【第一部 第三章 表出】
モナド主観にとって、自らの内に潜在的に内在する諸内容、つまり観念を現実的に展開することによって開示されてくる世界とは、たんなる観念的世界や仮像ではなく、まさに「精神の外に」実在する他の諸モナドである。(p.65)
モナド主観が自己の生得的な内容を内から表出することは、それが「外に存する事物を精神の感官への関係を通じて表出する」ことと、このように何ら矛盾しない。かえって、対象たる他の諸モナドがまさに(主観にとって)外なる実在として知覚されること自体、じつは表出という主観の自発的活動によって初めて可能になる、と言えるのではないだろうか。……対象は主観の“外”に存在するものとして知覚表出されるのである。この意味において、主観と客観のいわゆる〈内-外〉という関係は、客観をこのように物自体として知覚表出する自発的モナド主観のその働きによって構成されて行くものだ、といってよいのではないか。……普通我々は意識の内と外の差異を、無反省にも空間的場所的な内と外の差異と同じように理解しているが、ライプニッツはまさにかかる〈内-外〉の理解に対して反省と批判を試みているといってよい。……物自体を直接知覚することが、即ち自発的主観の内からの自己展開であるという見方は、そういう先入見的な内外理解の克服である。(p.65)
モナドが他の諸モナド即ち世界に対して窓を持たず、したがって外界から例えば可感的形象(les espèces sensibles)の如きものを受け入れる可能性が否定されるということは、取りも直さず、かかる経験的な知覚論がその上に成立しているところの、〈空間的内外の区別〉がライプニッツによって根底から批判されていることを意味するものにほかならない。(p.66)
【第一部 第四章 宇宙の活ける鏡】
彼[ライプニッツ]にとって、世界の構造、秩序は個々のモナドと共に神によって直接創造されたのである。この意味において世界は観念的ではなく、実在的である。世界は志向的関係に還元されつくすものではなく、創造をその究極的根拠とする。それゆえまた世界は、それぞれのモナドにとって相対的ではなく、すべてのモナドがそこに共属する同じ一つの世界である。……モナドが世界に属すということは、物体が空間の中に置かれているようなことではなく、世界を表出し、映すことである。すなわち全モナドが同じ一つの世界を表出するということが、全モナドが同一の世界に共属するということを可能にするのである。(p.74)
【第二部 第一章 世界の可知性】
世界は実在として、実体モナドの共在秩序として我々に知られうるのである。このとき、現象が実在的であること示すものが「関係」にほかならない。即ち、現象は既にそれ自体の中に異なった諸要素から成る整合調和の関係を含み、さらにまた他の諸現象との帰結の関係を持つ。一言で言えば、ある現象が内に関係を含み、かつ関係の内に含まれていることを見きわめうるなら、我々はその現象が実体に対応することを確証できるのである。(p.86)
【第二部 第二章 「世界」の定義】
[ライプニッツにとって] 世界は実体モナドの共在する関係または秩序であるのに対し、空間(espace)――個々の実体モナドからいわば抽象されてそれでだけで自存する空間――とは(実在に対応せぬ)想像的仮像的な現象でしかない。(p.90)
無限の意味を拡がりの広大無辺から連想しようとする限り、存在論は「全体」・「一」・「連続」に定位する〈全一性の哲学〉となり、無限と有限の相互媒介という思想は出てこない。ライプニッツがスピノザの唯一実体説に強固な反論を行なうとき、そこには無限性を契機とした個体の個体性、精神(人格)の個別性の問題が常に貫流しているのである。(p.98)
(充足理由律から不可識別者同一の原理が系として帰結し、後者がさらに、精神の個別性をもたらす)。
空間を事物の共存的秩序(un ordre de l'existence des choses, qui se remarque dans leur simultanéité)と解するならば、そのとき「空間」は観念的想像物ではなく、実在的な概念であるとみなしてよい。しかし右のように捉え直されたとき空間は、我々もすぐに気づくように、「世界」の概念に結局のところ帰着するのである。存在する事物の秩序(ordre)または関係(rapport)として世界を定義したうえで、では事物を捨象した「絶対空間」なる概念が可能か否かを検討したわけだが、結論として、「絶対空間」は否認される。「空間」概念が意味を持ちうるなら、それは〈事物の秩序、関係〉ということにほかならぬ。(p.106)
【第二部 第七章 予定調和】
世界は最善の世界である。しかし神の場合その「最善」ということの意味は、いわゆる人間の尺度から確知されるようなものではない。擬人観的な解釈は斥けられるべきである。「調和」は〈我々にとって〉心地好いものである必要はない。むしろライプニッツの言う「調和」は同時に〈多〉や〈異〉という契機を鋭く含んだ、緊張に富んだ概念である。例えば、目的因に従う精神と作用因に従う身体(物体)との関係が「予定調和」だといわれる場合でも、両者が互いにどこまでも異なったものであることにいささかの妥協もない。(p.202)
【第二部 第八章 世界の集中】
「表出」概念が〈一から多へ〉の方向において考えられているのに対し、「集中」の概念は逆に〈多から一へ〉の方向において考えられているのである。単純実体=モナドは、それが主観という性格を含むことに基づいて、多を志向し、これを知覚および表出の対象として自らの一性の内に含む。しかし同時に、すべての実体モナドの実在的多は一を志向する。つまり、個々のモナドの一性は、多がそこへと集-中(con-centrer)するところのまさに「中心」(centre)としての性格を有するのである。「予定調和」概念の指し示す意義にかんして、先に我々は、多様な実体モナドが対応し関係しあうことによって、一つの全体的統一というものが志向され、形成されることを見た。では、かかる世界の統一はどこに実現されているかと問えば、それはまさに一つ一つの個体的実体としてのモナドの内である。多様の統一のありかはそれぞれのモナド自体にほかならぬ。各モナドは、「宇宙(即ちすべての事物)の集中」(concentratio universi)であって、それゆえ、モナドのあるだけ、それだけ多くの集中が世界に存在する、と言われる。(pp.227-228)
ライプニッツの考える、モナドと世界の関わりは、その根底では、個体的実体の中へ向かって他のすべての実体が「集中」する、そのような諸実体間の実在的な関係をこそ意味しているのである。(p.229)
【第三部 第三章 個体の形而上学と論理学】
ライプニッツがモデルとする命題をいま「分析的」(analytisch)と呼ぶことは、それが広く述語の内在を指す限りにおいて、誤りではない。述語内在がそれだけで直ちに「必然的」につながるとはライプニッツは考えていない。(p.290)
カントによる「分析判断」(analytisches Urteil)と「総合判断」(synthetisches
Urteil)の区別においても、「分析的」ということ自体の意味として挙げられているのは、〈述語が既に主語の中に含まれていて、これに新しいものを何
も付け加えない〉という、そのことだけである。ただ、「分析的」の依拠するその原理を、カントは「矛盾律」(der Satz des
Widerspruchs)と同一視するので、分析判断の実際の使用は「必然的」(即ち、その反対の述語は全称否定にならざるをえぬ)となる。このように
見るとき、カントに対するライプニッツの独自性もまた明らかとなろう。つまり、〈述語が予め主語に内在する命題〉のそのあり方が、ライプニッツでは必ずしも矛盾律と同一視されず、したがって必然性を意味しないのである。(p.307n)
主語と述語の「結合」とは内に在ること(inesse)であり、主語に含まれること(contineri)である。……つまり肯定命題{A est B}は{A includit B}に、否定命題は逆に{A excludit B}に、例えば「すべての賢人は正義である」(Omnis sapiens est justus)は「賢人は正義の人を含む」(Sapiens includit justum)に、「どの正義の人も不幸ではない」(Nullus justus est miser)は「正義の人は不幸な人を排除する」(Justus excludit miserum)に、それぞれ書きかえられる。また二つの名辞が「一致」するとは、両名辞が互いに含み合うことであるという。(p.291)
→ 現代の述語論理との相違
「可能」と「不可能」、「真」と「偽」という二通りの区別の関係について。既に見たように、真なる命題(または名辞)は可能であり、偽なる命題は不可能である。だが逆に可能なものはすべて真と言えるだろうか(不可能なものはもちろんすべて偽である)。ライプニッツは慎重に、すべての可能なものが真であると言えるとすれば、それは「非複合的名辞」(terminus incomplexus)だと注意する。従って複合的名辞については疑わしい。……というのも、仮に分解が在る段階に達して矛盾の無きことが見出されたとしても、分解がこれ以上できないというところまで来たか否かを見きわめることは、難しいからである。(p.308n)
(真なるものはすべて可能、不可能なものはすべて偽。ただし偽なるものがすべて不可能、ということはおそらくない。例えば、カエサルがルビコン川を渡らなかったことは可能であるが、事実真理として偽である。このことの証明は、経験的検証によって行えばよい)。
ライプニッツは[主語名辞の]分解の無限進行の可能性とそれによる「原始的単純名辞」の獲得の可能性を一方で信じ、議論の前提としている。だが、[命題の]証明の実際の進行においてはこれが我々人間の悟性にとっては困難であることも、彼は同時に認めねばならない。なぜなら述語内在という命題の真理には、ライプニッツの場合必然的真理だけでなく、まさに偶然的真理が加えられているからである。或る有限回の分解手続で同一命題へ還元され、またはその反対が矛盾命題へ還元されうるような命題は必然的である。これに対して真なる偶然命題とは――少なくともそれが矛盾を含まず可能であることを証明するだけでも――「無限に続けられる分解を必要とする命題」だと言われる(Verae contingentes sunt quae continuata in infinitum resolutionem indigent)。……絶対的に非複合的で単純な要素概念を提示することは我々にはできない。{A est B}はたしかに潜在的に同一命題だというが、現実に{A est A}を得ることはできない。(pp.292-293)
Existensはpossibleに何か別のものを加えたものではない。むしろEnsがどれだけ多くの他の事物と矛盾なく共存しうるかというその程度に応じて、そのEnsに帰せられてくるもの(述語)である。換言すれば、現実的なものはどの可能的なものよりも、多くの事物とcompatibleなのである。両者の差はcompatibilitasの(或る量的な)程度の違いとライプニッツは考えている。……もちろん、可能と現実存在の間には決定的な相違がある。それは、くり返すように、神の意志による選択である。このように見ると、現実存在の意味をめぐる問題はもともと形而上学に根差しており、純粋に論理学の範囲だけですべてを解決することはできない。ただ、ここの『一般研究』[『概念と真理との分析についての一般研究』(Generales Inquisitiones de Analysi Notionum et Veritatum)]では、存在は可能的であり、可能でないものは存在しないという前提にのって、可能的(つまり無矛盾的(compatibilis))ということに程度差があるなら、しかも「分析」にも無限の程度があるなら、たんに可能的にとどまるものと、現実に存在するものとの間には、或る連続性が見られるという主旨なのである。神の存在論的証明を批判するカントにおけるように、「可能」(「本質」)と「存在」のその違いの方を強調する志向は、ライプニッツの論理学にはない。(こうしたことは、偶然命題も〈分解の程度に基づけて〉必然命題と同様、述語内在型にとりこもうとする『一般研究』の根本的見方と無関係ではない)。「本質」と「存在」の区別は、ライプニッツではむしろ形而上学に委ねられるべき問いなのだ。したがって、もし右に見た『一般研究』(§73)の箇所だけをとりあげて、ライプニッツは一般に本質と存在を混同しているかのように言うとすれば、それは、少なくともライプニッツ哲学の解釈としては公平でないように思われる。(pp.310-311n)
→ 一方では可能的なものと現実的なものの差は程度の差であると言いながら、他方では(神が意志したという)決定的な差があるという。この一見したところの矛盾は、前者を論理学のレベルの議論、後者を形而上学のレベルの議論と解釈すれば整合化できるだろう。すなわち、論理学的には、可能的/現実的の区別が基づけられているところの「無矛盾性」は量的な度合である。しかも分析の無限進行により、原始的単純名辞へ到達することは我々には不可能であるから、ある概念が可能的に思えるからといって、それが本当に可能的であるとは確実に言えず、本当は概念の内的連関に矛盾をきたしているかも知れない。結局、無矛盾性は二重の意味で程度の問題であると言える(例えば「最大速度の運動」なる観念や「最完全者」の観念。デカルトによる神の存在論的証明のライプニッツによる批判も、この論点に基づいている。Verum sciendum est, inde hoc tantum confici, si Deus est possibilis, seciuitur quod existat; nam definitionibus non possumus tuto uti ad concludendum, antequam sciamus eas esse rcales, aut nullam iuvolvere contradictionem. Cujus ratio est, quia de notionibus contradictionem involventibus simul possent concludi opposita, quod absurdum est. - "Meditationes de cognitione, veritate et ideis")。他方で、形而上学的に言えば、現実的なものは神が意志したがゆえに存在するから、そういう意味で可能的/現実的の差は決定的である。神の決定は概念をいくら分解しても出て来ない。「しかしライプニッツにとって、「存在」が概念分解によりアプリオリに証明されぬことは、論理学の欠陥ではない。論理学はいわば「可能」を扱うのであり、「現実存在」はもはや形而上学に委ねられるべき問題なのである。換言すれば、無限分解の中で見出される項は神の悟性の対象であるのに対し、「(現実)存在」は神の意志の対象なのである。論理学は自らにその境界を定めており、形而上学がその基に存在することを知るものでなければならない。」(p.312n)
名辞を分解した結果我々の出会う要素について、ライプニッツはこう言っている。「複合名辞であれ非複合名辞であれ、すべての分解は、公理(axioma)、それ自体で概念される名辞(termina per se conceptus)、および経験(検証)(experimentum) において終わる」(Generales Inquisitiones §61)。人間の行う分析が「公理」や「それ自体で概念される名辞」にまで達することは実際にあまりないと考えられるから、名辞の要素が経験によって検証されるべき性格のものであるケースは多いわけである。……個体が現実的に存在する(または存在した)かぎり、その名辞は真であるから、それの諸要素が経験的なものであっても、我々は信用して諸要素間の無矛盾性を確信することが許されるのである。したがって個体について或る偶然命題の真を証明するには経験によって述語が主語に結合される、言いかえれば述語がまさにそのようなものとして主語名辞の要素であることが示されればよい。(pp.296-297)
→ 現実に存在する(した)個体の諸要素は無矛盾的であることが保障されているので、ある述語が真であることを経験的に検証できれば、それが他の諸述語との間にいかなる矛盾も存在しないことが保障される。「このライプニッツの議論は、すべての述語をアプリオリに内包する「個体概念」という形而上学的テーゼを、或る側面から支持するものであることは確かだろう。」(p.297) ただ、我々の経験的知識は常に流動しているので、我々が無矛盾性を作りだしているのだ、という反論もできるだろう。もちろんこのような認識論的発想はまだライプニッツの時代にはないが。
我々の哲学者の意図は、神におけるような無限分析による完全な証明でなくとも、人間悟性にも何らかの仕方で、偶然命題の真なることを(つまり、述語が主語に内在することを)現実に知れるようにすることであった。(p.298)
→ もし人間にはいかなる証明の途も閉ざされているとすると、個体について我々が意味のある陳述をなしうるという保証はなくなり、個体は「知られざるもの」となってしまう。かくて真理の領域は、スピノザにおけるように必然的真理に限局されるだろう。
見たところ「原始的単純名辞」のようでも、実際さらに分解されうるものもある。……例をとると、「拡がっているもの」や「思惟するもの」は、デカルトが説明したように単純な、それ自体で概念把握されるものではなく、それぞれ「共存する諸部分をもつ連続体」、「思惟される或る対象へ関係づけられるもの」という複合名辞なのだ。(Opuscules et fragments inédits de Leibniz, p.361)。「延長の場合、「連続性」(continuitas)や「(共存する諸部分の)現実存在」(existentia)以外にもまだ含まれている要素があるかもしれぬ。ただ我々がこの二つの要素を結合をもって「延長」なる(全体)概念を十分理解しうるのなら、それ以上分解にこだわる必要はない。「延長」をそもそも(「思惟」ともども)原始的で単純なものと見なすことが「有用」(e re)と思われるなら、それも害にならぬ、とライプニッツは付言している(Opuscules et fragments inédits de Leibniz, p.361)。注目すべき言い方である。名辞の分解を(神ならぬ)我々がどの程度まで進めるべきかは、その分解が我々にとって有益かどうかによって決められる、というのである。名辞の「可能」、さらには「真」であることを既に経験によって知り、かつ名辞に定義や公理を加えて他の命題がすべてそこから演繹できるならば、我々はそうした名辞―――「存在」、「個体」、「我」などを含めて――をそれ以上分解する必要はなく、「原始的」名辞として扱うことができる。もしそこで慎重に考えすぎて分解の進行にこだわるなら、我々は前に進むことができない、とライプニッツは警告している。(pp.310-302)
→ 以上のような意味において、「非複合的名辞」と、「原始的単純名辞」は異なる。前者は、分解が最終的にそこに達するはずの極限であり、後者は、有用性の観点から、そこから命題や推理が構成される出発点として扱われる概念である。「ライプニッツの企ては、そういう出発点としての単純な名辞に個体概念のような複合的なものを含ませることにより、個体概念をも論理計算で扱えるようにすることである。つまり彼は論理学を個体の形而上学にも適用可能にしようとするのである。それ自体無限に分解される複合名辞であるはずの「個体」や「我」もが、「原始的単純名辞」の内に数え入れられるということの、より積極的な理由はそういうことではないか」(p.302)。有限な人間悟性にとって、名辞のすべての内包(述語)を知らずとも個体を同定しうるような途を、ライプニッツは開こうとしているのである。同定された個体は、それを名辞なり記号で表記し、単純名辞のように見なしてさらに推理や論理計算を行うことができる、とライプニッツは信じていた。
【第三部 第四章 個体の創造における神の自由とオプティミスム】
次のような解釈が従来行われてきた。、曰く、ライプニッツは(スピノザの)盲目的必然性に反対すると共に、(クラークの)無制限な恣意にも反対した。曰く、ライプニッツは(ラショナルな要求を犠牲にして)神的意志の崇高な独立をという神学的必然性を得る教説と、(モラルや宗教の基礎を犠牲にして)論理的必然性を得る教説との中間に身を置こうとした。或いはまた曰く、ライプニッツの議論は、デカルト流の主意主義とスピノザ流の主知主義、換言すれば、個別性の重みと合理性の普遍との間の和解である等々。しかしながら、これら二つの異なった論点の間の関係を、そのように「共存」とか、「中間」とか、或いは「和解」として単に形容するというだけで、もし解釈がとどまるとすれば、それは少なくとも自由とオプティミスムの内的結合の可能性を問いぬくには十分ではないと思われる。二つの論点の「中間」とか「和解」を言う前に、そもそも両者はいかなる仕方で関係し合うのか、そしてもし相並びえぬならそれはいかなる意味でなのか、また両立しるつおすれば、いかなる仕方でにおいてかということこそ、明らかにされる必要があろうからである。(p.336)
【第三部 第五章 自我】
「自我」の〈何(誰)であるか〉をめぐるデカルトとライプニッツの相違は、「自我」を主観の作用の形式的側面から見るか、それとも「自我」を個体として、それが含む多様な内容という側面から見るかの相違ともいえよう。(p.373)
デカルトにおいて、「懐疑」の進む中で結局自我は内容を徹底的に抽象されざるをえなかった。そのことは「自発性」の欠如に帰因する。デカルトの「自我」はしたがって「表出」をもたない。それは、ただ〈外から内へ〉の知覚を行うのみであるから、アプリオリに含む内容などありえぬわけである。
【第三部 第六章 概念の構造】
「概念」は、それが完全な意味で真ならば、自分の内にさまざまな構成要素の「関係」をはらむものである。そして分析における通覧や比較によって、これらの諸要素間の縦横多様なる「関係」や「連関」を見きわめることなくしては、人は真の意味で「概念をもつ」とはいえぬのである。だから、或る事物や事柄について我々がいま現実に考えているからといって、またそれらに記号や名称を付け、これをその意味が自明であるかのように普段使用しているからといって、そこから直ちに我々がその事物や事柄についての真なる概念を持っていると誤認してはならない。というのも、合成概念の場合、その構成要素の分析が、言いかえれば構成要素間の諸関係のみきわめが不十分だと、我々はそれらの要素間にもし矛盾(contradictio)が存在してもこれに気付かない、つまり「盲目」なときがあるからである。この例としてライプニッツは「最大速度の運動」なる概念がそれだと言う。そして概念が含む構成要素の間の関係がそのように、もし不明ないし矛盾をきたしているならば、その概念自体がもともと「不可能」(impossibilis)なのだと言わねばならぬ。そのようなとき我々は真の概念をもたない、とライプニッツは述べている。(pp.395-396)
モナドは表出を通じて他のすべてのモナドへ対応する関係の内にある、と同時にまた集中を通じてすべてのモナドの関係を内に含んでいるといえよう。より直截にいえば、どのモナドにおいてもそれが他へ関係を持つことと、内に関係を含むこととが別のことではなくて同じ一つの事態を意味している。(p.410)
【結語】
世界と自我の脱自的関係の強調は、他面において、世界をも自我をもその関係の内へ消し去る傾向をともすれば持ちやすい。つまり個体の個体性、自我の自我たる所以をなすものが、他ならぬ世界であるならば、個体が一個の独立した実体としてなお自存しることのその根拠は何であるか。自我が、それを構成している諸要素に分解されたり、世界の諸関係の中に散逸したりせずに、自己同一的な一個の存在者として踏みとどまることのできるのは何故か。それを説く論理が「神の創造」なのである。……モナドの「力」はそれ自身で完結的で、神からいわば切り離され抽象されたものではなく、神の「力」との連関のうちにこそ開かれている。したがって、ライプニッツにおいて、モナドが「神の似姿」と言われる場合のその根源的な意味もここに求められるのではないか。つまり、「力」において神とモナドは連関しあうのである。(pp.422-423)
→ モナドが「宇宙の鏡」と呼ばれるのを以て、「全世界を内に含む」という点が非常に強調されるなら、モナドロジーの体系は汎神論に接近する。それを阻止するのがモナドの有限性、神の超越性である。すべてのモナドの存在根拠は神であり、その「原始的力」は神の力によって本来可能となる。そういう意味で、モナドは神から切り離された自存的実体ではないし、ましてや神自身でもない。
【付論一 経験的統覚と超越論的統覚】
カントの「統覚」とは、ライプニッツが考えたような、対象についての知覚にそのつど後から付け加わったり、付け加わらなかったりするような働きのことではない。それは逆に認識内容(対象)が与えられることにいわば先行するような、主観のアプリオリな必然的構造なのである。……ライプニッツの統覚概念におけるような、既に成立した対象認識が実際に意識されているか否かという問いは、カントにとってはもはや重要ではない。(p.440)
[カントにとって]神的直観とは異なり、まさに有限的存在でしかない我々が行う直観(intuitus derivativus)は、外から対象を受けとらなければならない、換言すれば、sinnlichでなければならない。我々人間にとって、認識の内容ないし対象は外から与えられるほかないのである。そしてこのような前提に立つところから、それでは主観の内に成立する表象がいかにして外なる対象に関係しうるのかという認識批判的な問題が設定されてくる。主観と客観の関係や対応の可能性をめぐる、こうした取り組みの中から、カントは、表象と対象の関係をアプリオリに可能にする制約として、直観によって与えられる多様を結合統一する超越論的な統覚というものを、要請するのである。つまり、統覚が超越論的なそれへと転換されねばならぬ必然性は、人間的認識において直観はsinnlichであり、rezeptivである、という前提から生じてくるのである。このように見るなら、「超越論的」という概念自体も、結局人間的認識の有限性、すなわち直観が感性的、受容的でしかありえないことへの反省と密接な関連を持っている、ということができよう。これに対し、認識されるべき対象や内容が生得的諸観念として予め主観に内在する、と考えるライプニッツのような立場では、観念とその対象との間の対応とか関係は、それほど反省を要する問題とは意識されていない。(pp.445-446)
【付論二 ライプニッツにおける受動的力(vis passiva)の概念】
物質を伴った有限的実体において、[原始的]受動的力の方が物質性よりも根源的なのである。実体はそれが質料を持つから受動的だというのではない。逆に質料性や身体性の方こそ受動的力に基づき、かつ後者の必然的な帰結である。(p.467)
精神的表出と物塊的身体の結合は、一個のモナドにあって内的であり本質的である。ではいかなる仕方で結合するのか。それは形相と質料の合一である。(p.472)
→ 原始的能動力が実体形相である。対して原始的受動力が、第一質料。原始的受動力は、物体の「抵抗」力として展開されている。抵抗力は、不貫通性(impenetrabilitas)および慣性(inertia)から成る。「抵抗の含むこうした二つの性質は、またそのまま第一質料に帰属する二つの性質でもある」(p.469)。こうした抵抗力が、物体が何らかの場所にあるということ自体をそもそも可能にする。このような意味において、原始的受動力こそ、延長がそこから帰結する原理だと言える。「不可分的精神といえども、現実的には拡がり空間の存在形式に縛られているのは、原始的受動力のゆえである」(p.469)。
「ライプニッツの哲学では物質は心と同時に措定されている。心は直接に自分自身によって、すなわち自分の本質によって身体と結合しているのであって、間接的に、そして後から一つの予定調和なるものの威力によって初めて身体と結合しているというのではない。このことは既に、ライプニッツでは、心は根源的に、アリストテレスの意味での物体の実体形相であるということから明らかである」(Ludwig Feuerbach, Darstellung, Entwicklung und Kritik der Leibnizschen Philosophie, S. 71f)
モナドは身体との結合を通じて、「力」保存の法則や或いはまた充足理由律にも従わされている。多=宇宙の表出も制限された仕方で、すなわち身体の運動や変化を表出することを通じてのみ行われる。表出の活動が必ず一定の「視点」(point de vue)に依存せざるをえないということは、モナドが身体を持つことと無関係ではない。身体を持たぬ神は、そのような視点もペルスペクティヴも一切必要とはしないはずであろう。ディルマンは次のように注意している。一における多の統一としての実体に、有限性とか制限性がもし属すとすれば、その実質は表出(expression)の判明度の違いや暗さに専ら求められる、という解釈が一般的であるが、しかしそれは正しくない。むしろ実体の表出活動自体が既に身体の運動に従って行われている。つまり、実体の基礎に身体性が、そして受動的力が先在するからこそ、表出の混乱や暗さが帰結すると見るべきであり、その逆ではない、と。(Eduard Dillmann, Eine Neue Darstellung Der Leibnizischen Monadenlehre Auf Grund Der Quellen, 176ff) (pp.472-473)
ライプニッツはデカルトの難点[心身結合のアポリア]を見ぬいていた。そして、思惟や延長をむしろ「力」という概念を基礎にして、これにいわば依存すると考えたのである。すなわち、いわば同一の「原始的力」が一方では原始的能動力として、他方では原始的受動力として、言いかえれば前者は精神=実体形相、後者は身体=第一質料として展開される。「力」という原理に基づいて精神と身体の結合がどの実体においてもアプリオリに保証されることができる。心・身体の区別自体は、したがって根源的ではなく、ただ派生的なものでしかない。(p.474)
物体は、第二質料としては、多くの実体の集合にほかならない。(p.476)
→ ライプニッツはこうした物塊を「物体的ないし延長的な物塊」(la masse corporelle ou étendue)と呼ぶ。これと区別して、形相(エンテレケイア)、すなわち精神的な原理によって統一されている物体を、「物体的実体」(substance corporelle)と呼んでいる。「すなわち、諸実体の集合にすぎない物塊としての身体に向かって、精神的な或るものが形相として、それに統一を与えて初めて一つの完全な実体を形成する」(pp.476-477)。支配的モナド、実体的紐帯、エコーの問題。
拡がりだけの物体(massa)を表象するのは、我々の知覚が不判明で混乱しているために、諸実体の非連続的な共在秩序を見てとることができず、漠然と「連続体」(continuum)を想像するからであろう。反対に、明晰判明な知覚を行うとき、我々は物体を物塊(連続体)としては見ない。かえってそれが多くの単純実体の非連続的な集合であって、真の統一ではないことを認識できる。(p.477)
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