ヴィトゲンシュタインが「この言語(私が理解するただ一つの言語)の限界が、私の世界の限界を意味する」と言うとき(『論考』、五・六二)、この「ただ一つ」には二重の意味が重なっているというのが入不二氏の読み(『ウィトゲンシュタイン : 「私」は消去できるか』、第一章)。すなわち:
まず第一に、境界線なき「全体」としての「限界」。その「全体」の内容は別様でありうるが、どんなに内容を別様に変容させても「それ」であることをやめない〈かたち〉。ここで「ただ一つ」と言われている〈かたち〉は、「語る(写像する)」ことを成り立たせている前提して、「語る」このとのうちに「示される」。これが私の言う「第一の限界」に相当するだろう。
そして第二に、「私=世界=生」の唯一性・一回性としての「限界」。第一の限界は語ることのうちに示されうるが、この第二の限界はそのようには「示されえない」のではないか、と入不二氏は言う。なぜなら、この唯一性は世界の言語や形式に属する事柄ではなく、「私=世界=生」がそもそも「あってしまう」という神秘に属するからだ。
「神秘とは、世界がどのようにあるかではなくて、世界があるということそのものである。」(『論考』、六・四四)
『相対主義の極北』において入不二氏は、「未生」という概念を駆使してこの第二の限界のさらに向こう側に、「実在=神」の影を探ろうとする。論理学を知らない九歳の子どもにとってゲーデルの不完全性定理は単に想定不可能であるばかりでなく、想定不可能であることも想定不可能であり、さらに想定不可能であることが想定不可能であることが……という風に無限後退していく。いわば、彼にとってゲーデルの不完全性定理は「世界」のうちにある事柄ではない。それは「示す」ことのできる範囲をも超え出てしまっているのだ。同様に我々にとっても、思索をめぐらすことさえ不可能な地平があるだろう。ただ「あるんじゃないか」としか言えない領域が。ここにこそ我々は、「実在=神」の影を垣間見ることができるのではなかろうか。
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