以下、頁番号はすべてThe Philosophy of Science (Oxford Readings in Philosophy)のもの。
二つの理論があって、経験的帰結だけではどちらの理論が正しいかを決定できないとき、実証主義者はこう考える:同じ経験的帰結をもたらす二つの理論は等価である。(これを実証主義の等価原理と呼ぶ)
この考えは一見説得的だが、Sklarによると、理論的対象(原理的に観測不可能な対象)に対する反実在論的な態度を伴う。例えば電子に対して存在論的にコミットする理論と、単に道具主義的に扱う理論とが、「現象を救う」限りにおいて等価になってしまう。実在論者としては、これを回避したいが、そのためには実証主義の等価原理よりも強い何らかの理論の等価性の条件を案出しなければならない。
【構造的同型性】
Sklarが提案するのは、二つの理論の間に構造的な同型性があること。
Two theories might have all the same observational predictions but be so radically different in their structure at the theoretical level that one ought to take them as attributing (realistically) quite different explanatory structures to the world. (p.67)
Together, these two features of the theory, commonality of observational consequences and the existence of the appropriate structural mapping at the theoretical level, are taken to be enough to establish theoretical equivalence. (p.66)
しかし、この条件には難点があるとSklarは言う。デカルト流の、欺く悪霊の想定や、水槽の脳のような想定が、通常の実在論的な記述と等価になってしまうという点である。これだと実証主義に接近し過ぎだとSklarは指摘する。
For if the brain-in-a-vat account of the world is really equivalent to the ordinary material object world account, so long as the brain-in-a-vat account is suitably formally structured, then have we really gotten very far from merely saving the phenomena as sufficient for theoretical equivalence? (p.70)
→ これに対しては、次のように答えることができる。もし存在論的なコミットメントに関して異なる二つの理論が構造的に同型であるならば、その二つの理論は等価である。構造を離れた何らかの存在者を想定する必要はない、と。「欺く悪霊」の理論は、我々の通常の世界記述を、ミスリーディングな言い回しで言い換えたものに過ぎないのではないか。
【理論の決定】
経験的なレベルにおける等価性よりも強い等価性の条件を主張すると、理論選択の合理化の問題が再浮上する。
Taking equivalence to demand more than commonality of observational consequences, the realist is faced with the threat of skepticism which arises when he tolerates inequivalent theories having all their observational consequences in common. (p.73)
例えば理論の単純性や、過去の理論との連続性といった基準が考えられるが、実在論者は、その基準が合理的である理由を説明する必要がある。
→ 思うに、この点が問題になるのは、観察可能/観察不可能という区分を、Sklarが真に受け過ぎているから。彼は、観察可能性と検証可能性とを混同している。前者は後者を含意しない。というのも、観察不可能だが間接的に検証可能な事例は数多く存在するから。例えば、電場。電場は直接観察不可能だが、真空中の荷電粒子が加速されるのを観察できれば、荷電粒子に力を及ぼす空間の性質が存在すると結論できる。これを我々は電場と呼んでいるわけだ。要は、検証可能性は観察可能性よりも広い概念だということ。そして、Sklarの想定する実在論者に反して、この広い意味の検証によっても区別できない二つの理論があれば、その二つの理論は等価であると主張しても良いのではないか。今の私に擁護できるテーゼではないが、次のように主張したい:同じ経験的帰結を含意する二つの理論は、構造的にも同型である。つまり、構造が異なれば、その違いは必ず(間接的にであれ)検出可能だということ。
【説明】
理論の決定問題は、データから理論へ向かう「上向き」の問題であった。次は理論からデータへ「下向き」へ向かう説明の問題を考える。ある理論のCraigian還元、つまりその理論の観察可能な帰結をすべて述べる文への還元を考える。実在論者は、Craigian還元が、元の理論と等価、あるいは元の理論よりも単純で優れた定式化であるという結論を回避したい。そのために、実在論者は、Craigian還元には説明力がないと主張する。
Theoretical postulation, we are told, does not merely summarize observational generality nor accommodate it in a compact syntactical form. Theoretical postulation is taken to explain the observational generality. Hence the mere statement of that generality is, in a fundamental sense, totally devoid of any real explanatory power. (p.76)
しかし、「説明力」とは何であろうか。少なくとも、(経験的等価性に加えて)構造の同型性を理論の等価性の十分な条件と見なすような実在論者にとっては、このような観察可能な事実を超えた「説明力」の概念は収まりが悪い。
I want to argue that there is a fundamental tension between the realist's desire to posit a notion of explanation over and above that adopted by the positivist, and his desire to maintain a theory of the meaning of theoretical terms which allows for the notion of theoretical equivalence we have been discussing. (p.77)
理論的な対象や性質を措定することによって、現象に一体何が加わるのか?という問いに対する答えの一つの候補は、「統一」である。例えば、慣性運動が特権的な運動状態として観察されることから、時空構造そのものを、運動する物体から独立の実体として措定するケースを考える。物理的系と、その背後にあるこの時空構造との関係によって、慣性運動と非慣性運動の力学的・光学的な差異が説明される。実在論者によれば、かくして多様な現象が、一つの形式の元に統一される。
これに対する実証主義者の反論:
The appearance of additional explanatory value in the substantivalist spacetime account, over the purely relationist theory, is due to the fact that while the reference to spacetime itself is really introduced only in the holistic-place-in-the-theory manner of the realist we have been emphasizing, the naive picture of spacetime as a kind of "ghostly" substance, sort of like a thin "rigid" extended material thing, gives us the impression that we are getting an explanation like that which the other kind of realist would offer. (p.78)
これは全くその通りと思われる。結局、
[T]his notion of theoretical meaning [as holistic place in the theory] and of theoretical equivalence [as observational equivalence + structural isomorphism] ... suffers also from the difficulty of making it hard for us to see just what it is that is explanatory in a theory, or in any of its equivalents, which is not already there in the allegedly nonequivalent and non-explanatory Craigian reduction of the theory so beloved of positivists. (p.79)
Craigian還元でもなく、理論外からの意味の輸入に依存するような説明でもない、二つの極端の間を行く何らかの「統一」の概念が必要と考えられる。
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