2012年8月7日火曜日

【メモ】 E・シュレーディンガー、『わが世界観』

【道を求めて】

もしわれわれがすべての形而上学を除去してしまうならば、どんな専門科学の、きわめて限られた領域の分野についてさえも、なんらかの明瞭な説明をするのはますます困難に、というよりはおそらく不可能になるであろう。(p.49)

われわれは認識の道を進むときに、あたかも霧の中から差し出されるかのような、目に見えない形而上学の手によって導かれざるをえない。しかし[同時に]、形而上学のやさしい魅惑によって奈落へ誘い込まれないように、たえず用心し身構えていなければならない。(p. 51)

形而上学は、その進行の過程で物理学に姿を変える。――これはもちろん、カント以前にそうであったろうという意味ではない。すなわちこの変容は、初めはま だ不確かであった憶測を次第に確定することによってなされるのでは決してなく、哲学的観点の明晰化とその変遷とによって実現されるのである。

深い眠りの前後で私の意識が同一であるのとまったく同じ意味あいにおいて、ある人の意識と、その先祖のうちの一人の意識とは同一である、と主張することができる。(p.85)

「君のように、向こうに座っている者がいる。彼も君と同じように、ものを考えたり感じたりしている」。さて、このあとをいかに続けるかが肝要である。すなわち「向こうにも自我(Ich)があり、それも私(Ich)なのである」と続けるか、それとも「向こうにもう一つの自我(ein Ich)があり、それは君の自我と同じような第二の自我である」と続けるのか、いずれかである。以上の二つの見解を区別するのものは、「一つの(ein)」という単語、つまり不定冠詞のみである。この語が「自我」を普通名詞に格下げしている。なによりもこの「一つの(ein)」という語が、観念論との決別を修正不可能にし、世界を様々な亡霊で満たし、そしてわれわれを救いようのないアニミズムの腕の中へと追い込むのである。(p.104)

私の友人A氏がいま瞬間的に感じ、知覚し、考えていることを私に話したとしても、それは、私の意識にとっては、そのことがらの内容そのものではない。そして私自身が一時間前あるいは一年前に感じ、知覚し、考えたこともまた、いまの私には、直接意識することはできない。私は、その内容の多少なりとも明確な痕跡に気付くのみである。それは、A氏の感じたことが私に伝えられ、それに対して私が持つ印象と、本質的に異なるものではない。(pp.104-105)

[無機的なものと有機的なもの]というこれらの対象物には完全な連続性があるにもかかわらず、無機的なものから有機的なものへの移行は、徐々に行われるのではない。 なぜなら、観察者の立場というものは、対象物の形態にしたがってゆるやかな変更を強要されたとしても、一瞬のうちに変更されてしまうものなのであるから。形相が変化する中で、不変の質料を観察の対象とするか、あるいは質料が変化する中で、不変の形相を観察の対象とするか、そのいずれか一方は可能だが、同時に両方を対象にすることはできない。(pp.116-117)

われわれが意識的に――しかも幾分積極的に――関与している任意の現象が、もしまったく同じ仕方で繰り返されるならば、この現象は次第に意識の領域から消えてゆくだろう(p.121)

意識とは、具象的に言えば、以下のような意味での教師であると言えよう。すなわち彼は、生命体の修練を監督するものである。彼は、新しい問題が現れるたびに助言を求められはするが、生徒たちが十分に熟練していることを知っている場合には、彼らが独力ですべての課題に取り組むようにさせるのである。(pp.124-125)

さて、われわれの精神生活という観点から理解される、このような個体発生の実状を、同様に系統発生にも適用させることは、それほど大胆な試みとは言えないであろう、と私は思う。もし系統発生への適用を行えば、それによって無意識的かつ反射的な交感神経の機能にかんする説明がただちに得られるであろう。……交感神経の機能は、いわば固定化され、化石化された脳機能だということになる。(p.126)

脳のみならず身体全体、つまり個体発生全体は、過去幾度となく生じてきた諸々の事象が徐々に埋め込まれ、記憶となったものの反復なのである。それゆえに、これまで神経系の諸過程における特性として位置づけてきたものは、有機的な事象の一般的特性なのである、という仮定を妨げるものはなにもない。つまりそれが新しい限りにおいて、有機的事象は意識と結びつくのである。(p.128)

個々の個体発生においては、その個体の有する特殊性のみが意識化されるのである。有機体が、特異な変化をする環境条件に対して変化し、適切に機能する器官を持つ限り、有機的事象は意識を伴うものである。……われわれ高等脊椎動物は、そのような器官を脳に、しかも本質的には脳の中にのみ持っている。したがってまさにこの理由により、われわれの意識は脳の活動と結びついていると言えるのである。なぜならわれわれの脳は、変化する環境条件に適応する、まさにその器官なのであり、われわれが種[人類」として進化発展に従事する、この身体の部位なのであるから。要するに、脳は――具象的に言うならば――われわれ[人類という]種族の成長しつつある頂端部とでも言うべきものである。(p.129)

【現実とは何か】

これまでの各章で、私は以下のことを示そうと努めてきた。第一に、(われわれが広範な経験を共有するその原因としての)外部世界という仮定は、このような共有を認識するためになにも提供してはくれず、共有の認識[なる問題]については、この仮定があろうとなかろうと同様に考えなければならないということである。第二に私は次のように――それは本来証明が不可能であり、その必要もないものである――繰り返し強調してきた。すなわちその過程をもとにした、物質世界とわれわれの経験との因果関係というものは、意志行為の場合と同様に感覚に関して言うならば、自然科学において間違いなく実際上重要な役割を演じている通常の因果関係とは、類として(toto genere)まったく異なっているということ、そしてジョージ・バークリを通して、さらにデーヴィッド・ヒュームを通してより明瞭になったように、そのような因果関係は、このゆえ(propter hoc)のものとしてではなく、このあと(psot hoc)のものとしてしか現実には観測されないことがわかったということである。最初に述べたことからして、[共通経験の原因となる]物質世界という仮定は形而上学的なものとなる。なぜなら一般に観測可能なもののの中で、そのような仮定と一致するものはなにもないからである。第二に述べたことからして、それは神秘的なものになる。なぜならわれわれのおびただしい経験の中で、このあと(post hoc)のものとして常に維持されている二つの事象(すなわち結果と原因)の相互関係は、互いに対になった対象に適用して考えられるものであるが、その対象の一方(感覚ないしは意志行為)だけが実際に知覚され観測されるのであって、他方(物質的原因ないしは物質的効果)は想像上の構成にすぎないからである。(pp.199-200)

われわれは、現実世界の状況に関する二つの注目すべきことを見出した――それらはいずれも驚くべきものなのである。だがこれらの実状を明確に区別することが重要である。それというのも、これらはきわめて類似した表現で記述されることがらなのであり、そのために容易に混同されてしまうからである。……最初の驚くべき実状とは、以下のことである。すなわち私の意識領域が、他のすべての人の意識領域から厳密に分離され、閉ざされた状況にある――これは、明晰な思考をする人には否定できないことである――にもかかわらず、これまでのいくつかの章で概説したように、模倣本能を原動力とした共通の言語の成立との発展を通して、われわれが外界と呼ぶ経験のある部分に関する、普遍的な構造上の類似が認識されてきたということである。これを簡潔に表現すれば、われわれはみな同じ世界に住んでいる、ということになろう。……意識領域の完全な分離にもかかわらず、われわれ――それは特に博学で深遠な思想を持った人のことではなく、まだ就学年齢に達していない子供のことを意味している――が共通世界にいることを了解するという、この不思議な実状と区別しなければならないもう一つのことがある。それはすなわち、感覚領域の分離にもかかわらず、いわゆる外的部分と呼ばれるものの広範囲にわたる一致ないしは相等性が、そもそも現実にあるということである。(pp.218-219)

訳註:
シュレーディンガーがここで言っている二つの現実とは、①個々人の意識領域が分離されているにもかかわらず、共通世界の「認識が可能」で、その「相互の了解が可能」だということ、そして②客観的な外的部分(=外界)の共通性は、「外界の存在」ゆえに「現実のもの」だということである。この両者は区別する必要があり、合理主義的考えの人は、なんの疑念もなく②を受け入れているが、②を合理的に理解するのは不可能だということに気付いていない、と彼は指摘している。(p.227)

そこでこのような二つの驚くべき実際の状況が、現実的な問題となる。最初の実状については、言語理解の起源を個体発生的に、そして可能ならば系統発生的に跡付けることによって、科学的かつ合理的に理解することができると私は思う。そうすれば必然的に次の実状も仮定されたことになるという意見に対しては、私はことさらこれを否定しようとは思わない。この第二の実状は合理的には理解しえないということが、本質的なことなのである。これを理解するためには、以下のような非合理的で神秘的な二つの仮定[のうちのいずれか]をせざるをえない。すなわち、①いわゆる現実の世界という仮定か、②われわれはすべて本来唯一の実在の外観に過ぎないということの容認かである。私は、両方の仮定は帰するところ同一であると思っている人とは、論争したくない。つまりそれは汎神論なのであり、唯一の実在とは神性と呼ばれているものなのである。しかし二つの仮定の同一性を認識するためには、(現実の外的世界という)第一の仮定に備わった形而上学的特質が正しく理解されなければならず、それによってわれわれは、通俗的な物質主義から離れることができるのである。そして実際の倫理的な結論は、この二番目の概念(すなわち不二の説)から容易に導かれるのである。だがこの不二の説の方が、より神秘的で形而上学的に見えるということは、容認していただかねばなるまい。つまりそれゆえに、われわれの経験における共有性の度合いが理解しがたくなってしまうのである。(pp.220-221)

私にすれば、すべては幻影(maya)なのである。もっともそれは、十分な法則性を持った興味深い幻影ではある。この幻影は、(まさしく中世風に表現すれば)私の不滅の部分とはおおよそ無縁のものである。だがそれは趣味の問題であろう。(pp.222-223)

2012年7月22日日曜日

【メモ】 矢嶋直規、『ヒュームの一般的観点 : 人間に固有の自然と道徳』

【序章 人間に固有の自然と道徳】

ヒュームは、道徳規範は人間が物質的環境において行動様式を内面化するのと同一の仕方で習得されると考える。これは通常「適応」と理解されている状況である。こうした過程を経ることによって、人間は自然を、人間にとって馴染みのあるもの、その意味での自然として捉えかえし、外的な力としての自然に直接支配されることを避けることができる。知覚に基づく認識の対象となる以前の自然は、それ自体では人間にとって横暴な力である。しかし自然は、一般的な知覚の対象とされることによって私たちにとって自然であると感じられ、より容易に対処できる対象となる。それが人間の身体的な自由な活動を可能にする条件となり、そこに道徳的自由の基礎も存する。ヒュームは人間を自然の一部でありながら、自然の認識を人間に固有のものへと転換する存在として論じている。こうした存在の仕方が人間に固有の自然と考えられる。(p.7)

感覚の印象を論じながら、ヒュームは人間が自然の原理に従って物体の信念を持ち、世界を秩序だったものとして認識する過程を解明する。人間の生を構成する物質的環境との相互作用に際し、苦を避け、快を求める過程を経て、人はその最も原初的な意味での快苦の原理という自然の法則に従う行動様式を習得する。このことが、人が他者と交流する社会的環境で、道徳という手段に従って苦を避け、快を求める行動をとる仕方を習得することにつながる。人間による物質的環境の認識は、同時に物質的対象に対する振る舞い方の習得である。こうした根本的な仕方で自然は、私たちの行動の規範を与える。人間に固有の自然は一つであり、人間は物質的環境を認識するときにも、社会的環境を認識するときにも、同じ自然の能力と原理に従うと考えられる。それゆえ道徳とは、私たちが自然的環境とのかかわりから習得する振る舞いの仕方をモデルとして、他者と安定した関係を維持するための規範と理解することができる。この意味で、道徳の規範は理性によって概念的に獲得されるのではなく、自然によって経験的に与えられるものと考えられる。(pp.16-17)

しばしばヒュームの理論は道徳的知覚の生成を描写するが正当化を含まないとされることがある。確かにヒュームの因果論は私たちの因果信念が合理的に正当化できないことを示すものと言える。しかし、合理的正当化が人間の行動に関する唯一の正当化ではないとすれば、そうしたヒューム批判は必ずしも的確ではない。ヒュームの道徳哲学は、適切な道徳のあり方を解明することに向けられている。端的に言うならば、ヒュームが適切と考える道徳の正当性の根拠は、それが習慣の原理として妥当し社会の安定を実現することに求められている。(pp.17-18)

正義を経験的概念とすることによって、ヒュームは正義についての非経験的権威を排除しようとした。正義は人々の一般的行動を規制し、それによって社会に秩序をもたらす因果作用である。因果律としての正義は人間の自然としての慣習に由来するがゆえに、人間に一般的に適用されうる。(pp.20-21)

因果律の信念は、対象の個別的性質を厳密に知覚することなく、対象の一般的性質に基づいて行動するという人間の行動の仕方をもたらすことになる。因果律の本質は必然性の心理的感覚に存するがゆえに、人間はその必然性の感覚に従って行為せざるをえない。こうして人々は外的もしくは物理的な強制力に突き動かされる前に自ら規範的信念に服従するに至る。これが知覚と信念に基づく規範的行動の説明である。状況は常に個別的であるが、私たちはその個別性に一般性を見出すという仕方でしか状況を認識できないし、与えられた状況認識に基づいてしか行動することができない。因果論を、規範的行動に結びつく対象の信念として理解することで初めて、ヒューム哲学における因果論の道徳的意義が正しく理解される。(pp.25-26)

普遍的な道徳規範は存在しない。しかしそれは個人の道徳的決定のための規範が存在しないということではない。現在の秩序を形成している規範が、感覚を通して知られ、直面する事態への反応のあり方を定める。道徳性の本質は、 個人の主体的決断にではなく、また国家、理性、神の指令にでもなく、個人の生存を可能にしている自然的な共同体を成立させる秩序に存する。そしてこの経験的事実が、その規範が引き続いて秩序の形成と維持の基礎として妥当することの根拠となる。 (pp.31-32)

【第二章 空間・時間論の意義】

my intention never was to penetrate into the nature of bodies, or explain the secret causes of their operations. For besides that this belongs not to my present purpose, I am afraid, that such an enterprise is beyond the reach of human understanding, and that we can never pretend to know body otherwise than by those external properties, which discover themselves to the senses. As to those who attempt any thing farther, I cannot approve of their ambition, till I see, in some one instance at least, that they have met with success. But at present I content myself with knowing perfectly the manner in which objects affect my senses, and their connections with each other, as far as experience informs me of them. This suffices for the conduct of life; and this also suffices for my philosophy, which pretends only to explain the nature and causes of our perceptions, or impressions and ideas. (A Treatise of Human Nature 1.2.5.26)

The idea of existence, then, is the very same with the idea of what we conceive to be existent. To reflect on any thing simply, and to reflect on it as existent, are nothing different from each other. That idea, when conjoined with the idea of any object, makes no addition to it. Whatever we conceive, we conceive to be existent. Any idea we please to form is the idea of a being; and the idea of a being is any idea we please to form. (ibid. 1.2.6.4)

デカルトが物質と精神が別の原理に基づくとしたことは、物質的世界の認識と道徳的世界の認識が分断されることを意味した。ヒュームはこの事態を克服すべく、人間に固有の自然をデカルトによって分断された物質と精神を繋ぐ共通媒体と位置づけたのだと考えられる。空間・時間によって成立する世界が実は私たちの知覚の秩序に他ならないならば、その領域で展開する物体の運動もまた、知覚の秩序を根拠にすることが帰結するであろう。こうして、空間・時間論に基づいて因果関係を、さらにその因果関係を安定させる外的物体を、人間にとっての自然の現象として論じることが可能になる。……こうしてヒュームはデカルトにおいて実体とされる物体の延長を、知覚の秩序へと転換し、デカルトの二元論を経験論の立場から再統合した。(p.100)

 【第三章 因果論と規範の生成】

信念と単なる虚構との根本的な違いは、信念が一般性のある行動のよりどころとなる点にある。……虚構と信念とは意味論的には区別されないが、信念は虚構とは異なり、単なる意味論的な了解を超えた一般化可能な実践的関与を可能にする。この点にヒュームの因果論と信念論との本質的なつながりがある。(pp.115-116)

信念は印象と観念の中間に位置し両者の長所を兼ね備えている。信念は感覚の直接性と観念の非現実性のバランスを取る働きとして理解されている。ヒュームによれば、私たちが現実につながりながら、しかし現実に逐一振り回されることなく「平安と平静」を保つことができるのは、信念の働きのためなのである。こうした信念の説明が、第一章で論じた個別性と一般性の結合としての「一般観念」の説明に対応することは注目に値する。このことは、信念が一般的観点から見られた個別的観念であることを意味している。(p.118)

理性と感性の関係について、 理性による判断はその主体に固有のものであるが、しかし「感じ」は個人に固有のものではなく、人間に固有の自然、言い換えれば公共的な知覚に基づくとヒュームは考える。(p.132)

As to those impressions, which arise from the senses, their ultimate cause is, in my opinion, perfectly inexplicable by human reason, and it will always be impossible to decide with certainty, whether they arise immediately from the object, or are produced by the creative power of the mind, or are derived from the author of our being. Nor is such a question any way material to our present purpose. We may draw inferences from the coherence of our perceptions, whether they be true or false; whether they represent nature justly, or be mere illusions of the senses. (Treatise 1.3.5.2)

ロックと異なり、ヒュームはそうした概念[物自体という真の原因の概念]を道徳の領域の説明に持ち込むことも拒んでいる。原因結果という現象の理解の仕方そのものが私たちの経験の産物であり、それを私たちにとっての現象と、そうした現象を可能にする現象以外のものとの関係の理解のために用いるのは不適当と見なされるからである。したがって、ヒュームにおいて「知ることができない原因としての力能」を想定するニュー・ヒューミアンは、ヒュームの知識論の基本的な枠組みを壊して、ヒュームの人間の科学に別の要素を持ち込むことになる。知ることのできない原因の想定はヒュームを疑似二元論者とするであろう。(p.141)

しかし、因果的実在論の傾聴すべき主張を、ヒュームの因果論についての端的な懐疑主義的解釈の不十分さを指摘している点に認めることができる。(p.142)

[エドワード]クレイグやニュー・ヒューミアンたちが指摘しているように、確かにヒュームはしばしば因果律の実在を想定しているかのように論じることがある。この傾向は『論攷』よりも『人間知性探究』で一層顕著である。ではなぜヒュームは、彼の懐疑主義的立場にもかかわらず、因果的力能が対象に存在するかのように述べるのだろうか。その理由は、彼の理論が因果的信念の人間的な意義の解明を目指したものだからであると考えられる。因果律はそれが実在であるから妥当するのではなく、私たちがその実在性を信じるがゆえに有効なものとなるのである。……因果信念が哲学的観点からは虚構であるにもかかわらず、私たちがそれらを実在と信じるがゆえに、私たちはそれに依拠して行動し、それによって因果は真実として機能する。(pp.142-143)

【第四章 「外的物体論」の道徳哲学的意義】

Let us chase our imagination to the heavens, or to the utmost limits of the universe; we never really advance a step beyond ourselves, nor can conceive any kind of existence, but those perceptions, which have appeared in that narrow compass. This is the universe of the imagination, nor have we any idea but what is there produced. (Treatise 1.2.6.8)

We may well ask, What causes induce us to believe in the existence of body? but it is in vain to ask, Whether there be body or not? That is a point, which we must take for granted in all our reasonings. (ibid. 1.4.2.1)

私一人にだけ現れる外的物体は存在しない。外的対象を認識するとは、個人が他者と共有可能な視点を持つことに他ならないのである。外的物体の認識は本質的に共同体的行為であり、それによってこそ一般的観点によって表されるのである。ヒュームは道徳的認識の本質をこの公共的妥当性もしくは相互の意思疎通の可能性に帰している。ここに、ヒュームの認識論と道徳論の関連があり、外的物体論にはその関連が示されていると言える。(p.180)

【第六章 一般的観点とスミスの公平な観察者】

ヒュームのシンパシーは正義の成立以前の自然の働きであるが、スミスではその正義の判定手段である。もしもシンパシーが、スミスが主張するように感情の適正性の判定手段であるならば、シンパシーの役割はあるものが正であるか不正であるかを決める理性に近いものになる。(p.228)

【第八章 正義と一般的観点】

ヒュームは、ホッブズが論じたように共同体の秩序を離れた自然状態には正義は存在しないと考える。明らかに政治社会は自然状態ではない。それゆえ、政治社会を自然状態から区別するのは人為的なものでなければならない。こうして正義は、自然な人間関係を超える人間関係の拡張としてとしての社会形成を説明する中心的概念と位置づけられる。社会形成のためには、自然な人間関係とは異なる、新しい原理が必要とされる。しかしそれは、正義が自然的原理と無関係に存在することを意味するものではない。ヒュームは人為的徳である正義を自然的原理である情念の理論に接続するものとして構想している。ホッブズの自然と社会との断絶の理論とは異なり、ヒュームの正義論はむしろその連続性を示そうとする試みである。(p.265)

ヒュームは家族集団が社会に発展することを妨げる障害が存在すると指摘する。その障害とは、自分自身や自分の家族の利益を優先しようとする利己心である。それゆえ正義はこの自然的利害に対抗する力として因果的に作用するものでなければならない。(pp.265-266)

it is only from the selfishness and confined generosity of men, along with the scanty provision nature has made for his wants, that justice derives its origin. (Treatise 3.2.2.18)

自然の資源が限りなく存在するか、あるいは人々が他者に対して神的な仁愛を向ける本性を持っていたならば正義の必要はなかったとヒュームは指摘する。(p.268)

社会の最も原初的な単位としての家族は、人々の協力の利点を増大させるためにより大きな集団へと発展することを阻むものである。社会を形成するためには、家族の形成に働く自然的な原理とは異なった原理に従わなければならない。そのため正義は、身近な存在に関心を寄せる人間の心理的な傾向に反する効果を持つものでなければならない。(p.270)

慣習の確立は合意の上で決定された規則ではないから、しばしば主張されるようにヒュームの正義が規則に従う慣習から生じると考えることは誤りである。規則に従おうとする動機は抽象的であり、自然に成立する動機とは見なされない。人間は規則に従うのではなく、自然に従うというのがヒュームの原則である。(p.271)

ヒュームの根本的な洞察は、身体的危害などの犯罪のより根源的な原因は、所有をめぐる社会秩序の不安定にあり、所有の正義の確立が自然的徳を最も効果的に機能させることにつながるという点にある。(p.291 note 11)

ヒュームは、社会の安定の最大の脅威は、ある特定の人々の特定の行動というよりも、むしろ他者の所有を侵害しようとする人々の一般的傾向であることを明確に意識している。というのも、社会の本質はその一般性にあり、人々の一般的傾向が無秩序に向かうならば社会の崩壊は不可避だからである。ヒュームは社会の存続を危うくするのは、支配者の直接の横暴ではなく、人々一般の規範の崩壊であると考えている。逆に言うならば、圧政は人々の規範を維持できなくさせることによって社会を崩壊させるのである。(p.273)

ホッブズとヒュームの違いは所有の安定を達成する仕方にある。ホッブズでは、合理的観点から人々は相互の信約により突然に自然権を放棄し、主権者への絶対的服従を選択するとされるが、ヒュームでは、歴史的過程において人々は社会に先立って放棄すべき「権利」を所有せず、知覚と情念の自然な進行が生み出した秩序を自覚的な仕方でより確実に確保することから権利が生じるとされている。(pp.274-275)

ヒュームはしばしば保守主義者として批判されるが、彼は同時代の因習の最も過激な批判者であった。ヒュームが同時代の所有体系を固定させることを主張したと理解することは誤りである。ヒュームの所有論はあくまでも、正義と社会の観念がいかにして所有に基づいて形成されるかを説明することであった。社会秩序が慣習に基づくという主張と、どのような慣習でも絶対的に固定すべきであるという主張とは、まったく内容の異なる主張である。(p.292 note 20)

I observe, that it will be for my interest to leave another in the possession of his goods, provided he will act in the same manner with regard to me. He is sensible of a like interest in the regulation of his conduct. When this common sense of interest is mutually expressed, and is known to both, it produces a suitable resolution and behaviour. And this may properly enough be called a convention or agreement betwixt us, though without the interposition of a promise; since the actions of each of us have a reference to those of the other, and are performed upon the supposition, that something is to be performed on the other part. Two men, who pull the oars of a boat, do it by an agreement or convention, though they have never given promises to each other. (Treatise 3.2.2.10)

権利は一般の人々がある事物やその人の行為を含む事柄を、ある人に占有させることの一般的承認として成立する。……権利と義務は一つの事態をめぐる二つの視点を代表する。ある個人の権利とは、それ以外のすべての他者にとっての何らかの義務を意味する。多くの見知らぬ人々が相互に道徳的関係を取り結ぶ仕方は、他者の所有を侵害しないという消極的関与のみである。(p.284)

デーヴィッド・ミラーは「ヒュームは獲得や移転のいかなる原理が採用されるかは、それらの原理が一般に承認される限りどちらかといえば重要な事柄ではないと論じてもよかった。別の言い方をすれば、所有理論を論じつくす原理の正当性を探すのは間違いである。正当化されるのは所有の体系全体であり、その細部の規則ではない。……これらの規則(五つの獲得の規則と移転の規則)は自然に所有権の割り当てを決定しなければならない誰に対しても思い浮かぶが、それらを厳密な意味で正当化することは可能でもないし、またその必要もない」と述べている。正当化とは何かという問題は、ヒュームが論じるすべての問題に共通の課題であるが、ヒュームはそれを人間の自然の事実として提示し、規範と事実を自然において統合しているというのが本書の立場である。(p.294 note 30)

【第九章 「道徳の理由」――「狡猾な悪人」をめぐって】

「狡猾な悪人」が目論む不正な自己利益の獲得と、発覚を免れた不正行為の心理的正当化の主張とは、習慣によって形成されるそうした一般的観点を恣意的に操作することが可能であるという主張に他ならない。しかし、私たちが通常の自然的資質を有し、社会的承認を獲得しようとして振る舞う者である限り、自然的事象と道徳的事象の一般的な認識を拒むことは事実として不可能である。そのことは、道徳感覚の知覚を否定することの不可能性、つまり一般的観点を取らないことの不可能性を意味する。たとえ意識的な操作によって一時的にそれを否定しようと試みても、その操作を自己の持つ世界像の隅々にまで浸透している自然な感覚と調和させることが断じてできない。実はこれが、ヒュームによる迷信や熱狂に対する哲学的批判であり、彼ら迷信者、熱狂者たちは自分が主張していることを自分でも信じることができないのである。習慣という試金石に耐えない主張は、混乱と悲惨、もしくは滑稽を引き起こすことはあっても、秩序形成の原理となることはありえない。(pp.304-305)

ヒュームはその[事実と当為の関係について述べている]個所で事実認識と道徳認識が別々のものであると主張しているのではなく、道徳の当為と、因果論に示される自然認識の必然性の感覚が同じ人間の自然に属することに、合理主義道徳論者が気づいていないことを指摘しているのである。(p.306)

【第十章 契約と政府への忠誠】 

Can we seriously say, that a poor peasant or artizan has a free choice to leave his country, when he knows no foreign language or manners, and lives from day to day, by the small wages which he acquires? We may as well assert, that a man, by remaining in a vessel, freely consents to the dominion of the master; though he was carried on board while asleep, and must leap into the ocean, and perish, the moment he leaves her. (Essays: Moral, Political, and Literary 2.12.24)

If the reason be asked of that obedience, which we are bound to pay to government, I readily answer, because society could not otherwise subsist: And this answer is clear and intelligible to all mankind. Your [the social contractian's] answer is, because we should keep our word. But besides, that no body, till trained in a philosophical system, can either comprehend or relish this answer: Besides this, I say, you find yourself embarrassed, when it is asked, why we are bound to keep our word? Nor can you give any answer, but what would, immediately, without any circuit, have accounted for our obligation to allegiance (ibid. 2.12.37)

所有の安定は社会をさらに発展させる原理としてはおろか、諸個人の生存を確保するための規則としても決して十分なものではない。誰も自分の生活を維持するのに必要な物資を完全に独力で確保することはできないから、人間にはその生存を維持するために社会を構成する他者との互恵的関係が必要である。社会は個体の持つ自然的弱点を克服する手段であり、正義の規則を遵守する必然性は、自ずと人間にとっての社会の必要性に伴って強くなる。また、諸個人の生活の多様な側面を安定して維持するためには、社会内部での互恵的関係あ特定の少数の人間に限定されることは不都合である。そのため社会の構成員は、その個別的特徴にかかわらず、できる限り多くの構成員と互恵的な関係を結ぶことが必要となり、そのためには各個人は同じ法によって秩序づけられた社会を構成する一般者として見なされ、また一般者として振る舞わなければならない。(p.321)

possession and property should always be stable, except when the proprietor consents to bestow them on some other person. This rule can have no ill consequence, in occasioning wars and dissentions; since the proprietor’s consent, who alone is concerned, is taken along in the alienation: And it may serve to many good purposes in adjusting property to persons. Different parts of the earth produce different commodities; and not only so, but different men both are by nature fitted for different employments, and attain to greater perfection in any one, when they confine themselves to it alone. All this requires a mutual exchange and commerce; for which reason the translation of property by consent is founded on a law of nature, as well as its stability without such a consent. (Treatise 3.2.4.1)

ヒュームが社会契約説を受け入れることができないのは、歴史的事実に反するからという以上に、社会契約論が約束についての哲学的解明に基づく理論ではないからである。(p.325)

When we consider any objects at a distance, all their minute distinctions vanish, and we always give the preference to whatever is in itself preferable, without considering its situation and circumstances. This gives rise to what in an improper sense we call reason, which is a principle, that is often contradictory to those propensities that display themselves upon the approach of the object. (...) My distance from the final determination makes all those minute differences vanish, nor am I affected by any thing, but the general and more discernible qualities of good and evil. (Treatise 3.2.7.5)

ここ[上記引用]にヒュームの「一般的観点」が示されている。(p.332)

【結語】

ヒュームが「一般的観点」を用いたとき、マルブランシュの「神において見る」や、デカルトの「精神の眼」、スピノザの「永遠の観点」などをまったく念頭に置いていなかったとは考えられない。デカルトが近代哲学を根本的に観念の理論として提唱して以来、「観点」は近代哲学の諸理論を特徴づける中心的な概念となった。デカルト、マルブランシュ、バークリ、スピノザ以外にも、ホッブズの「神の視界」、ライプニッツのモナドの「固有の視点」など、ヒュームと深いかかわりのある哲学体系も、観点の位置づけによってそれぞれの理論が根本的に特徴づけられると言っても過言ではない。このことは、「一般的観点」がヒュームの理論で実質的な意義を持つことのさらなる論拠なる。(p.350)

2012年6月1日金曜日

【メモ】 Thomas Nagel, The View From Nowhere

【汎心論】

We cannot at present understand how a mental event could be composed of myriad smaller proto-mental events on the model of our understanding of how a muscle movement is composed of myriad physico-chemical events at the molecular level. We lack the concept of a mental part-whole relation. The mental may be divisible in time, but we can't in the ordinary sense think of it as divisible in space. Yet if mental events occur in a physically complex, spatially extended organism, they must have parts that in some way correspond to the parts of the organism in which they occur, and to the organic processes on which the different aspects of mental life depend. There must be a mental analogue of spatial volume and spatial complexity. (The View From Nowhere, p.50)

the unity of consciousness, even if it is not complete, poses a problem for the theory that mental states are states of something as complex as a brain. Panpsychism is just a particularly startling manifestation of this problem.  (ibid)

Though what goes on in each half of the intact brain is presumably different from what goes on in the halves when separated, it still must be something quasi-mental. And it must be something which, when added to what goes on in the other half, constitutes a whole mental life! But what on earth can this be? (ibid)

【〈今〉〈私〉の指標詞】

indexicals in general are untranslatable into objective terms, because they are used to refer to persons, things, places, and times from a particular position within the world, without depending on the user's objective knowledge of that position. (p.59)

The truth-conditions of tensed statements can be given in tenseless terms, but that does not remove the sense that a tenseless description of the history of the world (including the description of people's tensed statements and their truth values) is fundamentally incomplete, because it cannot tell us which time is the present. Similarly, the fact that it is possible to give impersonal truth-conditions for first-person statements does not enable one to make those statements without using the first person. The crucial question is whether the elimination of this particular first-person thought in favor of its impersonal truth-conditions leaves a significant gap in our conception of the world. I think it does. (ibid)

【客観性と懐疑主義】

Objectivity and skepticism are closely related: both develop from the idea that there is a real world in which we are contained, and that appearances result from our interaction with the rest of it. We cannot accept those appearances uncritically, but must try to understand what our own constitution contributes to them. To do this we try to develop an idea of the world with ourselves in it, an account of both ourselves and the world that includes an explanation of why it initially appears to us as it does. But this idea, since it is we who develop it, is likewise the product of interaction between us and the world, though the interaction is more complicated and more self-conscious than the original one. If the initial appearances cannot be relied upon because they depend on our constitution in ways that we do not fully understand, this more complex idea should be open to the same doubts, for whatever we use to understand certain interactions between ourselves and the world is not itself the object of that understanding. However often we may try to step outside of ourselves, something will have to stay behind the lens, something in us will determine the resulting picture, and this will give grounds for doubt that we are really getting any closer to reality. (pp.67-68)

The question is how limited beings like ourselves can alter their conception of the world so that it is no longer just the view from where they are but in a sense a view from nowhere, which includes and comprehends the fact that the world contains beings which possess it, explains why the world appears to them as it does prior to the formation of that conception, and explains how they can arrive at the conception itself. (p.70)

In discussing the nature of the process and its pitfalls, I want both to defend the possibility of objective ascent and to understand its limits. We should keep in mind how incredible it is that such a thing is possible at all. We are encouraged these days to think of ourselves as contingent organisms arbitrarily thrown up by evolution. There is no reason in advance to expect a finite creature like that to be able to do more than accumulate information at the perceptual and conceptual level it occupies by nature. But apparently that is not how things are. Not only can we form the pure idea of a world that contains us and of which our impressions are a part, but we can give this idea a content which takes us very far from our original impressions. (ibid)

The two [skepticism and objective knowledge] are intimately bound together. The search for objective knowledge, because of its commitment to a realistic picture, is inescapably subject to skepticism and cannot refute it but must proceed under its shadow. Skepticism, in turn, is a problem only because of the realist claims of objectivity. (p.71)

we can conceive of the possibility that the world is different from how we believe it to be in ways that we cannot imagine, that our thoughts and impressions are produced in ways that we cannot conceive, and that there is no way of moving from where we are to beliefs about the world that are substantially correct. This is the most abstract form of skeptical possibility, and it remains an option on a realist view no matter what other hypotheses we may construct and embrace. (ibid)

【自己超越】

To provide an alternative to the imaginable and unimaginable skeptical possibilities, a self-transcendent conception should ideally explain the following four things: (1) what the world is like; (2) what we are like; (3) why the world appears to beings like us in certain respects as it is and in certain respects as it isn't; (4) how beings like us can arrive at such a conception. In practice, the last condition is rarely met. (p.74)

The vast majority of additions to what we know do not require any advance in objectivity: they merely add further information at a level that already exists. (...) An advance in objectivity requires that already existing forms of understanding should themselves become the object of a new form of understanding, which also takes in the objects of the original forms. This is true of any objective step, even if it does not reach the more ambitious goal of explaining itself. All advances in objectivity subsume our former understanding under a new account of our mental relation to the world. (p.75)

Only objectivity can give meaning to the idea of intellectual progress. We can see this by considering any well-established objective advance (...) and asking whether it could be reversed. (p.77)


【進化論的認識論】

The Darwinian theory of natural selection, assuming the truth of its historical claims about how organisms develop, is a very partial explanation of why we are as we are. It explains the selection among those organic possibilities that have been generated, but it does not explain the possibilities themselves. It is a diachronic theory which tries to account for the particular path evolution will take through a set of possibilities under given conditions. It may explain why creatures with vision or reason will survive, but it does not explain how vision or reasoning are possible. (p.78)

【合理主義】

Each of us is a microcosm, and in detaching progressively from our point of view and forming a succession of higher views of ourselves in the world, we are occupying a territory that already exists: taking possession of a latent objective realm, so to speak. (p.83)

The capacity to imagine new forms of hidden order, and to understand new conceptions created by others, seems to be innate. just as matter can be arranged to embody a conscious, thinking organism, so some of these organisms can rearrange themselves to embody more and more thorough and objective mental representations of the world that contains them, and this possibility too must exist in advance. Although the procedures of thought by which we progress are not self-guaranteeing, they make sense only if we have a natural capacity for achieving harmony with the world far beyond the range of our particular experiences and surroundings. When we use our minds to think about reality, we are not, I assume, performing an impossible leap from inside ourselves to the world outside. We are developing a relation to the world that is implicit in our mental and physical makeup, and we can do this only if there are facts we do not know which account for the possibility. Our position is problematic so long as we have not even a candidate for such an account. (p.84)

Perhaps (...) Descartes' God is a personification of the fit between ourselves and the world for which we have no explanation but which is necessary for thought to yield knowledge. (p.85)

【実在論と観念論】

Suppose that, in the world in which we do not exist, one of them, call him Realist junior, develops philosophical leanings (why not?) and wonders whether there may be things about the world that he and others like him are incapable of ever finding out about or understanding. Is this impossible? That is, if he were to utter these words (supposing in other respects his language were like part of ours), would it be a mistake to take them as expressing a hypothesis which would in fact be true in that situation? Would he simply be talking nonsense without realizing it? Would he be incapable of thinking in general terms what we know to be true about his situation (what we have stipulated to be true)? Here the analogy goes in the other direction. If we would be talking nonsense by engaging in such speculation, so would he. (p.96)

【観念論における形式と内容の混同】

But what reason could there be to hold that, granting the intelligibility of the notion of things in themselves, they couldn't be spatially extended? There is no good reason-only a bad Berkeleyan reason: the move from subjectivity of form to subjectivity of content. In other words, it would have to be claimed that because we have the conception of primary qualities, detect them through observation, and use them in explanations, they are essentially relative to our point of view, though in a more complex way than secondary qualities are: relative not just to our perceptual point of view, but to our entire cognitive point of view. I believe there is no defense of this position which does not beg the question. (p.103)

【温度計と言語の比喩】

As Wittgenstein points out (Wittgenstein (2), secs. 241-2), there is a parallel between conditions of meaning and conditions of measurement. We cannot measure temperature with a thermometer unless there is a certain constancy in the results of such measurement. But that doesn't mean that temperature is nothing but a phenomenon of agreement among thermometer readings. It would exist even if there were no thermometers, and we can explain the actual agreement among thermometers by the uniform effect on them of temperature. In giving this explanation we use the concept of temperature, and a condition of our having the concept of temperature we have is that we can measure it. But that doesn't make the explanation circular, any more than a lecture on the operation of the larynx is circular. To use something that one is trying to explain is not to explain it in terms of itself. (p.109)

2012年5月27日日曜日

【メモ】 入不二基義の想起阻却過去説と、そこから浮かび上がる「実在」の様相

まず、大森荘蔵の想起過去説に対して勝守真が見出す疑念を以下にまとめる。(勝守真、「想起とそのかなた――大森過去論の批判的読解――」)

(1) 想起過去説には、過去とは言語的な想起内容に他ならないという発想と、過去とは消え失せて跡形もないという発想、この二つの異質な発想が含まれている。 後者の発想によって、前者の発想には抵触してしまう「想起内容に収まらない過去の何か」「消え失せて跡形もないと語りうる何か」が、暗黙裡に導入されてしまっているのではないか。

(2) 想起が知覚とは異質な経験であり、想起が知覚の再現・再生ではないことを強調する想起過去説においては、想起に対比される当の知覚とは、「現在の知覚」ではなくて、(「あの」「その」によって指示される)「過去の知覚」でなければならない。しかし、「過去の知覚」は、想起過去説が説く「言語的で非知覚的な想起内容としての過去」からは逸脱してしまう。想起過去説を支えるはずの想起と知覚の対比が、むしろ想起過去説を自壊させるように働くのではないか。

(3) さらに、このような逸脱を招く想起過去説の中には、時間経験に内在的な視点だけでなく、時間経験の諸様式(知覚・現在と想起・過去)を俯瞰するような超越的な視点が含まれている。そのような視点に立って、あらゆる時点を等しく「今」「現在」でありうるものとして捉える(今の一般化)からこそ、想起内容を逸脱する「過去の知覚」も、「想起内在的な過去」として(現在だった知覚、かつての現在の知覚として)回収できるように思えるのではないか。超越的な視点にたって、「過去の知覚」を「現在の知覚」であるかのように捉え直したうえで、それと「想起」とを対比してしまう。そのことによって、「想起」に対する「過去の知覚」の逸脱的な関係が見えにくくなってしまうのではないか。(『時間と絶対と相対と』、pp.65-66)

こうした勝守氏の「想起逸脱過去説」を、入不二氏はさらに一歩進める。これが入不二氏の「想起阻却過去説」である。

たとえば、「φだった」と今想起しているとする。φという過去の出来事は、想起を逸脱する特異性・単独性を持つ。これが、想起逸脱過去説であった。そして、たとえその想起がなされなかったとしても、φという過去の出来事はあったはずである。これが、想起阻却過去説の第一段階である。そしてさらに、その阻却とともに、想起と一体化した記述(φ)もまた阻却される。過去の出来事は特定の記述を失って、「(  )だった」という不特定の過去性のみが残存する。想い出せなくとも、想い出さなくとも、忘れたことさえ忘れていても、とにかく何らかの過去が(特定されなくともシンギュラーな過去が)があったはずである、ということになる。これが、想起阻却過去説の第二段階である。「想起の自己阻却」とは、過去X――特定の内容を持たない過去としての過去――へと向けて自身を退場させていく運動なのである。
ただし、「過去としての過去――過去X――」にまで遡ることは、「独断的な過去実在」へと戻ることと同じではない。過去Xは、端的な過去実在ではない。なぜならば、過去Xは、あくまで「想起」を経由したうえでの事後的で仮想的な収束点であって、「想起」から端的に独立ではないからである。過去Xの実在性とは、独断的なものではなくて、事後的にあらかじめあったことにされるものであり、かつその事後性(=想起経由)がなかったことにされることで成り立つのである。
また、「想起阻却過去説」は、「想起逸脱過去説」とも同じではない。なぜならば、「想起を逸脱し続ける過去」から、事後的仮想的にではあっても、その当時の「想起」を引き去り、なかったことにするからである。つまり、過去存在を、もう一歩だけ想起よりさらに遠ざける。しかも、想起よりさらに遠ざけられた過去とは、特定の出来事ではなく、むしろ特定の内容を持たないにもかかわらず特有の実在性を帯びてしまう過去――過去としての過去――である。(pp.74-75)

想起するとは、現在と過去とを区別しつつ繋げることであり、そこには脱時間的な視点・仮想的な視点がすでに入り込んでいる。勝守は、大森の「時間を超越した視点」を批判しているが(そしてその指摘は正しいが)、「想起」が「かつては現在だった過去」を志向するものであるかぎり、過去と現在を重ね合わせて見ること、すなわち最低限の「俯瞰」をすること(超越的な視点をとること)は、「想起」の成立に必要不可欠なのである。(pp.79-80)

現在という起点からは接近のしようがないにもかかわらず、その接近不可能な過去(創造以前の「無」)から、なぜだか現在という起点(この世界)が誕生している。言い換えれば、現在から発している能動性のベクトル自体が(能動的な関わりも、それにともなう挫折・頓挫も)、そのベクトルの及ばない「無」の方から受動的に生み出されている。「過去を想起する」ようになぜだかさせられているし、「その想起を逸脱する過去を思う」ようになぜだかさせられている。想起阻却過去(第三層)にまで投錨しようとすると、能動/受動の相が、こうしてすべて反転する。
そのように反転した相で見るとき、想起とそこからの逸脱を繰り返すことは、まるで反復強迫であるかのように、むしろそう強いられているように見える。忘却したことさえ忘れてしまった過去、決して想起されることのなかった過去、あるいはどうしても想起しえない過去、そもそも想起されることと無縁の過去、そのような過去の方から、私たちは想起と逸脱を反復することを、むしろ強制されている。(p.84)

このような実在の様相について、入不二氏はルイス・キャロルのパラドックスとの関連でさらに詳述している。

ルイス・キャロルのパラドックスで言うならば、私たちがすでに服してしまっている論理的強制力――その明示化が立ち上がり続けしかも失敗し続けることによってのみ、それ以前にすでにその力に服してしまっていることが、遅れて判明するしかない「論理的強制力」――は、「手前」の「実在」である。私たちは、そのようなリアリズムをすでに生きているはずなのであるが、そうであることは、そのリアリズムの喪失(つまりルイス・キャロルのパラドックスの発生)を通して事後確認することしかできない。その意味において、リアリズムの認知は、すでにリアリズムの喪失である。そういう仕方で、「実在」は、私たちの認識から独立なのである。「実在」は、私たちの認識からはるか遠くの彼方にあって届かないから「私たち」から独立なのではなく、私たちの認識がつねにそこを通り過ぎてしまっているしかない「手前」であるからこそ、「実在」は「私たち」から独立なのである。(p.250)

2012年5月7日月曜日

オートポイエーシスは何を解明するのか

以下の文章は、河本英夫『オートポイエーシス―第三世代システム』に対する雑感をまとめたものであり、私の一連のツイートを再構成し、大幅に加筆修正したものである。



『オートポイエーシス』を読んで私が抱いた一番の疑問は、「オートポイエーシスは一体何を解明するのか?」というものである。河本はオートポイエーシスは経験科学だと言う(p.298)が、私には、オートポイエーシスはあらゆるシステムのある特殊な側面を扱う哲学であって、経験科学ではないように思える。哲学はしばしば世界を見る新しい見方を我々に提示してくれるが、何かを解明することはない。これが哲学と科学の間の最も大きな違いであるように私は思う(もちろん両者の間に明確な境界線が引けるとは考えていない)。河本はオートポイエーシスはたんなる視点の転換ではないと言う(p.10)が、本書を読んだ限り私はこれに説得力を感じない。

「オートポイエーシスはあらゆるシステムのある特殊な側面を扱う哲学」であると私は述べたが、このことの意味をもう少し詳しく説明する。河本はオートポイエーシスを「行為‐存在論」と呼んでいる(p.195)。「システムにとって産出的作動という行為を行うことが、そのまま現実に存在することである。」(ibid.) つまり、オートポイエーシスは、「行為することがすなわち存在することであるような」(ibid.)存在を扱う行為存在論だと言うのである。このような「存在」という言葉の使い方は、私には正直言ってピンと来ない。むしろ、「システムそのものにとっての視点」を強調するオートポイエーシスは、存在論ではなく知覚論であるように思える。

 【物理的極と心的極】

私は、あらゆるシステム(オートポイエーシス・システムに限らずアロポイエーシス・システムも)には「物理的極」と「心的極」があると考えている(A. N. Whiteheadの語彙を勝手に借用してきた。本来の用法と合致していないなどの苦情は受け付けておりません)。物理的極と心的極を、ここでは具体的な例で説明しよう。Graham Harmanが挙げている例で、火が綿を燃やすというのがある。彼が言うには、火が綿を燃やすとき、火は綿の全ての性質と作用していない。それに対して、Steven Shaviroはこう修正する。火が綿を燃やすとき、火は綿とその全体において作用するが、綿のすべての性質を「知らない」、と。この「知らない」というのは単なる比喩表現ではない。文字通り、火は綿のすべての性質を「知覚できていない」のである。オートポイエーシスの言葉を使えば、「火にとっての視点」から見れば、綿の全体は位相学的外部なのである。

要するに、システムの心的極とは、システム独自の生態学的地位、J. von Uexküllの言う環世界(Umwelt)である。あらゆるシステムは、環境の中から、そのシステムの維持にとって有用な部分だけを選択的に知覚する(例えば人間には紫外線や赤外線は見えない)。そしてオートポイエーシスが強調する「システム自体の視点」とはまさにこの心的極であるように思う。それはシステムの物理的極、つまりその存在のあり方全体を問題にするのではなく、システム独自の知覚のあり方だけを扱うのである。

この点に関して、N. Katherine Haylesによるオートポイエーシスの定式化が分かりやすい。

In the autopoietic view, no information crosses the boundary separating a system from its environment. We do not see a world "out there" that exists apart from us. Rather, we see only what our systemic organization allows us to see. The environment merely triggers changes determined by the system's own structural properties (N. Katherine Hayles, How We Became Posthuman: Virtual Bodies in Cybernetics, Literature and Informatics, pp.10-1)

システムの心的極の境界は閉じていて、システムみずからの作動によって産出される。対してシステムの物理的極の境界は開いていて、外部の観察者によって識別される。ゆえに物理的極の境界は常に不定で、継続的なパターンとしてしか同定されえない。しかしパターン識別が観察者依存的だからといって、パターン自体に固有の実在性がないという意味ではない。要素をすべて列挙するより少ない情報量で対象の振る舞いを予測できるとき(つまり情報の圧縮可能性が存在するとき)何らかのパターンは紛れなく存在する(それが具体的にどのようなパターンであるかは観察者に依存するというわけである)。(cf. Daniel Dennett, "Real Patterns")

【オートポイエーシスと独在論】

オートポイエーシスの議論の仕方は、永井均の「独在論」と非常に似ているところがある。例えば以下の引用を見て頂きたい。

ユクスキュルの議論によれば、生物はそれぞれ固有の世界にしか生きられない以上、人間もみずからの世界に閉ざされてしか生きることができない。これに対してポルトマンやシェーラは異を唱える。人間は開かれた世界に生き、動物は閉ざされた世界に生きるというのである。このことの論拠になっているのは、人間はみずからを反省的に対象化し、それと同時にみずからの世界を対象化することによって、みずからの外に出うるということである。そして技術を介して環境そのものを変えることができる。[原文改行]だが意識の反省によって自己を対象化しようと、どこまでも意識の枠内に閉ざされた自己と他なるものの対象化された区別でしかない。意識は確かに異なる世界を知りうる。だがそれとて人間の意識によって構成されたものにすぎなくなる。意識の反省を通じて、自己や世界を対象化し、別様でありうるものを認識しようとも、それもやはり意識によって構成されたものにすぎない。意識の自己反省によっては、どこまでも自己意識の圏域を出ることはできないというのは、すでに身近かな事実である。とすればいったいどのようにして人間は開かれた世界に生きていることになるのか。(p.245)

これは、この比類ない〈私〉を、他の大勢の人間と対称な地位へ連れ出そうとする「相対化」の運動に対して、〈私〉と他者の非対称性を絶えず更新し続ける「独在化」の運動にそっくりだ。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」(永井均『『〈魂〉に対する態度』p.187)以上、独在性はこの世界の端的な事実である。この議論はごもっともだと思う。しかし、独在性の方だけに執拗にこだわり続けるのは、事態の片側面しか捉えていないのではないか。私が思うには、独在化の運動と相対化の運動のどちらかに特権を付与するのではなく、両者を等価的に捉えなければならない(cf. 入不二基義『相対主義の極北』)。

オートポイエーシスに即して言えば、一人称視点からは可視光しか知覚できない人間が、どうして紫外線や赤外線の存在を知ることができたのか、考えなければならない。それぞれのシステムに固有の世界とは独立に、三人称視点からの観察によってしか捉えられない客観的な「世界自体」が存在するのではないか。ポルトマンやシェーラの主張が一見伴うように見える人間中心主義はともかく、「人間は開かれた世界に生きている」ということの意味をもう少し真剣に受け止める必要があるように思う。したがって、

[心的システムの位相学的外部は]見ることそのものの媒体のように心的システムに浸透している。したがって環境はどのような意味でも主観に対置されるような客観ではない。(p.244)

という記述には同意できない。

【オートポイエーシスは何を解明するのか】

オートポイエーシスはシステムの物理的極ではなく、心的極を扱うと述べた。より正確に言えば、システムの心的極だけを取りだし、物理的極を「位相学的外部」として捨象する。私に疑問なのは、このような方法によって一体何が明らかになるのか、ということである。世界に対する新しい見方を提示する哲学としてのオートポイエーシスの側面を否定するつもりはない。実際、「世界」と「心」のあり方について非常に面白い考え方を提供していると思う。しかし、オートポイエーシスを何らかの「研究プロジェクト」として推し進めたり、個別科学の領域に「適用」しようとしている論者には疑念を持たざるを得ない。

オートポイエーシス独自の「位相空間」を描くという手法も、あまりピンと来ない。河本は、今後残された探究課題として「システムの数学的定式化」(p.337)を挙げているが、果たしてそんなことが可能なのか、あるいは可能だとしても果たして意味があるのか。まず第一に、「思考」や「コミュニケーション」といった曖昧な構成素を同定できないという問題がある。まさか位相空間に「思考」や「コミュニケーション」に対応する状態点を取ってその挙動を微分方程式で記述するわけではあるまい。そして第二に、仮に無理やり位相空間を視覚化できたとしても、そこに何らかの法則性があるとは思えない。先に述べた通り、オートポイエーシスが抽出する位相空間は、物理世界とはもはや(曖昧な「浸透」を除いて)何ら関係を持たない。つまりこの位相空間では自然の斉一性が生きていないと考えられる。自然の斉一性がないところにシステムの「コード」を探そうとしても無駄である。

2012年4月29日日曜日

市場競争の意味

The correspondence of expectations ... is brought about by a process of trial and error which must involve constant disappointment. The process of adaption operates, as do the adjustments of any self organising system, by what cybernetics has taught us to call negative feedback: responses to the differences between the expected and the actual results of actions so that these differences will be reduced. This will produce an increased correspondence of expectations ... (F.A. Hayek, Law, Legislation and Liberty)
実際、負のフィードバックによって秩序が達成されるという洞察は、サイバネティクスが初めて体系的に理論化したといえ、何もサイバネティクスが創始した考えではなく、もともとは市場についての理解にこそその起源を持つ。
long before Claude Bernard, Clerk Maxwell, Walter B. Cannon, or Norbert Wiener developed cybernetics, Adam Smith has just as clearly used the idea in The Wealth of Nations. The "invisible hand" that regulated prices to a nicety is clearly this idea. In a free market, says Adam Smith in effect, prices are regulated by negative feedback. (G. Hardin, Nature and Man's Fate)
ただし、これは時間と努力さえかければ学習過程が何らかの最終状態――主流派の「均衡」概念のような――に達しうるというわけでは決してない。オドリスコルとリッツォの次の意見に、おそらくハイエクも賛同するだろう。
A theory of evolved orders is not a theory of optimality or efficiency, precisely because it is a process not an end state theory ... It is not what competition does to fulfill our expectations that commends it; it is what we would not have expected it to do that commends it. (O' Driscoll, G. and Rizzo, M., The Economics of Time and Ignorance)
抽象的・一般的ルールを遵守しながら、行為主体は試行錯誤のプロセスを通じて進まなければならないが、このプロセスは不可避的に、常に一定数の主体の期待が 裏切られることを意味するだろう。特定の不確実性の存在によってのみ、より一般的な不確実性を最小化することができるのである。
[Market-determined rewards are] incentives which as a rule guide people to success, but will produce a viable order only because they often disappoint the expectations they have caused when relevant circumstances have unexpectedly changed. It is one of the chief tasks of competition to show which plans are false. (F.A. Hayek, Law, Legislation and Liberty)
期待が裏切られる過程で深刻な損害を受ける主体がいるということは不幸な副作用であるが、それを避けることはできない。というのも、介入は知識の発見・伝達・貯蔵を妨げ、それによって富の創造過程を妨げ、すべての人の好機を害するからである。

最後に、知識の発見手続きという意味における、市場競争と科学の方法との同型性について。
If we do not know the facts that we hope to discover by means of competition, we can never ascertain how effective it has been in discovering those facts that might be discovered. ... The peculiarity of competition - which it has in common with scientific method - is that its significance cannot be tested in particular instances where it is significant, but is shown only by the fact that the market will prevail in comparison with any alternative arrangements. The advantages of accepted scientific procedures can never be proved scientifically, but only demonstrated by the common experience that, on the whole, they are better adapted to delivering the goods than alternative approaches. (F.A. Hayek, "Competition as a Discovery Procedure")
科学の方法は自然界の普遍的な事実、つまり法則を発見するのに対して、市場競争はあくまでその特定の状況でのみ有効な暫定的な事実を発見するがゆえ、後者の有用性は前者に比べて理解されにくいと言える。

2012年4月18日水曜日

金子邦彦、『生命とは何か : 複雑系生命科学へ』

以下の文章は、金子邦彦『生命とは何か―複雑系生命科学へ』の個人用まとめ書きである。



【第5章 複製系における情報の起源】

「まず、遺伝情報とは何かということをDNAやRNAなどの特定の分子にこだわらずに定義しなければならない。情報は当然ながら、いくつかの可能性のなかからの選択を意味する。……その意味で、とりうる細胞状態の選択を与えるのが、「情報を担う」分子の役割である。さらに「遺伝」情報であることを考えると、それは次世代に伝わっていかなければならない。」 (p.147) つまり、ある化学成分が遺伝情報を担うためには

(1) 細胞内のある成分が他の成分の振る舞いに強い影響を与えるというコントロール特性
(2) 分裂後の次世代の細胞に成分が伝わり、保持されるという保存特性

が要請されるが、これらがどうやって出現するのかというのが本章の問いになる。

少数コントロール

合成速度の異なる相互触媒系からなるプロト細胞を考える。速く増殖する分子Xとゆっくり増殖する分子Yという、触媒活性をもった二種類の分子種が互いに触媒するネットワークを形成しているとする。この両分子を含むプロト細胞が分裂するごとに分子Yの数が減っていくが、0になってしまうとプロト細胞は増殖能を失う。そこで、こうしたプロト細胞が増えていき、競合して淘汰されていく状況を考えると、残った細胞は、最低でも1個は分子Yを含んでいるはずである。こういう状態は分子数の時間発展から言えば稀な状態であるが、ゆらぎによって一旦そうした初期状態が達成されると、そのまれな初期状態が選択され維持される。こうして遺伝情報の要件である「状態の選択」と「その保持」が生まれる。

さて、 分子Yが構造変化を起こしてその活性を変化させたとする。すると、Yの活性の変化はプロト細胞の増殖に大きな影響を与える。他方、Xのようにたくさんある分子が構造変化を起こした場合を考える。細胞内にあるすべてのX分子が同じように活性を変える確率はほとんど0であろう。この構造変化はゆらぎからくるランダム事象であるから、ある分子は活性を高める方向に、別のものは低める方向に、という形で、平均としては活性の変化は小さくなるであろう。こうして、互いに触媒し合う分子では、数の少ない方がそのプロト細胞の性質に対して支配的な影響を持つ。このような「少数コントロール」の構造により、数の少ない方の分子が「遺伝情報」のためのコントロール特性を持つに至る。

力学系の言葉で言えば、変化の時間スケールが長い(つまりリャプノフ指数が0に近い)変数は、その初期の変化が長く残るので、その変数が他の変数に影響を与えている限り、それは他の変数に対するコントロールパラメータの役割を果たすようになる、という風に言える。

進化可能性について

このような、少数の部分が他をコントロールするという構図は、その少数の部分の変異が大きく影響するので、「進化可能性」をもたらす。少数分子が変異したプロト細胞の増殖速度はもとのとは異なってくるが、細胞のレベルの競合により、あまり増えられないプロト細胞は淘汰されるから、増殖能が高いものが残っていく。要するに少数分子が(良い方向に)変化したものは、その活性を維持し、さらには進化していく可能性がある。このメカニズムを利用して、この少数分子を保存する機構が進化してくるだろう。いったんこの少数分子が保持されるようになれば、今度はその分子に関係して作られる分子も残りやすくなるから、多くの反応がその少数分子に関係していくことになる。つまり、その少数分子に情報がコードされるようになる。そして今度は、その情報を利用してますます少数分子の保護機構が進化し、少数分子の保護と少数分子への情報コード化の共進化が起こる。かくして、今日的な意味での「遺伝情報」が実現し、代謝と遺伝情報の分離が完成する。

「細胞などの複製単位のなかでDNAが少数であるからこそ、自然選択が働き、遺伝情報が統計法則から守 られ、その細胞は進化可能性を持つ。」 (p.172) もし多数の情報分子が存在すれば、独立の変異が大数の法則によって均され、自然選択があまりかからなくなる。有害変異が集団に溜まってしまい、自己複製能は減衰するだろう。

一般的に生命の起源を考える場合、遺伝情報が先か複雑な代謝が先かという問題がある(本書で挙げられている例で言えば、M・アイゲン(Eigen)のハイパーサイクル理論が前者の代表であり、F・ダイソン(Dyson)のいいかげんな複製系(loose reproduction system) が後者の代表である)。金子氏によれば、前者の立場には安定性に関して問題があり、後者の立場では情報が明示できないという問題点があるが、本書で展開されている少数コントロールの原理はその両者の問題点を克服する解を提唱している。



【第7章 細胞分化と発生過程の安定性】

「同一多様化理論」(Isologous Diversification Theory):同じ状態を持った細胞が、細胞内部の状態のダイナミクスによって、小さなゆらぎを増幅させ、異なった状態にいたり、その一方で細胞間の相互作用により互いの状態を安定化し、いくつかの離散的なタイプを形成する。

本章の主題は細胞分化であるが、この理論は細胞の分化に限られるものではない。一般に、その内部に非線形のダイナミクス(細胞の場合は触媒反応系)を持った複数のユニットがあれば、そのダイナミックスとユニット間の相互作用によって、各ユニットが同じ状態を維持するのが不安定になる(細胞の場合は、栄養の競合などによって)。その結果、各ユニットが分化して、異なる状態を持つようになる。

力学系の研究では、同一のユニットが互いに影響を及ぼし合うだけで、そこにカオスのように小さな差を増幅する運動があると、そのユニットは異なった位相で振動するグループに分かれる場合があることが、すでに明らかにされている。この現象をクラスター化と呼ぶ。



【第10章 表現型と遺伝子型の進化】

第7章で取り上げられた同一多様化理論が、本章では細胞ではなく個体に適用され、種分化の理論として展開される。さらに、長い時間スケールの増殖と淘汰、つまり進化に対して、この分化の意義を考える。

(1) 通常の種では、遺伝子型も表現型もある(比較的狭い)範囲で分布している。この種がある状況で強く相互作用するようになったとする(この原因は環境変動でも個体数密度の増加でも栄養の不足でもいい)。そこで第7章の機構で、表現型の分化が生じる。この段階では(ほぼ)同じ遺伝子型を持った個体が異なるタイプの表現型の2グループに分離している(この段階では各グループの子孫は親と同じグループになるわけではなく、表現型はあくまで相互作用によって分かれている。一方で、この段階ですでに2グループの表現型は十分離れており、互いの存在で互いを安定化するという「共生」関係にある)。

(2) 次に、遺伝子に変異が入っていき、淘汰がかかっていくとどうなるかを考える。遺伝子は表現型の変化の仕方を与えているので、それぞれのグループに応じて遺伝子がどう変化した方が増殖しやすいかというのは変わってくるであろう。例えば、グループAはある方向に、グループBは逆の方向に変異を起こした方が子孫を残しやすくなる。すると遺伝子にはランダムな変異が起こってもグループAその方向に、グループBは逆の方向に、ますますシフトしていくだろう。つまり、突然変異と淘汰を経て、表現型の違いが遺伝子型の差異に固定されていく。

(3) この結果、遺伝子型と表現型の1対1の対応関係が回復して、遺伝子型でも表現型でも異なる2種が分離する。

雑種不稔性

有性生殖を行う生物で、分離した種の定義は、2つのグループが交配してできる「雑種」が子孫を残せなくなる、というものである(これを雑種不稔性という)。2つのグループができ始めると、それぞれのグループは互いの作るニッチに特化して成長できる。この両者はその成長を行うように遺伝子型と表現型が適合している。これに対して中間のパラメータを持った個体はどちらの表現型をとってもこの両者に適わず、成熟条件に到達できなくなってしまう。つまり、この理論では交配のえり好みを仮定しなくても自然に 雑種は子孫を残せなくなる。ゆえに、この分化の過程を種分化と呼ぶことができるのである(なお、本章の理論は無性生殖にもあてはまる。このとき「種」と呼ばれるのは、表現型の状態が離散的に区別され、子孫はそれぞれの範囲で再帰的に生まれるような集団である)。

えり好みの進化

各グループは同じグループ内で交配していれば不稔でない子孫を作れるのだから、でたらめに交配しているのは明らかに無駄である。そこで、この段階で相手の表現型を見て交配するかどうかを決めるえり好みが進化してくるのは必然のなりゆきであろう。こうして、2種の分化はますます安定する。

異所的種分化について

しばしば種分化では場所が違うから分かれたという異所的種分化説明がなされる。確かに、異なる種が異なる場所に住んでいる例は非常に多いが、しかし場所が違うというのが種分化の「原因」かどうかはよくわからない。本章の理論では、2グループの空間的分離は、種分化の原因ではなく帰結である。子孫は親と同じ位置で生まれるから同じグループの個体は近くにいるケースが多いだろう。一方で交配は近くの個体とまず起こりやすいから、2グループの空間的分離に拍車がかかる。これは、環境条件が場所に対して全く一様な場合でも起こる空間的な分化である。

断続均衡進化説

本章の理論では、いったん相互作用が強くなって表現型の分化を起こす条件が満たされれば、そのあとは非常に速く種分化は進行する。相互作用の条件である環境や個体数の変化自体は連続的であって激変しなくても、それがある値になって条件を満たすと種分化は開始し急速に進む(あるパラメータになると分岐する力学系を想起されたい)。これは、S・J・グールド(Gould)とN・エルドリッジ(Eldredge)の断続均衡進化説の見方と一致する。

動的共固定化

本書で金子氏は、あるレベルでの違いが別のレベルでの違いに変換され、互いに強化され、固定される現象を動的共固定化(dynamic consolidation)と呼んでいる。これは本章の、表現型の分化が遺伝子の違いに固定されるケースだけでなく、第9章で説明された、細胞状態の分化の空間的パターンへの変換にも当てはまる。状態の分化が空間的なパターン(化学物質の濃度勾配)を作り、そのパターンがさらに状態の分化を強めるという正の相互フィードバックが働き、分化も形態形成も安定された。それによって各細胞は位置情報を持ち、安定したパターン形成が可能になった。また、第5章の遺伝機能を担う分子と代謝機能を担う分子の分離と固定化も動的共固定化のケースである。

最後に、表現型の可塑性と相互作用が遺伝的進化を促すという本章のような主張は、しばしばラマルク的な進化を導入しているようにみられがちであるが、本章で提案されている理論は、遺伝子型から表現型への1方向の流れを仮定した正統的ダーウィニズムの範囲内にある。



【第11章2節 ゆらぎによる応答】

一般に、生物は様々な環境に適応して生き延びる。細胞に関して言えば、外部の情報がシグナル伝達系を通して遺伝子発現系へと影響を与え、その発現パターンをスイッチさせてその環境で必要なタンパク質を作るようになる、と通常考えられている。しかし、バクテリアや微生物の実験において、生物はめったに起こらない環境や、これまで遭遇したことのないような環境条件に対してもそこそこ適応できることが見出されてきた。これほど多様な環境条件のすべてに対して、シグナル伝達系を用意しているとはなかなか想定しがたい(これは人工知能におけるフレーム問題と全く同じ問題だろう)。

細胞の化学変化は分子的なゆらぎから逃れられないが、遺伝子発現もその例外ではない。そこで、このノイズによって細胞の状態はアトラクターからずらされるが、それぞれのアトラクターごとに細胞の成長速度が異なるとすれば、成長速度の低いアトラクターからはノイズで容易に飛び出し、いったん成長速度の高いアトラクターに到達すれば、そのままそこに留まると予想される。言い換えれば、ノイズによって成長速度の大きいアトラクター、つまり環境に適応した遺伝子発現状態が選択される。シグナル伝達系がなくても適応が生じると予想されるのである(実際、本節で紹介されているように、大腸菌を用いた実験によって、細胞分裂以前に、つまり淘汰を経ることなく、適応したアトラクターの選択が起きることが確認されている)。

まとめると、まず細胞は、多くの環境に対しては成長とノイズ(いずれも細胞ならば常に成り立つ)によるアトラクター選択で対応し、そのうちしばしば出会う環境に対しては進化を通してその環境に即応できるようにシグナル伝達系を発展させてきた、と考えることができる。

「進化はすでにあるものをチューンアップさせるのには長けているけれど、そもそも生存できないものをよくしていくことはできない。」 (p.374)

これは本書の議論全体に当てはまる考え方だと思う。