従来の理論物理学はほとんど例外なく「孤立系」(isolated system)の記述に徹してきた。孤立系では外部とのエネルギーのやりとりがなく、それゆえ比較的単純な微分方程式によってその振る舞いを記述することができる。しかし、現実の現象に目を向ければ、そのような完全な「孤立系」を探す方がむしろ困難である。現実の力学系のほとんどは外部に開かれており、それゆえ複雑で予測困難なパターンを生じさせる。このような複雑な力学系を我々は「非平衡開放系」(nonequilibrium open system)ないし「非線形系」(nonlinear system)と呼ぶことが出来る。
非線形系とは、一言で言えばフィードバック制御機能を内在させたシステムである。フィードバックには正と負の二種類がある。外部から得られたフィードバック情報を頼りに、システム全体は絶えず自己修正していく。正のフィードバックによって変化が促進され、負のフィードバックによって変化にブレーキがかかる。これはシステム論で言うところの「サイバネティク・システム」(cybernetic system)にそのまま相当するだろう。このフィードバック機能が、現象を記述する微分方程式の中で「非線形項」(nonlinear term)として現れるのが、「非線形系」という呼称の由来である。(非線形項については、私もまだ完璧に理解していないので、今後も勉強して参りたいと思う)。
このような系はまた同時に、「散逸系」(dissipative system) でもある。システムが散逸的であるというのは、その振る舞いが時間に関して非可逆的であることを意味する。エントロピー増大則(これは熱力学第二法則と同値である)が示すように、自然(世界)は常にエントロピー(無秩序さの尺度)が小さい方向から大きい方向へ進む。つまり、秩序から無秩序へ、構造から無構造へ、攪乱から静寂へ至る流れは非可逆的である(例えば、一回割れたコップを元に戻すことは出来ないし、混ぜたミルクとコーヒーをそれぞれ分離して抽出することもできない)。ただし、エントロピー増大則が成立するのは「孤立系」のみという条件がある。つまり、エネルギーが外部に散逸する「散逸系」では、エントロピーがむしろ減少し、混沌から秩序が生成することが可能なのである。そこでは、微小な「ゆらぎ」(fluctuation)が正のフィードバックによって増幅され、構造の「自己組織化」(self-organization)が発生するのである。
【孤立分断的記述】
しからば、このような複雑な振る舞いをするシステムを記述するには、どのような科学描写が望ましいだろうか。しばしば反還元論者からなさられる主張として、「全体は部分の単純な総和ではない」というものがある。システムに全体として現れるパターンは、システムを構成する要素をいくら詳しく調べても見出すことが出来ないという主張である。それを無視した科学は「要素還元主義」的科学として批判される。しかし、と蔵本氏は言う。
しかし、私はこの種の議論に対しては次のことにたえず注意を払っておく必要があると思う。それは、科学における「孤立分断的記述」が「全体的記述」に安易に対比されてしまうということである。多少挑発的な言い方をすれば、科学描写であるかぎり創発的性質もまた孤立分断的に記述される以外にない。創発とは部分と全体との関係に関わる概念では必ずしもなくて、対象の切り出し方に関わる概念であると私は考えたいのである。つまり、対象を通常の意味での構成要素に分解して要素記述に集中することだけが分断的記述なのではない。(pp.35)
単なる「全体論」を唱えるだけでは、第二のオカルトに陥る危険性は免れ得ない。科学というものは本質的に「同一不変の構造」を見つけ出し、これを鋭利な刃物で切り出すものである。言い換えれば、科学という営みは、同一不変なもの以外の影響(これを「境界条件」(boundary condition)という)を無視(=制御)することによって、明晰判明さを手に入れる。制御される境界条件の程度によって、科学理論に階層性が現れる。例えば、最も単純な同一不変の構造以外のすべての境界条件を捨象するのが理論物理学であり、これに段階的に境界条件を付与していく(この作業は、下位レベルの法則=不変部分における「ブランク」=可変部分にデータを入力することによって行われる)ことによって、化学、生物学、という風に複雑性のレベルが上がっていく。このとき、記述・予測の精度がある程度犠牲になるのは避けられないが、いずれにせよ「孤立分断的記述」であることは科学であるための必要条件と言えよう。
【主語的統一と述語的統一】
蔵本氏によれば、科学が見つけ出す同一不変性には、二つの基本的カテゴリーがある。すなわち、「主語的統一」と「述語的統一」である。人間が物事を理解する時、その基本的なパターンは「何」が「どのように」あるかという形であろう。科学の言語に即して言えば、「原子」や「素粒子」などの個物の概念が主語であり、それらの関係性を記述する「微分方程式」や「法則」が述語に当たるだろう。蔵本氏は、近代西欧の科学的自然認識はあまりにも主語的統一を偏重していて、その側面だけ肥大化していると言う。日本は伝統的に述語的統一が優位な文化で、西欧文明は主語的統一が優位な文化を発達させてきたとしばしば言われるが、西欧世界に起源を持つ自然科学が、必然的に主語的統一を基軸としてきたのも十分頷ける。しかし、今や非線形科学の分野では、もっと豊かな述語的統一の契機が求められている、と蔵本氏は指摘する。それは、従来のように現象を「横」から切り取る(これが自然の階層秩序を作る)のではなく、「縦」に切り取ることを意味する。
自然の様々な異なる階層において、同一の普遍構造(関係性)が見られる、というのは珍しいことではない。その重要な一例は「対称性の自発的破れ」という概念である。対称性の破れは、物質科学のレベルでも、一分子のレベルでも、超微視的な量子論のレベルでも見られる普遍的な現象である。さらに、同じ物質科学のレベルでも、物質が液体から固体に変化する際の相転移である構造相転移から、磁気相転移や超伝導転移まで、すべて対象性の破れ現象である。これらは互いに縁が薄いと思われてきたものであるが、実はすべて共通の数学的構造を持っている。このような、共通の数学的構造(=関係性)に注目して同一不変性を切り出すのが、述語的統一による自然描写である。蔵本氏の言葉を借りれば、従来の主語的統一による自然描写が、顕在的な性質の近さに基づいているという点で「喚喩的」であるのに対して、述語的統一による自然描写は、物への密着性が弱く、それらに伏在する共通構造を探る点において「隠喩的」である。そして非線形科学は、「要素的同一不変性」から「関係的同一不変性」への重心の移動を要求しているのである。
以上が、本書の第Ⅰ章「科学描写の構造」までの議論の要約である。蔵本氏の文章はとにかく分かりやすい上に、「述語的統一」の重要性を説くその議論にも大いに納得させられた。また、創発を「境界条件」の制御に関わる概念と捉える考え方も、非常に面白いと思った。
続く第Ⅱ章「非線形科学から見る自然」では、具体的な自然現象をいくつか取り上げ、実際に非線形科学の知見から解説していくのであるが、ここでは割愛する。興味のある方は是非本書を手に取ってみて欲しい。
【言葉の魔術】
本書の第Ⅲ章「知の不在と現代」において、蔵本氏は科学哲学的な議論に足を踏み入れる。理論物理学の教授ということで、蔵本氏自身は科学哲学の知見に疎いと前置きしているが、はっきり言って彼の議論からは非凡なる哲学のセンスを感じる。
例えば「物理学と心」の問題について、蔵本氏は以下のように述べている。
日常の議論において、用語の定義をしつこく問う人はいやみである。しかしながら、意識とか実在とかのわけのわからない話ともなれば、「そのような問いでもってあなたは一体何を意味しようとしているのですか」と問い返すのが一番だと思う。これによって問題が180度方向転換し、あるいは問題の虚構性が明らかとなり、不毛な哲学的議論の多くが氷解する。素人考えだが、20世紀哲学における言語論的転回と大仰によばれることの主旨は、平たく言えばこのようなことではないかと想像する。要するに、「これまで無邪気に用いてきた言葉によって、何が意味されるかをまずじっくり反省しよう。よくよく考えてみれば、言葉の意味は言葉によって言い尽くすことはできないのではないか。最終的には、その言葉の無数の使用経験に支えられた暗黙の公共的理解しか残らないのではないか」ということである。ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」はこの事情を鮮やかに示すものではないかと思う。ともかく、心・意識というきわどい領域に接近しようとする科学者は、ありもしない問題にはまり込んでしまわないよう、十分な警戒心が必要だと思う。(pp.172-173)
全くその通りだよ。「クオリア」とか「実在」といった胡散臭い哲学的議論に対しては、常に眉に唾をつけまくってかかるべし。これが、ヴィトゲンシュタインが我々に与えてくれたはずの教訓であるが、残念ながら未だに多くの哲学者がその意味を理解できていないように思う。
あるいはこれを見よ。
科学の世界においても日常世界においても、「客観的存在」とよばれるものは、譬えていえばクロスワードパズルのマスに入るべき文字に似ている。縦のヒントから予想された文字の正しさが、横のヒントによって飛躍的に強化される。縦横に加えて、それらに直交するもう一つの次元を加えた三次元のクロスワードパズルを想像すれば、第三方向のヒントもまた、確認作業をおこなうまでもなく、きっとこの答えと整合するに違いない。自然現象の総体は、三次元ならぬ超高次元クロスワードパズルにおいて、さまざまな場所におけるさまざまな方向へのヒントの集団に譬えられるだろう。フロギストン(燃素)のように、科学史上で一時期はその存在を信じられながら、やがて捨てられる運命をたどったはかない存在も、上のモデルで解釈できるだろう。多数の独立なヒントと見事に整合する、マス中の文字に相当するものを、これまではあえて同一不変性をよび、客観的実在とはよばなかった。その理由の一つは、主観・客観の形而上学からできるだけ身を遠ざけておきかったからである。しかし、物心二元論の虚構性に捕捉される心配がなくなれば、これを客観的実在とよんでも差し支えない。それは単に、すでに述べたような意味で同一不変な事象のクラスを、約束事として客観的実在とよんだまでであって、それ以上の超越的意味をこの言葉にあたえているわけではない。科学としては、もちろんそれで十分である。(pp.177-178)
これは私の「プラグマティック実在論」を彷彿とさせる。主客二元論が虚構とまでは言わないものの、「客観的実在」には超越的な意味を付与せず、あくまで「もっともらしい」限りにおいてその実在を信じる、という私の立場に非常に近いものを感じる。
【自律分散システム:市場秩序の分析へ】
最後に蛇足として、私が特に興味のある分野へ話を繋げてみたい。すなわち、自律分散システムとしての市場秩序の分析である。例えば、以下の文章は興味深い。
最近、「自律分散システム」の工学、「創発システム」の工学などというものが注目されている。そこでは自然的になさられる境界条件の制御が、しばしば人為的な制御をはるかに凌駕する見事さを示すという事実にまず注目する。生命過程を彷彿とさせるような、柔軟性に富んだ高度な機能をもつ人工システムを設計するためには、境界条件の制御における人為性の度合いを減らし、むしろ自然的制御に任せる部分を多く取り入れることが有効であり、大きな可能性をもつという思想がそこにある。(pp.52)
これはまさに、ハイエクが市場秩序について言い続けたことそのものである。市場は、複雑なパターンを生成させる非平衡開放系であり、また我々の設計能力を遥かに凌駕する見事さを示す自律分散システムである。これからは、市場を複雑系として分析する研究がますます重要になってくるだろう。私も手始めに、複雑系経済学の日本における権威である塩沢由典の著書『市場の秩序学』に挑んでみたいと思う。
阿蘇の史(さかん)さんはすごい。
返信削除>通りすがりさん
返信削除有難う御座います(`・ω・´)