一人称視点って何なのか、割と分かりやすいと思うんだけど、三人称視点って何なのか、って聞かれると答えに窮する。一人称視点から徐々に生じるのは間違いない。しかしどうやって生じるのか?そして精神と物体は、これら二つの視点とどう関係している?
まず一人称視点について考えてみる。ある被験者に光を見せ、どこに光が見えるかと問うと、彼らは自分の頭を指すのではなく、光源の位置を指す。つまりクオリアは、被験者の視点から見れば脳内にあるのではなく、対象の位置にある。というより、そもそもクオリアとは、一人称視点から見た物質的対象に他ならない。一人称視点から見れば、あらゆる経験は「私」の経験であるという意味で、「世界は私の中にある」と言える(このような反省的了解は必ずしもないにせよ)。ここではクオリア=物体である。
さて、発生論的に考えると、一人称視点に対して現われる様々な知覚経験の中から、相対的に永続的な要素と、相対的に流動的な要素とが区別され始める。主観と客観の区別の出現である。例えば、空間や時間の座標変換に対して不変に保たれる構造を見出すと、我々はその構造を一つの個物として同定する。実際の主観/客観区別の出現はもっと複雑な要素が色々絡み合っていると思われるので、ここでは割愛する。
いずれ、自分の身体とよく似た構造を知覚経験の中に見出すようになる。すなわち同胞の生命体である。そしてどうやら、これらの同胞たちも、自分と同じように世界を知覚しているらしい、ということを複雑なプロセスを経て学習する。ここに至って「一つの世界」と、それを眺める「複数の主観」という発想が生まれる。これが三人称視点に他ならない。「精神」とは、三人称視点から他者(同胞生命体)の振る舞いのパターンを観察し、それを手掛かりに、他者も自分と同じように世界を経験をしているに違いない、という類推の結果生じる概念。自分に対して「精神」の概念を適用することも可能だが、ここで言う「自分」とは、あくまで三人称視点から見た自分である。さて、問題は次の通りとなる:物体とは何か?
(暫定的回答:おそらく、錯覚や認知上の誤謬に遭遇し、主観と客観の分離が進行したのに伴って、思考によって改変したり破壊したりすることができず、かつ安定的、永続的に持続する経験の要素が「客観」の側に括られ、それ以外が「主観」の側に括られ、そして前者が「物体」と名付けられたうえで実体化された「精神」概念にjuxtaposeされたのだろう)。
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