2011年6月8日水曜日

丸山眞男とリベラリズム

【「リベラリズム」とは何か】

「リベラリズム」という語は非常に抽象性が高い。一般的に「リベラリスト」と形容される論者の多彩さを想起すれば分かるように、「リベラリズム」が指すとされる思想の形態は実に多岐に亘る。討議の倫理を引っ提げて「コミュニケーション的理性」の重要性を説くハーバーマスのような論者から、政府による経済への介入を排した市場メカニズムを重視する「リバタリアン」まで、「リベラリズム」の射程は極めて広い。そこで、本論における「リベラリズム」の定義として、井上達夫のそれを借用したい。井上氏は『共生の作法 : 会話としての正義』において、リベラリズムのアイデンティティを、個別の論者が提示する「解答」の内容的類似性にではなく、「問い」のレベルでの共通性に見出している。すなわち、「善の諸構想の多元性を所与として承認せざるを得ない状況において、社会的結合はいかにして可能か」という問いである。言い換えれば、多様な価値観や信念が相競合する社会において、我々は如何なる共生の道を引くことが出来るか、という問いこそが、リベラリズムの「自同性の根」をなすというのである。

【丸山眞男のリベラリズムの確立】

この定義に従えば、我々は丸山眞男を立派なリベラリストと見なすことができる。というのも、彼は戦前の助手時代から一貫して、公私の領域を分離し、全体を管制する政治権力の下で、様々な「私的」な活動が自由に展開する「寛容」の体制としての、近代社会のあり方を積極的に擁護しているからだ。こうした丸山の思想が確立されていった過程を、以下に概観しておきたい。(なお、この箇所は苅部直『丸山眞男 : リベラリストの肖像』に多くを負っている)。
まず、助手時代の初めての論文、荻生徂徠を中心に徳川時代の思想史を通観した「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」において丸山は、「政治」が支える制度に枠付けられた秩序の下で、「諸々の文化価値の独立」がなされ、信条の赤裸々な解放と、様々な信条への「寛容」が確立することが「近代意識の成長」だと説き、荻生徂徠から本居宣長に至る思想の系譜にその萌芽を見出している。しかし、この段階では「個人の自由」を秩序の前提条件に位置付けるには至っていない。
続いて助教授に昇進した後に書かれた第二論文「近世日本思想史における「自然」と「作為」――制度観の対立としての」で丸山は、秩序を人間の「作為」によって基礎づける徂徠の「作為の原理」――むろん、徂徠が考える「作為」の主体は古代の「聖人」と代々の為政者に留まるが――から、西洋の社会契約説を抽出する。この論文で丸山は、「政治的なるもの」が成立する以前に、どんな公的権力も侵してはならない道徳秩序が存在するはずだと説いている。つまり、「私的」な領域における個人が、「自由」や「通義」(rightの訳語)といった共通の価値を信奉し、これを守るために他者と約束を取り結び(=作為)、「人間仲間」(societyの訳語であろう)を結成する、というのである。このようにして、お互いの「主体性」を承認し合う対等な「仲間」の道徳秩序が成立し、ここに個人の自由が確保される。
おそらく、このように論じるときの丸山の脳裏にあったのは、当時の日本の状況であろう。戦時中の強力な統制下でも、人々は抵抗の意識を持たず、むしろ上位権力へと随順し、見境なくこれと同化していく。このような「ずるずるべったり」の関係性は、人々の主体性の欠如と、その必然的帰結としての「人間仲間」秩序の不在に由来すると言えよう。こうした日本人の伝統的な精神構造への批判は、戦後の論文「超国家主義の論理と心理」においてなされ、この論文によって丸山の名が論壇や文壇に広く知られるようになる。

【転倒された義務論】

安易な図式化かもしれないが、リベラリストは、リベラルな社会を擁護するその根拠によって、「義務論者」(自由ないし権利の超越的な価値に訴える論者)と、「帰結主義者」(自由ないし権利を尊重する社会の方が結果として人々が幸福になる、と主張する論者)とに大別することが出来るだろう。例えばカント、ロック、J.S.ミル、ノージックらは義務論者に、ハイエク、フリードマン、ローティらは帰結主義者に分類されるだろう。「どんな公的権力も侵してはならない道徳秩序」の存在を説く上の丸山の議論を見れば、彼は一見義務論者に見える。しかし、丸山の自由観は、無条件に自由の価値を礼賛する義務論者のそれとは一線を画す。いな、丸山はもっとニヒリスティックで老獪である。丸山が感銘を受け、ノートに写して暗記したというハンス・ケルゼンの言葉が、丸山自身の自由観を如実に表していると思う。ケルゼンの論文「プラトンの正義論」の末尾の一節を、丸山は以下のように口頭で要約している。(丸山眞男集の編集者、小尾俊人の筆録による)

絶対の正義は存在しない。しかし人は執念を持つものだ、それによって動くのだ、それがどんなにイリュージョンであっても、イリュージョンの方が現実より強い。人間というものは、たとえ血と涙の道であってもプラトンの道を歩むのだ。

相対主義的なニヒリズムに晒されている現代人にとっては、プラトンのように絶対的な真理や正義の実在を確信するのは難しいかもしれないが、強大な権力に対抗するためには、人々は敢えて幻影としての「自由」や「権利」に訴えざるを得ない。逆説的だけれど、「絶対の正義は存在しない」としても、我々は超越的な価値を棄て去ることはできないのである。のちの座談会で丸山は以下のように語っている。

もし経験的事実として目の前に映る世界がすべてになってしまって、それをこえた目に見えない権威――神であっても理性であっても「主義」であってもいい、とにかく見えざる権威によって自分がしばられているという感覚がなくなったら、結局は見える権威に――これまた政治権力であろうと、世論であろうと、評判であろうと――ひきずられるというのが、私の非合理的な確信なんです。

メディアのもたらす情報洪水の中に漂う、現代大衆社会の人間は、もはや何が本当の自分の思考なのか分からなくなり、足元には価値の相対性とニヒリズムが纏わり付いてゆく。このような時代の中、敢えて自由の価値を信奉し、声高にこれを唱える丸山は、まさに「転倒された義務論」者と言えよう。

【自我への問い直し】

丸山の論文は繰り返し「公共の問題を討議すること」や「自発的結社」の意義を強調する。例えば1953年の論文「ファシズムの現代的状況」は以下のように結ばれている。

これ[ファシズムの強制的同質化を準備する素地]に抵抗するためには、国民の政治的社会的な自発性を不断に喚起するような仕組みと方法がどうしても必要で、そのために国民ができるだけ自主的なグループを作って公共の問題を討議する機会を少しでも多く持つことが大事と思われます。ファシズムが一番に狙ったのが労働組合を先頭とする自主的結社であることは、それ自身、こうしたグループが国民の受動的なマスへの転化を食いとめる機能のいかに重要な担い手であるかを物語っているものといえましょう。

このような議論を見れば、我々は直ちに「コミュニケーション的行為」の重要性を説くハーバーマスとの共鳴関係を見出すだろう。確かに、丸山とハーバーマスは共通するところは多い。権力による「人間仲間」秩序および個人の内面世界への侵入を批判する丸山と、「システム」による「生活世界」への侵入に警鐘を鳴らすハーバーマスとの理論的・思想的類似性は、おそらく偶然ではあるまい。しかし同時に、我々は両者の差異にも注目しなければならない。すなわち、言語使用に内在する「コミュニケーション的理性」に立脚し、「理想的な発話状況」を不断に目指すハーバーマスに対して、丸山は「理性的な主体」という(近代主義が想定するような)人間像にあくまで懐疑的である。特に戦後アメリカで行われたヒステリックな共産党員狩り(レッド・パージ)にショックを受けた丸山は、以後この懐疑的傾向を強めていく。
1961年に書かれた論文「現代における人間と政治」で丸山は、チャールズ・チャップリンの映画『独裁者』にある、飛行機に乗り雲海の中を進んでいく主人公が、機体が上下逆さまになっているのに気付かないシーンを取り上げて、実は現代の人間はこうした「逆さの世界」に住んでいるのが今や常態であると述べている。つまり、国家や様々な組織の内側に住む人間は、その内部だけに浸透するイデオロギーや「常識」によって、世界を見る目が初めから一定の「イメージ」の眼鏡を被せられているのである。今や丸山にとって、誰もが自分の世界の外に出て、人類全体の共通空間で語り合えるとするハーバーマス的なコミュニケーション論は、単なる理想論でしかない。ならば、我々は如何にして「外側」の住民の声に耳を傾けることができるであろうか。
ナチスドイツにおいて行われたグライヒシャルトゥング(強制的画一化政策)を取り上げながら、丸山は同論文で以下のように述べている。

ナチの場合においてもイデオロギー的分布は、同じ内側(正統)の世界でも中心部と周辺とでは均等ではなく、異端との(精神的)境界領域の状況はかなり流動的であった。いいかえれば、最初からの明確なイデオロギー的ナチ派はそれほど多くなかった。そうした中心部から遠いところほど、異ったイメージの交錯にさらされ、それだけイメージの自己累積作用ははばまれていたわけである。……どの社会でも知識人の多数はこうした境界領域に住んでいる。知識人が一般に「リベラル」な傾向をもつといわれる所以である。しかしリベラルであるということが、たんに自分の外の世界からのさまざまの異った通信(ここでいう通信とはマス・メディアだけでなく、広く外界の出来事が自分の感覚に到達するプロセスを指す)を受容する心構えをもち、その意味で「寛容」であるというだけなら、それはこの境界領域の多数住民のむしろ自然的な心理状態にすぎない。……境界に住むことの意味は、内側の住人と「実感」を頒ち合いながら、しかも不断に「外」との交流をもち、内側のイメージによる自己累積による固定化をたえず積極的につきくずすことにある。

我々に残された道は、あくまでも「内側」に留まっていることを自覚し、同時に「外側」との境界に立ち続けることである。こうして丸山は、「他者をあくまで他者としながらも他者をその他在において理解すること」を呼びかける。
理想化された主体像に飛翔するのではなく、あくまで「自我の偶然性」を前提にしながら、コミュニケーションを続けていくことの重要性を強調する丸山の議論は、ハーバーマスよりはむしろ、自己の偶然性・可謬性に立脚し、「寛容」の体制としてのリベラリズムを徹底的に擁護するとともに、「啓発」活動の重要性を説くリチャード・ローティの思想を彷彿とさせる。

参考文献

井上達夫. 1986. 『共生の作法 : 会話としての正義』 東京 : 創文社.
小尾俊人. 2003. 『本は生まれる。そして、それから』 東京 : 幻戯書房.
苅部直. 2006. 『丸山眞男 : リベラリストの肖像』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 2003. 「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」『丸山眞男集〈第1巻〉1936-1940』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 1996. 「近世日本思想史における「自然」と「作為」――制度観の対立としての」『丸山眞男集〈第2巻〉1941-1944』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 2003. 「超国家主義の論理と心理」『丸山眞男集〈第3巻〉1946-1948』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 2003. 「ファシズムの現代的状況」『丸山眞男集〈第5巻〉1950-1953』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 1998. 『丸山眞男座談〈5〉1964-1966』 東京 : 岩波書店.
丸山眞男. 1996. 「現代における人間と政治」『丸山眞男集〈第9巻〉1961-1968』 東京 : 岩波書店.
Rorty, Richard. Contingency, irony, and solidarity. Cambridge ; New York : Cambridge University Press, 1989.

2011年5月28日土曜日

【書評】 ハイエクと現代リベラリズム : 「アンチ合理主義リベラリズム」の諸相 (渡辺幹雄)

本書は渡辺幹雄の処女作『ハイエクと現代自由主義 : 「反合理主義的自由主義」の諸相』を改訂・増補・改題したものである。本書を読んで、渡辺幹雄という男はやはり天才以外の何者でもないという以前からの確信がさらに強まった。否、その独特の軽やかな語り口、捻くれたユーモアのセンス、そして何よりもハイエクらアンチ合理主義リベラリストたちの錯綜する議論を分かりやすく整理し、見事に調理していく手腕を見れば、むしろ「鬼才」という呼称が相応しいかもしれない。特に、新たに増補された付章一「複雑さと社会科学――ハイエクの方法論に関する試論」は貴重な知見に溢れていて、この章だけのために本書を読む価値はある。

【序論「リベラリズムとは何か」】

まず序論「リベラリズムとは何か」において渡辺氏はこう啖呵を切る。

リベラリズムは本来「反自然的」なのである。それがhuman natureの開花であろうはずがない。前期ロールズに受け継がれた啓蒙主義のリベラリズムは、その実human natureの神話に立脚した詭弁なのである。我々にリベラルであることを要求(強要)するのはそのhuman natureではなく、我々の直面する客観的境涯である。誰も好きこのんでリベラルになどなりはしない。ウォーリンが言うような悲観的境涯を生き抜くために、人は仕方なく、やむをえずリベラルになるのである。(p.13)

リベラリズムに人間の幸福を問うのはお門違いである。リベラリズムは幸福のためのガイドラインではなく、破滅を避けるための政治的知恵である。幸せになりたい人は、別のところに相談に行くべきであろう。リベラリズムにそれを求めても、期待は裏切られるだけである。(p.14)

渡辺氏のこのリベラリズム観には満腔の賛意を表したい。このリベラリズムは、前期ロールズに代表されるような、包括的な哲学や人間の普遍的道徳性に立脚したアメリカン・ハッピー・リベラリズムではない(このリベラリズムでは、リベラルな社会は「定義によって」幸福なのである)。否、ハイエク、ポパー、オークショット、M・ポランニー、バーリンに代表されるこのリベラリズムは、「敗北のリベラリズム」、「絶望のリベラリズム」なのである。

その通り、彼らは暗い。少なくとも、彼らの著作に(ときに笑えても)明るい夢や希望を見出すことはできない。いな、よく言えば老獪で、悪しく言えば嫌味な加齢臭の漂う「年寄りの説教」というのが妥当なところだろう。彼らのメッセージの最大公約数は、私にはこう響く。「鼻息の荒いお若いの、おまえの理想は高邁で、その原理原則は高潔だ。だが残念なことに、人間もこの世界も、おまえの言うようにはできていない。もしおまえの夢が現実になったら、この世は地獄になるだろう」。(p.7)

渡辺氏は彼らのリベラリズムを「アンチ合理主義リベラリズム」と呼び、本書ではハイエクを主軸に彼らの思想を一人ひとり読み解いていく。ハイエクを取り巻く重要思想家たちと対比させながら、ハイエク自身の思想に周縁から徐々に迫っていくという、本書のこの構成は間断を許さない。以下では、特に興味深かった論点をいくつか抽出してみたい。


【<P=O図式>の呪縛】

ハイエクに対するありがちな批判の一つに、彼が悪しき「経済主義」ないし「物質主義」の旗振り役だと言うものがある。例えばオークショット研究者ポール・フランコは、ハイエクがリベラルな政治社会を、それが生産性を向上させ、広く経済活動の効率を高める(経済主義・物質主義)がゆえに支持している、つまりハイエクのリベラリズム擁護は、経済的動機によってなされており、これが政治理論としてのリベラリズムを汚している、という旨の主張をしている。しかし、渡辺氏も指摘しているように、これはフランコが、ハイエクの経済思想に対して無理解であることを自ら露呈している。そこで渡辺氏は、ハイエクの経済観を説明するために、<P=O図式>という概念を導入する。

アリストテレスの学問分類によれば、経済(economy)はオイコス(家政)としてつねに政治(ポリス)に服従するべきものとされる。オイコスは人間の動物としての必要を満たす領域、換言すれば、必然性に拘束された不自由な私的空間――プライベート、すなわち人間の人間たる意味を「奪われた」(privatus)空間――であり、それに従事すべきは存在論的に未完成とされた女、子供そして奴隷であると言われた。これに対して、政治は人間(正しくは成人男子)の本質が開花する自由な公的空間であり、そこにおいてこそ人間が完全な人間として形成される(人格陶冶の)場であると考えられた。したがって女は男に、オイコスはポリスに、そして経済は政治に服するべきなのだ。今この図式を<ポリス=オイコス図式>(以下<P=O図式>とする)と呼ぶとすれば、この図式は――その冒頭の性差別的存在論を除いて――現代にいたっても数多の政治哲学者の共通図式になっている(彼らは妙に政治にプライドを持っている)。(p.131-132)

このアリストテレス以来の<P=O図式>を、civic humanism(人間は市民すなわち政治的人格であることに宿る)という形で現代にもっとも強力に復活させたのはハンナ・アーレントであろう。彼女にとって近代とは、本来私的空間であるはずのオイコス(経済)が、人間性の発現の場である公的空間ポリス(政治)を浸食し、それに取って代わる時代であった。オイコスの論理の拡大としての経済主義こそ、近代のリベラリズムを束縛し続け、政治社会のあるべき姿を歪めている元凶である、と彼女は考えたのである。そして、未だに多くの政治哲学者(渡辺氏は彼らを「アリストテレスの末裔」と呼ぶ)がこの図式を共有しており、また彼らにとって、ハイエクこそまさにこの悪しきオイコス主義の旗振り役なのである。

しかしハイエクにオイコス主義の名を着せるのは、単に彼の思想に対する無理解を露呈させるに過ぎない。というのも、ハイエクが一貫して批判し続けたのが、まさにこのオイコス主義だったからだ。ハイエクは「経済」という概念が、その語源に遡ってみればオイコス(家政)であること、もっと形式的に言えば、限られた資源を最大限効率的に活用することについての周到な計画であること――家計、経営、そして財政がみなこれに該当する――を承知している。

しかし、後期スコラ哲学者たちが公正な価格をめぐって逡巡し、ついにそれが市場の決める「自然価格」(natural price)であると悟ったとき、またアダム・スミスが「政治経済学」(political economy)なる(新奇な)ことばを使い始めたとき、経済の概念は歴史的な地殻変動を経験していたのであり、ハイエクもまたそのことに無頓着ではなかった。そこで生じていたのはまさしく経済概念のパラダイム・シフトであり、それはアリストテレス以来のオイコスを離れ、徐々に別の意味と次元に転移しつつあったのである。

そもそも上述の<P=O図式>からすれば、「政治経済学」なるタームは端的にカテゴリー・ミステイクないし定義矛盾である。なぜなら、それはまさに「ポリス的オイコス」と言ってるに等しく、哲学的にまったく不可能な概念だからである。しかしスミスがそこに見ていたのは、経済がもはや従来のアリストテレスの伝統、すなわち<P=O図式>では論じられないという、重大な歴史的転換であった。(p.133)

そしてこの歴史気転換を可能にしたのが、公的空間としての、そしてオイコスとポリスを包摂する「コスモス」としての「市場秩序」(market order)の出現であった。この秩序はいわばオイコスとポリスの母胎であり、その主体(個人、結社、企業、そして政府)の活動の「場」を提供するのである。ハイエクは言う。

市場という自生的秩序の重大な利点は、それが単に手段を介して結び付いている(means-connected)に過ぎないということ、それゆえ、目的についての合意を不必要にし、様々な目的の和解を可能にすることである。広く経済的関係と呼ばれるものは、実は、それら多くの様々な目的を追求する努力が、あらゆる手段の使用に影響を与える、という事実によって決定される関係なのである。<大いなる社会>(Great Society; アダム・スミス)の諸部分の相互依存や調和が純粋に経済的であるのは、まさしくこの「経済的」ということばの広い意味においてなのである。この広い意味で、<大いなる社会>の全体をまとめ上げる唯一の絆は純粋に経済的(もっと正確には「カタラクティック」)である、ということが示されると、大きな情緒的反発が生じた。(『法と立法と自由Ⅱ――社会正義の幻想』、p.112)

エコノミー(=オイコスの経済)と、カタラクシー(=コスモスの経済)を隔てるメルクマールは、「メンバーが目的を共有しているか否か」である。家計や結社や企業や政府などのメンバーはそれぞれ目的を共有しているが、それらが活動する「場」である市場秩序は何ら特定の「目的」を持たない。市場秩序では、行為主体の目的ベクトルは全方向に向いているのである。彼らを辛うじて繋ぎ留めているのは、彼らが「手段」を介して結び付いているという事実に過ぎない。そこにcivic humanism(アーレント)や公共性(ハーバーマス)を持ち込むのは、能天気なお花畑思考と言わざるを得ない。

アーレントをはじめ、ハーバーマスからロールズに至るまで、多くの政治哲学者たちは、市場秩序をオイコスと切り離して考えることが出来ない。彼らは未だに、市場秩序をオイコスの延長として捉えているのである。それはいまや、様々なオイコス(そしてポリス)の主体が活動する基盤であるにも関わらず、である。市場の政治的管理を主張することは、依然それが可能であると考える点で、未だ<P=O図式>の呪縛から抜け出せていないことの証左なのである。後期のスコラ哲学者が市場価格について見たもの、スミスが政治経済学ということばで意味したもの、これらのついての洞察が、ほとんどの政治哲学者には欠落している。また、ハイエクにとって経済という概念は二つの意味を持っており、第一義的にはそれがコスモスとしての市場秩序を意味すると言うことを、彼を「経済主義」「物質主義」の名の下で批判する論者たちは理解していないのである。

しかし、コスモスである市場秩序をオイコスの延長として捉えるこの錯誤の責を、すべて政治哲学に負わせるのは公平ではないだろう。というのも実は、この錯誤を助長していたのが当の経済学自身――より正確に言えば近代経済学の主流となった「一般均衡理論」――であるからだ。そこでは、すべての人が同一の客観的価格体系を目の当たりにし、同じ資源の賦存状態に直面し、さらに一定不変の技術を備え、固定的な趣向を示す。要するに「一般均衡理論」では、社会全体が一つのオイコス(家)になるのである。この理論の応用として、社会全体を「一つの工場」と捉え、それを合理的かつ意識的に設計・管理しようとする「市場社会主義」のような考え方が登場しても何ら不思議ではなかろう。


【不確実性の縮減】

ハイエクの「市場の哲学」を支える支柱は二つある。一つは「秩序論」であり、その大まかな概観は上の節にて描けたと思う。もう一つは「知識論」であり、これを「不確実性の縮減」という観点から読み解いていきたい。

社会は複雑系である。

すなわちそれは、諸要素の部分的・局所的な相互作用――この相互作用は比較的単純な法則に支配されている――によって、予期しえぬ仕方で大域的・大局的に創発(emerge)する秩序や構造のことである。相互作用が局所的であることは、一般均衡理論の場合とは違って、各要素が緩やかに結びついていること、その作用は無媒介的・無時間的に遠方に及ぶのではなく、近傍から徐々に波及していくことを示している。また、予期しえぬのは、ただ相互作用(系の発展)の法則だけを眺めていたのでは、系全体が示す統一的な振る舞いを予測できないことを表す。(p.399)

複雑系のイメージを掴むために、S・ウォルフラムの(一次元)セル・オートマトンをご覧頂きたい。セル・オートマトンは必ずと言っていいほど複雑系の入門書に登場する。

一次元のセル・オートマトンではセルが横一列に並んでいる。セルには「0」と「1」の二つの状態があり、それぞれ「白」と「黒」の色に対応している。任意の初期状態から、各セルは与えられた一定の論理規則に従って、現在の自分の状態(0か1か)と隣接する2つのセルの状態(それぞれ0か1か)の情報だけを頼りに、次世代の自分の状態を決定し、一段下のセルへ移行していく。したがって系の発展は決定論的である。さてウォルフラムは、セル・オートマトンが示す様々な振る舞いを調べていくうちに、論理規則の選び方によってそのパターンが四つのクラスに分類できることを発見した。このうちクラスⅠ~Ⅲは従来の古典力学のアトラクター(ある力学系が時間発展に従って収束していく集合)に対応している。しかし、クラスⅣのパターンは、従来の古典力学のアトラクターでは説明できない。従来の古典力学では、三つのアトラクターが知られている。ボールの落下のように、運動が停止してしまうもの(リミット・ポイント)。これが上の図におけるクラスⅠである。時計の振り子のように一定の周期運動に入るもの(リミット・サイクル)。これが上の図におけるクラスⅡである。そして、ローレンツの気象モデルのようにカオス・アトラクターに吸い込まれるもの。これが上の図におけるクラスⅢである。セル・オートマトンで言えば、ある規則群の下では、過度カオスを経たあと系は死滅してしまう。別の規則群では、過度的なカオスを経験したあと、系は完全な周期パターンを示すようになる。また別の規則群では、広域的なカオスが発生する。ところが上のモデルで興味深いのは、このいずれにも該当しない第四のパターンが出現したことである。それは運動を停止しないし、周期運動を示さないし、またカオスでもない。言ってみれば、そこでは明らかに一定の組織性を伴った過度的な状態が、延々と続いていくのである。このような構造を、我々はイリヤ・プリゴジンとともに、「散逸構造」(dissipative structure)と呼ぶことができる。散逸系は一定の定常性・構造性を維持しつつも、その時間に関して不可逆的な変化は、一刻も平衡・均衡を許さない。このようなメカニズムは雪の結晶から雲の形成、さらには細胞の自己組織化に至るまで、自然界のあらゆるパターン形成に深く関わっており、またプリゴジン自身も示唆しているように、市場秩序も散逸系である可能性が非常に高い。

セル・オートマトンで重要なのは、各セル(固体)は近傍の限られた情報にしか応答していないという事実である。これは複雑系に置かれた我々の境遇を忠実に反映している。つまり、複雑な環境においては、我々が処理できる情報には超え難い限界がある、という当たり前の事実である。言うまでもなくこの人間像は、「完全情報」(=全知全能)を前提とする主流経済学の一般均衡理論とは異なる。一般均衡理論の世界では、各行為主体はあらゆる情報を予め入手しており、その中から毎回最適な行動(利益を最大化し、損失を最小化する)を選択するが、現実の我々にそんなことはできない。

例えばチェス・ゲームを考えてみよう。チェスの勝負で取りうる手は有限であり、明らかに必勝のアルゴリズムが存在する。したがってコンピュータは、このアルゴリズムに則って計算し、毎回最適な戦略を選択する。一方、人間には(名人と言えども)、このような芸当は不可能である。あり得る選択の数はあまりにも膨大過ぎるからである。代わりに、我々人間は「暗黙的統覚」に依存する。チェスでは、我々は「定石」(=代表的なパターン)というものを学習しそれを利用する。

ここで重要なのは、まず第一に、このプロセスは明らかに最適化行為ではないということである。我々は敢えて遠回りをすることによって、処理しなければならない情報量を縮減するのである。そして第二に、いったん定石に落とし込むことで、ほぼ確実に期待したパフォーマンスが得られるという確信が存在するということである。言い換えれば、我々は規則に対して、それに従えば高い蓋然性で目標に到達できるという信頼を寄せているのである。

これはあらゆる法・規則・習慣・伝統に共通する性質である。「殺すなかれ」「盗むなかれ」(我々はバレ得る全てのルートを確実に把握することはできない)、「赤信号を渡るな」(流れていく車の物理的位置を計算しながら最適に道を渡ることはできない)、「自転車のこぎ方」(我々は、出くわす場面に応じて最適にハンドルを切りアクセルを踏むことはできない)、などなど。こうしたルール群は、暗黙知(=知恵)として先人や他人から伝達される。したがって、それは大抵の場合明文化不可能な知であり、学習することによってしか体得できない。またこれらのルールは全て、我々が処理しなければならない情報量を大幅に減殺し、我々の乏しい情報処理能力の作業範囲内に収めてくれるのである。

そして市場秩序における私有財産制も、このような暗黙的ルールの一例である。

この制度ほど毀誉褒貶に晒されてきたものはないが、その趣旨はきわめて明瞭、すなわち、無限大の情報エントロピーを、我々の処理能力の範囲内に縮減することである。すべての財産が共有の場合、その利用をめぐって我々はあらゆる情報を考慮しなければならない。しかるに、一定の財産管理を個人の専権事項とすることによって、我々は情報処理にともなう不確実性を大幅に削ぎ落とし、一定のパフォーマンスを確保することができる。一定範囲外の情報に、我々は目を向ける必要がなくなるのである。複雑で大規模な社会では、我々の処理能力は局所的な情報に限定されざるをえないから、私有財産制は複雑系の必要条件とも言えるであろう。(p.435)

私有財産制に基づく市場秩序では、我々は遠い出来事について知らなくても、ひとえに価格情報にだけ注目していればいい。これが、ハイエクが価格のことを「価格シグナル」(price signals)と呼ぶ所以である。市場秩序が優れているのは、時と場所によって変化する断片的な情報(例えば森林資源が稀少になっている、など)を、価格シグナルを通じて活用できる点にある。森林資源を購入する業者は、森林資源が少なくなった経緯や、その事実すら知らずして、ただ価格シグナルだけを見て、代替的な生産手段の模索や、生産工程の改良を図るようになる。このように市場は、価格シグナルを通じて人々に最適な行為をとるように促す。そして社会全体として、誰も意図しなくても、自生的な秩序が生成するというわけである。

しかし、未だに市場秩序に対して反旗を翻す人は後を絶たない。ハイエクも言うように、この人たちのメンタリティは、小規模の、何もかもが透明だった古きよきコミュニティ(部族社会)を志向しているのである。あらゆる不確実性から解放された古きよきコミュニティ(=低エントロピー社会)にもう一度帰りたい、不確実で理解できない諸力に晒される現代社会(=高エントロピー社会)から逃げ出したい。こうした部族社会への郷愁こそが、社会主義者からハーバーマスまでの人々に共通するメンタリティである。「労働者」であれ「民族」であれ「市民」であれ、透明なコミュニケーションの媒体がどこかに得られれば市場社会は乗り換えられる、と彼らは共通して信じているのである。しかし、それは全く非科学的な空想に過ぎない。


【「創発」の論理について】

本書における渡辺氏の見解にはほとんど賛成で、終始「ふむふむ」と頷きながら読み進めていったけれど、一部不満点もある。その一つが、渡辺氏の、決定論的な世界観に対するルサンチマンの痕が各所に散見される、という事実である。

渡辺氏自身も正しく論じているように、創発はあくまで認識論上・言語論上の現象であって、存在論上の現象ではない。

端的に言って、創発とは我々が対象を捉えるための言語にかかわるものであって、存在論的な実体にかかわるものではない。この点を押さえておかないと、ニューロンの相互作用から心が創発することをもって、脳と心を二つの異なる実体と見なす古典的な二元論が生じる。この誤謬は、リチャード・ローティが「言語の物象化」(reification of language)と呼んだ、哲学者たちの習慣的な性癖を表している。……ときとして、全体は部分と存在論的位相を異にするなどと言われたりもするが、それは結局、複数の異なるミクロな状態が同一のマクロな状態を実現しているとき、我々はもはや、個々の要素の実体的な性質に目を向けても埒があかず、むしろ、要素間の関係性にこそ気を配るべきだ、ということを意味している。……存在論的差異云々は、実は実体と関係性のオーバーな表現にすぎない。そして複雑系科学では、従来の実体中心主義から関係中心主義への重心の移行がポイントなのである。(p.399-402)

また、渡辺氏が、ハイエクとともに「複雑現象と単純現象の間にはなんら存在論的差異はなく、あるのはただ程度問題に過ぎない」と述べる時(p.386)、彼はまったく正しい。

しかし、「人工知能が意識を持ち得るか」という人工知能問題に言及するとき、渡辺氏は、ポランニーの暗黙知の概念に依拠することによって、J・サールらとともに「強い人工知能」論者――彼らは人工知能が「意識」を持ち得ること、そして最終的には人間たり得ることを主張する――を「近代合理主義」「科学主義」の名の下で批判しているが、私はこれには賛同できない。というのも、我々はD・デネットとともに、「人工知能は本当に暗黙的統覚を持ち得ないのだろうか?」という疑問を呈することができるからだ。実際にそこまで人工知能が発達するかどうかはともかく、原理的には、「複雑現象と単純現象の間にはなんら存在論的差異はなく、あるのはただ程度問題に過ぎない」というテーゼを真面目に受け止めるならば、人工知能が暗黙的統覚を持つことは十分可能なはずである。

複雑系の母胎であるカオスが全て決定論的な法則に従っていることが示唆しているように、我々の「心」を創発させるニューロンの相互作用のメカニズムも、同じく決定論的な法則に従っていることが十分考えられる。渡辺氏は各所で決定論的な世界観を「過てる合理主義」「科学主義」の仲間としてまとめて葬っているが、もう少し真面目にデネットの著作を読んでいれば、そういうことにはならなかったと思う。


【「科学者」であって「哲学者」ではない】

最後に、あとがきにおける渡辺氏の印象的な言葉で締めたい。

しみじみ感じたのは、ハイエクは「科学者」なのだなぁ、ということである。「市場の哲学」なる小洒落た言い方はしたものの、ハイエクは本来「哲学者」ではない、そんな印象をもった。私のイメージでは、哲学者たるものは大上段に第一原理(アプリオリな総合命題と思しき)を振りかざし、他の一切を論理的にブルドーズしてゆく人(あとは野となれ山となれ)である。彼らは現象の救済に興味はない。人間性についての、合理性についての、その他諸々についての第一原理は、現象についての説明力、その実行可能性とは無関係に正当性を付与される。その帰結としての哲学政治、哲学経済がいかなる現象的悲劇をもたらそうとも、それは哲学的原理の誤謬を示すどころか、糾弾すべき現象の不合理の証しにすぎない。マルクス主義とポル・ポトの惨劇は、その典型なのだろう。科学者ハイエクにとって、これは忍耐を欠く(そして往々にして自分の知性に酔う)哲学者特有の悪弊にほかならない。複雑な現象を丹念に、たゆまず、一つひとつ分析してゆく地味な作業に堪えられない人々が、おのれの知性を頼みにいわゆる「心的ショートカット」(少数の概念、カテゴリー、原理)に訴えて、現象の背後にある本質を見切ったなどと嘯くのである。現象の分析は少数の原理によって裁断できるほど容易ではない。ハイエクの叙述がしばしばまだるっこしく不明瞭であるのは、むしろ彼が現象に忠実であろうとするためである。この科学者と哲学者の対照は、人間の道徳性に関する哲学的考察をもって始まる初期のロールズと、現象の不可避的多元性から共生の原理を引く後期のロールズとの対照によく現れている。

また、ハイエクは「倫理」の教師でもない。我々の根深いところにある原始的な倫理感は、ときに我々の社会を破滅に導く。資本主義の不道徳さに対する倫理的義憤は、社会主義という名のディストピアをもたらした。それでいてなお、少なからぬ人々が、その動機の純粋さ(良心の声)をもって、その悲劇を免罪しようとしている。保守的なおじさんたちの嘆きとは逆に、人々の倫理感・道徳心はこれほどまでに強いのである。「私悪は公益」、ハイエクのヒーローの一人、バーナード・マンデヴィルの含蓄あるアフォリズムを理解できるほど、多くの人間は現象に忠実になれない。多くの場合、彼らは強すぎる倫理感に訴えて、我々の成し遂げてきたものを破壊してしまうのである。科学者たることは、ある意味、人間の本質に反するのかもしれない。(p.565-566)

2011年5月23日月曜日

プラグマティック実在論の構築

以前予告していた通り、真理対応説を放棄し、代わりに真理実用説を採用する独自の実在論を構築してみたい。この実在論は、観察不可能な物理的対象の実在を真と見なす点において従来の科学的実在論と重なるが、真理対応説を放棄し、真理実用説に依拠する点において異なる。真理実用説に依拠することによって、パトナムの「奇跡論法」を補修し、「悲観的帰納法」による批判を克服できることを示したい。この実在論は、いわばプラグマティックな転回を経て変貌した科学的実在論である。これが尚「科学的実在論」の名に値するかどうかは読者諸氏の判断に委ねたい。

【実在と真理に関するテーゼ】

(1a) [外部世界の実在に対する無条件の信仰] 世界は人間の認識活動から独立して存在するか否か、という問い自体が、「世界」、「人間」、「認識」といった我々の使用する語彙を前提にしており、またこれらの語彙に依存する。事実、この問いはこれらの語彙を離れては考えられないし、また我々は「世界」、「人間」、「認識」といった語彙を放棄することもできない。したがってこの問いは無意味である。日常的な直感として、外部世界はただあるということを、我々はア・プリオリな事実として受け入れ、無条件に信じる他ない。

(1b) [真理実用説] 真理は外部世界には存在しない。言い換えれば、真理は、実在を記述しようとする人間の表象活動を離れては存在しない。これは伝統的な「真理対応説」の否定を意味する。他方で、「真理整合説」もまた受け入れらない。というのも、整合説は外部世界からの経験的入力を無視しているから。ここで言う「真理実用説」は、「問題に対する解決」を以って真理を定義する。当然、この真理は絶えず修正の可能性に開かれており、その点において「可謬的」かつ「限定的」である。「絶対的な真理」なるものは人間の不治なる形而上学的欲求が生み出した幻想に過ぎない。

【外部世界の実在に対する無条件の信仰】

(1a)は明確に後期ウィトゲンシュタイン的な言語観に基づく。そもそも、プラトン以来およそすべての西洋哲学者の間では、哲学者の仕事は解決困難に見える問題群(「自由意志」、「精神と物質」、「真理」、「善」、「美」)を論理的分析によって解きほぐすことだという考え方が支配的だった。しかし、これらの「問題」は実際のところ哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題に過ぎないとウィトゲンシュタインは喝破したのである。言語は日常的な目的に応じて発達したものであり、したがって日常的なコンテクストにおいてのみ機能するのだとウィトゲンシュタインは述べる。しかし、日常的な言語が日常的な領域を超えて用いられることにより問題が生じる。ウィトゲンシュタインは言う。

「哲学の成果は、いくつかの明瞭なナンセンスと、言語の限界に突き当たって理解がこしらえた瘤をあばくことにある。発見の価値は、こうした瘤からわかる。」(ウィトゲンシュタイン、『哲学探究』)

言語の限界が思考の限界なのである。「実在性」に関する形而上学的な議論も例外ではない。それは明らかにウィトゲンシュタインの言う「理解がこしらえた瘤」である。


【真理実用説】

(1b) 「真理実用説」は、主にジョン・デューイの真理概念に依拠している。伝統的な「真理対応説」と「真理整合説」はそれぞれ固有の難点を抱えていおり、これらの難点をデューイの真理概念は乗り越えるのである。以下に詳細に説明したい。(なお、この箇所は魚津郁夫『プラグマティズムの思想』に多くを負っている)。

まず「真理対応説」。「真理対応説」(correspondence theory of truth)は、その名の通り、「実在と対応していること」が真理であるとする。例えばアリストテレスは、真理を定義して、存在するものを存在しないといい、存在しないものを存在するというのが虚偽であるのにたいして、存在するものを存在するといい、存在しないものを存在しないというのが真理である、と述べている。このように、命題(あるいは観念、言明、など)と、事実(あるいは出来事、事態、など)とが対応(correspond)するとき、その命題を真理とするのが真理対応説である。しかし真理対応説には重大な難点がある。というのは、事実はすべて命題によって記述されなければ、事実として知られることがないからである。それゆえ一方に命題Aがあり、他方に事実aがあって、Aと a が対応しているかどうかを知るためには、一方の命題Aのほかに、他方の事実 a を記述する命題Bが必要となる。しかしその命題Bが、そもそも事実 a と対応しているかどうかを知るためには、a に関するまた別の命題Cが必要となり、ここに無限後退が生じる。つまり、真理対応説は、実在と命題を直結させる何らかの超越的(=魔法的)なメカニズムに依拠しない限り成立し得ないのである。

では「真理整合説 」はどうか。「真理整合説」(coherence theory of truth)は、ある命題が一般的に認められている他の多くの命題と整合的であるとき(すなわち矛盾しないとき)、その命題を真理とする考え方である。しかし、これにもやはり難点がある。整合性という真理の基準だけでは、互いに整合的な様々な命題が得られたとしても、そうした様々な命題は私たちの経験する事実(あるいは出来事、など)と関係を持たないことになる。しかし、少なくとも事実に関する命題は、感覚的経験を述べる命題と何らかの仕方で関わりを持たなければならない。つまり、真理整合説は経験的入力を無視しているのである。

しかしデューイは、真理対応説の言う「対応」という言葉を広く解釈して、この困難を逃れることを試みる。すなわち、対応とは、鍵がその条件に合致するように「合致する(answer)」、言い換えれば鍵が鍵穴にぴったりおさまってその機能を果たすということであり、問題に対して適切な解決をもたらすように「答える(answer)」ことであるという。要するに、対応とは問題を解決することだ、というのである。

このように、真理についての考え方においてデューイは、一方では、チャールズ・パースの影響のもとに、可謬主義に立脚した究極の真理に関するパースの定義に賛同するとともに、他方では、ウィリアム・ジェイムズの影響のもとに、真理は有用性(すなわちデューイの場合は問題解決の可能性)によって初めて真理として認められることを主張したのである。

こうしてデューイは言う。「私が主張するような理論こそ、真理対応説とよばれる資格のある唯一の理論である。」 ただ、デューイには申し訳ないが、ここでは従来の真理対応説と区別するため、デューイの真理概念を「真理実用説」(pragmatic theory of truth)と呼びたい。


【観察不可能な物理的対象に関する実在】

(2) 観察不可能な物理的対象(電子や波動関数など)は、それを扱う科学理論が成功している限り、その実在を真とする。

これは上述した「真理実用説」に基づく。当然、かつてのエーテルや熱素の概念が後に否定されたように、現在「真」であると見なされている概念や科学理論も、将来否定ないし修正される可能性に開かれている。ただし、このテーゼは「道具主義」(instrumentalism)や「反実在論」(anti-realism)の立場とは明確に異なる。「観察可能な現象の背後にある観察不可能な隠れた実在の真の姿は知り得ない」とする道具主義や反実在論とは異なり、(2)のテーゼははっきりと観察不可能な対象の実在を真と認める。というのも、成功している科学理論(電子や波動関数を扱う科学理論)を説明するには、観察不可能な対象の実在を認めるのがもっともらしいからだ。これはむしろ、科学的実在論の立場から道具主義への批判として寄せられたヒラリー・パトナムの「奇跡論法」(argument from miracles)に近い。パトナムの「奇跡論法」の概要は以下の通り。

奇跡論法とは、もし電子や光子といったものが実際に理論で記述されるような形で存在しないとすれば、「科学の成功」が一種の奇跡になってしまう、というもの。この奇跡論法は次のようなアブダクションの構図を持つ。すなわち説明されるべき事柄として「科学の成功」を取り、この「科学の成功」を説明する側の仮説として道具主義と科学的実在論を並置する。そして道具主義による「科学の成功」の説明は一種の奇跡になってしまうが、科学的実在論による「科学の成功」の説明はもっともらしい、ともっていく。これが奇跡論法である。(Wikipedia、「道具主義」より抜粋)

ただし、パトナムが「科学の成功」全体を説明されるべき事柄として配置しているのに対して、(2)のテーゼはあくまで個別の科学理論において適用される。また、奇跡論法が、観察不可能な対象の実在を無条件に絶対化するのに対して、(2)のテーゼは「それを扱う科学理論が成功している限り」という条件節を加える。「実在の真の姿」に超越的な意味を付与せず、あくまで限定的・可謬的なものと見なすことによって、科学理論が修正の可能性に開かれているという事実を我々は許容できるようになる。このようにして、奇跡論法の弱点である「悲観的帰納法」による批判を克服できるのである。

W.V.O.クワインも述べているように、観察不可能な物理的対象の存在を信じることと、ホメロスの神々の存在を信じることには、本質的な差異はない。ただし、こうした物理的対象の神話は、他の神話よりも認識論的に優れているという。

認識論的な地位のうえで、物理的対象と神々との間には、程度の差があるだけで、種類の違いがあるわけではない。どちらの存在も、文化的仮定としてのみ私たちの考え方に入ってくるのである。物理的対象という神話が、大抵の他の神話よりも認識論的に優れているのは、経験の流れ (the flux of experience)の中に、取り扱いやすい構造を作り出す装置として、より有効であることが分かっているためである。(クワイン、『経験主義の二つのドグマ』)

この箇所は、クワインのプラグマティズムをよく表しているだろう。私が主張する真理実用説に基づく実在論も、基本的にクワインの立場と軌を一にするものだと思う。


【科学の位置付け】

(3a) [概念相対性] 語彙や概念図式などの表象システムは認識論的に恣意的である。ゆえに、同一の実在を表象するために、複数の異なる表象システム(=言語)を用いることが可能である。

(3b) [還元不可能性] 実在を表象する多元的な言語は、ほとんどの場合、相互に還元不可能である。ただし「還元」とは、「意味を損なわずに翻訳できること」という意味である。

(3c) [科学の進歩] 自然科学の知識は漸進的に進歩する。科学の進歩は次のように定義することができる。すなわち、時点Aにおいて記述ないし予測可能な現象が、時点Bにおいて記述ないし予測可能な現象よりも多ければ、時点Aの方が時点Bよりも科学が進歩している、と。

(3a)概念相対性のテーゼは、以前紹介した中山先生の世界概念におけるそれと同様、語りの多元性を保障する。同一の実在を表象する、多元的かつ重層的な諸言語の実践が許容されるのである。ただし、これらの言語はほとんどの場合、相互に還元不可能である(3b)。ここで言う「還元」とは、S.プリーストに倣って「意味を損なわずに翻訳できること」と定義する。例えば、「心」の言語を「脳科学」の言語に還元することは不可能である。同様に、生物学の言語を化学の言語に還元することも不可能であるし、化学の言語を物理学の言語に還元することも不可能である。こうした還元論/全体論を巡る議論は、科学的探究の位置付けにとって非常に重要な問題であるが、如何せん深入りするだけの用意はまだ私にはないので、詳細な考察はまたの機会に委ねたい。

(3c)科学の進歩のテーゼは、基本的に科学的実在論と世界観を共有する。ただし、人類が唯一の真なる表象に到達できるとは考えていない。これは、先述した(3a)概念相対性テーゼと、(3b)還元不可能性テーゼの必然的帰結である。

以上、真理実用説に基づく独自の実在論を描いて見せた。この立場を科学的実在論の亜種として位置付けるべきか、あるいは別の既存の立場の仲間と見なすべきか、はたまた今までにない全く新しい立場と見なすべきかは、私には判断しかねるが、当面「プラグマティック実在論」という呼称を用いることにしたい。

2011年5月2日月曜日

【書評】 科学哲学入門 : 知の形而上学 (中山康雄)

はっきり言って、この本のタイトルに「入門」の文字を入れるのは新手の詐欺だと思うが、幸いにして僕自身はこの分野の基礎的な知識は一応既にあったので、本書は大いなる知的興奮を齎してくれた。(正直論理学の部分は未だ理解していない自信があるが)。初学者にはとてもお勧めできないが、科学哲学にある程度馴染みのある人なら、本書は素晴らしい知的体験を提供してくれると思う。

本書は、第一部「科学哲学小史」と第二部「科学と文化」によって構成されている。第一部では、これまでの科学哲学の歴史を、クーンのパラダイム論を軸に描き出すとともに、科学哲学の基本的な「問題群」を提示する。そして第二部では、第一部での議論を踏まえ、中山氏がそれらの問題に独自の回答を与えていく。具体的には、中山氏は唯名論的な世界概念に基づく実在論の立場を主張する。この独自の世界概念の提示が本書の最重要箇所にして醍醐味なので、その詳細を以下に検討していきい。

【形而上学的実在論の検討】

中山氏は、パトナムやサールの議論を踏まえながら、形而上学的実在論を、以下の三つのテーゼを満たす立場として定式化している。

(1a) [外部世界に対する実在論 (external realism, ER)] 世界(あるいは、実在または宇宙)は、世界についての私たちの表象とは独立に存在している。

(1b) [特権化された概念図式 (privileged conceptual scheme, PCS)] 実在を記述する唯一の概念図式が存在する。

(1c) [真理の対応説 (corresponding theory of truth, CTT)] 信念や言明という表象は、事物 (things)が現実においてどのようなものなのかを表象するためのものである。これらの表象が成功したり失敗したりするのに対して、それらの表象は真だったり偽だったりする。これらの表象が真なのは、それらが現実における事実に対応しているとき、かつ、そのときに限る。

このような形而上学的実在論を掲げている代表的な著書が、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考 (Tractatus Logico-philosophicus)』である。

さて、これに対し科学的実在論とはどんな立場なのだろうか?中山氏はまず戸田山和久の議論を参照する。戸田山は、『科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる』において、「独立性テーゼ」と「知識テーゼ」の二つのテーゼを満たす立場として科学的実在論を特徴付けている。

(2a) [独立性テーゼ] 世界は、人間の認識活動とは独立に存在する。

(2b) [知識テーゼ] 人間は、科学によって世界の秩序について知りうる。

(2a)独立性テーゼは、(1a)外部世界に対する実在論に対応する。しかし、知識テーゼについては、実はもっと微妙な問題が絡んでいると中山氏は指摘する。というのも、戸田山は「反実在論」を「独立性テーゼを認めるが知識テーゼを認めない」立場として定式化しているが、反実在論は知識テーゼを観察不可能な対象(電子や波動関数など)についてのみ拒否する。マクロな物体の振る舞いや法則については知りうるが、観察不可能な理論的対象についての語りを含む科学理論が、世界についての文字通りの真理を語っていると信じる根拠はない、というのが反実在論の主張である。つまり厳密に言えば、反実在論は(1a)外部世界に対する実在論を認めつつ、(2c)真理の対応説を認めないという立場である。

これを踏まえ、中山氏は科学的実在論を以下の四つのテーゼを満たす立場として定式化する。

(3a) [外部世界に対する実在論]  (1a)と同じ。これは、(2a)の独立性テーゼに対応する。

(3b) [特権化された概念図式] (1b)と同じ。

(3c) [真理の対応説] (1c)と同じ。

(3d) 科学は世界についての特権化された概念図式を把握するという目標を持っており、この目標に絶えず近づいていく。そして、この目標に到達したときには、科学は世界についての究極的真理を表現できる。

(これに対し、反実在論者は、世界に対応した真なる理論を見出すことが科学の目的だとは考えていないのである。)

ここで注意しておかなければならないのは、科学的実在論は物理的事実にのみ適応可能だということである。中山氏は本書において、事実を「物理的事実」、「社会的事実」、「内省的事実」の三種類に分ける議論を行っている。

(4a) [物理的事実] 物理世界の中で成立している事実。人間の認識活動とは独立に成立する。

(4b) [社会的事実] 集団Gの共有信念に依存して成立する事実。

(4c) [内省的事実] 内省の主体である合理的行為者の心的状態に依存して成立する事実。内省的事実が成立するのは、行為主体Sがその内省的事実が成立していると信じているとき、かつ、そのときに限る。

この三区分は、デイヴィドソンの言う「客観的」、「間主観的」、「主観的」の区分けと対応するように思われる。そして、独立性テーゼは社会的事実、内省的事実については明らかに成立しない。だから、科学的実在論はあくまで自然科学のみに関するテーゼなのである。

さて次に、中山氏は、科学的実在論を回避しつつ、 社会構成主義(科学知識は社会的に構成されるという立場。つまり、(2a)独立性テーゼも(2b)知識テーゼも否定する立場)を拒否する「第三の選択肢」を探るため、サールの議論を参照する。ジョン・サール (John Searle 1932-)は、実在と表象に関する以下の六つのテーゼを定式化している。

(5a) [外部世界に対する実在論] (1a)と同じ。

(5b) どのような表象も志向性を持っている。信念や知覚は内在的志向性 (intrinsic intentionality)を持ち、地図や文は派生的志向性 (derived intentionality)を持つ。

(5c) [真理の対応説] (1c)と同じ。

(5d) [概念相対性 (conceptual relativity, CR)] 語彙や概念図式などの表象システムは、人間が作り出したものであり、その点において恣意的なものである。同一の実在を表象するのに、複数の異なる表象システムを用いることが可能である。

(5e) 実在の真なる表象を得ようとする努力は、文化的影響を受ける。

(5f) 知識を持つことの本質は、正当化や証拠を根拠にして真なる表象を持つことにある。だから知識は、認識的意味において客観的である。

ここで重要なのは、サールが(1b)特権化された概念図式のテーゼを拒否し、その代わりに(5d)概念相対性のテーゼを導入している点である。ただし、この試みを成功させるためには、(5d)概念相対性のテーゼと(5c)真理の対応説が両立するような世界概念をサールは提示しなければならないが、中山氏によると、サールの著作の中ではこのような世界概念は充分明らかにされない。これを補完するために、中山氏は独自の世界概念である「唯名論的世界概念」を提示する。

【唯名論的世界概念】

中山氏は、(1a)外部世界に対する実在論のテーゼと、(5d)概念相対性のテーゼを明確化するために、以下の五つのテーゼから成る独自の唯名論的世界概念を提示する。

(6a) [外部世界に対する実在論]  (1a)と同じ。

(6b) 世界は、分割可能な構造を持っている。

(6c) 世界の諸分割の間に、部分・全体関係 (part-whole relation)が成立する。

(6d) [古典的メレオロジー (classical mereology)] どのような複数の対象にも、それらのメレオロジー的和が存在する。ただし、メレオロジー的和というのは、複数の対象を融合させてひとつの対象と見なしたときの融合体 (fusion)のこととする。

(6e) [世界内存在] 知覚主体は、世界の部分として存在する。

さらに、世界の分割可能な構造について、以下のテーゼを提示する。

(7) [概念図式の適用] 世界の分割は、概念図式の適用により可能となる。

これは、ウィトゲンシュタインの『論考』とは決定的に異なる世界観である。『論考』では、何が対象であるかは、人間の認識活動からは独立して世界の側ではじめから与えられていた。これに対し(7)に従えば、そのような世界の対象は、人間が概念図式を適用し、世界からその部分を切り取るという作業によって与えられることになる。この(7)により、(5d)概念相対性のテーゼが保障される。

例えば、「犬」や「猫」といった普通名詞を含んでいる日常言語と、「細胞」という普通名詞を含んでいる生物学の言語では、切り取っている世界の「部分」が異なるが、同じ対象を指している。この場合、日常言語は細胞の融合体としての「犬」「猫」を指しており、これを生物学の言語に「翻訳」することが可能である。このように、異なる仕方やレベルで対象を記述する複数の語りの実践が並存することが可能であり、このことが(5d)概念相対性のテーゼを可能にする。

次に、中山氏は、タルスキの真理の定義に依拠することによって、(5c)真理の対応説と(5d)概念相対性のテーゼが両立することを示そうとする。アルフレト・タルスキ (Alfred Tarski, 1901-1983)は『形式化された言語における真理概念』において、メタ言語と対象言語を区別することによって自己言及のパラドックス(嘘つきのパラドックス)を回避し、真理の概念を定義することに成功した。彼は、対象言語について語るメタ言語を導入することにより、これを用いて対象言語の真理概念を規定するのである。

例えば、数学では集合論の言語が要素に対するメタ言語として前提にされるのが常である。この方法を、私たちの日常的な言語についても適用できる。例えば量子力学も相対性理論も生物学の言語も日常言語も、すべて実在する世界について語るものであるが、世界の対象領域の中から関心のある対象だけを切り取って記述していることになる。そのため、ある言語に属する文の真理について語るためには、類名辞(sortal term, 対象を分類するために用いられる普通名詞)を含んだ概念図式の使用により、メタ言語において対象を特定しておかなければならない。つまり真理概念は世界そのものに直接適用されるのではなく、メタ言語を用いてあらかじめ分節化された世界の構造に関して適用されるのであり、その分節化はメタ言語に含まれる概念に相対的になされるのである。このようにして、唯名論的世界概念を用いれば(5c)真理対応説と(5d)概念相対性のテーゼが両立するということを示すことが出来る。

【語りの多元性と物理主義】

人間が用いる言語は多層的に重なっている。量子論の言語も、生物学の言語も、日常の言語も、宇宙論の言語も、それぞれ独自の類名辞によって世界に存在する対象を個別化している。

さて、中山氏は、デカルトのような二元論を避けるため、他の多くの分析哲学者と同じく、物理主義の立場を取る。

(8) すべての物的対象は、物理学の法則に従う。

物理学の言語は、素朴物理学言語(日常の物体について語る言語)よりも豊かな存在論を持っている。つまり、素朴物理学の対象は、素粒子などの物理学が記述する対象から構成されていると考えることが出来る。私たちは、素朴物理学言語において様々な物体の融合体の相互作用について記述する概念図式を編み出してきたが、それらの記述が有効であるならば、なぜそれが有効なのかの説明は、原理的には物理学の法則で説明可能なはずだということが帰結する。これによって相対主義的な存在論が回避できる。

それでは、 物理主義はどのようにして多元的言語論と整合するのだろうか?これを説明するために中山氏は、「付随性 (supervenience)」という概念に依拠する。「付随性」の厳密な定義は、以下のように与えられる。

「起こりうるどの二つの状況を考えても、性質Bに関して異なりながら、性質Aは同一だ、ということがない」ならば、性質Bは性質Aに付随 (supervene)している。

例えば、言語Aを脳の物理的な状態について記述する物理学の言語、言語Bを素朴心理学言語(日常の心について語る言語)、性質Aを言語Aによって表現される性質、性質Bを言語Bによって表現される性質とする。このとき、性質Bが性質Aに付随するというのは、性質Aを完全に同じくする二つの対象は、性質Bも完全に同じくする。つまり、言語Aにおけるあり方(=脳の物理的な状態)を確定すれば言語Bにおけるあり方(=心的な状態)も確定する、という関係である。

この「付随性」の概念に依拠することによって、物理主義と多元的言語論を両立させることができる、と中山氏は論じる。ただしこのとき、物理言語を数ある言語のうち存在論的に基礎になる言語とする。また、物理言語がすべての単体としての対象を描写できたとしても、融合体としての対象の多くを語るためには、私たちは他の言語を必要とし、そのために(5d)概念相対性のテーゼが許容されるのである。


【唯名論的世界概念の検討】

さて、以上の中山氏の議論を検討してみたい。そのためにまず、(1b)特権化された概念図式のテーゼと(5d)概念相対性のテーゼの関係を明確化したい。というのも、中山氏はまるでこれら二つを背反する主張であるかのように扱っているが、私にはこの二つが両立するように思えるからだ。

中山氏による科学的実在論の定式化における(3d)「 科学は世界についての特権化された概念図式を把握するという目標を持っており…」とあるように、特権化された概念図式というのは、人間の認識活動からは独立して世界の側にあらかじめ存在するものであると考えられる。一方、(5d)概念相対性のテーゼ、及びそれを保障する(7)概念図式の適用テーゼも、あくまで人間の認識活動について語っている。つまり、唯一の正しい特権的な概念図式の存在を主張する(1b)と、複数の異なる恣意的な表象システムの並存を主張する(5d)は両立する。

実は、このことを中山氏は「物理主義」採用の際に暗に前提しているように思う。というのも、(8)のテーゼ「すべての物的対象は、物理学の法則に従う。」は、唯一の正しい一貫した物理学の法則の存在を前提にしているからだ。このことは、「それら(融合体の相互作用について語る様々な概念図式)の記述が有効であるならば、なぜそれが有効なのかの説明は、原理的には物理学の法則で説明可能なはずだということが帰結する。」と主張している点からも窺える。つまり、中山氏は物理学の法則に基づく絶対的な存在論(=特権的な概念図式)を主張しているのである。

しかし、ここ一つ問題が現れる。それは、中山氏の提示する唯名論的世界では、メタ言語における対象の記述は、「完全な形」で対象言語における記述への「翻訳」が可能なのか、それとも翻訳には「不確定性」が伴うのか、という問題である。言い換えれば、還元主義を認めるか否か、ということになると思う。非物的な対象についての語り――つまり内省的事実や社会的事実に関する記述――と物理言語との関係については、中山氏は「付随性」の概念に依拠しており、はっきりと「非還元的」を明言しているが、物的対象について語る言語間の関係については、いまいちはっきりしないのである。(化学の言語は物理学の言語に「付随」しているのか、生物学の言語は化学の言語に「付随」しているのか?)

もし「還元的」であるとするならば――つまり生物学の言語を化学の言語に、化学の言語を物理学の言語に「ノイズ」なく翻訳可能なのだとすれば――「科学的実在論」を回避するという当初の目的とは裏腹に、「科学的実在論」の世界観が帰結するように思われる。というのも、物的対象に関する全ての語りを物理学の言語に難なく翻訳できてしまうことになり、それはもはや多元的な言語間の翻訳ではなく、いわば「分数から少数」への機械的な翻訳であるために、複数の異なる言語がたとえ存在したとしても、実質同一の言語と見なしうるような事態が起きてしまう。還元的な世界観では、概念図式はただ一つに収束してしまうのであり、これはもはや「科学的実在論」の世界観とあまり変わらない。実際、(2a)特権化された概念図式と(5d)概念相対性のテーゼが両立することを私が示した今、「形而上学的実在論」の条件となる(1a)、(1b)、(1c)は全て満たされている。これに(3d)を加えることができるならば、これはもはや「科学的実在論」の成立を意味している。中山氏が提示する「唯名論的世界概念」では(3d)が成立するのかどうかは充分明らかにされていないが、私の理解では、とりたてて矛盾するようには見えない。

逆に「非還元的」であるとするならば、今度は(8)「物理主義」のテーゼの成立が危うくなるように思われる。化学と物理学の関係、あるいは生物学と化学の関係を「付随性」で規定するにせよ、「創発」で規定するにせよ、これら多元的な語りを物理学の言語に翻訳できないとなれば、物理主義のテーゼ「すべての物的対象は、物理学の法則に従う。」が成り立たなくなってしまう可能性がある。もし中山氏が(1c)真理の対応説を採用していなければ、(8)「物理主義」のテーゼは完全に世界の側の事実――つまり人間の認識活動からは独立した実在――についての記述として解釈されることが可能だったが、現に中山氏は(1c)真理の対応説を採用しているので、世界の側の事実は人間が作り出す概念図式の表象と対応しているはずであり、したがって世界の側の物的対象がすべて物理学の法則に従うのであれば、人間が作り出す化学や生物学の言語も同様にすべて物理学の言語に翻訳可能でなければおかしい。そこに「付随性」や「創発」などの概念を持ち込むのは、矛盾すると考えられる。

(ただし、非物的な対象に関する語り――「心」についての語り、政治についての語り、経済についての語り、宗教についての語り、など――は物理言語に「付随」しているということなので、これらについては矛盾しないと考えられる。)

以上より、中山氏が提示する唯名論的世界概念は、科学的実在論の世界観と両立するように思われる。それはそれとして首尾一貫した世界観であり、問題ないと思う。しかしこの試みは、科学的実在論とは異なる世界観を提示するという当初の目的とは相容れないものであり、むしろ科学的的実在論の中に包摂されてしまうように思われる。

この問題――つまり「科学的実在論」を拒否しつつ、同時に「反実在論」や「社会構成主義」も退け、物理主義的な世界観を保持するにはどうすればいいかという問題――を克服するために、私は(1c)真理の対応説を放棄し、代わりにデューイらプラグマティストの「真理の実用説」に依拠した独自の世界概念を提示したいが、その明確化はまたの機会に委ねたい。

2011年4月25日月曜日

ローティにおける「公」と「私」の区別

「リベラル・アイロニスト」として知られる思想家リチャード・ローティは、著書『偶然性・アイロニー・連帯』(Contingency, Irony, and Solidarity)においてその独自の自由主義を論じている。ローティは信念・価値観の「偶然性」(contingency)および人間の「可謬性」(fallibility)に基づき、「政治」と「哲学」――つまり「公」と「私」――を切り離すべきだと論じている。さて、この著作を発表するまでは主に「哲学」の問題を専門的に研究してきたローティが、どうしていきなり「政治」を問題とするようになったのだろうか。以下にその理論的背景を俯瞰しておきたい。

【リベラル・アイロニストの思想】

ローティは自らの考える理想的な社会を「リベラル・ユートピア」(Liberal Utopia)、その住人を「リベラル・アイロニスト」(Liberal Ironist)と呼ぶ。「リベラル・アイロニスト」とは、ローティの定義によると、政治的には自由主義と民主主義からなる近代の政治体制や市民社会のあり方を受け入れ、積極的に擁護しつつも、私的な価値観としては「アイロニスト」の著作や価値観を容認し、愛好しているような人物のことである。

ローティの考えるリベラルとは、J・S・ミル、バーリン、デューイ、ハーバーマス、ロールズといった論者に代表される、近代の西洋において一般的に理解されている広い意味での自由主義である。彼らは基本的に近代の政治体制に肯定的な見解を持っており、より民主的な社会を実現するための議論を行っている人たちである。

一方、ローティの考える「アイロニスト」とは、「自分にとって最も重要な信念や欲求の偶然性に直面する類いの人物、つまりそうした重要な信念や欲求は、時間と偶然性の範囲を超えた何者かに関連しているという考えを棄て去るほどに歴史主義的で唯名論的な人」(Rorty, 1989)のことである。具体的には古代ギリシャから近代までのヨーロッパにおいて培われてきた哲学、宗教が規定する人間像に対し、懐疑的な考えを持っている人々のことであり、ローティが「アイロニスト」の思想家として挙げているのはヘーゲル、ニーチェ、キルケゴール、フロイト、ハイデガー、フーコー、デリダなどであるが、それらの多くは英米系の哲学界から見た「大陸哲学」の思想家である。ローティは「アイロニスト」の条件として①自分がいま現在使っている「ボキャブラリー」(vocabulary)を徹底的に疑い、絶えず疑問に思っている、②自分がいま現在使っているボキャブラリーで表された議論はこうした疑念を裏打ちしたり解消したりすることができないと分かっている、③自らの状況について哲学的に思考するかぎり、自分のボキャブラリーの方が他よりも「実在」に近く、自分以外の力(例えば合理性、神、真理、歴史)に触れているとは考えていない、という三点を挙げている。

ローティの考える上記のアイロニストのうち、ニーチェ、ハイデガー、フーコーは近代の西洋の市民社会における制度に対して懐疑的・批判的であり、彼らに影響を受けた多くの思想家たちも同様である。自由主義と民主主義を、近代までのヨーロッパにおいて培われてきた哲学、宗教が規定する人間像に基づいて生まれてきたものだと捉えると、その基礎の部分である哲学や宗教のあり方が懐疑や批判に晒されれば、当然自由主義と民主主義も同様に懐疑と批判に対象になり得るというのがこれらの思想家に共通する考え方である。しかし、ローティの政治に対する考え方はこれとは真逆である。ローティはニーチェ、ハイデガー、フーコー、デリダなどをアイロニカルな理論において自分と同じ趣味を持つ哲学者だと考えているが、「リベラル・アイロニスト」になるということは、これとは別系統の、相反する思想を同時に受け入れるということである。

ローティは、そもそも社会制度の基礎となる「哲学」を覆せば「制度」まで覆さなければならないという考え方は、プラトンが考えたような、形而上学的に一貫した哲学による社会体制という思考形式を未だ捨て切れていないことの表れなのではないか、ということを指摘する。「アイロニスト」の哲学に従い、それをそのまま政治理論に適用することは、「プラトンの呪縛」としての伝統的な西洋の知的態度から結局抜け出せないでいるのではないか、ということである。しかしローティの考える「リベラル・アイロニスト」は、「私的」な領域においては「アイロニスト」の思想を保持しつつ、「公的」な領域である政治の場にはこれを持ち込まない、いわば「ミルの仮面をかぶったニーチェ」という生き方である。

ローティによると、 このような「公」と「私」の区別という考え方はT.ジェファーソンやW・ホワイトマン、デューイといたアメリカの民主主義を建設し、これを肯定的に捉えている人々の中によく見られるという。ローティやデューイのプラグマティズムの思想は、道徳を哲学的に基礎づけて構築するカント的な道徳哲学からすると浅薄なようにも見えるが、ローティはこの哲学的浅薄さこそが、近代の啓蒙主義と世俗主義が神学を駆逐したのと同様に、「哲学に基礎づけられた道徳」が、より寛容に、よりリベラルに改良するのに役立つと考えていた。

【可謬性と偶然性】

ローティの自由主義を考える上で、彼がJ.S.ミルの自由論に高い評価を与えているという点が重要であるように思われる。ローティとミルの自由主義は、自然権に基づく伝統的な自由主義や「自己所有権」に基づくリバタリアニズムとは大きく異なる。ローティにとっては、権利という概念が存在すると述べることは形而上学的な議論以外の何者でもなく、それもまた放棄されるべきものなのである。

ミルが個人の自由が保障されなければならない理由として挙げているのが人間の「可謬性」である。ある人の思想が、社会の大多数の人々から見ると奇異なものであるように思えても、その人が考えていることが他人に害を与えるものでない限りは、その考えがどれほど奇異であってもその人がそのように考えることは社会的に許されなければならない、というのがミルの考え方である。「真理」の存在と、神の知識を持つ教会の無謬性という想定に立ち、中世のキリスト教はガリレオを「異端者」として弾圧したが、現代においては彼の世界観は「真」とされている。これと同様に、社会制度や道徳も、歴史の進展によってより良いと思われる方向へ変化していく。そのように誤謬が修正されていくのも、多様な意見・価値観の存在を容認するような社会の「寛容さ」が近代になるにつれてますます保障されるようになったからである。一見すると奇異な意見であるように思えても、それを圧殺せず、その存在を是認し、またそれを公表する自由があれば、いつかその考え方が大勢を覆し、主流となることもあるかもしれない。このミルの「可謬性」という考え方は、ローティの「偶然性」という考え方とうまく重なる。ある人が自分の意見が正しいという確信を持つのは、自分が所属する社会・文化の無謬性を仮定して、それに拠っているからに過ぎない。そして、自分がどの社会・文化に所属するかは、自分がどの社会・文化のもとに生まれ育つかという「偶然性」によってしか決まらない。よって、自分が所属する社会・文化に無謬性を求めるのは無意味である、とミルは論じている。

ローティもこれと同様に、自己の偶然性を論じている。ローティが考える「アイロニスト」は、自らが現在持っている最高の信念である「ファイナル・ボキャブラリー」(final vocabulary)を、本当の意味で最高のものとは思っておらず、あくまで暫定的に最高のものだと思っている。自らに与えられたボキャブラリーは偶然的に生れ落ちた土地と時代における、その地域特有(parochial)の用語だと知っている。そのため、自分たちの常識では計り知れない、価値観が相容れない人々が存在していることも知っている。そして、そのようなアイロニストたちは、互いの価値観を尊重し、互いを傷つけ合わないために、互いがいかなる信念・価値を信奉していようとも、それが自分を傷つけるものでもなく他人に害を与える恐れがない限り、許容する自由と寛容を持つようになるのである。つまり、「アイロニー」を徹底すれば「リベラリズム」は必然的に帰結するのである。

ローティは自らの「公」と「私」の区別のモデルとして、「たくさんの排他的なクラブ(英国紳士のクラブのようなもの)に囲まれたバザール(商店が立ち並ぶ市場のようなもの)」という比喩を挙げている。

私はバザールにおいて商談をしている多くの人々が、お互いの信念を共有するくらいなら死んだ方がましだと思いつつも、「ビジネスライク」に交渉しているところを思い描く。そのようなバザールは明らかにマッキンタイアーやR.べラーのような自由主義の批判者たちによって用いられた意味での「共同体」ではない。……もし、そこに居合わせたなら、役所や八百屋の店先やバザールにおいて信じ難いほどの「差異」を見せつけようとするような人が現れても、ただ感情を上手くコントロールする能力さえ持ち合わせていれば良い。そのようなことが起こったならば、できるだけ微笑みを絶やさずに上手にその場を切り抜け、その日の辛い商談が終わった後に自らの「クラブ」へと戻れば良い。そこでは自らの道徳観を満たすような親しい人々との交わりによって心安らぐことができるだろう。(Rorty, 1991)

この箇所はローティの「公」と「私」の考え方がとても鮮明に表現されているところであろう。ローティにとっての自由主義・民主主義・多元主義とは、枠組としての公的空間の中に私的なものが群立するというイメージが強い。また、ローティにとっての「政治」とは、中立的な場としての「バザール」において無表情で「ビジネスライク」に行われる交渉のように、積極的な価値表現の場ではなく消極的な意味で捉えられている。可謬性・偶然性の承認による「自由主義」の概念の内実を哲学的に基礎づけることは不可能であると同時に不要である。というのも、普遍的な「自由」の概念は、「自由の強制」となり、もはや「自由」ではないからである。ローティにおける「自由主義」とは、概念として実体化するべきものではなく、多様な考え方や価値観が並存する「場」や「枠組み」として理解されるべきものなのである。

最後に、アイザイア・バーリンの言葉で締めくくりたい。「消極的自由」の概念で知られるバーリンは、その論文「二つの自由概念」を、ヨーゼフ・シュンペーターの言葉を引用しつつ以下のように結んでいる。

「自己の確信の正当性の相対的なものであることを自覚し、しかもひるむことなくその信念を表明すること、これこそが文明人を野蛮人から区別する点である。」これ以上のものを要求することは、おそらく人間の不治なる深い形而上学的要求というものであろう。しかしながら、この形而上学的要求に実践の指導を委ねることは同様に深い、そしてはるかに危険な、道徳的・政治的未成熟の兆候なのである。(Berlin, 1958)


【参考文献】
  • Berlin, Isaiah (1958) "Two Concepts of Liberty"in Isaiah Berlin (1969) Four Essays on Liberty. Oxford: Oxford University Press.
  • Rorty, Richard (1989) Contingency, Irony, and Solidarity. Cambridge: Cambridge University Press.
  • --- (1991) "On ethnocentrism: A reply to Clifford Geertz", in Objectivity, Relativism and Truth: Philosophical Papers I. Cambridge: Cambridge University Press, pp.203-210.
  • 大賀祐樹 (2009) 『リチャード・ローティ―リベラル・アイロニストの思想』藤原書店

2011年3月20日日曜日

トービン税と貨幣発行自由化

以下の文章は『帝国の条件:自由を育む秩序の原理』における橋本努氏の「トービン税と世界通貨の育成」構想をまとめたものである。



市場経済のグローバルに対する批判的言説として、「国際的な投機資金の流れが世界の諸地域を不安定に陥れているのではないか」という声が聞こえ始めて久しい。このような懸念は90年代の諸地域における経済危機――1992~93年の欧州通貨危機、1994~95年のメキシコ債務危機、1997年のアジア通貨危機など――から想起されるだろう。もし市場経済のグローバル化の本質が「投機駆動型の不安定な世界再編」にあるとすれば、我々は如何にしてこの過程を飼いならすことができようか。

このような問題は、経済学の古くて新しい問題である。というのも、「投機による市場の攪乱」という問題は、既にケインズがその主著『一般理論』において取り組んでいる。ケインズによると、市場経済は人々の慣行的(コンヴェンショナル)な行動によって安定性を獲得する一方で、もしその慣行に変化が現れると、それを先読みしようとする群集的な投機行動の結果として、累積的な不均衡化に陥る場合があるという。実際このような投資家集団による市場の攪乱は、90年代の諸々の通貨危機において共通する現象であったと言えるだろう。

そしてケインズ派の経済学者たちはこの問題――「国際金融市場の不安定化を如何に飼いならすか」――に早くから取り組んできた。例えばノーベル経済学者のジェームズ・トービンは、既に1970年代の時点で国際金融市場の不安定性を取り除くための為替取引税案というものを提案している。為替取引に対する課税によって投機資金の移動を抑え、国際金融システムの安定化を図ろうという構想である。「トービン税」と呼ばれるこのアイデアは、発表当初こそほとんど無視されたものの、90年代におけるいくつかの金融危機を契機に、最近注目度が高まっている。とりわけフランスの社会運動組織「アタック(ATTAC)」がトービン税の導入を掲げて国際的な社会運動を展開し、この運動は現在「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンを掲げる「世界社会フォーラム」に発展的に継承されている。

いまや「トービン税」に賛成する人々は市場を民主的に管理することが望ましいとするケインズ=マルクス的な左派イデオロギーの信奉者で、反対する人々は新古典派的な市場至上主義者である、というような思想的図式が一般的であるように思える。しかし、このような理解は単純に誤りである。実際トービン税を提案したトービン自身も、ケインズには共感を寄せるとしても、ケインズとマルクスを結びつける左派のイデオロギーには反対していた。トービン税の構想は今後の世界秩序を展望する上で思想的に開かれた問題を提起しているのである。

さて、 『帝国の条件: 自由を育む秩序の原理』において橋本努氏が提示している「トービン税とハイエクの貨幣発行自由化論を融合させる」というアイデアを、以下に紹介したい。そのためにまず、トービン税の具体的な制度案を説明したい。

トービンがトービン税のアイデアを提出した際の具体案として、スポット取引(現物取引)に対して取引額に応じた一律の課税(1%)を提案している。スポット取引に課税すれば、短期的な資金の移動を減少させるインセンティヴが働くだろう。またトービン税の徴税機関としては様々な案があるが、さしあたって各国の税務局や金融当局が徴収することになるだろう。そして各国政府は徴税したトービン税のいくらかをIMFや国連などの国際機関に配分するよう求められるだろう。どの機関がトービン税を徴収するかという問題は、トービン税の税収をどのような用途に使うかによって決まるだろうが、いずれにせよトービン税の構想は、経済のグローバル化の恩恵を受ける人々から徴税することによって、相対的に恵まれない人々のために使われることになるだろう。

しかし、トービン税には一つ決定的な懸念がある。それは、「トービン税を徴税することによって市場が逆に不安定化するのではないか」という根本的な疑念である。理論的に言えば、為替取引の多くは実物取引に伴う為替リスクをヘッジ(回避)することを目的としているが、トービン税が導入されると取引者たちはよりコストのかかるヘッジを強いられるようになり、その結果として取引が全体的に短期化すると思われる。実際、トービン税を課すと為替レートのボラティリティ(変動率)が上昇するという実証研究も存在する。つまり、トービン税の導入は、ヘッジ技術の制約から、投機による市場の不安定性がかえって増すのではないか、という指摘である。トービン税を導入するにあたっては、このような可能性を仔細に検討する必要があるだろう。

次に、トービン税の導入から、最終的には貨幣発行権の民間譲渡(ハイエクの貨幣発行自由化論)に至るまでのシナリオを描いていきたい。トービン税が導入されると、市場参加者たちはこの課税を避けようとして、通常の為替取引に代わる金融派生商品を開発するだろう。あるいはまた人々は、自国の通貨を用いずに、なるべく為替取引の必要のないように、世界的に流通しているドルやユーロを使うようになるだろう。とりわけ小国にとっては、自国の通貨を用いるよりはドルを用いた方が経済効率に優れていると見なされるだろう。反グローバリズムの立場からすれば、これらの動きは望ましくないだろう。彼らは「市場の安定化と管理」という観点から、「金融派生商品に対してもトービン税を課す必要がある」、あるいはドルやユーロのヘゲモニー化(権力集中)に対しても、これに抗いつつ、「途上国が国民通貨の発行権を主体的に確立するべきだ」と主張するだろう。

しかし、このような対応には限界がある。金融派生商品にもトービン税を課すとしても、それを回避するための新たな金融派生商品が次々と開発され、イタチごっこと化すだろう。また、ドルやユーロの「ヘゲモニー化」に人為的に抗うことは自国の経済を不利に晒すことになるため、あまり現実的な選択肢とは思えない。ハイエク的に発想するならば、我々の「設計主義的理性の限界」を「進化論的理性の成長」によって補っていく必要があるのだ。貨幣システムに即して言えば、我々は複数の世界貨幣が市場の中から自生的に生成するようなシステムを構築する方向に向かうしかない。

そしてその場合、トービン税は、市場の内部から世界貨幣を生成するための第一ステップとなる。もちろんトービン税の直接の目的は金融市場の安定化(と一定の税収の確保)であるが、その意図せざる結果として世界貨幣の創出を期待できるかもしれない。というのも、トービン税を回避するための金融手段が発達して、それが世界貨幣へと進化するかもしれないからである。

例えば各国の企業は、為替取引に課されるトービン税を回避するために多国籍企業化し、仮想の貨幣尺度を用いた企業内決済システムを発展させていくかもしれない。また生産コストの計算や賃金制度も、その新しい貨幣尺度に基づいて行われるかもしれない。世界を飛び回りながら仕事をすすめるコスモポリタン社員には、通貨バスケットにペッグ(固定)した賃金の支払いがなされるかもしれない(これは既に一部の国際機関で導入されている)。また国際金融市場においても、 金融派生商品がいっそう進化していくだろう。例えばピーター・ガーバーによれば、トービン税を回避する手段として、三日後の先渡し取引に代えて、三日後満期のアメリカ国債と日本国債を交換するという取引が生まれるかもしれないという。この場合、国債は決済手段として貨幣性を帯びることになるが、ここでもし国債の売買に対してもトービン税が課されるようにばれば、今度はこの課税を逃れるために、小麦をベースにした代替取引や、S&P500株価指数をベースにした取引が開発されるかもしれない。あるいは金(ゴールド)が再び貨幣として登場するかもしれない。課税回避手段はさらに、通貨と財務省証券とのスワップの組み合わせを生み出すかもしれない。

さて、このような金融派生商品が高度に発達した段階こそが、 ハイエクの貨幣発行自由化を導入するタイミングである。ハイエクの貨幣発行自由化とは、中央銀行による貨幣の独占的な発券を改めて、民間の銀行や企業が、それぞれ独自の流通手段を発行できるように制度を変えるという制度改革案である。フリーバンキング論を支持する人の多くは、「金」を100%準備とした民間銀行による自由な貨幣発行を求めてきたが、これに対してハイエクは、金を100%準備する必要はなく、どんな方法で発券しても構わないとしている。例えば私が貨幣を刷って、それを発券することもできる。もちろん貨幣は信用が無ければ流通しないので、貨幣発行者は貨幣の流通に必要な諸条件(流通範囲、受領可能性、持続可能性に対する信頼など)を自ら整備しなければならない。ハイエク的な自由貨幣制度の下では、貨幣は通常の商品と同様に市場メカニズムを通して受け入れらたり拒否されたりするだろう。ハイエク的な貨幣制度では、ひとえに信用のある貨幣は成長し、信用の無い貨幣は淘汰されていくことになる。

もしこのような貨幣発行自由化政策が実現できれば、例えばVISAやマスター・カードといった信販会社が、世界に流通する独自の貨幣を発行するかもしれない。あるいは米が主食の諸地域では米の価格にペッグされた通貨が信用を得て成長するかもしれないし、あるいは複数の農作物や商品のバスケットにペッグされた通貨の生成も考えられる。またローカルなレベルでは、現段階では「商品券」に過ぎない地域通貨が、法的に通貨の地位を獲得して、地域の活性化を促すことになるかもしれない。

このような段階に来て、仮に国際機関がVISA通貨やマスター・カード通貨にトービン税を課税したとしたら、今度はこれらの貨幣がますます流通圏を拡大させることになるだろう。(なぜなら、人々は課税を回避するためにドルやユーロに代えて専らVISA通貨やマスター・カード通貨を利用するようになるだろうから。なぜ公的通貨より民間通貨の方が好まれる可能性が高いかというと、民間組織によって発行される貨幣を使用する消費者にとってメリットのあるシステムが開発されると思われるため。例えば日本人がアメリカのインターネット本屋でクレジットを用いて本を購入する場合、VISA社やマスター・カード社は自社の通貨で決済した方が為替手数料や為替レートが安くなるように設定して、自社の通貨を使用するよう促すだろう。このようなプロセスを経て、基本的にドルやユーロなどの公的通貨は民間通貨に淘汰されると予測される)。このような、民間通貨の流通圏拡大現象は、トービン税の導入(と課税範囲拡大)によって得られるポジティヴ・フィードバックである。

さて、トービン税構想の最終段階として橋本努氏は「徴税権を持った世界政府の運営」を据えているが、私はそのような展望には多少懐疑的だ。仮に世界政府が実現できたとしても、そのような組織の健全な運営は果たして可能なのだろうか。その統治範囲の圧倒的な規模を考えると、徴税権(及び再分配権)はローカルな統治主体に委ねた方が遥かに効率が良さそうだ。世界政府はむしろ、現在の国連のような、安全保障や環境問題などに積極的に取り組む組織であれば十分のように思われる。

以上に描いたトービン税・貨幣発行自由化構想は、世界通貨を自生的に生成させるという企てである。その潜在的作用として、私たちの視点・関心をよりグローバルな方向へと仕向け、世界規模の開けた市場秩序を導くことに資するであろう。

2011年2月17日木曜日

サイバネティクスと「創発」

1990年代、アメリカの科学者の間で「知的設計論(インテリジェント・デザイン)」という考え方が広まった。その内容はというと、「知性ある設計者によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計された」とする説で、従来のダーウィン的な進化論を否定するものだった。この説は、「原始的な動物が次第に進化して人間になった」という進化論の世界観と、「全ての人間の祖であるアダムは神によって創造され、その妻イヴはアダムの肋骨から生まれた」という聖書の記述を巡る論争から生まれたもので、創造論を信じるキリスト教徒やユダヤ教徒にとってはうってつけの理論だった。ブッシュ大統領をはじめ知的設計論を信じる一部の人たちは、公立学校の理科のカリキュラムに(進化論の代わりに)知的設計論を導入しようとする運動を展開し、社会問題になった。結局この試みは「政教分離の原則に反する」として、ペンシルベニア州裁判所によって知的設計論を教育することを禁止する判決が下され、問題は一応の解決をみた。

さて、この騒動のおかげで「知的設計論」 の世評は大きく損なわれる結果となったが、 果たしてその主張は本当にバカバカしいものだったのだろうか?果たして知的設計論は本当に科学的価値のない、単なる宗教的信条として処理してしまっていいのだろうか?私は「否」だと思う。というのも、生命や宇宙を設計したという「知性」は、必ずしも「神」である必要はないからだ。

サイバネティクス論などで有名なグレゴリー・ベイトソンは、生命と宇宙の法則性を司る大いなる「マインド」の存在を主張した。彼はその代表的著書『精神の生態学』(Steps to an Ecology of Mind)において、世界をシステムの連関・集積として捉え、それぞれのシステム内の諸要素が競争と相互依存を繰り返すことによってシステム全体の秩序が保たれていると述べている。これらのシステムはすべてフィードバックによって環境の変化に適応し、絶えず自己修正していく。(このようなシステムをサイバネティクス・システムと言う)。そしてすべてのシステムを秩序付ける大いなる法則性こそが「マインド」なのである。ベイトソンにとっては細胞も、人間の精神も、 動物の生態系も、高度な人間社会も、すべてサイバネティクス・システムであり、そこには常に「マインド」が遍在している。

例えばシロアリを想像してみて欲しい。シロアリは巨大で複雑な蟻塚を作ることで知られているが、それぞれのシロアリは驚くほど単純ないくつかの機械的な「行為ルール」に基づいて振舞っているに過ぎず、「意識」を持たない。(E.O. Wilson, The Insect Societies) しかも、「蟻塚の作り方」というもの自体は遺伝子に組み込まれておらず、それぞれのシロアリの行動は単独では意味を成さない。しかし、そのようなシロアリが何万匹と集まると、彼らの行動の集積の「意図せざる結果」として巨大で複雑な蟻塚が出現する。固体単位でみれば「知能」があるようにはとても思えないが、系全体としてみれば「知的」な生命体にみえるのである。

このような現象は「創発」(emergence)と呼ばれている。「創発」とは、要素の単純な相互作用や連関から、複雑なシステムやパターンが現れる現象のことだ。ただ、ここで注意しなければならないのは、「創発」には二種類――「弱い創発」と「強い創発」――があるということである。「弱い創発」は、「部分からは予測できない何か」が出現することを言うのに対して、「強い創発」は、「部分の総和以上の何か」が出現することを主張する。両者には明らかに違いがある。前者は、部分の単純な振る舞い以上の「何か」を想定しておらず、あくまでわれわれ人間には「予測できない」全体の性質に言及しているに過ぎないが、後者は部分の振る舞い以上の「何か」が実際に現象として生じることを想定している。言い換えれば、前者は観察する人間の主観に依存する認識論上の「創発」であり、後者は人間の主観からは独立した存在論上の「創発」である。

Mark Bedauは、「強い創発」が必然的に伴う「呪術的」な含意を、以下のように不安げに述べている。

強い創発は理論上は可能だが、不気味な「呪術的」要素を伴わざるを得ない。部分に還元できない付随的(スーパーヴィーニエント)な下方因果の力が出現し得るとすれば、それは定義上部分の性質の総和によるものではあり得ないのだから、どのようにしてあり得るというのだろうか?そのような因果力が本当にあるとすれば、それは我々の科学的知見からはおよそかけ離れたものである。したがって、そのような力の存在は、通常の唯物論的な世界観とは噛み合わない。そればかりではなく、そのような怪しい力を想定することは、創発が「無から有を得る」という非論理的な意味合いを孕んでいるのではないか、という以前からの憂慮が増すことになる。(Bedau, "Weak Emergence")

私もBedauと同様、「強い創発」には「オカルト的な薄気味悪さ」を感ぜざるを得ない。後の論文でBedeauが指摘しているように、「強い創発」の存在を想定することはおそらく科学的に誤りだろう。

さて、上の蟻塚の例に戻ろう。私が言いたいのは、「複雑な人間社会もシロアリの蟻塚と全く同じような現象なのではないか」ということである。自然界のすべての複雑現象――生命、精神、社会、生態系――も蟻塚の例と全く同じように、部分の機械的・法則的な振る舞いから、必然的帰結として「創発」している(ように見える)だけなのではないだろうか?

このことを示唆する面白い実験がある。トーマス・レイが開発した「Tierra」という人工生命システムだ。Tierraでは、自己複製する一個のプログラム(遺伝子コード)を「仮想生命」に見立て、コンピュータのメモリ空間内で「飼育」する。仮想生命に与えられたエネルギーは、割り当てられたCPU時間である。また、メモリ空間が一杯になってしまうと仮想生命は「子孫」を残すことができなくなってしまうので、メモリが80%以上になると「死神」が現れ、古い仮想生命から消去していく。さらに、自然界における「突然変異」に等しいものとして、自己増殖時に一定確率で遺伝子コード(CPUへの命令コード)のビットを反転させる。この三つの機械的な命令――「自己増殖」、「死」、「突然変異」――を与え、コンピュータを起動したまま長時間放置しただけで、本人ですら予想できなかった驚くべき仮想生命が次々と誕生したのである。別の仮想生命に寄生してCPU時間を奪う「寄生種」や、お互いに集団を形成して助け合いながら複製する「社会的パラサイト」や、「セックス」をして遺伝子同士を混ぜ合わせる仮想生命まで現れた。(詳しくは→http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/jinkou.html)。これは、いくつかの単純な「行為ルール」に基づく部分(遺伝子コード)の機械的な振る舞いから、予想できなかった全体が「創発」した例と言えるだろう。ならば、自然界の複雑現象も同様のメカニズムに基づいている可能性も十分あり得るのではなかろうか?

これがまさにベイトソンの世界観である。デカルトは「我思うゆえに我あり」と論じたが、本当に「我思う」と「我あり」の間のロジックは確かなのだろうか?我々が通常「意識」とみなしている現象は、実は我々の無知と人間中心的な推論による錯覚でない保証は、どこにあるのだろうか?はっきり言ってないと思う。このようにして、知的設計論は別の意味で復活してくるのである。この「新しい」知的設計論では、生命と宇宙を設計した「知性」 は「マインド」であり、「マインド」は我々を含むすべてのシステムに遍在していることになる。

しかし、このような議論は「強い創発」とは別の意味で薄気味悪い想像を孕んでいるように思える。つまり、我々が「没精神的」な存在であるならば、我々にとって自由意志の余地が無くなってしまうのではないだろうか、という想像である。果たして我々はシロアリと何ら変わりないのだろうか?私はそんなことはないと思う。確かに、(このような世界観を採用する限り)大きな視点で俯瞰すれば人間には自由意志がないと言えるかもしれない。しかし、我々は無知だ。シロアリが自らの作る蟻塚を予測できないのと同様に、我々は我々自身の未来を予測することはできない。我々にとって、自らの運命が既に決定されているのかどうかを論じることは意味を成さない――仮に決定されていたとしてもそれを知る術はないのだから。未来を知る術がない以上、我々は全力で大いなる自然(=マインド)にぶつかっていき、失敗してもまたぶつかっていくしかないだろう。それが自由意志を行使するということだ。