2011年1月30日日曜日

「百花斉放・百家争鳴」および「反右派闘争」に見る中国の知識人

1956年から1957年にかけての中華人民共和国において、「国の政策に対する意見や批判を歓迎する」というキャンペーンが中国共産党によって実施された。「百花斉放・百家争鳴(様々な花を開花させ、様々な思想を戦わせよう)」という詩がスローガンとして利用されたことから、このキャンペーンは中国では「百花運動(百花运动)」と呼ばれているが、日本では元の詩「百花斉放・百家争鳴」の名で知られている。結論から言うと、このキャンペーンは「反右派闘争」の引き金となり、悲惨な結果に終わった。中国共産党を批判した「知識人」たちは「右派」のレッテルを貼られ、徹底的に排除された。中には公判の手続きなしに拷問されたり、斬首刑に処せられる者もいた。この事件を通して、それ以後の中華人民共和国における「知識人」、とりわけ人権活動家や自由主義者の弾圧と抑圧の歴史が見えてくるように思う。
「知識人」という語は非常に曖昧で文脈依存的なので、ここにてはっきりと定義しておきたい。ここで言う「知識人」とは、「社会の問題や政治の問題について発言する人々」を指すことにする。一般的なイメージでは、「高等教育を受けている人々」、あるいは「高度な専門的知識を要する職業に従事する人々」というニュアンスも強いが、ここでは必要条件とは見なさない。
さて、「百花斉放・百家争鳴」を説明する前に、まず当時の時代背景を紹介しておきたい。1956年2月、ソビエト連邦共産党第一書記ニキータ・フルチョフによって、(3年前に亡くなっていた)最高指導者ヨシフ・スターリンの強権的な政治手法や個人崇拝を批判する報告書が発表された。スターリン執政期に行われた粛清の一部も暴露され、中国や東ヨーロッパ諸国に動揺をもたらした。特にスターリンの協力を得て建設された中華人民共和国にとっては、このような動きはソ連との対立の可能性を示唆したと同時に、スターリンの強権的な政治手法や個人崇拝が批判されたことが、当時中国において絶対的な権威を掌握していた毛沢東に対する不満や疑念を招くように思われた。このような不満が鬱積することの危険性を察知してか、当時の国務院総理であった周恩来が、後に「百花斉放・百家争鳴」運動となる小規模なキャンペーンを開始し、共産党内での活発な議論を呼びかけた。
このキャンペーンの対象者は、政府の役人と共産党の党員に限定されていた。周恩来は、社会主義化に賛同的でない役人や党員に対して、中央当局の政策や運営に対する意見や批判を呼び掛けた。しかし、周恩来による努力もむなしく、発言する役人も党員も一向に現れず、計画は頓挫した。1956年4月の中国共産党中央政治局の会合にて、周恩来は「より大きなキャンペーン」の必要性を強調し、対象者を役人や党員に限定せず、全国の知識人に拡大する意向を表明した。そして毛沢東もこのアイディアを気に入り、賛同の意を表した。
1956年5月2日、実質的に周恩来に代わってキャンペーンの指導者の地位を得た毛沢東は、最高国務会議で全国の知識人に向けて「共産党への批判を歓迎する」と宣言し、「百花斉放・百家争鳴」のスローガンを提唱した。これが運動の正式な始まりである。このときの毛沢東にどのような狙いがあったのかを推し量ることは難しいが、おそらく毛沢東はこのキャンペーンを、社会主義イデオロギーを普及させるチャンスと見なした、というのが一つの見方である。のちの1957年2月に行われた『人民内部の矛盾を正しく処理する問題について』と題された演説にて、毛沢東は「我々の社会は後退できない、あるのは進歩のみ。当局に対する批判は政府をさらに良い方向へ推し進めている。」と語っている。このことが示唆する毛沢東の狙いは、全国の知識人たちによる活発な議論の末、資本主義に対する社会主義の優位性が自明のものとして人民に認識され、その必然的帰結として、完全な社会主義体制へ向けた改革が促進される、というものである。ちなみに「百花斉放・百家争鳴」というスローガンは、春秋戦国時代の諸子百家を示している。儒家、道家、墨家、名家、法家などの諸学派が、イデオロギーや思想を巡る論争を繰り広げ、歴史的には儒教と道教が強い影響力を掌握することになった。毛沢東はこの歴史にちなみ、社会主義イデオロギーの「勝利」を「百花斉放・百家争鳴」というスローガンに託したのかもしれない。
一方で、「百花斉放・百家争鳴」は最初から「反共産党勢力」を炙り出すための罠だったのではないか、という説もある。ユン・チアン(中国出身でイギリス在住の作家)などは、「百花斉放・百家争鳴」は最初から毛沢東による「おとり作戦」だったと断定しているが、このような見方を完全に否定することは難しい。
このような状況の中、1956年9月に、中国共産党第8回全国代表大会が11年ぶりに開催された。この代表大会について特筆すべきは、中国共産党の党規約の、党員の義務規定が改定されたという事実だろう。従来は「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想を基礎として」とあった規定が、「マルクス・レーニン主義を学習するよう努力し」と改められ、「毛沢東思想」の部分が削除された。この改定には、スターリン批判の流れを受け、毛沢東の個人崇拝を薄める狙いがあったと思われる。
翌月、中国共産党第8回代表大会終了直後、ハンガリーのブダペストで、ソ連の権威と支配に反対する大規模な民衆蜂起が発生した。いわゆるハンガリー動乱である。ブダペスト市民はハンガリーからのソ連軍徹底や、ハンガリーのワルシャワ条約からの脱退を求めたが、この動きに対してソ連は、官軍を投入して蜂起を直ちに武力鎮圧し、当時のハンガリーの首相を追放して新ソ連派の新政権を樹立させた。この動乱で数千人の市民が殺害され、およそ20万人が国外逃亡して難民となっている。
スターリン批判の影響を受け、民衆が強権的な政治運営を否定することによって起きたこのハンガリー動乱は、「自由な批判を歓迎する」ことの危険性を毛沢東に印象付けたのではないだろうか。それでも毛沢東はこの時期も、(少なくとも表面上は)「百花斉放・百家争鳴」のスローガンに基づいて活発な議論を奨励し続けた。
しかし1957年に入っても「百花斉放・百家争鳴」の呼び掛けに知識人たちはあまり応じず、運動は盛り上がらなかった。保守的な意見は数多く中央当局に届いていたが、批判的な意見はほとんど一切出なかった。過去にも「整風運動」や「反革命鎮圧運動」によって中国共産党内の「異端派」が排除されていたり、「三反五反運動」によって全国の資本階級が、「ブルジョワジーであること」だけで厳しい審問を受けさせられ、中には拷問に処せられる者もいて、中国の知識人たちもその事実を知っていた。「自由な議論」に応じても本当にお咎めがないのか、と多くの知識人が疑心暗鬼になっていたのだと思われる。
一向に盛り上がらない運動を盛り上げるため、毛沢東は民主党派や各層の知識人を集め、1957年2月(先述した)『人民内部の矛盾を正しく処理する問題について』と題された演説を行った。この演説の中で毛沢東は、「破壊的な批判」ではなく「建設的な批判」を奨励し、各民主党派と共産党との間の自由な討論の必要性を説いた。さらに1957年4月、中央当局は学校、科学研究機関、文化芸術機関などの党組織において座談会や討論会を開催し、広く大衆の意見を聞こう、という運動を展開した。ここにきてようやく、意見を出すことに慎重だった知識人たちは、自由に意見や批判を出すようになった。1957年5月から7月にかけて、何百万通もの手紙が中央当局に雪崩れ込み、また中国共産党の強権的な政治運営を批判するデモが北京大学の学生などによって行われた。「百花斉放・百家争鳴」は盛り上がりを見せ、中国共産党に対する批判が相次いだ。
しかし、これに対し毛沢東は、これらの意見は「建設的」なレベルをすでに超越しており、「破壊的」なレベルに達していると断定した。それもその通りで、「この国では知識人は拷問を強いられている」という意見や、「中国共産党が支配する限りこの国には自由がない」といった意見まで、極めつけには中国共産党の退陣を求める声までが噴出していた。これら「度の過ぎた」批判に対し、中国共産党は方針を急転換させ、「力を組織化して右派分子の侵攻に対して反撃する準備をせよ」との指示を出し、「右派」に対する批判を呼びかけた。かくして「反右派闘争」が開始した。「百花斉放・百家争鳴」に応じて批判を行った知識人は「右派」のレッテルを貼られ、徹底的に排除された。1958年の時点で550万人あまりの「右派分子」が辺境へ追放されたり、失職したり、あるいは公判の手続きなしに拷問、処刑される者までいた。
この「百花斉放・百家争鳴」から「反右派闘争」への急転換について、ハンガリー動乱のような事態になる前に民衆の間で鬱積していた不満を解消するために始めたものの、想定以上に過激な批判が噴出したため仕方なく弾圧の方向に転換したのか、あるいは最初から「反共産党勢力」を炙り出すための罠だったのかは、今となっては断定するだけの材料はない。しかし、この出来事が、それ以降の中国の知識人層に深い傷を負わせたことは確かだろう。自由な発言を呼びかけられ、素直に応じたところ排除されたことで、それ以後中国では「中国共産党を批判すると痛い目に遭う」という風潮が定着したのである。その後、3000万人以上の死者(餓死者除く)を出すことになる文化大革命を経て、1980年代まで、中国において政策や政治運営についての自由な論議は公になさられることはなかった。
1980年代に入ると、鄧小平による改革開放路線が始まり、中国共産党自身が「反右派闘争」は方向性こそ正しかったものの、範囲を拡大し過ぎたことにより不幸な結果をもたらしたと率直に認め、知識人層のトラウマはある程度解消されたかのように思われた。1986年には、当時中国共産党中央委員会総書記であった胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱し、「第二次百花斉放・百家争鳴」を実現しようとしたが、鄧小平を中心とする長老グループに妨害され、頓挫した。1989年、抗議者からの異議に寛大だった胡耀邦が心筋梗塞で倒れ、死去したのをきっかけに、民主化を求める学生や一般市民のデモ隊が天安門広場に結集したが、中国人民解放軍による無差別発砲や、装甲車での轢殺によってデモは武力鎮圧された。「百花斉放・百家争鳴」以来の、知識人たちの淡い期待は「第二次天安門事件」で重ねて裏切られたのである。以後、中国で自由な言論が許されたことはない。
2010年には、人権活動や民主化活動に参加し、中国当局に繰り返し投獄されてきた劉暁波がノーベル平和賞を受賞したことにより、情勢は大きく変わりつつあるように思う。「百花斉放・百家争鳴」と「反右派闘争」以来繰り返されてきた知識人の言論弾圧の歴史に終止符は打たれるのであろうか。今後の展開にも注目していきたい。

2011年1月22日土曜日

【書評】 理性の濫用と衰退についての研究 (F.A. ハイエク)

原題:Studies on the Abuse and Decline of Reason (2010)

本書は、『科学による反革命』(The Counter-Revolution of Science)の全文と、『個人主義と経済秩序』(Indivisualism and Economic Order)の導入部分を飾った「真の個人主義と偽りの個人主義」(Indivisualism: True and False)によって構成されている。ブルース・コルドウェル氏の編集によるハイエク全集シリーズの最新巻として昨年発売された。

コルドウェル氏の序文を除いては、上述した二冊の書籍にて日本語で全文を読むことができる。

本書のメインテーマは、自然科学の方法論を社会の研究に盲目的に適用する「科学主義」思想の分析である。ハイエクは、自然科学と社会学の根本的な性質の違いを説明した上で、自然科学の方法論が社会学では成立し得ないことを論じる。

まずハイエクは、独自の「分類」理論によって人間の知覚と認識のメカニズムを説明している。曰く、われわれ人間は、感覚器官を用いて自然物や自然現象を知覚するとき、これらの自然物や自然現象をある心理的分類メカニズムに基づいて認識しているという。例えば、われわれが「ドアノブ」と呼ぶ物体は、その物体が果たす主観的な機能(ドアを開閉する)のみによって認識され、その光学的性質や化学的組成などは意味を成さない。われわれは経験によってドアノブの「意味」を学習し、およそドアに備え付けられている突起物あるいはハンドル的な物体を「ドアを開閉するためのもの(=ドアノブ)」として分類するのである。

若い頃は心理学者を志していたハイエクは、この分類メカニズムをニューロンの働きによって説明する仮説を提示している。つまり、ニューロンの結合パターンが一定の感覚の「分類」に対応していて、神経がある刺激を受けると、一定のパターンが脳内で形成され、その後同様の刺激を受けると、同様の感覚として分類されるというモデルである。こうしたハイエクの心理学研究の成果は、『感覚秩序』(Sensory Order)においてまとめられている。ちなみにこの著作は、発表当時こそ心理学界から徹底的に無視されたものの、最近になって、新しい認知科学モデルの先駆として再評価され始めている。特に、「ニューラル・ダーウィニズム」仮説を提唱した脳科学者ジェラルド・エーデルマンは、その仮説の先駆はハイエクだと評している。エーデルマンの理論は、ニューロンのグループと特定の認識パターンが対応し、同じ刺激が繰り返されることでそのニューロンを繋ぐシナプスの結合が強化され、刺激のなくなったシナプスは切れるという淘汰原理によって「カテゴリー」が形成されるというもので、ハイエクの「分類」理論とほぼ同じである。このような理論を、コンピュータも脳科学もなかった時代に、ハイエクが「深い思考」だけで創造したという事実は、驚くべきことであろう。

さてハイエクによると、自然科学の方法は、上述したような人間の主観的な「意味」を徹底的に取り除き、物質や諸力が持つ客観的な性質や相互関係のみを調べることにより、一般的・普遍的な「事実」を明らかにする、というものである。一見全く無関係に見える二つの現象が実は同じ法則に基づいて振舞っていたり、逆に全く同じように振舞っているように見える二つの現象が実は全く無関係であることを、自然科学は往々にして示してくれるのである。

一方で社会学はどうか。ハイエクはまず大前提として、「社会全体」などといった客観的な集合的実体の存在を否定する。社会を構成するのはあくまで「個人」であり、諸個人の間主観的な行動の結果として抽象的な「社会全体」なるものが構成されるが、この集合的実体は「言葉」としては存在しうるものの、その実体はあくまで諸個人の主観の中で再生産される観念(=意味世界)に過ぎない。例えば、私たちが「資本主義」と言うとき、私たちはそれぞれ独自の「資本主義」を頭の中で思い描くが、「資本主義」という本質がどこかに厳然として存在するわけでは決してない。したがって、社会の諸現象を説明するに当たって、「階級の闘争が永続化する」や「資本は~を欲する」といった、集合的概念をあたかも所与のものであるかのように扱い、しかもそれらにしばしば擬人的な性質を付与する神人同形同性的 (anthropomorphic)な議論は、主観的な構成物を客観的な事実として取り違えるという誤謬を犯している、とハイエクは指摘する。

さらに、ハイエクによると自然科学と社会学では「最初に見えているもの」が違う。自然科学では、結果としての現象全体がまず観察可能であり、それを構成する見えない粒子や諸力を突き詰めていく。一方で社会学では、「個人」がまず観察可能であり、諸個人が結果として構成する見えない社会全体を突き詰めていくべきである、とハイエクは論じる。つまり、見えていない抽象的な集合的概念から出発するような研究は、作業の方向を見誤った試みであり、自然科学の方法論を無批判的・盲目的に適用しようとする「科学主義」的態度の表れである、というのである。自然科学はその精密さによって数々の華々しい成果を収めてきたのだから、社会の研究にも「自然科学っぽい」方法を導入すれば、社会学もより精密な学問になるだろう、という短絡的な思い込みをハイエクは厳しく批判する。

ハイエクはこのような「科学主義」思想の源流を、アンリ・ド・サン=シモンとその弟子オーギュスト・コントの実証主義哲学に求めている。本書の後半では、サン・シモンとコントの生涯を追いながら、如何にして彼らの哲学が受け継がれ、ヨーロッパ中に広がるに至ったかが描かれている。コントの実証主義を継承したことで有名なエミール・デュルケームは言わずもがな、一般的には実証主義からは縁遠いと思われているヘーゲルにも、ハイエクは実証主義哲学のエッセンスを見出している。ハイエクは彼らを、人間の合理性と理性を過大評価する「誤った合理主義」を広く流布させた大罪人として糾弾している。

ハイエクの「反理性主義」「反設計主義」思想を一からきちんと理解したい人にとって、本書は必読である。