2013年8月31日土曜日

ハイエクの暗黙知理解について : コメントに対する返信

この記事は、私の過去の記事「設計主義のなにが問題なのか? ハイエクの知識論」に対して、匿名の方から寄せられたコメントに対する返事です。文章量が多くなってしまったので、別箇の記事として投稿することにしました。

匿名様のコメントは以下の通り:
 (2) その知識の大部分は「暗黙知」(tacit knowledge)であり、言語化・分節化できない。

 のところですが、この暗黙知解釈は、野中郁二郎さんの解釈ですが、間違っていますよ。ハイエク自身は、ポラニーについて、また、暗黙知については言及していないでしょ。ハイエクに添って、解説してほしいです。
  野中解釈は、暗黙知と明示知で、暗黙知なるものを実体化していますが、ポラニーが言ったのは、知るということ(知識が身につく)のプロセスにおいて、暗黙 の次元がある、ということです。暗黙知は、tacit knowingですから、knowingは動名詞です。暗黙の(語れない、分からない)作動なしに、知るということはない、といったのです。
 それから、
(3) 価格情報は、これら分散的・暗黙的な知識を集約的に表現する「指標」である。価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある。

 が省略されていますが、既存の経済学との対峙という意味では、これが重要ですね。できれば、説明していただきたいです。
以下、これに対する私の返信です。



コメントありがとうございます。仰る通り、この記事の内容は杜撰です。私が二年前に書いたものですが、今だったらこんな風に書きません。

まず、ハイエクの暗黙知理解について。私は、野中郁二郎氏を存じ上げませんが、どこかで見聞した通俗的な解釈を(それこそ暗黙的に)流用してしまったものと思われます。仰る通り、ハイエクに関してはこの記事の説明は的外れです。しかし、ハイエクがポランニーや暗黙知に言及していない、というのも誤解です。例えば論文「ルール、知覚、理解可能性」の中でポランニーの暗黙知理論が引かれています(Studies in Philosophy, Politics and Economics p.44)。

ただ、ハイエクの暗黙知理解とポランニーの暗黙知理解は大きく異なります。ポランニーにとっては、(その主著のタイトル『個人的知識』が示しているように)暗黙知はあくまで「個人」のものです。なお、少々脱線しますがポランニーにとって暗黙知は実体ではなく動名詞であるという貴方の指摘に関して、一点注意を促したいと思います。確かにポランニーは専らtacit knowingという言い方をしますが、彼はThe Tacit Dimensionの冒頭で次のように断っています:"I shall always speak of 'knowing,' therefore, to cover both practical and theoretical knowledge" (p.7)。つまり実践的と理論的双方の「知識」を包括的に指す言葉としてknowingを使用する、ということです。ポランニーの主眼が、知る行為の結果である知識よりも知る行為そのものに置かれていることは間違いないですが、必ずしも前者を排除しているわけではないでしょう。こうした、暗黙知の実体化を排除する見方はおそらく松岡正剛氏の解釈から来ているのだと推測しますが、この見方はポランニーの真意に沿うものではないと思います。松岡氏はパン生地をこねる職人の技能は暗黙知ではないと言い切っていますが、ポランニーははっきりと診断医(The Tacit Dimension pp.6-7)やピアニスト(同 p.18)の技能を暗黙知の例として挙げています。

では、ハイエクの場合はどうでしょう。ハイエクにとって暗黙的なのは知覚や行為を統御する「ルール」です。ここで重要なのは、(明示的)「知識」を保持しているのは個人であるが、「ルール」を保持しているのは個人ではない、という点です。ハイエクにとって知覚ルールや行為ルールは、複雑な環境に対して適切に振る舞う必要性から、長い年月をかけて進化してきたものです。こうしたルールは、進化の遅い段階で一部が成文法といった形で明文化されることはあっても、その本質においては暗黙的なもので、人間はこうしたルールに従うことによって、彼が(明示的に)知っている以上のことを知ることができる、とハイエクは述べています。言い換えれば、一人ひとりの人間は自分の周囲の限られた領域の事柄以外に関しては無知であるにも関わらず、こうした暗黙的なルールに従うことによって、彼は知らず知らずのうちに、彼の認識可能な範囲を超えた遠い場所や遠い過去の事柄に関する知識を有効に活用することができる、というわけです。これが可能なのは、(繰り返しになりますが)こうした認識可能な範囲を超えた知識の存在形態が「ルール」に他ならないからです。ハイエクのこうしたルール概念については、「ルール、知覚、理解可能性」(Studies in Philosophy, Politics and Economics pp.43-65)、「行為ルール・システムの進化に関するノート」(同 pp.66-81)、および「抽象的なるものの先行性」(New Studies in Philosophy, Politics, Economics and the History of Ideas pp.35-49)が参考になります。

したがって、ハイエクにとって、「暗黙知を明示化できない」という前提から直接「集産主義は不可能」という結論が導かれるわけではありません(だからこそ私が件の記事に載せた説明は的外れなんです)。ハイエクの議論を正しく図式化すれば、「文明の複雑化に伴って人間が暗黙的なルールに頼る度合いが増加する」→「一人ひとりの人間の認識可能な範囲がますます狭くなる」→「こうした大きな社会においては、分散した知識を一箇所に集めることができない(集産主義が不可能)」という風になると思われます。つまり、集産主義に対するハイエクの批判の要点は、明示化できない知識をむりやり明示化しようとしている、といったことではなく、あくまで知識の分散です。『自由の条件』の第二章がこの議論を分かりやすく表していると思うので、二節だけ引いておきます(原文ですみません、手元に翻訳はないのです):
While the growth of our knowledge of nature constantly discloses new realms of ignorance, the increasing complexity of the civilization which this knowledge enables us to build presents new obstacles to the intellectual comprehension of the world around us. The more men know, the smaller the share of all that knowledge becomes that any one mind can absorb. The more civilized we become, the more relatively ignorant must each individual be of the facts on which the working of his civilization depends. The very division of knowledge increases the necessary ignorance of the individual of most of this knowledge. (The Constitution of Liberty: The Definitive Edition p.78)

We have now reached the point at which the main contention of this chapter will be readily intelligible. It is that the case for individual freedom rests chiefly on the recognition of the inevitable ignorance of all of us concerning a great many of the factors on which the achievement of our ends and welfare depends. (The Constitution of Liberty: The Definitive Edition p.80) 
また、"The Epistemological Argument Against Socialism: A Wittgensteinian Critique of Hayek and Giddens"という研究の中で、Nigel Pleasantsがまさにこの点においてハイエクを誤解している(ハイエクの暗黙知概念をルールではなく個人が保有するものと考えている)ために、かえって非常に参考になります。私自身、この論文を読んで自分の解釈の誤りに気付かされました。お勧めしておきます。

最後に、第三のテーゼ「価格情報は、これら分散的・暗黙的な知識を集約的に表現する『指標』である。価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある」について。これも大分杜撰な書き方をしてしまいました。私は経済学の知識に乏しいので、残念ながら大して有意義なことは述べられないです。これを書いたとき私の念頭にあったのは、塩沢由典氏の「ミクロ・マクロ・ループ」という概念だったと思います。つまり、経済現象のミクロなレベルにおける振る舞い(行為主体の経済活動)と、マクロなレベルにおける振る舞い(様々な慣習的・制度的構造の出現)は因果的にループしている、という考えです。価格システムも大局的なレベルにおける制度構造の一つということで、「価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある」という風に書いたんだと思います。このミクロ・マクロ・ループの考えが、新古典派経済学の方法論的個人主義(ただしオーストリア学派の方法論的個人主義とは異なる、狭い意味でのそれ)に対する批判の基礎になります。しかし、これはかなり大雑把な物言いです。私の見解に耳を傾けるより、塩沢由典『複雑さの帰結』(ミクロ・マクロ・ループが出てくるのは確か第三章だったと思います)を読まれた方が遥かに有益と思われます。

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