2013年11月22日金曜日

パース「プラグマティズムとは何か」について

以下の文章は、C. S. Peirce "What Pragmatism Is"の読書会のために私が用意したレジュメである。参照箇所はすべてThe Collected Papers of Charles Sanders Peirce (Harvard Univ. Press)のもの。(vol. number.paragraph number)という記法に従う。



【背景】

前回の読書会で、私はパースのプラグマティズムには二つの異なる効果概念が含まれているのではないか、という問題を提起した。その二つの効果概念とはすなわち、(A) 我々の行為に対して概念の対象が示す反作用的効果、および(B) 我々がその概念を持つことによる実際的効果、である。この問題を念頭に、本論「プラグマティズムとは何か」(“What Pragmatism Is”)を読んでみたい。なお、1878年の論文である「我々の観念を明晰にする方法」に対して、本論は1905年に書かれたものである。この期間中、パースは初期の唯名論的な立場を放棄して実在論の傾向を強めており、この変遷は彼のプラグマティズムにも表れている。彼は「プラグマティズム」に代わる新たな名称として、「誘拐される怖れのないほど醜い」(5.414)「プラグマティシズム」(pragmaticism)という名称を宣言しているが、これは哲学用語を濫用する「文芸界隈」(literary clutches)に対する当て付けに留まらず、自分の初期のプラグマティズムに対する批判をも含んでいると見るべきであろう。パースのプラグマティシズムが、彼の初期のプラグマティズムといかに異なるかについても考えながら本論を読んでいきたい。

【二つの効果概念、再び】

本論はパース自身によるモノローグからなる前半部分(5.411-5.421)と、質問者とプラグマティスト(プラグマティシスト)との間で交わされる対話からなる後半部分(5.422-5.437)とから構成されている。まず目に付くのは、対話部分の冒頭で、質問者が次の疑問を投げかけていることである:「あなたのプラグマティズムの定義に私は驚いています。というのも、つい昨年、真理を隠蔽するといった疑いの微塵もないような人物——しかも彼自身プラグマティストでした——から、あなたの教説はまさに『概念はその実際的効果によって検証されなければならない』というものだと保証されたからです」(5.422)。そしてこの疑問に対して、パースはきっぱりと上述の定義を否定しているのである。しかしパースは「我々の観念を明晰にする方法」での定式化を繰り返すだけで、自分のプラグマティズムがいかに質問者の言う定義と異なるのかについての具体的な説明はない。ただこのことにより(B)の効果概念によるプラグマティズムの定式化は少なくともパースの意図からは外れることは明らかだと思う(それが事実として混入しているかどうかはともかく)。

ではパースの念頭にあるプラグマティズムはいかなるものであろうか。本論の前半部分に現れる次の定式化を参考にしてみたい:「もし、ある概念の肯定または否定が含意し得る、あらゆる想像可能な実験的現象を正確に定義できれば、当の概念の完全な定義を手に入れたことになる」(5.412)。「概念の肯定または否定が含意し得る~」(… which the affirmation or denial of a concept could imply)という曖昧な言い方は、一見(B)の効果概念を示しているように思える。しかし上の論拠によりこの可能性は考察から除外しておこう。ではこの定式化はいかに理解されうるであろうか。一つの解釈は、パースが「概念の肯定または否定が含意し得る~」と言うとき、彼は「概念(の肯定または否定)の対象が含意し得る~」を短縮した形で語っているのではないか、というものである。「概念の対象」は、「概念を持つこと」とは明らかに異なる。例えば「固い」という概念の対象は「固いという性質」であり、「我々が『固い』という概念を持つこと」とは区別できる。この解釈の根拠は、パースが本論において「実験」(experiment)、「実験的」(experimental)、「実験家」(experimentalist)といった語を繰り返し用いていることである(検索の結果、本論だけで53回も登場している)。彼のプラグマティズムの力点が実験的現象に置かれているのは明らかであろう。そして実験的現象の特徴と言えば、条件となるある行為に対して、感覚可能な帰結が見いだされることである(5.424)。こうした条件-帰結形式の対象認識に沿うのは、やはり(B)の効果概念ではなく(A)の効果概念の方であろう。したがって、パースがあたかも「概念を持つことによる実際的効果」について語っているかのように見える箇所も、可能な限り「概念の対象がもたらす反作用的効果」に読み換えて解釈するのが妥当と思われる。

さて、先の定式化は上の読み換えによって理解可能であったが、前回登場した次の定式化の場合はどうであろうか。

どんな記号であれ、その記号が有する知的趣旨の総体は、その記号を受け容れることによって条件的に起こるであろう、あらゆる可能な異なる状況と意図の下での合理的行為の、あらゆる一般的様式の総体と一致する。 [The entire intellectual purport of any symbol consists in the total of all general modes of rational conduct which, conditionally upon all the possible different circumstances and desires, would ensue upon the acceptance of the symbol] (5.438) 

この定式化はどう解釈しても(B)の方の効果概念を語っているようにしか思えない。やはりパースの著作には二つのプラグマティズムが混在していると考えるべきだろうか。私には結論を出すことができない。

【一般者の実在】

「我々の観念を明晰にする方法」の中で、次のような思考実験があった。すなわち、もしダイアモンドが固いかどうかを実験的に確かめる前に焼失してしまったとしたら、そのダイアモンドが「柔らかかった」という言明は偽と言えるか、というものである。この思考実験に対する当時のパースの答えは、「偽とは言えない」であった:

このような言い回しは、現在の我々の、固いや柔らかいといった言葉に関わる語法の改造を含んではいるが、意味の改造を含んではいない。なぜなら、こうした言い回しは、ただ非常に不器用な仕方で事実を配列しているだけで、実際とは異なる事実を表現しているわけではないからである。現実に生じない状況において何が起こるだろうかという問いは、事実に関わる問いではなく、事実の最も明快な配列に関わる問いに過ぎない、という風に我々は結論しなければならない。[(Such modes of speech) would involve a modification of our present usage of speech with regard to the words hard and soft, but not of their meanings. For they represent no fact to be different from what it is; only they involve arrangements of facts which would be exceedingly maladroit. This leads us to remark that the question of what would occur under circumstances which do not actually arise is not a question of fact, but only of the most perspicuous arrangement of them.] (5.403)

要するに、固いかどうかが実際に検証されないダイアモンドについては、「柔らかい」と主張しても差し支えない、というわけである。これはいささか非常識的な結論である。そして「批判的常識主義」(critical common-sensism)を自認するプラグマティズムにとって、常識にそぐわない結論が導かれるということは、理論に何か問題があるということである。実際にパースはこの点を問題にし、自分の拠って立つ唯名論的前提を批判的に吟味するようになる。その反省の成果が本論「プラグマティズムとは何か」においてよく表れている。

後半の対話部分で、質問者がプラグマティストに対して「プラグマティズムの格率は、形而上学のみならず科学や生活の中の有意味な命題さえも排除してしまうのではないか」という疑問を投げかける箇所がある:「ある個物に対して何かが起き、ある別の現象が続いて起こった、という以上のことを、ある実験がそれ自体で明らかにすることは、いかにして可能でしょうか」(5.424)。これに対してパースは質問者の「それ自体」という言い方を問題にする。プラグマティストにとって概念の合理的意味は、ある一つの「実験」(experiment)ではなく「実験的現象」(experimental phenomena)一般に存する、と彼は言う。そしてこうした一般的現象の重要な特徴は、条件さえ揃えば未来においてもきっと生じるだろう、という期待を含んでいることである。また、真なる命題に表現されている対象は実在しなければならないから、真なる法則に表現されている一般者も実在しなければならない、ということが要請される。この観点に立てば、「我々の観念を明晰にする方法」の中で導かれた、「検証に晒されないダイアモンドのことを柔らかいと主張しても構わない」という結論は成り立たなくなる。というのも「ダイアモンドは固い」というのは真なる法則であり、この法則が表現している「もし擦ったとしても傷付かない」という現象は、現実化されるか否かに関わらず、実在する一般者だからである。かくしてパースの初期のプラグマティズムは改良され、実在論的見地に立つプラグマティシズムとして新たに結実したことが本論から伺える。

2013年10月21日月曜日

パース「我々の観念を明晰にする方法」について

以下の文章は、C. S. Peirce "How to Make Our Ideas Clear"の読書会のために私が用意したレジュメです。特記がない限り頁番号はすべてThe Essential Peirce Vol.1 (Indiana Univ. Press, 1992)のもの。



【明晰と判明】

 「信念の固定化」を扱った前回の読書会において述べたように、パースの「我々の観念を明晰にする方法」という論文は彼の「プラグマティズムの格率」が初めてその定式化を見た論文である。そして、パースのプラグマティズムの基本的な狙いは、デカルト以来の近代哲学の思考法を、彼が「科学の方法」と呼ぶ思考法によって克服することにあるのであった。そこで本論は、デカルトが『哲学原理』(Principia philosophiae)で導入した観念の明晰さの基準を批判するところから始まる。デカルトは観念の明晰さを定義して「注意する精神に現前し、明らかであること」(Principia philosophiae pt.1, 45)とした。つまり、明晰さの基準を内観的明証性に置いたのである。これは「どんな場合にそれに遭遇したとしてもそれだと分かり、他の観念と間違えたりしないこと」と言い換えることができる。もちろんデカルトは「注意する精神」という但し書きを付けたが、これだけだとある観念が明晰であることと、単に明晰に見えることとの間の区別が曖昧になってしまう。そこで彼は明晰さの第二段階として「判明さ」を導入した。すなわち「その内に明晰ならざる部分を有さないこと」という、より強い条件を付した。しかし観念の「部分」とは何であるか、デカルトの著作においてはあまり明らかではない。この難点を克服したのはライプニッツである。彼は概念一般を、その「定義」となる述語の系列に分解する手法を考案し、それらを同時にすべて把握することを認識の完全性の基準とした。つまり、明晰さの基準を抽象的定義に置いたのである。ところが、「三角形の内角の和は180度である」といったような、有限の分解手続きでトートロジーに還元可能な必然的命題はともかく、「カエサルはルビコン川を渡る」といったような偶然的命題の場合、分解手続きは無限に進行する。これは、「カエサル」という名辞には無限の述語系列が含まれており、それらを一挙に把握することは人間知性には不可能だからである。しかし、人間知性の条件を超えた明晰性の基準は、我々の既存の信念に秩序をもたらすことはあっても、新しい信念の獲得にとっては無益であり、さらなる探究の続行を不可能にする。パースはこの点を問題にし、これを解消するために明晰さの第三段階(the third level of clarity)の定式化を試みる。

【プラグマティズムの格率】

探究の目的である信念の固定化とは、我々の内にある行為への傾向性、つまり「習慣」(habit)の確立であった。ならば、我々の思考を明晰化することはとりもなおさず、その思考が規定する習慣を明らかにすることとなる。そして「習慣が何であるかは、それがいつ、いかに我々の行為を生ぜしめるかにかかっている」(p.131)。この「いつ」とは、個々の行為を誘発する知覚経験の時点であり、「いかに」とは、行為がいかなる感覚的結果(sensible result)の内に実現されるか、である。これらの前提から、前回の冒頭でも引いた次の格率が導かれる:

認識の明晰性の第三段階に至るための規則は、必然的に次のものとなる:我々の概念の対象が、行動と関わりがあるかもしれないと考えられるどんな効果を持つと我々が考えるか、ということを考察してみよ。そうすれば、こうした効果に関する我々の概念が、その対象に関する我々の概念の全体と一致する。(p.132) 

これは、我々の対象認識一般を、その対象が我々の行為と関係を有するであろう場面において、「その行為の結果、いかなる反作用的な効果をもたらすであろうか」という信念に還元せよ、と命じる規則である。これが「プラグマティズム」の格率と呼ばれるのは、我々の認識をカントの言う「プラグマティッシュな信念」(pragmatische Glaube)、すなわち「ある行為に対する手段の現実的使用に根拠を与えるところの偶然的信念」(Kritik der reinen Vernunft A.825)に還元せよと命じるからである。これは、平たく言えば条件-帰結形式の対象認識である。あるなされるであろう行為という条件に対して、その行為が事実なされるとき(つまり条件が真であるとき)、その結果生じるであろう観察可能な反作用的現象がいかなるものであるか、考察してみよと述べているのである。モラーリッシュ(定言的)な法則をその哲学体系の支柱としたカントとは対照的に、パースは、プラグマティッシュ(仮言的)な法則をその哲学の核に据えているわけである。その思考法に敢えてカント由来の「プラグマティズム」という名前を付けたところに、パース自身が恩恵を受けたカントの哲学を「先験的方法」の一例として批判する意図を読み取ることができる。

【二つの効果概念】 

さて、パースのプラグマティズムの目的は、科学の方法、とりわけ実験科学の方法をモデルに哲学を再構築することにある。しかし、そこにはある両義性ないし混乱が含まれているように思われる。というのも、パースのプラグマティズム理解には二つの異なる「効果」の概念が含まれているように思われるからである。上で述べた説明では、「効果」とは、(A) 我々の行為に対して対象がもたらす反作用的な効果である。例えば「ダイアモンドを擦る」という行為に対して「傷付かない」といった効果である。本論でパースが取り上げているのは専らこちらの意味での効果である。もう一つ、(B) 我々がある概念を持つことによる効果も考えることができる。例えば「力」という概念を持つことによって我々は物体の速度変化や方向変化を理解することができる。つまり、対象ではなく概念自体がそうした実際的効果をもたらすということである。本論ではこの意味で「効果」という言葉は使われていないが、これに相当する発想がプラグマティズムの格率に読み込まれているように思われる。例えば、今述べた力概念の有用性について述べられている箇所がそうである:「我々の規則に従えば、まず力を考えることの直接的な利点を問わねばならない」(p.133)。また本論以外でも、これに相当する記述をいつくか見出すことができる。つまり「対象がもたらす効果」ではなく「我々の概念がもたらす効果」について語られている箇所である。例として、有名な箇所を二つだけ挙げておく。一つは1871年に発表された、A・C・フレーザー『バークリー著作集』(The Works of George Berkeley)に対するパースの書評からの一節である:

いくつかの事物が、実際的に同じ機能を果たすか?ならば同じ言葉によってそれらを指し示せ。果たさないか?ならば区別せよ。もし私がある出鱈目の公式を覚えて、その公式が、私の記憶を何らかの方法で上手く推進し、あらゆる場面においてあたかも私が一般的な観念を保持しているかのように行為することを可能にしてくれるのであれば、そうした出鱈目の公式と観念とを区別することに一体何の利点があろうか?経験に関する限り同一の物を、わざわざ一般的な観念という言葉によって区別する必要は、一体どこにあろうか? [Do things fulfill the same function practically? Then let them be signified by the same word. Do they not? Then let them be distinguished. If I have learned a formula in gibberish which in any way jogs my memory so as to enable me in each single case to act as though I had a general idea, what possible utility is there indistinguishing between such gibberish and a formula [sic] and an idea? Why use the term a general idea in such a sense as to separate things which for all experiential purposes, are the same?] (p.102)

この書評が書かれたのは、「我々の観念を明晰にする方法」でプラグマティズムの格率が初めて公に定式化される七年前であるが、プラグマティズムの着想自体はこの時期にすでに形を整えていたようである。この一節には、「概念の有用性」の見地から解釈されたプラグマティズムが明確に表れている。もう一つの箇所は、1905年の論文「プラグマティシズムの諸問題」("The Issues of Pragmaticism")からである。「我々の観念を明晰にする方法」でのプラグマティズムの格率の定式化が難解であることをパース自身が率直に認め、その代わりにもう少し分かりやすい定式化を次のように与えている:

どんな記号であれ、その記号が有する知的趣旨の総体は、その記号を受け容れることによって条件的に起こるであろう、あらゆる可能な異なる状況と意図の下での合理的行為の、あらゆる一般的様式の総体と一致する。 [The entire intellectual purport of any symbol consists in the total of all general modes of rational conduct which, conditionally upon all the possible different circumstances and desires, would ensue upon the acceptance of the symbol] (Collected Papers of Charles Sanders Peirce 5.438) 

プラグマティズムの格率の言い換えであると言っておきながら、ここでは「効果」への言及が抜け落ちている代わりに、「記号(概念)の意味」と「行為の一般的様式」とが同一視されている。ただし、我々の「行為の一般的様式」は我々が持つ概念の帰結と考えられるから、ここでもやはり「概念を持つことによる効果」が想定されていると見ていいだろう。 これはいかに理解すべきであろうか。現代の我々が「プラグマティズム」について語るとき、通常想定されているのは「概念を持つことによる効果」の方であろう。ウィリアム・ジェイムズが真理を「我々にとっての有用性」と定義したときに働いていた効果概念もこちらの方である。なればこそ、ますます「我々の観念を明晰にする方法」の中で粗描されているプラグマティズムとの乖離は重大な問題である。私はこの問題に対して、確定的な答えを用意しているわけではないが、一つの仮説はある。すなわち、二つの効果概念は実は同じことを語っているのではないか、という仮説である。例えば「虚数」の概念を例に考えてみたい。この概念は、内観的明証性を欠くにも関わらず実践の中で何の問題もなく使用されているということで、とりわけ鮮やかにプラグマティズムの格率が活きるパラダイム・ケースであるように思われる。さて、(B)の効果概念の方から考えてみよう。我々が「虚数」の概念を持つことによる効果とは、例えば三次方程式を解くことができるという事実である。ここに「虚数」概念の我々にとっての有用性が存する。では(A)の場合はどうであろうか。「虚数」の概念の対象は、もちろん虚数である。対象たる虚数が、我々の数学的実践に対してもたらす効果とは、やはり三次方程式の解を導くことである。つまり二つの効果概念の中身が一致している。これが他のすべてのケースについても同様に当て嵌まるかどうかに関しては、自信がない。例えばダイアモンドの例で言えば、擦るという行為に対して「傷付かないこと」と、「擦っても傷付かないという信念が規定する行為への傾向性」との間には隔たりがあるように思える。この違いは一体どこからくるのか、私には上手く説明できない。皆様は如何だろうか。

2013年10月5日土曜日

パース「信念の固定化」について

以下の文章は、C. S. Peirce "The Fixation of Belief"の読書会のために私が用意したレジュメです。頁番号はすべてThe Essential Peirce Vol. 1 (Indiana Univ. Press,1992)のもの。



【背景―プラグマティズムの動機】 

我々の概念の対象が、行動と関わりがあるかもしれないと考えられるどんな効果を持つと我々が考えるか、ということを考察してみよ。そうすれば、こうした効果に関する我々の概念が、その対象に関する我々の概念の全体と一致する。(p.132) 

難解な文章であるが、これが1878年の論文「我々の観念を明晰にする方法」("How to Make Our Ideas Clear")の中で初めて定式化された、C・S・パースの有名な「プラグマティズムの格率」(pragmatic maxim)である。この格率は、(論文のタイトルにあるように)我々の観念ないし概念を明晰にする方法を示している。平たく言えば、ある概念の意味は、それがもたらすと考えられる実際的な効果によって決まる、ということである。パースによれば、我々の概念にはこうした実際的な効果を超えた如何なる意味もない。したがって、実際的な効果において同等であれば、概念の意味も同等ということになる。こうした実際的な効果との関連を明示することによって我々の概念を明晰化することができるわけであるが、パースにとってこの格率は論理学の第一ステップであり、論理学を前進させようという見地から導入されたものである。この場合のパースの基本的な狙いは、彼が「科学の方法」(method of science)と呼ぶ思考法によって、デカルト以来の近代哲学の思考法を克服することにある。このことを論じているのが、「我々の観念を明晰にする方法」に先立つこと一年、1877年に発表された「信念の固定化」("The Fixation of Belief")である。したがって、この「信念の固定化」という論文は、パースのプラグマティズムの背後にある動機を示す重要な研究と言える。このことを念頭に置きながら、以下本論の論旨を追っていきたい。

【論理学の問い】 

「信念の固定化」が答えようと試みているのは、パースが「論理学の問い」(the logical question)と呼んでいる問い、すなわち「我々はいかなる方法によって探究を行うべきか」という問いである。この問いに対する答えを案出するにあたって、まずパースはこの問いを問うこと自体が前提とせざるを得ない事実をいくつか指摘する(p.113)。すなわち、(1) 我々の精神の状態には懐疑(doubt)と信念(belief)という二つの異なった状態があること、(2) 懐疑から信念への移行が可能であること、(3) 懐疑から信念へ移行するに際しての認識対象たる事物が同一に留まっていること、(4) 懐疑から信念への移行はある規則に従ってなされており、この規則はすべての人間が共通して従うところのある精神の習慣(habit of mind)であること、である。これらの事実は、我々の「推論」(reasoning)という概念に予め含まれているがゆえに、我々の探究における様々な推論の妥当性を問うにあたって、前提とされざるを得ないア・プリオリな原則である(p.113)。こうした原則のことをパースは「指導原理」(guiding principle)と呼び、その一例として帰納の原理を挙げている(p.112)。パースにとって哲学への入り口はカントであったが、「現実に観察される事実が可能であるためには、いかなる条件が成り立っていなければならないか」を考察するという、ここでのパースの方法には、カントの超越論哲学の深い影響を見て取ることができる。

【懐疑と信念】

さて、探究に随伴する基本的な精神状態として、懐疑と信念という二つの異なる状態が認められるのであった。しかし、この両者の相違はどこにあるのだろうか(p.114)。まず、(1) 両者のそれぞれの内的な「感じ」による相違が認められる。さらに一般的な相違として、(2) 信念は我々を行動へ駆り立てる指針の役割を果たすが、懐疑はそのような役割を果たさない、という実際的効果における相違が認められる。また、(3) 我々は懐疑の状態を避け、信念の状態へ至ることを求める、という相違がある。パースの議論にとって重要なのは(2)と(3)であると言える。というのも、(2)と(3)から次のことが帰結するからである。すなわち、「信念とは、行為への傾向性であるところの習慣が確立している状態であり、懐疑は、そうした状態を目指すための刺激の役割を果たす」。懐疑を誘因として起こり、信念を以て停止するこの運動を、パースは「探究」(inquiry)と呼んでいるのである。とすれば、探究の唯一の目的は信念の固定化であり、真理の把握などではないことになる(p.115)。パースによれば、探究者にとって「真理」と「真理と信ずる信念」は区別不可能であり、「探究は真理の把握を目指す」という命題には、「探究は信念の固定化を目指す」という命題以上の意味は見出されないのである(p.115)。

【探究の四つの方法】

以上の考察によって「類」としての探究の本性が明らかにされた。次は、この類に属する「種」としての様々な探究の様態が区別され、それぞれ吟味される。パースが最初に取り上げるのは、「固執の方法」(method of tenacity)である(pp.115-116)。これは、ある個人が、自分がすでに有している信念を強固にする事柄にのみ固執し、それを疑念に晒す恐れのある事柄からは徹底的に目を背けるという方法である。この方法はしかし、我々の社会的・共同体的存在様式に反する。というのも、他人が自分とは異なる信念を有していることに、誰しもいつかは気付かざるを得ず、これが自然と自分の信念に対して疑念を誘発するからである(pp.116-117)。ならば、ある共同体全体で固執の方法に相当する方法を採れば良いのではないか。これがすなわち「権威の方法」(method of authority)である(p.117)。これは、ある共同体に共通する教義を設定し、この教義に反する説を排除する権利を、共同体の権力者に委ねる方法である。こうした排除がしばしば暴力を伴うこと、またそれが信念を固定化する方法として極めて効果的であることが、歴史的に知られている。しかし、この方法もまた、その共同体とは別の教義を信奉する他の共同体(あるいは同一共同体の過去の姿)との邂逅によって挫折する。第三に、「先験的方法」(a priori method)がある(pp.118-119)。[*] これは、有限な共同体を超えて、人類の思考に共通する推論原理が存在するという前提を認め、精神そのものの本性から洞察を導こうとする方法である。これは、ある命題が「理性に適う」ことをその命題の妥当性の基準とする方法である。この方法によって、極めて重要な哲学的論証がこれまで提供されてきたものの、我々の探究を一種の「趣味」(taste)の問題に帰してしまうという問題を孕んでいる。パースが最後に取り上げる方法、すなわち「科学の方法」は、この問題を克服する。この方法は、それに従って得られた我々の信念が、「人間的なものの内に原因を有さず、外的で永続的なもの(external permanency)、つまり我々の思考が決して影響を及ぼすことのないものの内に原因を有する」ような方法である(p.120)。言い換えれば、事実以外のいかなる事情にも我々の信念を依存させないような方法である。

【実在仮説】

科学の方法は、ある根本的な仮説を要請する。その仮説とは、我々の思考が影響を及ぼすことのない、外的な対象が現に実在するという「実在仮説」である(p.120)。この仮説は科学の方法が可能であるための条件であるから、科学の方法によってその正しさを論証することはできない。ならばその正しさはいかにして保障され得るだろうか。この疑念に対してパースは四つの返答を挙げているが、このうち第二の返答に注目したい(p.120)。我々がそもそも信念の固定化を目指すのは、信念が不整合であることに満足できないからである。そして我々が不整合な信念を嫌うのは、相反する命題が同時に真であることはありえないことを、我々は知っているからである。「しかしここにすでに、命題が従うべきある一つの事物が存在するという、暗黙の承認がある」(p.120)。我々が、信念の固定化を目指す、つまり探究を行うという事実のうちに、すでに実在仮説が前提されている、というわけである。換言すれば、「我々はいかなる方法によって探究を行うべきか」という問いを発するとき、その問い自体に、答えの手掛かりとなる命題の承認が含まれているのである。


[*] 上山春平訳(『世界の名著』第48巻「パース・ジェイムズ・デューイ」収録)では「先天的方法」と訳されているが、この訳は良くない。「先天的」と言えば通常、「生まれつき」という意味であるが、ある概念がa prioriであると言うとき、その概念が「生まれつき」保持されているかどうかとは全く無関係だからである。ラテン語から直訳すればa prioriは「先に来るもの」という意味であるが、この言葉が哲学で使用されるときは、通常カントの用法に従って使用される。すなわち「経験に先立つ」という意味である。例えばカントにとって、時間や空間、あるいは因果関係といった概念は、経験によって知られるのではなく、経験そのものを可能にする認識の形式であり、そういう意味で「経験に先立つ」と言われるのである。決して「生まれつき」と言ったような意味ではない。したがって、a prioriを訳す場合は「先験的」とでも訳した方が良いだろう。

2013年9月30日月曜日

個人的アルレコ楽曲・アルバムランキング

たまにはこういう記事も。私が選ぶ、Alstroemeria Recordsの楽曲TOP20およびアルバムTOP5。一部、他レーベルのCDに収録された曲もありますがMasayoshi Minoshima氏作曲縛りということで(逆にAlstroemeria RecordsレーベルのCDに収録されたSyrufit氏やNhato氏などの楽曲は除外。ただしアルバム全体の評価には加味)。

というわけでこんな感じになりました:

楽曲TOP20 (順位 曲名 / 収録CD名)

01. Scolded By The Princess / Dolls
02. Suwa Foughten Field / Harmony
03. Bad Apple!! feat. nomico / Lovelight
04. Maple Wizen feat. nomico / The Garnet Star
05. Necro Fantasia (ALR Rewind Remix) / thE2
06. Lovelight / Lovelight
07. Alice Maestera / Harmony
08. Soul of Rouge / Trois Rouge
09. Infinite Being / Dolls
10. Voile, the Magic Library / Harmony
11. Japanese Dream feat. nomico x ayaka* / Blue Note
12. Plastik World / Plastik World
13. CINDERELLA CAGE (ALR MORE REWIND REMIX) / DOMINATED DANCEHALL
14. Dream War (REDALiCE Remix) / Third Ensemble: Noir
15. The Last Judgement feat. nomico / The Last Judgement
16. Dreaming / Dolls
17. Dolls / Dolls
18. ICEMILK MAGIC / ABANDONED DANCEHALL
19. Lotus Road / Fragment Reactions
20. NECRO EFFECT / DEGENERATE DANCEHALL

トップの三つは今後も絶対に揺るがないと思う。これは曲自体のクオリティもさることながら、私自身の思い出補正という面もある。特に1位のScolded By The Princessは、高校の部活帰り、外はもう暗くて雨がしとしと降っている中、バスに揺られながら聴いていた一瞬が今でもなぜか鮮烈に印象に残っている。特に意味のある場面ではないのに、なぜか記憶に強く焼きついたシーンというのは皆さんもあるだろう。曲の幻想的な雰囲気と相俟って、今想い出しても、あれは夢だったんじゃないかと思うほど現実感に欠けた、恍惚とした時間だった。2位のSuwa Foughten Fieldは、Scolded By The Princessほど哀愁はないが、その代わり癖になるリフレインが強烈(特に背後で鳴り続けるビッビッビッという音)で、トリップしたいときに聴く(麻薬はやらないが)。3位のBad Apple!!は私が初めて聴いたアルレコ曲(ただし影絵が登場するずっと前)で、やはり思い出深い。

最近の曲で特に気に入ったのは5位のNecro Fantasia (ALR Rewind Remix)。ABANDONED DANCEHALLにも同じ曲が収録されているがここではノンストップ加工されていないDiverse Systemのアルバムから。この曲は何回聴いても飽きない。あと最近のDANCEHALLシリーズは、それ以前のポップス寄りのアルバムに比べて良曲が多い印象。特にDOMINATED DANCEHALLはトラック4から7に至る流れが最高。アルバムランキングでは5位に入れました:

アルバムTOP5

1. Dolls
2. Harmony
3. The Garnet Star
4. Lovelight
5. DOMINATED DANCEHALL

Dolls、Harmony、Lovelightはそれなりに納得 して頂けると思うが、The Garnet Starはかなり異色かもしれない。これはいくつかのインスト曲がノンストップで流れた後、Maple Wizenに繋がるというアルバムで、個人的に非常に気に入っている。有機的に、徐々にストーリーが紡がれていくような、不思議な音空間である。「静かで寂れた情景を思い浮かばせる博麗神社境内が一気に魑魅魍魎跳梁跋扈な感じに変貌していく……まさに悪夢」という東方同人wikiにある感想はこの上なく的を射た表現だと思う。

ところで上のランキングは、1位から4位はすべて2007年以前、5位だけ2012年という変則的なランキングになっている。2007年~2012年の間に発売されたアルバムも決して悪いわけではない(Plastik WordやThe Brilliant Flowersあたりは良曲が多い印象)ものの、やはりこの期間のポップス寄りの楽曲よりは、Minoshima氏に特徴的な、あの脳髄を揺さぶるリフレインが光る楽曲の方が好みである。

2013年8月31日土曜日

ハイエクの暗黙知理解について : コメントに対する返信

この記事は、私の過去の記事「設計主義のなにが問題なのか? ハイエクの知識論」に対して、匿名の方から寄せられたコメントに対する返事です。文章量が多くなってしまったので、別箇の記事として投稿することにしました。

匿名様のコメントは以下の通り:
 (2) その知識の大部分は「暗黙知」(tacit knowledge)であり、言語化・分節化できない。

 のところですが、この暗黙知解釈は、野中郁二郎さんの解釈ですが、間違っていますよ。ハイエク自身は、ポラニーについて、また、暗黙知については言及していないでしょ。ハイエクに添って、解説してほしいです。
  野中解釈は、暗黙知と明示知で、暗黙知なるものを実体化していますが、ポラニーが言ったのは、知るということ(知識が身につく)のプロセスにおいて、暗黙 の次元がある、ということです。暗黙知は、tacit knowingですから、knowingは動名詞です。暗黙の(語れない、分からない)作動なしに、知るということはない、といったのです。
 それから、
(3) 価格情報は、これら分散的・暗黙的な知識を集約的に表現する「指標」である。価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある。

 が省略されていますが、既存の経済学との対峙という意味では、これが重要ですね。できれば、説明していただきたいです。
以下、これに対する私の返信です。



コメントありがとうございます。仰る通り、この記事の内容は杜撰です。私が二年前に書いたものですが、今だったらこんな風に書きません。

まず、ハイエクの暗黙知理解について。私は、野中郁二郎氏を存じ上げませんが、どこかで見聞した通俗的な解釈を(それこそ暗黙的に)流用してしまったものと思われます。仰る通り、ハイエクに関してはこの記事の説明は的外れです。しかし、ハイエクがポランニーや暗黙知に言及していない、というのも誤解です。例えば論文「ルール、知覚、理解可能性」の中でポランニーの暗黙知理論が引かれています(Studies in Philosophy, Politics and Economics p.44)。

ただ、ハイエクの暗黙知理解とポランニーの暗黙知理解は大きく異なります。ポランニーにとっては、(その主著のタイトル『個人的知識』が示しているように)暗黙知はあくまで「個人」のものです。なお、少々脱線しますがポランニーにとって暗黙知は実体ではなく動名詞であるという貴方の指摘に関して、一点注意を促したいと思います。確かにポランニーは専らtacit knowingという言い方をしますが、彼はThe Tacit Dimensionの冒頭で次のように断っています:"I shall always speak of 'knowing,' therefore, to cover both practical and theoretical knowledge" (p.7)。つまり実践的と理論的双方の「知識」を包括的に指す言葉としてknowingを使用する、ということです。ポランニーの主眼が、知る行為の結果である知識よりも知る行為そのものに置かれていることは間違いないですが、必ずしも前者を排除しているわけではないでしょう。こうした、暗黙知の実体化を排除する見方はおそらく松岡正剛氏の解釈から来ているのだと推測しますが、この見方はポランニーの真意に沿うものではないと思います。松岡氏はパン生地をこねる職人の技能は暗黙知ではないと言い切っていますが、ポランニーははっきりと診断医(The Tacit Dimension pp.6-7)やピアニスト(同 p.18)の技能を暗黙知の例として挙げています。

では、ハイエクの場合はどうでしょう。ハイエクにとって暗黙的なのは知覚や行為を統御する「ルール」です。ここで重要なのは、(明示的)「知識」を保持しているのは個人であるが、「ルール」を保持しているのは個人ではない、という点です。ハイエクにとって知覚ルールや行為ルールは、複雑な環境に対して適切に振る舞う必要性から、長い年月をかけて進化してきたものです。こうしたルールは、進化の遅い段階で一部が成文法といった形で明文化されることはあっても、その本質においては暗黙的なもので、人間はこうしたルールに従うことによって、彼が(明示的に)知っている以上のことを知ることができる、とハイエクは述べています。言い換えれば、一人ひとりの人間は自分の周囲の限られた領域の事柄以外に関しては無知であるにも関わらず、こうした暗黙的なルールに従うことによって、彼は知らず知らずのうちに、彼の認識可能な範囲を超えた遠い場所や遠い過去の事柄に関する知識を有効に活用することができる、というわけです。これが可能なのは、(繰り返しになりますが)こうした認識可能な範囲を超えた知識の存在形態が「ルール」に他ならないからです。ハイエクのこうしたルール概念については、「ルール、知覚、理解可能性」(Studies in Philosophy, Politics and Economics pp.43-65)、「行為ルール・システムの進化に関するノート」(同 pp.66-81)、および「抽象的なるものの先行性」(New Studies in Philosophy, Politics, Economics and the History of Ideas pp.35-49)が参考になります。

したがって、ハイエクにとって、「暗黙知を明示化できない」という前提から直接「集産主義は不可能」という結論が導かれるわけではありません(だからこそ私が件の記事に載せた説明は的外れなんです)。ハイエクの議論を正しく図式化すれば、「文明の複雑化に伴って人間が暗黙的なルールに頼る度合いが増加する」→「一人ひとりの人間の認識可能な範囲がますます狭くなる」→「こうした大きな社会においては、分散した知識を一箇所に集めることができない(集産主義が不可能)」という風になると思われます。つまり、集産主義に対するハイエクの批判の要点は、明示化できない知識をむりやり明示化しようとしている、といったことではなく、あくまで知識の分散です。『自由の条件』の第二章がこの議論を分かりやすく表していると思うので、二節だけ引いておきます(原文ですみません、手元に翻訳はないのです):
While the growth of our knowledge of nature constantly discloses new realms of ignorance, the increasing complexity of the civilization which this knowledge enables us to build presents new obstacles to the intellectual comprehension of the world around us. The more men know, the smaller the share of all that knowledge becomes that any one mind can absorb. The more civilized we become, the more relatively ignorant must each individual be of the facts on which the working of his civilization depends. The very division of knowledge increases the necessary ignorance of the individual of most of this knowledge. (The Constitution of Liberty: The Definitive Edition p.78)

We have now reached the point at which the main contention of this chapter will be readily intelligible. It is that the case for individual freedom rests chiefly on the recognition of the inevitable ignorance of all of us concerning a great many of the factors on which the achievement of our ends and welfare depends. (The Constitution of Liberty: The Definitive Edition p.80) 
また、"The Epistemological Argument Against Socialism: A Wittgensteinian Critique of Hayek and Giddens"という研究の中で、Nigel Pleasantsがまさにこの点においてハイエクを誤解している(ハイエクの暗黙知概念をルールではなく個人が保有するものと考えている)ために、かえって非常に参考になります。私自身、この論文を読んで自分の解釈の誤りに気付かされました。お勧めしておきます。

最後に、第三のテーゼ「価格情報は、これら分散的・暗黙的な知識を集約的に表現する『指標』である。価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある」について。これも大分杜撰な書き方をしてしまいました。私は経済学の知識に乏しいので、残念ながら大して有意義なことは述べられないです。これを書いたとき私の念頭にあったのは、塩沢由典氏の「ミクロ・マクロ・ループ」という概念だったと思います。つまり、経済現象のミクロなレベルにおける振る舞い(行為主体の経済活動)と、マクロなレベルにおける振る舞い(様々な慣習的・制度的構造の出現)は因果的にループしている、という考えです。価格システムも大局的なレベルにおける制度構造の一つということで、「価格情報は知識の集約の結果であると同時に、新たな知識を形成する原因でもある」という風に書いたんだと思います。このミクロ・マクロ・ループの考えが、新古典派経済学の方法論的個人主義(ただしオーストリア学派の方法論的個人主義とは異なる、狭い意味でのそれ)に対する批判の基礎になります。しかし、これはかなり大雑把な物言いです。私の見解に耳を傾けるより、塩沢由典『複雑さの帰結』(ミクロ・マクロ・ループが出てくるのは確か第三章だったと思います)を読まれた方が遥かに有益と思われます。

2013年8月11日日曜日

科学社会学と相対主義

科学社会学自体は非常に興味深いテーマを扱っているものの、「科学の客観性に対して疑問を投げかける」といったような動機で為されることが多いために、そうしたイデオロギーを共有できない私のような人間にとって、気持ち良く(不快感なしに)読める文献を探すのが難しい分野でもある。研究者たるもの、賛同できない学説に対しても淡々と、虚心坦懐に向き合うべし、と言われるかもしれないが、現実的な問題として、当該分野の学習に非本来的かつ不要な負荷がかかってしまう。唐揚げにレモンを勝手にかけないで欲しいのである。[1]

科学社会学周辺の論者が何らかの形の相対主義に走りやすいのは、科学活動が様々な制度的要素に規定されているという「形式」の側面にばかり目を奪われて、科学の「内容」を見ようとしないからだと思われる。一般的に言って、ある現象のメタ・レベルからの特徴付けは、グラウンド・レベルにおける当該現象の理解可能性を損なってはならない。科学の内容を考量に入れれば、それは相対主義的解釈(社会構築主義など)とは相容れないことが分かるはずである。いわば、内容が形式を内側から破壊してしまうのである。さらに、科学社会学自身も科学の一つの分野であるから、科学的知識の妥当性を社会的文脈に対して相対化するというメタ視点からの条件付けは、その妥当性が相対化されるべき当の知識の妥当性を前提してしまっており、結局自己論駁に陥っている。

相対主義的解釈がこうした誤謬を犯すのは、発見の文脈と妥当性の文脈を混同しているからだと思われる。ただしここでいう「発見の文脈」と「妥当性の文脈」の区別は、論理実証主義者がよく持ち出す、context of discoveryとcontext of justificationの区別とは少々異なる。[2] 論理実証主義の発見/正当化の区別は、科学的探究に関する独自の理論を前提としている。すなわち、科学的探究にははっきりと同定できる「発見」のプロセスと「正当化」のプロセスがあり、前者には論理的・形式的に分析可能な構造はないが後者にはある、という理論である。こうした理論は、Thomas KuhnやN. R. Hansonら「新しい科学哲学」の興隆とともに廃れてしまった。しかし私の言う発見/妥当性の区別は、単なる抽象的な視点の違いであって、科学的探究のプロセスに関する独自の理論を含意しない。私の言う発見/妥当性の区別は、ある発見や理論について問われている問いの違いに過ぎない。つまり、「この理論はいかにして発見されたか」という事実に関する問いと、「この理論は正しいか」という評価的な問いとの間の区別である。「発見の文脈」と「妥当性の文脈」の区別にこれ以上の実質を持ち込む必要はない(「妥当性の文脈」と言い換えたのは、論理実証主義が想定する狭い意味での「正当化の文脈」から差別化するためである)。

さて、この区別に照らせば、相対主義の主張に反して、科学活動が制度的要素に規定されていることは、科学的知識が客観的妥当性を有さないことを意味しない。事実的言明である前者から評価的言明である後者を導出することは、二つの異なる問いの混同に基づいている。私はむしろ、科学活動が多分に社会的・慣習的要素を含んでいるにも関わらずそれが可能であるという事実に、一種の神秘を見る。科学共同体の伝統を内在化した個人が、精神の自由な創造によって編み出した知が普遍性を持ち得るという一見パラドクシカルな事実に、自然と理性の神秘的な調和を見ることも十分可能であろう。



[1] もっとも、唐揚げに関しては私はレモンをかけたい派であるが。

[2] cf. Hoyningen-Huene, Paul, "Context of Discovery Versus Context of Justification and Thomas Kuhn" in Revisiting Discovery and Justification: Historical and Philosophical Perspectives on the Context Distinction, eds. Jutta Schickore and Friedrich Steinle. Springer, 2006.

【メモ】 リバタリアニズムの人間観―ヴィルヘルム・フォン・フンボルトに見るドイツ的教養の法哲学的展開 (吉永圭)

【序章  法哲学の厳密性を確保する法思想史方法論と現代福祉国家の問題】

「リバタリアンは人間の完全性への憧憬を持ち合わせていないため、近代法がただ強い個人を想定しているのとは異なり人間は不完全なものであり理性には限界があるということを強く意識するがゆえにあえて無色透明な人間像を採用しているのではないだろうか。つまり、リバタリアンが経済力・交渉力の格差を考慮に入れない無色透明な人間像を前提とするのは、法が法主体の多様性を把握することは不可能だという一種の諦観に基づいているからだと思われる」(橋本祐子「リバタリアニズムの法理論」p.67)
→ こうしたリバタリアニズムを「確固たる人間観なきリバタリアニズム」と呼ぶことにする

人間をあるがままの自然状態の中に放置すると想定する。すると、人間はハートが指摘したような弱さ故、自然と強制力を持った装置を熱望するのではないか。……リバタリアニズムが個人の生活への国家介入を拒否するならば、そこには何等かの目的意識から構成された人間観が必要なのではないか。あるいは確固たる人間観なきリバタリアニズムは、自らは人間のあり方から不自然でない形で最小国家論を導いたかのように装うが、実はある一定の人間観を密輸入して自己の理論を組み立てているのではないか。(p.33)

【第一章 一八世紀後半ドイツの状況】

カントにとって重要なのは立法権と行政権の分離であり、行政権は元首に委ねられる。この元首とは、カントの時代においては国王である。立法においては代議制のみが採り得る道としながらも、執行権を掌握するという形で国王の君臨を許すことから、カントが少なくとも現代的な意味での民主制を支持しなかったと結論して良い。(p.99)

「民主主義のために戦ったのちの自由主義的教義とは異なり、初期の自由主義は通常、統治の最善の形式に関して慎重に言明を避け続けた。万民の最大限の自由を保障する政体である限りは、君主制でも、貴族政でも、民主制でも良かったのである。」(Frederick C. Beiser, The Early Political Writings of the German Romantics p.xxiii)

【第三章 フンボルトの前期思想】

「人間の真の目的は、——変わりやすい傾向ではなく、いつまでも変わらない理性によって示されるものであるが——人間の持つ諸力を最高にしかも最も調和のとれた一つの全体へと陶冶すること(Bildung)である。この陶冶の為に自由は、第一の不可欠な条件である」(『国家活動の限界を決定するための試論』)

「彼[フンボルト]の自由の概念は彼の文化の概念と密接に繋がっている。彼にとって自由とは、人間の諸力の発展と、それゆえ文化の発展の不可欠の基礎を形成する、不定で多様な活動の可能性を意味する」(Reinhold Aris, History of Political Thought in Germany from 1789 to 1815 p.147)。つまり、フンボルトの自由はそれ自体が価値を持つのではなく、最終的に己の諸力を文化形成に資するように導くための概念なのである。ここに政治参加への自由、といった積極的自由の概念は見られない。フンボルトの自由は、消極的自由の範囲を出ない。(p.142)

「われわれの存在に関する究極課題とは、次のようなものである。われわれの人格の中に、われわれの生前と死後を問わず、われわれが後に残す生き生きとした活動の痕跡によって、人間性(Menschheit)の概念に対して出来るだけ多くの内容を与えることである。このような課題を解決するためには、われわれの自我を世界と結び付けて、最も普遍的で、最も活発な、最も自由な相互作用を保つほかになす術はない。このことだけが、人間の認識のあらゆる部門の取り扱いを評価するための、真の尺度とならなければならない」 (『人間形成と言語』pp.68-69)

シュプランガーによる、フンボルトの人間性理念の説明:「個性」(Individualität)が諸力の「全面性」(Allseitigkeit)・「普遍性」(Universalität)を通じて自らを「全体性」(Totalität)へと形成していく。

ここで注意すべきは、フンボルトが社会集団あるいは社会関係というものを想定していたとしても、それは専ら個人という存在に対する影響に関する限りで彼の関心を引いたということだ。我々は社会集団(共同体)がフンボルトによって言及されているからといって、そこに政治的組織といった含意を読み取ることはできないのである。(pp.145-146)

フンボルトの哲学にはライプニッツの予定調和的世界観がある(個人に可能な限り自由を認めることが全体にとっても良い)。しかし社会における全体の秩序は個人の完成への努力に比べてあくまで副次的な問題。(p.147)

「後の自由主義とは異なり、彼[フンボルト]は民主制の擁護者ではなかった。彼の視野においては、容易く下層民の暴走に転じ得る民主制よりも独裁制や貴族政の方が自由を保障し得る。」
Frederick C. Beiser, Enlightenment, Revolution, and Romanticism p.111)
→ モンテスキュー、ルソー、ヴィーラント、そしてカントも、小さな共同体以外で民主制が現実になることを疑っている。

フンボルトにとって民主制採用を阻む障害は「無教養な民衆」である。この層が政治を掌握すれば、暴発し、専制あるいは無秩序になるという懸念があったのだろう。これは、フランス革命直後のパリを視察したフンボルト自身の経験が教えるところであったと推測される。(p.161)
→ 教養を身に付けていない者が政治に口を出せば、己の利益のために政治を利用し、他者(および自身)の陶冶を妨げることになる。

フンボルトには政治的討議で自己を練磨していくという発想は見られない。(p.162)

【第四章 フンボルト国家論における人間観の問題】

フンボルトの教育論にデヴィッド・ソーキンは、新人文主義と啓蒙主義の和解を見る。即ち、啓蒙主義、特に統治者側からの啓蒙的理念において陶冶概念は国家に有益なものであった。しかしフンボルトは陶冶を単なる道具的概念とすることを認めたくなかった。そこで、啓蒙の諸目的は間接的に、陶冶の意図されたしかし付随的な帰結として実現されるべきである。フンボルトは自由な個人になるように教育された人間の方が、市民になるように教育された人間よりも、究極的にはより良き市民となる、と主張した。「道徳的人間あるいは良き市民」の状態を作り出し国家に奉仕することが国家の究極の目的である。しかしカリキュラム上は直接そのことを目指すのではない。国家目的は、個人を無益な職業訓練に従事させることではなく、個人独自の性格を発展させるように教育することによって、最も良く達成される。(p.193)

フンボルトの作品の随所で登場する「(諸)力」の概念は、ライプニッツの「力」概念の継承。フンボルト自身の受けた教育の中で特に影響力が強かったのはライプニッツであった(ライプニッツはフンボルトにとって最初の哲学的支柱であった)。(p.208)

【第五章 フンボルトの限界とその克服の試み】

「社会の全員が常に社会的意識を持て」と命令することはリバタリアンには許されていない。我々はただ、確固たる人間観なきリバタリアニズムの議論より「緩やかな程度の政治志向性」の方が、社会的意識を有した人間が多く登場すると言い得るのみである。(p.255)

「国家の配慮というものは、全ての者が何を学ぶかではなく、全ての者が学ぶということにある」(Hans Maier, Staat, Kirche, Bildung p.72)

【終章 現代正義論へ向けて】

個々人の善の領域における幸福追求 も、その周囲を囲む領域の安定が前提となっている。秩序安定のために様々な制度(例えば、国家)が考案されるのであるが、この秩序維持に最も重要な要素はやはり人間ではないか。いくら機能的な制度を秩序維持のために導入しても、運用・利用する人間がそれに適合的な資質を持たなかったら、当該制度は秩序の維持に失敗するか、あるいは一部の人間が秩序維持目的の制度を独断的に利用し、他の人々の善を破壊するほどに暴走する恐れがある。(pp.280-281)