思想史的背景
本書の内容に入る前に、本書が執筆された思想史的背景を簡単に概観したい。エルンスト・カッシーラーは新カント派のマールブルク学派の伝統で育ったドイツの哲学者である。1870年代から1920年代にかけてドイツで栄えた新カント派には、大きく分けてマールブルク学派とバーデン学派(西南ドイツ学派)があった。この二つの学派は、当時興隆しつつあったリヒャルト・アヴェナリウスやエルンスト・マッハ流の実証主義に対抗するという目的意識において共通していた。しかし、人文諸学と自然科学の認識論・方法論上の違いを強調するバーデン学派に対し、マールブルク学派の論者たちは、あくまで科学的認識の統一的把握を重視した。すなわち、バーデン学派の論者たちが、自然科学の領域においては実証主義的な理解を概ね認めつつ、そうした理解が人文諸学の領域へ侵食するのを防ぐことに関心を持っていたのに対し、マールブルク学派の論者たちは、自然科学の領域における実証主義の誤りを示すことが、とりもなおさず、人文諸学における実証主義の誤りを示すことにもなる、という前提に立っていた。前者が歴史学や心理学に、そして後者が数学や厳密科学の基礎論に力点を置くのはこのためである。
マールブルク学派の創始者で、のちにカッシーラーの先生になるのがヘルマン・コーエンである。コーエンの哲学の特徴は、その独特のカント理解と、その発生論的な認識論にある。1870年代当時、リーマン幾何学の発見や、マックスウェル電磁気学の成立による力学的世界観の崩壊が、ユークリッド幾何学をアプリオリな直観形式として捉え、力学的世界観をその哲学体系の前提としていたカントの哲学に対する根本的な疑念を投げかけていた。コーエンの関心は、カント自身の方法を徹底することによって、カントの枠組みを当時の数学や自然科学の新たな成果と整合する形で刷新することにあった。彼は、人間の知におけるアプリオリな構造を、カントのように固定的なものとしてではなく、歴史的過程を通して発展するものとして捉えることによってこの刷新を行った。また、カントの「物自体」の概念を、現象の背後にあって我々の感覚経験をもたらす不可知の原因として考える代わりに、科学的認識を可能にするアプリオリな構造が、そこへ向かって収束しつつも、決して到達はしない理想的極限として再解釈した。コーエンのこの独自の認識論は、『実体概念と関数概念』におけるカッシーラーの議論に多大な影響を与えたと言える。というのも本書は、コーエンの認識批判のプロジェクトを、実際の科学的思考の発展史をたどることによって遂行するという趣旨の研究だからである。しかし、コーエンの影響を強調するあまり、カッシーラー独自の貢献を過小評価してはなるまい。とりわけ、経験論(したがって実証主義)が依拠する感覚経験からの「抽象」理論を批判するという論点において、カッシーラーの着眼の独創性が際立っていると言えよう。
第一節 アリストテレスの抽象理論
カッシーラーは、抽象理論の起源をアリストテレスの概念論に求めている。アリストテレスの概念論によれば、我々は、感覚に与えられる諸々の事物に共通の特徴を選び出すことによって概念を形成する。これが「抽象」(ἀφαίρεσις)と呼ばれるプロセスである。共通の特徴を持つ事物の集合は「種」(εἶδος)の概念を成し、これらの種もさらに、共通する特徴を持つ種の集合である「類」(γένος)の概念を成す。こうした類もさらに高次の類に対する種となることによって、類と種のヒエラルキー的構造が形成される。
ここで問題となるのは、いかにして意味のある抽象を、恣意的で無意味な抽象から区別するかである。例えば、桜桃と牛肉を「赤く、汁気が多く、食べられる」といった共通の特徴に基づいて概念化したとしても、我々の事物の理解に貢献することは何もないだろう(p.7)。アリストテレスにおいては、論理学を形而上学で補完することによってこの問題が回避されている(あるいはそもそも問題として意識されていないのかもしれない)。すなわち、抽象のプロセスによって我々が形成する概念は、存在論の次元における「実体」ないし「本質」(οὐσία)をそのまま捉えることができる、という想定によってこの問題が回避されているのである。上に挙げた桜桃と牛肉の例に関して言えば、事物の本質を捉え損なっているというわけである。このことから、実体概念がアリストテレスの論理学において中心的な役割を担っていることが見て取れる。そして注目すべきは、「AはBより大きい」や「AはBに後続する」といったような関係概念が、実体概念に対して従属的な地位しか与えられていないという事実である。すなわち、まず初めに実体が与えられていて、関係概念は後から、偶然的な限定として付加されるに過ぎない。カッシーラーの指摘するところによれば、アリストテレスに由来するこうした思考様式は、後世の論理学の発展において、一つの基層として伏在し続けている(pp.9-10)。(ところで初読の際、私が気になったのは、カッシーラーが性質概念と関係概念を区別していない点である。「量」や「質」といった性質概念は、二つ以上の項に関わる関係概念とは本来区別されるべきであるが、彼は前者をも関係概念として一括的に扱っている。しかしこの疑問は、後述するように、カッシーラーによる「関数概念」の導入によって氷解する)。
第二節 抽象理論の問題点
かくして、中世の普遍論争では、普遍者の実在性の如何が取り沙汰されるわけであるが、唯名論の陣営も実在論の陣営も、ともに次の暗黙的前提を共有し、疑うことはなかった。すなわち、普遍者とは、類似した諸事物から成る系列において、それらの事物が持つ共通の要素に他ならない、という前提である(p.10)。近世に入るとジョージ・バークリらの心理主義的批判が登場するが、事情はやはり同じである。彼らは抽象の理論を外的な事物の次元から、人間心理の次元に移し替えただけで、理論自体はそのまま保持されているからである(p.10)。 さて、カッシーラーは抽象理論に対して次の疑念を投げかける:「ここで展開された概念の理論は、具体的な〈科学〉において行われている手続きを充分かつ忠実に描き出しているであろうか?」(p.13)。彼の答えは「否」であり、その根拠はアリストテレスの抽象理論についても心理主義的な抽象理論についても本質的には同じである。アリストテレスの概念論に関して言えば、彼の理論が有効なのは精々、生物の分類などの分類学までであって、その領域を超えて数学的な概念を扱おうとすると、たちまち困難に直面する。というのも、単に事物のいくつかの特徴の模写を目指す経験的概念とは異なって、数学的概念は、諸事物の結合の原理を、思考によって構成することを通してしか生まれないからである。この論点は重要と思われるので、少々長いが引用しよう(pp.13-14):
生成的定義を通じて、〈構成的〉連関を頭の中で確立することによって生み出される数学的概念は、事物の所与の現実におけるなんらかの実際的特徴を単に模写すると主張するにすぎない経験的概念とは区別される。後者の場合、事物の多様はそれ自身独立に存在し、ただ簡単な言語上のないし概念的な表現にまとめあげられるとされるのであるが、逆に前者の場合、単純な措定の作用からつぎつぎの綜合を通じて思惟形象(Denkgebilde)の体系的統合が作り上げられることによってはじめて考察の対象をなす多様が生み出されるということが肝要である。したがってそこでは、思惟に固有の作用である一定の関係連関の自由な産出が、単なる「抽象」と対立している。
ここに、カッシーラーがとりわけ抽象理論を取り上げ、それに依拠する実証主義を批判する理由を見て取ることができる。すなわち、実証主義的科学は思考の他律を招くからである。人間精神はただ機械的にデータを集め、その規則性を「思惟経済」の原則に従って記述するのではなく、概念を経験に適用することによって元々そこになかった新しいものを生み出していく、というわけである。こうしたモチーフにおいて、カッシーラーが紛れもなくカント主義の伝統の後継者であることが伺える。
カッシーラーは、数学的概念に関するJ・S・ミルの経験主義的な理論を検討することによってこの論点を敷衍する。曰く、一方でミルは、数学的概念の経験的起源を主張するために、概念と感覚的印象との類縁性を強調するが、他方で、こうした類縁性は数学的命題の必然的性格と両立しえない(p.15)。数学的命題が必然的であるのは、それが具体的な事実ではなく、仮言的形式間の関係に関わるからに他ならない(p.15)。勿論、ここで「仮言的形式」と言われているのが概念に相当する。
続いてカッシーラーは抽象の心理主義的理論を検討するが、論旨は本質的に同じである。この理論によれば、類似した知覚を同一視することによって概念が形成されるが、そもそも類似した知覚の系列を構成するためには、一つの知覚から次の知覚へと移行するための何らかの原理が必要である(p.17)。つまり、我々は予め「類似性」の原理を把握していなければ、類似した知覚の系列を構成できないはずであるから、概念の形成を説明するために知覚間の類似に訴える抽象理論は循環論に陥っている、というわけである。系列の整序原理(概念はその表現に過ぎない)は系列の要素とは論理的な階層性が異なるため、後者だけから前者は出て来ない。
第三節 関数概念
第三節でカッシーラーは「関数」の概念を導入する。抽象理論で特徴的なのは、具体的なものから抽象概念を得るとき、具体的なものにおける非本来的な要素を捨てていく、というプロセスである(pp.20-21)。個々の事物間の差異を考慮の埒外に置くという否定的な作用を通してこそ、我々は一般的概念に到達できるというわけである。しかし、こうした描像は数学的概念の場合には当て嵌まらない、とカッシーラーは指摘する(p.21)。なぜなら、抽象理論の描像に従えば、一般的概念から個々のケースを再現することは不可能なはずであるが、数学的概念の場合、普遍的な式から個々のケースを演繹できるからである。カッシーラーの挙げる例で言えば、二次曲線の一般形に具体的な定数を代入することによって、円の方程式や楕円の方程式が得られる(p.22)。また、こうした一般化を行うことによって、個々のケースに対する我々の理解も豊かになる。リーマン幾何学などのより高次の幾何学を通してこそ、我々は、通常のユークリッド空間の公理的構造をより明晰に把握することができる(p.23)。
かくして我々は、実体概念の思考様式に依拠する抽象理論とは異なる観点から、一般的概念を捉えることができる。カッシーラーはこの観点を、「数学的な関数概念の論理学」と呼んでいる(p.24)。この観点では、例えばaα1β1, aα2β2, aα3β3, … という系列が与えられたとき、我々は一足飛びにその共通の成分であるaに到達するのではなく、まずそれぞれのα, βをx, yといった変数で置き換える。かくして、系列全体が、f(x,y)=axyという一般形によって統一的に表現される(p.26)。これが、この論理によって得られた概念が「関数概念」と呼ばれる所以である。そして、関数概念は近代的な自然理解において枢要な役割を果たすことから、この論理の適用範囲は数学の分野に限定されず、自然科学全体に及ぶ(p.24)。
なお、さきほど私は、カッシーラーは性質概念と関係概念を区別していないのではないかと述べたが、関数概念の導入によってこの区別にこだわる必要性がなくなることが分かるだろう。なぜなら、「Aは赤い」や「Aは2個ある」といった性質概念は1変数の関数概念であり、「AはBより大きい」や「AはBに後続する」、あるいは「AはBをCに渡す」といった関係概念は2変数以上の関数概念だからである。性質概念と関係概念はそれぞれ、関数概念のもとに統一されるということで、後者の方が上位概念であることが分かる。
参考文献
- Skidelsky, Edward. 2012. Ernst Cassirer: The Last Philosopher of Culture. Princeton: Princeton University Press.
- Friedman, Michael. 2011. "Ernst Cassirer." The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2011 Edition), ed. Edward N. Zalta. URL = http://plato.stanford.edu/archives/spr2011/entries/cassirer/
0 件のコメント:
コメントを投稿