2013年3月16日土曜日

【メモ】 アインシュタイン―物理学と形而上学 (細川亮一)

【第一章 第一節 運動と変換】

「私が光線を光速度c(真空中の光速度)で追いかけるとすれば、私は静止した、つまり空間的に振動している電磁場としてその光線を知覚するはずだろう。しかし経験に基づいても、マクスウェルの方程式に従っても、そのようなことがあるとは思えない」
(Paul Schilpp, Albert Einstein: Philosopher-Scientist, p.52)
→ アインシュタインの有名な光のパラドックスの思考実験。この思考実験から「光線を光速度cで追いかけることの不可能性」が導かれる、と解釈されるかもしれないが、この解釈は誤っている。光速度が限界速度であることは、経験からもマクスウェル方程式からも帰結しない。後者が教えるのは、光が電磁波であり、真空中を一定速度cで伝播することであり、前者が教えるのは、相対的に一様な並進運動をする座標系では同一の自然法則が成り立つ、ということ(相対性原理)である。問題はむしろ速度の合成にある。光をcより小さい速度で追いかけたとすれば、光はcより遅く伝播しているように見えるだろうか。このように問えば、cが光の限界速度であると仮定してもパラドックスが解消しないことが分かる。というのも、もし観測者がcより遅い速度で伝播する光を知覚できれば、その情報に基づいて自分が(静止座標系ではなく)一定の速度で一様な運動をする座標系にいると判断できてしまい、相対性原理を破ることになるからである。「光のパラドックスは、ガリレイ変換による速度合成の法則と光速度一定の原理との両立不可能性に由来する。」(p.26)

【第一章 第二節 ローレンツ理論との格闘】

「ただ一つの原理的な意味でこの理論[ローレンツの静止エーテルの理論]は満足させるものに思えなかった。この理論は一定の運動状態の一つの座標系(つまり光エーテルに対して静止している座標系)を、それに対して運動しているすべての座標系に対して特別視しているように見えた。……この堪え難いと感じられた原理的な困難に特殊相対性理論は負っている」(Collected Papers Vol. 7, p.373)

「静止エーテルが存在する、とは物理的に何を意味するのか。この仮定の最も重要な内容は次のように表現される。それに対してあらゆる光線が真空中で普遍的速度cで伝播するような一つの座標系(ローレンツ理論において『エーテルに対して相対的に静止している系』と呼ばれる)が存在する。このことは、光を放射する物体が静止しているか運動しているかに依存せず成立する。この命題を我々は光速度一定の原理と名付けよう」(Collected Papers Vol.3, p.430)
→ ローレンツの静止エーテルの理論が表現している物理的内容を、余計なエーテル仮説を消し去って純化すれば、光速度不変の原理になる。実際アインシュタインは、ローレンツのこの理論から、核心を剔出することによって光速度不変の原理に達したと思われる。

「特殊相対性理論が古典力学と異なるのは、相対性の要請によってではなく、真空中の光速度の一定という要請によってだけである」(Collected Papers Vol.6, p.285)

【第一章 第三節 ヒュームとマッハ】

「ヒュームの『人間本性論』を私は相対性理論を見出す直前に熱意と賛嘆の念をもって研究しました。この哲学的研究なしに私が解決に達しなかったかもしれないということは、大いにありうることです」 (Collected Papers Vol. 8, p.229)

【第二章 第四節 時間】

「例えば『列車が七時にここに到着する』と私が言う場合、『私の時計の短針が七を指すことと列車の到着が同時刻の出来事である』ということを意味する」(Collected Papers Vol. 2, p.278)

ここで重要なのは、時間を「時計の短針が七を指す」という出来事としていることである。このことによって、或る出来事(列車の到着という出来事)の時間(時刻)を語ることは、同じ場所での二つの出来事の同時刻性として捉え返される。時間の問題が出来事同士の関係という次元に置かれたのである。それによって、時間はそれ自身独立・自存の存在でなく、出来事同士の関係となる。時間の問題を二つの出来事の同時刻性へ還元することは、「時間は出来事の基準枠であり(座標という幾何学的な絶対性)、出来事から物理的に独立である(物理的な絶対性)」という絶対時間を否定する最初の決定的な一歩である。(p.74)

アインシュタインによる時間間隔の定義→
「一つの光線がA時間tAにおいてAから出発しBへ向かい、B時間tBにおいてBでAに対して反射され、t'AにおいてAに戻るとしよう。もしtB-tA=t'A-t'Bであるならば、定義として二つの時計は同調している」(Collected Papers Vol. 2, p.279)
→ もしtA-tB>t'A-tB、あるいは同じことだがtB>(t'A-tA)/2であれば、時計Bは時計Aより進み過ぎている。逆にtA-tB<t'A-tB、すなわちtB<(t'A-tA)/2であれば、時計Aが時計Bより進み過ぎている(これは二つの時計のテンポが合っていない、という意味では必ずしもない。テンポは同じでも、一方の時計が他方より常に一定の間隔だけ遅れている、ということもありうるからである)。

「我々はさらに経験に従って、2AB/(t'A-tA)=cという量が普遍定数(真空中の光速度)であると設定する」(ibid.)
→ AB(AとBの間の距離)は「ユークリッド幾何学の方法を使って剛体によって」(Collected Papers Vol. 2, p.277)測定できる。そして光速度は常に一定である。この二つの量を使って初めて時間間隔(t'a-tA)を、測定可能な量として定義できる。すなわち2AB/cである。

長さと時間の相対性→
「静止した剛体の棒が与えられているとする。この棒は、同様に静止した物差しによって測定されたとき、長さlである。我々は棒の軸が静止系のX軸に沿って置かれ、棒がその上を一様な並行並進運動(速度v)でX軸に沿って座標Xが増加する方向に運動していると想定する」(Collected Papers Vol. 2, p.290)
→ この場面設定で棒の長さが問われるが、(a)運動している棒とともに運動している観測者にとっての棒の長さ(運動系における棒の長さ)と、(b)静止している観測者にとっての棒の長さ(静止系において運動している棒の長さ)が一致しないことを見る。相対性原理より、(a)の長さはlである。問題は(b)の方。運動している棒の両端(AとB)に時計を取り付け、これら二つの時計がそれぞれ静止系の時計と(静止系のある瞬間において)合わせられていると想定する。時刻tAにおいてAから光線が出発し、時刻tBにおいてBで反射され、時刻t'AにおいてAに戻るとする。そして静止系において測定した運動している棒の長さをrABとする。

静止系から見ると、Aを出発した光線がBに着くまでに、Bは(tB-tA) *v[vは運動する棒の速さ]だけ進んでいる。それ故、光線はrAB+(tB-tA)*vの距離を伝播しなければならない。光速度=(光路/(時間間隔)であるから、c={rAB+(tB-tA)*v/(tB-tA)}。c(tB-tA)=rAB+(tB-tA)*v。(tB-tA)(c-v)=rAB。それ故、tB-tA=rAB/(c-v)。次にBで反射されAに戻る場合を考える。光線がAに戻る間に、Aは(t'A-tB)*vだけ、光線に向かって進んでいる。それ故、光線はrAB-(t'A-tB)*vの距離を伝播することになる。右と同様にして、t'A-tB=rAB/(c+v)。tB-tA=rAB/(c-v)とt'A-tB=rAB/(c+v)から、tB-tA≠t'A-tB。このことを「運動している棒とととも運動している観測者」(運動系)から見ると、Aの時計とBの時計は同調していないことになる。運動系から見て、二つの時計が同調しているとは、tB-tA=t'A-tBが成り立つことを意味しているからである。(p.78)

「自然法則の単純性が客観的な性格を持つこと、それが単に思惟経済の問題であるだけではないことを、私はあなた[アインシュタイン]と同様に信じます。極度の単純性と美を持った数学的形式へと自然によって導かれるとき、……それがである、つまりそれが自然の真正な性格を表現している、と人は信じざるを得ません。」(Werner Heisenberg, Der Teil und das Ganze pp.98-99)

【第二章 第五節 相対性原理と光速度一定の原理】

一般的な解説書において、相対性原理は(a)「自然法則はすべての規準系(慣性系)において同一の形で表される」とされ、光速度一定の原理は(b)「すべての規準系(慣性系)において真空中の光速度は同じ値を取る」と説明されている。(p.93)

光速度一定の原理を(b)とすることは、「すべての規準系において」という形で、相対性原理を密輸入している。(p.94)
→ (b)の定式化に従えば、光速度不変の原理だけからローレンツ変換を導けてしまう。

特殊相対性理論を特殊たらしめているのは何か。それは慣性系といった特殊な座標系への言及ではなく、二つの座標系の特殊な関係、すなわち「相対的に相互に一様な並進運動をしている」という関係である。(p.97)
→ (a)のように慣性系といった規準系への指示を含ませることは、相対性原理が慣性の法則を前提することになり、原理の次元を失うことになる。

相対性原理は規準系への指示を含まず、二つの座標系の関係とその同等性のみを語るだけだから、相対性原理だけでは規準系(自然法則が最も単純な形となる座標系、「電気力学」論文の言葉で表現すれば「静止系」)を決定しえない。では規準系はいかにして決定されるのか。光速度一定の原理こそが、規準系=静止系を決定する。(p.98)
→ 光速度不変の原理が、ローレンツの静止エーテル理論に由来することを想起せよ。つまり、「それに対してあらゆる光線が真空中で普遍的速度cで伝播するような一つの座標系」が世界に存在することを、光速度不変の原理は要請しているのである。

[厳密に言えば]特殊相対性理論は非慣性系(加速度系)に対しても妥当する。つまりある悲慣性系において成立する自然法則(それがいかに複雑な形であろうと)は、「その非慣性系に相対的に一様な並進運動を他の非慣性系」において同じ形で成り立つ。(p.301n)

ガリレイにおいて慣性の法則は理想化された実験(思考実験)によって導かれる。物体が斜面下方へ加速運動することと斜面上方へ減速運動することから、加速と減速の原因を取り除けば(つまり斜面ではなく水平な平面での運動においては)、物体は加速も減速もしない一定の速度で運動するだろう。しかしガリレイが想定している水平な平面は地球の表面(つまり球面)である。彼にとって加速は地球の中心へ向かう加速であり、中心を持った地球座標系を、つまり「上方・下方という空間の非等質性」を前提としている。さらにガリレイにおいて慣性の法則は加速・減速の原因がない極限事例、つまり加速度運動の法則の特殊な場合にすぎない。(p.103)

[ニュートンにおいて]慣性の法則は水平運動に限定されず一般化され、空間の等質性が認められている。一般化されえたのは、ガリレイの運動学が地上での現象に限定されていたのに対し、ニュートンの力学が天文学へと拡張され、地球座標系から自由になったからである。(p.103)

ニュートンは慣性の法則を第一法則とし、運動方程式を第二法則とした。これに対して、慣性の法則は加速度の法則の特殊な場合(外力がない場合)にすぎず、独立の法則として認める必要がない[のではないか]、という疑問が生じる。……しかしこうした理解は、地球座標系を自明視したガリレイと同様に、規準系の存在を自明視し、規準系の決定という問題を見ていない。つまり加速度の法則がいかなる座標系(規準系)において成り立つのか、という問いを忘れている。ガリレイの相対性原理における静止・運動は地球座標系に対する静止・運動であった。しかしニュートンの相対性原理における「静止している空間」は地球座標系に対する静止ではなく、絶対空間に対する静止を意味する。ニュートンは地球座標系から自由になることによって、規準系(時空座標)の決定という問題に直面する。だからこそ彼は絶対時間・絶対空間を導入したのである。(p.104)
→ オイラーは、慣性の法則は運動方程式の特別なケースに過ぎないことを数学的に示したが、彼には規準系の決定という核心的な問いが抜け落ちている。「我々は法則を持っているが、しかしいかなる枠に法則を準拠させるべきかを知らない」(The Evolution of Physics, p.222)

第一法則(慣性の法則)が決定する規準系(座標系)において、初めて第二法則(運動方程式)が成り立つのであって、第二法則の特殊な場合として慣性の法則が成り立つのではない。(p.104)

光速度一定の原理は静止系(規準系)を決定するだけでなく、同時に座標変換に対する不変量として座標間の変換の形を決定することによって、相対性原理に物理的な意味を与えるのである。(p.106)

ローレンツ変換を導くためであれば、ローレンツやポアンカレがしたように、マクスウェルの方程式を不変に保つ変換式を求めるという仕方でも可能である。とすれば変換に対する不変量をマクスウェルの方程式とするか、光速度一定とするかは、ローレンツ変換式を導出するという点に関しては違いがない。しかしマクスウェルの方程式は光速度一定の原理を含むが、光速度一定の原理はマクスウェルの方程式を論理的に前提していない。つまり光速度一定はマクスウェルの方程式より内包量が少ない。この点に光速度一定を不変量とすることの優位がある。(p.107)

Maxwell's equations imply the "Lorentz group," but the Lorentz group does not imply Maxwell's equations. The Lorentz group may indeed be defined independently of Maxwell's equations as a group of linear transformations which leave a particular value of the velocity - the velocity of light - invariant. (...) On this account it is to be expected that all equations of physics are covariant with respect to Lorentz transformations (special theory of relativity). Thus it came about that Maxwell's equations led to a heuristic principle valid far beyond the range of the applicability or even validity of the equations themselves. (Ideas and Opinions, p.346)

ここで着目したいのは「マクスウェル理論が放射のミクロ構造を提示しておらず、それゆえ普遍的に妥当しない」(Max Born, Physics in My Generation, p.104)という[アインシュタインの]認識である。この認識故に、アインシュタインはマクスウェル方程式を前提とすることができなかった。アインシュタインがマクスウェルの方程式ではなく光速度一定を不変量として選んだのは、マクスウェル理論が放棄され、光についての新しい理論(粒子であれ波動であれ粒子・波動の二重性であれ)が登場したとしても、光速度一定の原理が成り立つと考えたからである。ここに特殊相対性理論の原理理論であることの意味が読み取れる。(pp.107-108)

【第二章 第六節 原理理論としての特殊相対性理論】

相対性原理は相対主義のテーゼではなく、「自然法則の絶対主義」の宣言である。……「自然の法則がローレンツ変換に対して不変である」という「数学的に定式化された規準」を「個々の現象」(剛体の長さと時間という現象)が満たさなければならないが故に、ローレンツ収縮と時計の遅れが論理的に(演繹的に)帰結する。……つまり特殊相対性理論が要求する「自然法則の絶対主義」によって、「長さと時間の絶対性」(長さと時間が座標系に依存しない不変量であること)が打倒される。(p.122)

It will be recalled that a similar charge had been leveled, especially in the early 1920s, against the theory of relativity. This charge stemmed, at least to some extent, from a gross misinterpretation of the very name of the theory; it was claimed that, because all laws of physics are "relative" to the observer, they "depend" on the observer and that thereby the human element plays an integral part in the description of physical data - whereas, quite to the contrary, the very tensor calculus on which the theory is based vouches, so to say, for the "standpointlessness" of the laws formulated in the theory. (Max Jammer, The Philosophy of Quantum Mechanics pp.200-201)

【第三章 第八節 特殊相対性理論から一般相対性理論へ】

「これらの思想は言語の形式において生じるのではない。私が言葉で考えるのは極めて稀である。思想が生じる、そして私は後からそれを言葉で表現しようと試みる」(Einstein, quoted from Max Wertheimer, Productive Thinking, p.228n)

「書かれたり話されたりする仕方での言葉や言語は、私の思想のメカニズムにおいて何の役割も果たしていないように思われる」(Einstein, quoted from Gerald Holton, Thematic Origins of Scientific Thought, p.386)

「すでに獲得された認識の光の元では、幸運にも達成されたものがほとんど自明のように見える。そしてあらゆる聡明な学生はそれほど大きな苦労なしにそれを把握する。しかし予感に満ちた何年にもわたる暗闇での探究、それに伴う張りつめた憧憬、確信と消耗の交錯、そしてついに真理へと突き抜けること、こうしたことを知っているのは、自分自身でこれを体験した者だけである」(Mein Weltbilt, p.138)

【第四章 第十二節 人間精神の自由な創造】

「物理学者の最高の課題は、それから純粋な演繹によって世界像が獲得され得る最も一般的な基本法則を探し出すことである。こうした基本法則に通じる論理的な道はなく、ただ経験への感情移入(Einfühlung)に支えられた直観のみがある。方法論の不確実性をよりどころとして、理論物理学の任意に多数のそれ自体としては同等な体系が可能であると考えることができるだろう。この考えは原理的にも確かに正しい。しかし発展が示しているのは、すべての考え得る構成の中で唯一の構成がその都度他の構成より無条件に優越していることが明らかになる、ということである。対象の中に実際に沈潜した人は誰でも、知覚から理論の根本命題への論理的な道が通じていないにも関わらず、知覚の世界が論理的な体系を実際に一義的に規定する、ということを否定しないだろう」(Collected Papers Vol. 7, 57)

Newton, forgive me; you found the only way which, in your age, was just about possible for a man of highest thought - and creative power. The concepts, which you created, are even today still guiding our thinking in physics, although we now know that they will have to be replaced by others farther removed from the sphere of immediate experience. (Autobiographical Notes, pp.30-31)

絶対空間を想定すれば、その空間に対して静止している座標系(絶対静止系)が存在する。その座標系が慣性の法則が成り立つ座標系(慣性系K)である。確かに絶対空間そのものは観測不可能であるから、絶対空間に対して静止している座標系(慣性系K)をそれとして決定できない。しかし相対性原理によれば、その慣性系Kに対して相対的に一様な並進運動している座標系もKと同様に慣性系である。それ故慣性の法則が成り立つ座標系を決定できるとすれば、その座標系が絶対空間に対していかなる一様な運動をしているかを知りえないとしても、その座標系は慣性系である。つまり絶対空間は慣性系の存在を保証している。(p.215)

[I]nertia resists acceleration, but acceleration relative to what? Within the frame of classical mechanics the only answer is: inertia resists acceleration relative to space. This is a physical property of space-space acts on objects, but objects do not act on space. Such is probably the deeper meaning of Newton's assertion spatium est absoutum (space is absolute). But the idea disturbed some, in particular Leibnitz, who did not ascribe an independent existence to space but considered it merely a property of "things" (contiguity of physical objects). Had his justified doubts won out at that time, it hardly would have been a boon to physics, for the empirical and theoretical foundations necessary to follow up his idea were not available in the seventeenth century. (Ideas and Opinions, p.348)

加速度は絶対空間に対する加速度であり、絶対空間は加速度運動をする対象に作用する。絶対空間は慣性系における加速度に、運動の相対性に解消されない物理的な意味を与える。絶対空間は加速度運動への物理的な作用によって慣性系の優位を保証する。(p.216)

Physical concepts are free creations of the human mind, and are not, however it may seem, uniquely determined by the external world. In our endeavour to understand reality we are somewhat like a man trying to understand the mechanism of a closed watch. He sees the face and the moving hands, even hears it ticking, but he has no way of opening the case. If he is ingenious he may form some picture of the mechanism which could be responsible for all the things he observes, but he may never be quite sure his picture is the only one which could explain his observations. He will never be able to compare his picture with the real mechanism and he cannot even imagine the possibility of the meaning of such a comparison. But he certainly believes that, as his knowledge increases, his picture of reality will explain a wider and wider range of his sensuous impressions. He may even believe in the existence of the ideal limit of knowledge and that it is approached by the human mind. He may call this ideal limit the objective truth. (The Evolution of Physics, p.33)

→ クーンは『科学革命の構造』で「継起する諸理論が真理に絶えず近づき、ますます接近する」という観念を批判している。彼は言う: "There is, I think, no theory-independent way to reconstruct phrases like 'really there'; the notion of a match between the ontology of a theory and its 'real' counterpart in nature now seems to me illusive in principle." (Thomas Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions, p.206) 実在は模写されるものではなく、逆に理論によって実在の像が構築される。ゆえに理論に依存しない実在の像などありえないし、理論が描く実在の像と実在その物との比較・対応など不可能である。しかしこの論点はいわゆる「新科学哲学」による新発見でも何でもなく、既にアインシュタインによってはっきりと認識されていた。物理的な実在を「閉じられた時計のメカニズム」になぞらえる上の引用がこれを明瞭に示している。アインシュタインにとって、理論と実在との比較・対応が不可能であるとするクーンの論点はそのまま認められる。しかし、この論点から、真理の「接近」説の否定を導きえないことは、アインシュタインの引用からも明らかである。クーンは、真理の「接近」説が真理の「対応」説を含むことを前提視しているが、その根拠が示めされていない。「「経験→理論→経験」の図式を使えば、真理の対応説がモデルとしているのは、「経験→理論」のレベルであり、「理論以前に経験に与えられた実在(あるがままの実在)」を模写する理論を真であるとする。しかし科学理論の真理は、「理論→経験」(つまり外的実証性)のうちに、そして理論そのものの性格(内的完全性)に求められる。」(p.332n)

「私のような人間の生における本質的なものは、何を思惟するか、いかに思惟するかにあるのであって、何を為すか、何をこうむるかにない」(Autobiographical Notes, p.32)

It has often been maintained that Galileo became the father of modern science by replacing the speculative, deductive method with the empirical, experimental method. I believe, however, that this interpretation would not stand close scrutiny. There is no empirical method without speculative concepts and systems; and there is no speculative thinking whose concepts do not reveal, on closer investigation, the empirical material from which they stem. To put into sharp contrast the empirical and the deductive attitude is misleading, and was entirely foreign to Galileo. (Foreword to Galileo's Dialogue Concerning the Two Chief World Systems, p.xviii)

この自由な思惟[経験から自由な思考実験、純粋思惟]が初めて、「運動する物体は、これを押す力が押すことができなくなるとき、静止する」という運動についての誤った考え(経験的な事実に直接由来する考え)を克服した。(p.225)
→ しかし純粋思惟も経験から完全に自由ではありえない。物理学の場合外的実証に晒されるという意味でのみなく、そもそも思惟の素材が経験に由来しないことはありえない、ということ。

【第五章 第十三節 自然のうちで自己を顕現する理性】

 「世界の理性もしくは世界の理解可能性についての宗教的感情に似た確信が、すべての洗練された科学的探究の根底にあることは確かである。経験可能な世界のうちで自己を掲示する卓越した理性についての、深い感情に結びついたあの確信が私の神概念を形成している。それ故普通の表現を使えば、それを汎神論的(スピノザ)と呼びうる。」(Mein Weltbild, p.171)

「私は存在者の調和の内に自己を掲示するスピノザの神を信じ、人間の運命と行動に関わり合う神を信じない。」(Carl Seelig, Albert Einstein: Eine Dokumentarische Biographie, p.187)

「科学は自然の究極的な神秘を解くことができない。それは結局我々が自然の一部であり、従って我々が解こうと試みている神秘の一部だからである。」(Max Planck, Where is Science Going?, p.217)

「たとえ[ニュートンの重力]理論の公理が人間によって定位されるとしても、そのような企ての成功は、それをアプリオリに期待するいかなる根拠もない客観的世界の高度な秩序を想定している。ここに我々の知識の発展とともにさらに強まる驚きがある。」(Breife an Maurice Solovine, p.114)

The speed of light c is one of the quantities which occurs as "universal constant" in physical equations. If, however, one introduces as unit of time instead of the second the time in which light travels 1 cm, c no longer occurs in the equations. In this sense one could say that the constant c is only an apparently universal constant. It is obvious and generally accepted that one could eliminate two more universal constants from physics by introducing, instead of the gram and the centimeter, properly chosen "natural" units (for example, mass and radius of the electron). If one considers this done, then only "dimension-less" constants could occur in the basic equations of physics. Concerning such I would like to state a theorem which at present can not be based upon anything more than upon a faith in the simplicity, i.e., intelligibility, of nature: there are no arbitrary constants of this kind; that is to say, nature is so constituted that it is possible logically to lay down such strongly determined laws that within these laws only rationally completely determined constants occur (not constants, therefore, whose numerical value could be changed without destroying the theory). (Autobiographical Notes, p.60)

→ アインシュタインにとっての理論の評価基準の一つは「内的完全性」であるが、それは、類似した構造を持った等価な諸理論の中から一つの理論が、論理的な観点から見て任意でない仕方で選ばれた場合に体現される。そしてある物理理論が論理的に任意でない仕方で構築されたとき、「自然はなぜこのようであって、別様ではないのか」、という問いへの答えになる。上の引用では、任意性のない理論とはいかなるものかについて述べられている。

「アメリカ人はまさに事実-人間であり、思想によって現実的なものを作り得ることを信じない。我々がヘーゲルを蔑視するように、アメリカ人は私流の理論物理学を蔑視する。」(Einstein, quoted from Ernst Strauss, "Assistent bei Albert Einstein" in Helle Zeit-Dunkle Zeit, p.73)

「今や彼[ベッソー]はこの奇妙な世界と別れて、私に先立って行きました。このことは問題ではありません。我々確信的な物理学者にとって過去と現在と未来の区別は、たとえ執拗であろうと、一つの幻想の意義しか持っていないのです。」(Einstein, quoted from Max Jammer, Einstein and Religion, p.161)

【第五章 第十四節 物理学は一種の形而上学である】

確かにアインシュタインの立場は実在論であるが、それがいかなる実在論であるかが問題である。「物理学は存在者を、知覚されていることから独立に思惟されるものとして概念的に把握しようとする努力である。この意味において物理学的に実在的なものが語られる」(Autobiographical Notes, p.80)。「知覚されていることから独立に」という言葉は、実在が直接に(知覚的に)捉えられるという素朴実在論を否定している。実在は「思惟されるもの」、つまり理性(人間精神の自由な想像としての物理理論)によって初めて把握される。それ故理論が構築する実在の像は、理論と独立な実在(いわゆる「形而上学的実在」)と比較することなどできない。この意味での真理の対応説は否定される。しかし物理理論から演繹された諸帰結が経験の多様性を包括すること(外的実証性)のうちに、理論の有効性(真理性)がある。……このようなアインシュタインの実在論(さらに形而上学)を、カント哲学に接近したパトナムの「内在的実在論」と比較検討することは、極めて興味深い作業となるだろう。」(pp.342-343n)

In short, I shall advance a view in which the mind does not simply 'copy' a world which admits of description by One True Theory. But my view is not a view in which the mind makes up the world, either (or makes it up subject to constraints imposed by 'methodological canons' and mind-independent 'sense data'). If one must use metaphorical language, then let the metaphor be this: the mind and the world jointly make up the mind and the world. (Hilary Putnam, Reason, Truth and History, p.xi)

In short, I suffer under the unsharp separation of Reality of Experience and Reality of Being. You will be astonished about the "metaphysicist" Einstein. But every four and two-legged animal is de facto in this sense metaphysicists. (Einstein, quoted from Gerald Holton, Thematic Origins of Scientific Thought, p.386)

→ Reality of Experienceは感性的経験の実在性、Reality of Beingは概念の実在性。この区別が形而上学的であるからことを知っていたからこそ、アインシュタインは自身が「形而上学的な原罪を犯している」(Paul Schilpp, Albert Einstein: Philosopher-Scientist, p.673)と語るのである。

「遥かに健全な精神を持っていた彼[カント]の先行者ヒュームを読むほど素晴らしいわけではないとしても、ともかくカントを読むことは非常に魅力的です。」(Albert Einstein, Hedwig und Max Born Briefwechsel 1916〜1955, p.25. cf. Collected Papers Vol. 8, p.346)

「剛体はその位置可能性に関して、三次元ユークリッド幾何学の物体のように振る舞う。その場合ユークリッド幾何学の命題は、実際上の剛体の振る舞いについての言明を含む。/このように補足された幾何学は明らかに一つの自然科学である。我々は幾何学をまさに物理学の最も古い部門と見なすことができる。」(Mein Weltbild, p.121)

「人間の真の価値は第一に、いかなる程度においていかなる意味において彼が自我からの解放に達しているか、によって規定されうる。」(Mein Weltbild, p.10)

「この領域において成果豊かな歩みを集中的に経験する者は、存在者の内に自己を顕現する理性に対する深い崇拝の念に囚われる。彼は理解の道を通って個人的な願望と希望の鎖から解放され、存在者の内に具現化されその究極の深みにおいて人間には近づきえない理性の偉大さに対する、心の謙虚な態度に至る。この態度は最高の意味において宗教的であると私に思われる。こうして科学は、宗教的動機を擬人主義的な残骸から純化するだけでなく、人生観を宗教的に超俗的にすることにも貢献する、と私に思われる。」(Aus meinen späten Jahren, p.47)

2 件のコメント:

  1. この本にだまされてはいけません。アインシュタインを論じる資格なんか全くない著者です。

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  2. >匿名さん
    具体的に、どの部分を以て、そう思われるのですか?

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