【背景―プラグマティズムの動機】
我々の概念の対象が、行動と関わりがあるかもしれないと考えられるどんな効果を持つと我々が考えるか、ということを考察してみよ。そうすれば、こうした効果に関する我々の概念が、その対象に関する我々の概念の全体と一致する。(p.132)
難解な文章であるが、これが1878年の論文「我々の観念を明晰にする方法」("How to Make Our Ideas Clear")の中で初めて定式化された、C・S・パースの有名な「プラグマティズムの格率」(pragmatic maxim)である。この格率は、(論文のタイトルにあるように)我々の観念ないし概念を明晰にする方法を示している。平たく言えば、ある概念の意味は、それがもたらすと考えられる実際的な効果によって決まる、ということである。パースによれば、我々の概念にはこうした実際的な効果を超えた如何なる意味もない。したがって、実際的な効果において同等であれば、概念の意味も同等ということになる。こうした実際的な効果との関連を明示することによって我々の概念を明晰化することができるわけであるが、パースにとってこの格率は論理学の第一ステップであり、論理学を前進させようという見地から導入されたものである。この場合のパースの基本的な狙いは、彼が「科学の方法」(method of science)と呼ぶ思考法によって、デカルト以来の近代哲学の思考法を克服することにある。このことを論じているのが、「我々の観念を明晰にする方法」に先立つこと一年、1877年に発表された「信念の固定化」("The Fixation of Belief")である。したがって、この「信念の固定化」という論文は、パースのプラグマティズムの背後にある動機を示す重要な研究と言える。このことを念頭に置きながら、以下本論の論旨を追っていきたい。
【論理学の問い】
「信念の固定化」が答えようと試みているのは、パースが「論理学の問い」(the logical question)と呼んでいる問い、すなわち「我々はいかなる方法によって探究を行うべきか」という問いである。この問いに対する答えを案出するにあたって、まずパースはこの問いを問うこと自体が前提とせざるを得ない事実をいくつか指摘する(p.113)。すなわち、(1) 我々の精神の状態には懐疑(doubt)と信念(belief)という二つの異なった状態があること、(2) 懐疑から信念への移行が可能であること、(3) 懐疑から信念へ移行するに際しての認識対象たる事物が同一に留まっていること、(4) 懐疑から信念への移行はある規則に従ってなされており、この規則はすべての人間が共通して従うところのある精神の習慣(habit of mind)であること、である。これらの事実は、我々の「推論」(reasoning)という概念に予め含まれているがゆえに、我々の探究における様々な推論の妥当性を問うにあたって、前提とされざるを得ないア・プリオリな原則である(p.113)。こうした原則のことをパースは「指導原理」(guiding principle)と呼び、その一例として帰納の原理を挙げている(p.112)。パースにとって哲学への入り口はカントであったが、「現実に観察される事実が可能であるためには、いかなる条件が成り立っていなければならないか」を考察するという、ここでのパースの方法には、カントの超越論哲学の深い影響を見て取ることができる。
【懐疑と信念】
さて、探究に随伴する基本的な精神状態として、懐疑と信念という二つの異なる状態が認められるのであった。しかし、この両者の相違はどこにあるのだろうか(p.114)。まず、(1) 両者のそれぞれの内的な「感じ」による相違が認められる。さらに一般的な相違として、(2) 信念は我々を行動へ駆り立てる指針の役割を果たすが、懐疑はそのような役割を果たさない、という実際的効果における相違が認められる。また、(3) 我々は懐疑の状態を避け、信念の状態へ至ることを求める、という相違がある。パースの議論にとって重要なのは(2)と(3)であると言える。というのも、(2)と(3)から次のことが帰結するからである。すなわち、「信念とは、行為への傾向性であるところの習慣が確立している状態であり、懐疑は、そうした状態を目指すための刺激の役割を果たす」。懐疑を誘因として起こり、信念を以て停止するこの運動を、パースは「探究」(inquiry)と呼んでいるのである。とすれば、探究の唯一の目的は信念の固定化であり、真理の把握などではないことになる(p.115)。パースによれば、探究者にとって「真理」と「真理と信ずる信念」は区別不可能であり、「探究は真理の把握を目指す」という命題には、「探究は信念の固定化を目指す」という命題以上の意味は見出されないのである(p.115)。
【探究の四つの方法】
以上の考察によって「類」としての探究の本性が明らかにされた。次は、この類に属する「種」としての様々な探究の様態が区別され、それぞれ吟味される。パースが最初に取り上げるのは、「固執の方法」(method of tenacity)である(pp.115-116)。これは、ある個人が、自分がすでに有している信念を強固にする事柄にのみ固執し、それを疑念に晒す恐れのある事柄からは徹底的に目を背けるという方法である。この方法はしかし、我々の社会的・共同体的存在様式に反する。というのも、他人が自分とは異なる信念を有していることに、誰しもいつかは気付かざるを得ず、これが自然と自分の信念に対して疑念を誘発するからである(pp.116-117)。ならば、ある共同体全体で固執の方法に相当する方法を採れば良いのではないか。これがすなわち「権威の方法」(method of authority)である(p.117)。これは、ある共同体に共通する教義を設定し、この教義に反する説を排除する権利を、共同体の権力者に委ねる方法である。こうした排除がしばしば暴力を伴うこと、またそれが信念を固定化する方法として極めて効果的であることが、歴史的に知られている。しかし、この方法もまた、その共同体とは別の教義を信奉する他の共同体(あるいは同一共同体の過去の姿)との邂逅によって挫折する。第三に、「先験的方法」(a priori method)がある(pp.118-119)。[*] これは、有限な共同体を超えて、人類の思考に共通する推論原理が存在するという前提を認め、精神そのものの本性から洞察を導こうとする方法である。これは、ある命題が「理性に適う」ことをその命題の妥当性の基準とする方法である。この方法によって、極めて重要な哲学的論証がこれまで提供されてきたものの、我々の探究を一種の「趣味」(taste)の問題に帰してしまうという問題を孕んでいる。パースが最後に取り上げる方法、すなわち「科学の方法」は、この問題を克服する。この方法は、それに従って得られた我々の信念が、「人間的なものの内に原因を有さず、外的で永続的なもの(external permanency)、つまり我々の思考が決して影響を及ぼすことのないものの内に原因を有する」ような方法である(p.120)。言い換えれば、事実以外のいかなる事情にも我々の信念を依存させないような方法である。
【実在仮説】
科学の方法は、ある根本的な仮説を要請する。その仮説とは、我々の思考が影響を及ぼすことのない、外的な対象が現に実在するという「実在仮説」である(p.120)。この仮説は科学の方法が可能であるための条件であるから、科学の方法によってその正しさを論証することはできない。ならばその正しさはいかにして保障され得るだろうか。この疑念に対してパースは四つの返答を挙げているが、このうち第二の返答に注目したい(p.120)。我々がそもそも信念の固定化を目指すのは、信念が不整合であることに満足できないからである。そして我々が不整合な信念を嫌うのは、相反する命題が同時に真であることはありえないことを、我々は知っているからである。「しかしここにすでに、命題が従うべきある一つの事物が存在するという、暗黙の承認がある」(p.120)。我々が、信念の固定化を目指す、つまり探究を行うという事実のうちに、すでに実在仮説が前提されている、というわけである。換言すれば、「我々はいかなる方法によって探究を行うべきか」という問いを発するとき、その問い自体に、答えの手掛かりとなる命題の承認が含まれているのである。
[*] 上山春平訳(『世界の名著』第48巻「パース・ジェイムズ・デューイ」収録)では「先天的方法」と訳されているが、この訳は良くない。「先天的」と言えば通常、「生まれつき」という意味であるが、ある概念がa prioriであると言うとき、その概念が「生まれつき」保持されているかどうかとは全く無関係だからである。ラテン語から直訳すればa prioriは「先に来るもの」という意味であるが、この言葉が哲学で使用されるときは、通常カントの用法に従って使用される。すなわち「経験に先立つ」という意味である。例えばカントにとって、時間や空間、あるいは因果関係といった概念は、経験によって知られるのではなく、経験そのものを可能にする認識の形式であり、そういう意味で「経験に先立つ」と言われるのである。決して「生まれつき」と言ったような意味ではない。したがって、a prioriを訳す場合は「先験的」とでも訳した方が良いだろう。
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