2013年3月16日土曜日

【メモ】 アインシュタイン―物理学と形而上学 (細川亮一)

【第一章 第一節 運動と変換】

「私が光線を光速度c(真空中の光速度)で追いかけるとすれば、私は静止した、つまり空間的に振動している電磁場としてその光線を知覚するはずだろう。しかし経験に基づいても、マクスウェルの方程式に従っても、そのようなことがあるとは思えない」
(Paul Schilpp, Albert Einstein: Philosopher-Scientist, p.52)
→ アインシュタインの有名な光のパラドックスの思考実験。この思考実験から「光線を光速度cで追いかけることの不可能性」が導かれる、と解釈されるかもしれないが、この解釈は誤っている。光速度が限界速度であることは、経験からもマクスウェル方程式からも帰結しない。後者が教えるのは、光が電磁波であり、真空中を一定速度cで伝播することであり、前者が教えるのは、相対的に一様な並進運動をする座標系では同一の自然法則が成り立つ、ということ(相対性原理)である。問題はむしろ速度の合成にある。光をcより小さい速度で追いかけたとすれば、光はcより遅く伝播しているように見えるだろうか。このように問えば、cが光の限界速度であると仮定してもパラドックスが解消しないことが分かる。というのも、もし観測者がcより遅い速度で伝播する光を知覚できれば、その情報に基づいて自分が(静止座標系ではなく)一定の速度で一様な運動をする座標系にいると判断できてしまい、相対性原理を破ることになるからである。「光のパラドックスは、ガリレイ変換による速度合成の法則と光速度一定の原理との両立不可能性に由来する。」(p.26)

【第一章 第二節 ローレンツ理論との格闘】

「ただ一つの原理的な意味でこの理論[ローレンツの静止エーテルの理論]は満足させるものに思えなかった。この理論は一定の運動状態の一つの座標系(つまり光エーテルに対して静止している座標系)を、それに対して運動しているすべての座標系に対して特別視しているように見えた。……この堪え難いと感じられた原理的な困難に特殊相対性理論は負っている」(Collected Papers Vol. 7, p.373)

「静止エーテルが存在する、とは物理的に何を意味するのか。この仮定の最も重要な内容は次のように表現される。それに対してあらゆる光線が真空中で普遍的速度cで伝播するような一つの座標系(ローレンツ理論において『エーテルに対して相対的に静止している系』と呼ばれる)が存在する。このことは、光を放射する物体が静止しているか運動しているかに依存せず成立する。この命題を我々は光速度一定の原理と名付けよう」(Collected Papers Vol.3, p.430)
→ ローレンツの静止エーテルの理論が表現している物理的内容を、余計なエーテル仮説を消し去って純化すれば、光速度不変の原理になる。実際アインシュタインは、ローレンツのこの理論から、核心を剔出することによって光速度不変の原理に達したと思われる。

「特殊相対性理論が古典力学と異なるのは、相対性の要請によってではなく、真空中の光速度の一定という要請によってだけである」(Collected Papers Vol.6, p.285)

【第一章 第三節 ヒュームとマッハ】

「ヒュームの『人間本性論』を私は相対性理論を見出す直前に熱意と賛嘆の念をもって研究しました。この哲学的研究なしに私が解決に達しなかったかもしれないということは、大いにありうることです」 (Collected Papers Vol. 8, p.229)

【第二章 第四節 時間】

「例えば『列車が七時にここに到着する』と私が言う場合、『私の時計の短針が七を指すことと列車の到着が同時刻の出来事である』ということを意味する」(Collected Papers Vol. 2, p.278)

ここで重要なのは、時間を「時計の短針が七を指す」という出来事としていることである。このことによって、或る出来事(列車の到着という出来事)の時間(時刻)を語ることは、同じ場所での二つの出来事の同時刻性として捉え返される。時間の問題が出来事同士の関係という次元に置かれたのである。それによって、時間はそれ自身独立・自存の存在でなく、出来事同士の関係となる。時間の問題を二つの出来事の同時刻性へ還元することは、「時間は出来事の基準枠であり(座標という幾何学的な絶対性)、出来事から物理的に独立である(物理的な絶対性)」という絶対時間を否定する最初の決定的な一歩である。(p.74)

アインシュタインによる時間間隔の定義→
「一つの光線がA時間tAにおいてAから出発しBへ向かい、B時間tBにおいてBでAに対して反射され、t'AにおいてAに戻るとしよう。もしtB-tA=t'A-t'Bであるならば、定義として二つの時計は同調している」(Collected Papers Vol. 2, p.279)
→ もしtA-tB>t'A-tB、あるいは同じことだがtB>(t'A-tA)/2であれば、時計Bは時計Aより進み過ぎている。逆にtA-tB<t'A-tB、すなわちtB<(t'A-tA)/2であれば、時計Aが時計Bより進み過ぎている(これは二つの時計のテンポが合っていない、という意味では必ずしもない。テンポは同じでも、一方の時計が他方より常に一定の間隔だけ遅れている、ということもありうるからである)。

「我々はさらに経験に従って、2AB/(t'A-tA)=cという量が普遍定数(真空中の光速度)であると設定する」(ibid.)
→ AB(AとBの間の距離)は「ユークリッド幾何学の方法を使って剛体によって」(Collected Papers Vol. 2, p.277)測定できる。そして光速度は常に一定である。この二つの量を使って初めて時間間隔(t'a-tA)を、測定可能な量として定義できる。すなわち2AB/cである。

長さと時間の相対性→
「静止した剛体の棒が与えられているとする。この棒は、同様に静止した物差しによって測定されたとき、長さlである。我々は棒の軸が静止系のX軸に沿って置かれ、棒がその上を一様な並行並進運動(速度v)でX軸に沿って座標Xが増加する方向に運動していると想定する」(Collected Papers Vol. 2, p.290)
→ この場面設定で棒の長さが問われるが、(a)運動している棒とともに運動している観測者にとっての棒の長さ(運動系における棒の長さ)と、(b)静止している観測者にとっての棒の長さ(静止系において運動している棒の長さ)が一致しないことを見る。相対性原理より、(a)の長さはlである。問題は(b)の方。運動している棒の両端(AとB)に時計を取り付け、これら二つの時計がそれぞれ静止系の時計と(静止系のある瞬間において)合わせられていると想定する。時刻tAにおいてAから光線が出発し、時刻tBにおいてBで反射され、時刻t'AにおいてAに戻るとする。そして静止系において測定した運動している棒の長さをrABとする。

静止系から見ると、Aを出発した光線がBに着くまでに、Bは(tB-tA) *v[vは運動する棒の速さ]だけ進んでいる。それ故、光線はrAB+(tB-tA)*vの距離を伝播しなければならない。光速度=(光路/(時間間隔)であるから、c={rAB+(tB-tA)*v/(tB-tA)}。c(tB-tA)=rAB+(tB-tA)*v。(tB-tA)(c-v)=rAB。それ故、tB-tA=rAB/(c-v)。次にBで反射されAに戻る場合を考える。光線がAに戻る間に、Aは(t'A-tB)*vだけ、光線に向かって進んでいる。それ故、光線はrAB-(t'A-tB)*vの距離を伝播することになる。右と同様にして、t'A-tB=rAB/(c+v)。tB-tA=rAB/(c-v)とt'A-tB=rAB/(c+v)から、tB-tA≠t'A-tB。このことを「運動している棒とととも運動している観測者」(運動系)から見ると、Aの時計とBの時計は同調していないことになる。運動系から見て、二つの時計が同調しているとは、tB-tA=t'A-tBが成り立つことを意味しているからである。(p.78)

「自然法則の単純性が客観的な性格を持つこと、それが単に思惟経済の問題であるだけではないことを、私はあなた[アインシュタイン]と同様に信じます。極度の単純性と美を持った数学的形式へと自然によって導かれるとき、……それがである、つまりそれが自然の真正な性格を表現している、と人は信じざるを得ません。」(Werner Heisenberg, Der Teil und das Ganze pp.98-99)

【第二章 第五節 相対性原理と光速度一定の原理】

一般的な解説書において、相対性原理は(a)「自然法則はすべての規準系(慣性系)において同一の形で表される」とされ、光速度一定の原理は(b)「すべての規準系(慣性系)において真空中の光速度は同じ値を取る」と説明されている。(p.93)

光速度一定の原理を(b)とすることは、「すべての規準系において」という形で、相対性原理を密輸入している。(p.94)
→ (b)の定式化に従えば、光速度不変の原理だけからローレンツ変換を導けてしまう。

特殊相対性理論を特殊たらしめているのは何か。それは慣性系といった特殊な座標系への言及ではなく、二つの座標系の特殊な関係、すなわち「相対的に相互に一様な並進運動をしている」という関係である。(p.97)
→ (a)のように慣性系といった規準系への指示を含ませることは、相対性原理が慣性の法則を前提することになり、原理の次元を失うことになる。

相対性原理は規準系への指示を含まず、二つの座標系の関係とその同等性のみを語るだけだから、相対性原理だけでは規準系(自然法則が最も単純な形となる座標系、「電気力学」論文の言葉で表現すれば「静止系」)を決定しえない。では規準系はいかにして決定されるのか。光速度一定の原理こそが、規準系=静止系を決定する。(p.98)
→ 光速度不変の原理が、ローレンツの静止エーテル理論に由来することを想起せよ。つまり、「それに対してあらゆる光線が真空中で普遍的速度cで伝播するような一つの座標系」が世界に存在することを、光速度不変の原理は要請しているのである。

[厳密に言えば]特殊相対性理論は非慣性系(加速度系)に対しても妥当する。つまりある悲慣性系において成立する自然法則(それがいかに複雑な形であろうと)は、「その非慣性系に相対的に一様な並進運動を他の非慣性系」において同じ形で成り立つ。(p.301n)

ガリレイにおいて慣性の法則は理想化された実験(思考実験)によって導かれる。物体が斜面下方へ加速運動することと斜面上方へ減速運動することから、加速と減速の原因を取り除けば(つまり斜面ではなく水平な平面での運動においては)、物体は加速も減速もしない一定の速度で運動するだろう。しかしガリレイが想定している水平な平面は地球の表面(つまり球面)である。彼にとって加速は地球の中心へ向かう加速であり、中心を持った地球座標系を、つまり「上方・下方という空間の非等質性」を前提としている。さらにガリレイにおいて慣性の法則は加速・減速の原因がない極限事例、つまり加速度運動の法則の特殊な場合にすぎない。(p.103)

[ニュートンにおいて]慣性の法則は水平運動に限定されず一般化され、空間の等質性が認められている。一般化されえたのは、ガリレイの運動学が地上での現象に限定されていたのに対し、ニュートンの力学が天文学へと拡張され、地球座標系から自由になったからである。(p.103)

ニュートンは慣性の法則を第一法則とし、運動方程式を第二法則とした。これに対して、慣性の法則は加速度の法則の特殊な場合(外力がない場合)にすぎず、独立の法則として認める必要がない[のではないか]、という疑問が生じる。……しかしこうした理解は、地球座標系を自明視したガリレイと同様に、規準系の存在を自明視し、規準系の決定という問題を見ていない。つまり加速度の法則がいかなる座標系(規準系)において成り立つのか、という問いを忘れている。ガリレイの相対性原理における静止・運動は地球座標系に対する静止・運動であった。しかしニュートンの相対性原理における「静止している空間」は地球座標系に対する静止ではなく、絶対空間に対する静止を意味する。ニュートンは地球座標系から自由になることによって、規準系(時空座標)の決定という問題に直面する。だからこそ彼は絶対時間・絶対空間を導入したのである。(p.104)
→ オイラーは、慣性の法則は運動方程式の特別なケースに過ぎないことを数学的に示したが、彼には規準系の決定という核心的な問いが抜け落ちている。「我々は法則を持っているが、しかしいかなる枠に法則を準拠させるべきかを知らない」(The Evolution of Physics, p.222)

第一法則(慣性の法則)が決定する規準系(座標系)において、初めて第二法則(運動方程式)が成り立つのであって、第二法則の特殊な場合として慣性の法則が成り立つのではない。(p.104)

光速度一定の原理は静止系(規準系)を決定するだけでなく、同時に座標変換に対する不変量として座標間の変換の形を決定することによって、相対性原理に物理的な意味を与えるのである。(p.106)

ローレンツ変換を導くためであれば、ローレンツやポアンカレがしたように、マクスウェルの方程式を不変に保つ変換式を求めるという仕方でも可能である。とすれば変換に対する不変量をマクスウェルの方程式とするか、光速度一定とするかは、ローレンツ変換式を導出するという点に関しては違いがない。しかしマクスウェルの方程式は光速度一定の原理を含むが、光速度一定の原理はマクスウェルの方程式を論理的に前提していない。つまり光速度一定はマクスウェルの方程式より内包量が少ない。この点に光速度一定を不変量とすることの優位がある。(p.107)

Maxwell's equations imply the "Lorentz group," but the Lorentz group does not imply Maxwell's equations. The Lorentz group may indeed be defined independently of Maxwell's equations as a group of linear transformations which leave a particular value of the velocity - the velocity of light - invariant. (...) On this account it is to be expected that all equations of physics are covariant with respect to Lorentz transformations (special theory of relativity). Thus it came about that Maxwell's equations led to a heuristic principle valid far beyond the range of the applicability or even validity of the equations themselves. (Ideas and Opinions, p.346)

ここで着目したいのは「マクスウェル理論が放射のミクロ構造を提示しておらず、それゆえ普遍的に妥当しない」(Max Born, Physics in My Generation, p.104)という[アインシュタインの]認識である。この認識故に、アインシュタインはマクスウェル方程式を前提とすることができなかった。アインシュタインがマクスウェルの方程式ではなく光速度一定を不変量として選んだのは、マクスウェル理論が放棄され、光についての新しい理論(粒子であれ波動であれ粒子・波動の二重性であれ)が登場したとしても、光速度一定の原理が成り立つと考えたからである。ここに特殊相対性理論の原理理論であることの意味が読み取れる。(pp.107-108)

【第二章 第六節 原理理論としての特殊相対性理論】

相対性原理は相対主義のテーゼではなく、「自然法則の絶対主義」の宣言である。……「自然の法則がローレンツ変換に対して不変である」という「数学的に定式化された規準」を「個々の現象」(剛体の長さと時間という現象)が満たさなければならないが故に、ローレンツ収縮と時計の遅れが論理的に(演繹的に)帰結する。……つまり特殊相対性理論が要求する「自然法則の絶対主義」によって、「長さと時間の絶対性」(長さと時間が座標系に依存しない不変量であること)が打倒される。(p.122)

It will be recalled that a similar charge had been leveled, especially in the early 1920s, against the theory of relativity. This charge stemmed, at least to some extent, from a gross misinterpretation of the very name of the theory; it was claimed that, because all laws of physics are "relative" to the observer, they "depend" on the observer and that thereby the human element plays an integral part in the description of physical data - whereas, quite to the contrary, the very tensor calculus on which the theory is based vouches, so to say, for the "standpointlessness" of the laws formulated in the theory. (Max Jammer, The Philosophy of Quantum Mechanics pp.200-201)

【第三章 第八節 特殊相対性理論から一般相対性理論へ】

「これらの思想は言語の形式において生じるのではない。私が言葉で考えるのは極めて稀である。思想が生じる、そして私は後からそれを言葉で表現しようと試みる」(Einstein, quoted from Max Wertheimer, Productive Thinking, p.228n)

「書かれたり話されたりする仕方での言葉や言語は、私の思想のメカニズムにおいて何の役割も果たしていないように思われる」(Einstein, quoted from Gerald Holton, Thematic Origins of Scientific Thought, p.386)

「すでに獲得された認識の光の元では、幸運にも達成されたものがほとんど自明のように見える。そしてあらゆる聡明な学生はそれほど大きな苦労なしにそれを把握する。しかし予感に満ちた何年にもわたる暗闇での探究、それに伴う張りつめた憧憬、確信と消耗の交錯、そしてついに真理へと突き抜けること、こうしたことを知っているのは、自分自身でこれを体験した者だけである」(Mein Weltbilt, p.138)

【第四章 第十二節 人間精神の自由な創造】

「物理学者の最高の課題は、それから純粋な演繹によって世界像が獲得され得る最も一般的な基本法則を探し出すことである。こうした基本法則に通じる論理的な道はなく、ただ経験への感情移入(Einfühlung)に支えられた直観のみがある。方法論の不確実性をよりどころとして、理論物理学の任意に多数のそれ自体としては同等な体系が可能であると考えることができるだろう。この考えは原理的にも確かに正しい。しかし発展が示しているのは、すべての考え得る構成の中で唯一の構成がその都度他の構成より無条件に優越していることが明らかになる、ということである。対象の中に実際に沈潜した人は誰でも、知覚から理論の根本命題への論理的な道が通じていないにも関わらず、知覚の世界が論理的な体系を実際に一義的に規定する、ということを否定しないだろう」(Collected Papers Vol. 7, 57)

Newton, forgive me; you found the only way which, in your age, was just about possible for a man of highest thought - and creative power. The concepts, which you created, are even today still guiding our thinking in physics, although we now know that they will have to be replaced by others farther removed from the sphere of immediate experience. (Autobiographical Notes, pp.30-31)

絶対空間を想定すれば、その空間に対して静止している座標系(絶対静止系)が存在する。その座標系が慣性の法則が成り立つ座標系(慣性系K)である。確かに絶対空間そのものは観測不可能であるから、絶対空間に対して静止している座標系(慣性系K)をそれとして決定できない。しかし相対性原理によれば、その慣性系Kに対して相対的に一様な並進運動している座標系もKと同様に慣性系である。それ故慣性の法則が成り立つ座標系を決定できるとすれば、その座標系が絶対空間に対していかなる一様な運動をしているかを知りえないとしても、その座標系は慣性系である。つまり絶対空間は慣性系の存在を保証している。(p.215)

[I]nertia resists acceleration, but acceleration relative to what? Within the frame of classical mechanics the only answer is: inertia resists acceleration relative to space. This is a physical property of space-space acts on objects, but objects do not act on space. Such is probably the deeper meaning of Newton's assertion spatium est absoutum (space is absolute). But the idea disturbed some, in particular Leibnitz, who did not ascribe an independent existence to space but considered it merely a property of "things" (contiguity of physical objects). Had his justified doubts won out at that time, it hardly would have been a boon to physics, for the empirical and theoretical foundations necessary to follow up his idea were not available in the seventeenth century. (Ideas and Opinions, p.348)

加速度は絶対空間に対する加速度であり、絶対空間は加速度運動をする対象に作用する。絶対空間は慣性系における加速度に、運動の相対性に解消されない物理的な意味を与える。絶対空間は加速度運動への物理的な作用によって慣性系の優位を保証する。(p.216)

Physical concepts are free creations of the human mind, and are not, however it may seem, uniquely determined by the external world. In our endeavour to understand reality we are somewhat like a man trying to understand the mechanism of a closed watch. He sees the face and the moving hands, even hears it ticking, but he has no way of opening the case. If he is ingenious he may form some picture of the mechanism which could be responsible for all the things he observes, but he may never be quite sure his picture is the only one which could explain his observations. He will never be able to compare his picture with the real mechanism and he cannot even imagine the possibility of the meaning of such a comparison. But he certainly believes that, as his knowledge increases, his picture of reality will explain a wider and wider range of his sensuous impressions. He may even believe in the existence of the ideal limit of knowledge and that it is approached by the human mind. He may call this ideal limit the objective truth. (The Evolution of Physics, p.33)

→ クーンは『科学革命の構造』で「継起する諸理論が真理に絶えず近づき、ますます接近する」という観念を批判している。彼は言う: "There is, I think, no theory-independent way to reconstruct phrases like 'really there'; the notion of a match between the ontology of a theory and its 'real' counterpart in nature now seems to me illusive in principle." (Thomas Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions, p.206) 実在は模写されるものではなく、逆に理論によって実在の像が構築される。ゆえに理論に依存しない実在の像などありえないし、理論が描く実在の像と実在その物との比較・対応など不可能である。しかしこの論点はいわゆる「新科学哲学」による新発見でも何でもなく、既にアインシュタインによってはっきりと認識されていた。物理的な実在を「閉じられた時計のメカニズム」になぞらえる上の引用がこれを明瞭に示している。アインシュタインにとって、理論と実在との比較・対応が不可能であるとするクーンの論点はそのまま認められる。しかし、この論点から、真理の「接近」説の否定を導きえないことは、アインシュタインの引用からも明らかである。クーンは、真理の「接近」説が真理の「対応」説を含むことを前提視しているが、その根拠が示めされていない。「「経験→理論→経験」の図式を使えば、真理の対応説がモデルとしているのは、「経験→理論」のレベルであり、「理論以前に経験に与えられた実在(あるがままの実在)」を模写する理論を真であるとする。しかし科学理論の真理は、「理論→経験」(つまり外的実証性)のうちに、そして理論そのものの性格(内的完全性)に求められる。」(p.332n)

「私のような人間の生における本質的なものは、何を思惟するか、いかに思惟するかにあるのであって、何を為すか、何をこうむるかにない」(Autobiographical Notes, p.32)

It has often been maintained that Galileo became the father of modern science by replacing the speculative, deductive method with the empirical, experimental method. I believe, however, that this interpretation would not stand close scrutiny. There is no empirical method without speculative concepts and systems; and there is no speculative thinking whose concepts do not reveal, on closer investigation, the empirical material from which they stem. To put into sharp contrast the empirical and the deductive attitude is misleading, and was entirely foreign to Galileo. (Foreword to Galileo's Dialogue Concerning the Two Chief World Systems, p.xviii)

この自由な思惟[経験から自由な思考実験、純粋思惟]が初めて、「運動する物体は、これを押す力が押すことができなくなるとき、静止する」という運動についての誤った考え(経験的な事実に直接由来する考え)を克服した。(p.225)
→ しかし純粋思惟も経験から完全に自由ではありえない。物理学の場合外的実証に晒されるという意味でのみなく、そもそも思惟の素材が経験に由来しないことはありえない、ということ。

【第五章 第十三節 自然のうちで自己を顕現する理性】

 「世界の理性もしくは世界の理解可能性についての宗教的感情に似た確信が、すべての洗練された科学的探究の根底にあることは確かである。経験可能な世界のうちで自己を掲示する卓越した理性についての、深い感情に結びついたあの確信が私の神概念を形成している。それ故普通の表現を使えば、それを汎神論的(スピノザ)と呼びうる。」(Mein Weltbild, p.171)

「私は存在者の調和の内に自己を掲示するスピノザの神を信じ、人間の運命と行動に関わり合う神を信じない。」(Carl Seelig, Albert Einstein: Eine Dokumentarische Biographie, p.187)

「科学は自然の究極的な神秘を解くことができない。それは結局我々が自然の一部であり、従って我々が解こうと試みている神秘の一部だからである。」(Max Planck, Where is Science Going?, p.217)

「たとえ[ニュートンの重力]理論の公理が人間によって定位されるとしても、そのような企ての成功は、それをアプリオリに期待するいかなる根拠もない客観的世界の高度な秩序を想定している。ここに我々の知識の発展とともにさらに強まる驚きがある。」(Breife an Maurice Solovine, p.114)

The speed of light c is one of the quantities which occurs as "universal constant" in physical equations. If, however, one introduces as unit of time instead of the second the time in which light travels 1 cm, c no longer occurs in the equations. In this sense one could say that the constant c is only an apparently universal constant. It is obvious and generally accepted that one could eliminate two more universal constants from physics by introducing, instead of the gram and the centimeter, properly chosen "natural" units (for example, mass and radius of the electron). If one considers this done, then only "dimension-less" constants could occur in the basic equations of physics. Concerning such I would like to state a theorem which at present can not be based upon anything more than upon a faith in the simplicity, i.e., intelligibility, of nature: there are no arbitrary constants of this kind; that is to say, nature is so constituted that it is possible logically to lay down such strongly determined laws that within these laws only rationally completely determined constants occur (not constants, therefore, whose numerical value could be changed without destroying the theory). (Autobiographical Notes, p.60)

→ アインシュタインにとっての理論の評価基準の一つは「内的完全性」であるが、それは、類似した構造を持った等価な諸理論の中から一つの理論が、論理的な観点から見て任意でない仕方で選ばれた場合に体現される。そしてある物理理論が論理的に任意でない仕方で構築されたとき、「自然はなぜこのようであって、別様ではないのか」、という問いへの答えになる。上の引用では、任意性のない理論とはいかなるものかについて述べられている。

「アメリカ人はまさに事実-人間であり、思想によって現実的なものを作り得ることを信じない。我々がヘーゲルを蔑視するように、アメリカ人は私流の理論物理学を蔑視する。」(Einstein, quoted from Ernst Strauss, "Assistent bei Albert Einstein" in Helle Zeit-Dunkle Zeit, p.73)

「今や彼[ベッソー]はこの奇妙な世界と別れて、私に先立って行きました。このことは問題ではありません。我々確信的な物理学者にとって過去と現在と未来の区別は、たとえ執拗であろうと、一つの幻想の意義しか持っていないのです。」(Einstein, quoted from Max Jammer, Einstein and Religion, p.161)

【第五章 第十四節 物理学は一種の形而上学である】

確かにアインシュタインの立場は実在論であるが、それがいかなる実在論であるかが問題である。「物理学は存在者を、知覚されていることから独立に思惟されるものとして概念的に把握しようとする努力である。この意味において物理学的に実在的なものが語られる」(Autobiographical Notes, p.80)。「知覚されていることから独立に」という言葉は、実在が直接に(知覚的に)捉えられるという素朴実在論を否定している。実在は「思惟されるもの」、つまり理性(人間精神の自由な想像としての物理理論)によって初めて把握される。それ故理論が構築する実在の像は、理論と独立な実在(いわゆる「形而上学的実在」)と比較することなどできない。この意味での真理の対応説は否定される。しかし物理理論から演繹された諸帰結が経験の多様性を包括すること(外的実証性)のうちに、理論の有効性(真理性)がある。……このようなアインシュタインの実在論(さらに形而上学)を、カント哲学に接近したパトナムの「内在的実在論」と比較検討することは、極めて興味深い作業となるだろう。」(pp.342-343n)

In short, I shall advance a view in which the mind does not simply 'copy' a world which admits of description by One True Theory. But my view is not a view in which the mind makes up the world, either (or makes it up subject to constraints imposed by 'methodological canons' and mind-independent 'sense data'). If one must use metaphorical language, then let the metaphor be this: the mind and the world jointly make up the mind and the world. (Hilary Putnam, Reason, Truth and History, p.xi)

In short, I suffer under the unsharp separation of Reality of Experience and Reality of Being. You will be astonished about the "metaphysicist" Einstein. But every four and two-legged animal is de facto in this sense metaphysicists. (Einstein, quoted from Gerald Holton, Thematic Origins of Scientific Thought, p.386)

→ Reality of Experienceは感性的経験の実在性、Reality of Beingは概念の実在性。この区別が形而上学的であるからことを知っていたからこそ、アインシュタインは自身が「形而上学的な原罪を犯している」(Paul Schilpp, Albert Einstein: Philosopher-Scientist, p.673)と語るのである。

「遥かに健全な精神を持っていた彼[カント]の先行者ヒュームを読むほど素晴らしいわけではないとしても、ともかくカントを読むことは非常に魅力的です。」(Albert Einstein, Hedwig und Max Born Briefwechsel 1916〜1955, p.25. cf. Collected Papers Vol. 8, p.346)

「剛体はその位置可能性に関して、三次元ユークリッド幾何学の物体のように振る舞う。その場合ユークリッド幾何学の命題は、実際上の剛体の振る舞いについての言明を含む。/このように補足された幾何学は明らかに一つの自然科学である。我々は幾何学をまさに物理学の最も古い部門と見なすことができる。」(Mein Weltbild, p.121)

「人間の真の価値は第一に、いかなる程度においていかなる意味において彼が自我からの解放に達しているか、によって規定されうる。」(Mein Weltbild, p.10)

「この領域において成果豊かな歩みを集中的に経験する者は、存在者の内に自己を顕現する理性に対する深い崇拝の念に囚われる。彼は理解の道を通って個人的な願望と希望の鎖から解放され、存在者の内に具現化されその究極の深みにおいて人間には近づきえない理性の偉大さに対する、心の謙虚な態度に至る。この態度は最高の意味において宗教的であると私に思われる。こうして科学は、宗教的動機を擬人主義的な残骸から純化するだけでなく、人生観を宗教的に超俗的にすることにも貢献する、と私に思われる。」(Aus meinen späten Jahren, p.47)

2013年3月5日火曜日

【メモ】 世界と自我―ライプニッツ形而上学論攷 (酒井潔)


【第一部 第三章 表出】

モナド主観にとって、自らの内に潜在的に内在する諸内容、つまり観念を現実的に展開することによって開示されてくる世界とは、たんなる観念的世界や仮像ではなく、まさに「精神の外に」実在する他の諸モナドである。(p.65)

モナド主観が自己の生得的な内容を内から表出することは、それが「外に存する事物を精神の感官への関係を通じて表出する」ことと、このように何ら矛盾しない。かえって、対象たる他の諸モナドがまさに(主観にとって)外なる実在として知覚されること自体、じつは表出という主観の自発的活動によって初めて可能になる、と言えるのではないだろうか。……対象は主観の“外”に存在するものとして知覚表出されるのである。この意味において、主観と客観のいわゆる〈内-外〉という関係は、客観をこのように物自体として知覚表出する自発的モナド主観のその働きによって構成されて行くものだ、といってよいのではないか。……普通我々は意識の内と外の差異を、無反省にも空間的場所的な内と外の差異と同じように理解しているが、ライプニッツはまさにかかる〈内-外〉の理解に対して反省と批判を試みているといってよい。……物自体を直接知覚することが、即ち自発的主観の内からの自己展開であるという見方は、そういう先入見的な内外理解の克服である。(p.65)

モナドが他の諸モナド即ち世界に対してを持たず、したがって外界から例えば可感的形象(les espèces sensibles)の如きものを受け入れる可能性が否定されるということは、取りも直さず、かかる経験的な知覚論がその上に成立しているところの、〈空間的内外の区別〉がライプニッツによって根底から批判されていることを意味するものにほかならない。(p.66)

【第一部 第四章 宇宙の活ける鏡】

彼[ライプニッツ]にとって、世界の構造、秩序は個々のモナドと共に神によって直接創造されたのである。この意味において世界は観念的ではなく、実在的である。世界は志向的関係に還元されつくすものではなく、創造をその究極的根拠とする。それゆえまた世界は、それぞれのモナドにとって相対的ではなく、すべてのモナドがそこに共属する同じ一つの世界である。……モナドが世界に属すということは、物体が空間の中に置かれているようなことではなく、世界を表出し、映すことである。すなわち全モナドが同じ一つの世界を表出するということが、全モナドが同一の世界に共属するということを可能にするのである。(p.74)

【第二部 第一章 世界の可知性】

世界は実在として、実体モナドの共在秩序として我々に知られうるのである。このとき、現象が実在的であること示すものが「関係」にほかならない。即ち、現象は既にそれ自体の中に異なった諸要素から成る整合調和の関係を含み、さらにまた他の諸現象との帰結の関係を持つ。一言で言えば、ある現象が内に関係を含み、かつ関係の内に含まれていることを見きわめうるなら、我々はその現象が実体に対応することを確証できるのである。(p.86)

【第二部 第二章 「世界」の定義】

[ライプニッツにとって] 世界は実体モナドの共在する関係または秩序であるのに対し、空間(espace)――個々の実体モナドからいわば抽象されてそれでだけで自存する空間――とは(実在に対応せぬ)想像的仮像的な現象でしかない。(p.90)

無限の意味を拡がりの広大無辺から連想しようとする限り、存在論は「全体」・「一」・「連続」に定位する〈全一性の哲学〉となり、無限と有限の相互媒介という思想は出てこない。ライプニッツがスピノザの唯一実体説に強固な反論を行なうとき、そこには無限性を契機とした個体の個体性、精神(人格)の個別性の問題が常に貫流しているのである。(p.98)

(充足理由律から不可識別者同一の原理が系として帰結し、後者がさらに、精神の個別性をもたらす)。

空間を事物の共存的秩序(un ordre de l'existence des choses, qui se remarque dans leur simultanéité)と解するならば、そのとき「空間」は観念的想像物ではなく、実在的な概念であるとみなしてよい。しかし右のように捉え直されたとき空間は、我々もすぐに気づくように、「世界」の概念に結局のところ帰着するのである。存在する事物の秩序(ordre)または関係(rapport)として世界を定義したうえで、では事物を捨象した「絶対空間」なる概念が可能か否かを検討したわけだが、結論として、「絶対空間」は否認される。「空間」概念が意味を持ちうるなら、それは〈事物の秩序、関係〉ということにほかならぬ。(p.106)

【第二部 第七章 予定調和】

世界は最善の世界である。しかし神の場合その「最善」ということの意味は、いわゆる人間の尺度から確知されるようなものではない。擬人観的な解釈は斥けられるべきである。「調和」は〈我々にとって〉心地好いものである必要はない。むしろライプニッツの言う「調和」は同時に〈多〉や〈異〉という契機を鋭く含んだ、緊張に富んだ概念である。例えば、目的因に従う精神と作用因に従う身体(物体)との関係が「予定調和」だといわれる場合でも、両者が互いにどこまでも異なったものであることにいささかの妥協もない。(p.202)

【第二部 第八章 世界の集中】

「表出」概念が〈一から多へ〉の方向において考えられているのに対し、「集中」の概念は逆に〈多から一へ〉の方向において考えられているのである。単純実体=モナドは、それが主観という性格を含むことに基づいて、多を志向し、これを知覚および表出の対象として自らの一性の内に含む。しかし同時に、すべての実体モナドの実在的多は一を志向する。つまり、個々のモナドの一性は、多がそこへと集-中(con-centrer)するところのまさに「中心」(centre)としての性格を有するのである。「予定調和」概念の指し示す意義にかんして、先に我々は、多様な実体モナドが対応し関係しあうことによって、一つの全体的統一というものが志向され、形成されることを見た。では、かかる世界の統一はどこに実現されているかと問えば、それはまさに一つ一つの個体的実体としてのモナドの内である。多様の統一のありかはそれぞれのモナド自体にほかならぬ。各モナドは、「宇宙(即ちすべての事物)の集中」(concentratio universi)であって、それゆえ、モナドのあるだけ、それだけ多くの集中が世界に存在する、と言われる。(pp.227-228)

ライプニッツの考える、モナドと世界の関わりは、その根底では、個体的実体の中へ向かって他のすべての実体が「集中」する、そのような諸実体間の実在的な関係をこそ意味しているのである。(p.229)

【第三部 第三章 個体の形而上学と論理学】

ライプニッツがモデルとする命題をいま「分析的」(analytisch)と呼ぶことは、それが広く述語の内在を指す限りにおいて、誤りではない。述語内在がそれだけで直ちに「必然的」につながるとはライプニッツは考えていない。(p.290)

カントによる「分析判断」(analytisches Urteil)と「総合判断」(synthetisches Urteil)の区別においても、「分析的」ということ自体の意味として挙げられているのは、〈述語が既に主語の中に含まれていて、これに新しいものを何 も付け加えない〉という、そのことだけである。ただ、「分析的」の依拠するその原理を、カントは「矛盾律」(der Satz des Widerspruchs)と同一視するので、分析判断の実際の使用は「必然的」(即ち、その反対の述語は全称否定にならざるをえぬ)となる。このように 見るとき、カントに対するライプニッツの独自性もまた明らかとなろう。つまり、〈述語が予め主語に内在する命題〉のそのあり方が、ライプニッツでは必ずしも矛盾律と同一視されず、したがって必然性を意味しないのである。(p.307n)

主語と述語の「結合」とは内に在ること(inesse)であり、主語に含まれること(contineri)である。……つまり肯定命題{A est B}は{A includit B}に、否定命題は逆に{A excludit B}に、例えば「すべての賢人は正義である」(Omnis sapiens est justus)は「賢人は正義の人を含む」(Sapiens includit justum)に、「どの正義の人も不幸ではない」(Nullus justus est miser)は「正義の人は不幸な人を排除する」(Justus excludit miserum)に、それぞれ書きかえられる。また二つの名辞が「一致」するとは、両名辞が互いに含み合うことであるという。(p.291)
→ 現代の述語論理との相違

「可能」と「不可能」、「真」と「偽」という二通りの区別の関係について。既に見たように、真なる命題(または名辞)は可能であり、偽なる命題は不可能である。だが逆に可能なものはすべて真と言えるだろうか(不可能なものはもちろんすべて偽である)。ライプニッツは慎重に、すべての可能なものが真であると言えるとすれば、それは「非複合的名辞」(terminus incomplexus)だと注意する。従って複合的名辞については疑わしい。……というのも、仮に分解が在る段階に達して矛盾の無きことが見出されたとしても、分解がこれ以上できないというところまで来たか否かを見きわめることは、難しいからである。(p.308n)


(真なるものはすべて可能、不可能なものはすべて偽。ただし偽なるものがすべて不可能、ということはおそらくない。例えば、カエサルがルビコン川を渡らなかったことは可能であるが、事実真理として偽である。このことの証明は、経験的検証によって行えばよい)。

ライプニッツは[主語名辞の]分解の無限進行の可能性とそれによる「原始的単純名辞」の獲得の可能性を一方で信じ、議論の前提としている。だが、[命題の]証明の実際の進行においてはこれが我々人間の悟性にとっては困難であることも、彼は同時に認めねばならない。なぜなら述語内在という命題の真理には、ライプニッツの場合必然的真理だけでなく、まさに偶然的真理が加えられているからである。或る有限回の分解手続で同一命題へ還元され、またはその反対が矛盾命題へ還元されうるような命題は必然的である。これに対して真なる偶然命題とは――少なくともそれが矛盾を含まず可能であることを証明するだけでも――「無限に続けられる分解を必要とする命題」だと言われる(Verae contingentes sunt quae continuata in infinitum resolutionem indigent)。……絶対的に非複合的で単純な要素概念を提示することは我々にはできない。{A est B}はたしかに潜在的に同一命題だというが、現実に{A est A}を得ることはできない。(pp.292-293)

Existensはpossibleに何か別のものを加えたものではない。むしろEnsがどれだけ多くの他の事物と矛盾なく共存しうるかというその程度に応じて、そのEnsに帰せられてくるもの(述語)である。換言すれば、現実的なものはどの可能的なものよりも、多くの事物とcompatibleなのである。両者の差はcompatibilitasの(或る量的な)程度の違いとライプニッツは考えている。……もちろん、可能と現実存在の間には決定的な相違がある。それは、くり返すように、神の意志による選択である。このように見ると、現実存在の意味をめぐる問題はもともと形而上学に根差しており、純粋に論理学の範囲だけですべてを解決することはできない。ただ、ここの『一般研究』[『概念と真理との分析についての一般研究』(Generales Inquisitiones de Analysi Notionum et Veritatum)]では、存在は可能的であり、可能でないものは存在しないという前提にのって、可能的(つまり無矛盾的(compatibilis))ということに程度差があるなら、しかも「分析」にも無限の程度があるなら、たんに可能的にとどまるものと、現実に存在するものとの間には、或る連続性が見られるという主旨なのである。神の存在論的証明を批判するカントにおけるように、「可能」(「本質」)と「存在」のその違いの方を強調する志向は、ライプニッツの論理学にはない。(こうしたことは、偶然命題も〈分解の程度に基づけて〉必然命題と同様、述語内在型にとりこもうとする『一般研究』の根本的見方と無関係ではない)。「本質」と「存在」の区別は、ライプニッツではむしろ形而上学に委ねられるべき問いなのだ。したがって、もし右に見た『一般研究』(§73)の箇所だけをとりあげて、ライプニッツは一般に本質と存在を混同しているかのように言うとすれば、それは、少なくともライプニッツ哲学の解釈としては公平でないように思われる。(pp.310-311n)
→ 一方では可能的なものと現実的なものの差は程度の差であると言いながら、他方では(神が意志したという)決定的な差があるという。この一見したところの矛盾は、前者を論理学のレベルの議論、後者を形而上学のレベルの議論と解釈すれば整合化できるだろう。すなわち、論理学的には、可能的/現実的の区別が基づけられているところの「無矛盾性」は量的な度合である。しかも分析の無限進行により、原始的単純名辞へ到達することは我々には不可能であるから、ある概念が可能的に思えるからといって、それが本当に可能的であるとは確実に言えず、本当は概念の内的連関に矛盾をきたしているかも知れない。結局、無矛盾性は二重の意味で程度の問題であると言える(例えば「最大速度の運動」なる観念や「最完全者」の観念。デカルトによる神の存在論的証明のライプニッツによる批判も、この論点に基づいている。Verum sciendum est, inde hoc tantum confici, si Deus est possibilis, seciuitur quod existat; nam definitionibus non possumus tuto uti ad concludendum, antequam sciamus eas esse rcales, aut nullam iuvolvere contradictionem. Cujus ratio est, quia de notionibus contradictionem involventibus simul possent concludi opposita, quod absurdum est.  - "Meditationes de cognitione, veritate et ideis")。他方で、形而上学的に言えば、現実的なものは神が意志したがゆえに存在するから、そういう意味で可能的/現実的の差は決定的である。神の決定は概念をいくら分解しても出て来ない。「しかしライプニッツにとって、「存在」が概念分解によりアプリオリに証明されぬことは、論理学の欠陥ではない。論理学はいわば「可能」を扱うのであり、「現実存在」はもはや形而上学に委ねられるべき問題なのである。換言すれば、無限分解の中で見出される項は神の悟性の対象であるのに対し、「(現実)存在」は神の意志の対象なのである。論理学は自らにその境界を定めており、形而上学がその基に存在することを知るものでなければならない。」(p.312n)

名辞を分解した結果我々の出会う要素について、ライプニッツはこう言っている。「複合名辞であれ非複合名辞であれ、すべての分解は、公理(axioma)、それ自体で概念される名辞(termina per se conceptus)、および経験(検証)(experimentum) において終わる」(Generales Inquisitiones §61)。人間の行う分析が「公理」や「それ自体で概念される名辞」にまで達することは実際にあまりないと考えられるから、名辞の要素が経験によって検証されるべき性格のものであるケースは多いわけである。……個体が現実的に存在する(または存在した)かぎり、その名辞は真であるから、それの諸要素が経験的なものであっても、我々は信用して諸要素間の無矛盾性を確信することが許されるのである。したがって個体について或る偶然命題のを証明するには経験によって述語が主語に結合される、言いかえれば述語がまさにそのようなものとして主語名辞の要素であることが示されればよい。(pp.296-297)
→ 現実に存在する(した)個体の諸要素は無矛盾的であることが保障されているので、ある述語が真であることを経験的に検証できれば、それが他の諸述語との間にいかなる矛盾も存在しないことが保障される。「このライプニッツの議論は、すべての述語をアプリオリに内包する「個体概念」という形而上学的テーゼを、或る側面から支持するものであることは確かだろう。」(p.297) ただ、我々の経験的知識は常に流動しているので、我々が無矛盾性を作りだしているのだ、という反論もできるだろう。もちろんこのような認識論的発想はまだライプニッツの時代にはないが。

我々の哲学者の意図は、神におけるような無限分析による完全な証明でなくとも、人間悟性にも何らかの仕方で、偶然命題の真なることを(つまり、述語が主語に内在することを)現実に知れるようにすることであった。(p.298)
→ もし人間にはいかなる証明の途も閉ざされているとすると、個体について我々が意味のある陳述をなしうるという保証はなくなり、個体は「知られざるもの」となってしまう。かくて真理の領域は、スピノザにおけるように必然的真理に限局されるだろう。

見たところ「原始的単純名辞」のようでも、実際さらに分解されうるものもある。……例をとると、「拡がっているもの」や「思惟するもの」は、デカルトが説明したように単純な、それ自体で概念把握されるものではなく、それぞれ「共存する諸部分をもつ連続体」、「思惟される或る対象へ関係づけられるもの」という複合名辞なのだ。(Opuscules et fragments inédits de Leibniz, p.361)。「延長の場合、「連続性」(continuitas)や「(共存する諸部分の)現実存在」(existentia)以外にもまだ含まれている要素があるかもしれぬ。ただ我々がこの二つの要素を結合をもって「延長」なる(全体)概念を十分理解しうるのなら、それ以上分解にこだわる必要はない。「延長」をそもそも(「思惟」ともども)原始的で単純なものと見なすことが「有用」(e re)と思われるなら、それも害にならぬ、とライプニッツは付言している(Opuscules et fragments inédits de Leibniz, p.361)。注目すべき言い方である。名辞の分解を(神ならぬ)我々がどの程度まで進めるべきかは、その分解が我々にとって有益かどうかによって決められる、というのである。名辞の「可能」、さらには「真」であることを既に経験によって知り、かつ名辞に定義や公理を加えて他の命題がすべてそこから演繹できるならば、我々はそうした名辞―――「存在」、「個体」、「我」などを含めて――をそれ以上分解する必要はなく、「原始的」名辞として扱うことができる。もしそこで慎重に考えすぎて分解の進行にこだわるなら、我々は前に進むことができない、とライプニッツは警告している。(pp.310-302)
→ 以上のような意味において、「非複合的名辞」と、「原始的単純名辞」は異なる。前者は、分解が最終的にそこに達するはずの極限であり、後者は、有用性の観点から、そこから命題や推理が構成される出発点として扱われる概念である。「ライプニッツの企ては、そういう出発点としての単純な名辞に個体概念のような複合的なものを含ませることにより、個体概念をも論理計算で扱えるようにすることである。つまり彼は論理学を個体の形而上学にも適用可能にしようとするのである。それ自体無限に分解される複合名辞であるはずの「個体」や「我」もが、「原始的単純名辞」の内に数え入れられるということの、より積極的な理由はそういうことではないか」(p.302)。有限な人間悟性にとって、名辞のすべての内包(述語)を知らずとも個体を同定しうるような途を、ライプニッツは開こうとしているのである。同定された個体は、それを名辞なり記号で表記し、単純名辞のように見なしてさらに推理や論理計算を行うことができる、とライプニッツは信じていた。

【第三部 第四章 個体の創造における神の自由とオプティミスム】 

次のような解釈が従来行われてきた。、曰く、ライプニッツは(スピノザの)盲目的必然性に反対すると共に、(クラークの)無制限な恣意にも反対した。曰く、ライプニッツは(ラショナルな要求を犠牲にして)神的意志の崇高な独立をという神学的必然性を得る教説と、(モラルや宗教の基礎を犠牲にして)論理的必然性を得る教説との中間に身を置こうとした。或いはまた曰く、ライプニッツの議論は、デカルト流の主意主義とスピノザ流の主知主義、換言すれば、個別性の重みと合理性の普遍との間の和解である等々。しかしながら、これら二つの異なった論点の間の関係を、そのように「共存」とか、「中間」とか、或いは「和解」として単に形容するというだけで、もし解釈がとどまるとすれば、それは少なくとも自由とオプティミスムの内的結合の可能性を問いぬくには十分ではないと思われる。二つの論点の「中間」とか「和解」を言う前に、そもそも両者はいかなる仕方で関係し合うのか、そしてもし相並びえぬならそれはいかなる意味でなのか、また両立しるつおすれば、いかなる仕方でにおいてかということこそ、明らかにされる必要があろうからである。(p.336)

【第三部 第五章 自我】

「自我」の〈何(誰)であるか〉をめぐるデカルトとライプニッツの相違は、「自我」を主観の作用の形式的側面から見るか、それとも「自我」を個体として、それが含む多様な内容という側面から見るかの相違ともいえよう。(p.373)

デカルトにおいて、「懐疑」の進む中で結局自我は内容を徹底的に抽象されざるをえなかった。そのことは「自発性」の欠如に帰因する。デカルトの「自我」はしたがって「表出」をもたない。それは、ただ〈外から内へ〉の知覚を行うのみであるから、アプリオリに含む内容などありえぬわけである。

【第三部 第六章 概念の構造】

「概念」は、それが完全な意味で真ならば、自分の内にさまざまな構成要素の「関係」をはらむものである。そして分析における通覧や比較によって、これらの諸要素間の縦横多様なる「関係」や「連関」を見きわめることなくしては、人は真の意味で「概念をもつ」とはいえぬのである。だから、或る事物や事柄について我々がいま現実に考えているからといって、またそれらに記号や名称を付け、これをその意味が自明であるかのように普段使用しているからといって、そこから直ちに我々がその事物や事柄についての真なる概念を持っていると誤認してはならない。というのも、合成概念の場合、その構成要素の分析が、言いかえれば構成要素間の諸関係のみきわめが不十分だと、我々はそれらの要素間にもし矛盾(contradictio)が存在してもこれに気付かない、つまり「盲目」なときがあるからである。この例としてライプニッツは「最大速度の運動」なる概念がそれだと言う。そして概念が含む構成要素の間の関係がそのように、もし不明ないし矛盾をきたしているならば、その概念自体がもともと「不可能」(impossibilis)なのだと言わねばならぬ。そのようなとき我々は真の概念をもたない、とライプニッツは述べている。(pp.395-396)

モナドは表出を通じて他のすべてのモナドへ対応する関係の内にある、と同時にまた集中を通じてすべてのモナドの関係を内に含んでいるといえよう。より直截にいえば、どのモナドにおいてもそれが他へ関係を持つことと、内に関係を含むこととが別のことではなくて同じ一つの事態を意味している。(p.410)

【結語】

世界と自我の脱自的関係の強調は、他面において、世界をも自我をもその関係の内へ消し去る傾向をともすれば持ちやすい。つまり個体の個体性、自我の自我たる所以をなすものが、他ならぬ世界であるならば、個体が一個の独立した実体としてなお自存しることのその根拠は何であるか。自我が、それを構成している諸要素に分解されたり、世界の諸関係の中に散逸したりせずに、自己同一的な一個の存在者として踏みとどまることのできるのは何故か。それを説く論理が「神の創造」なのである。……モナドの「力」はそれ自身で完結的で、神からいわば切り離され抽象されたものではなく、神の「力」との連関のうちにこそ開かれている。したがって、ライプニッツにおいて、モナドが「神の似姿」と言われる場合のその根源的な意味もここに求められるのではないか。つまり、「力」において神とモナドは連関しあうのである。(pp.422-423)
→ モナドが「宇宙の鏡」と呼ばれるのを以て、「全世界を内に含む」という点が非常に強調されるなら、モナドロジーの体系は汎神論に接近する。それを阻止するのがモナドの有限性、神の超越性である。すべてのモナドの存在根拠は神であり、その「原始的力」は神の力によって本来可能となる。そういう意味で、モナドは神から切り離された自存的実体ではないし、ましてや神自身でもない。

【付論一 経験的統覚と超越論的統覚】

カントの「統覚」とは、ライプニッツが考えたような、対象についての知覚にそのつど後から付け加わったり、付け加わらなかったりするような働きのことではない。それは逆に認識内容(対象)が与えられることにいわば先行するような、主観のアプリオリな必然的構造なのである。……ライプニッツの統覚概念におけるような、既に成立した対象認識が実際に意識されているか否かという問いは、カントにとってはもはや重要ではない。(p.440)

[カントにとって]神的直観とは異なり、まさに有限的存在でしかない我々が行う直観(intuitus derivativus)は、外から対象を受けとらなければならない、換言すれば、sinnlichでなければならない。我々人間にとって、認識の内容ないし対象は外から与えられるほかないのである。そしてこのような前提に立つところから、それでは主観の内に成立する表象がいかにして外なる対象に関係しうるのかという認識批判的な問題が設定されてくる。主観と客観の関係や対応の可能性をめぐる、こうした取り組みの中から、カントは、表象と対象の関係をアプリオリに可能にする制約として、直観によって与えられる多様を結合統一する超越論的な統覚というものを、要請するのである。つまり、統覚が超越論的なそれへと転換されねばならぬ必然性は、人間的認識において直観はsinnlichであり、rezeptivである、という前提から生じてくるのである。このように見るなら、「超越論的」という概念自体も、結局人間的認識の有限性、すなわち直観が感性的、受容的でしかありえないことへの反省と密接な関連を持っている、ということができよう。これに対し、認識されるべき対象や内容が生得的諸観念として予め主観に内在する、と考えるライプニッツのような立場では、観念とその対象との間の対応とか関係は、それほど反省を要する問題とは意識されていない。(pp.445-446)

【付論二 ライプニッツにおける受動的力(vis passiva)の概念】

物質を伴った有限的実体において、[原始的]受動的力の方が物質性よりも根源的なのである。実体はそれが質料を持つから受動的だというのではない。逆に質料性や身体性の方こそ受動的力に基づき、かつ後者の必然的な帰結である。(p.467)

精神的表出と物塊的身体の結合は、一個のモナドにあって内的であり本質的である。ではいかなる仕方で結合するのか。それは形相と質料の合一である。(p.472)
 → 原始的能動力が実体形相である。対して原始的受動力が、第一質料。原始的受動力は、物体の「抵抗」力として展開されている。抵抗力は、不貫通性(impenetrabilitas)および慣性(inertia)から成る。「抵抗の含むこうした二つの性質は、またそのまま第一質料に帰属する二つの性質でもある」(p.469)。こうした抵抗力が、物体が何らかの場所にあるということ自体をそもそも可能にする。このような意味において、原始的受動力こそ、延長がそこから帰結する原理だと言える。「不可分的精神といえども、現実的には拡がり空間の存在形式に縛られているのは、原始的受動力のゆえである」(p.469)。

「ライプニッツの哲学では物質は心と同時に措定されている。心は直接に自分自身によって、すなわち自分の本質によって身体と結合しているのであって、間接的に、そして後から一つの予定調和なるものの威力によって初めて身体と結合しているというのではない。このことは既に、ライプニッツでは、心は根源的に、アリストテレスの意味での物体の実体形相であるということから明らかである」(Ludwig Feuerbach, Darstellung, Entwicklung und Kritik der Leibnizschen Philosophie, S. 71f)

モナドは身体との結合を通じて、「力」保存の法則や或いはまた充足理由律にも従わされている。多=宇宙の表出も制限された仕方で、すなわち身体の運動や変化を表出することを通じてのみ行われる。表出の活動が必ず一定の「視点」(point de vue)に依存せざるをえないということは、モナドが身体を持つことと無関係ではない。身体を持たぬ神は、そのような視点もペルスペクティヴも一切必要とはしないはずであろう。ディルマンは次のように注意している。一における多の統一としての実体に、有限性とか制限性がもし属すとすれば、その実質は表出(expression)の判明度の違いや暗さに専ら求められる、という解釈が一般的であるが、しかしそれは正しくない。むしろ実体の表出活動自体が既に身体の運動に従って行われている。つまり、実体の基礎に身体性が、そして受動的力が先在するからこそ、表出の混乱や暗さが帰結すると見るべきであり、その逆ではない、と。(Eduard Dillmann, Eine Neue Darstellung Der Leibnizischen Monadenlehre Auf Grund Der Quellen, 176ff) (pp.472-473)

ライプニッツはデカルトの難点[心身結合のアポリア]を見ぬいていた。そして、思惟や延長をむしろ「力」という概念を基礎にして、これにいわば依存すると考えたのである。すなわち、いわば同一の「原始的力」が一方では原始的能動力として、他方では原始的受動力として、言いかえれば前者は精神=実体形相、後者は身体=第一質料として展開される。「力」という原理に基づいて精神と身体の結合がどの実体においてもアプリオリに保証されることができる。心・身体の区別自体は、したがって根源的ではなく、ただ派生的なものでしかない。(p.474)

物体は、第二質料としては、多くの実体の集合にほかならない。(p.476)
→ ライプニッツはこうした物塊を「物体的ないし延長的な物塊」(la masse corporelle ou étendue)と呼ぶ。これと区別して、形相(エンテレケイア)、すなわち精神的な原理によって統一されている物体を、「物体的実体」(substance corporelle)と呼んでいる。「すなわち、諸実体の集合にすぎない物塊としての身体に向かって、精神的な或るものが形相として、それに統一を与えて初めて一つの完全な実体を形成する」(pp.476-477)。支配的モナド、実体的紐帯、エコーの問題。

拡がりだけの物体(massa)を表象するのは、我々の知覚が不判明で混乱しているために、諸実体の非連続的な共在秩序を見てとることができず、漠然と「連続体」(continuum)を想像するからであろう。反対に、明晰判明な知覚を行うとき、我々は物体を物塊(連続体)としては見ない。かえってそれが多くの単純実体の非連続的な集合であって、真の統一ではないことを認識できる。(p.477)

2013年3月2日土曜日

アインシュタインの特殊相対性理論に至るまでの流れ

  • 1881年 Michelsonによる干渉計の実験
  • 1887年 MichelsonとMorleyによる、より精密な干渉計の実験
  • 1892年 Lorentzが論文「地球とエーテルの相対運動」("Die relative Bewegung der Erde und des Äthers")で収縮仮説を発表
  • 1895年 Lorentzが著書『運動物体における電気的・光学的現象の試論』(Versuch einer Theorie der elektrischen und optischen Erscheinungen in bewegten Körpern)で、座標系に対してMaxwell方程式を不変に保つために、時間のずれを導入。しかし、彼はエーテル内部で運動する物体の収縮は現実に起こると考えたものの、時間のずれは実在するとは考えず、あくまで計算上の便法と捉えた。本当は電磁場の強度として現在の値を使うべきなのだから、エーテル内部を運動している効果はどこかに現れるはず、というのがLorentzの解釈だったように思われる。
  • 1904年 Lorentzが論文「光速度に達しない任意の速度で運動する系における電磁現象」("Electromagnetic phenomena in a system moving with any velocity smaller than that of light")を発表。本論文はLorentzの収縮仮説のいわば決定版。本論文の中でLorentzは、それまでは第一近似の程度、つまり真空中の光速度に対する運動物体の相対速度の比v/cが一次の量として現れる範囲に限っていたのに対し、二次の量(v^2/c^2)にも拡大。
  • 1905年6月5日 Poincaréが論文「電子の力学について」("Sur la dynamique de l'electron")を発表。Poincaréが本論文を書く上で、天啓を得るきっかけになったのは、上の1904年のLorentzの論文であると思われる。Lorentzはその論文(および1895年の著書)で、変換後の時間座標を現実の時間と対比して「局所時間」(Ortzeit)と呼んだが、彼はそれをあくまで計算のために便宜的に導入された変数と見做し、現実の時間とは別であると考えていたようである。Poincaréはこの解釈に反対し、そもそもMaxwell方程式では運動と静止が原理的に区別できない、つまりMaxwell方程式は相対性原理を満たしているのではないか、と考えた。しかし、この時点ではこの考えを厳密な理論としては展開していない。また、Lorentzが導いた座標系間の変数変換が「Lorentz変換」と初めて呼ばれるのは、Poincaréによる本論文においてであり、以後この呼称が定着する。
  • 1905年6月30日 Einsteinが論文「運動物体の電気力学」("Zur Elektrodynamik bewegter Körper")を発表。この時点でEinsteinが依拠しているのは専らLorentzの1895年の著書であって、まだ1904年の論文を読んでいない(1913年、Blumenthalによって編集された論文集『相対性原理』(Das Relativitätsprinzip)に、「電気力学」論文が再録されているが、そこにEinsteinが付けた註によって分かる)。本論文でEinsteinは、相対性原理と光速度不変の原理という(一見矛盾する)二つの原理から出発して、ガリレイ変換を書き換える(二つの原理が矛盾しているように見えるのは、我々がニュートン力学で知っている速度合成の法則、つまりガリレイ変換を前提にして考えているからであって、これを破棄さえすれば、二つの原理は矛盾しないことが分かる。相対性原理はガリレイ変換を必然的に含むわけではない)。

参考文献 

細川亮一 『アインシュタイン―物理学と形而上学』 創文社、2004年
吉田伸夫 『思考の飛躍―アインシュタインの頭脳』 新潮社、2010年