2011年6月8日水曜日

丸山眞男とリベラリズム

【「リベラリズム」とは何か】

「リベラリズム」という語は非常に抽象性が高い。一般的に「リベラリスト」と形容される論者の多彩さを想起すれば分かるように、「リベラリズム」が指すとされる思想の形態は実に多岐に亘る。討議の倫理を引っ提げて「コミュニケーション的理性」の重要性を説くハーバーマスのような論者から、政府による経済への介入を排した市場メカニズムを重視する「リバタリアン」まで、「リベラリズム」の射程は極めて広い。そこで、本論における「リベラリズム」の定義として、井上達夫のそれを借用したい。井上氏は『共生の作法 : 会話としての正義』において、リベラリズムのアイデンティティを、個別の論者が提示する「解答」の内容的類似性にではなく、「問い」のレベルでの共通性に見出している。すなわち、「善の諸構想の多元性を所与として承認せざるを得ない状況において、社会的結合はいかにして可能か」という問いである。言い換えれば、多様な価値観や信念が相競合する社会において、我々は如何なる共生の道を引くことが出来るか、という問いこそが、リベラリズムの「自同性の根」をなすというのである。

【丸山眞男のリベラリズムの確立】

この定義に従えば、我々は丸山眞男を立派なリベラリストと見なすことができる。というのも、彼は戦前の助手時代から一貫して、公私の領域を分離し、全体を管制する政治権力の下で、様々な「私的」な活動が自由に展開する「寛容」の体制としての、近代社会のあり方を積極的に擁護しているからだ。こうした丸山の思想が確立されていった過程を、以下に概観しておきたい。(なお、この箇所は苅部直『丸山眞男 : リベラリストの肖像』に多くを負っている)。
まず、助手時代の初めての論文、荻生徂徠を中心に徳川時代の思想史を通観した「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」において丸山は、「政治」が支える制度に枠付けられた秩序の下で、「諸々の文化価値の独立」がなされ、信条の赤裸々な解放と、様々な信条への「寛容」が確立することが「近代意識の成長」だと説き、荻生徂徠から本居宣長に至る思想の系譜にその萌芽を見出している。しかし、この段階では「個人の自由」を秩序の前提条件に位置付けるには至っていない。
続いて助教授に昇進した後に書かれた第二論文「近世日本思想史における「自然」と「作為」――制度観の対立としての」で丸山は、秩序を人間の「作為」によって基礎づける徂徠の「作為の原理」――むろん、徂徠が考える「作為」の主体は古代の「聖人」と代々の為政者に留まるが――から、西洋の社会契約説を抽出する。この論文で丸山は、「政治的なるもの」が成立する以前に、どんな公的権力も侵してはならない道徳秩序が存在するはずだと説いている。つまり、「私的」な領域における個人が、「自由」や「通義」(rightの訳語)といった共通の価値を信奉し、これを守るために他者と約束を取り結び(=作為)、「人間仲間」(societyの訳語であろう)を結成する、というのである。このようにして、お互いの「主体性」を承認し合う対等な「仲間」の道徳秩序が成立し、ここに個人の自由が確保される。
おそらく、このように論じるときの丸山の脳裏にあったのは、当時の日本の状況であろう。戦時中の強力な統制下でも、人々は抵抗の意識を持たず、むしろ上位権力へと随順し、見境なくこれと同化していく。このような「ずるずるべったり」の関係性は、人々の主体性の欠如と、その必然的帰結としての「人間仲間」秩序の不在に由来すると言えよう。こうした日本人の伝統的な精神構造への批判は、戦後の論文「超国家主義の論理と心理」においてなされ、この論文によって丸山の名が論壇や文壇に広く知られるようになる。

【転倒された義務論】

安易な図式化かもしれないが、リベラリストは、リベラルな社会を擁護するその根拠によって、「義務論者」(自由ないし権利の超越的な価値に訴える論者)と、「帰結主義者」(自由ないし権利を尊重する社会の方が結果として人々が幸福になる、と主張する論者)とに大別することが出来るだろう。例えばカント、ロック、J.S.ミル、ノージックらは義務論者に、ハイエク、フリードマン、ローティらは帰結主義者に分類されるだろう。「どんな公的権力も侵してはならない道徳秩序」の存在を説く上の丸山の議論を見れば、彼は一見義務論者に見える。しかし、丸山の自由観は、無条件に自由の価値を礼賛する義務論者のそれとは一線を画す。いな、丸山はもっとニヒリスティックで老獪である。丸山が感銘を受け、ノートに写して暗記したというハンス・ケルゼンの言葉が、丸山自身の自由観を如実に表していると思う。ケルゼンの論文「プラトンの正義論」の末尾の一節を、丸山は以下のように口頭で要約している。(丸山眞男集の編集者、小尾俊人の筆録による)

絶対の正義は存在しない。しかし人は執念を持つものだ、それによって動くのだ、それがどんなにイリュージョンであっても、イリュージョンの方が現実より強い。人間というものは、たとえ血と涙の道であってもプラトンの道を歩むのだ。

相対主義的なニヒリズムに晒されている現代人にとっては、プラトンのように絶対的な真理や正義の実在を確信するのは難しいかもしれないが、強大な権力に対抗するためには、人々は敢えて幻影としての「自由」や「権利」に訴えざるを得ない。逆説的だけれど、「絶対の正義は存在しない」としても、我々は超越的な価値を棄て去ることはできないのである。のちの座談会で丸山は以下のように語っている。

もし経験的事実として目の前に映る世界がすべてになってしまって、それをこえた目に見えない権威――神であっても理性であっても「主義」であってもいい、とにかく見えざる権威によって自分がしばられているという感覚がなくなったら、結局は見える権威に――これまた政治権力であろうと、世論であろうと、評判であろうと――ひきずられるというのが、私の非合理的な確信なんです。

メディアのもたらす情報洪水の中に漂う、現代大衆社会の人間は、もはや何が本当の自分の思考なのか分からなくなり、足元には価値の相対性とニヒリズムが纏わり付いてゆく。このような時代の中、敢えて自由の価値を信奉し、声高にこれを唱える丸山は、まさに「転倒された義務論」者と言えよう。

【自我への問い直し】

丸山の論文は繰り返し「公共の問題を討議すること」や「自発的結社」の意義を強調する。例えば1953年の論文「ファシズムの現代的状況」は以下のように結ばれている。

これ[ファシズムの強制的同質化を準備する素地]に抵抗するためには、国民の政治的社会的な自発性を不断に喚起するような仕組みと方法がどうしても必要で、そのために国民ができるだけ自主的なグループを作って公共の問題を討議する機会を少しでも多く持つことが大事と思われます。ファシズムが一番に狙ったのが労働組合を先頭とする自主的結社であることは、それ自身、こうしたグループが国民の受動的なマスへの転化を食いとめる機能のいかに重要な担い手であるかを物語っているものといえましょう。

このような議論を見れば、我々は直ちに「コミュニケーション的行為」の重要性を説くハーバーマスとの共鳴関係を見出すだろう。確かに、丸山とハーバーマスは共通するところは多い。権力による「人間仲間」秩序および個人の内面世界への侵入を批判する丸山と、「システム」による「生活世界」への侵入に警鐘を鳴らすハーバーマスとの理論的・思想的類似性は、おそらく偶然ではあるまい。しかし同時に、我々は両者の差異にも注目しなければならない。すなわち、言語使用に内在する「コミュニケーション的理性」に立脚し、「理想的な発話状況」を不断に目指すハーバーマスに対して、丸山は「理性的な主体」という(近代主義が想定するような)人間像にあくまで懐疑的である。特に戦後アメリカで行われたヒステリックな共産党員狩り(レッド・パージ)にショックを受けた丸山は、以後この懐疑的傾向を強めていく。
1961年に書かれた論文「現代における人間と政治」で丸山は、チャールズ・チャップリンの映画『独裁者』にある、飛行機に乗り雲海の中を進んでいく主人公が、機体が上下逆さまになっているのに気付かないシーンを取り上げて、実は現代の人間はこうした「逆さの世界」に住んでいるのが今や常態であると述べている。つまり、国家や様々な組織の内側に住む人間は、その内部だけに浸透するイデオロギーや「常識」によって、世界を見る目が初めから一定の「イメージ」の眼鏡を被せられているのである。今や丸山にとって、誰もが自分の世界の外に出て、人類全体の共通空間で語り合えるとするハーバーマス的なコミュニケーション論は、単なる理想論でしかない。ならば、我々は如何にして「外側」の住民の声に耳を傾けることができるであろうか。
ナチスドイツにおいて行われたグライヒシャルトゥング(強制的画一化政策)を取り上げながら、丸山は同論文で以下のように述べている。

ナチの場合においてもイデオロギー的分布は、同じ内側(正統)の世界でも中心部と周辺とでは均等ではなく、異端との(精神的)境界領域の状況はかなり流動的であった。いいかえれば、最初からの明確なイデオロギー的ナチ派はそれほど多くなかった。そうした中心部から遠いところほど、異ったイメージの交錯にさらされ、それだけイメージの自己累積作用ははばまれていたわけである。……どの社会でも知識人の多数はこうした境界領域に住んでいる。知識人が一般に「リベラル」な傾向をもつといわれる所以である。しかしリベラルであるということが、たんに自分の外の世界からのさまざまの異った通信(ここでいう通信とはマス・メディアだけでなく、広く外界の出来事が自分の感覚に到達するプロセスを指す)を受容する心構えをもち、その意味で「寛容」であるというだけなら、それはこの境界領域の多数住民のむしろ自然的な心理状態にすぎない。……境界に住むことの意味は、内側の住人と「実感」を頒ち合いながら、しかも不断に「外」との交流をもち、内側のイメージによる自己累積による固定化をたえず積極的につきくずすことにある。

我々に残された道は、あくまでも「内側」に留まっていることを自覚し、同時に「外側」との境界に立ち続けることである。こうして丸山は、「他者をあくまで他者としながらも他者をその他在において理解すること」を呼びかける。
理想化された主体像に飛翔するのではなく、あくまで「自我の偶然性」を前提にしながら、コミュニケーションを続けていくことの重要性を強調する丸山の議論は、ハーバーマスよりはむしろ、自己の偶然性・可謬性に立脚し、「寛容」の体制としてのリベラリズムを徹底的に擁護するとともに、「啓発」活動の重要性を説くリチャード・ローティの思想を彷彿とさせる。

参考文献

井上達夫. 1986. 『共生の作法 : 会話としての正義』 東京 : 創文社.
小尾俊人. 2003. 『本は生まれる。そして、それから』 東京 : 幻戯書房.
苅部直. 2006. 『丸山眞男 : リベラリストの肖像』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 2003. 「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」『丸山眞男集〈第1巻〉1936-1940』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 1996. 「近世日本思想史における「自然」と「作為」――制度観の対立としての」『丸山眞男集〈第2巻〉1941-1944』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 2003. 「超国家主義の論理と心理」『丸山眞男集〈第3巻〉1946-1948』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 2003. 「ファシズムの現代的状況」『丸山眞男集〈第5巻〉1950-1953』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 1998. 『丸山眞男座談〈5〉1964-1966』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 1996. 「現代における人間と政治」『丸山眞男集〈第9巻〉1961-1968』 東京 : 岩波書店.
Rorty, Richard. Contingency, irony, and solidarity. Cambridge ; New York : Cambridge University Press, 1989.

2 件のコメント:

  1. 面白そう!

    来週の発表を楽しみにしています。

    キリル

    返信削除
  2. >キリルさん
    有難う御座います( ´∀`)
    これから英訳せねば…^^;

    返信削除