2013年8月11日日曜日

科学社会学と相対主義

科学社会学自体は非常に興味深いテーマを扱っているものの、「科学の客観性に対して疑問を投げかける」といったような動機で為されることが多いために、そうしたイデオロギーを共有できない私のような人間にとって、気持ち良く(不快感なしに)読める文献を探すのが難しい分野でもある。研究者たるもの、賛同できない学説に対しても淡々と、虚心坦懐に向き合うべし、と言われるかもしれないが、現実的な問題として、当該分野の学習に非本来的かつ不要な負荷がかかってしまう。唐揚げにレモンを勝手にかけないで欲しいのである。[1]

科学社会学周辺の論者が何らかの形の相対主義に走りやすいのは、科学活動が様々な制度的要素に規定されているという「形式」の側面にばかり目を奪われて、科学の「内容」を見ようとしないからだと思われる。一般的に言って、ある現象のメタ・レベルからの特徴付けは、グラウンド・レベルにおける当該現象の理解可能性を損なってはならない。科学の内容を考量に入れれば、それは相対主義的解釈(社会構築主義など)とは相容れないことが分かるはずである。いわば、内容が形式を内側から破壊してしまうのである。さらに、科学社会学自身も科学の一つの分野であるから、科学的知識の妥当性を社会的文脈に対して相対化するというメタ視点からの条件付けは、その妥当性が相対化されるべき当の知識の妥当性を前提してしまっており、結局自己論駁に陥っている。

相対主義的解釈がこうした誤謬を犯すのは、発見の文脈と妥当性の文脈を混同しているからだと思われる。ただしここでいう「発見の文脈」と「妥当性の文脈」の区別は、論理実証主義者がよく持ち出す、context of discoveryとcontext of justificationの区別とは少々異なる。[2] 論理実証主義の発見/正当化の区別は、科学的探究に関する独自の理論を前提としている。すなわち、科学的探究にははっきりと同定できる「発見」のプロセスと「正当化」のプロセスがあり、前者には論理的・形式的に分析可能な構造はないが後者にはある、という理論である。こうした理論は、Thomas KuhnやN. R. Hansonら「新しい科学哲学」の興隆とともに廃れてしまった。しかし私の言う発見/妥当性の区別は、単なる抽象的な視点の違いであって、科学的探究のプロセスに関する独自の理論を含意しない。私の言う発見/妥当性の区別は、ある発見や理論について問われている問いの違いに過ぎない。つまり、「この理論はいかにして発見されたか」という事実に関する問いと、「この理論は正しいか」という評価的な問いとの間の区別である。「発見の文脈」と「妥当性の文脈」の区別にこれ以上の実質を持ち込む必要はない(「妥当性の文脈」と言い換えたのは、論理実証主義が想定する狭い意味での「正当化の文脈」から差別化するためである)。

さて、この区別に照らせば、相対主義の主張に反して、科学活動が制度的要素に規定されていることは、科学的知識が客観的妥当性を有さないことを意味しない。事実的言明である前者から評価的言明である後者を導出することは、二つの異なる問いの混同に基づいている。私はむしろ、科学活動が多分に社会的・慣習的要素を含んでいるにも関わらずそれが可能であるという事実に、一種の神秘を見る。科学共同体の伝統を内在化した個人が、精神の自由な創造によって編み出した知が普遍性を持ち得るという一見パラドクシカルな事実に、自然と理性の神秘的な調和を見ることも十分可能であろう。



[1] もっとも、唐揚げに関しては私はレモンをかけたい派であるが。

[2] cf. Hoyningen-Huene, Paul, "Context of Discovery Versus Context of Justification and Thomas Kuhn" in Revisiting Discovery and Justification: Historical and Philosophical Perspectives on the Context Distinction, eds. Jutta Schickore and Friedrich Steinle. Springer, 2006.

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