まず、大森荘蔵の想起過去説に対して勝守真が見出す疑念を以下にまとめる。(勝守真、「想起とそのかなた――大森過去論の批判的読解――」)
(1) 想起過去説には、過去とは言語的な想起内容に他ならないという発想と、過去とは消え失せて跡形もないという発想、この二つの異質な発想が含まれている。 後者の発想によって、前者の発想には抵触してしまう「想起内容に収まらない過去の何か」「消え失せて跡形もないと語りうる何か」が、暗黙裡に導入されてしまっているのではないか。
(2) 想起が知覚とは異質な経験であり、想起が知覚の再現・再生ではないことを強調する想起過去説においては、想起に対比される当の知覚とは、「現在の知覚」ではなくて、(「あの」「その」によって指示される)「過去の知覚」でなければならない。しかし、「過去の知覚」は、想起過去説が説く「言語的で非知覚的な想起内容としての過去」からは逸脱してしまう。想起過去説を支えるはずの想起と知覚の対比が、むしろ想起過去説を自壊させるように働くのではないか。
(3) さらに、このような逸脱を招く想起過去説の中には、時間経験に内在的な視点だけでなく、時間経験の諸様式(知覚・現在と想起・過去)を俯瞰するような超越的な視点が含まれている。そのような視点に立って、あらゆる時点を等しく「今」「現在」でありうるものとして捉える(今の一般化)からこそ、想起内容を逸脱する「過去の知覚」も、「想起内在的な過去」として(現在だった知覚、かつての現在の知覚として)回収できるように思えるのではないか。超越的な視点にたって、「過去の知覚」を「現在の知覚」であるかのように捉え直したうえで、それと「想起」とを対比してしまう。そのことによって、「想起」に対する「過去の知覚」の逸脱的な関係が見えにくくなってしまうのではないか。(『時間と絶対と相対と』、pp.65-66)
こうした勝守氏の「想起逸脱過去説」を、入不二氏はさらに一歩進める。これが入不二氏の「想起阻却過去説」である。
たとえば、「φだった」と今想起しているとする。φという過去の出来事は、想起を逸脱する特異性・単独性を持つ。これが、想起逸脱過去説であった。そして、たとえその想起がなされなかったとしても、φという過去の出来事はあったはずである。これが、想起阻却過去説の第一段階である。そしてさらに、その阻却とともに、想起と一体化した記述(φ)もまた阻却される。過去の出来事は特定の記述を失って、「( )だった」という不特定の過去性のみが残存する。想い出せなくとも、想い出さなくとも、忘れたことさえ忘れていても、とにかく何らかの過去が(特定されなくともシンギュラーな過去が)があったはずである、ということになる。これが、想起阻却過去説の第二段階である。「想起の自己阻却」とは、過去X――特定の内容を持たない過去としての過去――へと向けて自身を退場させていく運動なのである。
ただし、「過去としての過去――過去X――」にまで遡ることは、「独断的な過去実在」へと戻ることと同じではない。過去Xは、端的な過去実在ではない。なぜならば、過去Xは、あくまで「想起」を経由したうえでの事後的で仮想的な収束点であって、「想起」から端的に独立ではないからである。過去Xの実在性とは、独断的なものではなくて、事後的にあらかじめあったことにされるものであり、かつその事後性(=想起経由)がなかったことにされることで成り立つのである。
また、「想起阻却過去説」は、「想起逸脱過去説」とも同じではない。なぜならば、「想起を逸脱し続ける過去」から、事後的仮想的にではあっても、その当時の「想起」を引き去り、なかったことにするからである。つまり、過去存在を、もう一歩だけ想起よりさらに遠ざける。しかも、想起よりさらに遠ざけられた過去とは、特定の出来事ではなく、むしろ特定の内容を持たないにもかかわらず特有の実在性を帯びてしまう過去――過去としての過去――である。(pp.74-75)
想起するとは、現在と過去とを区別しつつ繋げることであり、そこには脱時間的な視点・仮想的な視点がすでに入り込んでいる。勝守は、大森の「時間を超越した視点」を批判しているが(そしてその指摘は正しいが)、「想起」が「かつては現在だった過去」を志向するものであるかぎり、過去と現在を重ね合わせて見ること、すなわち最低限の「俯瞰」をすること(超越的な視点をとること)は、「想起」の成立に必要不可欠なのである。(pp.79-80)
現在という起点からは接近のしようがないにもかかわらず、その接近不可能な過去(創造以前の「無」)から、なぜだか現在という起点(この世界)が誕生している。言い換えれば、現在から発している能動性のベクトル自体が(能動的な関わりも、それにともなう挫折・頓挫も)、そのベクトルの及ばない「無」の方から受動的に生み出されている。「過去を想起する」ようになぜだかさせられているし、「その想起を逸脱する過去を思う」ようになぜだかさせられている。想起阻却過去(第三層)にまで投錨しようとすると、能動/受動の相が、こうしてすべて反転する。
そのように反転した相で見るとき、想起とそこからの逸脱を繰り返すことは、まるで反復強迫であるかのように、むしろそう強いられているように見える。忘却したことさえ忘れてしまった過去、決して想起されることのなかった過去、あるいはどうしても想起しえない過去、そもそも想起されることと無縁の過去、そのような過去の方から、私たちは想起と逸脱を反復することを、むしろ強制されている。(p.84)
このような実在の様相について、入不二氏はルイス・キャロルのパラドックスとの関連でさらに詳述している。
ルイス・キャロルのパラドックスで言うならば、私たちがすでに服してしまっている論理的強制力――その明示化が立ち上がり続けしかも失敗し続けることによってのみ、それ以前にすでにその力に服してしまっていることが、遅れて判明するしかない「論理的強制力」――は、「手前」の「実在」である。私たちは、そのようなリアリズムをすでに生きているはずなのであるが、そうであることは、そのリアリズムの喪失(つまりルイス・キャロルのパラドックスの発生)を通して事後確認することしかできない。その意味において、リアリズムの認知は、すでにリアリズムの喪失である。そういう仕方で、「実在」は、私たちの認識から独立なのである。「実在」は、私たちの認識からはるか遠くの彼方にあって届かないから「私たち」から独立なのではなく、私たちの認識がつねにそこを通り過ぎてしまっているしかない「手前」であるからこそ、「実在」は「私たち」から独立なのである。(p.250)
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