2013年6月22日土曜日

マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』について

以下の文章は、マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』の読書会のために用意したレジュメである。担当箇所はpp.79-91。頁番号は、特に断りのない限り、全て高橋勇男訳(ちくま学芸文庫)のもの。



【背景―暗黙知的構造の拡張】

マイケル・ポランニーの「暗黙知」(tacit knowing; tacit knowledge) [1]と言えば、「言葉に表せない・明示化できない知識」だとよく説明される。もちろんこれは全く正しい。実際、本書の第一章は専ら暗黙知のこの側面の考察に割かれている。しかしそれは他方で暗黙知の一側面、認識論におけるその顕現に過ぎない。暗黙知概念そのものの射程はもっと広い。というのも、『暗黙知の次元』におけるポランニーの企ては、暗黙知的構造の及ぶ範囲を人間の認識・知覚から世界そのものへと広げることだからである。第一章では、人間の認識・知覚の暗黙知的構造が考察の対象であった。そこでポランニーは「内在化」(interiorization)、ないし「身体化」(in-dwelling)という概念を提示し、ある事物を近位項として機能させることによって、我々が自らの身体を世界の方へと開いていく様子を描いていた。この延長線上に第二章の存在論の議論がある。ここでポランニーは、職人の技を理解するという事例を挙げ、次の仮定を置く:「他のすべての暗黙知の事例においても、包括する行為の構造と、その行為の対象たる包括的存在の構造は、一致する」(p.63; 原文傍点)。この仮定は、暗黙知概念を認識・知覚の領域から存在論の領域へ拡張する上で、議論の鍵となるアイデアであるように思われるものの、正直言って非常に理解しづらい。具体的に言えば、ポランニーは一体どのような世界観に基づいてこのような仮定を置いているのか、いまいちピンと来ないのである。この問題は後で取り上げることにして、とりあえず長い前置きを終えて自分の担当箇所に移りたい。

【境界制御の原理】

第二章の前半でポランニーは、すべての生命現象を物理学と化学の法則によって説明しようとする生物学者を批判するという論脈で、「境界制御の原理」(the principle of marginal control)という概念を提示していた。システムの下位レベルの諸要素の振る舞いに境界条件を付与することによって、上位レベルに一定のパターンが出現するが、こうした境界条件の付与を「境界制御」と呼んでいるのである。そしてポランニーの主要論点は、具体的な境界制御の決め方、すなわち上位レベルの組織化原理は、下位レベルからは論理的に独立であり、したがって後者だけからは出現しえない、ということである(pp.79-80)。ポランニーは、下位レベルに存在しない組織化原理が上位レベルで出現するこうした過程を「創発」(emergence)と呼び、非生命からの生命の誕生にそのパラダイムを見ているのである(pp.78-79)。

【進化論の神学的書き換え】

アンリ・ベルクソンの「エラン・ヴィタール」(生命の跳躍)とも共鳴するこうした創発概念に基づき、ポランニーは、進化論の大胆な書き換えに着手する(p.82)。彼によれば、現行の進化論が前提とする自然淘汰説は、新種の個体群の出現は説明できても、新種の個体の出現を説明できない(p.83)。ある一個の人間の発生の系譜を太古の原形質まで遡って考えたとき、その発生の因果連鎖には、自然淘汰に欠かせない「逆境」(adversity)の要素が存在しない、と言うのである。議論が簡潔過ぎて決して分かりやすいとは言えないが、少なくともポランニーが考えている進化が、ランダムな突然変異と淘汰の積み重ねではないことは明らかであろう。彼からすれば、生物学の専門家たちが想定するこうした進化概念では、新奇性や自律性の出現を説明できないのである。ポランニーにとって進化とはむしろ、科学活動におけるのと全く同じような「発見」のプロセスなのである(pp.85-86)。これはおそらく、メタファーでも単なる擬人化でもなく、文字通り、意味獲得に関わる暗黙知的構造が、生命が誕生する原初の創発から、人間の認識・知覚に至るまで、貫いて伏在しているということなのだろう(ところでこの同一視こそが、私が上で挙げた問題に繋がる)。ここで、下位レベルの組織化原理が未決定のままに開いている境界条件を埋めるという跳躍的作用が、近位項から遠位項に向かって意味を見出す認識の運動に対応するのだろう(とはいえこの対応関係も本書の記述ではあまり明確とは言えない)。そして太古の原形質に始まるこの宇宙論スケールの進化のプロセスの頂点に位置するのが人間の知能、とりわけその道徳感覚である(p.86, pp.89-90)。これは露骨なほど明らかにキリスト教的な立場である。[2] 少々長くなるが、この点について参考になるので、ポランニーの主著『個人的知識』(Personal Knowledge)の結びの言葉を引いておこう:

われわれの知る限り、人間に体現されている宇宙の微小な諸断片は、可視的世界における思考と責任の唯一の中心である。もしそれが真実ならば、人間の心の出現は、いまのところ世界の覚醒の究極的な段階であり、それに先んじたすべての物事、生きることと信ずることのリスクを引き受けた無数の中心の格闘は、すべて、さまざまに異なる経路をとりながらも、現在、われわれがここまで達成している目標を追求してきたように思われる。それらは、すべてわれわれの血族である。というのは、これらすべての中心、すなわち、われわれ自身の存在をもたらし、その多くがすでに消滅した異なる経路を生み出した、無数に多くの他の中心の存在をもたらした、すべての中心は、究極的な解放に向かっての同一の努力に従事しているように見えるからである。われわれは、そこで、ひとつの宇宙の場を、短命で限定され危険に満ちた機会を各中心に与えて、それらが考えもおよばない完成に向かって前進するようにと命じた、ひとつの宇宙の場を思い浮かべてもよいかもしれない。そして、それはまた、——私はそう信ずるが——キリスト教徒が神を礼拝するときの在り方でもあるのだ。[3]
 
非キリスト教徒の近代人にとって、このような記述を理解するのは容易ではないだろうし、共感することはほぼ不可能だろう。しかし、この壮大な形而上学が荒唐無稽に見えるとすれば、それは偏に、我々近代人が人間と自然を切り離して考える習慣に囚われているからだ、とポランニーなら言うかもしれない。そしてこの点が再び、私が冒頭に挙げた問題に繋がる。すなわち、いかなる世界観に基づいてポランニーは、認識論・知覚論の次元における暗黙知と、存在論の次元における創発とを同一視しているのか、という問題である。

 【主体と客体の融即】

暗黙知と創発を巡るポランニーの議論を初めて読んだとき、私には非常に奇妙に感じられた(今読み返してもやはり奇妙である)。その理由は、彼が主体と客体の区別に無頓着であるからだと思われる。暗黙を論じているのだから、当然、その「知」を所有しているのは誰なのか、という主体の問題が出てくる。人間の認識・知覚を論じている限り、主体性の在処ははっきりしている。すなわち個人である。しかし議論が創発に移り、暗黙知と創発が同一視された途端に、語られているのは誰の暗黙知なのか、訳が分からなくなる。私は以前、ポランニーを一種の観念論者として解釈していた。つまり、個人が所有する暗黙知の及ぶ範囲が、身体から、例えば歩き慣れた道といった境界事例を通して、究極的には世界全体とぴったり一致する、といったような描像である。しかしこのような解釈ではポランニーの記述を整合的に解釈することが難しいことに気付いた(例えば、生命誕生の瞬間には当然、それを認識する人間主体が存在しなかった)。そこで辿り着いたのが、ポランニーにとってはあらゆる生命(そして非生命?)が、視点や状況に応じて主体であったり客体であったりする、という一種の汎心論的見方である。暗黙知と創発の具体的な対応関係は相変わらず曖昧であるものの、少なくともこの解釈にはシンプルさの利点があるように思うが、如何だろう。ところで本節のタイトルに挙げた「融即」という言葉は、ポランニーに影響を与えたらしいフランスの社会哲学者・文化人類学者レヴィ=ブリュールに由来する。未開部族の観察から彼は、個人が自らの感情や動機を外界の事物と共感的に同一視する作用に注目し、これを「融即」(participation)と名付けたのである。[4] こうした関連から、ポランニーの暗黙知と創発の同一視が含意する主体と客体の問題を考えてみるのも興味深いかもしれない。



[1] tacit knowingもtacit knowledgeもともに「暗黙知」と訳されるため、邦訳ではこの区別が難しくなる。ポランニーが使うのは専らtacit knowingの方であるが、このことから、彼の暗黙知概念は動名詞であるから「知識」のことではない、と結論するのは早計である(実際このような主張をしばしば目にする)。というのも『暗黙知の次元』の冒頭で彼は次のように断っているからである:「私は“知る”(knowing)という言葉を常に、実践的な知識と理論的な知識(practical and theoretical knowledge)の両方を包含するものとして使う」(原著p.7; 高橋訳では文意が伝わりづらくなっているので、敢えて拙訳を用いた)。

[2] ポランニーはユダヤ人の家庭に生まれているものの、熱心なキリスト教徒である。1919年にはカトリックの洗礼を受けており、後年プロテスタントの立場に傾倒していったようである(William T. Scottによるポランニーの伝記Michael Polanyi: Scientist and Philosopherを参照)。また、『個人的知識』は英語圏ではキリスト教神学者への影響が絶大であり、ポランニー体系の研究や解説の多くがキリスト教神学の論脈においてなされているそうである。

[3] マイケル・ポランニー『個人的知識』(長尾史郎訳,ハーベスト社,1995年)。今手元に本がないので頁番号は不明。

[4] リュシアン・レヴィ=ブリュール『未開社会の思惟』(山田吉彦訳,岩波文庫,1991年)

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