2012年4月18日水曜日

金子邦彦、『生命とは何か : 複雑系生命科学へ』

以下の文章は、金子邦彦『生命とは何か―複雑系生命科学へ』の個人用まとめ書きである。



【第5章 複製系における情報の起源】

「まず、遺伝情報とは何かということをDNAやRNAなどの特定の分子にこだわらずに定義しなければならない。情報は当然ながら、いくつかの可能性のなかからの選択を意味する。……その意味で、とりうる細胞状態の選択を与えるのが、「情報を担う」分子の役割である。さらに「遺伝」情報であることを考えると、それは次世代に伝わっていかなければならない。」 (p.147) つまり、ある化学成分が遺伝情報を担うためには

(1) 細胞内のある成分が他の成分の振る舞いに強い影響を与えるというコントロール特性
(2) 分裂後の次世代の細胞に成分が伝わり、保持されるという保存特性

が要請されるが、これらがどうやって出現するのかというのが本章の問いになる。

少数コントロール

合成速度の異なる相互触媒系からなるプロト細胞を考える。速く増殖する分子Xとゆっくり増殖する分子Yという、触媒活性をもった二種類の分子種が互いに触媒するネットワークを形成しているとする。この両分子を含むプロト細胞が分裂するごとに分子Yの数が減っていくが、0になってしまうとプロト細胞は増殖能を失う。そこで、こうしたプロト細胞が増えていき、競合して淘汰されていく状況を考えると、残った細胞は、最低でも1個は分子Yを含んでいるはずである。こういう状態は分子数の時間発展から言えば稀な状態であるが、ゆらぎによって一旦そうした初期状態が達成されると、そのまれな初期状態が選択され維持される。こうして遺伝情報の要件である「状態の選択」と「その保持」が生まれる。

さて、 分子Yが構造変化を起こしてその活性を変化させたとする。すると、Yの活性の変化はプロト細胞の増殖に大きな影響を与える。他方、Xのようにたくさんある分子が構造変化を起こした場合を考える。細胞内にあるすべてのX分子が同じように活性を変える確率はほとんど0であろう。この構造変化はゆらぎからくるランダム事象であるから、ある分子は活性を高める方向に、別のものは低める方向に、という形で、平均としては活性の変化は小さくなるであろう。こうして、互いに触媒し合う分子では、数の少ない方がそのプロト細胞の性質に対して支配的な影響を持つ。このような「少数コントロール」の構造により、数の少ない方の分子が「遺伝情報」のためのコントロール特性を持つに至る。

力学系の言葉で言えば、変化の時間スケールが長い(つまりリャプノフ指数が0に近い)変数は、その初期の変化が長く残るので、その変数が他の変数に影響を与えている限り、それは他の変数に対するコントロールパラメータの役割を果たすようになる、という風に言える。

進化可能性について

このような、少数の部分が他をコントロールするという構図は、その少数の部分の変異が大きく影響するので、「進化可能性」をもたらす。少数分子が変異したプロト細胞の増殖速度はもとのとは異なってくるが、細胞のレベルの競合により、あまり増えられないプロト細胞は淘汰されるから、増殖能が高いものが残っていく。要するに少数分子が(良い方向に)変化したものは、その活性を維持し、さらには進化していく可能性がある。このメカニズムを利用して、この少数分子を保存する機構が進化してくるだろう。いったんこの少数分子が保持されるようになれば、今度はその分子に関係して作られる分子も残りやすくなるから、多くの反応がその少数分子に関係していくことになる。つまり、その少数分子に情報がコードされるようになる。そして今度は、その情報を利用してますます少数分子の保護機構が進化し、少数分子の保護と少数分子への情報コード化の共進化が起こる。かくして、今日的な意味での「遺伝情報」が実現し、代謝と遺伝情報の分離が完成する。

「細胞などの複製単位のなかでDNAが少数であるからこそ、自然選択が働き、遺伝情報が統計法則から守 られ、その細胞は進化可能性を持つ。」 (p.172) もし多数の情報分子が存在すれば、独立の変異が大数の法則によって均され、自然選択があまりかからなくなる。有害変異が集団に溜まってしまい、自己複製能は減衰するだろう。

一般的に生命の起源を考える場合、遺伝情報が先か複雑な代謝が先かという問題がある(本書で挙げられている例で言えば、M・アイゲン(Eigen)のハイパーサイクル理論が前者の代表であり、F・ダイソン(Dyson)のいいかげんな複製系(loose reproduction system) が後者の代表である)。金子氏によれば、前者の立場には安定性に関して問題があり、後者の立場では情報が明示できないという問題点があるが、本書で展開されている少数コントロールの原理はその両者の問題点を克服する解を提唱している。



【第7章 細胞分化と発生過程の安定性】

同一多様化理論」(Isologous Diversification Theory):同じ状態を持った細胞が、細胞内部の状態のダイナミクスによって、小さなゆらぎを増幅させ、異なった状態にいたり、その一方で細胞間の相互作用により互いの状態を安定化し、いくつかの離散的なタイプを形成する。

本章の主題は細胞分化であるが、この理論は細胞の分化に限られるものではない。一般に、その内部に非線形のダイナミクス(細胞の場合は触媒反応系)を持った複数のユニットがあれば、そのダイナミックスとユニット間の相互作用によって、各ユニットが同じ状態を維持するのが不安定になる(細胞の場合は、栄養の競合などによって)。その結果、各ユニットが分化して、異なる状態を持つようになる。

力学系の研究では、同一のユニットが互いに影響を及ぼし合うだけで、そこにカオスのように小さな差を増幅する運動があると、そのユニットは異なった位相で振動するグループに分かれる場合があることが、すでに明らかにされている。この現象をクラスター化と呼ぶ。



【第10章 表現型と遺伝子型の進化】

第7章で取り上げられた同一多様化理論が、本章では細胞ではなく個体に適用され、種分化の理論として展開される。さらに、長い時間スケールの増殖と淘汰、つまり進化に対して、この分化の意義を考える。

(1) 通常の種では、遺伝子型も表現型もある(比較的狭い)範囲で分布している。この種がある状況で強く相互作用するようになったとする(この原因は環境変動でも個体数密度の増加でも栄養の不足でもいい)。そこで第7章の機構で、表現型の分化が生じる。この段階では(ほぼ)同じ遺伝子型を持った個体が異なるタイプの表現型の2グループに分離している(この段階では各グループの子孫は親と同じグループになるわけではなく、表現型はあくまで相互作用によって分かれている。一方で、この段階ですでに2グループの表現型は十分離れており、互いの存在で互いを安定化するという「共生」関係にある)。

(2) 次に、遺伝子に変異が入っていき、淘汰がかかっていくとどうなるかを考える。遺伝子は表現型の変化の仕方を与えているので、それぞれのグループに応じて遺伝子がどう変化した方が増殖しやすいかというのは変わってくるであろう。例えば、グループAはある方向に、グループBは逆の方向に変異を起こした方が子孫を残しやすくなる。すると遺伝子にはランダムな変異が起こってもグループAその方向に、グループBは逆の方向に、ますますシフトしていくだろう。つまり、突然変異と淘汰を経て、表現型の違いが遺伝子型の差異に固定されていく。

(3) この結果、遺伝子型と表現型の1対1の対応関係が回復して、遺伝子型でも表現型でも異なる2種が分離する。

雑種不稔性

有性生殖を行う生物で、分離した種の定義は、2つのグループが交配してできる「雑種」が子孫を残せなくなる、というものである(これを雑種不稔性という)。2つのグループができ始めると、それぞれのグループは互いの作るニッチに特化して成長できる。この両者はその成長を行うように遺伝子型と表現型が適合している。これに対して中間のパラメータを持った個体はどちらの表現型をとってもこの両者に適わず、成熟条件に到達できなくなってしまう。つまり、この理論では交配のえり好みを仮定しなくても自然に 雑種は子孫を残せなくなる。ゆえに、この分化の過程を種分化と呼ぶことができるのである(なお、本章の理論は無性生殖にもあてはまる。このとき「種」と呼ばれるのは、表現型の状態が離散的に区別され、子孫はそれぞれの範囲で再帰的に生まれるような集団である)。

えり好みの進化

各グループは同じグループ内で交配していれば不稔でない子孫を作れるのだから、でたらめに交配しているのは明らかに無駄である。そこで、この段階で相手の表現型を見て交配するかどうかを決めるえり好みが進化してくるのは必然のなりゆきであろう。こうして、2種の分化はますます安定する。

異所的種分化について

しばしば種分化では場所が違うから分かれたという異所的種分化説明がなされる。確かに、異なる種が異なる場所に住んでいる例は非常に多いが、しかし場所が違うというのが種分化の「原因」かどうかはよくわからない。本章の理論では、2グループの空間的分離は、種分化の原因ではなく帰結である。子孫は親と同じ位置で生まれるから同じグループの個体は近くにいるケースが多いだろう。一方で交配は近くの個体とまず起こりやすいから、2グループの空間的分離に拍車がかかる。これは、環境条件が場所に対して全く一様な場合でも起こる空間的な分化である。

断続均衡進化説

本章の理論では、いったん相互作用が強くなって表現型の分化を起こす条件が満たされれば、そのあとは非常に速く種分化は進行する。相互作用の条件である環境や個体数の変化自体は連続的であって激変しなくても、それがある値になって条件を満たすと種分化は開始し急速に進む(あるパラメータになると分岐する力学系を想起されたい)。これは、S・J・グールド(Gould)とN・エルドリッジ(Eldredge)の断続均衡進化説の見方と一致する。

動的共固定化

本書で金子氏は、あるレベルでの違いが別のレベルでの違いに変換され、互いに強化され、固定される現象を動的共固定化(dynamic consolidation)と呼んでいる。これは本章の、表現型の分化が遺伝子の違いに固定されるケースだけでなく、第9章で説明された、細胞状態の分化の空間的パターンへの変換にも当てはまる。状態の分化が空間的なパターン(化学物質の濃度勾配)を作り、そのパターンがさらに状態の分化を強めるという正の相互フィードバックが働き、分化も形態形成も安定された。それによって各細胞は位置情報を持ち、安定したパターン形成が可能になった。また、第5章の遺伝機能を担う分子と代謝機能を担う分子の分離と固定化も動的共固定化のケースである。

最後に、表現型の可塑性と相互作用が遺伝的進化を促すという本章のような主張は、しばしばラマルク的な進化を導入しているようにみられがちであるが、本章で提案されている理論は、遺伝子型から表現型への1方向の流れを仮定した正統的ダーウィニズムの範囲内にある。



【第11章2節 ゆらぎによる応答】

一般に、生物は様々な環境に適応して生き延びる。細胞に関して言えば、外部の情報がシグナル伝達系を通して遺伝子発現系へと影響を与え、その発現パターンをスイッチさせてその環境で必要なタンパク質を作るようになる、と通常考えられている。しかし、バクテリアや微生物の実験において、生物はめったに起こらない環境や、これまで遭遇したことのないような環境条件に対してもそこそこ適応できることが見出されてきた。これほど多様な環境条件のすべてに対して、シグナル伝達系を用意しているとはなかなか想定しがたい(これは人工知能におけるフレーム問題と全く同じ問題だろう)。

細胞の化学変化は分子的なゆらぎから逃れられないが、遺伝子発現もその例外ではない。そこで、このノイズによって細胞の状態はアトラクターからずらされるが、それぞれのアトラクターごとに細胞の成長速度が異なるとすれば、成長速度の低いアトラクターからはノイズで容易に飛び出し、いったん成長速度の高いアトラクターに到達すれば、そのままそこに留まると予想される。言い換えれば、ノイズによって成長速度の大きいアトラクター、つまり環境に適応した遺伝子発現状態が選択される。シグナル伝達系がなくても適応が生じると予想されるのである(実際、本節で紹介されているように、大腸菌を用いた実験によって、細胞分裂以前に、つまり淘汰を経ることなく、適応したアトラクターの選択が起きることが確認されている)。

まとめると、まず細胞は、多くの環境に対しては成長とノイズ(いずれも細胞ならば常に成り立つ)によるアトラクター選択で対応し、そのうちしばしば出会う環境に対しては進化を通してその環境に即応できるようにシグナル伝達系を発展させてきた、と考えることができる。

「進化はすでにあるものをチューンアップさせるのには長けているけれど、そもそも生存できないものをよくしていくことはできない。」 (p.374)

これは本書の議論全体に当てはまる考え方だと思う。

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