【道を求めて】
もしわれわれがすべての形而上学を除去してしまうならば、どんな専門科学の、きわめて限られた領域の分野についてさえも、なんらかの明瞭な説明をするのはますます困難に、というよりはおそらく不可能になるであろう。(p.49)
われわれは認識の道を進むときに、あたかも霧の中から差し出されるかのような、目に見えない形而上学の手によって導かれざるをえない。しかし[同時に]、形而上学のやさしい魅惑によって奈落へ誘い込まれないように、たえず用心し身構えていなければならない。(p. 51)
形而上学は、その進行の過程で物理学に姿を変える。――これはもちろん、カント以前にそうであったろうという意味ではない。すなわちこの変容は、初めはま
だ不確かであった憶測を次第に確定することによってなされるのでは決してなく、哲学的観点の明晰化とその変遷とによって実現されるのである。
深い眠りの前後で私の意識が同一であるのとまったく同じ意味あいにおいて、ある人の意識と、その先祖のうちの一人の意識とは同一である、と主張することができる。(p.85)
「君のように、向こうに座っている者がいる。彼も君と同じように、ものを考えたり感じたりしている」。さて、このあとをいかに続けるかが肝要である。すなわち「向こうにも自我(Ich)があり、それも私(Ich)なのである」と続けるか、それとも「向こうにもう一つの自我(ein Ich)があり、それは君の自我と同じような第二の自我である」と続けるのか、いずれかである。以上の二つの見解を区別するのものは、「一つの(ein)」という単語、つまり不定冠詞のみである。この語が「自我」を普通名詞に格下げしている。なによりもこの「一つの(ein)」という語が、観念論との決別を修正不可能にし、世界を様々な亡霊で満たし、そしてわれわれを救いようのないアニミズムの腕の中へと追い込むのである。(p.104)
私の友人A氏がいま瞬間的に感じ、知覚し、考えていることを私に話したとしても、それは、私の意識にとっては、そのことがらの内容そのものではない。そして私自身が一時間前あるいは一年前に感じ、知覚し、考えたこともまた、いまの私には、直接意識することはできない。私は、その内容の多少なりとも明確な痕跡に気付くのみである。それは、A氏の感じたことが私に伝えられ、それに対して私が持つ印象と、本質的に異なるものではない。(pp.104-105)
[無機的なものと有機的なもの]というこれらの対象物には完全な連続性があるにもかかわらず、無機的なものから有機的なものへの移行は、徐々に行われるのではない。 なぜなら、観察者の立場というものは、対象物の形態にしたがってゆるやかな変更を強要されたとしても、一瞬のうちに変更されてしまうものなのであるから。形相が変化する中で、不変の質料を観察の対象とするか、あるいは質料が変化する中で、不変の形相を観察の対象とするか、そのいずれか一方は可能だが、同時に両方を対象にすることはできない。(pp.116-117)
われわれが意識的に――しかも幾分積極的に――関与している任意の現象が、もしまったく同じ仕方で繰り返されるならば、この現象は次第に意識の領域から消えてゆくだろう(p.121)
意識とは、具象的に言えば、以下のような意味での教師であると言えよう。すなわち彼は、生命体の修練を監督するものである。彼は、新しい問題が現れるたびに助言を求められはするが、生徒たちが十分に熟練していることを知っている場合には、彼らが独力ですべての課題に取り組むようにさせるのである。(pp.124-125)
さて、われわれの精神生活という観点から理解される、このような個体発生の実状を、同様に系統発生にも適用させることは、それほど大胆な試みとは言えないであろう、と私は思う。もし系統発生への適用を行えば、それによって無意識的かつ反射的な交感神経の機能にかんする説明がただちに得られるであろう。……交感神経の機能は、いわば固定化され、化石化された脳機能だということになる。(p.126)
脳のみならず身体全体、つまり個体発生全体は、過去幾度となく生じてきた諸々の事象が徐々に埋め込まれ、記憶となったものの反復なのである。それゆえに、これまで神経系の諸過程における特性として位置づけてきたものは、有機的な事象の一般的特性なのである、という仮定を妨げるものはなにもない。つまりそれが新しい限りにおいて、有機的事象は意識と結びつくのである。(p.128)
個々の個体発生においては、その個体の有する特殊性のみが意識化されるのである。有機体が、特異な変化をする環境条件に対して変化し、適切に機能する器官を持つ限り、有機的事象は意識を伴うものである。……われわれ高等脊椎動物は、そのような器官を脳に、しかも本質的には脳の中にのみ持っている。したがってまさにこの理由により、われわれの意識は脳の活動と結びついていると言えるのである。なぜならわれわれの脳は、変化する環境条件に適応する、まさにその器官なのであり、われわれが種[人類」として進化発展に従事する、この身体の部位なのであるから。要するに、脳は――具象的に言うならば――われわれ[人類という]種族の成長しつつある頂端部とでも言うべきものである。(p.129)
【現実とは何か】
これまでの各章で、私は以下のことを示そうと努めてきた。第一に、(われわれが広範な経験を共有するその原因としての)外部世界という仮定は、このような共有を認識するためになにも提供してはくれず、共有の認識[なる問題]については、この仮定があろうとなかろうと同様に考えなければならないということである。第二に私は次のように――それは本来証明が不可能であり、その必要もないものである――繰り返し強調してきた。すなわちその過程をもとにした、物質世界とわれわれの経験との因果関係というものは、意志行為の場合と同様に感覚に関して言うならば、自然科学において間違いなく実際上重要な役割を演じている通常の因果関係とは、類として(toto genere)まったく異なっているということ、そしてジョージ・バークリを通して、さらにデーヴィッド・ヒュームを通してより明瞭になったように、そのような因果関係は、このゆえ(propter hoc)のものとしてではなく、このあと(psot hoc)のものとしてしか現実には観測されないことがわかったということである。最初に述べたことからして、[共通経験の原因となる]物質世界という仮定は形而上学的なものとなる。なぜなら一般に観測可能なもののの中で、そのような仮定と一致するものはなにもないからである。第二に述べたことからして、それは神秘的なものになる。なぜならわれわれのおびただしい経験の中で、このあと(post hoc)のものとして常に維持されている二つの事象(すなわち結果と原因)の相互関係は、互いに対になった対象に適用して考えられるものであるが、その対象の一方(感覚ないしは意志行為)だけが実際に知覚され観測されるのであって、他方(物質的原因ないしは物質的効果)は想像上の構成にすぎないからである。(pp.199-200)
われわれは、現実世界の状況に関する二つの注目すべきことを見出した――それらはいずれも驚くべきものなのである。だがこれらの実状を明確に区別することが重要である。それというのも、これらはきわめて類似した表現で記述されることがらなのであり、そのために容易に混同されてしまうからである。……最初の驚くべき実状とは、以下のことである。すなわち私の意識領域が、他のすべての人の意識領域から厳密に分離され、閉ざされた状況にある――これは、明晰な思考をする人には否定できないことである――にもかかわらず、これまでのいくつかの章で概説したように、模倣本能を原動力とした共通の言語の成立との発展を通して、われわれが外界と呼ぶ経験のある部分に関する、普遍的な構造上の類似が認識されてきたということである。これを簡潔に表現すれば、われわれはみな同じ世界に住んでいる、ということになろう。……意識領域の完全な分離にもかかわらず、われわれ――それは特に博学で深遠な思想を持った人のことではなく、まだ就学年齢に達していない子供のことを意味している――が共通世界にいることを了解するという、この不思議な実状と区別しなければならないもう一つのことがある。それはすなわち、感覚領域の分離にもかかわらず、いわゆる外的部分と呼ばれるものの広範囲にわたる一致ないしは相等性が、そもそも現実にあるということである。(pp.218-219)
訳註:
シュレーディンガーがここで言っている二つの現実とは、①個々人の意識領域が分離されているにもかかわらず、共通世界の「認識が可能」で、その「相互の了解が可能」だということ、そして②客観的な外的部分(=外界)の共通性は、「外界の存在」ゆえに「現実のもの」だということである。この両者は区別する必要があり、合理主義的考えの人は、なんの疑念もなく②を受け入れているが、②を合理的に理解するのは不可能だということに気付いていない、と彼は指摘している。(p.227)
そこでこのような二つの驚くべき実際の状況が、現実的な問題となる。最初の実状については、言語理解の起源を個体発生的に、そして可能ならば系統発生的に跡付けることによって、科学的かつ合理的に理解することができると私は思う。そうすれば必然的に次の実状も仮定されたことになるという意見に対しては、私はことさらこれを否定しようとは思わない。この第二の実状は合理的には理解しえないということが、本質的なことなのである。これを理解するためには、以下のような非合理的で神秘的な二つの仮定[のうちのいずれか]をせざるをえない。すなわち、①いわゆる現実の世界という仮定か、②われわれはすべて本来唯一の実在の外観に過ぎないということの容認かである。私は、両方の仮定は帰するところ同一であると思っている人とは、論争したくない。つまりそれは汎神論なのであり、唯一の実在とは神性と呼ばれているものなのである。しかし二つの仮定の同一性を認識するためには、(現実の外的世界という)第一の仮定に備わった形而上学的特質が正しく理解されなければならず、それによってわれわれは、通俗的な物質主義から離れることができるのである。そして実際の倫理的な結論は、この二番目の概念(すなわち不二の説)から容易に導かれるのである。だがこの不二の説の方が、より神秘的で形而上学的に見えるということは、容認していただかねばなるまい。つまりそれゆえに、われわれの経験における共有性の度合いが理解しがたくなってしまうのである。(pp.220-221)
私にすれば、すべては幻影(maya)なのである。もっともそれは、十分な法則性を持った興味深い幻影ではある。この幻影は、(まさしく中世風に表現すれば)私の不滅の部分とはおおよそ無縁のものである。だがそれは趣味の問題であろう。(pp.222-223)
0 件のコメント:
コメントを投稿