2012年9月2日日曜日

【書評】 Arthur Fine / The Shaky Game: Einstein, Realism, and the Quantum Theory

Fine, Arthur. 1996. The Shaky Game: Einstein, Realism, and the Quantum Theory (2nd ed.). Chicago : University of Chicago Press.

本書の前半では、アインシュタインとシュレーディンガーの間で交わされた書簡やアインシュタインの未発表の草稿をもとに、通説とは大きく異なる、量子力学に対するアインシュタインの考え方が描かれている。後半では、アーサー・ファイン自身のNOA(自然な存在論的態度)という考え方が提示されている。NOAの適用範囲は量子力学に限られるものではないが、最後の第九章においてファインは、量子論にとって実在論が持ちうる意味についてNOAの立場から論じており、二つの(一応)独立したテーマを上手く繋げている。以下、各章の内容を簡単に紹介し、最後に気になった点を述べたい。

【第二章 若きアインシュタインと老いたるアインシュタイン】

第一章は序論に相当する短い章なので割愛する。第二章では、アインシュタインが終生量子力学に対して批判的な立場をとり続けたのは、彼が年老いていたために、量子力学の新しくラディカルな考え方をうまく把握することができなかったからだ、という通説に反駁する。ファインは、多くの科学者や科学史家によって仄めかされてきたこの通説を転倒させ、位置や運動量といった古典的な概念に拘泥するボーアら主流派の方が実は保守的だったのだと論じる。

In the end Einstein was more radical in his thinking than were the defenders of the orthodox view of quantum theory, for Einstein was convinced that the concepts of classical physics [momentum and position] will have to be replaced and not merely segregated in the manner of Bohr's complementarity. (p.24)

件の流言は、巣立とうとする量子力学を、20世紀の最も著名な科学者による鋭い批判から守るための神話だったと考えられる。アインシュタインは、量子力学を本質的に統計的なもの、つまり物理学のすべての基礎を提供する根本理論にはなりえないものとして見ていたが、それは、量子論の代わりに、一般相対論の枠組み(時空多様体とそれに沿った解析的方法)によって、量子論を統計的な近似として生じさせるような、全く新しい概念と理論的基礎を求めていたからである。

【第三章 アインシュタインの量子論批判 : EPRの由来と意義】

第三章では有名なEPRパラドックスが取り上げられる。1935年6月19日にアインシュタインがシュレーディンガー宛てに送った手紙から、このEPR論文は、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの三人による議論の末、ポドルスキーが一人で書き上げ、アインシュタインがその最終原稿を見る前に出版され、またアインシュタインが本質的と考えていた論点がポドルスキーの形式化(formalism)に埋もれてしまった、ということが明らかにされる。アインシュタインが示したかった論点はあくまで、彼が分離原理(Trennungsprinzip)と呼ぶ近接作用の原理が量子論の記述の完全性とは両立しえないということであって、いわゆる「隠れた変数」をめぐる議論や、位置と運動量の同時測定とすら関係がない。シュレーディンガーへの手紙の中でアインシュタインが提示している思考実験をファインは以下のようにまとめている。

全運動量の保存則を通して相関を保っている二つの粒子A、Bから成る系を考える。AとBが空間的に遠く離れた状態で、Aのある方向への運動量を測定する。Aについての測定結果と保存則を通してBの運動量を推論することができる。分離原理を仮定するならば、Bの運動量はAを測定する時点で成り立っていた(でないとAの測定によってBの運動量を作り出したことになってしまう)。さて、量子論の状態関数がA測定時におけるBの運動量について与える確率は1ではない。したがって、分離原理と量子論の記述の完全性は両立しえない。

つまりアインシュタインは、二つの両立不可能な変数ではなく、一つの変数の測定から得られる推論によって、コペンハーゲン解釈の主要な構成要素をなすボーアとハイゼンベルクの「擾乱」(disturbance)のドクトリンと、状態関数の完全性が両立しえない、ということを示したのである。EPR論文ではこの論点が埋もれてしまったとはいえ、ボーアはこの論文を受けて擾乱の学説を事実上撤回している(物理的な擾乱から一種の「意味論的」擾乱へとスイッチしている)。

また、最近では分離原理が量子論そのものやいくつかの実験結果と整合しないというベルらによる研究があるが、仮に分離原理を放棄しないといけないほどベルの議論が強力であったとしても(ファインはそれを否定する)、分離原理と量子論の完全性が両方成り立たないということも考えられるので、量子論の完全性が示されたことにはならない。

【第四章 アインシュタインの統計的解釈とは何か?あるいは、アインシュタインがためにベル(鐘)の定理は鳴るのか?】

第四章では、量子力学に対するアインシュタインの統計的解釈が取り上げられる。アインシュタインの統計的解釈を「プリズム・モデル」として解釈することによってファインは、ベルの不等式がアインシュタインの解釈を論駁したという通説を「希望的観測」として批判する。ファインは局所性の概念を「分解可能性(条件付き確率独立性)」、「ベル局所性」、「アインシュタイン局所性」という三つの定式化に整理し、アインシュタイン局所性は必ずしもベル局所性を含意せず、またベル局所性は必ずしも分解可能性を含意しないことを論じる。

まず、ベル局所性と分解可能性について。

In general, factorizability [conditional stochastic independence] has been offered as a mathematical expression of Bell-locality. The prism models demonstrate that is not correct. In particular, the failure of factorizability need not imply the failure of Bell-locality - as the prism models show. The results of Bell's theorem depend on factorizability. It follows that the Bell theorem does not imply the failure of Bell-locality. (p.60)

そしてアインシュタイン局所性とベル局所性について。

It [Einstein's formulation of locality] differs from Bell's just over what it is that is not supposed to be influenced at a distance. For Bell it is the outcomes of the measurements of certain quantum observables (like spin). For Einstein it is the "real, physical states." In his various writings Einstein says even less about the nature of these postulated real states than he says about his ensemble interpretation, and for good reason. He was urging others, and struggling himself, to build a new theory that would "discover" these states, i.e. invent them. Whatever these states are, they would indeed (in Einstein's conception, at least) determine the real physical variables and, most likely, the outcomes of measurement of these. But Einstein is very clear that, in his opinion, the quantum mechanical variables (the "observables") are the wrong ones. They are not the real physical variables, and that is why it is hopeless to try to complete quantum theory from within. Since these quantum variables are not real (i.e., do not correspond to the real properties of the object), there is no special reason to worry over nonlocal influences on measurement outcomes for them" (p.61)

【第五章 シュレディンガーの猫とアインシュタインの猫 : パラドックスの誕生】 

第五章ではシュレーディンガーの有名な猫の思考実験が取り上げられる。ここでのファインの論点は、観測問題と関連付けられることの多いシュレーディンガーの猫を、EPRの延長線上の、量子論の完全性をめぐる思考実験として解釈し直すことである。つまりシュレーディンガーの猫は、分離原理や局所性の仮定なしに量子論の不完全性を議論するための装置だということである。もともとシュレーディンガーは、波動関数を実在そのものの記述と考えていた(アインシュタインはこれを「シュレーディンガー解釈」と呼んでいる)が、シュレーディンガー自身もこのような立場に伴う困難に気づいていて、最終的には(Die Naturwissenscaftenに掲載された1935年の論文で)確率分布を実在の完全な記述と考える自身の元々の解釈を、猫の思考実験によって論駁し、アインシュタインの立場と軌を一にするようになっている。このことを象徴的に示す例としてファインは、1950年にアインシュタインがシュレーディンガーに宛てた手紙の中で、彼が犯してしまったちょっとした筆の誤りを紹介している。もともとはアインシュタインが自身の思考実験の中で利用したはずの「火薬」と、シュレーディンガーの猫の思考実験に登場する「青酸ガス」とを混同して書いてしまっているのである(つまり二人の思考実験は基本的に同じことを示そうとしていたのだ、という意味)。

ただ、町田茂による邦訳では、「微笑ましい書き間違い」とでも訳すべき"one delightful slip"が、「楽しそうな1枚」と訳されていて(129頁)、せっかくのオチが全く通じないようになってしまっている。町田訳にはこの他にも誤訳が多く、また全体的にも日本語が不自然なので、読む場合はなるべく原著と突き合わせて読むことをお勧めしたい。

【第六章 アインシュタインの実在論】 

EPR、アインシュタインの統計的解釈、そしてシュレーディンガーの猫はすべて量子論の「完全性」をめぐるテーマであり、「実在」の問題と密接に関わっている。第六章では実在論が明示的に扱われる。この章はまた、ファインのNOAの議論へと接続するための役割を果たす。ファインによれば、アインシュタインの実在論にとって枢要なのは観察者独立性と因果性(決定論)であり、二次的だが重要なのは空間・時間の枠組みと、それに伴う分離原理と一元論である(この点に関連して、アインシュタインがスピノザを敬愛していたという事実は興味深い)。

アインシュタインの実在論のもう一つの特徴は、通常「実在論」の名で呼ばれているオーソドックスな考え方とは異なり、真理対応説的な考え方をとらない点にある。これは、次のような記述からも明らかだろう。

The real is not given to us, but put to us (by way of a riddle) ... This obviously means: There is a conceptual model [Konstruktion] for the comprehension of the interpersonal, whose authority lies solely in its verification [Bewdhrung]. This conceptual model refers precisely to the "real" (by definition), and every further question concerning the "nature of the real" appears empty. (P.A. Schlipp, Albert Einstein: Philosopher-Scientist p.680)
It is basic for physics that one assumes a real world existing independently from any act of perception. But this we do not know. We take it only as a programme in our scientific endeavors. This programme is, of course, prescientific and our ordinary language is already based on it. (Albert Einstein, Letter to M. Laserna, Jan. 8, 1955)

ファインはアインシュタインの強調する「検証」の考え方と、ファン・フラーセンの「経験的十全性」(empirical adequacy)との親近性を指摘しているが、私はこれはミスリーディングだと思う。またファインはアインシュタインの実在論を「動機的実在論」(motivational realism)、つまり個人の科学的探究を支える心理上のスタンスとして解釈しているが、これははっきり言ってカリカチュアだろう。少なくともアインシュタイン自身がこのような解釈を聞いて賛同するとはとても思えない。これらの点については後述する。

【第七章 自然な存在論的態度/第八章 そして反実在論でもなく】

これら二章はファインの有名なNOA論文である。第七章の冒頭では実在論の「死」が宣言されるが、ここでファインの言う「実在論」は、真理対応説に基づく実在論である。他方でファインは反実在論を受け入れるかというと、そうではない。ファインによれば、反実在論も、科学や合理性や真理について何らかの統一的な「解釈」を施そうとする点において、実在論と共犯関係にある。ファインは、これら二つの相反する立場に共通する核として、我々の日常的・常識的な感覚とそれに基づく推論を挙げ、また科学と我々の日常知との連続性を強調する。ファインはこの「核」のことをcore positionと呼び、これに余計な添加物を付加しない、core positionそれ自身のみからなる立場としてNOA(Natural Ontological Attitude、自然な存在論的態度)を称揚する。第七章では主に実在論のプログラムが失敗を免れ得ない理由を論じ、第八章では様々な反実在論的立場(道具主義、パトナムの内部実在論、ローティの認識論的行動主義、ファン・フラーセンの構成的経験論など)を取り上げ、それらの問題を論じる。

【第九章 科学的実在論は量子物理学と両立できるか?】 

第九章ではNOAの立場から量子論と実在論の問題をまとめている。本書の結論に相当する章で、特に新しい内容はない。また、第二版に追加された「あとがき」についても割愛する。



【所感】

ファインの研究は、アインシュタイン理解の面においても、NOAの面においても、とにかく素晴らしいと思う。本書の前半を占めるアインシュタインの概念的伝記(conceptual biography)には説得力があり、また非常に魅力的なアインシュタイン像を提示している。NOAも、重箱の隅を突くような不毛な議論に陥りやすい現在の分析哲学に対する貴重な毒抜きの役割を果たすだろう。以下、本書で気になったところを二点取り上げたい。これら二点は密接に結びついている。

「動機的実在論」について

まず一つ目は、ファインがアインシュタインの実在論を「動機的実在論」として解釈している点である。ファインの魅力的なアインシュタイン像の中で、唯一この点だけがカリカチュア臭いのだ。ファインはアインシュタインが、理論と外界との「対応」ではなく、理論の経験的検証を重視していることを以て、ファン・フラーセンの「経験的十全性」の考え方との類似性を指摘しているが(pp.107-108)、アインシュタインの引用を見る限り、彼が言わんとしているのはむしろ、実在論への信仰自体が経験的十全性の範疇内にある、ということなのではないか。上で引用したLasernaへの手紙にあるように、アインシュタインにとって実在論は「前科学的」で、「我々の日常言語にすでに埋め込まれている」。ファインはおそらく、実在論が「非合理的」であることを以て、アインシュタインの実在論を個人の情緒の次元に還元しようとしているのであろう。ファインの次の引用はこれを如実に語っている。

In support of realism there seem to be only those "reasons of the heart" which, as Pascal says, reason does not know. Indeed, I have long felt that belief in realism involves a profound leap of faith, not at all dissimilar from the faith that animates deep religious convictions. I would welcome engagement with realists on this understanding, just as I enjoy conversation on a similar basis with my religious friends. The dialogue will proceed more fruitfully, I think, when the realists finally stop pretending to a rational support for their faith, which they do not have. Then we can all enjoy their intricate and sometimes beautiful philosophical constructions (of, e.g., knowledge, or reference, etc.) even though to us, the nonbelievers, they may seem only wonder-full castles in the air. (p.116n)

かなり狭い意味で「合理的」という言葉を理解するならば、実在論が一種の非合理的な信仰に基づくという考えには全く異論がない。しかし、非合理的=個人的とは限らない。ファイン自身も、"I too have regret for that lost paradise [correspondence to the external world], and too often slip into the realist fantasy"と述べているように(p.134)、またファインが引いているマッハの『感覚の分析』の一節にもあるように(pp.134-135)、実在への信仰は、我々人類にとってあまりにも「自然」な感覚なのではないか。アインシュタインが次のように語るとき、彼が言わんとしていているもまさにこういうことだと思う。

If you want to find out anything from the theoretical physicists about the methods they use, I advise you to stick closely to one principle: don't listen to their words, fix your attention on their deeds. To him who is a discoverer in this field, the products of his imagination appear so necessary and natural that he regards them, and would like to have them regarded by others, not as creations of thought but as given realities. ("On the Method of Theoretical Physics", in Ideas and Opinions pp.270-276)

これが、次の気になった点に繋がる。

NOAは本当に「自然」なのか

「自然な存在論的態度」を重視するという考え方には満腔の賛意を表したい。しかし、何が「自然」で何が「自然でない」のか、決して自明とは言えない。つまり、「自然な存在論的態度」を称揚する以上、「自然」と「不自然」の間に何らかの境界線を設ける必要があるが、この境界線をどこに引くべきかという問題が依然として残る。ファインはこの問題に関して少々無頓着であるように思う。NOAについて、ファインは次のように述べている。

All that NOA insists is that one's ontological attitude towards monopoles, and everything else that might be collected in the scientific zoo (whether observable or not), be governed by the very same standards of evidence and inference that are employed by science itself. (...) NOA tries to let science speak for itself, and it trusts in our native ability to get the message without having to rely on metaphysical or epistemological hearing aids. (p.150)

よろしい。しかし、どこまでが「科学」でどこからが「科学でない」のか。

On NOA's view science, as open, has no settled lines of demarcation. What counts as in or out is a judgment call depending on the community, place, time, and interests. These judgments are bound to change with varying circumstances, and they do. (p.179n)

ごもっともである。しかし、これを真剣に受け止めるならば、第九章で量子力学に対する様々な「解釈」の試み(ボーム力学、stochastic collapse理論、多世界解釈など)を批判する箇所(p.170)は、果たして妥当と言えるのかどうか疑問である。というのは、これら様々な解釈を試みている当の研究者たちは、自分は「科学」をやっているつもりで探究しているだろうから。「科学は開かれている」とする上の引用に反して、ファインの批判は、非合理的な「実在」への信仰と、合理的な科学の営みとを截然と切り分けることによって成立しているように思われる。

私の考え方とファインの考え方の根本的な違いは、core positionの領域内に、科学的探究の理想的極限としてのパース的な真理概念が含まれると考えるか否か、という点にあるように思う。ファインはこれを(アインシュタインの実在論の文脈で)否定している。

I should point out here that just as the "realist" idea of science making successively better approximations to reality is not part of Einstein's realism, neither is the pragmatist (especially Peircean) idea of defining reality (and truth) by reference to the ideal limit in which continued inquiry would (supposedly) finally result. (p.97)

しかし私は、アインシュタインの実在の考え方はむしろパースに近いのではないかと思う(今の私にこれを論証する能力はないが)。実在とは、我々がつねにすでに服してしまっている、前言語的で透明な「何か」であるはずだ。それは、真理対応説の論者たちのように言語化してしまったら、その時点で「我々」の側に回収され、本当の「実在」でなくなってしまうが、それでもなお我々の概念の背面にへばりついているものなのではないか。

真理対応説の論者たちのように、端的に「概念と外界との対応」を宣言するつもりはない。それは哲学的にあまりにも素朴過ぎる。ただ、実在への信仰は我々人類にとって放棄不可能なほど「自然」な態度なのではないか、と問うことには意味があるだろう。

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