2011年4月25日月曜日

ローティにおける「公」と「私」の区別

「リベラル・アイロニスト」として知られる思想家リチャード・ローティは、著書『偶然性・アイロニー・連帯』(Contingency, Irony, and Solidarity)においてその独自の自由主義を論じている。ローティは信念・価値観の「偶然性」(contingency)および人間の「可謬性」(fallibility)に基づき、「政治」と「哲学」――つまり「公」と「私」――を切り離すべきだと論じている。さて、この著作を発表するまでは主に「哲学」の問題を専門的に研究してきたローティが、どうしていきなり「政治」を問題とするようになったのだろうか。以下にその理論的背景を俯瞰しておきたい。

【リベラル・アイロニストの思想】

ローティは自らの考える理想的な社会を「リベラル・ユートピア」(Liberal Utopia)、その住人を「リベラル・アイロニスト」(Liberal Ironist)と呼ぶ。「リベラル・アイロニスト」とは、ローティの定義によると、政治的には自由主義と民主主義からなる近代の政治体制や市民社会のあり方を受け入れ、積極的に擁護しつつも、私的な価値観としては「アイロニスト」の著作や価値観を容認し、愛好しているような人物のことである。

ローティの考えるリベラルとは、J・S・ミル、バーリン、デューイ、ハーバーマス、ロールズといった論者に代表される、近代の西洋において一般的に理解されている広い意味での自由主義である。彼らは基本的に近代の政治体制に肯定的な見解を持っており、より民主的な社会を実現するための議論を行っている人たちである。

一方、ローティの考える「アイロニスト」とは、「自分にとって最も重要な信念や欲求の偶然性に直面する類いの人物、つまりそうした重要な信念や欲求は、時間と偶然性の範囲を超えた何者かに関連しているという考えを棄て去るほどに歴史主義的で唯名論的な人」(Rorty, 1989)のことである。具体的には古代ギリシャから近代までのヨーロッパにおいて培われてきた哲学、宗教が規定する人間像に対し、懐疑的な考えを持っている人々のことであり、ローティが「アイロニスト」の思想家として挙げているのはヘーゲル、ニーチェ、キルケゴール、フロイト、ハイデガー、フーコー、デリダなどであるが、それらの多くは英米系の哲学界から見た「大陸哲学」の思想家である。ローティは「アイロニスト」の条件として①自分がいま現在使っている「ボキャブラリー」(vocabulary)を徹底的に疑い、絶えず疑問に思っている、②自分がいま現在使っているボキャブラリーで表された議論はこうした疑念を裏打ちしたり解消したりすることができないと分かっている、③自らの状況について哲学的に思考するかぎり、自分のボキャブラリーの方が他よりも「実在」に近く、自分以外の力(例えば合理性、神、真理、歴史)に触れているとは考えていない、という三点を挙げている。

ローティの考える上記のアイロニストのうち、ニーチェ、ハイデガー、フーコーは近代の西洋の市民社会における制度に対して懐疑的・批判的であり、彼らに影響を受けた多くの思想家たちも同様である。自由主義と民主主義を、近代までのヨーロッパにおいて培われてきた哲学、宗教が規定する人間像に基づいて生まれてきたものだと捉えると、その基礎の部分である哲学や宗教のあり方が懐疑や批判に晒されれば、当然自由主義と民主主義も同様に懐疑と批判に対象になり得るというのがこれらの思想家に共通する考え方である。しかし、ローティの政治に対する考え方はこれとは真逆である。ローティはニーチェ、ハイデガー、フーコー、デリダなどをアイロニカルな理論において自分と同じ趣味を持つ哲学者だと考えているが、「リベラル・アイロニスト」になるということは、これとは別系統の、相反する思想を同時に受け入れるということである。

ローティは、そもそも社会制度の基礎となる「哲学」を覆せば「制度」まで覆さなければならないという考え方は、プラトンが考えたような、形而上学的に一貫した哲学による社会体制という思考形式を未だ捨て切れていないことの表れなのではないか、ということを指摘する。「アイロニスト」の哲学に従い、それをそのまま政治理論に適用することは、「プラトンの呪縛」としての伝統的な西洋の知的態度から結局抜け出せないでいるのではないか、ということである。しかしローティの考える「リベラル・アイロニスト」は、「私的」な領域においては「アイロニスト」の思想を保持しつつ、「公的」な領域である政治の場にはこれを持ち込まない、いわば「ミルの仮面をかぶったニーチェ」という生き方である。

ローティによると、 このような「公」と「私」の区別という考え方はT.ジェファーソンやW・ホワイトマン、デューイといたアメリカの民主主義を建設し、これを肯定的に捉えている人々の中によく見られるという。ローティやデューイのプラグマティズムの思想は、道徳を哲学的に基礎づけて構築するカント的な道徳哲学からすると浅薄なようにも見えるが、ローティはこの哲学的浅薄さこそが、近代の啓蒙主義と世俗主義が神学を駆逐したのと同様に、「哲学に基礎づけられた道徳」が、より寛容に、よりリベラルに改良するのに役立つと考えていた。

【可謬性と偶然性】

ローティの自由主義を考える上で、彼がJ.S.ミルの自由論に高い評価を与えているという点が重要であるように思われる。ローティとミルの自由主義は、自然権に基づく伝統的な自由主義や「自己所有権」に基づくリバタリアニズムとは大きく異なる。ローティにとっては、権利という概念が存在すると述べることは形而上学的な議論以外の何者でもなく、それもまた放棄されるべきものなのである。

ミルが個人の自由が保障されなければならない理由として挙げているのが人間の「可謬性」である。ある人の思想が、社会の大多数の人々から見ると奇異なものであるように思えても、その人が考えていることが他人に害を与えるものでない限りは、その考えがどれほど奇異であってもその人がそのように考えることは社会的に許されなければならない、というのがミルの考え方である。「真理」の存在と、神の知識を持つ教会の無謬性という想定に立ち、中世のキリスト教はガリレオを「異端者」として弾圧したが、現代においては彼の世界観は「真」とされている。これと同様に、社会制度や道徳も、歴史の進展によってより良いと思われる方向へ変化していく。そのように誤謬が修正されていくのも、多様な意見・価値観の存在を容認するような社会の「寛容さ」が近代になるにつれてますます保障されるようになったからである。一見すると奇異な意見であるように思えても、それを圧殺せず、その存在を是認し、またそれを公表する自由があれば、いつかその考え方が大勢を覆し、主流となることもあるかもしれない。このミルの「可謬性」という考え方は、ローティの「偶然性」という考え方とうまく重なる。ある人が自分の意見が正しいという確信を持つのは、自分が所属する社会・文化の無謬性を仮定して、それに拠っているからに過ぎない。そして、自分がどの社会・文化に所属するかは、自分がどの社会・文化のもとに生まれ育つかという「偶然性」によってしか決まらない。よって、自分が所属する社会・文化に無謬性を求めるのは無意味である、とミルは論じている。

ローティもこれと同様に、自己の偶然性を論じている。ローティが考える「アイロニスト」は、自らが現在持っている最高の信念である「ファイナル・ボキャブラリー」(final vocabulary)を、本当の意味で最高のものとは思っておらず、あくまで暫定的に最高のものだと思っている。自らに与えられたボキャブラリーは偶然的に生れ落ちた土地と時代における、その地域特有(parochial)の用語だと知っている。そのため、自分たちの常識では計り知れない、価値観が相容れない人々が存在していることも知っている。そして、そのようなアイロニストたちは、互いの価値観を尊重し、互いを傷つけ合わないために、互いがいかなる信念・価値を信奉していようとも、それが自分を傷つけるものでもなく他人に害を与える恐れがない限り、許容する自由と寛容を持つようになるのである。つまり、「アイロニー」を徹底すれば「リベラリズム」は必然的に帰結するのである。

ローティは自らの「公」と「私」の区別のモデルとして、「たくさんの排他的なクラブ(英国紳士のクラブのようなもの)に囲まれたバザール(商店が立ち並ぶ市場のようなもの)」という比喩を挙げている。

私はバザールにおいて商談をしている多くの人々が、お互いの信念を共有するくらいなら死んだ方がましだと思いつつも、「ビジネスライク」に交渉しているところを思い描く。そのようなバザールは明らかにマッキンタイアーやR.べラーのような自由主義の批判者たちによって用いられた意味での「共同体」ではない。……もし、そこに居合わせたなら、役所や八百屋の店先やバザールにおいて信じ難いほどの「差異」を見せつけようとするような人が現れても、ただ感情を上手くコントロールする能力さえ持ち合わせていれば良い。そのようなことが起こったならば、できるだけ微笑みを絶やさずに上手にその場を切り抜け、その日の辛い商談が終わった後に自らの「クラブ」へと戻れば良い。そこでは自らの道徳観を満たすような親しい人々との交わりによって心安らぐことができるだろう。(Rorty, 1991)

この箇所はローティの「公」と「私」の考え方がとても鮮明に表現されているところであろう。ローティにとっての自由主義・民主主義・多元主義とは、枠組としての公的空間の中に私的なものが群立するというイメージが強い。また、ローティにとっての「政治」とは、中立的な場としての「バザール」において無表情で「ビジネスライク」に行われる交渉のように、積極的な価値表現の場ではなく消極的な意味で捉えられている。可謬性・偶然性の承認による「自由主義」の概念の内実を哲学的に基礎づけることは不可能であると同時に不要である。というのも、普遍的な「自由」の概念は、「自由の強制」となり、もはや「自由」ではないからである。ローティにおける「自由主義」とは、概念として実体化するべきものではなく、多様な考え方や価値観が並存する「場」や「枠組み」として理解されるべきものなのである。

最後に、アイザイア・バーリンの言葉で締めくくりたい。「消極的自由」の概念で知られるバーリンは、その論文「二つの自由概念」を、ヨーゼフ・シュンペーターの言葉を引用しつつ以下のように結んでいる。

「自己の確信の正当性の相対的なものであることを自覚し、しかもひるむことなくその信念を表明すること、これこそが文明人を野蛮人から区別する点である。」これ以上のものを要求することは、おそらく人間の不治なる深い形而上学的要求というものであろう。しかしながら、この形而上学的要求に実践の指導を委ねることは同様に深い、そしてはるかに危険な、道徳的・政治的未成熟の兆候なのである。(Berlin, 1958)


【参考文献】
  • Berlin, Isaiah (1958) "Two Concepts of Liberty"in Isaiah Berlin (1969) Four Essays on Liberty. Oxford: Oxford University Press.
  • Rorty, Richard (1989) Contingency, Irony, and Solidarity. Cambridge: Cambridge University Press.
  • --- (1991) "On ethnocentrism: A reply to Clifford Geertz", in Objectivity, Relativism and Truth: Philosophical Papers I. Cambridge: Cambridge University Press, pp.203-210.
  • 大賀祐樹 (2009) 『リチャード・ローティ―リベラル・アイロニストの思想』藤原書店

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