2014年1月10日金曜日

【書評】 James Ladyman & Don Ross / Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized

Ladyman, James, Don Ross, et al. 2007. Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized. Oxford: Oxford University Press.

科学哲学者James Ladymanと、経済学や脳科学周辺で学際的な研究を行っているDon Rossらによる、Ontic Structural Realism (OSR)のマニフェスト的著書。第1、5章にはDavid Spurett、第4章にはJohn Collierがそれぞれ執筆に加わっている。

OSRとは、平たく言えば、「個物は存在せず、存在するのは関係(構造)だけである」という考え方である。これは一見突飛に聞こえるかもしれないが、OSRを支持するのには穏当な動機がある。それは、自然科学の成果を真摯に受け止め、形而上学の議論に取り入れなければならない、というものである。Ladymanらによれば、現代物理学が明らかにする世界像を真摯に受け止めるならば、従来の、自己同一的な個物の存在を議論の前提とする形而上学は保持できない。実際、哲学者の多くが、細かい粒子同士が衝突したり、相互作用したりすることによってマクロな物体が構成されていると信じているが、Ladymanらはそうした世界観を"microbangings"の世界観、そしてそれに基づく哲学を"philosophy of A-level chemistry"と呼んで揶揄している。

本書の第1章は、英米で現在主流の分析形而上学に対する痛烈な批判から始まっている。曰く、分析形而上学は「人類の知へ貢献することは何もなく」、その実践者は「才能を浪費している」(p.vii)。というのも、分析形而上学の論者たちは、表向きは「自然主義」を標榜していようと、専ら科学的にはありえない前提の中で議論を進めており、その成否如何を経験ではなく直観に頼っているからである。そんな営みはもはや「客観的真理の虚心な追求と見なすことはできず、廃止するべきである」(p.vii)。以前から分析形而上学に対して不信の念を抱いていた私にとって、Ladymanらの批判は実に的確に思われ、痛快だった。

第1章で破壊的な作業が終わった後、第2章以降で建設の作業が始まる。第2章は実在論論争を主軸にしたスタンダードな科学哲学的議論。Bas van Fraassenの構成的経験論を取り上げる辺りは正直ちょっとダルいが、全体の論旨は中々面白い。第3章以降は、形而上学というよりはもはや物理学の哲学といった様相を呈している。個々の論点をすべて追うのは大変だが、議論の大筋は非常に明快である(ただし、執筆陣が異なるためか、第4章を除く)。また、関連文献が豊富なのも嬉しい。

以下、本書を読んだ上での気になった点をいくつかまとめておきたい。

【形而上学の位置付け】

本書は、形而上学を自然化する試みであるから、形而上学をどういう風に捉えるかが議論の前提として重要である。Ladymanらは、形而上学を既成の各科学の成果を綜合する営み、つまりそれぞれの科学からは区別された自律的な活動と見なしている。しかし、自然主義の精神に照らせば、むしろW. V. O. Quineのように哲学と科学を識別不可能なものと捉えた方がいいのではないか、と私には思われる。またLadymanらは、科学と非科学、および各科学分野の境界を画定するための基準として、研究費が下りそうか否か、というのを採用している(p.33)が、これはかなり説得力を欠く。この二点は次のように関連している。すなわち、Ladymanらは形而上学を、各科学が一旦成立してから遅れてやってくる世話役のように捉えている。しかし科学史を振り返ってみれば、fruitfulな科学はむしろ形而上学的思弁と協働しているのが分かる(この歴史解釈には異論があるかもしれないが、私の読みはそうである)。そして各科学の境界も、こうした思弁の中で徐々に出来上がっていく。

一旦科学の成果が出揃うまで待てという制約は窮屈過ぎるように思われるし、哲学と科学との間に余計な弁別を導入している。これは、自然主義の精神に適っているとは言い難いのではないか。これがLadyman & Rossに対する私の最も大きな不満点である。すなわち、既存の科学を固定化しようとするモメントが強すぎるのである。

【Real Patternsについて】

Ladyman & RossのOSRにおいて不可欠な役割を担うのが、Real Patterns (RP)の理論である。RPと言えばもともと、哲学者Daniel Dennettが同名の論文の中で、人間の志向状態——「信じる」や「欲する」といった——の存在論的身分を明らかにするために粗描した理論である。[1] ただし、Dennettの理論は人間の志向状態に留まらず、存在者一般に関する理論であって、志向状態はその一例に過ぎない。そういう意味で、RPは一つの存在論である。Dennettの論文では必ずしも明確ではないものの、RPによれば、存在する一切のものは「パターン」である。[2] パターンとはデータの規則性である。あるデータにパターンが存在するためには、そのデータが圧縮可能でなければならない。例えば、0と1が交互に32回繰り返すデータは、「0と1を32回交互に繰り返せ」と命じるプログラムに圧縮可能である。他方で、0と1の全くランダムな羅列は、圧縮不可能である。つまり、前者にはパターンがあるが後者にはパターンがないのである。さて、パターンには、実在するパターンと単なるパターンとがある、というのがDennettやLadyman & Rossの共通の主張である。しかし、DennettとLadyman & Rossとでは、あるパターンが実在するパターン、つまりRPであるための必要十分条件が異なる。以下、この点を敷衍してみたい。

まずDennettの定式化を見てみよう。

[A] pattern exists in some data—is real—if there is a description of the data that is more efficient than the bit map, whether or not anyone can concoct it. [3]

なお、ここで言われている「ビットマップ」とは、圧縮率0のデータ記述である。さて、ここで重要なのは、何を以てあるデータの記述を「効率的」(efficient)と見なすか、である。パターンの実在性の要件が問題になっているのであるから、効率性をデータの「圧縮率」と解すことはできない。というのも、効率性が単に圧縮率の問題であるなら、ノイズの混入を犠牲にいくらでも圧縮率を上げることができ、パターンが存在するか否かが客観的な事実ではなく記述者の都合のみによって決まることになってしまうからである。それではRPの要件として不適格である。ではDennettの考えはどうであろうか。彼はパターンがリアルであるための必要条件として、「成功する予測をもたらす」ことを考えているようである。RP論文の中で彼は、もしあるパターンに賭けることによって儲けることができるならば、そのパターンはリアルである、と述べている。したがって、先の定式化におけるデータ記述の「効率性」を、「予測が上手くいくこと」と解釈することによって、彼のRPの二つの(一見異なるように見える)特徴付けを同一視することができる。

しかし、単に予測を促進するというだけではまだRPの条件として弱い。つまりこれではまだ十分条件とは言えない。というのも、Dennettは別の論文の中で次のような議論を展開しているからである。[4] すなわち、我々は温度計に対して志向姿勢(ある対象を、志向的な主体と見なすデータ記述の様式)を採ることが可能である(例えば「温度計は部屋が25度であることを望んでいる」、「温度計は今部屋が20度であると思っている」、などと解釈することによって)が、チェスを指す高性能コンピュータに対しては、我々は、予測力を削ぎ落とさないためには志向姿勢を採らざるを得ない。言い換えれば、我々はチェスの試合においては「志向姿勢」というデータ圧縮の様式を放棄することができないのである(さもないと相手の次の一手を読む能力を大幅に失ってしまう)。ここで言われている「圧縮の放棄不可能性」——あるいは「さらなる圧縮の不可能性」と読み換えても良い。もし予測力を削ぎ落とすことなくさらなる圧縮が可能であるならば、当該圧縮は放棄可能であるから、対偶を取って「圧縮が放棄不可能」⇒「さらなる圧縮が不可能」。逆に「さらなる圧縮が不可能」⇒「圧縮が放棄不可能」も明らかに成立する——は、単に「成功する予測をもたらす」よりも強い条件である。

問題は、「誰にとって放棄不可能」であるか、である。これはあるパターンがリアルであるための十分条件は何か、という問題である。この点についてDennettの記述は一貫していない、というのがLadyman & Rossの本書における指摘である(p.206)。というのも、DennettはRP論文の前半では「物理的に可能などんな計算機によっても放棄不可能」という条件を想定しておきながら、同じ論文の後半では「我々人間によって放棄不可能」であることを想定しているようだからである。ある箇所では、放棄不可能性を記述者のノイズ許容度にさえ相対化させてしまっている、とLadyman & Rossは指摘する(p.206)。これでは放棄不可能性の条件がないのと実質的に等しい。Ladyman & Rossに言わせれば、圧縮の放棄不可能性を、恣意的に制限された状況における、恣意的に選ばれた計算機(特定の人間集団のような)の推論力に相対化させてはならない(p.208)。彼らによれば、このような解釈は道具主義を招く。パターンがリアルであるための十分条件としてはむしろ、「物理的に可能などんな計算機によっても放棄不可能」とするべきである、と彼らは言う。Dennett自身の最初のRPの定式化における、"whether or not anyone can concoct it"というフレーズも、このように解釈しない限り首尾一貫しないだろう。というのも、この一節は「どんな人間や計算機も未だ発見していないRPが存在し得る」ということを含意しているからである。

以上の考察を踏まえて、Ladyman & Rossは独自の用語法に基づいた新たなRPの必要十分条件を次のように与えている(p.233)。

[A] pattern x → y is real iff
(i) it is projectible; and
(ii) it has a model that carries information about at least one pattern P in an encoding that has logical depth less than the bit-map encoding of P, and where P is not projectible by a physically possible device computing information about another real pattern of lower logical depth than x → y.

もし私の理解が正しければ、ここでパターンが写像「x → y」と見なされているのは、ある計算機によるパターンの予測計算によってパターンが再帰的に定義されているからである。xが観測されるパターンであり、yは、xをシミュレートする計算機が出力するxについての予測計算の結果である。y自身もまたパターンであり、これをさらに別の計算機がシミュレートして、それについての予測計算の結果zを出力する。実在性の関係は推移的なので、x→y、y→zがリアルであればx→zもまたリアルである。定義を構成する基底ケースは、xが何であるか言えず、ただ「指をさす」ことしかできない状況だそうである(p.226)。以上より、xが何であるか言えない「物自体」のケースから始まって、xを観測するy、yを観測するz、という風に次々とRPが構成されていく。x → yがprojectibleとは、平たく言えばxをシミュレートしなかった場合よりも高い確率でxを正しく予測できる、ということである。要するに、Dennettの論文にあった「成功する予測をもたらす」という条件をより精緻にしたものである。条件(ii)にあるlogical depthとは、Charles Bennettによって提案された複雑さの指標である。[5] この条件が述べているのは、「物理的に可能などんな計算機によっても、さらなる圧縮が不可能」という条件と実質的に同じことである。以上により、Ladyman & RossはRPの必要十分条件を与えている。

本書におけるLadyman & Rossの中心テーゼは、この世界に存在する一切は、上のように定式化されたRPである、というものである。パターンとはデータにおける関係の構造であるから、このパターン一元論こそがOSRに相当する。こう考えれば、上のようなややこしい定義を導入しなければならなかった必然性も見えてくる。すなわち、パターンは個物ではないので、それを観測する計算機から切り離して考えることができない。ゆえに、観測されるパターンと観測するパターンとの関係から、再帰的に「パターン」を定義するしかないのである。結局、存在する一切はパターンということで、パターン同士がお互いを計算し、お互いの振る舞いを予測しようとしている、という世界像が帰結する。Ladyman & Rossはこの世界像をRainforest Realismとも呼んでいる。これは、存在論はなるべく小さい方が良いという意味で「砂漠」を勧めていたQuineの比喩にあやかったものである。Ladyman & RossのOSRは、存在論的還元主義とアトミズムに立脚するQuineの砂漠とは対照的に、観測の粗さの様々なスケールでの多様な実在を認める熱帯雨林だというわけである。

さて、私は次の疑問を提起してみたい。すなわち、Ladyman & Rossの熱帯雨林は彼らが言うほど果たして緑豊かであろうか?上でみたように、Ladyman & Rossは圧縮の放棄不可能性を人間の計算力に相対化するDennettによるRPの定式化(以下、RP1)を「道具主義的」と見なして批判している。これは、あるパターンがリアルであるか否かが、(彼ら曰く)客観的な事実ではなく恣意的ないし偶然的な要素によって決まることになってしまうからである。しかし、結果として「物理的に可能などんな計算機によっても圧縮が放棄不可能」であることを要求するLadyman & Rossの定式化(以下、RP2)の方が道具主義的であるように私には思われる。というのは、RP2の必要十分条件は厳し過ぎるからである。彼らの基準をクリアするパターンに保証されるリアルさの度合いは確かに強いけれど、基準から漏れるものがあまりにも多いのではないか。例えば、RP1では、心に関する消去主義はアプリオリに偽である。なぜなら、志向状態についての語りは我々人間にとって放棄不可能だからである。しかし、RP2に従えば、消去主義は経験的に検証するべき主張である(p.207)。言い換えれば、将来的に志向状態についての語りよりも効率的な——projectibleでかつlogical depthが低い——圧縮が発見されれば(神経生理学的な記述であれ何であれ)、志向状態についての語りは放棄可能になる、というわけである。これが道具主義でなければ一体何であろうか。ゆえに、OSRは実在論である以上、DennettのRP1の方がその定式化に適しているように思われる。RP2に基づくLadyman & RossのOSRは、熱帯雨林実在論と言いつつも、その内実、基礎物理学が明らかにするパターン以外のパターンに正当な実在性を付与していないのではないか(彼ら自身によるその否認にも関わらず。本書pp.242-243参照)。結局、彼らの実在論は熱帯雨林というよりは精々、永久凍土なのではないか、という疑念を持たざるを得ない。

【最後に】

以上、私はLadyman & Rossの立場を散々批判的に扱ってきたけれど、裏を返せば、それだけ批判する価値があるということである。私は、彼らのある種ラディカルとも言える自然主義の精神には強く共鳴するし、OSRについても、まだまだ曖昧な点や難点もあるとは言え、非常に興味深く魅力的な考え方だと思っている。だからこそLadyman & Rossとの差別化を図ることによって自分の考えを明確化し、理解を深めることができる。この分野の今後の動向にも是非注目していきたい。[6]



[1] Dennett, Daniel. 1991. "Real Patterns." The Journal of Philosophy 88 (1): pp.27-51.

[2] Rossが、"it's real patterns all the way down"というスローガンを私信でDennettに伝えてみたところ、熱の込もった賛同を得たという。本書p.228参照。

[3] Dennett, op. cit., p.34.

[4] Dennett, Daniel. 1971. "Intentional Systems." The Journal of Philosophy 68 (4): pp.87-106.

[5] Bennett, Charles. 1990. "How to Define Complexity in Physics, and Why." in Wojciech Zurek ed., Complexity, Entropy and the Physics of Information, pp. 137-48. Boulder: Westview.

[6] 早速、今年の3月にOSR提唱者の一人、Steven Frenchの新著The Structure of the WorldがOxford University Pressから出版されるようである。

2013年12月17日火曜日

EddingtonとStrawsonの汎心論についてのメモ

自分の研究計画の中からボツった一節をとりあえず上げておきます。

Dr. Galen Strawson's argument is based on the idea of the physicist Arthur Eddington, that since science reveals only the structural form of things and not their intrinsic nature, there is nothing that prevents us from ascribing to these things the stuff of consciousness; and that it is in fact silly not to, for we have a direct insight into the intrinsic nature (or in Eddington's words, the "background") of a certain small part of the universe, namely, the consciousness nature of our brain, and it would be pointless to introduce some other nature inconsistent with consciousness, and then wonder where the latter comes from. The natural inference is that it is consciousness all the way down.

課題:Strawsonは論文"Realistic Monism"の中で上記のEddingtonの論法に依拠して汎心論を唱えているが、この論法は彼の別の論文"Panpsychism?"の中で粗描されているミニマルな実体概念(性質によって尽くされてしまうような)と果たして整合するか。

2013年12月7日土曜日

夢日記 12/07/2013

一人の黒人少年が路面電車に乗っている。彼を先ほどまでいじめていた男子二人も同乗している。窓の外を見ると、路面電車が水中を進んでいることに気付く。辺りには廃墟になった建物や家が連なっている。

"I advise you to go back" (戻った方が身のためですよ)

車掌のアナウンスが響く。しかし誰も意に介さない。すると突然、赤と白の鎧に身を固めた人型ロボットが現れる。一つの足が一軒家ほどの大きさもある、巨大なロボットである。唸る機械音とともに、ロボットは路面電車を跨いで行き、颯爽と歩き去っていく。僕はふと思う。

(あのようなロボット同士の戦いでこの街が廃墟になってしまったのかなぁ)

路面電車は水の中を進んでいく。しばらくすると、停留所に着く。"Martin Luther King Jr. Station"という車掌のアナウンスがある。 外には駅のプラットフォームらしき建立物が見える。周囲は住宅街の廃墟である。

「あ、ぼくの家だ」

と黒人少年が呟く。路面電車が完全に停止すると、少年は席を立ち、電車を降りる。車内の別の席から眺めている僕は、疑問に思う。

(あれ、どうして外の水が車内に流れ込んで来ないのだろう)

一瞬、路面電車の扉が二重扉になっているのかなと思ったものの、そうではなかった。よく見てみると、いつの間にか外の水は完全になくなっていた。地面にある排水溝に吸い込まれていったようである。電車の扉が再び閉まる。すると、排水溝からまた水が湧き出し始める。凄まじい速さで水位が上がっていく。黒人少年は両手両足をバタつかせたり、泳ぐ動作をしてみたりする。しかし動作と水位がなぜか一致していない。やがて、少年は水に飲み込まれる。

2013年11月22日金曜日

パース「プラグマティズムとは何か」について

以下の文章は、C. S. Peirce "What Pragmatism Is"の読書会のために私が用意したレジュメである。参照箇所はすべてThe Collected Papers of Charles Sanders Peirce (Harvard Univ. Press)のもの。(vol. number.paragraph number)という記法に従う。



【背景】

前回の読書会で、私はパースのプラグマティズムには二つの異なる効果概念が含まれているのではないか、という問題を提起した。その二つの効果概念とはすなわち、(A) 我々の行為に対して概念の対象が示す反作用的効果、および(B) 我々がその概念を持つことによる実際的効果、である。この問題を念頭に、本論「プラグマティズムとは何か」(“What Pragmatism Is”)を読んでみたい。なお、1878年の論文である「我々の観念を明晰にする方法」に対して、本論は1905年に書かれたものである。この期間中、パースは初期の唯名論的な立場を放棄して実在論の傾向を強めており、この変遷は彼のプラグマティズムにも表れている。彼は「プラグマティズム」に代わる新たな名称として、「誘拐される怖れのないほど醜い」(5.414)「プラグマティシズム」(pragmaticism)という名称を宣言しているが、これは哲学用語を濫用する「文芸界隈」(literary clutches)に対する当て付けに留まらず、自分の初期のプラグマティズムに対する批判をも含んでいると見るべきであろう。パースのプラグマティシズムが、彼の初期のプラグマティズムといかに異なるかについても考えながら本論を読んでいきたい。

【二つの効果概念、再び】

本論はパース自身によるモノローグからなる前半部分(5.411-5.421)と、質問者とプラグマティスト(プラグマティシスト)との間で交わされる対話からなる後半部分(5.422-5.437)とから構成されている。まず目に付くのは、対話部分の冒頭で、質問者が次の疑問を投げかけていることである:「あなたのプラグマティズムの定義に私は驚いています。というのも、つい昨年、真理を隠蔽するといった疑いの微塵もないような人物——しかも彼自身プラグマティストでした——から、あなたの教説はまさに『概念はその実際的効果によって検証されなければならない』というものだと保証されたからです」(5.422)。そしてこの疑問に対して、パースはきっぱりと上述の定義を否定しているのである。しかしパースは「我々の観念を明晰にする方法」での定式化を繰り返すだけで、自分のプラグマティズムがいかに質問者の言う定義と異なるのかについての具体的な説明はない。ただこのことにより(B)の効果概念によるプラグマティズムの定式化は少なくともパースの意図からは外れることは明らかだと思う(それが事実として混入しているかどうかはともかく)。

ではパースの念頭にあるプラグマティズムはいかなるものであろうか。本論の前半部分に現れる次の定式化を参考にしてみたい:「もし、ある概念の肯定または否定が含意し得る、あらゆる想像可能な実験的現象を正確に定義できれば、当の概念の完全な定義を手に入れたことになる」(5.412)。「概念の肯定または否定が含意し得る~」(… which the affirmation or denial of a concept could imply)という曖昧な言い方は、一見(B)の効果概念を示しているように思える。しかし上の論拠によりこの可能性は考察から除外しておこう。ではこの定式化はいかに理解されうるであろうか。一つの解釈は、パースが「概念の肯定または否定が含意し得る~」と言うとき、彼は「概念(の肯定または否定)の対象が含意し得る~」を短縮した形で語っているのではないか、というものである。「概念の対象」は、「概念を持つこと」とは明らかに異なる。例えば「固い」という概念の対象は「固いという性質」であり、「我々が『固い』という概念を持つこと」とは区別できる。この解釈の根拠は、パースが本論において「実験」(experiment)、「実験的」(experimental)、「実験家」(experimentalist)といった語を繰り返し用いていることである(検索の結果、本論だけで53回も登場している)。彼のプラグマティズムの力点が実験的現象に置かれているのは明らかであろう。そして実験的現象の特徴と言えば、条件となるある行為に対して、感覚可能な帰結が見いだされることである(5.424)。こうした条件-帰結形式の対象認識に沿うのは、やはり(B)の効果概念ではなく(A)の効果概念の方であろう。したがって、パースがあたかも「概念を持つことによる実際的効果」について語っているかのように見える箇所も、可能な限り「概念の対象がもたらす反作用的効果」に読み換えて解釈するのが妥当と思われる。

さて、先の定式化は上の読み換えによって理解可能であったが、前回登場した次の定式化の場合はどうであろうか。

どんな記号であれ、その記号が有する知的趣旨の総体は、その記号を受け容れることによって条件的に起こるであろう、あらゆる可能な異なる状況と意図の下での合理的行為の、あらゆる一般的様式の総体と一致する。 [The entire intellectual purport of any symbol consists in the total of all general modes of rational conduct which, conditionally upon all the possible different circumstances and desires, would ensue upon the acceptance of the symbol] (5.438) 

この定式化はどう解釈しても(B)の方の効果概念を語っているようにしか思えない。やはりパースの著作には二つのプラグマティズムが混在していると考えるべきだろうか。私には結論を出すことができない。

【一般者の実在】

「我々の観念を明晰にする方法」の中で、次のような思考実験があった。すなわち、もしダイアモンドが固いかどうかを実験的に確かめる前に焼失してしまったとしたら、そのダイアモンドが「柔らかかった」という言明は偽と言えるか、というものである。この思考実験に対する当時のパースの答えは、「偽とは言えない」であった:

このような言い回しは、現在の我々の、固いや柔らかいといった言葉に関わる語法の改造を含んではいるが、意味の改造を含んではいない。なぜなら、こうした言い回しは、ただ非常に不器用な仕方で事実を配列しているだけで、実際とは異なる事実を表現しているわけではないからである。現実に生じない状況において何が起こるだろうかという問いは、事実に関わる問いではなく、事実の最も明快な配列に関わる問いに過ぎない、という風に我々は結論しなければならない。[(Such modes of speech) would involve a modification of our present usage of speech with regard to the words hard and soft, but not of their meanings. For they represent no fact to be different from what it is; only they involve arrangements of facts which would be exceedingly maladroit. This leads us to remark that the question of what would occur under circumstances which do not actually arise is not a question of fact, but only of the most perspicuous arrangement of them.] (5.403)

要するに、固いかどうかが実際に検証されないダイアモンドについては、「柔らかい」と主張しても差し支えない、というわけである。これはいささか非常識的な結論である。そして「批判的常識主義」(critical common-sensism)を自認するプラグマティズムにとって、常識にそぐわない結論が導かれるということは、理論に何か問題があるということである。実際にパースはこの点を問題にし、自分の拠って立つ唯名論的前提を批判的に吟味するようになる。その反省の成果が本論「プラグマティズムとは何か」においてよく表れている。

後半の対話部分で、質問者がプラグマティストに対して「プラグマティズムの格率は、形而上学のみならず科学や生活の中の有意味な命題さえも排除してしまうのではないか」という疑問を投げかける箇所がある:「ある個物に対して何かが起き、ある別の現象が続いて起こった、という以上のことを、ある実験がそれ自体で明らかにすることは、いかにして可能でしょうか」(5.424)。これに対してパースは質問者の「それ自体」という言い方を問題にする。プラグマティストにとって概念の合理的意味は、ある一つの「実験」(experiment)ではなく「実験的現象」(experimental phenomena)一般に存する、と彼は言う。そしてこうした一般的現象の重要な特徴は、条件さえ揃えば未来においてもきっと生じるだろう、という期待を含んでいることである。また、真なる命題に表現されている対象は実在しなければならないから、真なる法則に表現されている一般者も実在しなければならない、ということが要請される。この観点に立てば、「我々の観念を明晰にする方法」の中で導かれた、「検証に晒されないダイアモンドのことを柔らかいと主張しても構わない」という結論は成り立たなくなる。というのも「ダイアモンドは固い」というのは真なる法則であり、この法則が表現している「もし擦ったとしても傷付かない」という現象は、現実化されるか否かに関わらず、実在する一般者だからである。かくしてパースの初期のプラグマティズムは改良され、実在論的見地に立つプラグマティシズムとして新たに結実したことが本論から伺える。

2013年10月21日月曜日

パース「我々の観念を明晰にする方法」について

以下の文章は、C. S. Peirce "How to Make Our Ideas Clear"の読書会のために私が用意したレジュメです。特記がない限り頁番号はすべてThe Essential Peirce Vol.1 (Indiana Univ. Press, 1992)のもの。



【明晰と判明】

 「信念の固定化」を扱った前回の読書会において述べたように、パースの「我々の観念を明晰にする方法」という論文は彼の「プラグマティズムの格率」が初めてその定式化を見た論文である。そして、パースのプラグマティズムの基本的な狙いは、デカルト以来の近代哲学の思考法を、彼が「科学の方法」と呼ぶ思考法によって克服することにあるのであった。そこで本論は、デカルトが『哲学原理』(Principia philosophiae)で導入した観念の明晰さの基準を批判するところから始まる。デカルトは観念の明晰さを定義して「注意する精神に現前し、明らかであること」(Principia philosophiae pt.1, 45)とした。つまり、明晰さの基準を内観的明証性に置いたのである。これは「どんな場合にそれに遭遇したとしてもそれだと分かり、他の観念と間違えたりしないこと」と言い換えることができる。もちろんデカルトは「注意する精神」という但し書きを付けたが、これだけだとある観念が明晰であることと、単に明晰に見えることとの間の区別が曖昧になってしまう。そこで彼は明晰さの第二段階として「判明さ」を導入した。すなわち「その内に明晰ならざる部分を有さないこと」という、より強い条件を付した。しかし観念の「部分」とは何であるか、デカルトの著作においてはあまり明らかではない。この難点を克服したのはライプニッツである。彼は概念一般を、その「定義」となる述語の系列に分解する手法を考案し、それらを同時にすべて把握することを認識の完全性の基準とした。つまり、明晰さの基準を抽象的定義に置いたのである。ところが、「三角形の内角の和は180度である」といったような、有限の分解手続きでトートロジーに還元可能な必然的命題はともかく、「カエサルはルビコン川を渡る」といったような偶然的命題の場合、分解手続きは無限に進行する。これは、「カエサル」という名辞には無限の述語系列が含まれており、それらを一挙に把握することは人間知性には不可能だからである。しかし、人間知性の条件を超えた明晰性の基準は、我々の既存の信念に秩序をもたらすことはあっても、新しい信念の獲得にとっては無益であり、さらなる探究の続行を不可能にする。パースはこの点を問題にし、これを解消するために明晰さの第三段階(the third level of clarity)の定式化を試みる。

【プラグマティズムの格率】

探究の目的である信念の固定化とは、我々の内にある行為への傾向性、つまり「習慣」(habit)の確立であった。ならば、我々の思考を明晰化することはとりもなおさず、その思考が規定する習慣を明らかにすることとなる。そして「習慣が何であるかは、それがいつ、いかに我々の行為を生ぜしめるかにかかっている」(p.131)。この「いつ」とは、個々の行為を誘発する知覚経験の時点であり、「いかに」とは、行為がいかなる感覚的結果(sensible result)の内に実現されるか、である。これらの前提から、前回の冒頭でも引いた次の格率が導かれる:

認識の明晰性の第三段階に至るための規則は、必然的に次のものとなる:我々の概念の対象が、行動と関わりがあるかもしれないと考えられるどんな効果を持つと我々が考えるか、ということを考察してみよ。そうすれば、こうした効果に関する我々の概念が、その対象に関する我々の概念の全体と一致する。(p.132) 

これは、我々の対象認識一般を、その対象が我々の行為と関係を有するであろう場面において、「その行為の結果、いかなる反作用的な効果をもたらすであろうか」という信念に還元せよ、と命じる規則である。これが「プラグマティズム」の格率と呼ばれるのは、我々の認識をカントの言う「プラグマティッシュな信念」(pragmatische Glaube)、すなわち「ある行為に対する手段の現実的使用に根拠を与えるところの偶然的信念」(Kritik der reinen Vernunft A.825)に還元せよと命じるからである。これは、平たく言えば条件-帰結形式の対象認識である。あるなされるであろう行為という条件に対して、その行為が事実なされるとき(つまり条件が真であるとき)、その結果生じるであろう観察可能な反作用的現象がいかなるものであるか、考察してみよと述べているのである。モラーリッシュ(定言的)な法則をその哲学体系の支柱としたカントとは対照的に、パースは、プラグマティッシュ(仮言的)な法則をその哲学の核に据えているわけである。その思考法に敢えてカント由来の「プラグマティズム」という名前を付けたところに、パース自身が恩恵を受けたカントの哲学を「先験的方法」の一例として批判する意図を読み取ることができる。

【二つの効果概念】 

さて、パースのプラグマティズムの目的は、科学の方法、とりわけ実験科学の方法をモデルに哲学を再構築することにある。しかし、そこにはある両義性ないし混乱が含まれているように思われる。というのも、パースのプラグマティズム理解には二つの異なる「効果」の概念が含まれているように思われるからである。上で述べた説明では、「効果」とは、(A) 我々の行為に対して対象がもたらす反作用的な効果である。例えば「ダイアモンドを擦る」という行為に対して「傷付かない」といった効果である。本論でパースが取り上げているのは専らこちらの意味での効果である。もう一つ、(B) 我々がある概念を持つことによる効果も考えることができる。例えば「力」という概念を持つことによって我々は物体の速度変化や方向変化を理解することができる。つまり、対象ではなく概念自体がそうした実際的効果をもたらすということである。本論ではこの意味で「効果」という言葉は使われていないが、これに相当する発想がプラグマティズムの格率に読み込まれているように思われる。例えば、今述べた力概念の有用性について述べられている箇所がそうである:「我々の規則に従えば、まず力を考えることの直接的な利点を問わねばならない」(p.133)。また本論以外でも、これに相当する記述をいつくか見出すことができる。つまり「対象がもたらす効果」ではなく「我々の概念がもたらす効果」について語られている箇所である。例として、有名な箇所を二つだけ挙げておく。一つは1871年に発表された、A・C・フレーザー『バークリー著作集』(The Works of George Berkeley)に対するパースの書評からの一節である:

いくつかの事物が、実際的に同じ機能を果たすか?ならば同じ言葉によってそれらを指し示せ。果たさないか?ならば区別せよ。もし私がある出鱈目の公式を覚えて、その公式が、私の記憶を何らかの方法で上手く推進し、あらゆる場面においてあたかも私が一般的な観念を保持しているかのように行為することを可能にしてくれるのであれば、そうした出鱈目の公式と観念とを区別することに一体何の利点があろうか?経験に関する限り同一の物を、わざわざ一般的な観念という言葉によって区別する必要は、一体どこにあろうか? [Do things fulfill the same function practically? Then let them be signified by the same word. Do they not? Then let them be distinguished. If I have learned a formula in gibberish which in any way jogs my memory so as to enable me in each single case to act as though I had a general idea, what possible utility is there indistinguishing between such gibberish and a formula [sic] and an idea? Why use the term a general idea in such a sense as to separate things which for all experiential purposes, are the same?] (p.102)

この書評が書かれたのは、「我々の観念を明晰にする方法」でプラグマティズムの格率が初めて公に定式化される七年前であるが、プラグマティズムの着想自体はこの時期にすでに形を整えていたようである。この一節には、「概念の有用性」の見地から解釈されたプラグマティズムが明確に表れている。もう一つの箇所は、1905年の論文「プラグマティシズムの諸問題」("The Issues of Pragmaticism")からである。「我々の観念を明晰にする方法」でのプラグマティズムの格率の定式化が難解であることをパース自身が率直に認め、その代わりにもう少し分かりやすい定式化を次のように与えている:

どんな記号であれ、その記号が有する知的趣旨の総体は、その記号を受け容れることによって条件的に起こるであろう、あらゆる可能な異なる状況と意図の下での合理的行為の、あらゆる一般的様式の総体と一致する。 [The entire intellectual purport of any symbol consists in the total of all general modes of rational conduct which, conditionally upon all the possible different circumstances and desires, would ensue upon the acceptance of the symbol] (Collected Papers of Charles Sanders Peirce 5.438) 

プラグマティズムの格率の言い換えであると言っておきながら、ここでは「効果」への言及が抜け落ちている代わりに、「記号(概念)の意味」と「行為の一般的様式」とが同一視されている。ただし、我々の「行為の一般的様式」は我々が持つ概念の帰結と考えられるから、ここでもやはり「概念を持つことによる効果」が想定されていると見ていいだろう。 これはいかに理解すべきであろうか。現代の我々が「プラグマティズム」について語るとき、通常想定されているのは「概念を持つことによる効果」の方であろう。ウィリアム・ジェイムズが真理を「我々にとっての有用性」と定義したときに働いていた効果概念もこちらの方である。なればこそ、ますます「我々の観念を明晰にする方法」の中で粗描されているプラグマティズムとの乖離は重大な問題である。私はこの問題に対して、確定的な答えを用意しているわけではないが、一つの仮説はある。すなわち、二つの効果概念は実は同じことを語っているのではないか、という仮説である。例えば「虚数」の概念を例に考えてみたい。この概念は、内観的明証性を欠くにも関わらず実践の中で何の問題もなく使用されているということで、とりわけ鮮やかにプラグマティズムの格率が活きるパラダイム・ケースであるように思われる。さて、(B)の効果概念の方から考えてみよう。我々が「虚数」の概念を持つことによる効果とは、例えば三次方程式を解くことができるという事実である。ここに「虚数」概念の我々にとっての有用性が存する。では(A)の場合はどうであろうか。「虚数」の概念の対象は、もちろん虚数である。対象たる虚数が、我々の数学的実践に対してもたらす効果とは、やはり三次方程式の解を導くことである。つまり二つの効果概念の中身が一致している。これが他のすべてのケースについても同様に当て嵌まるかどうかに関しては、自信がない。例えばダイアモンドの例で言えば、擦るという行為に対して「傷付かないこと」と、「擦っても傷付かないという信念が規定する行為への傾向性」との間には隔たりがあるように思える。この違いは一体どこからくるのか、私には上手く説明できない。皆様は如何だろうか。

2013年10月5日土曜日

パース「信念の固定化」について

以下の文章は、C. S. Peirce "The Fixation of Belief"の読書会のために私が用意したレジュメです。頁番号はすべてThe Essential Peirce Vol. 1 (Indiana Univ. Press,1992)のもの。



【背景―プラグマティズムの動機】 

我々の概念の対象が、行動と関わりがあるかもしれないと考えられるどんな効果を持つと我々が考えるか、ということを考察してみよ。そうすれば、こうした効果に関する我々の概念が、その対象に関する我々の概念の全体と一致する。(p.132) 

難解な文章であるが、これが1878年の論文「我々の観念を明晰にする方法」("How to Make Our Ideas Clear")の中で初めて定式化された、C・S・パースの有名な「プラグマティズムの格率」(pragmatic maxim)である。この格率は、(論文のタイトルにあるように)我々の観念ないし概念を明晰にする方法を示している。平たく言えば、ある概念の意味は、それがもたらすと考えられる実際的な効果によって決まる、ということである。パースによれば、我々の概念にはこうした実際的な効果を超えた如何なる意味もない。したがって、実際的な効果において同等であれば、概念の意味も同等ということになる。こうした実際的な効果との関連を明示することによって我々の概念を明晰化することができるわけであるが、パースにとってこの格率は論理学の第一ステップであり、論理学を前進させようという見地から導入されたものである。この場合のパースの基本的な狙いは、彼が「科学の方法」(method of science)と呼ぶ思考法によって、デカルト以来の近代哲学の思考法を克服することにある。このことを論じているのが、「我々の観念を明晰にする方法」に先立つこと一年、1877年に発表された「信念の固定化」("The Fixation of Belief")である。したがって、この「信念の固定化」という論文は、パースのプラグマティズムの背後にある動機を示す重要な研究と言える。このことを念頭に置きながら、以下本論の論旨を追っていきたい。

【論理学の問い】 

「信念の固定化」が答えようと試みているのは、パースが「論理学の問い」(the logical question)と呼んでいる問い、すなわち「我々はいかなる方法によって探究を行うべきか」という問いである。この問いに対する答えを案出するにあたって、まずパースはこの問いを問うこと自体が前提とせざるを得ない事実をいくつか指摘する(p.113)。すなわち、(1) 我々の精神の状態には懐疑(doubt)と信念(belief)という二つの異なった状態があること、(2) 懐疑から信念への移行が可能であること、(3) 懐疑から信念へ移行するに際しての認識対象たる事物が同一に留まっていること、(4) 懐疑から信念への移行はある規則に従ってなされており、この規則はすべての人間が共通して従うところのある精神の習慣(habit of mind)であること、である。これらの事実は、我々の「推論」(reasoning)という概念に予め含まれているがゆえに、我々の探究における様々な推論の妥当性を問うにあたって、前提とされざるを得ないア・プリオリな原則である(p.113)。こうした原則のことをパースは「指導原理」(guiding principle)と呼び、その一例として帰納の原理を挙げている(p.112)。パースにとって哲学への入り口はカントであったが、「現実に観察される事実が可能であるためには、いかなる条件が成り立っていなければならないか」を考察するという、ここでのパースの方法には、カントの超越論哲学の深い影響を見て取ることができる。

【懐疑と信念】

さて、探究に随伴する基本的な精神状態として、懐疑と信念という二つの異なる状態が認められるのであった。しかし、この両者の相違はどこにあるのだろうか(p.114)。まず、(1) 両者のそれぞれの内的な「感じ」による相違が認められる。さらに一般的な相違として、(2) 信念は我々を行動へ駆り立てる指針の役割を果たすが、懐疑はそのような役割を果たさない、という実際的効果における相違が認められる。また、(3) 我々は懐疑の状態を避け、信念の状態へ至ることを求める、という相違がある。パースの議論にとって重要なのは(2)と(3)であると言える。というのも、(2)と(3)から次のことが帰結するからである。すなわち、「信念とは、行為への傾向性であるところの習慣が確立している状態であり、懐疑は、そうした状態を目指すための刺激の役割を果たす」。懐疑を誘因として起こり、信念を以て停止するこの運動を、パースは「探究」(inquiry)と呼んでいるのである。とすれば、探究の唯一の目的は信念の固定化であり、真理の把握などではないことになる(p.115)。パースによれば、探究者にとって「真理」と「真理と信ずる信念」は区別不可能であり、「探究は真理の把握を目指す」という命題には、「探究は信念の固定化を目指す」という命題以上の意味は見出されないのである(p.115)。

【探究の四つの方法】

以上の考察によって「類」としての探究の本性が明らかにされた。次は、この類に属する「種」としての様々な探究の様態が区別され、それぞれ吟味される。パースが最初に取り上げるのは、「固執の方法」(method of tenacity)である(pp.115-116)。これは、ある個人が、自分がすでに有している信念を強固にする事柄にのみ固執し、それを疑念に晒す恐れのある事柄からは徹底的に目を背けるという方法である。この方法はしかし、我々の社会的・共同体的存在様式に反する。というのも、他人が自分とは異なる信念を有していることに、誰しもいつかは気付かざるを得ず、これが自然と自分の信念に対して疑念を誘発するからである(pp.116-117)。ならば、ある共同体全体で固執の方法に相当する方法を採れば良いのではないか。これがすなわち「権威の方法」(method of authority)である(p.117)。これは、ある共同体に共通する教義を設定し、この教義に反する説を排除する権利を、共同体の権力者に委ねる方法である。こうした排除がしばしば暴力を伴うこと、またそれが信念を固定化する方法として極めて効果的であることが、歴史的に知られている。しかし、この方法もまた、その共同体とは別の教義を信奉する他の共同体(あるいは同一共同体の過去の姿)との邂逅によって挫折する。第三に、「先験的方法」(a priori method)がある(pp.118-119)。[*] これは、有限な共同体を超えて、人類の思考に共通する推論原理が存在するという前提を認め、精神そのものの本性から洞察を導こうとする方法である。これは、ある命題が「理性に適う」ことをその命題の妥当性の基準とする方法である。この方法によって、極めて重要な哲学的論証がこれまで提供されてきたものの、我々の探究を一種の「趣味」(taste)の問題に帰してしまうという問題を孕んでいる。パースが最後に取り上げる方法、すなわち「科学の方法」は、この問題を克服する。この方法は、それに従って得られた我々の信念が、「人間的なものの内に原因を有さず、外的で永続的なもの(external permanency)、つまり我々の思考が決して影響を及ぼすことのないものの内に原因を有する」ような方法である(p.120)。言い換えれば、事実以外のいかなる事情にも我々の信念を依存させないような方法である。

【実在仮説】

科学の方法は、ある根本的な仮説を要請する。その仮説とは、我々の思考が影響を及ぼすことのない、外的な対象が現に実在するという「実在仮説」である(p.120)。この仮説は科学の方法が可能であるための条件であるから、科学の方法によってその正しさを論証することはできない。ならばその正しさはいかにして保障され得るだろうか。この疑念に対してパースは四つの返答を挙げているが、このうち第二の返答に注目したい(p.120)。我々がそもそも信念の固定化を目指すのは、信念が不整合であることに満足できないからである。そして我々が不整合な信念を嫌うのは、相反する命題が同時に真であることはありえないことを、我々は知っているからである。「しかしここにすでに、命題が従うべきある一つの事物が存在するという、暗黙の承認がある」(p.120)。我々が、信念の固定化を目指す、つまり探究を行うという事実のうちに、すでに実在仮説が前提されている、というわけである。換言すれば、「我々はいかなる方法によって探究を行うべきか」という問いを発するとき、その問い自体に、答えの手掛かりとなる命題の承認が含まれているのである。


[*] 上山春平訳(『世界の名著』第48巻「パース・ジェイムズ・デューイ」収録)では「先天的方法」と訳されているが、この訳は良くない。「先天的」と言えば通常、「生まれつき」という意味であるが、ある概念がa prioriであると言うとき、その概念が「生まれつき」保持されているかどうかとは全く無関係だからである。ラテン語から直訳すればa prioriは「先に来るもの」という意味であるが、この言葉が哲学で使用されるときは、通常カントの用法に従って使用される。すなわち「経験に先立つ」という意味である。例えばカントにとって、時間や空間、あるいは因果関係といった概念は、経験によって知られるのではなく、経験そのものを可能にする認識の形式であり、そういう意味で「経験に先立つ」と言われるのである。決して「生まれつき」と言ったような意味ではない。したがって、a prioriを訳す場合は「先験的」とでも訳した方が良いだろう。

2013年9月30日月曜日

個人的アルレコ楽曲・アルバムランキング

たまにはこういう記事も。私が選ぶ、Alstroemeria Recordsの楽曲TOP20およびアルバムTOP5。一部、他レーベルのCDに収録された曲もありますがMasayoshi Minoshima氏作曲縛りということで(逆にAlstroemeria RecordsレーベルのCDに収録されたSyrufit氏やNhato氏などの楽曲は除外。ただしアルバム全体の評価には加味)。

というわけでこんな感じになりました:

楽曲TOP20 (順位 曲名 / 収録CD名)

01. Scolded By The Princess / Dolls
02. Suwa Foughten Field / Harmony
03. Bad Apple!! feat. nomico / Lovelight
04. Maple Wizen feat. nomico / The Garnet Star
05. Necro Fantasia (ALR Rewind Remix) / thE2
06. Lovelight / Lovelight
07. Alice Maestera / Harmony
08. Soul of Rouge / Trois Rouge
09. Infinite Being / Dolls
10. Voile, the Magic Library / Harmony
11. Japanese Dream feat. nomico x ayaka* / Blue Note
12. Plastik World / Plastik World
13. CINDERELLA CAGE (ALR MORE REWIND REMIX) / DOMINATED DANCEHALL
14. Dream War (REDALiCE Remix) / Third Ensemble: Noir
15. The Last Judgement feat. nomico / The Last Judgement
16. Dreaming / Dolls
17. Dolls / Dolls
18. ICEMILK MAGIC / ABANDONED DANCEHALL
19. Lotus Road / Fragment Reactions
20. NECRO EFFECT / DEGENERATE DANCEHALL

トップの三つは今後も絶対に揺るがないと思う。これは曲自体のクオリティもさることながら、私自身の思い出補正という面もある。特に1位のScolded By The Princessは、高校の部活帰り、外はもう暗くて雨がしとしと降っている中、バスに揺られながら聴いていた一瞬が今でもなぜか鮮烈に印象に残っている。特に意味のある場面ではないのに、なぜか記憶に強く焼きついたシーンというのは皆さんもあるだろう。曲の幻想的な雰囲気と相俟って、今想い出しても、あれは夢だったんじゃないかと思うほど現実感に欠けた、恍惚とした時間だった。2位のSuwa Foughten Fieldは、Scolded By The Princessほど哀愁はないが、その代わり癖になるリフレインが強烈(特に背後で鳴り続けるビッビッビッという音)で、トリップしたいときに聴く(麻薬はやらないが)。3位のBad Apple!!は私が初めて聴いたアルレコ曲(ただし影絵が登場するずっと前)で、やはり思い出深い。

最近の曲で特に気に入ったのは5位のNecro Fantasia (ALR Rewind Remix)。ABANDONED DANCEHALLにも同じ曲が収録されているがここではノンストップ加工されていないDiverse Systemのアルバムから。この曲は何回聴いても飽きない。あと最近のDANCEHALLシリーズは、それ以前のポップス寄りのアルバムに比べて良曲が多い印象。特にDOMINATED DANCEHALLはトラック4から7に至る流れが最高。アルバムランキングでは5位に入れました:

アルバムTOP5

1. Dolls
2. Harmony
3. The Garnet Star
4. Lovelight
5. DOMINATED DANCEHALL

Dolls、Harmony、Lovelightはそれなりに納得 して頂けると思うが、The Garnet Starはかなり異色かもしれない。これはいくつかのインスト曲がノンストップで流れた後、Maple Wizenに繋がるというアルバムで、個人的に非常に気に入っている。有機的に、徐々にストーリーが紡がれていくような、不思議な音空間である。「静かで寂れた情景を思い浮かばせる博麗神社境内が一気に魑魅魍魎跳梁跋扈な感じに変貌していく……まさに悪夢」という東方同人wikiにある感想はこの上なく的を射た表現だと思う。

ところで上のランキングは、1位から4位はすべて2007年以前、5位だけ2012年という変則的なランキングになっている。2007年~2012年の間に発売されたアルバムも決して悪いわけではない(Plastik WordやThe Brilliant Flowersあたりは良曲が多い印象)ものの、やはりこの期間のポップス寄りの楽曲よりは、Minoshima氏に特徴的な、あの脳髄を揺さぶるリフレインが光る楽曲の方が好みである。