2011年1月22日土曜日

【書評】 理性の濫用と衰退についての研究 (F.A. ハイエク)

原題:Studies on the Abuse and Decline of Reason (2010)

本書は、『科学による反革命』(The Counter-Revolution of Science)の全文と、『個人主義と経済秩序』(Indivisualism and Economic Order)の導入部分を飾った「真の個人主義と偽りの個人主義」(Indivisualism: True and False)によって構成されている。ブルース・コルドウェル氏の編集によるハイエク全集シリーズの最新巻として昨年発売された。

コルドウェル氏の序文を除いては、上述した二冊の書籍にて日本語で全文を読むことができる。

本書のメインテーマは、自然科学の方法論を社会の研究に盲目的に適用する「科学主義」思想の分析である。ハイエクは、自然科学と社会学の根本的な性質の違いを説明した上で、自然科学の方法論が社会学では成立し得ないことを論じる。

まずハイエクは、独自の「分類」理論によって人間の知覚と認識のメカニズムを説明している。曰く、われわれ人間は、感覚器官を用いて自然物や自然現象を知覚するとき、これらの自然物や自然現象をある心理的分類メカニズムに基づいて認識しているという。例えば、われわれが「ドアノブ」と呼ぶ物体は、その物体が果たす主観的な機能(ドアを開閉する)のみによって認識され、その光学的性質や化学的組成などは意味を成さない。われわれは経験によってドアノブの「意味」を学習し、およそドアに備え付けられている突起物あるいはハンドル的な物体を「ドアを開閉するためのもの(=ドアノブ)」として分類するのである。

若い頃は心理学者を志していたハイエクは、この分類メカニズムをニューロンの働きによって説明する仮説を提示している。つまり、ニューロンの結合パターンが一定の感覚の「分類」に対応していて、神経がある刺激を受けると、一定のパターンが脳内で形成され、その後同様の刺激を受けると、同様の感覚として分類されるというモデルである。こうしたハイエクの心理学研究の成果は、『感覚秩序』(Sensory Order)においてまとめられている。ちなみにこの著作は、発表当時こそ心理学界から徹底的に無視されたものの、最近になって、新しい認知科学モデルの先駆として再評価され始めている。特に、「ニューラル・ダーウィニズム」仮説を提唱した脳科学者ジェラルド・エーデルマンは、その仮説の先駆はハイエクだと評している。エーデルマンの理論は、ニューロンのグループと特定の認識パターンが対応し、同じ刺激が繰り返されることでそのニューロンを繋ぐシナプスの結合が強化され、刺激のなくなったシナプスは切れるという淘汰原理によって「カテゴリー」が形成されるというもので、ハイエクの「分類」理論とほぼ同じである。このような理論を、コンピュータも脳科学もなかった時代に、ハイエクが「深い思考」だけで創造したという事実は、驚くべきことであろう。

さてハイエクによると、自然科学の方法は、上述したような人間の主観的な「意味」を徹底的に取り除き、物質や諸力が持つ客観的な性質や相互関係のみを調べることにより、一般的・普遍的な「事実」を明らかにする、というものである。一見全く無関係に見える二つの現象が実は同じ法則に基づいて振舞っていたり、逆に全く同じように振舞っているように見える二つの現象が実は全く無関係であることを、自然科学は往々にして示してくれるのである。

一方で社会学はどうか。ハイエクはまず大前提として、「社会全体」などといった客観的な集合的実体の存在を否定する。社会を構成するのはあくまで「個人」であり、諸個人の間主観的な行動の結果として抽象的な「社会全体」なるものが構成されるが、この集合的実体は「言葉」としては存在しうるものの、その実体はあくまで諸個人の主観の中で再生産される観念(=意味世界)に過ぎない。例えば、私たちが「資本主義」と言うとき、私たちはそれぞれ独自の「資本主義」を頭の中で思い描くが、「資本主義」という本質がどこかに厳然として存在するわけでは決してない。したがって、社会の諸現象を説明するに当たって、「階級の闘争が永続化する」や「資本は~を欲する」といった、集合的概念をあたかも所与のものであるかのように扱い、しかもそれらにしばしば擬人的な性質を付与する神人同形同性的 (anthropomorphic)な議論は、主観的な構成物を客観的な事実として取り違えるという誤謬を犯している、とハイエクは指摘する。

さらに、ハイエクによると自然科学と社会学では「最初に見えているもの」が違う。自然科学では、結果としての現象全体がまず観察可能であり、それを構成する見えない粒子や諸力を突き詰めていく。一方で社会学では、「個人」がまず観察可能であり、諸個人が結果として構成する見えない社会全体を突き詰めていくべきである、とハイエクは論じる。つまり、見えていない抽象的な集合的概念から出発するような研究は、作業の方向を見誤った試みであり、自然科学の方法論を無批判的・盲目的に適用しようとする「科学主義」的態度の表れである、というのである。自然科学はその精密さによって数々の華々しい成果を収めてきたのだから、社会の研究にも「自然科学っぽい」方法を導入すれば、社会学もより精密な学問になるだろう、という短絡的な思い込みをハイエクは厳しく批判する。

ハイエクはこのような「科学主義」思想の源流を、アンリ・ド・サン=シモンとその弟子オーギュスト・コントの実証主義哲学に求めている。本書の後半では、サン・シモンとコントの生涯を追いながら、如何にして彼らの哲学が受け継がれ、ヨーロッパ中に広がるに至ったかが描かれている。コントの実証主義を継承したことで有名なエミール・デュルケームは言わずもがな、一般的には実証主義からは縁遠いと思われているヘーゲルにも、ハイエクは実証主義哲学のエッセンスを見出している。ハイエクは彼らを、人間の合理性と理性を過大評価する「誤った合理主義」を広く流布させた大罪人として糾弾している。

ハイエクの「反理性主義」「反設計主義」思想を一からきちんと理解したい人にとって、本書は必読である。

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