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2015年5月10日日曜日

相互情報量と記号過程

定義:「AがBについて情報を持っている」というのは、あるエージェントCが、AをもとにBについて実現確率の高い予測を行うことができる、ということである。そのような予測が可能であるためには、AとBの間に何らかの相関がなければならない。

確率論や情報理論に、二つの変数間の相互依存の度合いを表す尺度として相互情報量(mutual information)という概念があるが、上の情報の定義は、二つの点において相互情報量の概念を拡張したものである。一つは、AとBを「変数」に限定しない点。一般に、Xが変数であるためには、Xの取り得る値が一つのクラスを形成している必要があるが、上の情報の定義ではA、Bともにsui generisであっても構わない。

二つ目は、相関関係を解釈するエージェントCが定義に含まれている点。明らかに、情報はそれを情報として解釈するmindが存在しなければ、そもそも情報として成り立たない。同じ記号列であっても、ある解釈者には情報として認識され、別の解釈者には単なるノイズとして処理され得る。したがって情報伝達が成立するための要件として、適切な背景知識を持った解釈者の概念が不可欠である。相互情報量の場合、解釈者はデータを解析する科学者自身であるからそれを定義に含める必要はない。しかし私が関心を持っているのは情報が解釈者に伝達される過程なので、私の情報の定義には解釈者を不可欠な要素として含める。

さて、ここでPeirceの記号の定義に沿って情報伝達の過程を見て行こう。Peirceによれば、記号には三つの要素がある。すなわち、記号そのもの(狭義の記号)、その対象、そして解釈項である。記号そのものは、目の前に現われている何か、何らかのmanifestationである。上の情報の定義ではAに相当するものとしよう。記号の対象とは、何らかの仕方でその記号と相関付けられた何かである。したがって上の情報の定義ではBに相当する。記号は、対象との相関の仕方に応じてイコン、インデックス、シンボルの三種類に分類されるが、ここでは記号一般を考察する。一般に、BがAの対象だからといってAがBの対象とは限らない。これはAとBが異なる存在論的身分を持ち得るからである。最後に、解釈項とはAとBの相関をestablishする何かである。つまり解釈項がAとBを相関付けるのであり、それがなければそもそもAとBの相関は成立せず、したがって情報伝達も起きない。なお、厳密に言えば「解釈項」(interpretant)とは主体としての「解釈者」(interpreter)ではなく、解釈者の精神の中にある、相関を成立させる概念である。

上で述べた記号の定義を、具体的な例で考えてみよう。ある登山者が動物の足跡を発見し、それをもとに、自分の近くに熊がいると考えたとしよう。ここで(狭義の)記号Aは足跡であり、Aの指示対象Bは熊であり、解釈項Cは登山者の背景知識である。登山者の背景知識により、足跡と熊が相関付けられ、その結果、(登山者の背景知識が適切であれば)足跡の指示対象たる熊について実現確率の高い予測(この方向に行けば、太く短い四肢を持った大型の哺乳類が出没するだろう、等々)を行うことができる。

この過程を次のように表現することもできる。すなわち、記号Aと対象Bの相関が、解釈項Cに伝染し、BとCの間にも相関が生まれた、と。例えば登山者が、一緒にいる人間に「熊がいるから気を付けろ」と言うかもしれない。この場合、AとBの相関が、Cを介してさらなる解釈項Dに伝えられている。ここで解釈項Dにとって、AとBの相関を成立させた概念C(の表現としての登山者の発話)が記号であり、Bがその指示対象である。つまり、先の記号作用において解釈項だったものが、新たな記号作用において記号となっているのであり、新たな解釈項Dが、CとBとの間に相関をestablishしている。無限に連鎖し得るこの作用を、Peirceは、おそらく紀元前1世紀のエピキュリアンであるフィロデモスの著作「推論の方法について」から語を借用して、「記号過程」(semiosis)と呼んだ。記号過程により、元の相関関係が次々と伝染していき、対象Bについての情報が流れていく

最後に、情報の「形相付与」としての側面について。英語のinformationの語源を遡れば、「形相を付与する」という意味のラテン語の動詞informareから来ていることが分かる(Capurro & Hjørland, 2003, "The Concept of Information"を参照)。未だ述語付けられていない目の前の何かに形相を付与する、つまり主語実体を述語付けることによって、その目の前の何かが、いわば相関関係のネットワークの一つのノードになる。こう考えることによって、私が本記事の冒頭で与えた情報の定義を、Peirceが1867年の論文"Upon Logical Comprehension and Extension"で与えている情報の定義と整合化させることができる。

2014年5月23日金曜日

一人称視点と三人称視点

一人称視点って何なのか、割と分かりやすいと思うんだけど、三人称視点って何なのか、って聞かれると答えに窮する。一人称視点から徐々に生じるのは間違いない。しかしどうやって生じるのか?そして精神と物体は、これら二つの視点とどう関係している?

まず一人称視点について考えてみる。ある被験者に光を見せ、どこに光が見えるかと問うと、彼らは自分の頭を指すのではなく、光源の位置を指す。つまりクオリアは、被験者の視点から見れば脳内にあるのではなく、対象の位置にある。というより、そもそもクオリアとは、一人称視点から見た物質的対象に他ならない。一人称視点から見れば、あらゆる経験は「私」の経験であるという意味で、「世界は私の中にある」と言える(このような反省的了解は必ずしもないにせよ)。ここではクオリア=物体である。

さて、発生論的に考えると、一人称視点に対して現われる様々な知覚経験の中から、相対的に永続的な要素と、相対的に流動的な要素とが区別され始める。主観と客観の区別の出現である。例えば、空間や時間の座標変換に対して不変に保たれる構造を見出すと、我々はその構造を一つの個物として同定する。実際の主観/客観区別の出現はもっと複雑な要素が色々絡み合っていると思われるので、ここでは割愛する。

いずれ、自分の身体とよく似た構造を知覚経験の中に見出すようになる。すなわち同胞の生命体である。そしてどうやら、これらの同胞たちも、自分と同じように世界を知覚しているらしい、ということを複雑なプロセスを経て学習する。ここに至って「一つの世界」と、それを眺める「複数の主観」という発想が生まれる。これが三人称視点に他ならない。「精神」とは、三人称視点から他者(同胞生命体)の振る舞いのパターンを観察し、それを手掛かりに、他者も自分と同じように世界を経験をしているに違いない、という類推の結果生じる概念。自分に対して「精神」の概念を適用することも可能だが、ここで言う「自分」とは、あくまで三人称視点から見た自分である。さて、問題は次の通りとなる:物体とは何か?

(暫定的回答:おそらく、錯覚や認知上の誤謬に遭遇し、主観と客観の分離が進行したのに伴って、思考によって改変したり破壊したりすることができず、かつ安定的、永続的に持続する経験の要素が「客観」の側に括られ、それ以外が「主観」の側に括られ、そして前者が「物体」と名付けられたうえで実体化された「精神」概念にjuxtaposeされたのだろう)。

2014年2月15日土曜日

確率は客観的か?Peirceの主観確率批判を手掛かりに

確率は客観的に存在するのか、それとも人間の頭の中にだけあるのか。この問題は確率の哲学的解釈における長年の論争のテーマである。ここでは、"The Probability of Induction" (1878)においてなされた、C. S. Peirceによる主観確率の批判を手掛かりにこの問題を考えてみたい。Peirceの批判が成功しているかどうかに関しては、私には判断を下すことはできないが、もし成功しているとしても(つまりもし確率の客観的解釈が正しいとしても)決定論はなお保持できるのか、それとも、Peirceとともに偶然主義tychismを支持するしかないのか、という問題についても併せて考えてみたい。

【Peirceによる主観確率批判】

Peirceの立場は頻度主義frequentismである。頻度主義によれば、ある事象の確率とはその事象の相対度数の極限値である。これは、ある事象の確率とはその事象に対する人間の信念の度合いであるとする主観確率の立場(Peirceの用語ではconceptualist view)と対立する。Peirceによれば、確率の主観的解釈は「全く道理に合わない」。なぜだろうか。

まず、確率は客観的か主観的かという問題を考える前に、確率とは「何の」確率か、という(関連する)問題を取り上げたい。確率が帰せられるのは事象についての信念なのか、事象そのものなのか、それとも命題か。この問題に対するPeirceの答えは明快である。すなわち、彼によれば確率が帰せられるのは「もし~ならば…」という形の推論である。「もし賽子を振るならば、1の目が出る」という推論の確率は6分の1である、というようにである。この見方に従えば、条件節がなければ確率概念はそもそも意味をなさない。我々はしばしば事象そのものの確率について語るが、Peirceによれば、これは条件節が自明であるために省略されているだけである。換言すれば、すべての確率は条件付き確率である。これはAndrei Kolmogorovが『確率論の基礎概念』で行った確率の公理化と一致するものであり、極めて現代的な見方と言える。

さて、Peirceによる主観主義批判はBayesの定理の使い方を巡るものである。Bayesの定理は次のように書かれる:

P(Z | Y∧X) = P(Y | Z∧X) • P(Z | X) / P(Y | X)

あるいは右辺の分母を展開して

P(Z | Y∧X) = P(Y | Z∧X) • P(Z | X) / [P(Y | Z∧X) • P(Z | X) + P(Y | ¬Z∧X) • P(¬Z | X)]

Peirceの批判はBayesの定理そのものに対する批判ではない。この定理は、確率論の公理から演繹的に導かれるものである。Peirceの批判はあくまで、この定理の帰納推論への適用、すなわち確率の逆算法Method of Inverse Probabilitiesと呼ばれる方法に向けられている。彼によれば、確率の逆算法は帰納を演繹に帰着させようとするが、そんなことは不可能である。

まず、確率の逆算法を説明する前に、確率の通常の算法を見てみよう。黒玉50個と、白玉50個の入った壺を考える。この中から10個の玉をランダムに、かつ引いた玉を壺に戻しながら引いていくとする。このとき、例えば黒玉5個と白玉5個を引く確率を、演繹的に求めることができる。Uを壺の構成を与える命題(黒玉50個、白玉50個)、Xを引き方に関する背景情報(ランダムに、かつ戻しながら)、Sを引いたサンプルを与える命題(黒玉5個、白玉5個)とすると、求める確率はP(S | U∧X)と書ける。これはBernoulli試行であるから、

P(S | U∧X) = 10C5 • (1/2)^5 • (1/2)^5 = 63/256

と求めることができる。ここで重要なのは、壺の中身があらかじめ分かっていることである。確率の逆算法は、壺の中身が分からない場合に、壺の中身を推定するための方法である。すなわち、Bayesの定理を適用することによってP(U | S∧X)を求める方法である。これはサンプルから母集団への帰納推論S∧X ⇒ Uの確率であるから、Pierre-Simon Laplace、Augustus De Morgan、Adolphe Queteletらは、この方法によって帰納の問題を解決したと信じていた。実際、Bayesの定理によって、

P(U | S∧X) = P(S | U∧X) • P(U | X) / P(S | X)

と書ける。しかし、左辺を求めるには、右辺のP(U | X)があらかじめ分かっていないといけない。このP(U | X)を「事前確率」prior probabilityと呼ぶ。しかし、事前確率を事前に確定する方法はない——P(U | X)が分かっていればそもそも壺の中身を推定する意味がない——から、確率の逆算法の使用者は「不充足理由律」Principle of Insufficient Reason、あるいは後にJ. M. Keynesによって「無差別の原理」Principle of Indifferenceと呼ばれるようになる原理に訴える。これは、相互に排他的かつすべての可能性を尽くす事象(推論)がn個あり、それぞれの事象(推論)の確率についての情報が全くないとき、それぞれの事象(推論)に1/nの確率を割り振る、という原理である。壺の中身を述べる推論の場合、X ⇒ UとX ⇒ ¬Uの二通りの場合があるから、P(U | X) = P(¬U | X) = 1/2とするわけである。

Peirceが噛み付くのはここである。確率の逆算法の使用者が求めようとしているのは、「事実(この場合は壺の構成)、帰納推論の結果適合する確率」である。つまり彼らは、壺の中身についての可能世界を立ち上げ、それぞれの可能世界が我々の帰納推論の結果に適合している確率を求めようとしているのである。Peirceによれば、求めることができるのは——そして帰納推論の場合、求めるべきは——逆に「帰納推論の結果、事実適合する確率」である。すなわち、壺の中身を述べる命題Uを事実ないし「仮説」として一旦承認した上での、サンプルがこの仮説に適合する確率P(S | U∧X)である。このP(S | U∧X)が、上で述べた確率の通常の算法におけるP(S | U∧X)と異なるのは、ここではUは既知ではなく仮説として承認されているに過ぎないという点である。この方法が、統計学で「仮説検定」hypothesis testingと呼ばれるようになる方法である。帰納推論に確率を付与することはできないが、その代わりに、ある誤差の範囲内で帰納が成功している確率である「確からしさ」verisimilitudeを付与することができる、とPeirceは言う。他方で、「事実が、帰納推論の結果に適合する確率」を求めることが可能であるのは、我々の世界だけでなくすべての可能世界を見渡し、それぞれに確率を割り振ることができる場合だけである。Peirceは次のように言う:
自然のあの配列やこの配列の相対確率について語る権利が我々にあるのは、宇宙が黒苺のように豊富に存在し、それらのある量を袋に入れ、よく混ぜてサンプルを抽出し、ある配列を持つ宇宙と別の配列を持つ宇宙のそれぞれの割合を調べることができる場合[だけ]である。[The relative probability of this or that arrangement of Nature is something which we should have a right to talk about if universes were as plenty as blackberries, if we could put a quantity of them in a bag, shake them well up, draw out a sample, and examine them to see what proportion of them had one arrangement and what proportion another.] (Collected Papers 2.684)
しかし、宇宙はもちろん一つだけである。ゆえに「自然のあの配列やこの配列」について語るのはナンセンスである。そして仮に、宇宙が複数あったとしても、それらを含むより大きな宇宙が存在するはずであるから、事情はやはり同じである。要するに、事前確率に正しい値(客観的な値)を割り振るにはすべての可能世界を見渡す必要があるが、そんなことは不可能であるから、確率の逆算法の使用者は正しい値の代わりに主観的な確率を忍び込ませている、というわけである。

【批評】

以上、Peirceによる主観確率批判を見てきたが、彼の批判は論点先取りであるように見える。客観的な値の代わりに、「無差別の原理」に基づいて主観的な値を事前確率に割り振ることがいけないのは、Peirceがすでに頻度主義の立場に立っているからであろう。しかし、主観確率がナンセンスであることを示すために彼は次のような例も挙げている。少々長いが全文引用しよう:
確率の概念的[主観的]見方では、仮説を支持する方向にも反対する方向にも傾くべきではないような完全な無知[の状況]は、1/2という確率によって表される。では、土星人の髪の色について我々が完全に無知であったとしよう。そして、あらゆる可能な色が示されたカラー表があったとしよう。この表では、すべての色が互いに知覚不可能な度合いでグラデーションをなしており、異なる色のクラスによって占められる領域の相対的な面積は全く恣意的である。こうした領域の一つを線で囲い、土星人の髪の色がこの領域内の色である確率を、概念的見方の諸原理に従って考えてみよう。我々は何らかの信念状態にあるはずだから、答えは不定であってはならない。実際、概念主義に立つ論者たちは不定な確率を認めない。確実なことは何も言えないので、答えは0と1の間である。そして、データからいかなる数値も得ることができないので、値はデータの計算ではなく確率の目盛りそのものの性質によって決めるしかない。ゆえに答えは1/2でしかありえない。なぜなら、[我々の]判断は仮説を支持するわけにも反対するわけにもいかないからである。さて、この領域について成り立つことは他のどの領域についても成り立ち、この二つの領域を含む第三の領域についても同様である。そして、二つの小領域の確率はそれぞれ1/2であるから、この第三の領域の確率は少なくても1であるはずである。しかしこれはナンセンスである。[In the conceptualistic view of probability, complete ignorance, where the judgment ought not to swerve either toward or away from the hypothesis, is represented by the probability 1/2. But let us suppose that we are totally ignorant what colored hair the inhabitants of Saturn have. Let us, then, take a color-chart in which all possible colors are shown shading into one another by imperceptible degrees. In such a chart the relative areas occupied by different classes of colors are perfectly arbitrary. Let us inclose such an area with a closed line, and ask what is the chance on conceptualistic principles that the color of the hair of the inhabitants of Saturn falls within that area? The answer cannot be indeterminate because we must be in some state of belief; and, indeed, conceptualistic writers do not admit indeterminate probabilities. As there is no certainty in the matter, the answer lies between zero and unity. As no numerical value is afforded by the data, the number must be determined by the nature of the scale of probability itself, and not by calculation from the data. The answer can, therefore, only be one-half, since the judgment should neither favor nor oppose the hypothesis. What is true of this area is true of any other one; and it will equally be true of a third area which embraces the other two. But the probability for each of the smaller areas being one-half, that for the larger should be at least unity, which is absurd.] (Collected Papers 2.679)
確かに、この結論はナンセンスである。このような結論が得られたのは、実際は確率が等しいわけではない(どころか存在すらしていない)事象に、「無差別の原理」によって等しい確率を割り振ってしまったからである。他方で、Bayes推定を繰り返すことによって、誤った確率(主観確率)を正しい確率(客観確率)に近づけることができるのもまた事実である。しかし、これもやはり主観確率が収束するべき客観確率が存在するということだろうか?

【偶然主義】

確率は客観的か主観的か、という問題に関して私は最終的な判断を保留するが、主観確率には収束する傾向が存在するということで、私はPeirceとともに客観的解釈の方にやや傾いている。しかし、確率が客観的に存在するとはどういうことだろうか?決定論が破れるということだろうか?実際、Peirceは「純粋な偶然が存在する」という偶然主義の立場を採っているが、これを避けることはできないのだろうか?

確率の「客観性」は、それが述定する推論が成功する(十分長期的な)相対頻度から来る。すなわち、確率が客観的と言えるのは、推論が実現するかどうかが、我々がコントロールできない事実によって決まるからである。もちろん、どんな確率も収束するというわけではない。先のPeirceの引用における土星人の髪の色の確率は当然収束しないが、賽子の出目の確率は一つの極限値へ収束する。

とはいえ、賽子の出目は、よりミクロのレベルで見れば決定論的な法則に従っていることを我々は知っている(ここでは量子効果は考えない)。ゆえに、賽子の出目の確率が客観的であったとしても、自然の階層性を区別することによって、決定論と両立させることができるように思われる。この見方に従えば、結局、確率は観測者の側における情報不足に帰せられることになり、そういう意味では主観的であるが、一つの極限値へ収束するという意味で、確率はやはり客観的な側面をも持つと言える。では、主観確率と客観確率ではすべての可能性が尽くされていないということだろうか?これを考えるには、「自然の階層性」という概念の中身をもっとはっきりさせる必要がある。

参考文献
  • Burch, Robert. 2010. "If Universes Were as Plenty as Blackberries: Peirce on Induction and Verisimilitude." Transactions of the Charles S. Peirce Society 46 (3): pp.423-452.
  • Peirce, Charles Sanders. 1878. "The Probability of Induction." in Collected Papers of Charles Sanders Peirce vol. 2, ed. Charles Hartshorne and Paul Weiss. Cambridge, Mass: Harvard University Press.

2013年10月21日月曜日

パース「我々の観念を明晰にする方法」について

以下の文章は、C. S. Peirce "How to Make Our Ideas Clear"の読書会のために私が用意したレジュメです。特記がない限り頁番号はすべてThe Essential Peirce Vol.1 (Indiana Univ. Press, 1992)のもの。



【明晰と判明】

 「信念の固定化」を扱った前回の読書会において述べたように、パースの「我々の観念を明晰にする方法」という論文は彼の「プラグマティズムの格率」が初めてその定式化を見た論文である。そして、パースのプラグマティズムの基本的な狙いは、デカルト以来の近代哲学の思考法を、彼が「科学の方法」と呼ぶ思考法によって克服することにあるのであった。そこで本論は、デカルトが『哲学原理』(Principia philosophiae)で導入した観念の明晰さの基準を批判するところから始まる。デカルトは観念の明晰さを定義して「注意する精神に現前し、明らかであること」(Principia philosophiae pt.1, 45)とした。つまり、明晰さの基準を内観的明証性に置いたのである。これは「どんな場合にそれに遭遇したとしてもそれだと分かり、他の観念と間違えたりしないこと」と言い換えることができる。もちろんデカルトは「注意する精神」という但し書きを付けたが、これだけだとある観念が明晰であることと、単に明晰に見えることとの間の区別が曖昧になってしまう。そこで彼は明晰さの第二段階として「判明さ」を導入した。すなわち「その内に明晰ならざる部分を有さないこと」という、より強い条件を付した。しかし観念の「部分」とは何であるか、デカルトの著作においてはあまり明らかではない。この難点を克服したのはライプニッツである。彼は概念一般を、その「定義」となる述語の系列に分解する手法を考案し、それらを同時にすべて把握することを認識の完全性の基準とした。つまり、明晰さの基準を抽象的定義に置いたのである。ところが、「三角形の内角の和は180度である」といったような、有限の分解手続きでトートロジーに還元可能な必然的命題はともかく、「カエサルはルビコン川を渡る」といったような偶然的命題の場合、分解手続きは無限に進行する。これは、「カエサル」という名辞には無限の述語系列が含まれており、それらを一挙に把握することは人間知性には不可能だからである。しかし、人間知性の条件を超えた明晰性の基準は、我々の既存の信念に秩序をもたらすことはあっても、新しい信念の獲得にとっては無益であり、さらなる探究の続行を不可能にする。パースはこの点を問題にし、これを解消するために明晰さの第三段階(the third level of clarity)の定式化を試みる。

【プラグマティズムの格率】

探究の目的である信念の固定化とは、我々の内にある行為への傾向性、つまり「習慣」(habit)の確立であった。ならば、我々の思考を明晰化することはとりもなおさず、その思考が規定する習慣を明らかにすることとなる。そして「習慣が何であるかは、それがいついかに我々の行為を生ぜしめるかにかかっている」(p.131)。この「いつ」とは、個々の行為を誘発する知覚経験の時点であり、「いかに」とは、行為がいかなる感覚的結果(sensible result)の内に実現されるか、である。これらの前提から、前回の冒頭でも引いた次の格率が導かれる:

認識の明晰性の第三段階に至るための規則は、必然的に次のものとなる:我々の概念の対象が、行動と関わりがあるかもしれないと考えられるどんな効果を持つと我々が考えるか、ということを考察してみよ。そうすれば、こうした効果に関する我々の概念が、その対象に関する我々の概念の全体と一致する。(p.132) 

これは、我々の対象認識一般を、その対象が我々の行為と関係を有するであろう場面において、「その行為の結果、いかなる反作用的な効果をもたらすであろうか」という信念に還元せよ、と命じる規則である。これが「プラグマティズム」の格率と呼ばれるのは、我々の認識をカントの言う「プラグマティッシュな信念」(pragmatische Glaube)、すなわち「ある行為に対する手段の現実的使用に根拠を与えるところの偶然的信念」(Kritik der reinen Vernunft A.825)に還元せよと命じるからである。これは、平たく言えば条件-帰結形式の対象認識である。あるなされるであろう行為という条件に対して、その行為が事実なされるとき(つまり条件が真であるとき)、その結果生じるであろう観察可能な反作用的現象がいかなるものであるか、考察してみよと述べているのである。モラーリッシュ(定言的)な法則をその哲学体系の支柱としたカントとは対照的に、パースは、プラグマティッシュ(仮言的)な法則をその哲学の核に据えているわけである。その思考法に敢えてカント由来の「プラグマティズム」という名前を付けたところに、パース自身が恩恵を受けたカントの哲学を「先験的方法」の一例として批判する意図を読み取ることができる。

【二つの効果概念】 

さて、パースのプラグマティズムの目的は、科学の方法、とりわけ実験科学の方法をモデルに哲学を再構築することにある。しかし、そこにはある両義性ないし混乱が含まれているように思われる。というのも、パースのプラグマティズム理解には二つの異なる「効果」の概念が含まれているように思われるからである。上で述べた説明では、「効果」とは、(A) 我々の行為に対して対象がもたらす反作用的な効果である。例えば「ダイアモンドを擦る」という行為に対して「傷付かない」といった効果である。本論でパースが取り上げているのは専らこちらの意味での効果である。もう一つ、(B) 我々がある概念を持つことによる効果も考えることができる。例えば「力」という概念を持つことによって我々は物体の速度変化や方向変化を理解することができる。つまり、対象ではなく概念自体がそうした実際的効果をもたらすということである。本論ではこの意味で「効果」という言葉は使われていないが、これに相当する発想がプラグマティズムの格率に読み込まれているように思われる。例えば、今述べた力概念の有用性について述べられている箇所がそうである:「我々の規則に従えば、まず力を考えることの直接的な利点を問わねばならない」(p.133)。また本論以外でも、これに相当する記述をいつくか見出すことができる。つまり「対象がもたらす効果」ではなく「我々の概念がもたらす効果」について語られている箇所である。例として、有名な箇所を二つだけ挙げておく。一つは1871年に発表された、A・C・フレーザー『バークリー著作集』(The Works of George Berkeley)に対するパースの書評からの一節である:

いくつかの事物が、実際的に同じ機能を果たすか?ならば同じ言葉によってそれらを指し示せ。果たさないか?ならば区別せよ。もし私がある出鱈目の公式を覚えて、その公式が、私の記憶を何らかの方法で上手く推進し、あらゆる場面においてあたかも私が一般的な観念を保持しているかのように行為することを可能にしてくれるのであれば、そうした出鱈目の公式と観念とを区別することに一体何の利点があろうか?経験に関する限り同一の物を、わざわざ一般的な観念という言葉によって区別する必要は、一体どこにあろうか? [Do things fulfill the same function practically? Then let them be signified by the same word. Do they not? Then let them be distinguished. If I have learned a formula in gibberish which in any way jogs my memory so as to enable me in each single case to act as though I had a general idea, what possible utility is there indistinguishing between such gibberish and a formula [sic] and an idea? Why use the term a general idea in such a sense as to separate things which for all experiential purposes, are the same?] (p.102)

この書評が書かれたのは、「我々の観念を明晰にする方法」でプラグマティズムの格率が初めて公に定式化される七年前であるが、プラグマティズムの着想自体はこの時期にすでに形を整えていたようである。この一節には、「概念の有用性」の見地から解釈されたプラグマティズムが明確に表れている。もう一つの箇所は、1905年の論文「プラグマティシズムの諸問題」("The Issues of Pragmaticism")からである。「我々の観念を明晰にする方法」でのプラグマティズムの格率の定式化が難解であることをパース自身が率直に認め、その代わりにもう少し分かりやすい定式化を次のように与えている:

どんな記号であれ、その記号が有する知的趣旨の総体は、その記号を受け容れることによって条件的に起こるであろう、あらゆる可能な異なる状況と意図の下での合理的行為の、あらゆる一般的様式の総体と一致する。 [The entire intellectual purport of any symbol consists in the total of all general modes of rational conduct which, conditionally upon all the possible different circumstances and desires, would ensue upon the acceptance of the symbol] (Collected Papers of Charles Sanders Peirce 5.438) 

プラグマティズムの格率の言い換えであると言っておきながら、ここでは「効果」への言及が抜け落ちている代わりに、「記号(概念)の意味」と「行為の一般的様式」とが同一視されている。ただし、我々の「行為の一般的様式」は我々が持つ概念の帰結と考えられるから、ここでもやはり「概念を持つことによる効果」が想定されていると見ていいだろう。 これはいかに理解すべきであろうか。現代の我々が「プラグマティズム」について語るとき、通常想定されているのは「概念を持つことによる効果」の方であろう。ウィリアム・ジェイムズが真理を「我々にとっての有用性」と定義したときに働いていた効果概念もこちらの方である。なればこそ、ますます「我々の観念を明晰にする方法」の中で粗描されているプラグマティズムとの乖離は重大な問題である。私はこの問題に対して、確定的な答えを用意しているわけではないが、一つの仮説はある。すなわち、二つの効果概念は実は同じことを語っているのではないか、という仮説である。例えば「虚数」の概念を例に考えてみたい。この概念は、内観的明証性を欠くにも関わらず実践の中で何の問題もなく使用されているということで、とりわけ鮮やかにプラグマティズムの格率が活きるパラダイム・ケースであるように思われる。さて、(B)の効果概念の方から考えてみよう。我々が「虚数」の概念を持つことによる効果とは、例えば三次方程式を解くことができるという事実である。ここに「虚数」概念の我々にとっての有用性が存する。では(A)の場合はどうであろうか。「虚数」の概念の対象は、もちろん虚数である。対象たる虚数が、我々の数学的実践に対してもたらす効果とは、やはり三次方程式の解を導くことである。つまり二つの効果概念の中身が一致している。これが他のすべてのケースについても同様に当て嵌まるかどうかに関しては、自信がない。例えばダイアモンドの例で言えば、擦るという行為に対して「傷付かないこと」と、「擦っても傷付かないという信念が規定する行為への傾向性」との間には隔たりがあるように思える。この違いは一体どこからくるのか、私には上手く説明できない。皆様は如何だろうか。

2013年8月31日土曜日

ハイエクの暗黙知理解について : コメントに対する返信

この記事は、私の過去の記事「設計主義のなにが問題なのか? ハイエクの知識論」に対して、匿名の方から寄せられたコメントに対する返事です。文章量が多くなってしまったので、別箇の記事として投稿することにしました。

匿名様のコメントは以下の通り:
 (2) その知識の大部分は「暗黙知」(tacit knowledge)であり、言語化・分節化できない。

 のところですが、この暗黙知解釈は、野中郁二郎さんの解釈ですが、間違っていますよ。ハイエク自身は、ポラニーについて、また、暗黙知については言及していないでしょ。ハイエクに添って、解説してほしいです。
  野中解釈は、暗黙知と明示知で、暗黙知なるものを実体化していますが、ポラニーが言ったのは、知るということ(知識が身につく)のプロセスにおいて、暗黙 の次元がある、ということです。暗黙知は、tacit knowingですから、knowingは動名詞です。暗黙の(語れない、分からない)作動なしに、知るということはない、といったのです。
 それから、
(3) 価格情報は、これら分散的・暗黙的な知識を集約的に表現する「指標」である。価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある。

 が省略されていますが、既存の経済学との対峙という意味では、これが重要ですね。できれば、説明していただきたいです。
以下、これに対する私の返信です。



コメントありがとうございます。仰る通り、この記事の内容は杜撰です。私が二年前に書いたものですが、今だったらこんな風に書きません。

まず、ハイエクの暗黙知理解について。私は、野中郁二郎氏を存じ上げませんが、どこかで見聞した通俗的な解釈を(それこそ暗黙的に)流用してしまったものと思われます。仰る通り、ハイエクに関してはこの記事の説明は的外れです。しかし、ハイエクがポランニーや暗黙知に言及していない、というのも誤解です。例えば論文「ルール、知覚、理解可能性」の中でポランニーの暗黙知理論が引かれています(Studies in Philosophy, Politics and Economics p.44)。

ただ、ハイエクの暗黙知理解とポランニーの暗黙知理解は大きく異なります。ポランニーにとっては、(その主著のタイトル『個人的知識』が示しているように)暗黙知はあくまで「個人」のものです。なお、少々脱線しますがポランニーにとって暗黙知は実体ではなく動名詞であるという貴方の指摘に関して、一点注意を促したいと思います。確かにポランニーは専らtacit knowingという言い方をしますが、彼はThe Tacit Dimensionの冒頭で次のように断っています:"I shall always speak of 'knowing,' therefore, to cover both practical and theoretical knowledge" (p.7)。つまり実践的と理論的双方の「知識」を包括的に指す言葉としてknowingを使用する、ということです。ポランニーの主眼が、知る行為の結果である知識よりも知る行為そのものに置かれていることは間違いないですが、必ずしも前者を排除しているわけではないでしょう。こうした、暗黙知の実体化を排除する見方はおそらく松岡正剛氏の解釈から来ているのだと推測しますが、この見方はポランニーの真意に沿うものではないと思います。松岡氏はパン生地をこねる職人の技能は暗黙知ではないと言い切っていますが、ポランニーははっきりと診断医(The Tacit Dimension pp.6-7)やピアニスト(同 p.18)の技能を暗黙知の例として挙げています。

では、ハイエクの場合はどうでしょう。ハイエクにとって暗黙的なのは知覚や行為を統御する「ルール」です。ここで重要なのは、(明示的)「知識」を保持しているのは個人であるが、「ルール」を保持しているのは個人ではない、という点です。ハイエクにとって知覚ルールや行為ルールは、複雑な環境に対して適切に振る舞う必要性から、長い年月をかけて進化してきたものです。こうしたルールは、進化の遅い段階で一部が成文法といった形で明文化されることはあっても、その本質においては暗黙的なもので、人間はこうしたルールに従うことによって、彼が(明示的に)知っている以上のことを知ることができる、とハイエクは述べています。言い換えれば、一人ひとりの人間は自分の周囲の限られた領域の事柄以外に関しては無知であるにも関わらず、こうした暗黙的なルールに従うことによって、彼は知らず知らずのうちに、彼の認識可能な範囲を超えた遠い場所や遠い過去の事柄に関する知識を有効に活用することができる、というわけです。これが可能なのは、(繰り返しになりますが)こうした認識可能な範囲を超えた知識の存在形態が「ルール」に他ならないからです。ハイエクのこうしたルール概念については、「ルール、知覚、理解可能性」(Studies in Philosophy, Politics and Economics pp.43-65)、「行為ルール・システムの進化に関するノート」(同 pp.66-81)、および「抽象的なるものの先行性」(New Studies in Philosophy, Politics, Economics and the History of Ideas pp.35-49)が参考になります。

したがって、ハイエクにとって、「暗黙知を明示化できない」という前提から直接「集産主義は不可能」という結論が導かれるわけではありません(だからこそ私が件の記事に載せた説明は的外れなんです)。ハイエクの議論を正しく図式化すれば、「文明の複雑化に伴って人間が暗黙的なルールに頼る度合いが増加する」→「一人ひとりの人間の認識可能な範囲がますます狭くなる」→「こうした大きな社会においては、分散した知識を一箇所に集めることができない(集産主義が不可能)」という風になると思われます。つまり、集産主義に対するハイエクの批判の要点は、明示化できない知識をむりやり明示化しようとしている、といったことではなく、あくまで知識の分散です。『自由の条件』の第二章がこの議論を分かりやすく表していると思うので、二節だけ引いておきます(原文ですみません、手元に翻訳はないのです):
While the growth of our knowledge of nature constantly discloses new realms of ignorance, the increasing complexity of the civilization which this knowledge enables us to build presents new obstacles to the intellectual comprehension of the world around us. The more men know, the smaller the share of all that knowledge becomes that any one mind can absorb. The more civilized we become, the more relatively ignorant must each individual be of the facts on which the working of his civilization depends. The very division of knowledge increases the necessary ignorance of the individual of most of this knowledge. (The Constitution of Liberty: The Definitive Edition p.78)

We have now reached the point at which the main contention of this chapter will be readily intelligible. It is that the case for individual freedom rests chiefly on the recognition of the inevitable ignorance of all of us concerning a great many of the factors on which the achievement of our ends and welfare depends. (The Constitution of Liberty: The Definitive Edition p.80) 
また、"The Epistemological Argument Against Socialism: A Wittgensteinian Critique of Hayek and Giddens"という研究の中で、Nigel Pleasantsがまさにこの点においてハイエクを誤解している(ハイエクの暗黙知概念をルールではなく個人が保有するものと考えている)ために、かえって非常に参考になります。私自身、この論文を読んで自分の解釈の誤りに気付かされました。お勧めしておきます。

最後に、第三のテーゼ「価格情報は、これら分散的・暗黙的な知識を集約的に表現する『指標』である。価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある」について。これも大分杜撰な書き方をしてしまいました。私は経済学の知識に乏しいので、残念ながら大して有意義なことは述べられないです。これを書いたとき私の念頭にあったのは、塩沢由典氏の「ミクロ・マクロ・ループ」という概念だったと思います。つまり、経済現象のミクロなレベルにおける振る舞い(行為主体の経済活動)と、マクロなレベルにおける振る舞い(様々な慣習的・制度的構造の出現)は因果的にループしている、という考えです。価格システムも大局的なレベルにおける制度構造の一つということで、「価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある」という風に書いたんだと思います。このミクロ・マクロ・ループの考えが、新古典派経済学の方法論的個人主義(ただしオーストリア学派の方法論的個人主義とは異なる、狭い意味でのそれ)に対する批判の基礎になります。しかし、これはかなり大雑把な物言いです。私の見解に耳を傾けるより、塩沢由典『複雑さの帰結』(ミクロ・マクロ・ループが出てくるのは確か第三章だったと思います)を読まれた方が遥かに有益と思われます。

2013年6月22日土曜日

マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』について

以下の文章は、マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』の読書会のために用意したレジュメである。担当箇所はpp.79-91。頁番号は、特に断りのない限り、全て高橋勇男訳(ちくま学芸文庫)のもの。



【背景―暗黙知的構造の拡張】

マイケル・ポランニーの「暗黙知」(tacit knowing; tacit knowledge) [1]と言えば、「言葉に表せない・明示化できない知識」だとよく説明される。もちろんこれは全く正しい。実際、本書の第一章は専ら暗黙知のこの側面の考察に割かれている。しかしそれは他方で暗黙知の一側面、認識論におけるその顕現に過ぎない。暗黙知概念そのものの射程はもっと広い。というのも、『暗黙知の次元』におけるポランニーの企ては、暗黙知的構造の及ぶ範囲を人間の認識・知覚から世界そのものへと広げることだからである。第一章では、人間の認識・知覚の暗黙知的構造が考察の対象であった。そこでポランニーは「内在化」(interiorization)、ないし「身体化」(in-dwelling)という概念を提示し、ある事物を近位項として機能させることによって、我々が自らの身体を世界の方へと開いていく様子を描いていた。この延長線上に第二章の存在論の議論がある。ここでポランニーは、職人の技を理解するという事例を挙げ、次の仮定を置く:「他のすべての暗黙知の事例においても、包括する行為の構造と、その行為の対象たる包括的存在の構造は、一致する」(p.63; 原文傍点)。この仮定は、暗黙知概念を認識・知覚の領域から存在論の領域へ拡張する上で、議論の鍵となるアイデアであるように思われるものの、正直言って非常に理解しづらい。具体的に言えば、ポランニーは一体どのような世界観に基づいてこのような仮定を置いているのか、いまいちピンと来ないのである。この問題は後で取り上げることにして、とりあえず長い前置きを終えて自分の担当箇所に移りたい。

【境界制御の原理】

第二章の前半でポランニーは、すべての生命現象を物理学と化学の法則によって説明しようとする生物学者を批判するという論脈で、「境界制御の原理」(the principle of marginal control)という概念を提示していた。システムの下位レベルの諸要素の振る舞いに境界条件を付与することによって、上位レベルに一定のパターンが出現するが、こうした境界条件の付与を「境界制御」と呼んでいるのである。そしてポランニーの主要論点は、具体的な境界制御の決め方、すなわち上位レベルの組織化原理は、下位レベルからは論理的に独立であり、したがって後者だけからは出現しえない、ということである(pp.79-80)。ポランニーは、下位レベルに存在しない組織化原理が上位レベルで出現するこうした過程を「創発」(emergence)と呼び、非生命からの生命の誕生にそのパラダイムを見ているのである(pp.78-79)。

【進化論の神学的書き換え】

アンリ・ベルクソンの「エラン・ヴィタール」(生命の跳躍)とも共鳴するこうした創発概念に基づき、ポランニーは、進化論の大胆な書き換えに着手する(p.82)。彼によれば、現行の進化論が前提とする自然淘汰説は、新種の個体群の出現は説明できても、新種の個体の出現を説明できない(p.83)。ある一個の人間の発生の系譜を太古の原形質まで遡って考えたとき、その発生の因果連鎖には、自然淘汰に欠かせない「逆境」(adversity)の要素が存在しない、と言うのである。議論が簡潔過ぎて決して分かりやすいとは言えないが、少なくともポランニーが考えている進化が、ランダムな突然変異と淘汰の積み重ねではないことは明らかであろう。彼からすれば、生物学の専門家たちが想定するこうした進化概念では、新奇性や自律性の出現を説明できないのである。ポランニーにとって進化とはむしろ、科学活動におけるのと全く同じような「発見」のプロセスなのである(pp.85-86)。これはおそらく、メタファーでも単なる擬人化でもなく、文字通り、意味獲得に関わる暗黙知的構造が、生命が誕生する原初の創発から、人間の認識・知覚に至るまで、貫いて伏在しているということなのだろう(ところでこの同一視こそが、私が上で挙げた問題に繋がる)。ここで、下位レベルの組織化原理が未決定のままに開いている境界条件を埋めるという跳躍的作用が、近位項から遠位項に向かって意味を見出す認識の運動に対応するのだろう(とはいえこの対応関係も本書の記述ではあまり明確とは言えない)。そして太古の原形質に始まるこの宇宙論スケールの進化のプロセスの頂点に位置するのが人間の知能、とりわけその道徳感覚である(p.86, pp.89-90)。これは露骨なほど明らかにキリスト教的な立場である。[2] 少々長くなるが、この点について参考になるので、ポランニーの主著『個人的知識』(Personal Knowledge)の結びの言葉を引いておこう:

われわれの知る限り、人間に体現されている宇宙の微小な諸断片は、可視的世界における思考と責任の唯一の中心である。もしそれが真実ならば、人間の心の出現は、いまのところ世界の覚醒の究極的な段階であり、それに先んじたすべての物事、生きることと信ずることのリスクを引き受けた無数の中心の格闘は、すべて、さまざまに異なる経路をとりながらも、現在、われわれがここまで達成している目標を追求してきたように思われる。それらは、すべてわれわれの血族である。というのは、これらすべての中心、すなわち、われわれ自身の存在をもたらし、その多くがすでに消滅した異なる経路を生み出した、無数に多くの他の中心の存在をもたらした、すべての中心は、究極的な解放に向かっての同一の努力に従事しているように見えるからである。われわれは、そこで、ひとつの宇宙の場を、短命で限定され危険に満ちた機会を各中心に与えて、それらが考えもおよばない完成に向かって前進するようにと命じた、ひとつの宇宙の場を思い浮かべてもよいかもしれない。そして、それはまた、——私はそう信ずるが——キリスト教徒が神を礼拝するときの在り方でもあるのだ。[3]
 
非キリスト教徒の近代人にとって、このような記述を理解するのは容易ではないだろうし、共感することはほぼ不可能だろう。しかし、この壮大な形而上学が荒唐無稽に見えるとすれば、それは偏に、我々近代人が人間と自然を切り離して考える習慣に囚われているからだ、とポランニーなら言うかもしれない。そしてこの点が再び、私が冒頭に挙げた問題に繋がる。すなわち、いかなる世界観に基づいてポランニーは、認識論・知覚論の次元における暗黙知と、存在論の次元における創発とを同一視しているのか、という問題である。

 【主体と客体の融即】

暗黙知と創発を巡るポランニーの議論を初めて読んだとき、私には非常に奇妙に感じられた(今読み返してもやはり奇妙である)。その理由は、彼が主体と客体の区別に無頓着であるからだと思われる。暗黙を論じているのだから、当然、その「知」を所有しているのは誰なのか、という主体の問題が出てくる。人間の認識・知覚を論じている限り、主体性の在処ははっきりしている。すなわち個人である。しかし議論が創発に移り、暗黙知と創発が同一視された途端に、語られているのは誰の暗黙知なのか、訳が分からなくなる。私は以前、ポランニーを一種の観念論者として解釈していた。つまり、個人が所有する暗黙知の及ぶ範囲が、身体から、例えば歩き慣れた道といった境界事例を通して、究極的には世界全体とぴったり一致する、といったような描像である。しかしこのような解釈ではポランニーの記述を整合的に解釈することが難しいことに気付いた(例えば、生命誕生の瞬間には当然、それを認識する人間主体が存在しなかった)。そこで辿り着いたのが、ポランニーにとってはあらゆる生命(そして非生命?)が、視点や状況に応じて主体であったり客体であったりする、という一種の汎心論的見方である。暗黙知と創発の具体的な対応関係は相変わらず曖昧であるものの、少なくともこの解釈にはシンプルさの利点があるように思うが、如何だろう。ところで本節のタイトルに挙げた「融即」という言葉は、ポランニーに影響を与えたらしいフランスの社会哲学者・文化人類学者レヴィ=ブリュールに由来する。未開部族の観察から彼は、個人が自らの感情や動機を外界の事物と共感的に同一視する作用に注目し、これを「融即」(participation)と名付けたのである。[4] こうした関連から、ポランニーの暗黙知と創発の同一視が含意する主体と客体の問題を考えてみるのも興味深いかもしれない。



[1] tacit knowingもtacit knowledgeもともに「暗黙知」と訳されるため、邦訳ではこの区別が難しくなる。ポランニーが使うのは専らtacit knowingの方であるが、このことから、彼の暗黙知概念は動名詞であるから「知識」のことではない、と結論するのは早計である(実際このような主張をしばしば目にする)。というのも『暗黙知の次元』の冒頭で彼は次のように断っているからである:「私は“知る”(knowing)という言葉を常に、実践的な知識と理論的な知識(practical and theoretical knowledge)の両方を包含するものとして使う」(原著p.7; 高橋訳では文意が伝わりづらくなっているので、敢えて拙訳を用いた)。

[2] ポランニーはユダヤ人の家庭に生まれているものの、熱心なキリスト教徒である。1919年にはカトリックの洗礼を受けており、後年プロテスタントの立場に傾倒していったようである(William T. Scottによるポランニーの伝記Michael Polanyi: Scientist and Philosopherを参照)。また、『個人的知識』は英語圏ではキリスト教神学者への影響が絶大であり、ポランニー体系の研究や解説の多くがキリスト教神学の論脈においてなされているそうである。

[3] マイケル・ポランニー『個人的知識』(長尾史郎訳,ハーベスト社,1995年)。今手元に本がないので頁番号は不明。

[4] リュシアン・レヴィ=ブリュール『未開社会の思惟』(山田吉彦訳,岩波文庫,1991年)

2012年9月24日月曜日

【メモ】 Hayek in Mind: Hayek's Philosophical Psychology

<Leslie Marsh, ""Socializing" the Mind and "Cognitivizing" Sociality">

本書の導入論文。短いながらも素晴らしい。

Hayek is different things to different people, ranging from well-founded, though selective, characterizations to ill-founded and tiresome caricatures. Perhaps this is the fate of all genuine polymaths, easily amenable to being coopted in the service of some ideological stance or subject to the more subtle phenomenon of exclusion through disciplinary protectionism. Hayek was well aware of this twofold danger. Hayek didn’t view himself in the way the grandiose term"polymath" usually suggests but rather as a man interested in all aspects of human endeavor, none of which can easily be hived off without at some point skewing the study. (p.xiii)

<Erol Başar, "Views of Hayek, Hebb, and Heisenberg: Toward an Approach to Brain Functioning">

ポストモダン脳科学?この論文を読む限り、トンデモである(英語も滅茶苦茶。誰か校正する人いなかったのか…?)

<Joshua Rust, "Hayek, Connectionism, and Scientific Realism">

現在の認知科学、心の哲学の文脈にHayekの『感覚秩序』を位置づける。Hayekは、(一方で精神的秩序は物理的秩序の部分集合であるとしながら)物理的秩序も精神的秩序の部分集合である、という考え方にコミットしているので、科学的実在論を前提とするコネクショニズムやSearleらの議論とはそもそも問うている問いが違うのだ、という指摘は面白い。それにしてもSearleとかFodorはつまらな(ry

Hayek's operative question concerns the gap between two different kinds of mental orders: that of our ordinary classificatory system and that of the classificatory system of an idealized someone who is very much like us except with the addition of great deal of investigative experience. Hayek's gap, then, is epistemic rather than ontological. When he speaks of a potential isomorphism between mental and physical orders, this is to be understood in terms of the distance between how the world is ordinarily construed (the manifest image) and how a future scientist might come to construe it (however limited). (p.42)

<Don Ross, "Hayek's Speculative Psychology, the Neuroscience of Value Estimation, and the Basis of Normative Indivualism">

むむ…難しい。神経科学についての知識不足ゆえ満足に理解できたとは言い難い。Hayekが最後まで記述的個人主義を保持していたという前提には疑問があるが、規範的個人主義を擁護するRossのやり方は面白い。

For humans, relatively thoughtless mimesis and obedience to norms come naturally and easily; but self-creation and self-maintenance is the difficult and often traumatically challenging project that consumes much of the energy expenditure of a normal life. This is the basis of, and naturalistic justification for, normative individualism. A person's self is her most precious asset, which demands continuous investment. If its integrity is cast into doubt her capacity to enter into mutually beneficial exchanges - the fundamental survival strategy of Homo sapiens - is threatened, and she risks paying ruinous costs through denial of status and emotional bonds. (p.68)

<Edward Feser, "Hayek, Popper, and the Causal Theory of the Mind">

本書で一番面白かった論文。感想はTwitterに載せたので繰り返さない。

We have had to assign a certain interpretation to the otherwise meaningless symbolic representations we have decided to count as the 'premises' and 'conclusion' of a given inference the machine is to carry out, and we have had to design its internal processes in such a way that there is an isomorphism between them and the patterns of reasoning studied by logicians. (p.77)

"[F]or any any causal system there is a limit to the complexity of other systems for which the former can provide the analogon of a description or explanation, and that this limit necessarily excludes the possibility of a system ever describing or explaining itself. This means that, if the human mind were a causal system, we would necessarily experience in discussing it precisely those obstacles and difficulties which we do encounter and which are often regarded as proof that the human mind is not a causal system." (F.A. Hayek, "Within Systems and About Systems" Paragraph 1)

Natural selection favors survival value, not truth or falsity. Hence, you are not going to get truth or falsity from natural selection, and neither will you get from it the concepts that thoughts and statements - the sorts of things that are susceptible of being either true or false - presuppose. (p.95)

<James R. Wible, "C.S. Peirce and F.A. Hayek on the Abstract Nature of Sensation and Cognition">

比較の題材としてPeirceとHayekを取り上げるところにはセンスを感じるが、残念ながら内容は皮相的。

"The connection between the afferent and efferent nerve, whatever it may be, constitutes a nervous habit, a rule of action, which is the physiological analogue of the major premiss." (C.S. Peirce, Studies in Logic by Members of the John Hopkins University p.422)

"Now, Mill seems to have thoughtlessly or nominalistically assumed that a fact, is the very objective history of the universe for a short time, in its objective state of existence in itself. But that is not what a fact is. A fact is an abstracted element of that." (C.S. Peirce, Reasoning and the Logic of Things p.198)

<Jan Willem Lindemans, "Hayek's Post-Positivist Empiricism: Experience Beyond Sensation">

この論文も面白かった。明示化可能な知識を可能にする明示化不可能な超越論的形式は、神経インパルスが走るために整備されていなければならないシナプス結合のネットワークなんだよね。それもまた(広い意味での)「経験」の産物であるゆえ、Hayekの哲学はKantianではなく、むしろ「HumeとともにHumeを超える」経験論であると。

Like in computers, the rules on how it [the brain] can be 'reprogrammed' are present in the brain, while the actual inputs for this reprogramming ultimately come from outside the brain... The external environment that 'does the programming' is not consciously aiming at something - although some activities, like propaganda, could be interpreted as real neural programming. (p.165 n12)

In the case of individual experience, the co-occurrence of impulses precedes the formation of a connection. However, in the case of racial experience, the 'conjecture' of a connection precedes the occurrence of any impulses. For instance, if the connection between. 'brightly colored animal' and 'poison' is innate, such an animal will never have experienced, not even in a pre-sensory manner, the simultaneous occurrence of bright colors and poison before the connection was present – nor will one of the ancestors ever have had such an experience. (p.160)

<Giandomenica Becchio, "A Note on the Influence of Mach's Psychology in The Sensory Order">

『感覚秩序』では一回もHumeが引用されていないということには気付かなかった。Hayekの認知科学はHumeよりはむしろMachの影響が強いんだね(間接的にはHumeの影響を受けていると言えるかもしれないが)。Machの『感覚の分析』を読んでみたくなった。

"[A]lthough the theory developed here was suggested in the first instance by the psychological views which Ernst Mach has outlined in his Analysis of Sensations and elsewhere, its systematic development leads to a refutation of his and similar phenomenalist philosophies: by destroying the conception of elementary and constant sensations as ultimate constituents of the world, it restores the necessity of a belief in an objective physical world which is different from that presented to us by our senses." (F.A. Hayek, The Sensory Order 8.37)

<Gloria Zúñiga y Postigo, "The Emergence of the Mind: Hayek's Account of Mental Phenomena as a Product of Spontaneous Order and Social Orders">

"While there can ... be nothing in our mind which is not the result of past linkages (even though, perhaps, acquired not by the individual but by the species) , the experience that the classification based on the past linkages does not always work, i.e., does not always lead to valid predictions, forces us to revise that classification." (F.A. Hayek, The Sensory Order 8.14)

"The task of science is thus to try and approach ever more closely towards a reproduction of this objective order - a task which it can perform only by replacing the sensory order of events by a new and different classification." (ibid., 8.28) 

He [Hayek] does not conflate metaphysics with epistemology by suggesting that there is no reality beyond perception. In fact, he recognizes that perception is always an interpretation of reality (TSO 6.36). Yet, he argues that 'any attempt to reduce [the task of science] to merely a complete description of the phenomenal world' must break down because in the sensory order events are not classified in the same way as in the objective realm (TSO 8.30). Hayek seems to believe that the recognition of this distinction in classification in the subjective and objective realms is one of the main contributions of TSO [note: TSO vii]. This realist perspective, however, has been overlooked. (p.187)

<Chiara Chelini, "Hayek's Self-Organizing Mental Order and Folk-Psyochological Theories of the Mind">

本書で一番つまらなかった。「メンタライジング」はHayekの分類理論では説明できないという前提で論が進んでいくが、これはHayekの分類理論を理解していない証左。

<Chor-yung Cheung, "Beyond Complexity: Can The Sensory Order Defend the Liberal Self?">

言いたいことは分かるが、自由主義的な自我概念を無条件に価値あるものと見なすことを、Hayekならあくまで帰結主義的に認めるだろうな。少なくとも、そのような自我概念を共有していない人に対する説得力は弱いだろう。

<Thierry Aimar, "Cognitive Opening and Closing: Toward an Exploration of the Mental World of Entrepreneurship">

私の興味の範囲から若干ズレるので割愛。

<Troy Camplin, "Getting to the Hayekian Network">

どちらかというとネットワーク理論の紹介。整理されているとは言い辛いが、内容は面白い。

If everything in the universe is self-organized, where do we get this idea, resurrected by socialists, that conscious design is the norm? Humans, like most animals, evolved to immediately, instinctively recognize the signs of others of their species. With wolves, lions, and other strongly territorial species, scent signs mark territory to warn off others. But humans are more visual, so we leave visual evidence of order. As a consequence, we associate the presence of order with an orderer or designer, and the development of creationist theories to explain nature, soul theories to explain the mind, and governments to order society. Darwinism and self-organization theories replaced creationist theories (for most people); top-down soul theories, including Descartes' homunculus theory, evolved into CAS theories of the brain's network structures, out of which the mind emerges; top-down social theories (where the hierarchical structure of the Catholic church was reproduced in other Western social structures, for example) gave way to Adam Smith's bottom-up self-organizing "invisible-hand" theory. While life and mind have continued to evolve toward theories of self-organization, our social theories took a u-turn when socialism emerged as a respectable theory of economic ordering. The designer fallacy, increasingly abandoned in theories of life and mind, was readopted in our social theories. (p.260)

"Coevolving adaptive agents attempting to predict one another's behavior as well as possible may coordinate their mutual behavior through optimally complex, but persistently shifting models of one another." (Stuart Kauffman, The Origins of Order p.404)

"[W]hen an environment is stable, there is a selective pressure for learned abilities to become increasingly innate. That is because if an ability is innate, it can be deployed earlier in the lifespan of the creature, and there is less of a chance that an unlucky creature will miss out on the experiences that would have been necessary to teach it." (Steven Pinker, The Language Instinct p.244) 

"In general, a range of brain circuits, defined by our genes, provide "pre-representations" or hypotheses that our brain can entertain about future developments in its environment. During brain development, learning mechanisms select which pre-representatations are best adapted to a given situation. Cultural acquisition rides on this fringe of brain plasticity. Far from being a blank slate that absorbs everything in its surroundings, our brain adapts to a given culture by minimally turning its predispositions to a different use. It is not a tabula rasa within which cultural constructions are amassed, but a very carefully structured device that manages to convert some of its parts to a new use. When we learn a new skill, we recycle some of our old primate brain circuits - insofar, of course, as those circuits can tolerate the change." (Stanislas Dehaene, Reading in the Brain p.7)

"[M]ore complex networks tend to fluctuate less and are more stable than simpler networks." (Mark Buchanan, Nexus p.146)

If we can avoid the temptation to retreat to less connected modularity, the egalitarian network will bring everyone up – so long as good rules and good institutions, decentralization, and avoiding the temptation to try to control the system reign. (p.277)

"If the loss of links pushes the network efficiency down and environmental volatility up past some critical level, the strongly homogeneous network structure will break down into a sparse, hierarchical structure, similar to a core-periphery and is accompanied with a breakdown in network efficiency." (Frank Schweitzer et al., "Economic Networks: The New Challenges" in Science, 325 (5939) p.423)

Our hypersensitivity to intention may make it difficult to persuade belief in spontaneous orders. We want to believe in creationism or intelligent design, whether in cosmology, biology, government, or economy. Yet, science helps us understand the world beyond how we are programmed to see it. (p.280)

2012年8月7日火曜日

【メモ】 E・シュレーディンガー、『わが世界観』

【道を求めて】

もしわれわれがすべての形而上学を除去してしまうならば、どんな専門科学の、きわめて限られた領域の分野についてさえも、なんらかの明瞭な説明をするのはますます困難に、というよりはおそらく不可能になるであろう。(p.49)

われわれは認識の道を進むときに、あたかも霧の中から差し出されるかのような、目に見えない形而上学の手によって導かれざるをえない。しかし[同時に]、形而上学のやさしい魅惑によって奈落へ誘い込まれないように、たえず用心し身構えていなければならない。(p. 51)

形而上学は、その進行の過程で物理学に姿を変える。――これはもちろん、カント以前にそうであったろうという意味ではない。すなわちこの変容は、初めはま だ不確かであった憶測を次第に確定することによってなされるのでは決してなく、哲学的観点の明晰化とその変遷とによって実現されるのである。

深い眠りの前後で私の意識が同一であるのとまったく同じ意味あいにおいて、ある人の意識と、その先祖のうちの一人の意識とは同一である、と主張することができる。(p.85)

「君のように、向こうに座っている者がいる。彼も君と同じように、ものを考えたり感じたりしている」。さて、このあとをいかに続けるかが肝要である。すなわち「向こうにも自我(Ich)があり、それも私(Ich)なのである」と続けるか、それとも「向こうにもう一つの自我(ein Ich)があり、それは君の自我と同じような第二の自我である」と続けるのか、いずれかである。以上の二つの見解を区別するのものは、「一つの(ein)」という単語、つまり不定冠詞のみである。この語が「自我」を普通名詞に格下げしている。なによりもこの「一つの(ein)」という語が、観念論との決別を修正不可能にし、世界を様々な亡霊で満たし、そしてわれわれを救いようのないアニミズムの腕の中へと追い込むのである。(p.104)

私の友人A氏がいま瞬間的に感じ、知覚し、考えていることを私に話したとしても、それは、私の意識にとっては、そのことがらの内容そのものではない。そして私自身が一時間前あるいは一年前に感じ、知覚し、考えたこともまた、いまの私には、直接意識することはできない。私は、その内容の多少なりとも明確な痕跡に気付くのみである。それは、A氏の感じたことが私に伝えられ、それに対して私が持つ印象と、本質的に異なるものではない。(pp.104-105)

[無機的なものと有機的なもの]というこれらの対象物には完全な連続性があるにもかかわらず、無機的なものから有機的なものへの移行は、徐々に行われるのではない。 なぜなら、観察者の立場というものは、対象物の形態にしたがってゆるやかな変更を強要されたとしても、一瞬のうちに変更されてしまうものなのであるから。形相が変化する中で、不変の質料を観察の対象とするか、あるいは質料が変化する中で、不変の形相を観察の対象とするか、そのいずれか一方は可能だが、同時に両方を対象にすることはできない。(pp.116-117)

われわれが意識的に――しかも幾分積極的に――関与している任意の現象が、もしまったく同じ仕方で繰り返されるならば、この現象は次第に意識の領域から消えてゆくだろう(p.121)

意識とは、具象的に言えば、以下のような意味での教師であると言えよう。すなわち彼は、生命体の修練を監督するものである。彼は、新しい問題が現れるたびに助言を求められはするが、生徒たちが十分に熟練していることを知っている場合には、彼らが独力ですべての課題に取り組むようにさせるのである。(pp.124-125)

さて、われわれの精神生活という観点から理解される、このような個体発生の実状を、同様に系統発生にも適用させることは、それほど大胆な試みとは言えないであろう、と私は思う。もし系統発生への適用を行えば、それによって無意識的かつ反射的な交感神経の機能にかんする説明がただちに得られるであろう。……交感神経の機能は、いわば固定化され、化石化された脳機能だということになる。(p.126)

脳のみならず身体全体、つまり個体発生全体は、過去幾度となく生じてきた諸々の事象が徐々に埋め込まれ、記憶となったものの反復なのである。それゆえに、これまで神経系の諸過程における特性として位置づけてきたものは、有機的な事象の一般的特性なのである、という仮定を妨げるものはなにもない。つまりそれが新しい限りにおいて、有機的事象は意識と結びつくのである。(p.128)

個々の個体発生においては、その個体の有する特殊性のみが意識化されるのである。有機体が、特異な変化をする環境条件に対して変化し、適切に機能する器官を持つ限り、有機的事象は意識を伴うものである。……われわれ高等脊椎動物は、そのような器官を脳に、しかも本質的には脳の中にのみ持っている。したがってまさにこの理由により、われわれの意識は脳の活動と結びついていると言えるのである。なぜならわれわれの脳は、変化する環境条件に適応する、まさにその器官なのであり、われわれが種[人類」として進化発展に従事する、この身体の部位なのであるから。要するに、脳は――具象的に言うならば――われわれ[人類という]種族の成長しつつある頂端部とでも言うべきものである。(p.129)

【現実とは何か】

これまでの各章で、私は以下のことを示そうと努めてきた。第一に、(われわれが広範な経験を共有するその原因としての)外部世界という仮定は、このような共有を認識するためになにも提供してはくれず、共有の認識[なる問題]については、この仮定があろうとなかろうと同様に考えなければならないということである。第二に私は次のように――それは本来証明が不可能であり、その必要もないものである――繰り返し強調してきた。すなわちその過程をもとにした、物質世界とわれわれの経験との因果関係というものは、意志行為の場合と同様に感覚に関して言うならば、自然科学において間違いなく実際上重要な役割を演じている通常の因果関係とは、類として(toto genere)まったく異なっているということ、そしてジョージ・バークリを通して、さらにデーヴィッド・ヒュームを通してより明瞭になったように、そのような因果関係は、このゆえ(propter hoc)のものとしてではなく、このあと(psot hoc)のものとしてしか現実には観測されないことがわかったということである。最初に述べたことからして、[共通経験の原因となる]物質世界という仮定は形而上学的なものとなる。なぜなら一般に観測可能なもののの中で、そのような仮定と一致するものはなにもないからである。第二に述べたことからして、それは神秘的なものになる。なぜならわれわれのおびただしい経験の中で、このあと(post hoc)のものとして常に維持されている二つの事象(すなわち結果と原因)の相互関係は、互いに対になった対象に適用して考えられるものであるが、その対象の一方(感覚ないしは意志行為)だけが実際に知覚され観測されるのであって、他方物質的原因ないしは物質的効果)は想像上の構成にすぎないからである。(pp.199-200)

われわれは、現実世界の状況に関する二つの注目すべきことを見出した――それらはいずれも驚くべきものなのである。だがこれらの実状を明確に区別することが重要である。それというのも、これらはきわめて類似した表現で記述されることがらなのであり、そのために容易に混同されてしまうからである。……最初の驚くべき実状とは、以下のことである。すなわち私の意識領域が、他のすべての人の意識領域から厳密に分離され、閉ざされた状況にある――これは、明晰な思考をする人には否定できないことである――にもかかわらず、これまでのいくつかの章で概説したように、模倣本能を原動力とした共通の言語の成立との発展を通して、われわれが外界と呼ぶ経験のある部分に関する、普遍的な構造上の類似が認識されてきたということである。これを簡潔に表現すれば、われわれはみな同じ世界に住んでいる、ということになろう。……意識領域の完全な分離にもかかわらず、われわれ――それは特に博学で深遠な思想を持った人のことではなく、まだ就学年齢に達していない子供のことを意味している――が共通世界にいることを了解するという、この不思議な実状と区別しなければならないもう一つのことがある。それはすなわち、感覚領域の分離にもかかわらず、いわゆる外的部分と呼ばれるものの広範囲にわたる一致ないしは相等性が、そもそも現実にあるということである。(pp.218-219)

訳註:
シュレーディンガーがここで言っている二つの現実とは、①個々人の意識領域が分離されているにもかかわらず、共通世界の「認識が可能」で、その「相互の了解が可能」だということ、そして②客観的な外的部分(=外界)の共通性は、「外界の存在」ゆえに「現実のもの」だということである。この両者は区別する必要があり、合理主義的考えの人は、なんの疑念もなく②を受け入れているが、②を合理的に理解するのは不可能だということに気付いていない、と彼は指摘している。(p.227)

そこでこのような二つの驚くべき実際の状況が、現実的な問題となる。最初の実状については、言語理解の起源を個体発生的に、そして可能ならば系統発生的に跡付けることによって、科学的かつ合理的に理解することができると私は思う。そうすれば必然的に次の実状も仮定されたことになるという意見に対しては、私はことさらこれを否定しようとは思わない。この第二の実状は合理的には理解しえないということが、本質的なことなのである。これを理解するためには、以下のような非合理的で神秘的な二つの仮定[のうちのいずれか]をせざるをえない。すなわち、①いわゆる現実の世界という仮定か、②われわれはすべて本来唯一の実在の外観に過ぎないということの容認かである。私は、両方の仮定は帰するところ同一であると思っている人とは、論争したくない。つまりそれは汎神論なのであり、唯一の実在とは神性と呼ばれているものなのである。しかし二つの仮定の同一性を認識するためには、(現実の外的世界という)第一の仮定に備わった形而上学的特質が正しく理解されなければならず、それによってわれわれは、通俗的な物質主義から離れることができるのである。そして実際の倫理的な結論は、この二番目の概念(すなわち不二の説)から容易に導かれるのである。だがこの不二の説の方が、より神秘的で形而上学的に見えるということは、容認していただかねばなるまい。つまりそれゆえに、われわれの経験における共有性の度合いが理解しがたくなってしまうのである。(pp.220-221)

私にすれば、すべては幻影(maya)なのである。もっともそれは、十分な法則性を持った興味深い幻影ではある。この幻影は、(まさしく中世風に表現すれば)私の不滅の部分とはおおよそ無縁のものである。だがそれは趣味の問題であろう。(pp.222-223)

2012年3月28日水曜日

【メモ】 津田一郎、『カオス的脳観 : 脳の新しいモデルをめざして』

「局所的な整合性と大局的な整合性の間に不整合が生じるときにフラストレートしたパターンが出現する。現在までの物理学で研究されてきた自己組織化過程は それを解消し論理階型を上げていく論理をその内部に持ってはいない。それに対して、生物のような情報系はそのような論理を自らの内部に構築しなければならないことが頻繁に起こる。」 (p.9)

「漸近的に3次元体積がゼロになり、2次元面上の運動より圧倒的に複雑になる運動は、2次元面がカントール集合のように重なった多様体の上の運動としてのみ理解される。多様体の厚み方向は無限個の面の断面が複雑なフラクタル構造を持つように埋め込まれ、0と1の間の次元を生み出す。」 (p.34)

「力学系のカオスは……圧縮できない無限列と圧縮可能な無限列との集合体である、ということができる。特に圧縮可能で周期的な無限列は、力学的に不安定であるので観測にはかからない。観測されるのは、圧縮できない非周期的な無限列と圧縮できる非周期的な無限列の有限部分である。」 (p.43)

「一般に2^n周期解と2^n+1周期解の近傍の様子は、見る尺度を変えてみれば等価であることがわかる。それぞれの周期解の近傍の様子を再帰的に決定する写像の関数が得られる。ちょうどカオスがでるところは、この繰り込みの操作の不動点に対応する。富田[和久]によれば、この操作はゲーデルの不完全性定理の証明の手続きとメタレベルで同型である。」 (p.44)

「アルゴリズム情報理論を使えば、不完全性、非決定性、ランダムネスはみな等価な概念としてとらえることができる。」 (p.47)

「知識体系に貯蔵されたなんらかのテンプレート(記憶の中に固定された知識やルール)との一致をみいだしたとき、我々は少なくとも問題の一部に秩序を発見したという。」 (p.52)

「初期状態の精度⊿Xと[力学系の]内的時間Tの間には、⊿XTAの不確定性関係が存在する。この不確定性関係が、初期条件と力学法則の従属関係を規定しているのである。このようにして、カオス力学系においては、初期条件を力学法則と独立には決めることができないのである。」 (p.57)

軌道に関する情報とは、二つの接近した軌道を分離して認識できるかどうかということである。このとき、
力学系の定常解が不動点や極限周期解(リミットサイクル)のような安定解である場合、情報は時間の進む方向に圧縮されていくことになる。観測者の間の情報の流れは位相空間の体積が縮む方向である。カオスのような軌道不安定性をもつものの場合、時間の進む方向と逆方向に情報は圧縮される。このことはカオスは情報を生み出すということの別の表現である。 (p.153)

「膨張宇宙の中では、時間の後に位置する世界にいる住人が常により分離された世界にいることになる。このことは、宇宙定数を我々は未来になればなるほど、細かい桁まで知るようになるということを意味する。これは観測技術の向上とは関係ないレベルの話である。むしろ宇宙定数自身の時間発展に関係する。観測技術が全く同じだとして、過去の宇宙に住んでいた人は、我々よりも粗っぽい数値しか認識できなかったであろう。これと関連して、現在、無理数と考えられている数は過去の宇宙においては、有理数であった可能性がある。もっと過去には整数であったろう。現在、計算不可能であると考えられている数も過去の宇宙では計算可能であったであろう。実数の存在は宇宙の膨張によって認識可能になったのだと考えることができるように思われる。すると、計算不可能性であるカオスは、遠い過去の宇宙では存在しなかったことになるのではないか。カオスは宇宙の進化と共に我々の前に現れたのではないだろうか。」 (pp.153-4)

「自己の確立は、反応拡散系で表現されるような自己組織過程を通じてなされるのではなく、情報的な自己言及過程を通じてなされる。」 (p.163)

「“解釈”ということが[脳の]研究プロセスにおいて、、物理学にみられるような第二義的な問題ではなく、まさに必須の第一義的な作業になるのである。この解釈の作業において、先行的理解になるのが[デビッド・]マーの言う計算論のレベルの考察である。つまり、“脳は何をしているのか”である。」 (p.194)

“動的脳観”の力学系の言葉による表現:
「自由度の大きな力学系がある。あるときは、ある部分的な自由度が活性化されそれが支配的になるが、またあるときは別の部分的な自由度が活性化されそれが支配的になる。このようなことが時空間の様々なスケールで起こりうる。そして、支配的になる自由度の再編成は、系(システム)の過去の全履歴に依存する。」 (p.202)

2012年2月12日日曜日

脳の研究における解釈学について

『ダイナミックな脳』での津田一郎氏の解釈学的行為の考え方について、ツイッターで、「相手が自分と類似した生命である場合とそうでない場合の違い(程度の差なのか、本質的な差なのか)についってもっと敷衍して欲しかった」と述べたが、再度読み込んでみて、彼が言わんとしていることをある程度汲み取れた気がするので、ここにまとめておきたい。

まず、「動物の知覚は解釈過程であらざるを得ない」ということについて。新しい感覚情報の知覚は必然的に何らかの先行的理解を要請する。これはハイエクが『感覚秩序』において展開している知覚論とそっくり重なる。すなわち、我々が何らかの対象を知覚するとき、我々が知覚しているのは自己同一的な実体としての対象そのものではなく、常にその対象が位置づけられる関係の構造(類似性、差異性)である。そして、こうした新しい情報を位置づけるための既存の文脈として先行的理解が要請される。そういう意味で、知覚とは常に解釈過程である。津田氏はハイデガーを引いて、次のように言う。すなわち、「何かを理解するために解釈が必要なのではなく、逆説的だが、解釈を行うために理解が必要なのである。」(p.20) ある神経細胞あるいは神経細胞集成体の果たす機能はシステム全体の文脈に依存してしか決定されないという津田氏の指摘は、この事態の生理学的レベルでの表現であろう。

ただ、津田氏の言う解釈学的行為はディルタイが定義したような解釈学とは異なる。ディルタイは自然科学的な方法に対抗して、生きていくものが従わなければならない歴史性を扱う人文社会科学の規範を与えようしたが、津田氏の言う解釈は、意味の共有といった次元の話ではなく、単にある状況へのコミットメントである。「解釈とは、コミットメントのことだ。なにかの状況にコミットする(参画する)ことそのものだといってよい。」(p.26) それは認知主体が環境に勝手に付与してかまわないし、またコミットメントの過程でそれが別段収束しなくてもいい。このコミットメントのためにこそ先行的理解が必要なのである。

さらに、この状況へのコミットメントの中にこそ、我々は何らかの意志、つまり生命の存在を見出すのではなかろうか。「意味の共有に向かって努力することが解釈学的行為ではない。むしろ、意志の存在の確認作業が解釈学的行為なのだ。」(p.29) しかしここに一つ問題が現れる。すなわち、知覚が物としての世界を扱う場合と、認知主体と類似した生命を扱う場合との間に、何らかの本質的な違いはあるのかという問題である。これが冒頭に掲げた問題である。この問題に関して津田氏は「不完全な情報」と「不定な情報」を区別している。不完全な情報は、解釈学的行為による補完によって完全な情報になり得る。つまりこの場合、知覚世界を客観的実在の世界と見なすことによって、解釈者の外に置かれている。静的な世界像を扱う限りこれで問題にならない。他方の不定な情報は、相手が生命であって、その行為を解釈しなければならないときに問題になる。つまり、この場合相手の行為に対する解釈に一意的な解は実在の側にそもそも存在しない(このような解釈はおそらくハイエクの言うような心的構造の類似性に基づいていて、したがって一人称的な内観を不可避にする。その意味で、解釈対象が生命である場合とそうでない場合の差は本質的であると言える。ただこれは明確な境界が存在するという意味ではない)。この事実を以て、郡司ペギオ幸夫氏らはあらゆる観測行為を「暗闇の中の跳躍」として徹底的な懐疑に付す。かくしてウィトゲンシュタインやクリプキの言う言語ゲームにすべての解釈が回収されてしまう。それに対して津田氏は、認知主体の外に客観的な世界が存在するという「先行的理解の第一原理」を、認知のための一種のア・プリオリな形式として設定する。「この第一原理に行為論のある種の本質を押し込めたつもりでいる」(p.22) 津田氏のこの態度は、世界の実在を内側からプラグマティックに肯定する私のプラグマティック実在論の態度に似ている。

蛇足になるが、物体の空間移動に対する連続性の概念およびその普遍性が、「先行的理解の第二原理」として保障される。「空間における物体の身体を使った変換に対して、視覚情報の中から不変な構造を抜き出す能力を脳は備えている。……この先行的理解が物理学の基礎になっているのかもしれないというポアンカレ氏の意見に賛同する。」(p.17) それ以外にも「自己中心座標と物体中心座標の間に変換が存在する」や「世界の境界は内部から見れば正曲率を持つ」といった、いくつかの基本先行的理解が要請される。これらの先行的理解は認知のための一種のア・プリオリな形式であるが、絶対的なものでは決してなく、あくまで幼児期の体験によって形成されるものと考えられる(それを引き起こすコードが遺伝子に組み込まれているということはあるだろうが)。

最後に、解釈の二重性について。これまで、「知覚は常に解釈過程であらざるを得ない」という事態を見てきた。これに加えて、脳研究の方法自体も解釈学を援用しなければらないと津田氏は主張する。つまり、研究対象に内在する解釈学的行為と、研究自体の方法としての解釈学的アプローチという二重性が主張される。しかし津田氏の著作を読む限り、この両者の関係(両者は独立なのか繋がっているのか)はあまり明らかではない。ただ、「全体、システムとして働くものものの機構を理解していく方法は解釈学的にならざるをえない」(p.54)、「相互作用する相手との関係の中でなければそのものの性質、表現、行為は決まらない……その関係の構築の裏打ちをしていると思われるのがカオスなのだ。関係的にダイナミックということだ。その関係性の境界は決定不能だという意味でもある。しかも、オットー・レスラー氏、松野孝一郎氏、郡司幸夫氏や池上高志氏に従えば、われわれはインターフェイスにおいてのみリアリティー、いや木村敏氏の言葉を使って、アクチュアリティーを感じることができる。これは、複雑なシステムの中でなにかをしなければならないもの全てが出会う必然だ。[原文改行]脳という複雑システムを研究する脳科学者は、こういう意味でまさに内在的な立場でしか研究を進めることができない。だから、脳研究は解釈学的にならざるをえないのだよ。」(p.54-55)という記述を見れば、解釈の二重性における両者は結びついているように見える。