばしば人為的な制御をはるかに凌駕する見事さを示すという事実にまず注目する。生命過程を彷彿とさせるような、柔軟性に富んだ高度な機能をもつ人工システムを設計するためには、境界条件の制御における人為性の度合いを減らし、むしろ自然的制御に任せる部分を多く取り入れることが有効であり、大きな可能性をもつという思想がそこにある。(pp.52)

これはまさに、ハイエクが市場秩序について言い続けたことそのものである。市場は、複雑なパターンを生成させる非平衡開放系であり、また我々の設計能力を遥かに凌駕する見事さを示す自律分散システムである。これからは、市場を複雑系として分析する研究がますます重要になってくるだろう。私も手始めに、複雑系経済学の日本における権威である塩沢由典の著書『市場の秩序学』に挑んでみたいと思う。

2011年5月28日土曜日

【書評】 ハイエクと現代リベラリズム : 「アンチ合理主義リベラリズム」の諸相 (渡辺幹雄)

本書は渡辺幹雄の処女作『ハイエクと現代自由主義 : 「反合理主義的自由主義」の諸相』を改訂・増補・改題したものである。本書を読んで、渡辺幹雄という男はやはり天才以外の何者でもないという以前からの確信がさらに強まった。否、その独特の軽やかな語り口、捻くれたユーモアのセンス、そして何よりもハイエクらアンチ合理主義リベラリストたちの錯綜する議論を分かりやすく整理し、見事に調理していく手腕を見れば、むしろ「鬼才」という呼称が相応しいかもしれない。特に、新たに増補された付章一「複雑さと社会科学――ハイエクの方法論に関する試論」は貴重な知見に溢れていて、この章だけのために本書を読む価値はある。

【序論「リベラリズムとは何か」】

まず序論「リベラリズムとは何か」において渡辺氏はこう啖呵を切る。

リベラリズムは本来「反自然的」なのである。それがhuman natureの開花であろうはずがない。前期ロールズに受け継がれた啓蒙主義のリベラリズムは、その実human natureの神話に立脚した詭弁なのである。我々にリベラルであることを要求(強要)するのはそのhuman natureではなく、我々の直面する客観的境涯である。誰も好きこのんでリベラルになどなりはしない。ウォーリンが言うような悲観的境涯を生き抜くために、人は仕方なく、やむをえずリベラルになるのである。(p.13)

リベラリズムに人間の幸福を問うのはお門違いである。リベラリズムは幸福のためのガイドラインではなく、破滅を避けるための政治的知恵である。幸せになりたい人は、別のところに相談に行くべきであろう。リベラリズムにそれを求めても、期待は裏切られるだけである。(p.14)

渡辺氏のこのリベラリズム観には満腔の賛意を表したい。このリベラリズムは、前期ロールズに代表されるような、包括的な哲学や人間の普遍的道徳性に立脚したアメリカン・ハッピー・リベラリズムではない(このリベラリズムでは、リベラルな社会は「定義によって」幸福なのである)。否、ハイエク、ポパー、オークショット、M・ポランニー、バーリンに代表されるこのリベラリズムは、「敗北のリベラリズム」、「絶望のリベラリズム」なのである。

その通り、彼らは暗い。少なくとも、彼らの著作に(ときに笑えても)明るい夢や希望を見出すことはできない。いな、よく言えば老獪で、悪しく言えば嫌味な加齢臭の漂う「年寄りの説教」というのが妥当なところだろう。彼らのメッセージの最大公約数は、私にはこう響く。「鼻息の荒いお若いの、おまえの理想は高邁で、その原理原則は高潔だ。だが残念なことに、人間もこの世界も、おまえの言うようにはできていない。もしおまえの夢が現実になったら、この世は地獄になるだろう」。(p.7)

渡辺氏は彼らのリベラリズムを「アンチ合理主義リベラリズム」と呼び、本書ではハイエクを主軸に彼らの思想を一人ひとり読み解いていく。ハイエクを取り巻く重要思想家たちと対比させながら、ハイエク自身の思想に周縁から徐々に迫っていくという、本書のこの構成は間断を許さない。以下では、特に興味深かった論点をいくつか抽出してみたい。


【<P=O図式>の呪縛】

ハイエクに対するありがちな批判の一つに、彼が悪しき「経済主義」ないし「物質主義」の旗振り役だと言うものがある。例えばオークショット研究者ポール・フランコは、ハイエクがリベラルな政治社会を、それが生産性を向上させ、広く経済活動の効率を高める(経済主義・物質主義)がゆえに支持している、つまりハイエクのリベラリズム擁護は、経済的動機によってなされており、これが政治理論としてのリベラリズムを汚している、という旨の主張をしている。しかし、渡辺氏も指摘しているように、これはフランコが、ハイエクの経済思想に対して無理解であることを自ら露呈している。そこで渡辺氏は、ハイエクの経済観を説明するために、<P=O図式>という概念を導入する。

アリストテレスの学問分類によれば、経済(economy)はオイコス(家政)としてつねに政治(ポリス)に服従するべきものとされる。オイコスは人間の動物としての必要を満たす領域、換言すれば、必然性に拘束された不自由な私的空間――プライベート、すなわち人間の人間たる意味を「奪われた」(privatus)空間――であり、それに従事すべきは存在論的に未完成とされた女、子供そして奴隷であると言われた。これに対して、政治は人間(正しくは成人男子)の本質が開花する自由な公的空間であり、そこにおいてこそ人間が完全な人間として形成される(人格陶冶の)場であると考えられた。したがって女は男に、オイコスはポリスに、そして経済は政治に服するべきなのだ。今この図式を<ポリス=オイコス図式>(以下<P=O図式>とする)と呼ぶとすれば、この図式は――その冒頭の性差別的存在論を除いて――現代にいたっても数多の政治哲学者の共通図式になっている(彼らは妙に政治にプライドを持っている)。(p.131-132)

このアリストテレス以来の<P=O図式>を、civic humanism(人間は市民すなわち政治的人格であることに宿る)という形で現代にもっとも強力に復活させたのはハンナ・アーレントであろう。彼女にとって近代とは、本来私的空間であるはずのオイコス(経済)が、人間性の発現の場である公的空間ポリス(政治)を浸食し、それに取って代わる時代であった。オイコスの論理の拡大としての経済主義こそ、近代のリベラリズムを束縛し続け、政治社会のあるべき姿を歪めている元凶である、と彼女は考えたのである。そして、未だに多くの政治哲学者(渡辺氏は彼らを「アリストテレスの末裔」と呼ぶ)がこの図式を共有しており、また彼らにとって、ハイエクこそまさにこの悪しきオイコス主義の旗振り役なのである。

しかしハイエクにオイコス主義の名を着せるのは、単に彼の思想に対する無理解を露呈させるに過ぎない。というのも、ハイエクが一貫して批判し続けたのが、まさにこのオイコス主義だったからだ。ハイエクは「経済」という概念が、その語源に遡ってみればオイコス(家政)であること、もっと形式的に言えば、限られた資源を最大限効率的に活用することについての周到な計画であること――家計、経営、そして財政がみなこれに該当する――を承知している。

しかし、後期スコラ哲学者たちが公正な価格をめぐって逡巡し、ついにそれが市場の決める「自然価格」(natural price)であると悟ったとき、またアダム・スミスが「政治経済学」(political economy)なる(新奇な)ことばを使い始めたとき、経済の概念は歴史的な地殻変動を経験していたのであり、ハイエクもまたそのことに無頓着ではなかった。そこで生じていたのはまさしく経済概念のパラダイム・シフトであり、それはアリストテレス以来のオイコスを離れ、徐々に別の意味と次元に転移しつつあったのである。

そもそも上述の<P=O図式>からすれば、「政治経済学」なるタームは端的にカテゴリー・ミステイクないし定義矛盾である。なぜなら、それはまさに「ポリス的オイコス」と言ってるに等しく、哲学的にまったく不可能な概念だからである。しかしスミスがそこに見ていたのは、経済がもはや従来のアリストテレスの伝統、すなわち<P=O図式>では論じられないという、重大な歴史的転換であった。(p.133)

そしてこの歴史気転換を可能にしたのが、公的空間としての、そしてオイコスとポリスを包摂する「コスモス」としての「市場秩序」(market order)の出現であった。この秩序はいわばオイコスとポリスの母胎であり、その主体(個人、結社、企業、そして政府)の活動の「場」を提供するのである。ハイエクは言う。

市場という自生的秩序の重大な利点は、それが単に手段を介して結び付いている(means-connected)に過ぎないということ、それゆえ、目的についての合意を不必要にし、様々な目的の和解を可能にすることである。広く経済的関係と呼ばれるものは、実は、それら多くの様々な目的を追求する努力が、あらゆる手段の使用に影響を与える、という事実によって決定される関係なのである。<大いなる社会>(Great Society; アダム・スミス)の諸部分の相互依存や調和が純粋に経済的であるのは、まさしくこの「経済的」ということばの広い意味においてなのである。この広い意味で、<大いなる社会>の全体をまとめ上げる唯一の絆は純粋に経済的(もっと正確には「カタラクティック」)である、ということが示されると、大きな情緒的反発が生じた。(『法と立法と自由Ⅱ――社会正義の幻想』、p.112)

エコノミー(=オイコスの経済)と、カタラクシー(=コスモスの経済)を隔てるメルクマールは、「メンバーが目的を共有しているか否か」である。家計や結社や企業や政府などのメンバーはそれぞれ目的を共有しているが、それらが活動する「場」である市場秩序は何ら特定の「目的」を持たない。市場秩序では、行為主体の目的ベクトルは全方向に向いているのである。彼らを辛うじて繋ぎ留めているのは、彼らが「手段」を介して結び付いているという事実に過ぎない。そこにcivic humanism(アーレント)や公共性(ハーバーマス)を持ち込むのは、能天気なお花畑思考と言わざるを得ない。

アーレントをはじめ、ハーバーマスからロールズに至るまで、多くの政治哲学者たちは、市場秩序をオイコスと切り離して考えることが出来ない。彼らは未だに、市場秩序をオイコスの延長として捉えているのである。それはいまや、様々なオイコス(そしてポリス)の主体が活動する基盤であるにも関わらず、である。市場の政治的管理を主張することは、依然それが可能であると考える点で、未だ<P=O図式>の呪縛から抜け出せていないことの証左なのである。後期のスコラ哲学者が市場価格について見たもの、スミスが政治経済学ということばで意味したもの、これらのついての洞察が、ほとんどの政治哲学者には欠落している。また、ハイエクにとって経済という概念は二つの意味を持っており、第一義的にはそれがコスモスとしての市場秩序を意味すると言うことを、彼を「経済主義」「物質主義」の名の下で批判する論者たちは理解していないのである。

しかし、コスモスである市場秩序をオイコスの延長として捉えるこの錯誤の責を、すべて政治哲学に負わせるのは公平ではないだろう。というのも実は、この錯誤を助長していたのが当の経済学自身――より正確に言えば近代経済学の主流となった「一般均衡理論」――であるからだ。そこでは、すべての人が同一の客観的価格体系を目の当たりにし、同じ資源の賦存状態に直面し、さらに一定不変の技術を備え、固定的な趣向を示す。要するに「一般均衡理論」では、社会全体が一つのオイコス(家)になるのである。この理論の応用として、社会全体を「一つの工場」と捉え、それを合理的かつ意識的に設計・管理しようとする「市場社会主義」のような考え方が登場しても何ら不思議ではなかろう。


【不確実性の縮減】

ハイエクの「市場の哲学」を支える支柱は二つある。一つは「秩序論」であり、その大まかな概観は上の節にて描けたと思う。もう一つは「知識論」であり、これを「不確実性の縮減」という観点から読み解いていきたい。

社会は複雑系である。

すなわちそれは、諸要素の部分的・局所的な相互作用――この相互作用は比較的単純な法則に支配されている――によって、予期しえぬ仕方で大域的・大局的に創発(emerge)する秩序や構造のことである。相互作用が局所的であることは、一般均衡理論の場合とは違って、各要素が緩やかに結びついていること、その作用は無媒介的・無時間的に遠方に及ぶのではなく、近傍から徐々に波及していくことを示している。また、予期しえぬのは、ただ相互作用(系の発展)の法則だけを眺めていたのでは、系全体が示す統一的な振る舞いを予測できないことを表す。(p.399)

複雑系のイメージを掴むために、S・ウォルフラムの(一次元)セル・オートマトンをご覧頂きたい。セル・オートマトンは必ずと言っていいほど複雑系の入門書に登場する。

一次元のセル・オートマトンではセルが横一列に並んでいる。セルには「0」と「1」の二つの状態があり、それぞれ「白」と「黒」の色に対応している。任意の初期状態から、各セルは与えられた一定の論理規則に従って、現在の自分の状態(0か1か)と隣接する2つのセルの状態(それぞれ0か1か)の情報だけを頼りに、次世代の自分の状態を決定し、一段下のセルへ移行していく。したがって系の発展は決定論的である。さてウォルフラムは、セル・オートマトンが示す様々な振る舞いを調べていくうちに、論理規則の選び方によってそのパターンが四つのクラスに分類できることを発見した。このうちクラスⅠ~Ⅲは従来の古典力学のアトラクター(ある力学系が時間発展に従って収束していく集合)に対応している。しかし、クラスⅣのパターンは、従来の古典力学のアトラクターでは説明できない。従来の古典力学では、三つのアトラクターが知られている。ボールの落下のように、運動が停止してしまうもの(リミット・ポイント)。これが上の図におけるクラスⅠである。時計の振り子のように一定の周期運動に入るもの(リミット・サイクル)。これが上の図におけるクラスⅡである。そして、ローレンツの気象モデルのようにカオス・アトラクターに吸い込まれるもの。これが上の図におけるクラスⅢである。セル・オートマトンで言えば、ある規則群の下では、過度カオスを経たあと系は死滅してしまう。別の規則群では、過度的なカオスを経験したあと、系は完全な周期パターンを示すようになる。また別の規則群では、広域的なカオスが発生する。ところが上のモデルで興味深いのは、このいずれにも該当しない第四のパターンが出現したことである。それは運動を停止しないし、周期運動を示さないし、またカオスでもない。言ってみれば、そこでは明らかに一定の組織性を伴った過度的な状態が、延々と続いていくのである。このような構造を、我々はイリヤ・プリゴジンとともに、「散逸構造」(dissipative structure)と呼ぶことができる。散逸系は一定の定常性・構造性を維持しつつも、その時間に関して不可逆的な変化は、一刻も平衡・均衡を許さない。このようなメカニズムは雪の結晶から雲の形成、さらには細胞の自己組織化に至るまで、自然界のあらゆるパターン形成に深く関わっており、またプリゴジン自身も示唆しているように、市場秩序も散逸系である可能性が非常に高い。

セル・オートマトンで重要なのは、各セル(固体)は近傍の限られた情報にしか応答していないという事実である。これは複雑系に置かれた我々の境遇を忠実に反映している。つまり、複雑な環境においては、我々が処理できる情報には超え難い限界がある、という当たり前の事実である。言うまでもなくこの人間像は、「完全情報」(=全知全能)を前提とする主流経済学の一般均衡理論とは異なる。一般均衡理論の世界では、各行為主体はあらゆる情報を予め入手しており、その中から毎回最適な行動(利益を最大化し、損失を最小化する)を選択するが、現実の我々にそんなことはできない。

例えばチェス・ゲームを考えてみよう。チェスの勝負で取りうる手は有限であり、明らかに必勝のアルゴリズムが存在する。したがってコンピュータは、このアルゴリズムに則って計算し、毎回最適な戦略を選択する。一方、人間には(名人と言えども)、このような芸当は不可能である。あり得る選択の数はあまりにも膨大過ぎるからである。代わりに、我々人間は「暗黙的統覚」に依存する。チェスでは、我々は「定石」(=代表的なパターン)というものを学習しそれを利用する。

ここで重要なのは、まず第一に、このプロセスは明らかに最適化行為ではないということである。我々は敢えて遠回りをすることによって、処理しなければならない情報量を縮減するのである。そして第二に、いったん定石に落とし込むことで、ほぼ確実に期待したパフォーマンスが得られるという確信が存在するということである。言い換えれば、我々は規則に対して、それに従えば高い蓋然性で目標に到達できるという信頼を寄せているのである。

これはあらゆる法・規則・習慣・伝統に共通する性質である。「殺すなかれ」「盗むなかれ」(我々はバレ得る全てのルートを確実に把握することはできない)、「赤信号を渡るな」(流れていく車の物理的位置を計算しながら最適に道を渡ることはできない)、「自転車のこぎ方」(我々は、出くわす場面に応じて最適にハンドルを切りアクセルを踏むことはできない)、などなど。こうしたルール群は、暗黙知(=知恵)として先人や他人から伝達される。したがって、それは大抵の場合明文化不可能な知であり、学習することによってしか体得できない。またこれらのルールは全て、我々が処理しなければならない情報量を大幅に減殺し、我々の乏しい情報処理能力の作業範囲内に収めてくれるのである。

そして市場秩序における私有財産制も、このような暗黙的ルールの一例である。

この制度ほど毀誉褒貶に晒されてきたものはないが、その趣旨はきわめて明瞭、すなわち、無限大の情報エントロピーを、我々の処理能力の範囲内に縮減することである。すべての財産が共有の場合、その利用をめぐって我々はあらゆる情報を考慮しなければならない。しかるに、一定の財産管理を個人の専権事項とすることによって、我々は情報処理にともなう不確実性を大幅に削ぎ落とし、一定のパフォーマンスを確保することができる。一定範囲外の情報に、我々は目を向ける必要がなくなるのである。複雑で大規模な社会では、我々の処理能力は局所的な情報に限定されざるをえないから、私有財産制は複雑系の必要条件とも言えるであろう。(p.435)

私有財産制に基づく市場秩序では、我々は遠い出来事について知らなくても、ひとえに価格情報にだけ注目していればいい。これが、ハイエクが価格のことを「価格シグナル」(price signals)と呼ぶ所以である。市場秩序が優れているのは、時と場所によって変化する断片的な情報(例えば森林資源が稀少になっている、など)を、価格シグナルを通じて活用できる点にある。森林資源を購入する業者は、森林資源が少なくなった経緯や、その事実すら知らずして、ただ価格シグナルだけを見て、代替的な生産手段の模索や、生産工程の改良を図るようになる。このように市場は、価格シグナルを通じて人々に最適な行為をとるように促す。そして社会全体として、誰も意図しなくても、自生的な秩序が生成するというわけである。

しかし、未だに市場秩序に対して反旗を翻す人は後を絶たない。ハイエクも言うように、この人たちのメンタリティは、小規模の、何もかもが透明だった古きよきコミュニティ(部族社会)を志向しているのである。あらゆる不確実性から解放された古きよきコミュニティ(=低エントロピー社会)にもう一度帰りたい、不確実で理解できない諸力に晒される現代社会(=高エントロピー社会)から逃げ出したい。こうした部族社会への郷愁こそが、社会主義者からハーバーマスまでの人々に共通するメンタリティである。「労働者」であれ「民族」であれ「市民」であれ、透明なコミュニケーションの媒体がどこかに得られれば市場社会は乗り換えられる、と彼らは共通して信じているのである。しかし、それは全く非科学的な空想に過ぎない。


【「創発」の論理について】

本書における渡辺氏の見解にはほとんど賛成で、終始「ふむふむ」と頷きながら読み進めていったけれど、一部不満点もある。その一つが、渡辺氏の、決定論的な世界観に対するルサンチマンの痕が各所に散見される、という事実である。

渡辺氏自身も正しく論じているように、創発はあくまで認識論上・言語論上の現象であって、存在論上の現象ではない。

端的に言って、創発とは我々が対象を捉えるための言語にかかわるものであって、存在論的な実体にかかわるものではない。この点を押さえておかないと、ニューロンの相互作用から心が創発することをもって、脳と心を二つの異なる実体と見なす古典的な二元論が生じる。この誤謬は、リチャード・ローティが「言語の物象化」(reification of language)と呼んだ、哲学者たちの習慣的な性癖を表している。……ときとして、全体は部分と存在論的位相を異にするなどと言われたりもするが、それは結局、複数の異なるミクロな状態が同一のマクロな状態を実現しているとき、我々はもはや、個々の要素の実体的な性質に目を向けても埒があかず、むしろ、要素間の関係性にこそ気を配るべきだ、ということを意味している。……存在論的差異云々は、実は実体と関係性のオーバーな表現にすぎない。そして複雑系科学では、従来の実体中心主義から関係中心主義への重心の移行がポイントなのである。(p.399-402)

また、渡辺氏が、ハイエクとともに「複雑現象と単純現象の間にはなんら存在論的差異はなく、あるのはただ程度問題に過ぎない」と述べる時(p.386)、彼はまったく正しい。

しかし、「人工知能が意識を持ち得るか」という人工知能問題に言及するとき、渡辺氏は、ポランニーの暗黙知の概念に依拠することによって、J・サールらとともに「強い人工知能」論者――彼らは人工知能が「意識」を持ち得ること、そして最終的には人間たり得ることを主張する――を「近代合理主義」「科学主義」の名の下で批判しているが、私はこれには賛同できない。というのも、我々はD・デネットとともに、「人工知能は本当に暗黙的統覚を持ち得ないのだろうか?」という疑問を呈することができるからだ。実際にそこまで人工知能が発達するかどうかはともかく、原理的には、「複雑現象と単純現象の間にはなんら存在論的差異はなく、あるのはただ程度問題に過ぎない」というテーゼを真面目に受け止めるならば、人工知能が暗黙的統覚を持つことは十分可能なはずである。

複雑系の母胎であるカオスが全て決定論的な法則に従っていることが示唆しているように、我々の「心」を創発させるニューロンの相互作用のメカニズムも、同じく決定論的な法則に従っていることが十分考えられる。渡辺氏は各所で決定論的な世界観を「過てる合理主義」「科学主義」の仲間としてまとめて葬っているが、もう少し真面目にデネットの著作を読んでいれば、そういうことにはならなかったと思う。


【「科学者」であって「哲学者」ではない】

最後に、あとがきにおける渡辺氏の印象的な言葉で締めたい。

しみじみ感じたのは、ハイエクは「科学者」なのだなぁ、ということである。「市場の哲学」なる小洒落た言い方はしたものの、ハイエクは本来「哲学者」ではない、そんな印象をもった。私のイメージでは、哲学者たるものは大上段に第一原理(アプリオリな総合命題と思しき)を振りかざし、他の一切を論理的にブルドーズしてゆく人(あとは野となれ山となれ)である。彼らは現象の救済に興味はない。人間性についての、合理性についての、その他諸々についての第一原理は、現象についての説明力、その実行可能性とは無関係に正当性を付与される。その帰結としての哲学政治、哲学経済がいかなる現象的悲劇をもたらそうとも、それは哲学的原理の誤謬を示すどころか、糾弾すべき現象の不合理の証しにすぎない。マルクス主義とポル・ポトの惨劇は、その典型なのだろう。科学者ハイエクにとって、これは忍耐を欠く(そして往々にして自分の知性に酔う)哲学者特有の悪弊にほかならない。複雑な現象を丹念に、たゆまず、一つひとつ分析してゆく地味な作業に堪えられない人々が、おのれの知性を頼みにいわゆる「心的ショートカット」(少数の概念、カテゴリー、原理)に訴えて、現象の背後にある本質を見切ったなどと嘯くのである。現象の分析は少数の原理によって裁断できるほど容易ではない。ハイエクの叙述がしばしばまだるっこしく不明瞭であるのは、むしろ彼が現象に忠実であろうとするためである。この科学者と哲学者の対照は、人間の道徳性に関する哲学的考察をもって始まる初期のロールズと、現象の不可避的多元性から共生の原理を引く後期のロールズとの対照によく現れている。

また、ハイエクは「倫理」の教師でもない。我々の根深いところにある原始的な倫理感は、ときに我々の社会を破滅に導く。資本主義の不道徳さに対する倫理的義憤は、社会主義という名のディストピアをもたらした。それでいてなお、少なからぬ人々が、その動機の純粋さ(良心の声)をもって、その悲劇を免罪しようとしている。保守的なおじさんたちの嘆きとは逆に、人々の倫理感・道徳心はこれほどまでに強いのである。「私悪は公益」、ハイエクのヒーローの一人、バーナード・マンデヴィルの含蓄あるアフォリズムを理解できるほど、多くの人間は現象に忠実になれない。多くの場合、彼らは強すぎる倫理感に訴えて、我々の成し遂げてきたものを破壊してしまうのである。科学者たることは、ある意味、人間の本質に反するのかもしれない。(p.565-566)

2011年5月2日月曜日

【書評】 科学哲学入門 : 知の形而上学 (中山康雄)

はっきり言って、この本のタイトルに「入門」の文字を入れるのは新手の詐欺だと思うが、幸いにして僕自身はこの分野の基礎的な知識は一応既にあったので、本書は大いなる知的興奮を齎してくれた。(正直論理学の部分は未だ理解していない自信があるが)。初学者にはとてもお勧めできないが、科学哲学にある程度馴染みのある人なら、本書は素晴らしい知的体験を提供してくれると思う。

本書は、第一部「科学哲学小史」と第二部「科学と文化」によって構成されている。第一部では、これまでの科学哲学の歴史を、クーンのパラダイム論を軸に描き出すとともに、科学哲学の基本的な「問題群」を提示する。そして第二部では、第一部での議論を踏まえ、中山氏がそれらの問題に独自の回答を与えていく。具体的には、中山氏は唯名論的な世界概念に基づく実在論の立場を主張する。この独自の世界概念の提示が本書の最重要箇所にして醍醐味なので、その詳細を以下に検討していきい。

【形而上学的実在論の検討】

中山氏は、パトナムやサールの議論を踏まえながら、形而上学的実在論を、以下の三つのテーゼを満たす立場として定式化している。

(1a) [外部世界に対する実在論 (external realism, ER)] 世界(あるいは、実在または宇宙)は、世界についての私たちの表象とは独立に存在している。

(1b) [特権化された概念図式 (privileged conceptual scheme, PCS)] 実在を記述する唯一の概念図式が存在する。

(1c) [真理の対応説 (corresponding theory of truth, CTT)] 信念や言明という表象は、事物 (things)が現実においてどのようなものなのかを表象するためのものである。これらの表象が成功したり失敗したりするのに対して、それらの表象は真だったり偽だったりする。これらの表象が真なのは、それらが現実における事実に対応しているとき、かつ、そのときに限る。

このような形而上学的実在論を掲げている代表的な著書が、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考 (Tractatus Logico-philosophicus)』である。

さて、これに対し科学的実在論とはどんな立場なのだろうか?中山氏はまず戸田山和久の議論を参照する。戸田山は、『科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる』において、「独立性テーゼ」と「知識テーゼ」の二つのテーゼを満たす立場として科学的実在論を特徴付けている。

(2a) [独立性テーゼ] 世界は、人間の認識活動とは独立に存在する。

(2b) [知識テーゼ] 人間は、科学によって世界の秩序について知りうる。

(2a)独立性テーゼは、(1a)外部世界に対する実在論に対応する。しかし、知識テーゼについては、実はもっと微妙な問題が絡んでいると中山氏は指摘する。というのも、戸田山は「反実在論」を「独立性テーゼを認めるが知識テーゼを認めない」立場として定式化しているが、反実在論は知識テーゼを観察不可能な対象(電子や波動関数など)についてのみ拒否する。マクロな物体の振る舞いや法則については知りうるが、観察不可能な理論的対象についての語りを含む科学理論が、世界についての文字通りの真理を語っていると信じる根拠はない、というのが反実在論の主張である。つまり厳密に言えば、反実在論は(1a)外部世界に対する実在論を認めつつ、(2c)真理の対応説を認めないという立場である。

これを踏まえ、中山氏は科学的実在論を以下の四つのテーゼを満たす立場として定式化する。

(3a) [外部世界に対する実在論]  (1a)と同じ。これは、(2a)の独立性テーゼに対応する。

(3b) [特権化された概念図式] (1b)と同じ。

(3c) [真理の対応説] (1c)と同じ。

(3d) 科学は世界についての特権化された概念図式を把握するという目標を持っており、この目標に絶えず近づいていく。そして、この目標に到達したときには、科学は世界についての究極的真理を表現できる。

(これに対し、反実在論者は、世界に対応した真なる理論を見出すことが科学の目的だとは考えていないのである。)

ここで注意しておかなければならないのは、科学的実在論は物理的事実にのみ適応可能だということである。中山氏は本書において、事実を「物理的事実」、「社会的事実」、「内省的事実」の三種類に分ける議論を行っている。

(4a) [物理的事実] 物理世界の中で成立している事実。人間の認識活動とは独立に成立する。

(4b) [社会的事実] 集団Gの共有信念に依存して成立する事実。

(4c) [内省的事実] 内省の主体である合理的行為者の心的状態に依存して成立する事実。内省的事実が成立するのは、行為主体Sがその内省的事実が成立していると信じているとき、かつ、そのときに限る。

この三区分は、デイヴィドソンの言う「客観的」、「間主観的」、「主観的」の区分けと対応するように思われる。そして、独立性テーゼは社会的事実、内省的事実については明らかに成立しない。だから、科学的実在論はあくまで自然科学のみに関するテーゼなのである。

さて次に、中山氏は、科学的実在論を回避しつつ、 社会構成主義(科学知識は社会的に構成されるという立場。つまり、(2a)独立性テーゼも(2b)知識テーゼも否定する立場)を拒否する「第三の選択肢」を探るため、サールの議論を参照する。ジョン・サール (John Searle 1932-)は、実在と表象に関する以下の六つのテーゼを定式化している。

(5a) [外部世界に対する実在論] (1a)と同じ。

(5b) どのような表象も志向性を持っている。信念や知覚は内在的志向性 (intrinsic intentionality)を持ち、地図や文は派生的志向性 (derived intentionality)を持つ。

(5c) [真理の対応説] (1c)と同じ。

(5d) [概念相対性 (conceptual relativity, CR)] 語彙や概念図式などの表象システムは、人間が作り出したものであり、その点において恣意的なものである。同一の実在を表象するのに、複数の異なる表象システムを用いることが可能である。

(5e) 実在の真なる表象を得ようとする努力は、文化的影響を受ける。

(5f) 知識を持つことの本質は、正当化や証拠を根拠にして真なる表象を持つことにある。だから知識は、認識的意味において客観的である。

ここで重要なのは、サールが(1b)特権化された概念図式のテーゼを拒否し、その代わりに(5d)概念相対性のテーゼを導入している点である。ただし、この試みを成功させるためには、(5d)概念相対性のテーゼと(5c)真理の対応説が両立するような世界概念をサールは提示しなければならないが、中山氏によると、サールの著作の中ではこのような世界概念は充分明らかにされない。これを補完するために、中山氏は独自の世界概念である「唯名論的世界概念」を提示する。

【唯名論的世界概念】

中山氏は、(1a)外部世界に対する実在論のテーゼと、(5d)概念相対性のテーゼを明確化するために、以下の五つのテーゼから成る独自の唯名論的世界概念を提示する。

(6a) [外部世界に対する実在論]  (1a)と同じ。

(6b) 世界は、分割可能な構造を持っている。

(6c) 世界の諸分割の間に、部分・全体関係 (part-whole relation)が成立する。

(6d) [古典的メレオロジー (classical mereology)] どのような複数の対象にも、それらのメレオロジー的和が存在する。ただし、メレオロジー的和というのは、複数の対象を融合させてひとつの対象と見なしたときの融合体 (fusion)のこととする。

(6e) [世界内存在] 知覚主体は、世界の部分として存在する。

さらに、世界の分割可能な構造について、以下のテーゼを提示する。

(7) [概念図式の適用] 世界の分割は、概念図式の適用により可能となる。

これは、ウィトゲンシュタインの『論考』とは決定的に異なる世界観である。『論考』では、何が対象であるかは、人間の認識活動からは独立して世界の側ではじめから与えられていた。これに対し(7)に従えば、そのような世界の対象は、人間が概念図式を適用し、世界からその部分を切り取るという作業によって与えられることになる。この(7)により、(5d)概念相対性のテーゼが保障される。

例えば、「犬」や「猫」といった普通名詞を含んでいる日常言語と、「細胞」という普通名詞を含んでいる生物学の言語では、切り取っている世界の「部分」が異なるが、同じ対象を指している。この場合、日常言語は細胞の融合体としての「犬」「猫」を指しており、これを生物学の言語に「翻訳」することが可能である。このように、異なる仕方やレベルで対象を記述する複数の語りの実践が並存することが可能であり、このことが(5d)概念相対性のテーゼを可能にする。

次に、中山氏は、タルスキの真理の定義に依拠することによって、(5c)真理の対応説と(5d)概念相対性のテーゼが両立することを示そうとする。アルフレト・タルスキ (Alfred Tarski, 1901-1983)は『形式化された言語における真理概念』において、メタ言語と対象言語を区別することによって自己言及のパラドックス(嘘つきのパラドックス)を回避し、真理の概念を定義することに成功した。彼は、対象言語について語るメタ言語を導入することにより、これを用いて対象言語の真理概念を規定するのである。

例えば、数学では集合論の言語が要素に対するメタ言語として前提にされるのが常である。この方法を、私たちの日常的な言語についても適用できる。例えば量子力学も相対性理論も生物学の言語も日常言語も、すべて実在する世界について語るものであるが、世界の対象領域の中から関心のある対象だけを切り取って記述していることになる。そのため、ある言語に属する文の真理について語るためには、類名辞(sortal term, 対象を分類するために用いられる普通名詞)を含んだ概念図式の使用により、メタ言語において対象を特定しておかなければならない。つまり真理概念は世界そのものに直接適用されるのではなく、メタ言語を用いてあらかじめ分節化された世界の構造に関して適用されるのであり、その分節化はメタ言語に含まれる概念に相対的になされるのである。このようにして、唯名論的世界概念を用いれば(5c)真理対応説と(5d)概念相対性のテーゼが両立するということを示すことが出来る。

【語りの多元性と物理主義】

人間が用いる言語は多層的に重なっている。量子論の言語も、生物学の言語も、日常の言語も、宇宙論の言語も、それぞれ独自の類名辞によって世界に存在する対象を個別化している。

さて、中山氏は、デカルトのような二元論を避けるため、他の多くの分析哲学者と同じく、物理主義の立場を取る。

(8) すべての物的対象は、物理学の法則に従う。

物理学の言語は、素朴物理学言語(日常の物体について語る言語)よりも豊かな存在論を持っている。つまり、素朴物理学の対象は、素粒子などの物理学が記述する対象から構成されていると考えることが出来る。私たちは、素朴物理学言語において様々な物体の融合体の相互作用について記述する概念図式を編み出してきたが、それらの記述が有効であるならば、なぜそれが有効なのかの説明は、原理的には物理学の法則で説明可能なはずだということが帰結する。これによって相対主義的な存在論が回避できる。

それでは、 物理主義はどのようにして多元的言語論と整合するのだろうか?これを説明するために中山氏は、「付随性 (supervenience)」という概念に依拠する。「付随性」の厳密な定義は、以下のように与えられる。

「起こりうるどの二つの状況を考えても、性質Bに関して異なりながら、性質Aは同一だ、ということがない」ならば、性質Bは性質Aに付随 (supervene)している。

例えば、言語Aを脳の物理的な状態について記述する物理学の言語、言語Bを素朴心理学言語(日常の心について語る言語)、性質Aを言語Aによって表現される性質、性質Bを言語Bによって表現される性質とする。このとき、性質Bが性質Aに付随するというのは、性質Aを完全に同じくする二つの対象は、性質Bも完全に同じくする。つまり、言語Aにおけるあり方(=脳の物理的な状態)を確定すれば言語Bにおけるあり方(=心的な状態)も確定する、という関係である。

この「付随性」の概念に依拠することによって、物理主義と多元的言語論を両立させることができる、と中山氏は論じる。ただしこのとき、物理言語を数ある言語のうち存在論的に基礎になる言語とする。また、物理言語がすべての単体としての対象を描写できたとしても、融合体としての対象の多くを語るためには、私たちは他の言語を必要とし、そのために(5d)概念相対性のテーゼが許容されるのである。


【唯名論的世界概念の検討】

さて、以上の中山氏の議論を検討してみたい。そのためにまず、(1b)特権化された概念図式のテーゼと(5d)概念相対性のテーゼの関係を明確化したい。というのも、中山氏はまるでこれら二つを背反する主張であるかのように扱っているが、私にはこの二つが両立するように思えるからだ。

中山氏による科学的実在論の定式化における(3d)「 科学は世界についての特権化された概念図式を把握するという目標を持っており…」とあるように、特権化された概念図式というのは、人間の認識活動からは独立して世界の側にあらかじめ存在するものであると考えられる。一方、(5d)概念相対性のテーゼ、及びそれを保障する(7)概念図式の適用テーゼも、あくまで人間の認識活動について語っている。つまり、唯一の正しい特権的な概念図式の存在を主張する(1b)と、複数の異なる恣意的な表象システムの並存を主張する(5d)は両立する。

実は、このことを中山氏は「物理主義」採用の際に暗に前提しているように思う。というのも、(8)のテーゼ「すべての物的対象は、物理学の法則に従う。」は、唯一の正しい一貫した物理学の法則の存在を前提にしているからだ。このことは、「それら(融合体の相互作用について語る様々な概念図式)の記述が有効であるならば、なぜそれが有効なのかの説明は、原理的には物理学の法則で説明可能なはずだということが帰結する。」と主張している点からも窺える。つまり、中山氏は物理学の法則に基づく絶対的な存在論(=特権的な概念図式)を主張しているのである。

しかし、ここ一つ問題が現れる。それは、中山氏の提示する唯名論的世界では、メタ言語における対象の記述は、「完全な形」で対象言語における記述への「翻訳」が可能なのか、それとも翻訳には「不確定性」が伴うのか、という問題である。言い換えれば、還元主義を認めるか否か、ということになると思う。非物的な対象についての語り――つまり内省的事実や社会的事実に関する記述――と物理言語との関係については、中山氏は「付随性」の概念に依拠しており、はっきりと「非還元的」を明言しているが、物的対象について語る言語間の関係については、いまいちはっきりしないのである。(化学の言語は物理学の言語に「付随」しているのか、生物学の言語は化学の言語に「付随」しているのか?)

もし「還元的」であるとするならば――つまり生物学の言語を化学の言語に、化学の言語を物理学の言語に「ノイズ」なく翻訳可能なのだとすれば――「科学的実在論」を回避するという当初の目的とは裏腹に、「科学的実在論」の世界観が帰結するように思われる。というのも、物的対象に関する全ての語りを物理学の言語に難なく翻訳できてしまうことになり、それはもはや多元的な言語間の翻訳ではなく、いわば「分数から少数」への機械的な翻訳であるために、複数の異なる言語がたとえ存在したとしても、実質同一の言語と見なしうるような事態が起きてしまう。還元的な世界観では、概念図式はただ一つに収束してしまうのであり、これはもはや「科学的実在論」の世界観とあまり変わらない。実際、(2a)特権化された概念図式と(5d)概念相対性のテーゼが両立することを私が示した今、「形而上学的実在論」の条件となる(1a)、(1b)、(1c)は全て満たされている。これに(3d)を加えることができるならば、これはもはや「科学的実在論」の成立を意味している。中山氏が提示する「唯名論的世界概念」では(3d)が成立するのかどうかは充分明らかにされていないが、私の理解では、とりたてて矛盾するようには見えない。

逆に「非還元的」であるとするならば、今度は(8)「物理主義」のテーゼの成立が危うくなるように思われる。化学と物理学の関係、あるいは生物学と化学の関係を「付随性」で規定するにせよ、「創発」で規定するにせよ、これら多元的な語りを物理学の言語に翻訳できないとなれば、物理主義のテーゼ「すべての物的対象は、物理学の法則に従う。」が成り立たなくなってしまう可能性がある。もし中山氏が(1c)真理の対応説を採用していなければ、(8)「物理主義」のテーゼは完全に世界の側の事実――つまり人間の認識活動からは独立した実在――についての記述として解釈されることが可能だったが、現に中山氏は(1c)真理の対応説を採用しているので、世界の側の事実は人間が作り出す概念図式の表象と対応しているはずであり、したがって世界の側の物的対象がすべて物理学の法則に従うのであれば、人間が作り出す化学や生物学の言語も同様にすべて物理学の言語に翻訳可能でなければおかしい。そこに「付随性」や「創発」などの概念を持ち込むのは、矛盾すると考えられる。

(ただし、非物的な対象に関する語り――「心」についての語り、政治についての語り、経済についての語り、宗教についての語り、など――は物理言語に「付随」しているということなので、これらについては矛盾しないと考えられる。)

以上より、中山氏が提示する唯名論的世界概念は、科学的実在論の世界観と両立するように思われる。それはそれとして首尾一貫した世界観であり、問題ないと思う。しかしこの試みは、科学的実在論とは異なる世界観を提示するという当初の目的とは相容れないものであり、むしろ科学的的実在論の中に包摂されてしまうように思われる。

この問題――つまり「科学的実在論」を拒否しつつ、同時に「反実在論」や「社会構成主義」も退け、物理主義的な世界観を保持するにはどうすればいいかという問題――を克服するために、私は(1c)真理の対応説を放棄し、代わりにデューイらプラグマティストの「真理の実用説」に依拠した独自の世界概念を提示したいが、その明確化はまたの機会に委ねたい。

2011年1月22日土曜日

【書評】 理性の濫用と衰退についての研究 (F.A. ハイエク)

原題:Studies on the Abuse and Decline of Reason (2010)

本書は、『科学による反革命』(The Counter-Revolution of Science)の全文と、『個人主義と経済秩序』(Indivisualism and Economic Order)の導入部分を飾った「真の個人主義と偽りの個人主義」(Indivisualism: True and False)によって構成されている。ブルース・コルドウェル氏の編集によるハイエク全集シリーズの最新巻として昨年発売された。

コルドウェル氏の序文を除いては、上述した二冊の書籍にて日本語で全文を読むことができる。

本書のメインテーマは、自然科学の方法論を社会の研究に盲目的に適用する「科学主義」思想の分析である。ハイエクは、自然科学と社会学の根本的な性質の違いを説明した上で、自然科学の方法論が社会学では成立し得ないことを論じる。

まずハイエクは、独自の「分類」理論によって人間の知覚と認識のメカニズムを説明している。曰く、われわれ人間は、感覚器官を用いて自然物や自然現象を知覚するとき、これらの自然物や自然現象をある心理的分類メカニズムに基づいて認識しているという。例えば、われわれが「ドアノブ」と呼ぶ物体は、その物体が果たす主観的な機能(ドアを開閉する)のみによって認識され、その光学的性質や化学的組成などは意味を成さない。われわれは経験によってドアノブの「意味」を学習し、およそドアに備え付けられている突起物あるいはハンドル的な物体を「ドアを開閉するためのもの(=ドアノブ)」として分類するのである。

若い頃は心理学者を志していたハイエクは、この分類メカニズムをニューロンの働きによって説明する仮説を提示している。つまり、ニューロンの結合パターンが一定の感覚の「分類」に対応していて、神経がある刺激を受けると、一定のパターンが脳内で形成され、その後同様の刺激を受けると、同様の感覚として分類されるというモデルである。こうしたハイエクの心理学研究の成果は、『感覚秩序』(Sensory Order)においてまとめられている。ちなみにこの著作は、発表当時こそ心理学界から徹底的に無視されたものの、最近になって、新しい認知科学モデルの先駆として再評価され始めている。特に、「ニューラル・ダーウィニズム」仮説を提唱した脳科学者ジェラルド・エーデルマンは、その仮説の先駆はハイエクだと評している。エーデルマンの理論は、ニューロンのグループと特定の認識パターンが対応し、同じ刺激が繰り返されることでそのニューロンを繋ぐシナプスの結合が強化され、刺激のなくなったシナプスは切れるという淘汰原理によって「カテゴリー」が形成されるというもので、ハイエクの「分類」理論とほぼ同じである。このような理論を、コンピュータも脳科学もなかった時代に、ハイエクが「深い思考」だけで創造したという事実は、驚くべきことであろう。

さてハイエクによると、自然科学の方法は、上述したような人間の主観的な「意味」を徹底的に取り除き、物質や諸力が持つ客観的な性質や相互関係のみを調べることにより、一般的・普遍的な「事実」を明らかにする、というものである。一見全く無関係に見える二つの現象が実は同じ法則に基づいて振舞っていたり、逆に全く同じように振舞っているように見える二つの現象が実は全く無関係であることを、自然科学は往々にして示してくれるのである。

一方で社会学はどうか。ハイエクはまず大前提として、「社会全体」などといった客観的な集合的実体の存在を否定する。社会を構成するのはあくまで「個人」であり、諸個人の間主観的な行動の結果として抽象的な「社会全体」なるものが構成されるが、この集合的実体は「言葉」としては存在しうるものの、その実体はあくまで諸個人の主観の中で再生産される観念(=意味世界)に過ぎない。例えば、私たちが「資本主義」と言うとき、私たちはそれぞれ独自の「資本主義」を頭の中で思い描くが、「資本主義」という本質がどこかに厳然として存在するわけでは決してない。したがって、社会の諸現象を説明するに当たって、「階級の闘争が永続化する」や「資本は~を欲する」といった、集合的概念をあたかも所与のものであるかのように扱い、しかもそれらにしばしば擬人的な性質を付与する神人同形同性的 (anthropomorphic)な議論は、主観的な構成物を客観的な事実として取り違えるという誤謬を犯している、とハイエクは指摘する。

さらに、ハイエクによると自然科学と社会学では「最初に見えているもの」が違う。自然科学では、結果としての現象全体がまず観察可能であり、それを構成する見えない粒子や諸力を突き詰めていく。一方で社会学では、「個人」がまず観察可能であり、諸個人が結果として構成する見えない社会全体を突き詰めていくべきである、とハイエクは論じる。つまり、見えていない抽象的な集合的概念から出発するような研究は、作業の方向を見誤った試みであり、自然科学の方法論を無批判的・盲目的に適用しようとする「科学主義」的態度の表れである、というのである。自然科学はその精密さによって数々の華々しい成果を収めてきたのだから、社会の研究にも「自然科学っぽい」方法を導入すれば、社会学もより精密な学問になるだろう、という短絡的な思い込みをハイエクは厳しく批判する。

ハイエクはこのような「科学主義」思想の源流を、アンリ・ド・サン=シモンとその弟子オーギュスト・コントの実証主義哲学に求めている。本書の後半では、サン・シモンとコントの生涯を追いながら、如何にして彼らの哲学が受け継がれ、ヨーロッパ中に広がるに至ったかが描かれている。コントの実証主義を継承したことで有名なエミール・デュルケームは言わずもがな、一般的には実証主義からは縁遠いと思われているヘーゲルにも、ハイエクは実証主義哲学のエッセンスを見出している。ハイエクは彼らを、人間の合理性と理性を過大評価する「誤った合理主義」を広く流布させた大罪人として糾弾している。

ハイエクの「反理性主義」「反設計主義」思想を一からきちんと理解したい人にとって、本書は必読である。